2011年6月14日火曜日

紀元前660年の神武天皇紀元に台湾へやってきていたギリシャ人たち

言語復原史学会
言語復原史学会

紀元前660年の神武天皇紀元に台湾へやってきていたギリシャ人たち

出典:言語復原史学会「邪馬壹国大移動:25頁」
「神武東征」との開係

日向から近畿地方へ遠征して日本を統一した話といえば、

私たちの頭にすぐ浮かぶのは「神武東征」である。

戦前の教育ではその東征の時期は紀元前660年に建国したと教えたが、

明治初年の那珂通世氏以来いろいろの修正説が出て、

まともな人々は、たとえ戦時中であっても、そのままには信じていなかった。

筆者は先に『邪馬臺国の風雲』(昭和60年=言語復原史学会刊)で、

「神武東征」記事中の「磯城彦退治」の部分は、

卑弥呼が死んだ当時の「倭と狗奴国との不和」で

3世紀の事件であり、『記・紀』のその部分の「ヤマト」とは、

鹿児島県下に当時あった邪馬臺国にほかならないこと、

また、そのときの争いは『崇神天皇紀』に

「武埴安彦の乱」であり、

「神武伝承」の方は武埴安彦側から見たものであることを説明した。

その武埴安彦=神武天皇は、その後、「垂仁天皇」として記録されていることや、

その人物が『魏書倭人章』の邪馬壹国の

四人の官名の筆頭にある「伊支馬」であり、

狗奴国男王であることも、

加治木義博著『垂仁天皇の邪馬壹国』(昭和60年=言語復原史学会刊)で、

詳細に説明しておいたが、神武天皇を初代とする天皇家が、

何時大和へ移動したのかという問題は後に残っている。

しかし『記・紀』では日本は神武天皇の時に統一され、

それ以来ずっと「一つの国」として、

奈良県に都していたことになっているのに、中国、朝鮮の正史はともに、

事実は660年ごろに日本国が倭国を併合したというのである。

これは『記・紀』の方がウソであることは間違いない。

先には『記・紀』はできるだけ事実を書いている。

ということを知ったが、ここではウソの部分も確かにあるということを知ることができた。

これに似たことは他にもある。

仁徳天皇以下10代を『記・紀』は日本の天皇として加え、

しかも「悪王」として書き、その天皇たちの子孫は

『新撰姓氏録』では全部抹殺されている。

こうした事実との食違いを『記・紀』は沢山もっている。

それは一体なぜであろうか?。

何故そんなウソの部分を作ったのであろうか?。

その謎を解くカギは『記・紀』自身のもつ矛盾点にあるはすである。

それを解析してみよう。


出典:言語復原史学会「邪馬壹国大移動:49頁」
再び「神武東征」との関係

日向を出発した皇子が、

大和に攻めこんで天皇になり、日本を統一する。

この筋書きはお気づきのとおり「神武東征」そのものである。

しかし『日本書紀』はその東征を紀元前660年まで押しあげていた。

倭国と日本の合併による真の統一の年、670年を、

さかのぼること1330年である。

加治木義博はは先に「神武東征」のうち「磯城彦退治」の部分が、

3世紀の狗奴国男王による邪馬臺国政権の争奪事件であり、

それは『記・紀』のいう垂仁天皇と、崇神天皇との戦いであったことを、

『邪馬臺国の風雲』前出)で詳解しておいた。

しかし神武天皇による「長髄彦退治」の部分には合わないので、

その解決を後に残した。

いま天智天皇の「東征」が、真実の歴史として、よみがえった以上、

それを『記・紀』の「神武東征」のうち未解決の部分と照合して、

その関係を検付してみる興味と価値は充分ある。

神武天皇の敵は「饒速日の命(ニキハヤヒのミコト)」であった。

これはそれほど難しい謎ではない。

「饒」は「ニキ・ニギ」と読まれてきた。

同じ発音には「和」の字がある。

辞典には「和 二キ(接頭辞) 柔らかい。

穏やかな。細かい等の意。和御魂(ニキミタマ)。

和幣(ニキテ)。等」とある。

日本では「和」は「倭」と同じ意味の国名として使われた同音同意語である。

「速日」は、だれがみても「ソカ」に対する当て字である。

「饒・速日=和・速日」とは「倭・蘇我」の替え字に他ならない。

しかし「速日」がありもしない当て字で後世の創作かというと、そうでもない。

それは『日本書紀』の皇極二年十一月の部分に、

入鹿が山背の大兄の王を殺したことに関して、

当時流行した

「童謡(世情を風刺した歌を子供たちに歌わせる)」

この意味を解説した人が、

入鹿を「林の臣(ハヤシのオミ)」と呼び、

割注で「林臣、入鹿なり」と説明してある。

また『上宮聖徳法王帝説』の中では「林太郎」と書かれている。

「ハヤシ」と「ハヤヒ」は「シ」と「ヒ」だけ」の違いで、

それは方言差によるものであることは、もう幾つもの例を見てきた。

蘇我は早くから「速日」とも「林」とも書かれていたのである。


出典:言語復原史学会「邪馬壹国大移動:62頁」
天智天皇即位も辛酉年

『日本書紀』は、

神武天皇は紀元前660年の辛酉(かのと・とり)の年に

大和の橿原の宮で即位したとしている。

醍醐天皇の昌泰四年(901)に

三善(ミヨシ)清行が『革命勒文』を上申している。

それは今年は「辛酉」の年だが、

この干支の年には

「神武天皇即位」「天智天皇即位」「元正天皇の死」「光仁天皇の死」と

大きな事件が起こっているので、かねて心配していたところ、

案のじょう「菅原道真事件」が起こった。

今年何か悪いことがある前兆ではないか?と注意をうながしている。

その結果年号が『延喜(エンギ)』に改められた。

天智天皇即位年というのは唐の竜朔元年(661)の「辛酉年」である。

ただしそれは「称制」の年で『日本書紀』のいう「即位」の年ではない。

先にも話したが天智天皇は二度即位している。

一度は斉明天皇の死後、天皇の実権を握った時、

二度目はそれから7年後の『日本書紀』の即位記事である。

それははっきりと「七年の春正月、…天皇の位に即(つ)く」と書いてある。

神武天皇の方も「即位前七年」から始まっている。

王としての即位と統一国家の天皇としての即位との間に「七年のズレ」があった。

これも「神武天皇は天智天皇の分身」を立証している。

神武・天智の二『天皇紀』は一つの事実を記録しているのである。

明治政府は紀元前660年の元旦を

太陽暦に換算した2月11日を「紀元節」と決めた。

しかしその当時から、それに疑問をもったのは那珂通世氏である。

明治十一年(1878)の

『上代年代考』を始め『上世年紀考』などで『記・紀』の年数の奇妙なことを指摘。

神武即位年を辛酉と決めたのは中国の「干支が一巡する60年が21回目の辛酉年に、

天が大きな革命を起こさせる」という「辛酉(しんゆう)革命説」を信じて、

推古天皇九年の辛酉年から二十一回目の辛酉年を、

神武が革命をなしとげて即位した年にしたのだ。

と唱えた。

しかし推古天皇は天智天皇に敗れたのだから

その辛酉年は同じ年で紀元前660年は22回前になる。

この22という数字は天皇陵間の距離や、北緯36度線上の

もっと大きな距離に堅く守られている縄文時代以来の

古代日本人にとって重要な数字なのである。

(前出・『邪馬臺国の言葉』・『日本人のルーツ』参照)。


出典:言語復原史学会「JINMU:23頁」
なぜ、ジンム・プロブレムなのか?

さらにそれ以上のナゾ…ヒミコの死の原因になった戦争の状況や、

その敵・狗奴国男王とはだれだったのか?

この『ジンム・プロブレム』はそれに答える。…でもなぜ「ジンム」か?

それは彼が狗奴国男王だったというだけでなく、

神武東征は日本という国が生まれたときの大ロマンとして、

歴史上最も有名な事件の一つだからである。

しかしこれほど謎に満ちた歴史も、また珍しい。

それは現代だけでなく『記・紀』が編集された8世紀でも、すでに謎だった。

そしてそれ以来、全く解けなかった「文字どおり千年を超えるナゾ」の歴史なのである。

それは全世界の国々の歴史の中でも、

いまだに解けないでいる「難問中の難問」で、

まさにゴーティアン・ノット」クラスの超プロブレムなのだ。

しかしこの本では前の『ヒミコ』と同様、

その乱れた難問を、アレクサンドロス大王さながらに「一刀両断」して、

スカッと整理してしまった。

神武天皇は決して架空のヒーローではなく、

私たちと同じく実在した「生きた人間」だった。

けれど『記・紀』はそこでもいく人もの人物をゴチヤ交ぜにしている。

だから紀元前660年の神武天皇も実在するだけでなく、

はるか昔の事件も交ざっている。

だが何よりも圧巻(あつかん)は、ナント!?

「五人の天皇」が同時に実在して互いに死闘する事実だ!

どんなによくできたSFや推理小説も太刀打ちできない「マサカ!?」の連続。

「歴史の真実」の面白さに、

きっとあなたは「大きな知的満足」を満喫していただけると確信している。


出典:言語復原史学会「JINMU:253~254頁」
紀元は1万2000年、いく度もあった東征

これで[神武東征]も、[邪馬臺戦争]も、

どんなものだったか、その全体像がつかめたと思う。

そして『日本書紀』や『古事記』が貴重な記録をもっていたことも、

またよくお分かりになったと思う。

では日本の建国史は、

従来の紀元前660年から紀元241年まで

900年も短くなってしまったのであろうか?

それは過去のままの考えで、

神武天皇即位が日本の建国紀元だと[錯覚]したままならそうなる。

しかしそれは明治以前の遅れた建国観念で、いかにも幼稚な考えなのだ。

あなたは毎日新聞社の岡本さんが、アレクサンドロス伝説が、

ヤタガラスの話のルーツだったことを発見し、

『ヒミコ』でそのアレクサンドロスの『東征』が、

倭人を生みだし、ソナカの『東征』を生みだしたことをご存じである。

その人々は、みな、私たちと血を分けた先祖たちなのである。

そしてソナカの出たマガダ国も、アレクサンドロスのギリシャ世界帝国も、

それよりもまだ、

はるかに古いバビロン帝国もすべて『国家』だったことを疑うものはいない。

とすれば、私たちはなぜ、

いちばん新しい[神武即位]などにこだわる必要があるのだろう?

それはあまりにも、気の小さい、わけの分からない、奇妙な選択であって、

何も知らなかった昔ならいざ知らず、現在では非常識極まる話だ。

そしてさらに国土に重点を置くのなら、日本列島には、

それ以前にも殷(いん)人の一群が茨城県に国家をつくっていたし、

『倭人章』に出てくる旁国(ぼうこく)程度の国ならもっと古く、

世界最古の土器、それもすでに立体装飾をもった貼付文土器や、

西北九州から山形県まで発見されている細隆線土器の出る時代の、

1万2000年以前にまでさかのぼればいいのである。

こうしたことは、過去の文化の遅れた時代、

ことに歴史の真実が分からなかった時代には、

日本人というのは[この列島だけに湧いた特別な人間]だと錯覚していて、

すべてが列島内だけの、

ごく狭い視野でしか考えない[島国根性]と呼ばれた偏狭な見方しかできなかった。

だがそれは日本だけでなく、欧米諸国もそうだった。いや、そこでは、いまだにそうである。

しかし私たちは違う。

私たちは彼らのような遅れた『歴史観』はもう卒業しはじめているのだ。

全世界の中でも一番先に、世界の人々にさきがけて、

私たちは[大きな正しい国家観]を、今もったのである。

それは私たちの先祖が「移動した」という事実に教えられた。

[移動]には[国境]というバカげたものはついてこない。

それは土地にシガミついてあとに残る。

だから[国]というのは土地ではない。

[人]なのだ。

国民が国家の主体であって、国民がいなくなれば、そこは国ではなくなる。

政府だけあっても、国民がいなければ、それは国ではない。

国民があってこその国。

人がいてこその世界なのである。

「写真:日本の土器が世界最古」

熱ルミネッセンス法など幾通りもの年代測定で、

これらの土器が1万2000年前から日本列島各地で作られていたことが分かった。

世界最古である。

しかも現代作家顔負けの高い芸術性をもっているのだ!

文明のルーツは日本か!?


出典:言語復原史学会「WAJIN:201~204頁」
あばかれた「邪馬台国・畿内説」の正体

これで三角緑神獣鏡が、ヒミコとも、魏の国とも、

なんの関係もなかったことが確認できた。

だからもうそれを問題にする必要はないのであろうか?

ではなぜ、そんなものが重要視されたのかを、ここでふりかえって考えてみよう。

三角縁神獣鏡が重大祝されたのは、それがヒミコの時代の鏡で、

一見、魏で造られたと思わせる特徴があり、

しかも近畿を中心にした範囲に広く分布していたからである。

それはいかにも奈良の大和(やまと)政権が統一国家をつくり始めた状況のようにみえ、

「邪馬台国畿内説」を決定的に立証するように見えたからでもある。

だが内藤虎次郎が唱え始めた、その「邪馬台国畿内説」は、

かんじんの『魏書倭人章』の本文には全然あわない、

邪馬臺(だい)国とも邪馬壹(いち)国とも完全に無関係な、

ただ「邪馬臺はヤマトとも読める」ということだけを、

唯一の主張点にした、ごく幼稚な「素人説」だった。

ところがそれは紀元前660年に、

神武天皇が奈良の橿原(かしはら)で、

大日本帝国を創業したと信じこんで、

それを軍国主義の拠(よ)りどころにしていた明治の政治家には都合がよかった。

それは、「3世紀のヒミコ政権が、近畿に実在したということは、

その先祖の神武天皇が実在したという証拠である。

それ以来ずっと外敵に侵されたことのない大日本帝国を、

国民は生命を捧げて守る義務があるのだ」

といつて民主化要求を弾圧し、軍備強化の口実に使えたからである。

「事実」として「歴史」を突きつけられては、国民は反論できなくなる。

まんまと軍人と兵器産業を中核にした死の商人の政治屋どもに

「死の独裁権」を与えてしまったのだ。

もちろんそのためには天皇を「生きた証拠」として利用する必要があった。

そこで「忠君愛国」という彼ら本位の考え方を強要したり、

「忠孝仁義礼智信」を強制する儒教を幼い小学生のうちから

「修身」と称して叩きこんだりし、

「徴兵(ちょうへい)」で20歳になればイヤでも軍隊に強制収容して、

「侵略と殺人」技術を叩きこみ、彼らの利益を守る殺人ロボットにしたのである。

とても人権とか、人類愛とかいうようなものではない。

すべてを私欲に奉仕させたのだ。

当時の男性は「一銭五度」と呼ばれた。

一銭五厘はハガキ一枚の値段である。

それに召集令状と刷って名前を書きこんだもの一枚で、

私たちは呼びだされ死ぬまでこき使われた。

それは「一銭五厘で買える奴隷(どれい)」という

悲惨きわまりない代名詞だったのである。

軍隊生活の体験のない皆さんは、

それがどんなに非人道的なものかご存じない。

だから「軍神○○○○」などという愚かな本が、

いまだに臆面(おくめん)もなく出版されたり、

幼稚な劇画作家がカッコイイつもりでマンガ本に載せたりする。

それとまったく同じものが、

そうした軍国主義を支えた「邪馬台国・大和(やまと)説」だったのである。

歴史というものが、私たちにとって「どうでもいい」ものかどうか、

よくおわかりいただけたと思う。

では「三角縁神獣鏡」の問題はこれで片づいたのだろうか?

いや、まだヒミコとは無関係で、

魏で造られたものでも中国で造られたものでもない、とわかっただけである。

そんなことは私たちには、初めからわかっていたことである。

ヒミコ政権は近畿になんかなかったし、たとえヒミコが鏡を受けとったとしても、

その政権はアッというまに消滅してしまっている。

それがどうしてその時代に、遠く離れた近畿なんか征服して、

広大な地域に統一国家まで築くことができようか。

そんなカがあったのなら、ヒミコは死ぬことはなかったのである。

「三角縁神獣鏡」は、ヒミコ政権とは無関係でも、

私たちの求めている日本建国史にとっては重要な研究対象である。

その全貌を速やかに明らかにする必要がある。

それは中国製でないことがわかったが、それなら、それは誰が?

何のために? どこで?造ったものなのだろう?

「三角縁神獣鏡」は日本で造られたという「国産説」と呼ばれるものがある。

次章で、それから検討してみよう。


出典:言語復原史学会「TAIKA:76~78頁」
『日本書紀』の編集は「焚書」の日本版

天武以後の『日本書紀』編集は、

始皇の「焚書(ふんしょ)」の日本版だったということになる。

こう申しあげると、

「いや、『古事記』があるじゃないか」という方がまだいるかもしれない。

従来、『古事記』を『日本書紀』よりも先に生まれた史書だと錯覚していたが、

加治木義博は徹底的な検討を加えた結果、

『古事記』は『日本書紀』をもとにした後世のものであることを、

数十年前から繰り返し説明してきた。

それは倭の女王と日本の男王を交互に並べていること、

神武天皇からの天皇が『日本書紀』と同じ配列になっていることの二点だけでも、

私の答えが正しいことを立証している。

かりにそれが『日本書紀』より先に書かれたものだったら、編集に25年もかけて、

あちらこちら直しながらやっと完成した『日本書紀』と同じになるはずがない。

その結果完成した内容を太安万侶(おおのやすまろ)が

8年以前に完全に「予知していた」のなら、

彼はかつて歴史に現れたことのない「超能力者」だったことになる。

これでなぜ大化改新問題に始皇帝の話が必要だったか、おわかりいただけたと思う。

最初に申しあげたとおり、天武天皇から書き始めたのは、

先に『日本書紀』の本当の姿を知っておく必要があったからで、

従来のように『日本書紀』を「証拠」だと誤解していたのでは、

とても大化改新の真相も、

それ以前の五彩圏の実在も、

ヒミコ以後の4、5世紀の本当の歴史も、

なに一つ正確には理解できないからである。

どんなに「解釈」してみても、ゼロからはゼロしか生まれない。

日本の過去の建国史学は「ゼロ」だったのである。

しかし『日本書紀』には、本当の歴史を復原するヒントがたくさん隠れている。

たとえば神武天皇は紀元前660年に即位したことになって心る。

このままでは「ウソでゼロ」だが、それを『魏志東夷伝』などと照合すると、

一致するものが大量にみつかって、その即位も241年だったことがわかった

(『ジンム』参照)。

こうした復元操作によって『日本書紀』も初めてゼロではなくなるのである。

「倭人豪族の記録没収」

『日本書紀』(持続天皇五年八月〕天皇は

旧倭人18氏がもっている記録一切を、

強制的に提出させて全部没収『日本書紀 だけ残した。

敗北者は

大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、謄部、春日、上毛野、大伴、紀、阿部、佐伯、釆女、

穂積、阿曇、平群、羽田の18氏である。

これで倭人の奈良負け残り組の顔ぶれがはっきりわかる。

『日本書紀』

詔十八氏

【大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。謄部。春日。上毛野。大伴。

紀、阿部。佐伯。釆女。穂積。阿曇。平群。羽田。】上進祖等纂記。


出典:言語復原史学会「TAIKA:176~177頁」
建国をめざした神武東征は「天智東征」のことか?

さて天智天皇の出身地が鹿児島県だったとなると、

「日向を出発した皇子が、奈良に攻めこんで日本を統一して天皇になった」

というこの筋書きは、

もうお気づきのとおり「神武東征」そのものである。

しかし『記・紀』では日本は神武天皇の時に統一され、

それ以来ずっと「一つの国」として、

奈良県に都していたことになっているのに、

中国、朝鮮の正史はともに、

事実は670年ごろに「日本国が倭国を併合した」と記録していた。

これはウソを書く必要のない中国・朝鮮の『正史』に比べて、

先に詳しく検討ずみのように、

ウソを書く必要があった天智・天武の二天皇が、

そのために編集し始めた『日本書紀』の方が、

ウソであることは間違いない。

『日本書紀』はその東征を紀元前660年まで押しあげていた。

倭国と日本の合併による統一の年、670年をさかのぼること1330年である。

その長髄彦側の大王は「饒速日(にぎはやひ)の命」であった。

神武=天智という構図がわかった今では、これはそれほど難しい謎ではない。

「饒」の字は「ニキ・ニギ」と読む。同じ発音には「和」の字がある。

たいていの辞典には

「和 ニキ(接頭辞) 柔らかい。穏やかな。細かい等の意。和御魂(みたま)。和幣(て)。等」

と書いてある。

日本ではいつからか「和」は「倭」と同じ意味の国名として使われた同音同意語である。

「速日」は誰がみても「ソカ」への当て字である。

だとすれば「饒(ニキ)・速日」は「和(ニキ)・速日」で、

それは「倭(ワ)・蘇我」の替え字だったことがわかる。

しかし「速日」は単なる替え字で実態のない当て字または後世の創作かというと、

そうでもない。

それは『日本書紀』[孝極天皇二年二月]の部分に、

蘇我入鹿が山背大兄王を殺したとき、

流行した

「童謡(世情を風刺した歌を子供たちに歌わせるもの)」の意味を解説した人物が、

入鹿を「林の臣」と呼んでいて、割り注に「林臣、入鹿なり」と説明してある。

また『上宮聖徳法王帝説』の中では「林太郎」と書かれている。

「ハヤシ」と「ハヤヒ」は「シ」と「ヒ」だけの違いで、

それが南九州と関東にみられる方言差であることは、もういくつもの例で常識になっている。

蘇我は早くから「速日」とも「林」とも書かれていたのである。


出典:言語復原史学会「TAIKA:242頁」
神武即位地の橿原は福岡市の香椎

『日本書紀』は、神武天皇は

紀元前660年の辛酉(しんゆう)(かのと・とり)の年に

大和の橿原の宮で即位したとしている。

この辛酉はヒミコの死ぬ直前の魏の正始二年(241)で、

ヒミコ政権を倒して邪馬壹国を建国した垂仁天皇

(もと高句麗山上(やまかみ)王・位宮=伊支馬(いちま)が、

[神武天皇紀]の大半の主人公なので、そちらを採用するなら、

その241年が、いわゆる「神武天皇建国記念日」だと、

『ジンム』でお話ししておいた。

「大和」をヤマトと読むなら、邪馬臺国をヤマトと読んだ人間もいるのだから、

これはこの垂仁天皇の即位のほうに合うということになるからだ。

しかし厳密にいうと、この241年には垂仁天皇はまだ邪馬臺国を倒していない。

ただヤマトが合うというだけだが、それも即位地だというわけにはいかない。

その点、天智天皇のほうが、この「辛酉年即位」には完全に合う。

間違いなく、五彩圏連邦を倒したあとの「辛酉(661)」に即位しているからだ。

しかし大和の橿原ではない。その前の年の三月に「近江」に都を移したばかりである。

「カシワラ」は前天皇の都の地名だから、

それは斉明~推古の名乗りの中にあるはずである。

両方にあるのは「カシー=香推」だった。

それに「ワラ=倭国」を足すと「橿原」ができる。

香椎は福岡市だから、

大和に合わせて別挑(べつあつら)えの当て字をしたのだと確認できる。


出典:言語復原史学会「TAIKA:243~244頁」
天智と神武の即位年が完全一致

これで「神武天皇製作」のカラクリが、また一つ完全に解明できた。

どちらにしても奈良県の橿原とは無関係である。

これは神武建国を創作するために、邪馬臺(だい)を唐音でヤマトと読んで、

それに天武天皇時代以後の「ヤマト=大和」の

文字を使ったものだとはっきりわかっている。

天智と垂仁で合成された「架空の神武天皇」に、即位地なんかあるはずがないのだ。

しかしこの「建国記念」の年は、古来いろいろ問題になってきた。

醍醐天皇の昌泰四年(901)に三善清行が

『革命勘文(かんもん)』というものを上申している。

それは「今年は辛酉年だが、

この干支の年には神武天皇即位、天智天皇即位、元正天皇の死、光仁天皇の死と

大きな事件が起こっているので、かねて心配していたところ、

案のじょう菅原道実事件が起こった。

今年はまだ何か悪いことがある前兆ではあるまいか」というものである。

その結果年号を『延喜』に改めた

(縁起が悪いから縁起をかついで延喜に改めた!?)。

天智天皇即位年というのは661年で

唐の竜朔(りゅうさく)元年にあたる「辛酉」である。

ただしそれは「称制(しょうせい)」の年で

「日本書紀Jのいう「即位」の年ではない。

『日本書紀』では、奇妙なことに天智天皇は「二度」即位したことになっている。

一度は斉明天皇の死後、実権を握った時、二度目はそれから7年後の即位の時。

それははっきりと

「(天智天皇)七年の春正月、……天皇の位に即く」と書いてある。

そして神武天皇の方も「即位前七年」から始まっている。

王としての即位と統一国家の天皇としての即位の間に「7年のズレ」があったからだ。

これも「神武天皇は天智天皇の分身」だと立証している。

神武・天智と二つに分裂したが、元は一つの事実の記録なのである。

明治政府は、新しい国を近代国家らしく体面を整えようと、

急ごしらえで紀元前660年の元旦を太陽暦に換算した

2月11日を「紀元節」ということに決めた。

しかしその当時、それに疑問をもって、その制定に反対したのは、

後に東京帝国大学に東洋史学科を作った

那珂通世(なかみちよ)(1851~1908)である。

彼は明治11年(1878)発表の『上代年代考』を始め『上世年紀考』などで

『記・紀』の年数の奇妙なことを指摘。

神武即位年を辛酉と決めたのは、

中国の

「干支が一巡する60年が21回目の辛酉年に、天が大きな革命を起こさせる」

という「辛酉革命説」を信じて、

推古天皇九年の辛酉年から21回前の辛酉年を、

神武が革命をなしとげて即位した年にしたのだ、と唱えた。

しかしもう私たちは彼より詳しい。

推古は天智に敗れたのだから、

その辛酉年は同じ661年で紀元前660年は22回前になる。

この22という数字は、

天皇陵間の距離や北緯36度線上のもっと大きな

直線距離2200キロメートルを

測量して信仰していた縄文時代の人々以来の、

古代日本人にとって無上の神聖な数字なのである

(『コフン』『日本人のルーツ』参照)。


出典:言語復原史学会「YAMATO:53~56頁」
なぜ『日本書紀』はありのままの史実を書けなかったのか?

こうしたことであなたは『日本書紀』が、様々な政治的制約に阻まれて、

史実を自然にそのまま記録した史書ではなかったことが、よくおわかりになったと思う。

なぜそんなことになったのか、その理由をわかりやすく箇条書きにしてみよう。

① それまで小国日本と新羅の王「白日別(ヒラチビチ)」だった天智天皇は、

661年に五彩圏連邦の首長国・当時大阪にあった百済倭国(フジワラ)を滅ぼした。

これがいわゆる「大化改新」の真相である。

② だが天武以後の『日本書紀』編集時には、

もう天智天皇の征服結果は御破算になっていた。

彼が始めた大津政権は滅びて、天武天皇の飛鳥政権になっていた。

だから『日本書紀』の編集者たちからみれば、彼・天智は「敵」だった。

③ しかし史実は史実である。ことに凄絶を極めた枚方大戦は人々の記憶に新しい。

④ だからこれを書かなければどういうことになるか。

国民はもちろん、朝鮮や中国などにも『日本書紀』は歴史書としての信用を失ってしまう。

⑤ また倭国滅亡後の「大日本国」という立場からみれば、

その天智による紀元661年の

政権奪取が「建国」なのだから、その記念すべき大歴史を除外するわけにはいかない。

⑥ では、どうすればこの「建国の大事件」を『日本書紀』に入れることができるか?

入れるとすれば古代小国日本の建国の歴史ということにすれば、

大日本国の歴史は非常に古いことになるし、

また彼らからみて現代に起こった事件

7世紀の枚方大戦による倭国滅亡も時代の違いさえ我慢すれば、

一応、事跡の記録はできるから、その記念すべき

大勝利も記録に入り、すべてがうまくいく。

⑦ その間に生じる大きな時間的へだたりも、

それは国の歴史がそれだけ古く偉大だということで御破算にできる問題だし、

また永続した歴史をもつということになれば、

世界にも類のない権威ある政権ということで、

外国のあなどりを防ぎ、信頼性を高めることになる。

この利害を計算すれば、時代の間違いなど問題にもならない。

⑧ そこで、その実行方法として、

3世紀の卑弥呼戦争などと混合して[神武天皇紀]を仕立て上げた。

これが7世紀の頭脳がしぼり出した結論なのである。

⑨ 次に本当は白肩(枚方)の津の事件だった白村江の戦いも、

神武時代と天智時代とに二分して、

7世紀のほうは、いかにも朝鮮半島での出来事にみえるように

構成してしまった。

⑩ そして天智=神武東征の時期は

紀元後661年をひっくり返して、同じ辛酉の紀元前660年の出来事にした。

何と、1320年もサバを読んでしまったのである!

しかしこうしたことは珍しいことではない。

当時のことを歴史化した

朝鮮の『三国史記』に登場する国々の建国もまた、

すべてが、はるか太古に押し上げられて神話化されている。

この朝鮮の正史は、

先に中国で観世音菩薩の話を聞かされた

高麗の雀致遠が主になって9世紀にまとめたものなのだが、

日本人と同じ血の流れた朝鮮半島の人々も、

やはり先祖の事跡をなるべく古い時代にもっていこうとするクセをもっていた。

これで大阪大戦の秘密は「名乗り」によって解けた。

『日向神話』や「神武東征」の真相もくっきりと明らかになった。

そして『日本書紀』がどんなふうに構成されたかという秘密も垣間見せてくれた。

1320年もサバを読んだ「大日本建国」に至るまで……。


出典:言語復原史学会「YAMATO:171頁」
倭国政権の残党は東国へ逃れた

「神武と戦った兄ウカシの子孫」

昭和8年1月に出た

小谷部全一郎の『日本及び日本国民之起源』という本は

加治木義博が読んだ歴史書の第1号であるが、

日本人はユダヤ人の子孫だというもので、

天皇皇后の天覧、台覧。

右翼の総裁・頭山満の題字。

公爵・近衛篤磨学習院院長、杉浦重剛、坪井正五郎などとの親交と献辞。

打越与三郎の序文と、

当時の右翼思想というものがどんなものだったかを裏書きしている点でも、

非常に貴重な本である。

その写真ページのトップが左の写真で、人物は左端から

「小谷部氏、旧蝦夷酋長エウカシ、副酋長オトウカシ、

国史のいわゆる兄宇加斯・弟宇加斯という解説がついている。

氏のこの本が与えた影響は強く、

今も全国の地名をアイヌ語で解説する人があるが、

それも氏の主張の受売りである。

それの当否はここでは問題にしないが、

北海道に移動した倭人の一部が

アイヌの人々になったという点では氏の見解は正しかった。

ただその時代が紀元前660年のころと信じていたものが、

事実は紀元後661年だったという誤差が命とりになったが、

倭国首脳がどんな人々で構成されていたかを、

この写真は何よりもはっきりと立証してくれる。


出典:言語復原史学会「YAMATO:198頁」
新羅王が消えると同時に天智が出現

『三国史記』には[太宗(たいそう)紀]の八年六月の記事の終わりに、

たった二字「王薨(こうず)」と書いてある。

これは金春秋のことで、

彼はその諡号(おくりな)を「太宗」とつけられたほどの新羅最大の偉人である。

その記事には、見た夢の話まで長々と書かれている。

それが、なぜ死んだか? 何で死んだのか? どこで死んだのか?

どんな死にかただったのか? 

といった、普通なら無理にでも書くであろうことをいっさい書いてない。

この奇妙きわまる記事は、一体なにを意味しているのだろう……。

それはその年が西暦で何年だったかをみれば一度に謎が解ける。

それは661年である。

この年は神武天皇が即位した「辛酉(しんゆう)」の年で、

斉明天皇が死んで天智天皇が「称制完皇に代って政務をとること)」した年である。

新羅で太宗王・金春秋が姿を消すと同時に、

日本にまったく同じ名をもった天智天皇が現れている。

このことは、金春秋は死んだのではなく、王位を息子の文武王に譲り、

朝鮮半島は息子にまかせておいて、

自分は日本列島支配に遠征したことを物語っているのである。

だから神武天皇の即位年と書かれている

「辛酉」の年もまた正確な記録だったのである。

ただし『日本書紀』はそれをひっくり返して、

紀元前660年の「辛酉」だということにしてしまった。

数字は同じで覚えやすくていいが、

1320年もサバを読んでしまったのだ。

このことは天智天皇も神武天皇の重要部分に「参加」していることを教えている。

だが今もいった通り、

彼は朝鮮半島から出発したのであって、

本当に高千穂の宮から出発した神武天皇は天武天皇だった。

だから淡海三船(おうみのみふね)はそれも知っていて、

神武と天武の双方に「武」の字をつけたのである。


出典:言語復原史学会「講演会:1994.10.30」
天皇陵関連の参考事項

倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国

ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から

台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)

奄美では国名は…ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。

これが「大国主」の名の始まりで、

7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、大化までは継続した。

しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。

さらに大分県宇佐に移動。

『宋書』の倭国伝に記録された倭王・武の視点はこの宇佐にある。

その後、さらに四国愛媛に移動、次第に讃岐・阿波へと拡大した。

これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。

当時倭の五王時代の始まった4世紀で、

さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。

大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、

これは沖縄語の「キノ国」のこと。

この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、

これは大阪と紀州を取ったことを意味している。

天皇名は去来穂別=履中天皇。

去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。

二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。

和泉の王が済(イスミ)。

河内(コウチ)の王が「興」。

武(タケシ)にいたって

ヤット奈良県に入って高市(タケチ)国を始めた。

これが神武奈良東征の原型になる。

その神武(カム・タケシ)という当て字は、この倭王・武を指している。

だが、『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が混入している。

その神武東征の内容は、

3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが最大のウェイトを占めているし、

さらに遡って、

紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。

これが神武紀元を紀元前660年に決めさせた原因である。

日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。

基礎に一か所、駄目なところがあれば、全てが崩壊してしまう。

これは何も歴史研究だけが特別なのではない。

それは現実が教える。

近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。

それは建築の進歩による。

同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、それを立証している。

人生も、研究もすべて同じことなのだ。

キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、自分の未来も、

ずっと以前から明瞭に見えているものである。

よく考えることをしないで「幸福を神に祈っても駄目」である。

なぜなら「神」は実在し、「霊」も長く死なずに生き続けている。

それはDNAの中にいるのである。

「よく考え、瞑想して」その神や霊と話さなければ、神も霊も教えようがない。

他のことに夢中になっていては悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。

(1994.10.30 レジメ)


出典:言語復原史学会「大学講義録17:25頁」
副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓

倭の名がウワイという仏教語名なのと同じく、

新羅の名もシラバッガ教徒から生まれた。

新羅のあった韓国慶州の円墳から鏡が出土しない謎もこれで晴れたし、

「鏡が副葬されている古墳は倭人=仏教徒のもの」だったことも、

絶対的な力で不動の結論になった。

だから鏡を副葬している古墳の四国・中国以東への分布は、

卑弥呼政権が位宮らに国土を奪われた後、

その残党である「女王制仏教徒国家の国民=倭人」が、

宮崎県=日向に倭女(ウワイ)王国政権を移したあと、

南九州から北へ東へと拡大していった動かない証拠なのだ。

それが仮に神武天皇東征によるとする在来の考え通りだったのなら、

古墳時代は4世紀からでなく、もっと早い時代、

『日本書紀』が書く紀元前660年はムリでも、

せめそ帥升王(スサノオ)のいた1世紀初めから奈良に、

鏡を副葬した古墳群が、

宮崎県の西都之原ていどには造られていなければならないが、

現実には現在の、まだ怪しい考古学者の時代判断でも、

最大限までさかのぼっても3世紀後半以前にできたものは、

全然存在しないし痕跡すらない。

だから鏡を副葬した古墳のない時代の奈良には倭人(うわい)はいない。

そこは雄略天皇からやっと倭国の中にはいり、

推古・皇極・斉明といったアスカ仏教女帝時代へと続く。

アスカとは、「アショカ王の都」という名であり、

そこに残る当時の遺物は全て仏教遺物なのである。


出典:言語復原史学会「大学講義録27:15頁」
天皇名の命名エピソードは天武の偽装工作

この該当者は、反正天皇=倭王・済の時代を想定したもので、

その解釈は、

水間が半島の植民地・任那の母国だ、という形になっていることにご注目願いたい。

繰り返しになるが水間は

「瑞歯=ミズハ=水葉=スイバ=酸い葉」のバの発音がマに変わったもの。

馬のバとマと同じ方言差だから、名乗りのミズバは沖縄~大隅語。

地名のミズマは本土語ということになる。

(沖縄語は「お水」をウビーと発音する。

ウは「お」、ビーは「水」の「ミ」で、マ行がバ行になる)。

だからタジヒ=丹比・田尻と水間が彼の本拠地=倭国なのだ。

多遅比の瑞歯別という名乗りには、こんな意味があるのであって、

『記・紀』で異なってもいる当て字や、花や歯がどうこうしたという話は、

文字通り・「故事つけ」の出鱈目に過ぎない。

なぜそんな出鱈目が必要だったか?。

それは天皇たちの移動の真相を知られたくなかったからである。

天武天皇は、

「紀元前660年に神武天皇が奈良橿原で即位して以来、

天皇家は奈良に君臨した」という歴史を作り上げた以上、

本当は天皇たちが4~5世紀に

南九州から次第に移動して来た事実を知られては困る。

だから天皇の名乗りは地名ではないという命名理由が必要になったのである。

『古事記』は序文で

「帝紀および本辞、すでに正実に違い、多くの虚偽を加う」と言っているが、

どちらが正実・虚偽だったかは、いうまでもない。


出典:言語復原史学会「大学講義録34:19頁」
ヤマトを神武以来の国号にしたのは誰か?

確かに奈良はヤマトと呼ばれたが、

それは神武天皇時代からどころか、

天武天皇出現まで、

そんな地名が奈良につくとは、

想像もできなかった地名だった。

それは大化改新という予測不能の突発戦争の生み出した蘇我氏倭国の滅亡。

それを逆手(さかて)に取って南九州から山人を率いて東征し、

大津政権を倒して旧倭国政権を「孫継ぎ」した天武天皇が、

初めてはるばる運んで来た、

いわば奈良とは無縁だった名前だった。

こうして「一瞬一瞬」眼まぐるしく変転した歴史が奇跡的に7世紀後半に、

奈良にヤマトの名をつけたのであって、

紀元前後から8世紀まで、

えんえんと続いて来た地名でも、

政権名でもなかったのである。

この8世紀前半だけの、

それも正味30年たらずの国号に過ぎなかったヤマトを、

日本の史学者が全員、

紀元前後、または『日本書紀』が書く

紀元前660年の神武天皇即位以後ずっと、

切れ目なく続いていた国号だと思い込んでいたのは一体なぜか?

その責任は誰にあるのか?。

それはこの講座の総括として、是非、お話ししておかねばならない問題である。

「日本」に「ヤマト」と振り仮名をした最も古い文献は、

平安時代前期、52代嵯峨(さが)天皇の弘仁(こうにん)4年(812年)前後に、

『日本書紀』の正しい読み方を講義させた時の原稿として伝わる、

多人長(おおのひとなが)の

『日本書紀私記(しき)』(別名日本紀私記』・『弘仁私記』)である。


出典:言語復原史学会「大学院講義録08:15頁」
考古学界の大変身?ヤマト『政権交替』展!

だが、私たちの努力は無駄ではなかった。

いま奈良県立・橿原考古学研究所の博物館では秋季特別展を開いているが、

そのタイトルは、なんと!

『政権交替』-古墳時代前期後半のヤマト-である(20002/11/24)。

その図録の巻頭で河上邦彦館長はこう述べている。

「最近の研究では大和政権が3世紀初め頃に成立したと考えています」。

戦前は、神武天皇が紀元前660年に即位して大和政権を創始した聖地として、

太平洋戦争に一役買った橿原市だったが、

戦後から近年まではそれが訂正されて紀元前後に即位したことになっていた。

それが今また、さらに変更されて「3世紀初め頃に成立した」と信じているというのである。

だとすればこれは2世紀から3世紀にかけて実在したことの確かな卑弥呼は

大和政権とは無関係だという宣言なのである。

卑弥呼は神武天皇の子孫、孝霊天皇の皇女で、

『記・紀』では倭迩迩日百襲姫というのがその名乗りとされ、

その墓は同考古学研究所が担当する地域にある「箸基古墳」だとされてきた。

これもまた、すべてが否定されてしまうのである。

それ以上に神武天皇の存在そのものが否定されている。

近鉄・橿原神宮前駅の近くにある同研究所が、

隣接する橿原神宮と畝傍陵の存在まで否定してしまったのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録11:26頁」
孤立・戦争・亡国を生む『記・紀』編纂のツケ

淡海の三船はそれにさらに允恭(いんぎょう)と漢風諡号(おくりな)した。

「イン=居ん」であり、「インギョウ=隠形」である。

これで彼もまた、この時の政権交替の実情をよく知っていたことがわかる。

この例だけでも充分みえるように、

『記・紀』は、たいへんな敵味方を親子だとして平気でいる『正史』なのである。

繰り返すが、それはあくまで対中国向け宣伝文書だったから、修飾だらけである。

その最大の強調点は天皇家政権の歴史の長久を相手に印象づけることで、

それは必然的に建国を古く見せようと神武天皇即位を紀元前660年にし、

それ以後、政変は皆無の「万世一系」だとした。

そのため敵であった卑弥呼と崇神天皇もその中に組み込み、

内戦に明け暮れた景行天皇も仁徳天皇も欽明・敏達天皇も、天智・天武天皇も、

みんな引っくるめて万世一系にしてしまった。

それは確かに国策上は重要なことで、責めることはできないが、

それが正確な歴史でなく、いかがわしい作り物だというボロが至る所で出ている。

そんなものを明治以降の国家主義者らが悪用して、

国策だと津田左右吉氏らの『記・紀』批判者を弾圧したが、

極端な天皇制ナショナリズムが全人類に爪弾きされるのは当然だから、

大日本帝国は必然的に孤立無援に陥いり、必然的に崩壊してしまった。

天武天皇らの小細工が、早かれ遅かれ天皇家政権を潰す宿命を、

重くみじめに背負わせていたのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録12:10頁」
『記・紀』編纂の目的が凝集している神武天皇記

ところが『記・紀』はそれらを、1度きりの神武東征だったとしている。

それは何故か?。

紀元前660年という太古に建国して以来一度も革命などなかった。

我が国は神仏に加護された東海の聖地。

万世一系をつらぬいてきた聖人君子国であると強調することで、

中国の征服欲をスポイルしようというのが、

天武天皇らの『記・紀』編纂の主目的だったからである。

彼らが正統の皇族であり、主権者だというのは国内向けの主張で、

これは弘文天皇(伊賀大友皇子)を倒して政権を取った現実が周知のものである以上、

実力が決定することであり、いくら血統を主張しても何にもならない。

だからこちらは副目的でしかなかったのだ。

そのために神武天皇の記事は、いかに南九州から奈良まで、

一挙に大移動して首都を確保したかというスタイルに仕上げられた。

前段は東征コースの地名の羅列が芯になっている。

高千穂の宮。

豊国宇沙。

竺紫岡田の宮。

阿岐多祁理の宮。

吉備高島の宮。

速吸門。

浪速の渡。

白肩の津。

楯津。

日下。

血沼の海。

紀国男の水門。

熊野村。

葦原中国。

吉野河。

阿陀。

しかしそれだけでは史書の体裁をなさないので、要所要所の地名に由来を書き加えてある。

それは今、私たちが地名を「史実の証拠」として使うのと同じ発想に基づいている。

ところがよく見ると、神武天皇記の全文がそれだけで終わっているといっていい。


出典:言語復原史学会「大学院講義録14:13頁」
五瀬の命は古墳時代人だという証拠

よく注意して読むと、それらは古代の木簡に書かれていた短い記録の記事を、

寄せ集めて継ぎ合わしたものでできていることが読み取れる。

だから元になった記録は今みる『古事記』の通りのものではなくて、

バラバラになっていたものを継ぎ合わせたものだったことがわかるので、

この五瀬の命の項は前の槁根津日子の項とも、それ以前の項とも、

必ずしも一連のものではなかったのだということを、よく認識しておかないと、

正しい史実は見出だせない。

では、この五瀬の命の部分は、どんな史実を記録したものだったのだろうか?。

彼はその傷が悪化して和歌山で死に、いまも窯(かま)山神社に祭られているが、

『古事記』は彼が海で血を洗ったから「血沼(チヌ)の海」という名が生まれた、

という地名説話をつけ加えている。

そして紀之国の男の水門(みなと)で死んだので窯山の陵に葬ったとある。

窯山神社は「陵」なのである。

だからそれは古墳時代の事件であって3世紀より前ではなく、

ましてや紀元前660年当時の人ではないことが、

明確に記録されていることを見落としてはいけない。

すでに本講でもお話しし、拙著でも各所に、

神武天皇記事は複数の天皇たちの記録が混じり合っていることを、

証拠を挙げて指摘してきたが、この五瀬の命の項は、

その事実をさらに際立(きわだ)たせて教え、

立証している貴重な部分なのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録14:30頁」
紀元前660年の建国は真実だった

「発音は地域で変わる」、

「漢字は色々に読める」という常識を考慮に入れさえすれば、

こんなに鮮やかに史実が再現し、復元できるのである。

だから五王が名乗った百済の国は、それもまた移動し拡大を続けて、

文字は同じでも中身も発音も別々だったのである。

それは台湾を出発点にして5世紀には奈良に到り、京都に移り、

東京に遷都して現代に至った。

ギリシャ人が東洋に入ったのは、

アレクサンドロスのインド東征が最初だと考えている人が多いが、

紀元前6世紀以前に書かれた『ホメロス序章』には、

マレーから「日の大神の国タイナロン=臺国(タイナ)ロン」という名で

台湾の語源になった国名まで、

多くの地名が、それぞれ正確な位置に書かれていて、

古代ギリシャ人が台湾をよく知っており、

実際に往来して得た知識だったことを、

加治木義博著『誰が巨大古墳を造ったのか』64頁以下に、詳しく書いておいた。

このことでも古代ギリシャ人が我が国に来ていたことは疑えない。

しかもその人たちが、

応神天皇という「真の大和朝廷の皇祖」と確認できた人を出したのである。

紀元前12世紀まで続いた殷帝国が、

稲敷人が中国まで移住して建てた国だったのだから、

『日本書紀』が我が国の建国を紀元前660年だと書くのはこのギリシャ王朝の建国で、

それには高度の文明による真実の根拠があったのであり、

決して出鱈目な誇張ではないのだ。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:3頁」
虚構ではなかった紀元前660年の我が国建国

大学院講義録20号の年表には、もう一つ重大な我が国の建国問題が残っている。

「『日本書紀』が建国を紀元前660年だとしているのは大ウソだ」というのが、

明治以来の定説だからである。

『日本書紀』はそんなにもデタラメな『正史』で、無茶苦茶な史書だったのであろうか?。

ところがこの年表は、この大問題に、非常に適確な答を出してくれるのである。

660年の17年前、677年にフェニキヤが滅びている。

本来海洋民だったフェニキヤ人は、

そのため大移動して古代ギリシャ人に混入したのだから、

我が国まできた集団があった可能性もある。

カドモスが都市国家テーバイを建国し、

それを記念して新年に門松をたてる行事が今も続いているし、

他にも幾重にも証拠が見つかっているので、否定はできない。

またフェニキヤを滅ぼしたアッシリヤも

612年に新バビロン帝国に敗れて併合されている。

この新バビロンは625年に帝国になったが、

そのとき突然、国が生れたわけではない。

それ以前に小国時代がある。

その建国が660年で、それを建国時としたとしても無理ではない。

この場合もフェニキヤはバビロンの一部なのだから、

我が国にきたフェニキヤ人はその建国を自分たちの国の建国としていてもおかしくはない。

それが神武紀元とされた可能性がある。

いまでは、どこからみても「660年建国はウソだ」とはいえなくなっているのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:4頁」
誰がいつまでも「田舎紛争建国」を信じるか

しかし、それは「初代の王が即位した年」というものであって。

それを「神武天皇」なる特定の人物の事跡だと主張すると、まるでウソになってしまう。

在来の史学や好戦主義者は、このウソの部分を巡って論争を繰り返している。

だから奈良県の田舎の地域紛争にすぎない貧弱きわまる建国史観が、

21世紀になっても紛争のタネになっていたのである。

この紛争では、どちら側に分(ぶ)があるかといえば、

紀元前660年の奈良建国を否定してきた唯物史観側が勝っている。

それだけでなく、たとえ皇国史観の側が勝ったとしても、

私たちの祖国の建国を、田舎の土地争奪紛争だと主張することが、

皇祖皇宗を不当に侮辱(ぶじょく)する事実を無視することはできない。

それは単に皇室だけでなく、私たち1億数千万の日本人全体に対する、

絶対に許容できない重大な人権侵害なのである。

いかに最近の国民の一部が哀れな知能状態だといっても、

それは意識して題材を低俗化させている、低劣なテレビ制作者が、

人為的に造りだした印象であって、

この程度のことが解らないほど日本人全体が愚かなわけがない。

ごく近い将来には、私たちの知っている歴史の真実が常識化することは疑いない。

そして人類愛に燃え、エネルギーに溢れながら、何をすればいいのか解らない人は多い。

私たちは彼等を1日も早く啓蒙して、世界の檜舞台に送りださねばならないのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:5頁」
不当に劣等視してきた自虐説『邪馬台国大和説』

だが、まだ、このフェニキヤ建国の可能性を疑う人々があるとすれば、

今から3000年前に我が国の稲敷と中国の殷墟の双方に、

全く同じ信仰による20を超す同じモチーフをもつ遺物『人面注口器』を遺し、

正確な北緯36度線上に、

この2地点を結ぶキッカリ2200kmの距離を測定し配置した

凄い文明の持ち主・太古日本列島人の実在は動かないことをお教えしよう。

紀元前660年より4世紀前といえば、今から戦国時代に遡る。

その古い時代に稲敷の人は、

すでにフェニキヤよりもさらに古いカルデア文明を、

見事に使いこなしていたのである。

在来の「常識」神武建国地・奈良の石余(いわれ)や橿原は、

この海上の2200血の距離に比べれば近所といっていいほど稲敷に近い。

殷の建国に遅れること4世紀以上経った660年にそこにある小村落を奪った、

それが我が国の建国だといって誇るというのは、どう考えても余りにも野蛮で、

落差がひどすぎる、侮蔑にも程があると憤りを覚える程だ。

『邪馬台国大和説』は、その奈良に邪馬台国があったと主張しているが、

その倭人が着ている衣服は、男女ともギリシャ衣装なのである。

そんな文化がどうして奈良にあるのか?、その説では全然、説明できない。

ところがギリシャやフェニキヤなどとの明白な交流を理解できている

私たちは1つの疑惑も残さずに、すべて完全に納得でき、説明できるのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:17頁」
マガダ国の誕生も紀元前660年ころ

B.C.E. 660年頃 インドに、マガダ。コーサラ、アヴアンチイ、
ヴァッツァなど小国群誕生。

B.C.E. 550年頃 マガダ強大になり、インド統一。
327年にアレクサンドロスに滅ぼされる。 

B.C.E. 321年  新しいマダダ国誕生。チャンドラグブタのマウリヤ
(孔雀)王朝はじまる。

B.C.E. 250年  マガダ国アソカ王、4道に仏教宣布団を派遣。
東方を担当したソナカ長老の一族は、東南アジアを
                経て、卑弥呼時代には我が国に達していた。

これを見ると前マガダが、紀元前660年前後に建国している。

これに比べると、そのころ生まれた新バビロンの方は、やや曖昧である。

だが、我が国の歴史ではカリエン人の高族が、B.C.E.1500年代にやってきて、

先住民になっていた後に、ギリシャ人がやって来てイオニヤ政権を樹(た)て、

隼人に都市国家ミケーネをつくっていたことは間違いない。

そのあとにソナカ=仲哀天皇らがやって来たことも疑いないから、

B.C.E.660年を建国元年とした神武紀元は、

ソナカと卑弥呼の倭国が決めたものに間違いないが、

それがギリシャのミケーネ市の紀元と、新バビロンの建国期にも不思議に重なるので、

両者にも受け入れられて、

660年頃を我が国の建国の年にしたとみるのが合理的だ。

我が国に移植された

シュメール・カルデア文明と、ギリシャのミケーネ文明と、インド・繹迦文明は、

こうして卑弥呼時代に花開いたのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:22頁」
歴史家に総否認されてきた西暦前660年建国紀元

このあとに林氏は一つの私見として「神武天皇即位の年は『古事記』にはなかったので、

『書紀』の編纂者たちは当時の暦学の最高水準と信じられていた

讖緯説(しんいせつ)に立って、辛酉神武紀元を推定した。

まさしく推定であって史実とはいえない。

しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。

那珂説をさらに二百年ほど短縮すべしという説も現われた。

東洋大学の市村其三郎教授の説である。

『神武東遷』を書いた安本美典教授は「数理文献学」という独特の学問の上に立って、

「自分の説も市村説に一致する。

つまり神武天皇は『日本書紀』の記載よりもずっと後代の人で、

まず九州に国をつくって、それから大和に東遷した」と結論している。

これもまた推測である。

推測統計学、情報理論、確率論、因子分析法など

コンピューターを利用した結論だそうであるが、

果たしてそれが、生きた人間の歴史の解明に、

どの程度の確率を示し得るものかと疑い、慨嘆している。

この林氏の『私見』が史実を補う。

明らかに卑弥呼当時は讖緯説(しんいせつ)は使っていない。

紀元前660年 辛酉に限定したのは聖徳太子か『書紀』編者しかいない。

この行為もまた史実である。

しかしウソの紀元を捏造したという見方は間違っている。

「先祖はその頃建国した」という確信した伝承があったからこそ

讖緯説(しんいせつ)で権威づけしたのが、裏目に出ただけなのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録22:3頁」
国民を不幸にし続けてきた倒錯した「建国紀元」観

大学院講義録21で、過去に「皇紀」と呼ばれていた神武紀元が、どういうものだったか、

初めて明かに理解することができた。

戦前はそれを理由もなく自賛の材料にして、世界敵視、

孤立滅亡への奈落に国民をおとしいれたし、

戦後はそれを無知な先祖の出鱈目さの証拠だとして、

国民を自暴自棄に導く、左翼あるいは自由主義者らの、

強力な自虐論拠にされてきた。

その背景に、国粋主義者とされてきた

本居宣長の『日本書紀』罵倒=『讖緯説』があったことは何とも皮肉の限りである。

彼を本居神社に祭りあげたのが右翼「皇紀」礼讃者たち、

彼の『日本書紀』非難に同調したのが左翼・自由指導者たち。

どちらもまるで反対のことを実行して、そのオカシさに全然気づいていない。

またこのことを指摘した学者も存在しない。

在来の我が国の指導者?らは、こんな程度の知識と知性しか持っていなかったのである。

しかし私たちは、私たちの先祖が初めて国家体制を整えて、

『国家』という意識を明確にもったのはいっだったかという最も重要な文化発展段階を、

確実にとらえることができた。

またそれを『日本書紀』が紀元前660年だとした根拠まで、完全に正確に知ることができた。

在来の『日本書紀』に対する疑惑と不信感の最大のものが、これで完全に1つ払拭された。

しかし「『日本書紀』は全面的に信頼できる文献だ」というには、まだ程遠い。


出典:言語復原史学会「大学院講義録22:20頁」
神代の天稚彦」記事は明らかに編集ミス

それは「神代」に始まって、4世紀の『応神天皇記』にまで広がっている。

しかしいくら天皇が長命だからといって、数百年も生きるはずはない。

これは明らかに『記・紀』の編集が間違っている証拠なのである。

それなのに、在来の学説はすべて、

それが『記・紀』の『天孫降臨』の中に入っているというので『神話』だとして済ましていた。

名前の此較検討も、内容の分析も、まるでせずに、ただ『記・紀』を頭から信じて、

あるいは、頭ごなしに罵倒したり無視したりして、立場は違っているが、

『神話』だと決めて議論していたことには、変わりはない。

だが私たちはすでに、徹底した分析と再構成を終って、今、

大学院講義録22号でごく簡単に再検討しただけで、充分全貌を理解することができる。

だから、この簡単なリストが大きな機能を発揮する。

それを一見すれば『記・紀』のダメな部分が、はっきり見えるからである。

それは先ず『記・紀』が、

この天稚彦・天若日子の記事を「神代」の事件だとしているのは無茶だと教えている。

天稚彦の妻は卑弥呼なのだから、彼女がどんなに長寿だったにせよ、

2世紀から3世紀の人である。

それが紀元前660年の皇紀よりも、はるか昔だとする「神代」の事件として編集してある。

この編集が間違っていることは動かない。


出典:言語復原史学会「大学院講義録27:22頁」
皇室の発生時期は古代ギリシャのウラノス期まで遡る

もうひとつ「国譲り」で忘れてならない重大な機能は、

「天皇家はいつ、誰から国を譲りうけて天皇になったのか?」という疑問に答える点である。

それは日本列島はもと<大国主>のものだったが、それを外来者の天皇家が、

平和裏に譲り受けたのだ。

という経緯を説明している。

日本人は単一民族なんかではない。

天皇家は渡来人だったと明言しているのである。

ただし、脅迫はしているが虐殺はしていない。

大国主には「大国主」という旧称を許し、贅沢な宮殿に住まわせている。

これは聖徳太子の国是「和をもって貴としとなす」と共に、天皇家の基本方針が、

「愛と平和」にあったことを強調しているのである。

『日本書紀』も『古事記』も、それを領国の初めとしている。

それ以前の天皇家の歴史は、この2つの『正史』には共に書かれていない。

だからいつ天皇家が発生したかは不明のままなのである。

ただ『日本書紀』には漠然とした記憶があって、

紀元前660年を神武天皇紀元とした。

それをこの講座では追及してみて、根拠のないものではないことを突き止めた。

ということは大国主の国譲りは660年よりも古い歴史だと主張しているのである。

それはギリシャ人たちが、ギリシャにも入らない前の記憶である。

とすればそれこそギリシャ神話の冒頭にあるウラノスの時代しかない。

これが『大国主(ウラノス)国譲り』の記憶第1号だったのである。


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2011年5月11日水曜日

季節の女神ホーライ=台湾からイオニヤ=与那国島へきたコース

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「「大和」は台湾で最初に生まれた」
「『始皇帝物語』予言が造らせた万里の長城」
「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」
「天孫から続く系譜は存在しないのか?」
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」
「始皇帝が憧(あこが)れた天武天皇の宗教とは?」
「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」 
「シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物」
「畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」」
「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」
「百済は台湾のギリシャ人国名への当て字」
「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り」
「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史」
「渡来コースは海の道。神武東征も四道将軍も史実」
「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった」
「ギリシャ人が創った「弥生時代」
「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」
「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」
「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」 


「「大和」は台湾で最初に生まれた」

西はこれで納得がいったが、一番の難問題は沖縄より南には、

東シナ海よりも、もっと大きな大洋しかないということだ。

どこに赤の国があるのだろう?

それが本当に実在する。

といっても現代の精巧な地図でもそれは載っていない。

というより精巧な地図だから載っていないといったほうがいい。

というのは今の地図で正確に真南を捜しては見つからないのである。

古代人の方向感覚で南の国を考えると、沖縄の南の国は台湾である。

そこが間違いなく赤の国だったのである。

それは消えてしまった古代の名なんかではない。

私たちの発音する台湾の名を耳を澄まして聞いてみると、

その今の名前の「台湾」がそうだと証言しているのである。

そして別にヤヤコシイ読み替えも、発音変化も必要ない。

あなたがいつも口にしているその「タイワン」が、

そのままで答えになっているのである。

「タイワン」は「タイワ・ン」「大和・の」に一致しているのである。

「大和」が「オカ=阿和=アカ」であることは、

すでにいくつもの例でご説明したとおり疑問点はない。

しかし外国の台湾がまさかと、まだ疑問にお思いの方は、

この本をまじめに読んでいない人なのだ。

この本ではゴビ砂漠はおろか、タクラマカン砂漠の彼方まで、

私たちの仲間の世界だったとお話しし続けているのである。

それにくらべると台湾は、

与那国(よなくに)島から肉眼で見えるお隣りの島なのだ。

しかもその島は古代には小(しょう)琉球と呼ばれていた。

小さな沖縄のほうが大琉球だったのである。

だからこの「大和(たいわ)」は

その時代につけられた「赤」を意味した当て字だったのだ。

それを示すのは台湾の古名の一つに「ホーライ=蓬莱」があることである。

これはもともとギリシャの春の妖精(ニンフ)のことなのだが、

中国人には

「鳳凰(ほうおう)が来る島=鳳来(ほうらい)島」

と解釈されていた時代がある。

それが今お話しした徐福の当時で、

ソナカ仏教宣布団の先頭が台湾へやってきたころなのだ。

中国ではそれを「神仙」だと信じて、鏡などに大いに描き始めた。

それが南方を赤い鳥で表現することになった初めと考えると、

本来インドの四神の鳥はビシュヌー大神の乗り物である

金麹鳥(きんしちょう)で「金の鳥」だったのに、

なぜ中国で朱雀(すざく)になったかという謎が解ける。

朱雀というのは中国で別名「丹鳳」という赤い鳳凰のこととなのである。

※出典:WAJIN 177~178頁


「『始皇帝物語』予言が造らせた万里の長城」

始皇帝は不老長寿は本当に可能だという方士(『ワジン』参照)の言葉を信じて、

その方士の徐福に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という、

はるか海上にある神仙の住む島へ、その薬を取りに行かせた。

これは有名な史実であり『ワジン』でもお話ししたが、

それは紀元前219年のことだった。

その4年後の215年、

こんどは燕(えん)の国の方士・盧生(ろしょう)に

彼のいう羨門高生(せんもんかうしょう)という仙人をさがしにいかせた。

ところが盧生は3年後、手ぶらで帰ってきて

「どうしても仙人を連れてくることはできませんでしたが、

その代わり帝国にとって、ゆるがせにできない重大な予言を受けて参りました」

といってなにやらありがたそうな文字の書いたものを差し出した。

それには「秦を滅ぼすものは胡なり」と書いてあったのである。

方士を信じて期待している始皇帝は、ただちに30万の軍隊を、

胡人の住むオルドス地方(陝西(せんせい)省北部)に派遣して一帯の胡人を追い払い、

翌年そこから東の陰山山脈に至る地域に、

33の県を新設して罪人をそこに分散移住させ、

開拓と胡人の侵入防衛にあたらせた。

始皇帝は不老長寿は本当に可能だという方士(『ワジン』参照)の言葉を信じて、

その方士の徐福に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という、

はるか海上にある神仙の住む島へ、その薬を取りに行かせた。

これは有名な史実であり『ワジン』でもお話ししたが、

それは紀元前219年のことだった。

その4年後の215年、

こんどは燕(えん)の国の方士・盧生(ろしょう)に

彼のいう羨門高生(せんもんかうしょう)という仙人をさがしにいかせた。

ところが盧生は3年後、手ぶらで帰ってきて

「どうしても仙人を連れてくることはできませんでしたが、

その代わり帝国にとって、ゆるがせにできない重大な予言を受けて参りました」

といってなにやらありがたそうな文字の書いたものを差し出した。

それには「秦を滅ぼすものは胡なり」と書いてあったのである。

方士を信じて期待している始皇帝は、ただちに30万の軍隊を、

胡人の住むオルドス地方(陝西(せんせい)省北部)に派遣して一帯の胡人を追い払い、

翌年そこから東の陰山山脈に至る地域に、33の県を新設して罪人をそこに分散移住させ、

開拓と胡人の侵入防衛にあたらせた。

※出典:TAIKA 67~68頁


「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」

ハ行とカ行の関係が理解できると、この「ホ」の国と、それをめぐる国々の国名が、

何から生まれて、どう分裂して増えていったかが完全にわかる。

沖縄語の「ク」は本土語の「コ」だとわかるから、高麗は「コマ=コ国(マ)」で、

やはり同じ国だとわかる。

この高麗は本来「コーライ・コーレイ・コーリー」などとと呼ばれていた。

それはこの地方が3000年前には、

古代世界で最大の貝貨幣・宝貝の産地で供給国だったが、

そのため宝貝は今でも

インド語で「コーリー」、学名も英語も「カウリー」と呼ぶ。

産物の名の多くは、その生産地の地名と同じになるから、

これは「高麗」が世界を代表する産地だったことを記録しているのである。

そして、学名と英語の「カウリー」は、実は沖縄語なのだ。

那覇(なは)と反対側の中城湾(なかぐすくわん)には

「高離島」という島があって土地の人は

それを「カウリー・ジマ」と呼んでいるのである。

それは沖縄発音で、もとは「コーライ」だったことがわかる。

なぜならすぐ隣りにある台湾は、

秦の始皇帝のころから「蓬莱=ホーライ」島と

呼ばれているからである。

「ホ」と「コ」が入れかわっているだけであることは、ご説明しなくてもいいと思う。

では「蓬莱」という漢字のついた台湾は中国領だったのだろうか?

始皇帝はその島を神仙の住む別世界の仙境と信じて、

「真人」になるために神薬を授かりに徐福らをその島へ派遣したのである。

この「蓬莱」を徐福らの作り話だとする者が多いが、それは間違っている。

それは実在し、徐福は場所も知っていた。

彼は野蛮な独裁者・始皇帝の力を逆に利用して無事に中国を脱出する唯一の手段として、

また万一の場合に備える「保険=人質」として、

始皇帝の第三女ら多数の少年少女を連れて移住したのである。

その子孫が首都を沖縄に移して大琉球と称し、台湾は小琉球になった。

さらに種子島に移って女王国家「ホの国」を建国、南種子町の広田遺跡の墓に

「山字文」の貝製装身具を残した。

豊玉姫の伝統は弥生時代からのものだったのである。

その後の足取りは、大隅の「襲(ソ)」という別名と「徐(ソ)」は同じ発音だから、

そこが「徐の国」だったことがわかり、

『日本書紀』と『三国史記』の記事で、

さらに多数の証拠が見つかる。

写真の「天慧甗(テンエゲン)」もそこに伝えられて実在する。

天武天皇はその子孫の一人だったから、あれほどまでに「ヤマト=仙」にこだわり、

それを国教にし、国名にしたのである。

では元の名の「ホーライ」とは何だったのか?

それは台湾の先住民・ギリシャ人の神話に出てくる大神ゼウスの娘で三人姉妹の

「季節の女神(ホーライ)」のことである。

台湾はギリシャ以上に温暖な気候と豊富な果物に恵まれた仙境だから、

季節の女神の島と呼ばれたのだ。

写真:「徐福が運んできた天慧甗」

この徐福の徐は与や邪の字と全く同じ発音で、

与那国がギリシャ人を意味している通り、

イオニア系ギリシャ人だった。

だから「与ナ」は国をマという人には「邪マ」と書かれた。

邪馬壹国もギリシャ人の国という意味なのである。

その「徐」は「ソ」とも発音する人々がいた。

韓国のソウルも「徐伐」と書かれている。

そのソの国は今の大隅地方で、

そこにこの中国・秦の時代に作られた徐の国製だと

銘記された銅器が現代まで宝として伝世してきたのである。

『天孫降臨』の一部にこの「ソの国」を「添」とか「曾堡里」とか当て字しているのは、

内容とは別の史料として重要な意味をもっている。

※出典:YAMATO 184~186頁


「天孫から続く系譜は存在しないのか?」

ここで考えなければならないのは『天孫降臨』を、

明治~昭和の昔のまま「信じる」というのはどういうことか、ということである。

紀元前はるか太古の「神代」に

「ここはお前の国だ。治めなさい」といわれたから、

天から降ってきて天皇になった、という話を信じるのなら、

まず2~3世紀の[卑弥呼]も、

選挙で選ばれて「共立」されたのだから、

その政権はもう「天孫族」ではなく、別の政権である。

そのあと[倭の五王]が南からきて西・北・東を征服して、

新しい政権を確立したのなら、

これも「天から与えられた」のではないから、また「天孫族」ではないことになる。

そして卑弥呼政権のあとであることの確実な

「俀国」や[倭国]も「天孫族」ではないことになる。

それを倒した[日本国]も、とても[万世一系]などではないし、

その次の弘文天皇政権は一年ももたなかったから、

とても[万世一系]などといえたものではない。

もちろんその後で来た天武天皇も新しい国と政権の創始者であって初代だから、

天孫から引き続いた[万世一系]の天皇ではないということになってしまう。

なぜこういう結果になるのだろう……。

それは「万世一系の政権」に主眼をおくからである。

またウソの部分を見抜けず、見抜こうともせず、

加治木義博のように見抜く者を敵視してきたから、

次第に史実の真相が明らかになってきても、ウソを押し通そうとするから、

その主張と真実とがすべて食い違って、「大ウソ」に見えてしまうのである。

だが、証明された史実だけを重視すると、

台湾の「ホーライの国」から戦前の大日本帝国まで続いた国は、

国名も天皇家も、

そして天皇たちの血も、直系ではないが混血によって、

「切れ目なし」に継続しているから「万世一系は真実だ」とはっきりいえる。

今ではそういえるのは私のこの研究の成果だけなのである。

これに反対して「天から天孫が降臨した」

「神武東征は紀元前、即位は奈良の橿原」などと主張すると、

すべてが「ウソ」になってしまう。

ところが日本にはこの事実を180度反対にしか考えられない愚かな連中がいて、

天皇家を泥まみれにしている。

『憲法』が定めた「象徴」を否定する「違法者」どもを放置してはおけない。

※出典:YAMATO 209~210頁


「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」

このウースンというのは、

『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。

その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、

船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、

それは史実が後世に次第に変型したもので、

ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、

その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。

ギリシャ語には多くの方言がありますから、

イャーソンという名はヨーソンからユースン、ウースンと変化します。

先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、

それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。

『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、

ウロとは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。

これで「イヤ」とヨとユとウとの訛りかたがわかると思います。

だからその地域での「ウースン」が、

ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。

その神話に残され地名とコースが、

東南アジアの現在の国々と一致しているので、

今では彼らがマレー経由で台湾へきて、

そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、

その後、カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、

明らかになってきました。

また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、

その基地として高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・

夫余(フユ)・挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、

あますことなくわかったのです。

しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、

彼らは営業を続けられなくなりました。

ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、

中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、

古代の呉の地に根をおろしたのでした。

このウースン人についてはもっと重大な事実があります。

それは鹿児島県の東半分を占める

「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。

そして今も鹿児島県人には、

大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、

ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、

ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。

この一致で、大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは疑いの余地がありません。

※出典:日本国誕生の秘密 169~170頁


「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」

イオニヤ人の移住がアショカ仏教宣布団の渡来とは

別だという証拠はまだほかにもある。

それは仏教宣布団の言語であったパーリ語では、

イオニヤを「ヨーナ」と発音して決して

イオニヤとは発音しないという動かない重要な条件があるからである。

このヨーナという発音からは、

どんなにしても魚類を「イオ」と呼ぶ発音は生まれない。

またヨーナの名は全く別の名詞として現在まで残っている。

それは「与那国島」という島の名や

「与那原・与那嶺・与那覇」という地名や姓として沖縄県に現存している。

仮にイオニヤ人がバーリ語を話す仏教宣布団の一員としてやってきたのなら、

それは先にみた生物名の命名原則に従って魚類を

「ヨーナ」と呼ばねばならないのに「イオ」と呼んできた。

これはイオニヤ人が別に渡来して、

すでに新たな日本語を作りつつあった後に仏教宣布団が到着して、

イオニヤ人の住む島を「ヨーナ国」と呼んだという以外に説明がつかない。

では彼等はいつ、どんなコースでやってきたのか…。

古くB.C.E.3世紀の秦の始皇帝の時代に、

すでに台湾は

「蓬莱=ホーライ=ギリシャの季節の妖精の名」と呼ばれていた。

またギリシャ神話には金毛の羊皮を求めて、

ラコーン(タイから中国南部の古名)やマラヤの岬(マライ半島)という

地名のある沿岸を東に遠征した「アルゴ船」の有名な記録がある。

※出典:大学講義録07 12頁


「始皇帝が憧(あこが)れた天武天皇の宗教とは?」

それだけではない。

彼女を活用したのは天武天皇である。

彼の信仰は彼の名乗りをみればわかるとおり仏教ではない。

彼はシーラ派の天智天皇系政権を倒すのに、

革命で閉め出された倭人を活用したが、

それは彼が仏教徒だったからではない。

政権を手に入れる必須条件として妥協しただけである。

では彼の信仰は何だったのか?。

その答がこのピュテーアなのだ。

その名乗りは

「天渟(テンティ)(天帝)・中原(チュウゲン)(大地)・瀛(エイ)(大海)・

真人(シンジン)(人)で、説明は不要の「天地海人」であるが、

それはわざわざ天帝を意味する発音でゼウスを誇示し、

中原で国家の中央支配を誇示し、

瀛(エイ)で海上権の支配者・海人の王を誇示し、

同時にそれらの権力が秦の始皇帝・臝(エイ)に匹敵すると誇示するために、

埠皇の名乗りを使って瀛真人(エイシンジン)と名乗り、

なおかつ彼の出身地がエイ=頴娃(鹿児島県揖宿(いぶすき)郡)であることまで

徹底的に工夫を凝らしてある。

稗田阿礼の実在は、こうして天武天皇の信仰がゼウス・アポロン・ポセイドンといった、

卑弥呼以前からのギリシャ信仰だったことを証言すると同時に、

その信仰の分布地=南九州から台湾までを

蓬莱(ホーライ=ギリシャの季節の女神)や瀛(エイ)洲と呼んで、

不老不死の秘法を求めに徐福らを派遺した始皇帝が憧(あこ)れたその宗教とは、

まぎれもなくこのギリシャの、

「不老長寿の教えをもつ信仰体系」だったことを、

併せて明確に証言しているのである。

※出典:大学講義録29 25頁


「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」 

中国経由でないとすると、どんなコースでやってきたのか?。

忘れてならないのは、台湾北部に現住するアミ人である。

このアミの名は大学講義録31冒頭でお話しした

網・阿見と同じ発音であるだけでなく、

容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、

ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。

また台湾がギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ

仙境・蓬莱(ホーライ)で、

秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だったことも、

大学講義録29でお話しした。

このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、

アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。

仮にこれを疑うと、

台湾と与那国という肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、

どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、

全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、

二つできたことの理由、

という至難の立証が必要になるし、

それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、

ほかにはアミに結びつくような神名はない。

別の語源から全然無関係に

二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。

従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、

「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、

それと比較して相手の説が劣り、

間違っていると判ったときに主張して

「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、

「ただ反対したい」だけというのは、

劣等感の表現にすぎない。

※出典:大学講義録31 28頁


「シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物」

『後漢書』が記録した107年に後漢を訪れた倭国王・帥升は、

漢魏音でスイサヌウ、すなわちスサノオという名乗りで、

これはシュメルの古都スサ(現在のイランのスーサ)の王を意味し、

出雲神話のスサノオの尊の八俣の大虵退治も、

何代目かのスサノオ=位宮が卑弥呼政権を倒した史実を、

英雄ギルガメシュの大蛇退治神話を模して説話化したものである。

だから八俣とは、八幡をヤバタ→ヤマタと訛った当て字、

大虵(ウチ)は鹿児島神宮所在地の名の

「ウチ=内=宇治」への当て字である。

ヤマタは邪馬臺に似ているが、

邪馬(ジャマ)がヤマと発音されるようになったのは8世紀以後のことで、

この神話とは全く関係なく、

邪馬臺(ジャマダイ)がヤマトだというコジツケと

全く同じで無知の産物にすぎない。

さらに邪馬臺という名詞自体、後世の人間の錯覚が産み出した幻覚で、

現実にはこの地球上に存在したことのない幻なのだ。

「中国の山岳崇拝→種子島」

バビロンに敗北したシュメル人は

中国に移動して「周」をたて、殷帝国を倒した。

またアレクサンドロス東征の落とし子・ギリシャ人も中国に住み、

オリンパス山などを神山とするギリシャ宗教の「山」信仰で、

台湾を女神ホーライの名で蓬莱山(ホーライ)と呼ぶ

秦(シン)の徐福らの「方士」が秦代に

琉球の与那原(よなばる)=徐那伐(ヨナバル)=徐福の都(ジョナハラ)へ伝え、

それが種子島南部の「広田」弥生遺跡に、

「山」字とギリシャ文字を彫った貝製装身具を残したのである。

※出典:大学講義録32 30頁


「畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」」

『史記』や『後漢書』にも

「秦の始皇が除福と童男女数千人を蓬莱(ホーライ)に派遣して

神仙を捜させたがダメで、徐福は誅(ちう)を恐れて此の洲に止(とど)まった」

とあるのが同じである。

秦韓とは辰韓の別名だったのである。

倭の五王はそれを辰韓の代わりに使っていた。

この韓はカンと発音していたのか?確かめておく必要がある。

なぜなら姶良郡はカラグニ、

霧島の最高峰もカラクニ見岳で、

カン郡でもカンコク見岳でもなかった。

それと同じものが突然カンになることはないから、

辰韓はシンカンではなくシン韓(カラ)かタツ韓(カラ)だったのである。

すると神功皇后が目標の国を宝の国(タカラの国)と呼び、

それを占領して君臨した国がそれだったのだから、

これはトカラ列島の宝島→種子島の辰韓(タツカラ)→開聞岳のある

シラキッ新羅と姶良郡のカラグニ→

福岡の白日の国=新羅(新=辰・羅=国=韓)→半島の辰韓、

という拡大移動に伴って分布した地名の全てが、

このタッカラ=宝の国という名をもっているのだ。

壹與=神功皇后が君臨した宝の国=邪馬壹国は、

このようにどこからみても畿内にはない。

これも邪馬台国畿内説がでたらめだという重要な証拠である。

もちろんそのことは他の山積する反証群によって、

もう充分立証され尽くしてはいるが、

学説というものは裁判ではない。

研究結果の全ての真実を徹底的に表明して、

「万全を期する」のが務めなのである。

※出典:大学講義録33 28頁


「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」

浦島神社まで建てて集るというのは、血縁関係があるからである。

またこの蓬莱の語源がギリシャ神話のホーライであり、

台湾が今もホーライと呼ばれていることも、

よくご存じの通りでその血縁は他の地名にも及んでいるはずである。

そこで宮津市の地名を見て見ると、

まずこの「日置」が鹿児島県では、郡になっている建国史上重要な地名である。

また丹後という国名そのものが、

タニ=種、ゴ=子で種子島からの移住を記録していることもすでに検討ずみであるから、

種子島の海人王・ビチヌウシン(亀)の娘を亀比売と呼ぶことも決しておかしくない。

むしろ、非常に詳しい知識をもっているというべきだ。

こうみてくると、与那国人は浦島伝説とペアになることで分布先を明示している。

だからそれらの地名は、単に発音が共通しているというだけでなく、

それが地域による発音変化で、その移住・拡大は、疑う余地がないと、

はっきり証明していると断言できるのである。

また丹後から真南に南下したコースには、兵庫県最東部の猪名川と、

大坂府北部の箕面市から兵庫県宝塚市にまたがる稲(いな)地方がある。

その宝塚市には蓬莱峡と呼ばれる名勝があるが、

浦島伝説は今では忘れられて僅かに地名だけが残っている。

この稲が、

百人一首の「イナの笹原、小夜更けて」のイナであり、

孝徳天皇朝の豊日の国の母体になった地域なのである。


※出典:大学院講義録11 23頁

「百済は台湾のギリシャ人国名への当て字」

倭済(オオスミ)はオースミで大隅、それはオをホと書く大隅語ではホスミで、

百済(ホスミ)もその当て字の一つ。

ところが百済(ヒャクセ)は種子島ではハツセ=長谷がそれだった。

さらに沖縄では、百済(ホセイ)はフジイ、またはフジ。

これはベル=鈴を、関西ではリンというが、

南九州語ではジンと発音するからフジイはフリイ。

沖縄語のフは南九州語ではホだからホリイ。

これは台湾の古名・蓬莱(ホーライ)の発音変化・ホーレイの沖縄訛りだとわかる。

蓬莱はギリシャ神話の季節の女神・ホーライが語源だとわかっているから、

百済は最初「台湾の古名」そのものだったのだ。

だが百済は、ポセイドンへの当て字だったことを私たちは確認している。

ではホーライとどちらが本当の語源なのだろうか?。

それは台湾のホーライのほうが古いから語源である。

紀元前219年に秦の始皇帝が、不老長寿の仙薬を求めて、

方士(ほうし)の徐福らを仙境「蓬莱」などに派遣したことが記録されているからだ。

当時、台湾にいた薩摩人の先祖たちは、その国をホーレイと呼んでいた。

それが沖縄に移住するとフジイと呼ばれるようになった。

沖縄は南中国人の往来が激しく当然漢字が使われていたから、

それに対して百済という当て字が生まれた。

ところがその百済人たちは海人族でポセイドンの信徒だったから、

百済人という漢字は、ポセイドンと読まれるようになった。

なぜか?。

※出典:大学院講義録14 26頁


「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り」

真実の我が国の歴史は、はるか紀元前に国家をつくり、

のちに百済(ホセイ)という当て字をもったギリシャ文明の先端が、

ソナカの仏教文明と複合して築き上げた高度文明国家で、

その高さは古墳文化などが、出土品だけでなく様々のファクターで、

次々に実証し続けている。

その百済国は、移動とともに発音が変わり、

ホーライ⇒ホーレイ⇒ホゼイ⇒ボセイ⇒フジィ⇒ハツセイ⇒ハツセ⇒ハセ⇒オオスミ⇒

ウースン⇒ホヅミ⇒モズミ⇒マヅミ⇒マヅメ⇒マツラ⇒クダラ⇒モモダリ⇒パクチェ

などと変化した。

この建国期の史実も知らずに、百済とはクダラと読むとしか知らない連中が、

それを半島の独立国、皇室とは無関係な外国だと信じて、

教えつづけてきたという無茶苦茶な国が、私たちの現代日本だったのである。

しかしこの発音を写した穂積皇子や伯瀬部皇女の名乗りは

『萬葉集』にまで並んでいて、

皇室の由来が、消えることなく伝えられ続けているのを、見ることができる。

その穂積皇子の歌は

「降る雪は 劇(あは)には降りそ 吉隠(よなばり)の 猪飼(いかい)の丘の寒からましに」

だ。

ヨナバリ=与那の巴利=ギリシャ人の都の名も見える。

柿本人麿の高市皇子への弔歌には、

「言(こと)さへぐ百済(ほづみ)の原ゆ 神葬(はふ)り」という一節がある。

神社や陵は、神=貴人を祭ってあるのであって、

伊弉諾神宮でも八幡宮でも、

架空の神話の空想の産物を迷信しているのではない。

※出典:大学院講義録14 31頁


「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史」

その大隅は地元発音でウースン。

この当て字の一つが「烏孫」。

彼等は前漢の武帝が即位した紀元前140年には

西域で月氏をバクトリヤに追い払っている。

これは大隅人が拡大して朝鮮半島を北上して

鴨緑江両岸に邑婁(ユウロ)や夫余をつくり、

殷代からの高族の国、高麗を支配下におさめて、

黒の国=玄武の国と名付けたことと、

烏は黒鳥だから「烏孫」と言う当て字は、

この地域にいる時に当て字された、という事実まで、

併せて立証しているのである。

彼等は、さらに北へ移動、

中国北部を迂回して西進して月氏の居住地を奪い取ったのだ。

その本国・大隅は新しい領土の都として栄え、

3世紀には7万戸ある大国・邪馬壱国の前身になった。

こうみてくるとその時期と、五彩圏の誕生がぴったり重なり、

そこにつけられた多くの国名が

ギリシャの五彩圏や神名群に一致するのだから、

この勝者がギリシャ人だったことは疑う余地がない。

では彼等はどこから大隅へやってきたか?。

それは与那国島がイオニヤを語源にもち、

台湾がホーライというギリシャの女神名をもち、

そこに一見して欧州人の子孫だとわかるアミ人が今も居住し、

アトモと呼ぶギリシャ式双耳土器を

現代まで焼き続けている人々もいる。

また、ポセイドン、アンピトリテ、アフロヂテなどといった

多数のギリシャ海神名が、百済、奄美、淡路島という国名に一致している。

※出典:大学院講義録19 15頁


「渡来コースは海の道。神武東征も四道将軍も史実」

ギリシャ人のコースが

台湾➩沖縄➩奄美➩大隅だったことは、

彼等が海軍で島伝いコースをとったのだと教えている。

するとその海神信仰も少しも不思議ではない。

大量の証拠群が以上のことを完全に確定していて疑問を残さない。

また女神ホーライの名も、仙境「蓬莱」として秦の始皇たちも憧れていた。

その到来が秦以前だったことも動かない。

また大隅の高千穂の宮で神武天皇が遠征を計画したという記事は、

烏孫人の出発点という国名からみて、史実を伝えていることは間違いない。

それは伝承として確実に存在していた。

だがそれを神武天皇という一個人の事跡として編集した

『記・紀』に問題があるために真実から遠ざかり、

ウソになってしまうのであるし、

崇神天皇が卑弥呼時代の支配者だったことも確かで、

『記・紀』は彼も初代天皇だと特記している。

そのため彼個人の事跡になって、不信感に満ちている四道将軍も、

烏孫人の活動からみて、やはり史実の中に入れるべきものである。

もっともこれは「四道」という限定詞があって、

アソカ王の仏教宣布団派遣と複合していることは確かだが、

烏孫人の出発を記録した、

ギリシャ人の残した伝承の1つとしてみれば、

それを「初代」天皇の事跡とした

『記・紀』編集者の立場もわからないではない。

※出典:大学院講義録19 16頁


「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった」

ギリシャ人は、いつ?、我が国にやってきたか?、

彼等は何を目的にやってきたのか?

が完全にわかった。

彼等は、アレクサンドロスの「八紘一宇」の理想実現の夢を追い続けて、

アレクサンドロスが病気のため引きあげ、若くして死んだあとも、

インドに残り、その後、次第に東へ東へと東征し続けた

「世界国家の戦士たち」だったのである。

もちろん本国からの物資輸送などあるはずもないから、

行く先々で自活するため小国家を建設した。

先住民との混血で風俗・言語も変化していった。

それが後に残したものが国名だ。

奄美、都井、百済、出水、大隅、淡路島といった

海の神々の名をそれにつけたのは、

彼等が海の戦士だったことを示し、

その後も朝鮮半島沿岸を北上して邑婁(ユーロ)などを造った。

その人々を東に送り出した根拠地は台湾。

そこには海神でなく季節の女神・ホーライと名づけている。

これは気候温暖な楽土を理想の国とみて土着を決めたことを意味する。

そしてアルゴ船の故事からタイナ国(ロン)とも呼び、

先住南中国人語で「大和 Taiwoh タイウオ」とも呼んだ。

これがタイワンの語源である。

この国こそアレクサンドロスの夢の「和の国」だと自認したのだ。

しかしさらにその理想と夢を拡大して日本列島にも求める時がやってきた。

沖縄西端の小島・与那国をギリシャ語で

イオニヤ(行く者の国)と名づけた時、

それは始まったのである。

※出典:大学院講義録19 27頁


「ギリシャ人が創った「弥生時代」

年表は、一見してわかるように、

時間帯をはっきり印象に止めるのに不可欠といっていい長所をもっている。

年表は利器として様々に転用できるから、ご活用いただきたい。

まず、最大の収穫は図の右上にある弥生時代と、

左の縄文時代との境界に私が引いた線の下端が、

マケドニアの建国期に重なっていることである。

もちろんこの弥生時代の初めは、全考古学者が認める定説ではあるが、

それは、おおよその時間帯であって、

ほぼ、この頃であろうという仮定の目安に過ぎない。

ところがその直後に、

私たちがギリシャ人が来た時期として突き止めた、

アレクサンドロス東征の時間帯がくる。

そして弥生土器の祖型を備えている私の所蔵する八重山土器は、

その土器年代からも発掘地点からも、

アレクサンドロス東征のその時間帯に完全に一致し、

台湾→与那国→沖縄諸島→大隅諸島という海上コースをとった、

ポセイドンら海神を守護神としたギリシャ海人たちがもたらした

ギリシャからの文化財だったことは、

この完全に揃った論理的証拠群によって、

もう絶対に動かないことがわかる。

「ギリシャ人はいつ来たか?」というのはもう謎ではない。

それは台湾に至る地名、ギリシャ神話、秦の始皇の蓬莱憧憬の史実、

イオニヤという与那国の語源などの証拠群に、

さらに「弥生時代」という凄い証拠を加えたからである。

※出典:大学院講義録20 7頁


「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」

殷は、沖縄の宝貝で商帝国を立ち上げただけでなく、

稲敷を故郷だと証言している。

このことは、シルクロードの開発が漢代には実現せず、

隋・唐代まで遅れた事実とともに、太古の往来は海路だったために、

インド亜大陸沿いに往復した商人が、

中国より日本列島に早く釆ていたことを証言している。

ペルシャ湾はその海の「西の玄関」だったのである。

これはギリシャ人が来たコースも教える。

彼等はペルシャ湾から船出した海軍だったのだ。

アレクサンドロスがダリウス王を倒して、自分はその皇女と結婚し、

そして1000人の花嫁をギリシャ軍人の妻にした

「八紘一宇結婚式」が済んだあと、

さらに東のインドへと出発したとき、

陸路をとった大王軍とは別に、海上を進んだ別動隊だったのである。

彼等は、インド北部で病を得てギリシャへ引き返した大王の情報を得られぬまま、

インドからさらに東へ東へと進んでしまった。

そしてやがて大王の死を知って帰国を諦め、建国の地に選んだ新天地が、

気候温暖な理想境「ホーライの国=台湾」だったのである。

するとその眼の前には、意外にも富み栄えている沖縄カリエン経済界があった。

目と鼻のさきにある小島を取ってイオニヤ(行く基地)にしたギリシャ人たちは、

沖縄の島々を或いは戦って取り、

あるいは島長(しまおさ)の娘と結婚して先住民に溶け込みつつ、

さらに拡がっていった。

※出典:大学院講義録20 9頁


「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」

我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

『文化史年表』は、その「商人」が誕生した地域を、

冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

その商人独特の慣習が、

大貿易港のベンガルに残り、江戸の魚河岸に残るのは、

やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

縄文時代の海上交易の名残だったのである。

だからギリシャの人たちも、

何の知識もない「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

偶然やってきたわけではない。

ホメロスの作品や神話などとは別の、現実的な世界観の中で、

はるか東方に四季の鮮明な、

美しいホーライの女神たちの国にたとえられる

島があることを知っていたのである。

そして一(ひ)と足早く出適った台湾の環境につられて、

これこそホーライの国だと信じたために、

その名が後世、フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

でも中国人はその誤りを知っていた。

なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

命令を受けた徐福は、山東半島から東に向かって船出した。

その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は

「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある

日本列島にあったのである。

台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、見える程の位置にある。

いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。

※出典:大学院講義録20 13頁


「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」

ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

これはギリシャ人が始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

こうして整理すると古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

私たちが日常体験しているような、ハツキリしたものだとわかる。

我が国へ来たギリシャ人は、どんな人たちが、何を目的に、いつ、どこを出発して、

どこを通ってやってきたか。

そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

それは天照大神=卑弥呼を生み、応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

それ以前にすでに領土を拡大して、中国を中心に沢山な国をつくり、東アジアを支配した。

こうして細部にわたって疑問が全て解けたことを、よく再認識しておいて戴きたい。

また文化史を年表にして見ると、

弥生時代そのものがギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

そして、さらにそれに先行して、西アジア古代文明もまた、

我が列島まで届いていたことも読み取れた。

こうして在来の史学では想像もできなかった巨大な問題群が、

疑いが残らないはど確実に、そして大量に解明できたのである。

それを、これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

完全といっていいほどに、卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

※出典:大学院講義録20 14頁


「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」 

へルメスが手に持つ、

柄に羽のはえた杖「カディキウス」は世界中で象徴になっているが、

このカディキウスは、もっと鹿児島と切り離せない重要な事実がある。

それはこの神杖は、もともと距離や天体を計る測定器だったからである。

製図で使うT定規は羽から先の頭の部分がないが、

カディキウスが十字架型をしていることはすぐわかる。

その横棒の長さは少し変えてある。

その端を縦棒の端から観ると角度が測定できる。

だから星など天体を見て方角を知り、航海に役立てる。

土地を測量し、材木や石などを測定して建築に役立て、都市を建設する。

もちろん、商品を造り、量を計り、取り引きに指図に欠かせない。

これが産業や交通、知恵の神へルメスの象徴とされたのは当然だ。

それは「行くもの」=先遣部隊とか、移民とか、先導者とかを意味した

ギリシャ語のイオンの象徴であった。

その人々が住む所をイオニヤと言ったが、

それは今のシリヤにまず出来、その後、我が国にも生まれた。

ソナカ=仲哀天皇の祖国語・パーリ語で、

イオニヤは鹿児島語のように短縮して変形し「ヨナ」になってしまう。

それが「与那国島(よなくにじま)」という名を

今も使っている沖縄県の最西端で、

台湾が見える所にあるということは、

その位置は台湾から見ると、

まさにギリシャからみたシリヤと同じ位置にある。

台湾は古名をギリシャの季節の女神のひとり

「ホーライ」に警えて蓬莱島(ほうらいしま)と呼んでいた。

台湾は気候が良く、高山があって、

熱帯から寒帯まですべての「季節」が揃っているからである。

こうした命名はギリシャ文化の持ち主でなければ出来ない。

仲哀天皇らが運んできた文明が

ギリシャ文明とインド文明の融合物だったことは、

もう疑う余地はない。

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ 184頁

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
シュメル-人類最古の文明  

地中海の大半の島名が一定の原則で日本語で読める名をもっている

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「地名が物語る古代文明の波及」
「五彩圏連邦」の大移動
「3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人」
「「たった一字」のもつ真価」
「世界の先進文明をもった父祖の偉業史」
「倭人圏はギリシャ帝国と同じ四神配置の連邦」
「アカイヤ人がつくったミケーネ文化」


「地名が物語る古代文明の波及」

ほかにも同じような、私たちの先祖の手掛かりはないかとさがしてみると、

まだほかにもいろいろ見つかった。

たとえば同じ沖縄県の「波照間島」もその一つである。

この島の名は沖縄語や鹿児島語では「ハティマ」と発音する。

語尾のマは国を意味するものだということは、もうよくご存じのことである。

だからこれは「ハティ」というものを指している。

ハティというのは、アレッサンドロス時代の前後に、

やはり中近東で大活躍していた人たちの名である。

「ハティ人」は英語訛りでは「ヒッタイト」と発音する。

古代金属文化の先進国人として、世界史上でも有名な人たちである。

日本語の「ハチ=蜂」を考えてみると、この武器をもった連中と同じ性質をもっている。

どちらも「剣をもつ者」なのだ。

それだけではない。

麦を火で炒(い)って粉にひいて、お湯でこねて食べる、

この粉を大阪周辺では「ハッタイ粉」という。

ムギは、本来、地中海農耕文化の主食である。

このハッタイもハティ人に対する呼び名変化の中の一つと同じである。

それよりもさらに重要なのは、

この地域から出て朝鮮半島を治めたアカハチや中国の東北部から出て

後の中国・清(しん)帝国の祖になった金王ヌルハチがもっている「ハチ」という称号も、

このハティとつながりをもっていることである。

その古代ハティ語は、今シリア特有の象形文字として見つかっている。

ヨナ国島との関係は切っても切れないものがあるのだ。

その遺跡から見つかった印章には「ハットウシル三世大王」のものもあり、

その首都の名も「ハットウス」だった。

だから「八頭」という当て字があれば八俣の大蛇ともつながってくる。

また八田、波多、畑といった姓も、「果てる」「はて=涯」という言葉も、

やはりこれにつながっていると考えていい。

なぜなら波照間島もヨナ国島も、

その名のとおり日本の果てにある「果てる国(マ)」だからである。

またこの式でいけば九州北部にある「日田(ヒタ)」も「日田人」と書けば

「ヒッタイト」への当て字として使える。

さきにお話した、三種の神器の一つである精巧な古代の神剣は、

日本の鉄器時代の初めのものだけに、この人々のものであり、その象徴とみてもいい。

またその人たちは全部、船に乗ってそれらの島々へきた。

日本語の「フネ」という発音と、古代ギリシャとの関係は、

その海軍の主力だった「フェニキア」と切り離しては考えられない。

沖縄語ではその名は「フニチ国」になる。

これは本土語に直せば「フナキ」船木という姓に一致する。

またフニチ国を「船津国」と書けば、それが船の国という古語だと分かる。

こうみてくるとアレッサンドロス帝国の中にあった「カッパドキア」と、

日本の「カッパ」という名もまた無関係だとはいいきれなくなる。

ローマ法王をマグナ・カッパと呼ぶが、その頭は本当に「河童」のように丸く剃る。

怪物としての河童は架空のもので、ここでは議論する対象ではないが、

カソリックの儀礼や3世紀の卑弥呼の儀礼や、

その起源であるシンドゥ教の最高神シバと、

キリスト教の最高神のエホバが同じ神だということを考えれば、

これもまた学問上、無視することはできない。

日本語には「切れるか・切れないか」という言葉がある。

これと語呂合せのできるギリシャ語がある。

「キレナイカ」である。これは古代イタリア半島の国「キレニア」人をさす。

この名は今もラテン化してチレニア海や、アルバニアの首都・チラナなどとして残っている。

そして鹿児島にも「喜入」や「知覧」として残っているのである。

※出典: HIMIKO 182~184頁


「「五彩圏連邦」の大移動」


その卑弥呼系の倭人連邦は、

中心に黄、東に青、西に白、南に赤、北に黒の五色をもつ

鳥獣をトーテムとする後世の「四神」の原型を、統治の単位にしていました。

そのままの地名がセットになって

今も南九州から四国、中国地方、近畿へかけてかなり残っていますので、

加治木義博はそれらを「五彩圏連邦」と名づけて研究を重ねてきました。

それは本来、ギリシャを中心にして生まれた統治形態であり、

その当時の地中海文明の遺跡のある地域は

現在も東に「青=オマーン」、

西に「白=シラクサ」、

南に「赤=アカイヤ」、

北に「黒=クロアチア」という国や地域が実在しています。

この名がみんな日本語の色の名と同じであることに、よく心をとめてご注目ください。

これと同じものが日本にもみられます。

一例は

東に青=オオワ(大和)、

西に白=シラギ(新羅)、

南に赤=アケイ(安芸=高知)、

北に黒=クリ(高麗・句麗)という国や地域が実在していることです。

卑弥呼のころに、こうした言語や統治方法だけが伝わるということはありませんから、

当時の統治者がギリシャから来た人々だったことは疑うことができないことになるのです。

このことも卑弥呼たち天照大神がギリシャ系の白人で金髪だったことの強力な

証拠の一つといえますし、

シロ・シラという発音の「新羅」人が、その人々の国をさす名であることも、

すぐおわかりになると思います。


<地図:九州五彩圏>
カラ=黒


平戸─── 基肄 ─── 大分
ヒラ=シラ=白  キイ=黄   オオ=青

明宮
            アカイ=赤
大島

オオ=淡

アワ

阿和=アカ




壹與はその新羅の始祖王で「赫居世」と書かれますが、

カグヤ姫も漢字では「赫夜姫」と書きます。

「夜=ヤ=ィョ=居世」で、少しの発音差しかありません。

こうしたことを記録している

『記・紀』も『三国史記』も真実の記録をたくさんもっている貴重な史料だということが、

これでよくおわかりいただけたと思います。

ここに挙げた新羅が朝鮮半島に移動したのは、

壹與が死んだあとだいぶ経ってから、4世紀のことです。

とうぜん壹與の時代には新羅はまだ九州の中にありました。

「五彩圏連邦」は拡大しながら西から東へ移動して、

5世紀半ばの「倭王・興」、の名乗りが「河内」を意味するので、

そのときやっと東の端が近畿にとどいたという記録になっています。

卑弥呼の3世紀には、

まだ出発点である沖縄からあまり遠くない九州地域に都していたことは考えるまでもありません。

卑弥呼の都を語るのなら、こうした基礎的な知識からまず先に身につける必要があります。

江戸時代初期の素人説から一歩も出ない頭では、

とても知性の高い読者を納得させられるような正しい報道はできないと思います。

話が少し固くなって肩が凝ったのではないでしょうか。

それをほぐすために、ちょっとヘタな(?)詩をつけ加えさせていただきます。

これは使いようでは記憶を呼びさますメモリーがわりに、

また、あなたを遠い昔のロマンと夢の世界へ、お誘いするよすがにもなればと思っています。

※出典:日本国誕生の秘密  60~62頁


「3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人」

『魏志東夷伝』には、高句麗に隣りあって挹婁(ユーロー)という国が記録されています。

この挹婁はこれも不思議にお思いでしょうがギリシャ人の国だったのです。

3世紀の北朝鮮や日本にギリシャ人がいたとは信じられない方のために、

「高句麗よりさらに東北にあって大海(日本海)に面した国・挹婁=ユーロー」をご紹介しましょう。

それにはこんなことが書いてあります。

そこは今の北朝鮮からロシア沿海州にかけての地域で厳寒の地なのに、

住民は「裸で、冬はイノシシの脂を体に塗って、毛皮を着る」というのです。

中国や朝鮮半島の国とまるで風俗習慣が違っていたのです。

一体、その人々はどこからやってきたのでしょう?。

それは国名でわかるとおり「ユーローピアン」だったとすると、

素っ裸で暮らしていた風習は、

ギリシャから大量に出土する赤絵土器などに、

描かれた風俗画で普通に目にする古代ギリシャ人独特のスタイルだということになります。

こう考えると、その裸風俗ももはやそれほどには奇妙には思われません。

しかし当時「ユーローパ」と呼ばれた地域は、

今のヨーロッパではなくて、もっと限定された狭い地域のことでした。

それは地中海東岸にあったフェニキアから見て、

西にあたる海の彼方の国のことだったのです。

そのことはギリシャ神話の中の次のお話でよく分かります。

※出典:日本国誕生の秘密  129頁


「「たった一字」のもつ真価」

「アミ」と「ウワイ」が本来は同じものだったことを示唆している。

こうした発見に次ぐ発見がなければ、こんなにスラスラ「鬼道」の正体も、

倭国が仏教国だということも、

卑弥呼がなぜ?女王でなければならなかったか?という謎の答えも、

さらには7世紀にその政権が大阪に移動して「倭国連邦」として存続しており、

歴代の女帝が「大化大戦」以後も孝謙~称徳女帝まで続いた、というような、

建国史上最高に重要な歴代を貫く重層をなした謎も、

また卑弥呼=天照大神が金髪で、ギリシャ系だった、

それはひいては

古代日本文化がギリシャ=地中海文明だったという人類史上希にみる巨大な真相も、

なぜ奈良に大仏をつくつたか?といった小さな謎も、

ことごとく、この「ウワイ」という発音がもとになって解けたのだということを、

もう一度、念入りにお考えになってみて戴きたい。

そのウワイは誰でも知っていたつもりの

『魏書倭人章』の最も最初に眼に飛びこんでくる、

「倭」という「たった一字」の漢字だ。

ところがこの一字の発音解明をおろそかにしたばかりに、

どれだけの学者や作家が、見るも無残な敗北を味わったか!?…お考えになって、

そんな愚かな真似は絶対にしないと、胸に固く刻みこんで、

この特別講座をただ記憶するだけでなく、あなたご自身のもの同様になるまで、

高度にご勉強になって戴きたい。

※出典:大学講義録01 21頁


「世界の先進文明をもった父祖の偉業史」


古代ギリシャと倭国連邦との関係、

その構成国、

さらにそれらと切っても切れない『四神』の真相が、

簡単な略文ながら、的確にご理解戴けたと思う。

ついでにお話しすると、虎の「トラ」という発音も、

古代大ギリシャ帝国の中の1国の、

トラキヤ=虎王国(トラキヤ)からきている。

これはもうよくご存じの通り、

コルシカ=黒鹿(コルシカ)島や、

その南のサルジニヤ=猿人国(サルジニヤ)、

シシリヤ=獅子人国(シシリヤ)(今のシチリア)、

イオニヤ=魚人国(イオニヤ)諸島らと

同じケースであって、一つ二つだけが偶然似ているといった単純なものではない。

これ程の量の証拠群の価値が判定できないとしたら、

それは気の毒ながら脳に欠陥があるのである。

この例では「人」をいろいろに発音してあるが、

ジは「日本人」のジン、

ニは「他人」のニンで、私たちが日常使う発音であり、

リは「日本人(リーペンリ)」のりで、

今の北京(ぺキン)語=古代の夫余(=倭・高句麗・百済と同族)語である。

このことから、こうした発音の違い「方言差」の原因は、

地中海の方言差にあったことも、これでよくわかる。

世界の比較言語学も古い殻を脱ぎ捨てて、

21世紀にふさわしいものに羽化する必要があるのである。

このリストで、

もう一つ重要な問題は、

卑弥呼一族の遠い故郷「アカルナニア」と、

その間接的な後継者・応神天皇の皇居名「アカイヤ」の違いである。

これは同じギリシャ出身者でも出身地の違いが、

こうした違いになって現われたとみる人もあると思うが、

今見た通り日本語との共通名が非常に多いのだから、

古代ギリシャ語は日本語で理解できるはずであり、

アカルナニアとアカイヤとはほとんど同じ意味をもつ国名だったと考えると、

この2国名はもとは同じ名前で同族だったが、

2国に分かれたために、

意識して区別したのか、

地域差等によって、

少し変形したのだと見たほうが合理的で、

それだと卑弥呼と応神の双方が、

明り、赤い、大神、内、宇治など、

多数の表現や名詞を共有している理由も納得が行くが、

これを全く別の、縁もゆかりもない2国名だったとすると、

このリストの一連の名詞は、

全て偶然にも、奇跡的に、

うまく相似した神秘な名詞だという、

奇妙な説明が必要になる。

だから私はこの2国は同族で、

むしろ「アカルナニア」へ「明の宮(アカルナニヤ)」と

当て字したものだと理解している。

それは前にお話しした「ニワトリ」を「ミヤドリ」と発音する沖縄語だと、

「ニヤ」が「ミヤ」になる可能性があるからだが、

ご参考までにお話しして断定せずにおく。

ウジンミヤ=オリンピアは、

大学講義録24の12頁からぢ額講義録25の28頁の間で詳しくお話し済みで、

省略させて戴くが、

『記・紀』神話を根幹にした神社神道の根底には、

ギリシャ神話があることを、

さらによくご確認戴きたいし、

我が国の建国史(高度政権国家成立史)は、

私たちに生命を与えた祖先、

地中海からインド亜大陸に至る世界の先進文明をもった父祖が、

この列島に到着して苦闘して築いた国文化の努力の歴史だという事実を、

強くご認識戴きたい。

※出典:大学講義録31 35~36頁


「倭人圏はギリシャ帝国と同じ四神配置の連邦」

卑弥呼が生まれたときにつけられた名は、絶対に大日霎貴ではなかったことが、確認できた。

もう間違いを犯す危険はない。

それと同時に、古文献は貴重な史料ではあるが頭からウ飲みに丸々信用はできない。

こんなふうに徹底的に確かめてから、確実なデータだけしか使えないのだ、

ということもわかった。

それにもまして、動かなくなったのは彼女たちの血族が、

やはりギリシャ出身だという確証がえられたことである。

これまでも繰り返しお話してきたが、

アカイヤはギリシャの最南端、地中海に面した暖国で、

まさに九州における鹿児島県の位置にある。

さらにいえば北端にクロアチアのある現在のギリシャ周辺の

『四神』式国家配置と、

高句麗を北端とする当時の倭人圏とは、さらに完全な一致を見せているのである。

(北)  
       クロアチア

(西)シラクサ←ギリシャ→アイオリヤ(東)

         アカイヤ
(南)

※出典:大学院講義録 03 35~20頁


「ギリシャ系海人の楽園・淡路と紀州」

当時の淡路島は、そうした先進文化の集中地域だった。

それは日本列島の中央を占めて、しかも四方を海に囲まれた島で、

冬は地中海気候に似て暖かく、夏は海に囲まれて涼しい。

地中海地方出身の人々にとっては、故郷を思わせる素晴らしい島だった。

それだけでなく、これまで見た例の日本語化したギリシャの神々は、

全て海神の一族ばかりだから命名者たちは海人族だったことがわかる。

四方を囲む海は彼らにとって快適な交通路であり、外部の敵から身を守ってくれ、

海外からの富を与えてくれる神そのものであった。

彼らは日本列島の中央に列島中で最適の島を見つけ、そこで栄えて、

さらに実力を蓄えていったのである。

その珍の名乗りに合う初期の進出先・紀伊を見ると、

田辺市には芳養(ハヤ)という地域がある。

海を見下ろす浜辺にあるが港は別にある。

これは隼人の町で、巴利からきた海人族の有力者の居住跡と考えていい。

田辺市は南方熊楠氏の住んだ所としても知られているが、同氏の写真を見ると。

南九州に多い日本人離れしたギリシャ型の容貌をしておられる。

その博学もまたアリストテレスを思わせる頭脳の働きを見る。

海人族は海上を自在に移動して国境には制限されない。

珍の進出以前に列島の海岸沿いに広く土着していた。

神武東征が南紀に方向転換したというのもそのためだ。

そして珍と済は和歌山に済の遺跡・隅田(スダ)八幡を残した。

※出典:大学院講義録06 31頁


「アカイヤ人がつくったミケーネ文化」

ついでにお話ししておくと、テーベはもう1つある。

エジプトのナイル川の中流に栄えたエジプト中王国時代の首都である。

アモン信仰の聖都だったからルクソールやカルナークといった有名な神殿群や、

ハトシェプスト女王を祀る神殿や多数の墳墓群があるので周知の所である。

この2つのテーベは、どちらもThebesと書かれて全くの同名である。

地中海が隔(へだ)てているといっても航海者には大した距離ではない。

2つのテーベは我が国の巴利国→播磨や、台湾の大和¢奈良の大和のように、

国境を越えた人の移動を物語っているのである。

すると我が国の古代文化にエジプトの影響が見られても、

これまた何も不思議ではなくなる。

それだけではない。

インドのアソカ王の仏教宣布団はソナカたちと同時に出発して、

ギリシャ本土やアレクサンドリヤに行っている。

それが紀元前3世紀の現実なのである。

唐代のシルクロードしか頭に無い学者が唱える狭い視野の古代史が、

どんなに現実離れしているか、いまさら非難する気もしない。

それよりミケーネ文化について、も少しお話ししておこう。

アカイヤ人はB.C.E2000年頃から南下して

ミケーネ、ティリュンス、オルコメノス、ピエロスなどの

小王国群を建て1
500年頃に最盛期を迎えていたクレタ勢力を一掃して 

エーゲ海文明圏の支配者になったので、その文化をミケーネ文化と呼んでいる。

※出典:大学院講義録21 12頁


「「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する」

こうして挙げて来た高度の共通点=史実の証拠は、しかし言語だけであり、

それもまた移住先の言葉に抹殺されてしまうから、その量は当然、激減している。

他には証拠はないのであろうか?。

フェニキヤ人たちが扱っていた商品の中に、彼等から以外、

絶対に入手できなかった特珠な染料の一種がある。

なぜ?他では手に入らないのか?、

それは地中海岸の属国・ツロ特産だった、

ツロツブリという巻貝の一種がごく微量内臓する柴紅色の色素で染めた織物が、

その色彩の良さはもちろん、

その希少性から宝石のように珍重されて王侯の衣服の必需品になり、

彼等はその採集と製法を極秘にして巨利を得ていたからで、

海の富は貝貨だけではなかったのである。

そんな紫の衣服など、少数の富める国の王侯が、限られた人々にだけしか見せず、

それらの国以外には無いはずなのに、それが我が国には古代から実在して、

「紫衣(しい)」と呼ばれて高貴の式服とされてきた。

それらの紫衣はツロ紫染めだったとは限らないが、

「紫衣」の名に恥じない色合いはもっていたのである。

この事実は、

フェニキヤ人が我が国まで来なければ絶対にあり得ないことが理解できる知性人には、

これを否定して彼等の影響を疑う論拠は、消滅して残らなくなってしまう。

※出典:大学院講義録35 18頁

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
シュメル-人類最古の文明  

ホメロスの二大叙事詩の題名は鹿児島語と同じ言葉

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
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「世界最大の謎に挑戦」
「日の大神の国タイナロン」
「3000年前に開けていた海上の道」
「タイナロンの謎と答え」
「「日本」が誕生したとき」
「埋もれたギリシャ神話の女神エウリュノメ」
「紀元前660年の建国は真実だった」
「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」 


「世界最大の謎に挑戦」

「世界最大の謎」というと、

人跡未踏のアマゾンの源流か、深海底にしかないように、

漠然と想像する方もあると思うが、それは日本の『古事記』『日本書紀』である。

アマゾンの奥にあるエル・ドラド(黄金境)は、インカ系の遺跡に間違いないし、

もしそれが見つかったとしても、解ける謎といえば、その正確な位置ぐらいにすぎない。

かつて巨大な謎を秘めていると想像されていた深海底も、ごく単純な構造と、

産物をもった谷間に過ぎないことが明らかになっている。

もしそこに未知の大怪物が居るかも知れないとしても、

それは生物の種名を一つ加えるだけに止まる。

古い生物が生き残っているかという問題も、シーラカンスが解決ずみである。

シーラカンス時代以前に大怪物はいない。

約1億5千万年の差がそれを証明するのである。

そんな空想上の謎でなく、もっと高度の知的な謎といえば、

かつてはエジプトの象形文字や、ホメロスの世界、

近くはオリエントのヒッタイト象形文字がある。

実在していながら、それを解読できないために、明らかにならないものの量。

謎の大小は、それによってきめるほかない。

「図:ヒッタイト象形文字(加治木原図)」

これをカナと漢字と考えてみると解りやすいと思われる。

すでに一部分は解りはじめ、

日本語と同じ形の子音プラス母音からなる音節文字(=カナ文字など)であることは、

つきとめられた。

ロゼッタ石とシャンポリオン。

トロイ城址とシュリーマン。

こうした謎と、それを解いた本当の英雄たち。

が、物語中の神々や英雄が、崇拝者を時と共に失って行くのに反して、

いよいよ輝きを増して行くのほ、永遠に消滅したかに見えたわれわれの祖先が、

彼らの偉大な頭脳によって、よみがえり、語りかけ、教えてくれるからに他ならない。

いま、その成果は5千年、7千年という古代にまで及んでいる。

が、それにひきかえ日本の歴史は6世紀の倭の武王すら、

雄略天皇ではなかろうかと想像しているだけであり、

7世紀の聖徳太子の記事が疑われ、

8世紀の『古事記』撰上さえもが事実でないことが証明されている。

本文にはいれば証拠を御覧に入れるが、

『古事記』と『日本書紀』に書かれたものが、

どこからどこまで信じられるのか見当もつかなかったのである。

天地のはじめから書き起して、

天皇を中心に飛鳥時代までの歴史記事が詳しく書かれているように見える、

この正史が、実は一字一句、すべて謎に包まれているのである。

いまや再び世界の大国に数えられ、有数の教育普及国を誇る日本が、

建国の状態も時も、人も場所も、まるでわからない。このままでいいわけはない。

しかし、それだけのことであったら、この問題をとりあげない。

いまの目的「推理力を身につける」という目的に、

この謎ときが、ピッタリであることが、

私にこの問題を選ばせたのである。

なぜならこれまで誰も答えを知らなかったものでないと、本当に身が入らない。

遊びになってしまうからである。

また、やり方が正しかった、という証明にもならない。

やり方をごま化して、答えを出したような顔をする恐れがあるからである。

それに、これまで不可能と考えられたものであってこそ、

やり甲斐も大きく、火のような情熱が生れるのである。

さらに、

それによって語られた答えが「正しい」とはっきり判定できることも必要である。

未来に属することでは、その時が来てみないと、

正しいと証明することは不可能である。

その点、過去の謎は、必ず証明が見つかる。

それができないようなら、努力して、こんな本を読む値打はない。

誰が考えても、どこから見ても、押してもひいても狂わない答えが出せることが、

あなたと私の条件なのだから。

※出典:異説・日本古代国家 22~25頁


「日の大神の国タイナロン」

それがどんな人々によって、日本まで運ばれてきたか?

あなたにはもうハッキリ見当がついていらっしゃると思う。

だからほんの少し補足しておこう。

ギリシャというのは古い名前だが、実はソクラテスがいたころは「エラーダ」という名だった。

この国名になにか心あたりはないだろうか?

そうだ。ハムムラビが破った敵の本拠が「エラム」だったのである。

プラトンは、その『国家篇』でエルという人物が戦死してあの世へ行き、

また生き返った体験をソクラテスに物語らせている。

エラーダというのはこのエルの土地という意味である。

このエルは、本来のギリシャ人ではなくアルメニア人といったほうがいいが、

実は「たとえ話」の主人公なので、「エラ人」といった意味の仮空の人物である。

「エラム」というのも、この「エラ人の土地」ということである。

この話でもおわかりのとおり、

エラムも、ヤマトも、バビロン人の後身であるカリエン人だけでなく、

ギリシャ人にとってもよく知られた身近かな名であり人々だったのである。

そしてそれは日本列島の南端にある「永良部(エラブ)」という島の名とも共通している。

それが和人(カリエン)によるものであることはわかっているが、

その名がまた「選(えら)ぶ」という日本語につながることも、

『ジンム』に詳しく書いておいた。

しかしギリシャ人もホメロス以前に、

インド以東にやってきていて、東アジアのことをよく知っていたのである。

それは次の『ホメロス序章』にある

「ピューティア・アポルローン頌歌(しょうか)」の一節でよくわかる。

「マレアなる岬の沖を過ぎ越し、

ラコニヤの沿岸を辿(たど)り辿りて進みしが、

やがて四面環海の土地、歓喜の日の大神(へリオス)の国・

タイナロンにぞつきにけり……」(加治木訳)

『ジンム』をお読みいただいた方には、この地名を考えるのに苦労はいらないと思う。

マレアは今もマレアで、国名になるとマレーシアになっているが、

マレー半島のことである。

それを過ぎて横たわっている広い沿岸といえば中国しかないが、

南中国には[六合]という県があり、

卑弥呼当時の人々はそれを「国・故郷」といった意味で呼んでいた。

それが「リクウ」という地名として沖縄に分かれ、

[琉球]という当て字を生んだ。

(『ジンム』参照)。

この[六合]は、方言差では「ラコウ」「ラコン」と呼ばれる地名である。

紀元前8~9世紀を下(くだ)らないホメロス詩篇の中にある地名だから、

さらにそれよりマレー半島に近いインドシナ半島がそう呼ばれていた可能性もある。

それは江戸時代初期にタイで「六昆王」になったという伝承を残した

山田長政の国もまた[六昆=ラコン]でラコニアにより近い。

外交関係のまるでなかった当時は、背後地にどんなに強大な国があろうと、

そんなことはわからない。

寄港したり通商したりする地名がすべてを代表する。

ラコニアが中国大陸であったことは、まず間違いない。

「日の大神の国タイナロンの位置」

宮古島・石垣島・西表島・タイナロン・六合・海南島・越南・ラコニア(六昆)・バンコク
ヤンゴン(六昆)・マレア

※出典:KOFUN 65~66頁


「3000年前に開けていた海上の道」

ではその南岸の沖にあった[タイナロン]とはどこだったのだろう?

海南島かも知れないし、台湾かも知れない。

沖縄であった可能性もある。

それは「カイナン」にも似ているし、「タイワン」にも近いし、

「ウティナ」という発音とも合う。

「タイワン」の語源は、もともとは「タイ」だけで、

「臺(タイ)」の字を「ウティナ」と読むことから、沖縄と同じ名だったとわかる。こ

れに比べると「カイナン」の方は無理がある。

沖縄語で「ウ」は「オオ=大」のことだから、

ウティナは漢字で書くと「大臺(ウテイ)」国(ナ)なのである。

こう次第にしぼってくると、タイナロンは「タイ国(ナ)」のことで、

語尾の「ロン」は、バビロンなどの語尾と同じく、

中東語で「国」の意味でつけるものである。

タイナロン人が、中東から来た人々だったことがこの国名でもわかる。

臺(タイ)湾の「ワン」は「和人(カリエン)」の国であったことから「

タイ和人(ワニ)の意味で呼ばれた通称に、当て字された可能性も否定できない。

これにはあとでさらにつけ加えることがあるが、

こうしたことからタイナロンは台湾だとするのが、いちばん妥当である。

いずれにしても、このあたりまでの情報が、

ホメロスの時代に、すでにギリシャ人の知識の中に届いていたのである。

『ヒミコ』や『ジンム』でお話しした以上に、

古い時代から、人々の交流があったのだ。

そのことはベトナムのドンソン発掘の銅鼓の絵が、

エジプトの葦船(あしぶね)と同じタイプであることや、

インドネシアからフィリピンまでの帆船が、

地中海スタイルの三角帆であることなど、

より古い時代からの人と文化の流れが見てとれる。

ことに右のホメロスの詩篇の名にある

ピューティア(日の神の託宣を告げる巫女)は、

卑弥呼(天照大神・神功皇后)にも、その資格が見られると、

『ヒミコ』でお話ししておいたものである。

バビロン難民がたどりついた台湾の元の固有名詞「タイ」に、

国称の「ナ」がつき、

さらに後からたどりついた人々によって国称「ロン」が

追加された形の国名[タイナロン]は、

カリエンの語り部が話してくれたことが事実だったことを、

こともあろうに「ホメロス」が太鼓判を押した形で、

歴史の真相を私たちに見せてくれた。

すると、その人々が造った古墳も、

その文明の産物であったことがハッキリと見えてくる。

次はそれを確認させる「証拠」をとり出して、検討していくことにしよう。

※出典:KOFUN 67~68頁


「タイナロンの謎と答え」

この「大王」はインド経由できた人々の使ったことばで、

仏教、シンドゥを問わず、共通のものだった。

それは「マハ・ラジヤ」の直訳で、導師、最長老をいう。

祭政一致の国ではそれが最高位の王にあたる。

今もインドには「マハ・ラジヤ」がいる。

それが「大王」という漢字で表現され、

漢音で発音されるようになったのは、

倭(ウワイ)人の大王・ソナカらが、

中国語圏のインドシナ半島に入って以後のことである。

そこで中国語が使われていたことは、

今のベトナムが越(エツ)の一部になり「越南」と書かれていたことで、

このあたりが古来、国境のない時代の同一言語圏だったことがわかる。

だから先にお話しした「タイナロン」という国名も、

むしろカリエン人が到着して住みついた時代の台湾を、

この大王の文字の別の方言型で「大(タイ)・王(ワン)」の国と呼んだものの、

省略型であった可能性が高いことになる。

バビロン第一王朝の滅亡は紀元前1750年前後で、

それから数世紀後に北中国に殷(イン)人の青銅器文明帝国が生まれ、

それと呼応して台湾~沖縄海域にカリエン文明が栄えはじめた

(「ジンム」に詳しく説明ずみ)。

これはインドヘのアーリア侵入に続くもので、

ヤマ教から分化したシンドウ教も、

原始的ながら日の神ヤマ(シバ)信仰の形をとり、ブラフマン化が始まっている。

ホメロスが「日の大神の国」という限定詞をつけていることは、

その宗教がギリシャ人にもよく理解できたものであり、

かつ未開の蛮人の宗教でなく、

むしろギリシャ人より高度の文明の持ち主だったがゆえに、

「歓喜の」という「憧憬」のこもった書き方をしているとみなければならない。

これがタイナロンの謎とその答えである。

「ギリシャの双耳杯とアトモを作るアミ婦人」

上は紀元前5世紀前半の、輪になった提げ手が二つ耳のようについたギリシャの盃。

この特殊な耳がアミの人々のアトモにも、

日本の古墳時代の土師器や須恵器にもつけられている。

下のアミの人々は地中海系の容貌と風俗を伝えている台湾の山地住民で、

『ジンム』でいろいろ紹介しておいた。

これはその婦人が今、土器を成型して日に干しているところ。

双耳にご注意。

※出典:KOFUN 125~129頁


「「日本」が誕生したとき」

3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。

その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。

彼等は<エラム>出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。

それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、

彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、

アテナ出身者は嘉手納(かてな)、チラナ出身者は知覧の名を残すというふうに、

「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。

その中でも最大のものが台湾で、

「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として

記録しているものの遺物だったのです。

その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。

「マレアなる岬の沖を過ぎ、ラコニアの沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、

やがて四面環海の土地、歓喜のヘリオス(日の大神)の国・タイナロンにぞ、

着きにけり……」と書いてあります。

ラコニアは六昆で今のタイ国ですが

古代にはミャンマーのヤンゴン=ラングーン(六昆)までを含んでいました。

マレアの岬はマレー半島。四面を海で取り囲まれた大きな土地は、

その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。

ヘリオスの妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、

これが「e音をi音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに

「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。

最初の「日本」はタイナロン=台湾で、

古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。

これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、

本来はこのヘリオスとヘラのことで、

そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。

ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、

「天照大神」様と呼ばれたために、

後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。

これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、

後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。

※出典:日本国誕生の秘密 216~218頁


「埋もれたギリシャ神話の女神エウリュノメ」

「ミヅハ」はわかったから、次は「ノメ」からお話ししよう。

すると「ノメ」は「の女(メ)」にきまっているじゃないか。

と面倒がる人がいる。

すこしわかればそれで全体がわかったと過信して、

結論してしまうDNAの持ち主である。

この種の人物は学者には向かない。

学者以外の思考力が必要な職業にも向かない。

だが21世紀には思考力がいらない職業などない。

この人の未来は、すでに決定しているのである。

しかし、その欠点が自覚ができれば、努力によって改善できる人もいる。

それが教育効果なのである。

こうしたことのご参考になれば幸いだから、

「ノメ」にはどんな未知の部分があるか、

お話しするので、ご覧になって、歴史の謎ときという主目的のほかに、

「重要なものを軽率に切り捨てる人間はダメだ」という実例として、お役に立てて戴きたい。

ギリシャ神話には、

世界を作った女神の伊弉冉尊にあたるエウリュノメ=Eurynomeという神がいる。

とは言っても、ギリシャの創世記は幾つもあって、その内容はみな異なっている。

ヘシオドスの『テオゴニア=神統記』や、ホメロスのもの、オルペウスのものなどがあるが、

エウリュノメの神話は余り知られていなくて、

世界で最高の権威を誇る英国オクスフォードの『希~英大辞典』にさえ、

名も出ていないほどだが、

その内容は次の通りである。

「はじめは宇宙には何もなかった。

しかしその”無”が動きはじめ、

やがて暗黒の嵐とでもいうべき激しい動きになり、

いっか形をもって宇宙の蛇・オピオンになった。

といっても何も見えるものがなかったので、

彼には眼がなかった。

だが彼はカオス(混沌)の中を、

何かを求めて這い回る情熱を次第に高めていった。

その情熱は嵐のように激しく、猟犬のように群れて、

ますます速度をまし、

帯びた熱気はついにカオスに火をつけ、

大爆発が起こった。

この激しく爆発した火炎から、

びっくりした”光”が飛び出して、

女神・エウリュノメになった。

彼女は激しく旋舞(ワルツ)を踊りながら”無”の境界を進み、

風を起こしたので、

その風がオピオンに、とぐろを巻かせた。

彼がとぐろを縮めて行くと、

エウリュノメは白い鳥に姿を、変え、空間に巣を作って

銀の卵を生んだ。

それが太陽と月と星と全ての生物になったのだ。

エウリュノメは「遠くさ迷うもの」、

オピオンは「月の蛇」という意味であるから、

古代ギリシャ人の一部の人びとは彼女を「万物の母・月の女神」

として信仰していたのである。

我が国の伊弉冉尊が国々島々を生み、

大日霎の貴と月読の尊たちを生み、

山川草木を生んだというのと全く同じである。

この二つの神話は無関係なのだろうか?。

※出典:大学講義録28 17~18頁


「紀元前660年の建国は真実だった」

「発音は地域で変わる」、「漢字は色々に読める」という常識を考慮に入れさえすれば、

こんなに鮮やかに史実が再現し、復元できるのである。

五王が名乗った百済の国は、それもまた移動し拡大を続けて、

文字は同じでも中身も発音も別々だったのである。

それは台湾を出発点にして5世紀には奈良に到り、京都に移り、東京に遷都して現代に至った。

ギリシャ人が東洋に入ったのは、

アレクサンドロスのインド東征が最初だと考えている人が多いが、

紀元前6世紀以前に書かれた『ホメロス序章』には、

マレーから「日の大神の国タイナロン=臺国(タイナ)ロン」という名で

台湾の語源になった国名まで、多くの地名が、それぞれ正確な位置に書かれていて、

古代ギリシャ人が台湾をよく知っており、実際に往来して得た知識だったことを、

拙著『誰が巨大古墳を造ったのか』p・64以下に、詳しく書いておいた。

このことでも古代ギリシャ人が我が国に来ていたことは疑えない。

しかもその人たちが、

応神天皇という「真の大和朝廷の皇祖」と確認できた人を出したのである。

紀元前12世紀まで続いた殷帝国が、稲敷人が中国まで移住して建てた国だったのだから、

『日本書紀』が我が国の建国を紀元前660年だと書くのはこのギリシャ王朝の建国で、

それには高度の文明による真実の根拠があったのであり、決して出鱈目な誇張ではないのだ、

※出典:大学院講義録14 30頁


「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」

我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

『文化史年表』は、その「商人」が誕生した地域を、

冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

その商人独特の慣習が、大貿易港のベンガルに残り、江戸の魚河岸に残るのは、

やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

縄文時代の海上交易の名残だったのである。

だからギリシャの人たちも、何の知識もない「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

偶然やってきたわけではない。

ホメロスの作品や神話などとは別の、現実的な世界観の中で、

はるか東方に四季の鮮明な、

美しいホーライの女神たちの国にたとえられる島があることを知っていたのである。

そして一(ひ)と足早く出適った台湾の環境につられて、

これこそホーライの国だと信じたために、

その名が後世、フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

でも中国人はその誤りを知っていた。

なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

命令を受けた徐福は、山東半島から東に向かって船出した。

その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は

「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある日本列島にあったのである。

台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、見える程の位置にある。

いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。

※出典:大学院講義録20 13頁

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