2011年6月14日火曜日

紀元前660年の神武天皇紀元に台湾へやってきていたギリシャ人たち

言語復原史学会
言語復原史学会

紀元前660年の神武天皇紀元に台湾へやってきていたギリシャ人たち

出典:言語復原史学会「邪馬壹国大移動:25頁」
「神武東征」との開係

日向から近畿地方へ遠征して日本を統一した話といえば、

私たちの頭にすぐ浮かぶのは「神武東征」である。

戦前の教育ではその東征の時期は紀元前660年に建国したと教えたが、

明治初年の那珂通世氏以来いろいろの修正説が出て、

まともな人々は、たとえ戦時中であっても、そのままには信じていなかった。

筆者は先に『邪馬臺国の風雲』(昭和60年=言語復原史学会刊)で、

「神武東征」記事中の「磯城彦退治」の部分は、

卑弥呼が死んだ当時の「倭と狗奴国との不和」で

3世紀の事件であり、『記・紀』のその部分の「ヤマト」とは、

鹿児島県下に当時あった邪馬臺国にほかならないこと、

また、そのときの争いは『崇神天皇紀』に

「武埴安彦の乱」であり、

「神武伝承」の方は武埴安彦側から見たものであることを説明した。

その武埴安彦=神武天皇は、その後、「垂仁天皇」として記録されていることや、

その人物が『魏書倭人章』の邪馬壹国の

四人の官名の筆頭にある「伊支馬」であり、

狗奴国男王であることも、

加治木義博著『垂仁天皇の邪馬壹国』(昭和60年=言語復原史学会刊)で、

詳細に説明しておいたが、神武天皇を初代とする天皇家が、

何時大和へ移動したのかという問題は後に残っている。

しかし『記・紀』では日本は神武天皇の時に統一され、

それ以来ずっと「一つの国」として、

奈良県に都していたことになっているのに、中国、朝鮮の正史はともに、

事実は660年ごろに日本国が倭国を併合したというのである。

これは『記・紀』の方がウソであることは間違いない。

先には『記・紀』はできるだけ事実を書いている。

ということを知ったが、ここではウソの部分も確かにあるということを知ることができた。

これに似たことは他にもある。

仁徳天皇以下10代を『記・紀』は日本の天皇として加え、

しかも「悪王」として書き、その天皇たちの子孫は

『新撰姓氏録』では全部抹殺されている。

こうした事実との食違いを『記・紀』は沢山もっている。

それは一体なぜであろうか?。

何故そんなウソの部分を作ったのであろうか?。

その謎を解くカギは『記・紀』自身のもつ矛盾点にあるはすである。

それを解析してみよう。


出典:言語復原史学会「邪馬壹国大移動:49頁」
再び「神武東征」との関係

日向を出発した皇子が、

大和に攻めこんで天皇になり、日本を統一する。

この筋書きはお気づきのとおり「神武東征」そのものである。

しかし『日本書紀』はその東征を紀元前660年まで押しあげていた。

倭国と日本の合併による真の統一の年、670年を、

さかのぼること1330年である。

加治木義博はは先に「神武東征」のうち「磯城彦退治」の部分が、

3世紀の狗奴国男王による邪馬臺国政権の争奪事件であり、

それは『記・紀』のいう垂仁天皇と、崇神天皇との戦いであったことを、

『邪馬臺国の風雲』前出)で詳解しておいた。

しかし神武天皇による「長髄彦退治」の部分には合わないので、

その解決を後に残した。

いま天智天皇の「東征」が、真実の歴史として、よみがえった以上、

それを『記・紀』の「神武東征」のうち未解決の部分と照合して、

その関係を検付してみる興味と価値は充分ある。

神武天皇の敵は「饒速日の命(ニキハヤヒのミコト)」であった。

これはそれほど難しい謎ではない。

「饒」は「ニキ・ニギ」と読まれてきた。

同じ発音には「和」の字がある。

辞典には「和 二キ(接頭辞) 柔らかい。

穏やかな。細かい等の意。和御魂(ニキミタマ)。

和幣(ニキテ)。等」とある。

日本では「和」は「倭」と同じ意味の国名として使われた同音同意語である。

「速日」は、だれがみても「ソカ」に対する当て字である。

「饒・速日=和・速日」とは「倭・蘇我」の替え字に他ならない。

しかし「速日」がありもしない当て字で後世の創作かというと、そうでもない。

それは『日本書紀』の皇極二年十一月の部分に、

入鹿が山背の大兄の王を殺したことに関して、

当時流行した

「童謡(世情を風刺した歌を子供たちに歌わせる)」

この意味を解説した人が、

入鹿を「林の臣(ハヤシのオミ)」と呼び、

割注で「林臣、入鹿なり」と説明してある。

また『上宮聖徳法王帝説』の中では「林太郎」と書かれている。

「ハヤシ」と「ハヤヒ」は「シ」と「ヒ」だけ」の違いで、

それは方言差によるものであることは、もう幾つもの例を見てきた。

蘇我は早くから「速日」とも「林」とも書かれていたのである。


出典:言語復原史学会「邪馬壹国大移動:62頁」
天智天皇即位も辛酉年

『日本書紀』は、

神武天皇は紀元前660年の辛酉(かのと・とり)の年に

大和の橿原の宮で即位したとしている。

醍醐天皇の昌泰四年(901)に

三善(ミヨシ)清行が『革命勒文』を上申している。

それは今年は「辛酉」の年だが、

この干支の年には

「神武天皇即位」「天智天皇即位」「元正天皇の死」「光仁天皇の死」と

大きな事件が起こっているので、かねて心配していたところ、

案のじょう「菅原道真事件」が起こった。

今年何か悪いことがある前兆ではないか?と注意をうながしている。

その結果年号が『延喜(エンギ)』に改められた。

天智天皇即位年というのは唐の竜朔元年(661)の「辛酉年」である。

ただしそれは「称制」の年で『日本書紀』のいう「即位」の年ではない。

先にも話したが天智天皇は二度即位している。

一度は斉明天皇の死後、天皇の実権を握った時、

二度目はそれから7年後の『日本書紀』の即位記事である。

それははっきりと「七年の春正月、…天皇の位に即(つ)く」と書いてある。

神武天皇の方も「即位前七年」から始まっている。

王としての即位と統一国家の天皇としての即位との間に「七年のズレ」があった。

これも「神武天皇は天智天皇の分身」を立証している。

神武・天智の二『天皇紀』は一つの事実を記録しているのである。

明治政府は紀元前660年の元旦を

太陽暦に換算した2月11日を「紀元節」と決めた。

しかしその当時から、それに疑問をもったのは那珂通世氏である。

明治十一年(1878)の

『上代年代考』を始め『上世年紀考』などで『記・紀』の年数の奇妙なことを指摘。

神武即位年を辛酉と決めたのは中国の「干支が一巡する60年が21回目の辛酉年に、

天が大きな革命を起こさせる」という「辛酉(しんゆう)革命説」を信じて、

推古天皇九年の辛酉年から二十一回目の辛酉年を、

神武が革命をなしとげて即位した年にしたのだ。

と唱えた。

しかし推古天皇は天智天皇に敗れたのだから

その辛酉年は同じ年で紀元前660年は22回前になる。

この22という数字は天皇陵間の距離や、北緯36度線上の

もっと大きな距離に堅く守られている縄文時代以来の

古代日本人にとって重要な数字なのである。

(前出・『邪馬臺国の言葉』・『日本人のルーツ』参照)。


出典:言語復原史学会「JINMU:23頁」
なぜ、ジンム・プロブレムなのか?

さらにそれ以上のナゾ…ヒミコの死の原因になった戦争の状況や、

その敵・狗奴国男王とはだれだったのか?

この『ジンム・プロブレム』はそれに答える。…でもなぜ「ジンム」か?

それは彼が狗奴国男王だったというだけでなく、

神武東征は日本という国が生まれたときの大ロマンとして、

歴史上最も有名な事件の一つだからである。

しかしこれほど謎に満ちた歴史も、また珍しい。

それは現代だけでなく『記・紀』が編集された8世紀でも、すでに謎だった。

そしてそれ以来、全く解けなかった「文字どおり千年を超えるナゾ」の歴史なのである。

それは全世界の国々の歴史の中でも、

いまだに解けないでいる「難問中の難問」で、

まさにゴーティアン・ノット」クラスの超プロブレムなのだ。

しかしこの本では前の『ヒミコ』と同様、

その乱れた難問を、アレクサンドロス大王さながらに「一刀両断」して、

スカッと整理してしまった。

神武天皇は決して架空のヒーローではなく、

私たちと同じく実在した「生きた人間」だった。

けれど『記・紀』はそこでもいく人もの人物をゴチヤ交ぜにしている。

だから紀元前660年の神武天皇も実在するだけでなく、

はるか昔の事件も交ざっている。

だが何よりも圧巻(あつかん)は、ナント!?

「五人の天皇」が同時に実在して互いに死闘する事実だ!

どんなによくできたSFや推理小説も太刀打ちできない「マサカ!?」の連続。

「歴史の真実」の面白さに、

きっとあなたは「大きな知的満足」を満喫していただけると確信している。


出典:言語復原史学会「JINMU:253~254頁」
紀元は1万2000年、いく度もあった東征

これで[神武東征]も、[邪馬臺戦争]も、

どんなものだったか、その全体像がつかめたと思う。

そして『日本書紀』や『古事記』が貴重な記録をもっていたことも、

またよくお分かりになったと思う。

では日本の建国史は、

従来の紀元前660年から紀元241年まで

900年も短くなってしまったのであろうか?

それは過去のままの考えで、

神武天皇即位が日本の建国紀元だと[錯覚]したままならそうなる。

しかしそれは明治以前の遅れた建国観念で、いかにも幼稚な考えなのだ。

あなたは毎日新聞社の岡本さんが、アレクサンドロス伝説が、

ヤタガラスの話のルーツだったことを発見し、

『ヒミコ』でそのアレクサンドロスの『東征』が、

倭人を生みだし、ソナカの『東征』を生みだしたことをご存じである。

その人々は、みな、私たちと血を分けた先祖たちなのである。

そしてソナカの出たマガダ国も、アレクサンドロスのギリシャ世界帝国も、

それよりもまだ、

はるかに古いバビロン帝国もすべて『国家』だったことを疑うものはいない。

とすれば、私たちはなぜ、

いちばん新しい[神武即位]などにこだわる必要があるのだろう?

それはあまりにも、気の小さい、わけの分からない、奇妙な選択であって、

何も知らなかった昔ならいざ知らず、現在では非常識極まる話だ。

そしてさらに国土に重点を置くのなら、日本列島には、

それ以前にも殷(いん)人の一群が茨城県に国家をつくっていたし、

『倭人章』に出てくる旁国(ぼうこく)程度の国ならもっと古く、

世界最古の土器、それもすでに立体装飾をもった貼付文土器や、

西北九州から山形県まで発見されている細隆線土器の出る時代の、

1万2000年以前にまでさかのぼればいいのである。

こうしたことは、過去の文化の遅れた時代、

ことに歴史の真実が分からなかった時代には、

日本人というのは[この列島だけに湧いた特別な人間]だと錯覚していて、

すべてが列島内だけの、

ごく狭い視野でしか考えない[島国根性]と呼ばれた偏狭な見方しかできなかった。

だがそれは日本だけでなく、欧米諸国もそうだった。いや、そこでは、いまだにそうである。

しかし私たちは違う。

私たちは彼らのような遅れた『歴史観』はもう卒業しはじめているのだ。

全世界の中でも一番先に、世界の人々にさきがけて、

私たちは[大きな正しい国家観]を、今もったのである。

それは私たちの先祖が「移動した」という事実に教えられた。

[移動]には[国境]というバカげたものはついてこない。

それは土地にシガミついてあとに残る。

だから[国]というのは土地ではない。

[人]なのだ。

国民が国家の主体であって、国民がいなくなれば、そこは国ではなくなる。

政府だけあっても、国民がいなければ、それは国ではない。

国民があってこその国。

人がいてこその世界なのである。

「写真:日本の土器が世界最古」

熱ルミネッセンス法など幾通りもの年代測定で、

これらの土器が1万2000年前から日本列島各地で作られていたことが分かった。

世界最古である。

しかも現代作家顔負けの高い芸術性をもっているのだ!

文明のルーツは日本か!?


出典:言語復原史学会「WAJIN:201~204頁」
あばかれた「邪馬台国・畿内説」の正体

これで三角緑神獣鏡が、ヒミコとも、魏の国とも、

なんの関係もなかったことが確認できた。

だからもうそれを問題にする必要はないのであろうか?

ではなぜ、そんなものが重要視されたのかを、ここでふりかえって考えてみよう。

三角縁神獣鏡が重大祝されたのは、それがヒミコの時代の鏡で、

一見、魏で造られたと思わせる特徴があり、

しかも近畿を中心にした範囲に広く分布していたからである。

それはいかにも奈良の大和(やまと)政権が統一国家をつくり始めた状況のようにみえ、

「邪馬台国畿内説」を決定的に立証するように見えたからでもある。

だが内藤虎次郎が唱え始めた、その「邪馬台国畿内説」は、

かんじんの『魏書倭人章』の本文には全然あわない、

邪馬臺(だい)国とも邪馬壹(いち)国とも完全に無関係な、

ただ「邪馬臺はヤマトとも読める」ということだけを、

唯一の主張点にした、ごく幼稚な「素人説」だった。

ところがそれは紀元前660年に、

神武天皇が奈良の橿原(かしはら)で、

大日本帝国を創業したと信じこんで、

それを軍国主義の拠(よ)りどころにしていた明治の政治家には都合がよかった。

それは、「3世紀のヒミコ政権が、近畿に実在したということは、

その先祖の神武天皇が実在したという証拠である。

それ以来ずっと外敵に侵されたことのない大日本帝国を、

国民は生命を捧げて守る義務があるのだ」

といつて民主化要求を弾圧し、軍備強化の口実に使えたからである。

「事実」として「歴史」を突きつけられては、国民は反論できなくなる。

まんまと軍人と兵器産業を中核にした死の商人の政治屋どもに

「死の独裁権」を与えてしまったのだ。

もちろんそのためには天皇を「生きた証拠」として利用する必要があった。

そこで「忠君愛国」という彼ら本位の考え方を強要したり、

「忠孝仁義礼智信」を強制する儒教を幼い小学生のうちから

「修身」と称して叩きこんだりし、

「徴兵(ちょうへい)」で20歳になればイヤでも軍隊に強制収容して、

「侵略と殺人」技術を叩きこみ、彼らの利益を守る殺人ロボットにしたのである。

とても人権とか、人類愛とかいうようなものではない。

すべてを私欲に奉仕させたのだ。

当時の男性は「一銭五度」と呼ばれた。

一銭五厘はハガキ一枚の値段である。

それに召集令状と刷って名前を書きこんだもの一枚で、

私たちは呼びだされ死ぬまでこき使われた。

それは「一銭五厘で買える奴隷(どれい)」という

悲惨きわまりない代名詞だったのである。

軍隊生活の体験のない皆さんは、

それがどんなに非人道的なものかご存じない。

だから「軍神○○○○」などという愚かな本が、

いまだに臆面(おくめん)もなく出版されたり、

幼稚な劇画作家がカッコイイつもりでマンガ本に載せたりする。

それとまったく同じものが、

そうした軍国主義を支えた「邪馬台国・大和(やまと)説」だったのである。

歴史というものが、私たちにとって「どうでもいい」ものかどうか、

よくおわかりいただけたと思う。

では「三角縁神獣鏡」の問題はこれで片づいたのだろうか?

いや、まだヒミコとは無関係で、

魏で造られたものでも中国で造られたものでもない、とわかっただけである。

そんなことは私たちには、初めからわかっていたことである。

ヒミコ政権は近畿になんかなかったし、たとえヒミコが鏡を受けとったとしても、

その政権はアッというまに消滅してしまっている。

それがどうしてその時代に、遠く離れた近畿なんか征服して、

広大な地域に統一国家まで築くことができようか。

そんなカがあったのなら、ヒミコは死ぬことはなかったのである。

「三角縁神獣鏡」は、ヒミコ政権とは無関係でも、

私たちの求めている日本建国史にとっては重要な研究対象である。

その全貌を速やかに明らかにする必要がある。

それは中国製でないことがわかったが、それなら、それは誰が?

何のために? どこで?造ったものなのだろう?

「三角縁神獣鏡」は日本で造られたという「国産説」と呼ばれるものがある。

次章で、それから検討してみよう。


出典:言語復原史学会「TAIKA:76~78頁」
『日本書紀』の編集は「焚書」の日本版

天武以後の『日本書紀』編集は、

始皇の「焚書(ふんしょ)」の日本版だったということになる。

こう申しあげると、

「いや、『古事記』があるじゃないか」という方がまだいるかもしれない。

従来、『古事記』を『日本書紀』よりも先に生まれた史書だと錯覚していたが、

加治木義博は徹底的な検討を加えた結果、

『古事記』は『日本書紀』をもとにした後世のものであることを、

数十年前から繰り返し説明してきた。

それは倭の女王と日本の男王を交互に並べていること、

神武天皇からの天皇が『日本書紀』と同じ配列になっていることの二点だけでも、

私の答えが正しいことを立証している。

かりにそれが『日本書紀』より先に書かれたものだったら、編集に25年もかけて、

あちらこちら直しながらやっと完成した『日本書紀』と同じになるはずがない。

その結果完成した内容を太安万侶(おおのやすまろ)が

8年以前に完全に「予知していた」のなら、

彼はかつて歴史に現れたことのない「超能力者」だったことになる。

これでなぜ大化改新問題に始皇帝の話が必要だったか、おわかりいただけたと思う。

最初に申しあげたとおり、天武天皇から書き始めたのは、

先に『日本書紀』の本当の姿を知っておく必要があったからで、

従来のように『日本書紀』を「証拠」だと誤解していたのでは、

とても大化改新の真相も、

それ以前の五彩圏の実在も、

ヒミコ以後の4、5世紀の本当の歴史も、

なに一つ正確には理解できないからである。

どんなに「解釈」してみても、ゼロからはゼロしか生まれない。

日本の過去の建国史学は「ゼロ」だったのである。

しかし『日本書紀』には、本当の歴史を復原するヒントがたくさん隠れている。

たとえば神武天皇は紀元前660年に即位したことになって心る。

このままでは「ウソでゼロ」だが、それを『魏志東夷伝』などと照合すると、

一致するものが大量にみつかって、その即位も241年だったことがわかった

(『ジンム』参照)。

こうした復元操作によって『日本書紀』も初めてゼロではなくなるのである。

「倭人豪族の記録没収」

『日本書紀』(持続天皇五年八月〕天皇は

旧倭人18氏がもっている記録一切を、

強制的に提出させて全部没収『日本書紀 だけ残した。

敗北者は

大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、謄部、春日、上毛野、大伴、紀、阿部、佐伯、釆女、

穂積、阿曇、平群、羽田の18氏である。

これで倭人の奈良負け残り組の顔ぶれがはっきりわかる。

『日本書紀』

詔十八氏

【大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。謄部。春日。上毛野。大伴。

紀、阿部。佐伯。釆女。穂積。阿曇。平群。羽田。】上進祖等纂記。


出典:言語復原史学会「TAIKA:176~177頁」
建国をめざした神武東征は「天智東征」のことか?

さて天智天皇の出身地が鹿児島県だったとなると、

「日向を出発した皇子が、奈良に攻めこんで日本を統一して天皇になった」

というこの筋書きは、

もうお気づきのとおり「神武東征」そのものである。

しかし『記・紀』では日本は神武天皇の時に統一され、

それ以来ずっと「一つの国」として、

奈良県に都していたことになっているのに、

中国、朝鮮の正史はともに、

事実は670年ごろに「日本国が倭国を併合した」と記録していた。

これはウソを書く必要のない中国・朝鮮の『正史』に比べて、

先に詳しく検討ずみのように、

ウソを書く必要があった天智・天武の二天皇が、

そのために編集し始めた『日本書紀』の方が、

ウソであることは間違いない。

『日本書紀』はその東征を紀元前660年まで押しあげていた。

倭国と日本の合併による統一の年、670年をさかのぼること1330年である。

その長髄彦側の大王は「饒速日(にぎはやひ)の命」であった。

神武=天智という構図がわかった今では、これはそれほど難しい謎ではない。

「饒」の字は「ニキ・ニギ」と読む。同じ発音には「和」の字がある。

たいていの辞典には

「和 ニキ(接頭辞) 柔らかい。穏やかな。細かい等の意。和御魂(みたま)。和幣(て)。等」

と書いてある。

日本ではいつからか「和」は「倭」と同じ意味の国名として使われた同音同意語である。

「速日」は誰がみても「ソカ」への当て字である。

だとすれば「饒(ニキ)・速日」は「和(ニキ)・速日」で、

それは「倭(ワ)・蘇我」の替え字だったことがわかる。

しかし「速日」は単なる替え字で実態のない当て字または後世の創作かというと、

そうでもない。

それは『日本書紀』[孝極天皇二年二月]の部分に、

蘇我入鹿が山背大兄王を殺したとき、

流行した

「童謡(世情を風刺した歌を子供たちに歌わせるもの)」の意味を解説した人物が、

入鹿を「林の臣」と呼んでいて、割り注に「林臣、入鹿なり」と説明してある。

また『上宮聖徳法王帝説』の中では「林太郎」と書かれている。

「ハヤシ」と「ハヤヒ」は「シ」と「ヒ」だけの違いで、

それが南九州と関東にみられる方言差であることは、もういくつもの例で常識になっている。

蘇我は早くから「速日」とも「林」とも書かれていたのである。


出典:言語復原史学会「TAIKA:242頁」
神武即位地の橿原は福岡市の香椎

『日本書紀』は、神武天皇は

紀元前660年の辛酉(しんゆう)(かのと・とり)の年に

大和の橿原の宮で即位したとしている。

この辛酉はヒミコの死ぬ直前の魏の正始二年(241)で、

ヒミコ政権を倒して邪馬壹国を建国した垂仁天皇

(もと高句麗山上(やまかみ)王・位宮=伊支馬(いちま)が、

[神武天皇紀]の大半の主人公なので、そちらを採用するなら、

その241年が、いわゆる「神武天皇建国記念日」だと、

『ジンム』でお話ししておいた。

「大和」をヤマトと読むなら、邪馬臺国をヤマトと読んだ人間もいるのだから、

これはこの垂仁天皇の即位のほうに合うということになるからだ。

しかし厳密にいうと、この241年には垂仁天皇はまだ邪馬臺国を倒していない。

ただヤマトが合うというだけだが、それも即位地だというわけにはいかない。

その点、天智天皇のほうが、この「辛酉年即位」には完全に合う。

間違いなく、五彩圏連邦を倒したあとの「辛酉(661)」に即位しているからだ。

しかし大和の橿原ではない。その前の年の三月に「近江」に都を移したばかりである。

「カシワラ」は前天皇の都の地名だから、

それは斉明~推古の名乗りの中にあるはずである。

両方にあるのは「カシー=香推」だった。

それに「ワラ=倭国」を足すと「橿原」ができる。

香椎は福岡市だから、

大和に合わせて別挑(べつあつら)えの当て字をしたのだと確認できる。


出典:言語復原史学会「TAIKA:243~244頁」
天智と神武の即位年が完全一致

これで「神武天皇製作」のカラクリが、また一つ完全に解明できた。

どちらにしても奈良県の橿原とは無関係である。

これは神武建国を創作するために、邪馬臺(だい)を唐音でヤマトと読んで、

それに天武天皇時代以後の「ヤマト=大和」の

文字を使ったものだとはっきりわかっている。

天智と垂仁で合成された「架空の神武天皇」に、即位地なんかあるはずがないのだ。

しかしこの「建国記念」の年は、古来いろいろ問題になってきた。

醍醐天皇の昌泰四年(901)に三善清行が

『革命勘文(かんもん)』というものを上申している。

それは「今年は辛酉年だが、

この干支の年には神武天皇即位、天智天皇即位、元正天皇の死、光仁天皇の死と

大きな事件が起こっているので、かねて心配していたところ、

案のじょう菅原道実事件が起こった。

今年はまだ何か悪いことがある前兆ではあるまいか」というものである。

その結果年号を『延喜』に改めた

(縁起が悪いから縁起をかついで延喜に改めた!?)。

天智天皇即位年というのは661年で

唐の竜朔(りゅうさく)元年にあたる「辛酉」である。

ただしそれは「称制(しょうせい)」の年で

「日本書紀Jのいう「即位」の年ではない。

『日本書紀』では、奇妙なことに天智天皇は「二度」即位したことになっている。

一度は斉明天皇の死後、実権を握った時、二度目はそれから7年後の即位の時。

それははっきりと

「(天智天皇)七年の春正月、……天皇の位に即く」と書いてある。

そして神武天皇の方も「即位前七年」から始まっている。

王としての即位と統一国家の天皇としての即位の間に「7年のズレ」があったからだ。

これも「神武天皇は天智天皇の分身」だと立証している。

神武・天智と二つに分裂したが、元は一つの事実の記録なのである。

明治政府は、新しい国を近代国家らしく体面を整えようと、

急ごしらえで紀元前660年の元旦を太陽暦に換算した

2月11日を「紀元節」ということに決めた。

しかしその当時、それに疑問をもって、その制定に反対したのは、

後に東京帝国大学に東洋史学科を作った

那珂通世(なかみちよ)(1851~1908)である。

彼は明治11年(1878)発表の『上代年代考』を始め『上世年紀考』などで

『記・紀』の年数の奇妙なことを指摘。

神武即位年を辛酉と決めたのは、

中国の

「干支が一巡する60年が21回目の辛酉年に、天が大きな革命を起こさせる」

という「辛酉革命説」を信じて、

推古天皇九年の辛酉年から21回前の辛酉年を、

神武が革命をなしとげて即位した年にしたのだ、と唱えた。

しかしもう私たちは彼より詳しい。

推古は天智に敗れたのだから、

その辛酉年は同じ661年で紀元前660年は22回前になる。

この22という数字は、

天皇陵間の距離や北緯36度線上のもっと大きな

直線距離2200キロメートルを

測量して信仰していた縄文時代の人々以来の、

古代日本人にとって無上の神聖な数字なのである

(『コフン』『日本人のルーツ』参照)。


出典:言語復原史学会「YAMATO:53~56頁」
なぜ『日本書紀』はありのままの史実を書けなかったのか?

こうしたことであなたは『日本書紀』が、様々な政治的制約に阻まれて、

史実を自然にそのまま記録した史書ではなかったことが、よくおわかりになったと思う。

なぜそんなことになったのか、その理由をわかりやすく箇条書きにしてみよう。

① それまで小国日本と新羅の王「白日別(ヒラチビチ)」だった天智天皇は、

661年に五彩圏連邦の首長国・当時大阪にあった百済倭国(フジワラ)を滅ぼした。

これがいわゆる「大化改新」の真相である。

② だが天武以後の『日本書紀』編集時には、

もう天智天皇の征服結果は御破算になっていた。

彼が始めた大津政権は滅びて、天武天皇の飛鳥政権になっていた。

だから『日本書紀』の編集者たちからみれば、彼・天智は「敵」だった。

③ しかし史実は史実である。ことに凄絶を極めた枚方大戦は人々の記憶に新しい。

④ だからこれを書かなければどういうことになるか。

国民はもちろん、朝鮮や中国などにも『日本書紀』は歴史書としての信用を失ってしまう。

⑤ また倭国滅亡後の「大日本国」という立場からみれば、

その天智による紀元661年の

政権奪取が「建国」なのだから、その記念すべき大歴史を除外するわけにはいかない。

⑥ では、どうすればこの「建国の大事件」を『日本書紀』に入れることができるか?

入れるとすれば古代小国日本の建国の歴史ということにすれば、

大日本国の歴史は非常に古いことになるし、

また彼らからみて現代に起こった事件

7世紀の枚方大戦による倭国滅亡も時代の違いさえ我慢すれば、

一応、事跡の記録はできるから、その記念すべき

大勝利も記録に入り、すべてがうまくいく。

⑦ その間に生じる大きな時間的へだたりも、

それは国の歴史がそれだけ古く偉大だということで御破算にできる問題だし、

また永続した歴史をもつということになれば、

世界にも類のない権威ある政権ということで、

外国のあなどりを防ぎ、信頼性を高めることになる。

この利害を計算すれば、時代の間違いなど問題にもならない。

⑧ そこで、その実行方法として、

3世紀の卑弥呼戦争などと混合して[神武天皇紀]を仕立て上げた。

これが7世紀の頭脳がしぼり出した結論なのである。

⑨ 次に本当は白肩(枚方)の津の事件だった白村江の戦いも、

神武時代と天智時代とに二分して、

7世紀のほうは、いかにも朝鮮半島での出来事にみえるように

構成してしまった。

⑩ そして天智=神武東征の時期は

紀元後661年をひっくり返して、同じ辛酉の紀元前660年の出来事にした。

何と、1320年もサバを読んでしまったのである!

しかしこうしたことは珍しいことではない。

当時のことを歴史化した

朝鮮の『三国史記』に登場する国々の建国もまた、

すべてが、はるか太古に押し上げられて神話化されている。

この朝鮮の正史は、

先に中国で観世音菩薩の話を聞かされた

高麗の雀致遠が主になって9世紀にまとめたものなのだが、

日本人と同じ血の流れた朝鮮半島の人々も、

やはり先祖の事跡をなるべく古い時代にもっていこうとするクセをもっていた。

これで大阪大戦の秘密は「名乗り」によって解けた。

『日向神話』や「神武東征」の真相もくっきりと明らかになった。

そして『日本書紀』がどんなふうに構成されたかという秘密も垣間見せてくれた。

1320年もサバを読んだ「大日本建国」に至るまで……。


出典:言語復原史学会「YAMATO:171頁」
倭国政権の残党は東国へ逃れた

「神武と戦った兄ウカシの子孫」

昭和8年1月に出た

小谷部全一郎の『日本及び日本国民之起源』という本は

加治木義博が読んだ歴史書の第1号であるが、

日本人はユダヤ人の子孫だというもので、

天皇皇后の天覧、台覧。

右翼の総裁・頭山満の題字。

公爵・近衛篤磨学習院院長、杉浦重剛、坪井正五郎などとの親交と献辞。

打越与三郎の序文と、

当時の右翼思想というものがどんなものだったかを裏書きしている点でも、

非常に貴重な本である。

その写真ページのトップが左の写真で、人物は左端から

「小谷部氏、旧蝦夷酋長エウカシ、副酋長オトウカシ、

国史のいわゆる兄宇加斯・弟宇加斯という解説がついている。

氏のこの本が与えた影響は強く、

今も全国の地名をアイヌ語で解説する人があるが、

それも氏の主張の受売りである。

それの当否はここでは問題にしないが、

北海道に移動した倭人の一部が

アイヌの人々になったという点では氏の見解は正しかった。

ただその時代が紀元前660年のころと信じていたものが、

事実は紀元後661年だったという誤差が命とりになったが、

倭国首脳がどんな人々で構成されていたかを、

この写真は何よりもはっきりと立証してくれる。


出典:言語復原史学会「YAMATO:198頁」
新羅王が消えると同時に天智が出現

『三国史記』には[太宗(たいそう)紀]の八年六月の記事の終わりに、

たった二字「王薨(こうず)」と書いてある。

これは金春秋のことで、

彼はその諡号(おくりな)を「太宗」とつけられたほどの新羅最大の偉人である。

その記事には、見た夢の話まで長々と書かれている。

それが、なぜ死んだか? 何で死んだのか? どこで死んだのか?

どんな死にかただったのか? 

といった、普通なら無理にでも書くであろうことをいっさい書いてない。

この奇妙きわまる記事は、一体なにを意味しているのだろう……。

それはその年が西暦で何年だったかをみれば一度に謎が解ける。

それは661年である。

この年は神武天皇が即位した「辛酉(しんゆう)」の年で、

斉明天皇が死んで天智天皇が「称制完皇に代って政務をとること)」した年である。

新羅で太宗王・金春秋が姿を消すと同時に、

日本にまったく同じ名をもった天智天皇が現れている。

このことは、金春秋は死んだのではなく、王位を息子の文武王に譲り、

朝鮮半島は息子にまかせておいて、

自分は日本列島支配に遠征したことを物語っているのである。

だから神武天皇の即位年と書かれている

「辛酉」の年もまた正確な記録だったのである。

ただし『日本書紀』はそれをひっくり返して、

紀元前660年の「辛酉」だということにしてしまった。

数字は同じで覚えやすくていいが、

1320年もサバを読んでしまったのだ。

このことは天智天皇も神武天皇の重要部分に「参加」していることを教えている。

だが今もいった通り、

彼は朝鮮半島から出発したのであって、

本当に高千穂の宮から出発した神武天皇は天武天皇だった。

だから淡海三船(おうみのみふね)はそれも知っていて、

神武と天武の双方に「武」の字をつけたのである。


出典:言語復原史学会「講演会:1994.10.30」
天皇陵関連の参考事項

倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国

ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から

台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)

奄美では国名は…ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。

これが「大国主」の名の始まりで、

7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、大化までは継続した。

しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。

さらに大分県宇佐に移動。

『宋書』の倭国伝に記録された倭王・武の視点はこの宇佐にある。

その後、さらに四国愛媛に移動、次第に讃岐・阿波へと拡大した。

これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。

当時倭の五王時代の始まった4世紀で、

さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。

大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、

これは沖縄語の「キノ国」のこと。

この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、

これは大阪と紀州を取ったことを意味している。

天皇名は去来穂別=履中天皇。

去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。

二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。

和泉の王が済(イスミ)。

河内(コウチ)の王が「興」。

武(タケシ)にいたって

ヤット奈良県に入って高市(タケチ)国を始めた。

これが神武奈良東征の原型になる。

その神武(カム・タケシ)という当て字は、この倭王・武を指している。

だが、『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が混入している。

その神武東征の内容は、

3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが最大のウェイトを占めているし、

さらに遡って、

紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。

これが神武紀元を紀元前660年に決めさせた原因である。

日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。

基礎に一か所、駄目なところがあれば、全てが崩壊してしまう。

これは何も歴史研究だけが特別なのではない。

それは現実が教える。

近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。

それは建築の進歩による。

同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、それを立証している。

人生も、研究もすべて同じことなのだ。

キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、自分の未来も、

ずっと以前から明瞭に見えているものである。

よく考えることをしないで「幸福を神に祈っても駄目」である。

なぜなら「神」は実在し、「霊」も長く死なずに生き続けている。

それはDNAの中にいるのである。

「よく考え、瞑想して」その神や霊と話さなければ、神も霊も教えようがない。

他のことに夢中になっていては悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。

(1994.10.30 レジメ)


出典:言語復原史学会「大学講義録17:25頁」
副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓

倭の名がウワイという仏教語名なのと同じく、

新羅の名もシラバッガ教徒から生まれた。

新羅のあった韓国慶州の円墳から鏡が出土しない謎もこれで晴れたし、

「鏡が副葬されている古墳は倭人=仏教徒のもの」だったことも、

絶対的な力で不動の結論になった。

だから鏡を副葬している古墳の四国・中国以東への分布は、

卑弥呼政権が位宮らに国土を奪われた後、

その残党である「女王制仏教徒国家の国民=倭人」が、

宮崎県=日向に倭女(ウワイ)王国政権を移したあと、

南九州から北へ東へと拡大していった動かない証拠なのだ。

それが仮に神武天皇東征によるとする在来の考え通りだったのなら、

古墳時代は4世紀からでなく、もっと早い時代、

『日本書紀』が書く紀元前660年はムリでも、

せめそ帥升王(スサノオ)のいた1世紀初めから奈良に、

鏡を副葬した古墳群が、

宮崎県の西都之原ていどには造られていなければならないが、

現実には現在の、まだ怪しい考古学者の時代判断でも、

最大限までさかのぼっても3世紀後半以前にできたものは、

全然存在しないし痕跡すらない。

だから鏡を副葬した古墳のない時代の奈良には倭人(うわい)はいない。

そこは雄略天皇からやっと倭国の中にはいり、

推古・皇極・斉明といったアスカ仏教女帝時代へと続く。

アスカとは、「アショカ王の都」という名であり、

そこに残る当時の遺物は全て仏教遺物なのである。


出典:言語復原史学会「大学講義録27:15頁」
天皇名の命名エピソードは天武の偽装工作

この該当者は、反正天皇=倭王・済の時代を想定したもので、

その解釈は、

水間が半島の植民地・任那の母国だ、という形になっていることにご注目願いたい。

繰り返しになるが水間は

「瑞歯=ミズハ=水葉=スイバ=酸い葉」のバの発音がマに変わったもの。

馬のバとマと同じ方言差だから、名乗りのミズバは沖縄~大隅語。

地名のミズマは本土語ということになる。

(沖縄語は「お水」をウビーと発音する。

ウは「お」、ビーは「水」の「ミ」で、マ行がバ行になる)。

だからタジヒ=丹比・田尻と水間が彼の本拠地=倭国なのだ。

多遅比の瑞歯別という名乗りには、こんな意味があるのであって、

『記・紀』で異なってもいる当て字や、花や歯がどうこうしたという話は、

文字通り・「故事つけ」の出鱈目に過ぎない。

なぜそんな出鱈目が必要だったか?。

それは天皇たちの移動の真相を知られたくなかったからである。

天武天皇は、

「紀元前660年に神武天皇が奈良橿原で即位して以来、

天皇家は奈良に君臨した」という歴史を作り上げた以上、

本当は天皇たちが4~5世紀に

南九州から次第に移動して来た事実を知られては困る。

だから天皇の名乗りは地名ではないという命名理由が必要になったのである。

『古事記』は序文で

「帝紀および本辞、すでに正実に違い、多くの虚偽を加う」と言っているが、

どちらが正実・虚偽だったかは、いうまでもない。


出典:言語復原史学会「大学講義録34:19頁」
ヤマトを神武以来の国号にしたのは誰か?

確かに奈良はヤマトと呼ばれたが、

それは神武天皇時代からどころか、

天武天皇出現まで、

そんな地名が奈良につくとは、

想像もできなかった地名だった。

それは大化改新という予測不能の突発戦争の生み出した蘇我氏倭国の滅亡。

それを逆手(さかて)に取って南九州から山人を率いて東征し、

大津政権を倒して旧倭国政権を「孫継ぎ」した天武天皇が、

初めてはるばる運んで来た、

いわば奈良とは無縁だった名前だった。

こうして「一瞬一瞬」眼まぐるしく変転した歴史が奇跡的に7世紀後半に、

奈良にヤマトの名をつけたのであって、

紀元前後から8世紀まで、

えんえんと続いて来た地名でも、

政権名でもなかったのである。

この8世紀前半だけの、

それも正味30年たらずの国号に過ぎなかったヤマトを、

日本の史学者が全員、

紀元前後、または『日本書紀』が書く

紀元前660年の神武天皇即位以後ずっと、

切れ目なく続いていた国号だと思い込んでいたのは一体なぜか?

その責任は誰にあるのか?。

それはこの講座の総括として、是非、お話ししておかねばならない問題である。

「日本」に「ヤマト」と振り仮名をした最も古い文献は、

平安時代前期、52代嵯峨(さが)天皇の弘仁(こうにん)4年(812年)前後に、

『日本書紀』の正しい読み方を講義させた時の原稿として伝わる、

多人長(おおのひとなが)の

『日本書紀私記(しき)』(別名日本紀私記』・『弘仁私記』)である。


出典:言語復原史学会「大学院講義録08:15頁」
考古学界の大変身?ヤマト『政権交替』展!

だが、私たちの努力は無駄ではなかった。

いま奈良県立・橿原考古学研究所の博物館では秋季特別展を開いているが、

そのタイトルは、なんと!

『政権交替』-古墳時代前期後半のヤマト-である(20002/11/24)。

その図録の巻頭で河上邦彦館長はこう述べている。

「最近の研究では大和政権が3世紀初め頃に成立したと考えています」。

戦前は、神武天皇が紀元前660年に即位して大和政権を創始した聖地として、

太平洋戦争に一役買った橿原市だったが、

戦後から近年まではそれが訂正されて紀元前後に即位したことになっていた。

それが今また、さらに変更されて「3世紀初め頃に成立した」と信じているというのである。

だとすればこれは2世紀から3世紀にかけて実在したことの確かな卑弥呼は

大和政権とは無関係だという宣言なのである。

卑弥呼は神武天皇の子孫、孝霊天皇の皇女で、

『記・紀』では倭迩迩日百襲姫というのがその名乗りとされ、

その墓は同考古学研究所が担当する地域にある「箸基古墳」だとされてきた。

これもまた、すべてが否定されてしまうのである。

それ以上に神武天皇の存在そのものが否定されている。

近鉄・橿原神宮前駅の近くにある同研究所が、

隣接する橿原神宮と畝傍陵の存在まで否定してしまったのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録11:26頁」
孤立・戦争・亡国を生む『記・紀』編纂のツケ

淡海の三船はそれにさらに允恭(いんぎょう)と漢風諡号(おくりな)した。

「イン=居ん」であり、「インギョウ=隠形」である。

これで彼もまた、この時の政権交替の実情をよく知っていたことがわかる。

この例だけでも充分みえるように、

『記・紀』は、たいへんな敵味方を親子だとして平気でいる『正史』なのである。

繰り返すが、それはあくまで対中国向け宣伝文書だったから、修飾だらけである。

その最大の強調点は天皇家政権の歴史の長久を相手に印象づけることで、

それは必然的に建国を古く見せようと神武天皇即位を紀元前660年にし、

それ以後、政変は皆無の「万世一系」だとした。

そのため敵であった卑弥呼と崇神天皇もその中に組み込み、

内戦に明け暮れた景行天皇も仁徳天皇も欽明・敏達天皇も、天智・天武天皇も、

みんな引っくるめて万世一系にしてしまった。

それは確かに国策上は重要なことで、責めることはできないが、

それが正確な歴史でなく、いかがわしい作り物だというボロが至る所で出ている。

そんなものを明治以降の国家主義者らが悪用して、

国策だと津田左右吉氏らの『記・紀』批判者を弾圧したが、

極端な天皇制ナショナリズムが全人類に爪弾きされるのは当然だから、

大日本帝国は必然的に孤立無援に陥いり、必然的に崩壊してしまった。

天武天皇らの小細工が、早かれ遅かれ天皇家政権を潰す宿命を、

重くみじめに背負わせていたのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録12:10頁」
『記・紀』編纂の目的が凝集している神武天皇記

ところが『記・紀』はそれらを、1度きりの神武東征だったとしている。

それは何故か?。

紀元前660年という太古に建国して以来一度も革命などなかった。

我が国は神仏に加護された東海の聖地。

万世一系をつらぬいてきた聖人君子国であると強調することで、

中国の征服欲をスポイルしようというのが、

天武天皇らの『記・紀』編纂の主目的だったからである。

彼らが正統の皇族であり、主権者だというのは国内向けの主張で、

これは弘文天皇(伊賀大友皇子)を倒して政権を取った現実が周知のものである以上、

実力が決定することであり、いくら血統を主張しても何にもならない。

だからこちらは副目的でしかなかったのだ。

そのために神武天皇の記事は、いかに南九州から奈良まで、

一挙に大移動して首都を確保したかというスタイルに仕上げられた。

前段は東征コースの地名の羅列が芯になっている。

高千穂の宮。

豊国宇沙。

竺紫岡田の宮。

阿岐多祁理の宮。

吉備高島の宮。

速吸門。

浪速の渡。

白肩の津。

楯津。

日下。

血沼の海。

紀国男の水門。

熊野村。

葦原中国。

吉野河。

阿陀。

しかしそれだけでは史書の体裁をなさないので、要所要所の地名に由来を書き加えてある。

それは今、私たちが地名を「史実の証拠」として使うのと同じ発想に基づいている。

ところがよく見ると、神武天皇記の全文がそれだけで終わっているといっていい。


出典:言語復原史学会「大学院講義録14:13頁」
五瀬の命は古墳時代人だという証拠

よく注意して読むと、それらは古代の木簡に書かれていた短い記録の記事を、

寄せ集めて継ぎ合わしたものでできていることが読み取れる。

だから元になった記録は今みる『古事記』の通りのものではなくて、

バラバラになっていたものを継ぎ合わせたものだったことがわかるので、

この五瀬の命の項は前の槁根津日子の項とも、それ以前の項とも、

必ずしも一連のものではなかったのだということを、よく認識しておかないと、

正しい史実は見出だせない。

では、この五瀬の命の部分は、どんな史実を記録したものだったのだろうか?。

彼はその傷が悪化して和歌山で死に、いまも窯(かま)山神社に祭られているが、

『古事記』は彼が海で血を洗ったから「血沼(チヌ)の海」という名が生まれた、

という地名説話をつけ加えている。

そして紀之国の男の水門(みなと)で死んだので窯山の陵に葬ったとある。

窯山神社は「陵」なのである。

だからそれは古墳時代の事件であって3世紀より前ではなく、

ましてや紀元前660年当時の人ではないことが、

明確に記録されていることを見落としてはいけない。

すでに本講でもお話しし、拙著でも各所に、

神武天皇記事は複数の天皇たちの記録が混じり合っていることを、

証拠を挙げて指摘してきたが、この五瀬の命の項は、

その事実をさらに際立(きわだ)たせて教え、

立証している貴重な部分なのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録14:30頁」
紀元前660年の建国は真実だった

「発音は地域で変わる」、

「漢字は色々に読める」という常識を考慮に入れさえすれば、

こんなに鮮やかに史実が再現し、復元できるのである。

だから五王が名乗った百済の国は、それもまた移動し拡大を続けて、

文字は同じでも中身も発音も別々だったのである。

それは台湾を出発点にして5世紀には奈良に到り、京都に移り、

東京に遷都して現代に至った。

ギリシャ人が東洋に入ったのは、

アレクサンドロスのインド東征が最初だと考えている人が多いが、

紀元前6世紀以前に書かれた『ホメロス序章』には、

マレーから「日の大神の国タイナロン=臺国(タイナ)ロン」という名で

台湾の語源になった国名まで、

多くの地名が、それぞれ正確な位置に書かれていて、

古代ギリシャ人が台湾をよく知っており、

実際に往来して得た知識だったことを、

加治木義博著『誰が巨大古墳を造ったのか』64頁以下に、詳しく書いておいた。

このことでも古代ギリシャ人が我が国に来ていたことは疑えない。

しかもその人たちが、

応神天皇という「真の大和朝廷の皇祖」と確認できた人を出したのである。

紀元前12世紀まで続いた殷帝国が、

稲敷人が中国まで移住して建てた国だったのだから、

『日本書紀』が我が国の建国を紀元前660年だと書くのはこのギリシャ王朝の建国で、

それには高度の文明による真実の根拠があったのであり、

決して出鱈目な誇張ではないのだ。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:3頁」
虚構ではなかった紀元前660年の我が国建国

大学院講義録20号の年表には、もう一つ重大な我が国の建国問題が残っている。

「『日本書紀』が建国を紀元前660年だとしているのは大ウソだ」というのが、

明治以来の定説だからである。

『日本書紀』はそんなにもデタラメな『正史』で、無茶苦茶な史書だったのであろうか?。

ところがこの年表は、この大問題に、非常に適確な答を出してくれるのである。

660年の17年前、677年にフェニキヤが滅びている。

本来海洋民だったフェニキヤ人は、

そのため大移動して古代ギリシャ人に混入したのだから、

我が国まできた集団があった可能性もある。

カドモスが都市国家テーバイを建国し、

それを記念して新年に門松をたてる行事が今も続いているし、

他にも幾重にも証拠が見つかっているので、否定はできない。

またフェニキヤを滅ぼしたアッシリヤも

612年に新バビロン帝国に敗れて併合されている。

この新バビロンは625年に帝国になったが、

そのとき突然、国が生れたわけではない。

それ以前に小国時代がある。

その建国が660年で、それを建国時としたとしても無理ではない。

この場合もフェニキヤはバビロンの一部なのだから、

我が国にきたフェニキヤ人はその建国を自分たちの国の建国としていてもおかしくはない。

それが神武紀元とされた可能性がある。

いまでは、どこからみても「660年建国はウソだ」とはいえなくなっているのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:4頁」
誰がいつまでも「田舎紛争建国」を信じるか

しかし、それは「初代の王が即位した年」というものであって。

それを「神武天皇」なる特定の人物の事跡だと主張すると、まるでウソになってしまう。

在来の史学や好戦主義者は、このウソの部分を巡って論争を繰り返している。

だから奈良県の田舎の地域紛争にすぎない貧弱きわまる建国史観が、

21世紀になっても紛争のタネになっていたのである。

この紛争では、どちら側に分(ぶ)があるかといえば、

紀元前660年の奈良建国を否定してきた唯物史観側が勝っている。

それだけでなく、たとえ皇国史観の側が勝ったとしても、

私たちの祖国の建国を、田舎の土地争奪紛争だと主張することが、

皇祖皇宗を不当に侮辱(ぶじょく)する事実を無視することはできない。

それは単に皇室だけでなく、私たち1億数千万の日本人全体に対する、

絶対に許容できない重大な人権侵害なのである。

いかに最近の国民の一部が哀れな知能状態だといっても、

それは意識して題材を低俗化させている、低劣なテレビ制作者が、

人為的に造りだした印象であって、

この程度のことが解らないほど日本人全体が愚かなわけがない。

ごく近い将来には、私たちの知っている歴史の真実が常識化することは疑いない。

そして人類愛に燃え、エネルギーに溢れながら、何をすればいいのか解らない人は多い。

私たちは彼等を1日も早く啓蒙して、世界の檜舞台に送りださねばならないのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:5頁」
不当に劣等視してきた自虐説『邪馬台国大和説』

だが、まだ、このフェニキヤ建国の可能性を疑う人々があるとすれば、

今から3000年前に我が国の稲敷と中国の殷墟の双方に、

全く同じ信仰による20を超す同じモチーフをもつ遺物『人面注口器』を遺し、

正確な北緯36度線上に、

この2地点を結ぶキッカリ2200kmの距離を測定し配置した

凄い文明の持ち主・太古日本列島人の実在は動かないことをお教えしよう。

紀元前660年より4世紀前といえば、今から戦国時代に遡る。

その古い時代に稲敷の人は、

すでにフェニキヤよりもさらに古いカルデア文明を、

見事に使いこなしていたのである。

在来の「常識」神武建国地・奈良の石余(いわれ)や橿原は、

この海上の2200血の距離に比べれば近所といっていいほど稲敷に近い。

殷の建国に遅れること4世紀以上経った660年にそこにある小村落を奪った、

それが我が国の建国だといって誇るというのは、どう考えても余りにも野蛮で、

落差がひどすぎる、侮蔑にも程があると憤りを覚える程だ。

『邪馬台国大和説』は、その奈良に邪馬台国があったと主張しているが、

その倭人が着ている衣服は、男女ともギリシャ衣装なのである。

そんな文化がどうして奈良にあるのか?、その説では全然、説明できない。

ところがギリシャやフェニキヤなどとの明白な交流を理解できている

私たちは1つの疑惑も残さずに、すべて完全に納得でき、説明できるのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:17頁」
マガダ国の誕生も紀元前660年ころ

B.C.E. 660年頃 インドに、マガダ。コーサラ、アヴアンチイ、
ヴァッツァなど小国群誕生。

B.C.E. 550年頃 マガダ強大になり、インド統一。
327年にアレクサンドロスに滅ぼされる。 

B.C.E. 321年  新しいマダダ国誕生。チャンドラグブタのマウリヤ
(孔雀)王朝はじまる。

B.C.E. 250年  マガダ国アソカ王、4道に仏教宣布団を派遣。
東方を担当したソナカ長老の一族は、東南アジアを
                経て、卑弥呼時代には我が国に達していた。

これを見ると前マガダが、紀元前660年前後に建国している。

これに比べると、そのころ生まれた新バビロンの方は、やや曖昧である。

だが、我が国の歴史ではカリエン人の高族が、B.C.E.1500年代にやってきて、

先住民になっていた後に、ギリシャ人がやって来てイオニヤ政権を樹(た)て、

隼人に都市国家ミケーネをつくっていたことは間違いない。

そのあとにソナカ=仲哀天皇らがやって来たことも疑いないから、

B.C.E.660年を建国元年とした神武紀元は、

ソナカと卑弥呼の倭国が決めたものに間違いないが、

それがギリシャのミケーネ市の紀元と、新バビロンの建国期にも不思議に重なるので、

両者にも受け入れられて、

660年頃を我が国の建国の年にしたとみるのが合理的だ。

我が国に移植された

シュメール・カルデア文明と、ギリシャのミケーネ文明と、インド・繹迦文明は、

こうして卑弥呼時代に花開いたのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録21:22頁」
歴史家に総否認されてきた西暦前660年建国紀元

このあとに林氏は一つの私見として「神武天皇即位の年は『古事記』にはなかったので、

『書紀』の編纂者たちは当時の暦学の最高水準と信じられていた

讖緯説(しんいせつ)に立って、辛酉神武紀元を推定した。

まさしく推定であって史実とはいえない。

しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。

那珂説をさらに二百年ほど短縮すべしという説も現われた。

東洋大学の市村其三郎教授の説である。

『神武東遷』を書いた安本美典教授は「数理文献学」という独特の学問の上に立って、

「自分の説も市村説に一致する。

つまり神武天皇は『日本書紀』の記載よりもずっと後代の人で、

まず九州に国をつくって、それから大和に東遷した」と結論している。

これもまた推測である。

推測統計学、情報理論、確率論、因子分析法など

コンピューターを利用した結論だそうであるが、

果たしてそれが、生きた人間の歴史の解明に、

どの程度の確率を示し得るものかと疑い、慨嘆している。

この林氏の『私見』が史実を補う。

明らかに卑弥呼当時は讖緯説(しんいせつ)は使っていない。

紀元前660年 辛酉に限定したのは聖徳太子か『書紀』編者しかいない。

この行為もまた史実である。

しかしウソの紀元を捏造したという見方は間違っている。

「先祖はその頃建国した」という確信した伝承があったからこそ

讖緯説(しんいせつ)で権威づけしたのが、裏目に出ただけなのである。


出典:言語復原史学会「大学院講義録22:3頁」
国民を不幸にし続けてきた倒錯した「建国紀元」観

大学院講義録21で、過去に「皇紀」と呼ばれていた神武紀元が、どういうものだったか、

初めて明かに理解することができた。

戦前はそれを理由もなく自賛の材料にして、世界敵視、

孤立滅亡への奈落に国民をおとしいれたし、

戦後はそれを無知な先祖の出鱈目さの証拠だとして、

国民を自暴自棄に導く、左翼あるいは自由主義者らの、

強力な自虐論拠にされてきた。

その背景に、国粋主義者とされてきた

本居宣長の『日本書紀』罵倒=『讖緯説』があったことは何とも皮肉の限りである。

彼を本居神社に祭りあげたのが右翼「皇紀」礼讃者たち、

彼の『日本書紀』非難に同調したのが左翼・自由指導者たち。

どちらもまるで反対のことを実行して、そのオカシさに全然気づいていない。

またこのことを指摘した学者も存在しない。

在来の我が国の指導者?らは、こんな程度の知識と知性しか持っていなかったのである。

しかし私たちは、私たちの先祖が初めて国家体制を整えて、

『国家』という意識を明確にもったのはいっだったかという最も重要な文化発展段階を、

確実にとらえることができた。

またそれを『日本書紀』が紀元前660年だとした根拠まで、完全に正確に知ることができた。

在来の『日本書紀』に対する疑惑と不信感の最大のものが、これで完全に1つ払拭された。

しかし「『日本書紀』は全面的に信頼できる文献だ」というには、まだ程遠い。


出典:言語復原史学会「大学院講義録22:20頁」
神代の天稚彦」記事は明らかに編集ミス

それは「神代」に始まって、4世紀の『応神天皇記』にまで広がっている。

しかしいくら天皇が長命だからといって、数百年も生きるはずはない。

これは明らかに『記・紀』の編集が間違っている証拠なのである。

それなのに、在来の学説はすべて、

それが『記・紀』の『天孫降臨』の中に入っているというので『神話』だとして済ましていた。

名前の此較検討も、内容の分析も、まるでせずに、ただ『記・紀』を頭から信じて、

あるいは、頭ごなしに罵倒したり無視したりして、立場は違っているが、

『神話』だと決めて議論していたことには、変わりはない。

だが私たちはすでに、徹底した分析と再構成を終って、今、

大学院講義録22号でごく簡単に再検討しただけで、充分全貌を理解することができる。

だから、この簡単なリストが大きな機能を発揮する。

それを一見すれば『記・紀』のダメな部分が、はっきり見えるからである。

それは先ず『記・紀』が、

この天稚彦・天若日子の記事を「神代」の事件だとしているのは無茶だと教えている。

天稚彦の妻は卑弥呼なのだから、彼女がどんなに長寿だったにせよ、

2世紀から3世紀の人である。

それが紀元前660年の皇紀よりも、はるか昔だとする「神代」の事件として編集してある。

この編集が間違っていることは動かない。


出典:言語復原史学会「大学院講義録27:22頁」
皇室の発生時期は古代ギリシャのウラノス期まで遡る

もうひとつ「国譲り」で忘れてならない重大な機能は、

「天皇家はいつ、誰から国を譲りうけて天皇になったのか?」という疑問に答える点である。

それは日本列島はもと<大国主>のものだったが、それを外来者の天皇家が、

平和裏に譲り受けたのだ。

という経緯を説明している。

日本人は単一民族なんかではない。

天皇家は渡来人だったと明言しているのである。

ただし、脅迫はしているが虐殺はしていない。

大国主には「大国主」という旧称を許し、贅沢な宮殿に住まわせている。

これは聖徳太子の国是「和をもって貴としとなす」と共に、天皇家の基本方針が、

「愛と平和」にあったことを強調しているのである。

『日本書紀』も『古事記』も、それを領国の初めとしている。

それ以前の天皇家の歴史は、この2つの『正史』には共に書かれていない。

だからいつ天皇家が発生したかは不明のままなのである。

ただ『日本書紀』には漠然とした記憶があって、

紀元前660年を神武天皇紀元とした。

それをこの講座では追及してみて、根拠のないものではないことを突き止めた。

ということは大国主の国譲りは660年よりも古い歴史だと主張しているのである。

それはギリシャ人たちが、ギリシャにも入らない前の記憶である。

とすればそれこそギリシャ神話の冒頭にあるウラノスの時代しかない。

これが『大国主(ウラノス)国譲り』の記憶第1号だったのである。


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『参考』
歴史徒然
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ウワイト(倭人)ウバイド        
オリエント歴史回廊(遷都)    
古代史の画像 
歴史学講座『創世』うらわ塾         

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