2011年4月30日土曜日

霧島(キリシマ)はギリシャという名への当て字

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会


「霧島はギリシャへの当て字」
「天の逆鉾(さかほこ)もカディキウス」
「逆鉾は神話や作り話ではなく本当の歴史の遺物」
「桃太郎が記録している邪馬壹国の人種構成」
「毛人・という当て字に充満する証拠群」
「完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在」
「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答」
「アカイヤだった・明の宮」
「ヒガシの語源は日向」
「キジは金髪の壹與とギリシャ人」
「毛人国と国称分類」


「霧島はギリシャへの当て字」

《鹿児島に天皇家を生んだギリシャ文明》

『旧唐書』には、まだ重要なことが数多く書いてある。

その一つは、小日本国の東と北の国境の向こうは、「毛人」の国だというのだ。

倭国人と日本人のほかに「毛人」と呼ばれた人々が、天平時代になっても別の国を作っていたのである。

それだけではない。

11世紀に編集された『新唐書』には、最後に「その東海の島には邪古、波邪、多尼の三小王あり」と書いてある。

これは大隅語で読めば邪古はヤク、波邪はハヤ、多尼はタネと読めて、屋久島、隼人、種子島のことだとすぐわかる。

それが東海だというのは鹿児島県の西南の端、今の枕崎市あたりからの、古代人の大ざっばな感覚で東海と表現したので、

そこにある坊の津が遺唐船の発着港だったから、よく地理を知らない遣唐使などが、耳にした知識を話したものだったと考えると納得がいく。

そしてもちろん、その国は「小日本国」であって、その東と言うことである。

毛人の国は鹿児島県の東から北をさえぎる山々の向うだと言うのだから、霧島の山塊がそれに当たるし、球磨の山地も国境である。

ではいったい毛人とは、どんな人々だったのであろうか?

それは霧島という名が、すぐ連想させてくれる。

仮名書きするとキリシマで、ギリシャそっくりだからである。

語尾にヤのつく地名を見ると、名古屋、熊谷、日比谷、諌早などがすぐ浮かぶが、谷の字で当て字した地名は案外多い。

この国を意味する語尾は、ラマヤナが多く、ヤをマに変えるとギリシャはギリシマになる。

毛人という集団は、ほかにも鹿児島に大きな地名を残している。

能毛だ。

熊は球磨や熊襲、熊本といった名詞群で、南九州一帯にいた人々の名だったことは常識である。

だから毛もその人々と一つになっていた地域がある。

それが熊毛という地名を今まで残したのだと考えるほかない。

その熊毛に、毛のついた名をもつ島がある。

種子島の小島「馬毛(まげ)の島」である。

これを馬毛島=マケドと読むと、アレクサンドロス大王の祖国・マケドニヤのマケドまでが現われる。

ニヤも、南九州語の助詞が「ン」だからそれを付け足して、国称語尾のイヤを付けると、完全にマケドニヤになる。

この略称は南九州語では「マケドン」これは聞く者には「負けドン=負けた奴」と聞こえる。

そしてこれと対称的な名も鹿児島には揃っている。

それは「勝ち王(キ)」すなわち加治木(カチキ)である。

南九州語では、この地名は「カチキ」と読むのである。

こう見てくると小国日本が大国倭国に勝って、日本国が生まれたというのが正しいことがわかる。
ソナカの政権・倭国が斉明天皇まで続き、天智天皇の日本がそのあとに出来たのが640年。

『唐書』が書く日本誕生とぴったり合う。

よく知られている神話のイザナギのミコトが、死んだイザナミのミコトを尋ねて、死者の国に行くのも、ギリシャのオルペウスが死んだ妻を尋ねて死者の国に行くのと同じ話である。

こんな引用は『古事記』『日本書紀』の中に大量に見つかっている。

霧島
霧島

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 147~149頁


「天の逆鉾(さかほこ)もカディキウス」

《ギリシャ文明の象徴「カディキウス」》

私(加治木義博)は、太平洋戦争が終わったとき、鹿児島県にいたので、近くの霧島神宮にお詣りして、引き揚げてくる友人たちの無事を祈った後、その背後に聳える霧島の高千穂の峰に登った。

郭公(カッコウ)の勇ましい鳴き声を聞きながら登り着くと、山頂に石囲みがあって砂利が敷きつめてある中心に、青銅製の太い杖のようなものが立ててあった。

地上に見えている部分は1.5メートルぐらいで、太さは径20センチくらいに見えた。

幾らか傾いているので真っ直ぐ立てようとしたが、重くて深く入っているようで動かなかった。

それでよく見ると、上のほうは太刀の柄の形をしており鍔の部分に左右に突起物がある。

その形は天狗の鼻になっていて、一般の天狗の面の鼻とは違い、先が細くなっているのだ。

その根元も鼻をかたどっているし、眼も彫ってある。

間違いなく天狗の顔ではあるが、後世の天狗のイメージではない。

それが背中合わせに左右に彫られているので、剣の形は十の字になっているのである。

これはまさしくカディキウスなのだ。

しかも最も重要なことは、その長い鼻は、まさしく天狗の鼻そのものである。

猿田彦は古来、天狗の容貌と姿で表現されてきた。

天狗に類するイメージをもったものは、タイの聖獣ガルーダを始め、東南アジア一帯に濃く分布しているが、それらはインド文化の子孫だとわかっている。

またガルーダの羽根もカジキウスの羽の子孫だということになると、ガルーダ自身が、カディキウスそのものだったと気付くのである。

それは今も、擬人化されながら人々を導く象徴神として、広くインドから東南アジア、中国の一部にまで分布して、信仰を集めているのである。

これが我が国古代の南九州の支配者・猿田彦として、天孫の降臨を出迎えたのである。

「図」加治木は古代の大商工業の中心地だった

球磨川沿:霧島・栗野・人吉・久七峠・大口・水俣

薩摩半島:川内・鹿児島・笠沙・加世田・知覧・地林島・開聞岳

大隈半島:加治木・隼人・大根占

「写真」トルコ・カッパドキア遺跡で発見された壁画

「図」知恵の神ヘルメスが手に持つ杖「カディキウス」

天の逆鉾
 天の逆鉾
カディキウス
カディキウス
カッパドキア遺跡
カッパドキア遺跡
ヘルメス
ヘルメス

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 188~190頁


「逆鉾は神話や作り話ではなく本当の歴史の遺物」

《ギリシャ文明の象徴「カディキウス」》

高千穂の峰は、天孫・ニニギノミコトが天からやってきた降臨地だと『日本書紀』と『古事記』に書いてある。

そこへ猿田毘古(猿田彦)が出迎えて案内し、ニニギノミコトは王として大八洲に君臨する。

そこが今の鹿児島県であることは、『古事記』が書いているミコトが高千穂で言った言葉で確認できる。

「此の地は韓国(からくに)に向かい、 笠紗(かささ)の御前(みさき)を真来(まき)通りて、朝日の真刺(まさす)国、夕日の日照国」。

この韓国(からくに)は、今の韓国(かんこく)ではない。

霧島山塊には韓国見岳(からくにみだけ)という一峰があるが、そこからは韓国(かんこく)は見えない。

見えるのは姶良(あいら)郡だけである。

この姶良(あいら)の姶は「カ」という発音があるから、カラ郡(ぐに)なのである。

だからこの韓国は姶良郡のことなのだ。

すると先にお話した新羅や百済が鹿児島県内にあって、神功皇后が三韓征伐をしたのに、都が隼人だったという史実が、少しもおかしくない。

「韓」を韓国ではハンと発音する。

だからカラはハラなのである。

するとタカマガハラのハラも、カラなのである。

高天が原は、辰韓や弁韓と同じように、地上の国だったのだ。

その発音から行けばコマカラかクマカラと読めるから、高麗の故地、高麗=タカラ=宝島、トカラは吐喝喇(とから)諸島で、いかにも始良郡にやってきて上陸したであろう位置関係にある。

ちなみに吐火羅と書くと、それは中央アジア。

トルキスタン地方のアム河畔に、後魏時代に住んでいた人たちの名になるから、彼等は、吐喝喇諸島の出身者とみて間違いない。

またこの諸島の南に連なる位置に徳の島がある。

古い呼び方で徳国(とくら)と呼ぶとそれはトカラの発音変化の範囲内に入るから、もとは同じ名前だったとみていい。

そこを後にしてニヤマトニギノミコトたちは、隼人に上陸して八幡の都ーヤマトにしたのである。
ちなみに高句麗を「コクラ」と読めば、北九州の小倉だから、確かに三韓は九州の中に、今も地名を残しているからである。

高千穂の峰
高千穂の峰
韓国見岳
韓国見岳
吐喝喇諸島
吐喝喇諸島
吐火羅
吐火羅
猿田毘古
猿田毘古

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 191~192頁


「桃太郎が記録している邪馬壹国の人種構成」

『記・紀』の記事だけでなく、寓話やお伽話からも「歴史」が読み取れる。

<殷>は<イン>で、南九州語では「犬」のことである。

<新バビロニヤ>の王名は建国者が<ナボポラッサル>。

最盛期の王は<ネプカドネザル>、どちらも「<サル>=猿」。

その前には北方の<アッカド>の王<サルゴン>もいる。

またアラブの王は<サルタン>と呼ばれる。

これに当て字すると<猿田ン彦>である。

<霧島>は御存知の通り<ギリシャ>への当て字だったが、本来の南九州語は<ラ>行を<ダ>行か<ザ>行に変え、<リンゴ>は<ジンゴ>、<リス>は<ジス>、<クリ>は<クジ>(『日向風土記』)と発音したから、<霧>は<キジ>で、<ギリシャ人>を指すと、加治木義博著『日本誕生の秘密…』(徳間書店刊)でも説明した。

犬・猿・雉子(キジ)が供をするのは桃太郎である。

これでその供が何者だったかが明瞭に判る。

それを率いた桃太郎は「百(もも)」=「百済(ポセイ)」以外にない。

これは<ハセ>=<長谷>で種子島の太郎が、出水(イゾン)=イドン人=委奴の(イドン)=<イヌ>。

<高麗人>=<サル>と、<霧島のギリシャ人>らを味方にして、<オニ>=<倭人>を攻めた「歴史」が、お伽話に見えるもので、明らかに南九州での戦いでありそれに該当するものは<位宮>と<壹與>による<卑弥呼政権攻め>、5~6頁でお話しした<武埴安彦の乱>の裏返しで、<邪馬壹国>が誕生した史実の童話化であることは動かない。

※出典:大学院講義録28 24頁


「毛人・という当て字に充満する証拠群」

少し深く考えるとギリシャの『五彩圏』も、四神の色名に蹄まれているのはギリシャそのものである。

それを古代日本人式に清音で読むとキリシャ、やはり「キ」の国である。

またキリシャとキリンを比較してみると、「キリ之」と書けばキリシとキリンの両方に読める。

これに国称のヤをっければキリシヤになり、国称をマに変えればキリシマになる。

これで、霧島を霊峰として崇(あが)める大隅人が、ギリシャ人だったことがわかるだけでなく、『旧唐書』が日本国の 「東界北界、大山ありて、限りと為(な)す。山外すなわち毛人国」

というその大山は、東西南北とも、わずか数千里しかない小国当時の日本とは、今の鹿児島県以外には該当する地域がないから、その東北に贅えるのは霧島山、その名はギリシャを意味するとすれば、そこから先に住むという毛人は、沖縄語発音で「キージン」。

南九州語ではキリンもキジン。

毛人という文字は「キリ之」国、すなわち、キリシマとギリシャの双方を表現し、麒麟はその象徴として当てられた「日本語の名をもつ霊獣」だということになる。

そうして、その霧島は地もとの大隅語では「キイシマ」と発音する。

霧もギリも「キイ」なのだ。だから語源は霧ではなく「黄(キイ)」だったのである。

また麒麟も「キイン」で「黄(キー)の」を意味する獣なのである。

しかし実在しないものをなぜ?使えたのだろう?

※出典:大学院講義録19 21頁


「完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在」

宇佐の八幡は、大隅の八幡・本都(ポント)別皇子ではないのか?。

彼は隼人町を動かなかったと記録されているのだから、名前を譲ったほうである。

するとなぜ?彼は笥飯(ケヒ)の大神などと書かれているのか?。

それは笥飯でわかる。

この当て字はケヒともケイとも読める。

ケイは「軽」と書いてもケヒ・ケイで、応神天皇の皇居・軽島の明の宮=軽之(シ)国(マ)の明(アカル)の宮=鹿児島(カルシマ)の阿鹿児(アカル)の宮=鹿児島神宮の所在地を、別の当て字で書いただけなのである。

一方、名を譲られたほうの八幡は、福岡県糟屋(かすや)郡の宇美(うみ)町で生まれたとされている。
そこは宇佐とは直線距離でも80kmのところにあるが、宇美を宇三と書けば宇佐になる。

どちらにしても仁徳天皇系の倭の五王の先祖である。

しかし倭の五王はヤマトとは無関係だった。

とすればヤマトと名乗ったのは、隼人町に残ったほう八幡のグループだったのか?。

そのグループがつ?

奈良まで移動して、そこをヤマトの国と呼ばせたのか?、疑問だ。

隼人町は巴利国だった。

「山」はパーリ語で「giri ギリ」である。

海岸にある隼人町から見ると、山は霧島である。

「giri之国(しま)」と書くとギリシマ、清音になればキリシマになるし、マをヤに換えればギリシャになる。

これで山岳信仰のギリシャ人の国をうまく表現した当て字が「霧島」だとわかる。

どこからみても無理のない「山人」の国がここにある。

※出典:大学講義録32 23頁


「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答」


「姫講は」

「姫講(ひめこ)さあ=卑弥呼様の講」という名で現代まで継続している南九州の「観音講」。

「応神皇居」も、古代ギリシャの南端の国アカイヤの名をそのまま使って、「明(アカイ)・宮(ミヤ)=御家(ミヤ)=家(ヤ)=アカイヤ」という「南の皇居」を意味する表現になっている。

そのカルシマはそのまま鹿児島と当て字できるし、カルの別の当て字は「姶良(カル)」で、これはカルから「カラ」になり、韓国とも呼ばれた証拠が霧島山塊の主峰「韓国見岳(カラクニみだけ)」の名になって残り、応神が支配した朝鮮半島に韓国の名を残し、南九州から百済、新羅の名がそこへ移動したことを、否定する者はいない。

そして『三国史記』は明瞭に初代新羅王を赫居世と記録しているが、その名は「赫居世国(カゴシマ)」という当て字。

ほかにも13才で王になったなど、壹與だったことを示す記録に満ちている。

南が赤(四神の朱雀(すざく))なら北の玄武は「玄(クロ)武(タカ)」で、クロアチアとタカクニ(高句麗)。

その中央に、東は青竜=「青=オオ=倭、竜=辰巳島=種子(タツネ)島。

地中海の東瑞に面していた古代アイオリヤ(藍織国(ヤ))=青(ア)い織り(オリ)物の王(ウ)国=アオリウ(青竜)国(後世→播磨の相生(アイオイ))である。

西は白虎=「白(シラ)ヒラ(枚)ヒラキ(開)(木(キ))=コ(虎)、枚聞(ヒラキキ)・開聞(ひらきき)。

このシラは古代シラキウス(今のイタリア領・シチリア島)である。

※出典:大学講義録31 34頁


「アカイヤだった・明の宮」

「明=阿鹿児」は、もう一つ重大なことを救えてくれる。

「赤」といえば五彩圏連邦の南を意味するから、「赤ル」は「赤国=赤盧=アカロ」の
沖縄発音「アカル」にぴったり一致していることである。

これはギリシャですでに「アカイヤ」がその位置を占めていた。

五彩圏連邦を日本列島からアジア全域に移入したギリシャ系の人たちは、間違いなく南九州を「アカイヤ」と呼んでいたのである。

しかし南九州語が言葉を短く短縮して発音する特徴をもつことを計算に入れると、アカイヤは「アカイまたはアカヤ」になる。

明の宮の「明」を標準語では「アカリ」と発音するが、南九州語では「アカイ」と発音する。

だから明宮を「アカイ宮」と呼んだか、または全体が「アカイヤ」に対する当て字かのどちらかなのである。

大隈半島中部の都市「鹿屋」は先にみた「科野」に当たるが、この二つに「阿」を被せるとやはり「アカヤ」になるから、そこが「赤の都」だった名残りとみると、語尾の<ヤ>は<ラ><マ><ナ>にも変わるから、<カラ>と呼んだ人々もいた。

それに当てた当て字が「姶良」であり「韓国」だから、今も隼人町を南端の中心に広大な姶良都が残り、またそれを一望のもとに見下ろす霧島山塊の最高峰が「韓国見岳」と呼ばれているのである。
明の宮はここにしかないのだ。

※出典:大学講義録06 9頁


「ヒガシの語源は日向」

日向は今の宮崎だが、蝦夷が宮崎にいただろうか?…。

『旧唐書』の「日本」は鹿児島県以外には当てはまらない特徴を多数備えているが、その東と北の境に大山があり、その向うは「毛人」の国だと書いてある。

その大山は霧島山塊に当たるが、「キリシマ」とは「毛人之国」の一つの読み方である。

そして「毛人」と「蝦夷」は同じ人々を指す呼び名なのだ。

唐の時代になってもまだ、宮崎は「蝦夷の国」だったのである。

しかし宮崎を果して「東」と言ったか?という疑問が最後に残る。

この答えは「ヒガシ」というもう一つの発音である。

「日向」は「ヒュウガ」と発音しているが、これはどこかの訛りの一つで、本来は「ヒムカ」だった。

これに「之国」をつけると、「ヒムカ之国」で、これは「ヒムカシ国」と読める。

日本の古文や万葉集などの古語ではヒガシでなく「ヒムカシ」と発音している。

それが次第に「ヒガシ」に訛ったのだから、その語源は間違いなく「日向」だったのである。

しかし古代日向は宮崎県だけではなかった。

鹿児島県も日向に入っている。

このことはヒムカシという言葉が生まれた時代が、宮崎だけが日向になった後だという証明なのである。

武内宿祢はそこへ「西の国」から視察に行った。

宮崎の西には鹿児島県しかない。

※出典:大学講義録06 7頁


「キジは金髪の壹與とギリシャ人」

「キジ」は沖縄語で毛のことを「キ」と発音しますから、これに「人」のついた「毛人はキジン」だとみるのが、いちばんわかりやすいと思います。

この「キ」は色の黄の発音と同じですから、五彩圏連邦の中心の色である黄は、この毛人の象徴だったこともわかります。

「畿」という字を好んで首都の意味に使い、今も畿内、近畿という言葉が使われているのは、やはりこの「黄」に合わせて選ばれた文字なのです。

また鹿児島語では黄は「キー」と発音します。これは「キリ」と同じもので、「キリシマ」の「キリ=キー=黄」なのです。

『旧唐書』は「日本国は倭国の別種」と書き、鹿児島県以外にない地理上の特徴を挙げています。
その中に「東と北の境に大山があり、その山外は毛人の国だ」と書いてあります。

鹿児島県の東北には霧島山塊があり、その地理条件はこの記録と少しも違わないばかりか、その霧島の発音が「毛人之国=キリシマ」になることで完全に証明されます。

キリシマの「マ」は国で、それを「ヤ」と発音する人たちもいます。

すなわち「キリシヤ」です。

前に繰り返してお話ししたキリシマとギリシャとが元は同じものだということを、思い出していただければ、すべて疑問を残しません。

さらに重要なことは卑弥呼や壹與が「金色に光り輝いていた」という身体的特徴です。

南九州語の「キン=黄の」と「金」の発音が一致しますから、日本語の「黄」もやはりこの、「ギリシャ=キリ=キー」と複合して、ギリシャ人を指す色であり、代名詞だったのです。

だからこそ、その特徴が貴ばれて、多くの女性の中から選ばれて女王の座についたのです。

その壹與は間違いなく位宮に従って参戦していますから、すべての点でキジに一致します。

彼女とギリシャ人軍団が『桃太郎』で活躍するのは当然だといわねばなりません。

※出典:日本国誕生の秘密 312頁


「毛人国と国称分類」

日本、倭、毛人と対立している毛人之国も考えておこう。

これは東と北を限る山の向う側の国だとあった。

鹿児島湾北岸の平野部からみると。

霧島山塊は北と東を限る大山である。

この<キリシマ>は、方言によってはそのまま毛人の国に当るのである。

このことは前提として日本語の方言中、<ダ行>を<ラ>行音に発音するものがあることを確認して戴く必要がある。

それは、よく引き合いに出される河内弁である。

<キツネウドン>という所を 「ケツネウロン」と発音し「だけど」を「やけろ」と発音する。

<ド>が<ロ>になっているのがみられる。

この反対に四国、広島方言ではお遍路さんを「ヘンド」と発音し、

関西全般に「辛労」を「シンド」と発音する。

リンゴ、をヂンゴ、ジドウシャをリロ-シヤ、ラムプをダンプ、婚礼をコンディと発音する人々もある。

こうした発音のちがいは海外にも多く見られる。

アメリカ英語は、よく聞きなれないと<ディ>も<ティ>も<リ>と聞こえるし、北京語では日本人が<リーペンリ>と聞こえる。

私たちが<ジ>と発音するものが、<リ>と区別つきにくい。

また毛人は体毛が多いためにそう呼ばれる、とされている。

毛の発音は沖縄弁では<キ>である。

人をつけると<キジン>、<キリン>、<キリ>といった発音が生れることがわかる。

之国の読み方も調べてみよう。

国と書いたものを<ラ>と読む人がいたことはすでにみた。

朝鮮語では羅は<ナ>になる。

網羅と書いて<マンナ>と発音される。

だから新羅は<シムナ>になる。

国名の任那は<ミマナ>と発音されているから、この語尾の郡は、羅の変型したもので、それは朝鮮語の国称なのである。

任那というものは存在しなかったという説があるが、この国称の状態からは、では何故、それが朝鮮語表現になっているのか?

と反論が生れる。

また大国主と大汝持が同意であることも国が<ナ>と読まれたせいであることが明瞭にわかる。

この<ナ>に対して沖縄弁では<マ>と発音される。

沖縄ではn音に当るものをm音に発音するものが多い。

庭は<ニワ>ではなくて<ミヤ>である。

荷を入れる家である倉をミヤケと呼んだのも、この沖縄弁である。

沖縄圏にはかって島々が一国であった時代の名をそのまま止めた島名が沢山みられる。

波照問、多良間、池間、慶良間、加計呂麻といったものが現存し、倭人伝中の対馬、投馬、新島といった国々との関連を示唆しているのである。

国称にはこの他に<ヤ>というものもある。

伽耶、名古屋といったものは、シベリヤ、カルデヤ、ギリシャなどと同じ国称語尾である。

これは<ラ>との方言関係であって、マルセイユはマルセイッレとスペルを綴るように、L字はY音にも変るのである。

同じ<ラ>が<ダ>に訛ったものはヤマダ、タカダ、カナダ、オランダという語尾になり、これは<ド>ともごく近縁で本渡、神戸(カンド)、インド、リヤドなどがある。

このほか日本には国が変った<ギ>があったことは新羅の所で見たが、さらに清音化して<キ>にもなっている。

またまれに国を<コク>と漢字で発音したものに谷をあてたものが「ヤ」や「ヤツ」「タニ」に変化したり、頭音使用で<コ>、<ゴ>になったものもある。

毛人之国を毛=キ、人=リ、国=マと置きかえてみると、キリシマとはキリ之マだということになる。

之は漢音で<シ>であるから、<シマ>とは島の意味でなく、之国の意味であったことがわかり、山であるのに島と書かれたのは単なる当て字であったことがわかると同時に、私たちが<シマ>と呼ぶものが、かっては之国であった時代を証明すると同時に、新らしい言葉が分化して生れる様子が、はっきり眼に見るようにわかってくるのである。

こうみてくると毛人は<キリ>と読まれる程であるから、さらに<ケ>、<モウ>という発音でも読まれたはずだということになってくる。

山口県の大名「毛利」氏もまたその一族らしいことになる。

※出典:日本国誕生の秘密 77~78頁

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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2011年4月29日金曜日

倭人章の衣服は男女ともギリシャの服装

出典:言語復原史会

「ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事」
「応神妃の髪長媛たちは皮革衣料の持ち主」
「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」
「台湾に現存するギリシャ系倭人」
「ヒミコのファッションは貫頭衣だったか」
「済州島に倭人=イオニア人の証拠」


「ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事」

古代ギリシャ人は船旅に出る前には必ずポセイドンに生贅(いけにえ)を捧げて、航海の安全を祈ったことが、神話にも、歴史記録にもたくさん出てくる。

それと同じことが『魏書倭人章』にも「その旅行や渡海の前には、つねに一人の男を生賛にする」と、 「自衰」と呼ぶ苦行者を神に持げて、事故が起これば殺したことが記録されている。

私たちにはその自衰が捧げられた相手がポセイドンだったことを、はっきり知り尽くした。

だからそこに書かれた倭人とは、百済人=ボセイドン人=フェニキヤ人=ギリシャ人だったと更に再確認できたのである。

すると倭人の男子が結束して看ている「横幅(おうふく)衣」が、古代ギリシャから現代インドにまで着られているトーガだったことも明瞭にわかる。

横幅とは横幅(よこはば)の方が広い布で、縫ってない布ということだから、そんなものを衣服として看るのは、全世界でもトーガ以外にない。

それをギリシャ人やインド人は肩から掛け、身体に巻いて最後を結ぶだけでうまく着る。

『魏書倭人章』もそれを「縫わないで結束して着る」と細かく明瞭に描写している。

また「婦人は、その中央を切って頭だけ通す単被(ぴ)(単衣(ひとえ)もの)を着ている」と書いてある。

これも古代ギリシャの壷絵に見る婦人服そのもので、それを日本列島で引き継いだカリエンの人々が、古代のまま着続けているのを、今でもタイやミャンマーで見ることができる。

※出典:大学院講義録16 19頁


「応神妃の髪長媛たちは皮革衣料の持ち主」

フトマワカを右から読むと「カワマトフ」になる。

またホムタマワカのカワマタムホは、当て字の「陀」を本都別の「都」に換えると、加和麻都品になるから、品を草書で書いたものが「不」の字と紛らわしいから、それに置き換えると「加和麻都不=カワマトフ」になる。

ところがこのカワマトフは無意味な名ではない。

『倭人章』のある『魏書東夷韓章』には「州胡が馬韓の西海中の大島にいるが、その人々はやや短小、みな頭をそり鮮卑のようで革を衣る。好く牛猪を養う」

と皮革を着ていたことを記録している。

ご存じの通り馬韓は朝鮮半島の南西部であり、その西にある大島は済州島だが、拡大して考えれば九州北西部の松浦も馬津国(マツラ)で、やはり馬韓と同じ人種圏を意味し、その東南の大島は五島列島で、『肥前国風土記』には値嘉(チカ)島=小値賀島=五島列島に牛馬を多数飼っている言語風俗の異なった海人族がいたと書いてあるから、「ゴトウ」とは「牛島」だとわかる馬韓が日本語圏だったことは拙著『卑弥呼を攻めた神武天皇』でも立証済みだ。

そして今主題の応神天皇の、日向の髪長媛妃の一族は、角のついた鹿皮の衣服を着ていたと『日本書紀』にある。

「カワマトフ」とは「皮を纏(まと)う=皮製の服を看た」人たちという意味で、古代の我が国に、皮革を衣服にしていた人たちがいたのは、疑いのない事実である。

※出典:大学院講義録12 4頁


「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」

中国経由でないとすると、どんなコースでやってきたのか?。

忘れてならないのは、台湾北部に現住するアミ人である。

このアミの名は大学講義録31冒頭でお話しした網・阿見と同じ発音であるだけでなく、容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。

また台湾がギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ仙境・蓬莱(ホーライ)で、秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だったことも、大学講義録29でお話しした。

このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。

仮にこれを疑うと、台湾と与那国という肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、二つできたことの理由、という至難の立証が必要になるし、それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、ほかにはアミに結びつくような神名はない。

別の語源から全然無関係に二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。

従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、それと比較して相手の説が劣り、間違っていると判ったときに主張して「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、「ただ反対したい」だけというのは、劣等感の表現にすぎない。

※出典:大学講義録31 28頁


「台湾に現存するギリシャ系倭人」

後からきた侵入者に追われて山地に住んでいる人々の中には写真のような人たちがいる。

その容貌、服装、家屋、言語、土器など実に多くのものが、その古いルーツがインド経由の地中海人だったことを示している。

「臺」はウティナで沖縄のこと。

「湾」はワニで「倭人」の唐代以後の読み方。

ここはその頃[小琉球]と呼ばれていた。

だから、[台湾]とは[琉球人の国」という意味なのだ。

そして『ヒミコ』でお話ししたヒメゴソとオオヒルメが「太陽の光で身ごもった」というあの『阿具沼伝承』も『かぐや姫』の原話も両方とも台湾に現存するお話の中にある。

またカリエンの人たちの都は今も花蓮(カリエン)港と呼ばれ、「鬼道=アショカ仏教」の子孫も現存している。

※出典:JINMU 22頁


「ヒミコのファッションは貫頭衣だったか」

ソナカ=仲哀天皇の皇后としての大中姫の像があることである。

これはだれが考えても、3世紀にヒミコをモデルにして作ったものとは考えられない。

だがばかにすることはできない。

その像はエジプトの死の神オシリスの妻「イシス」の像とそっくり同じスタイルをしているのである。

これはだれが、いつ作ったのだろう?

スタイルといえば、読者はヒミコがどんなスタイルをしていたか?

と興味がおありと思う。

『魏書倭人章』には倭人は「頭を貫いて衣る」式の衣服を看ていたと書いてある。

だから過去の学者はそれをそのまま「貫頭衣」という名で呼んできた。

この古代のままの衣服を、今もがんこに守り続けている「文化財保護派」の大先輩がいる。

先にお話したカリエン人である。

彼らは私たちの先祖の一グループだから、『魏書倭人章』の貫頭衣は間違いなく、それと同じもので、他のスタイル説は根拠がない。

だがヒミコはカリエン人ではないから、別の服装をしていたとみると、その血統である古代ギリシャ婦人もやはり「貫頭衣=キトン」を着ていた。

それにも地方的特色があって、どこも縫わない一枚の布を、体に巻きつけて両肩だけ止める式の、ドーリア・タイプのペブロスや、両脇を縫ってあるがたっぶり布を使って、肩布も広く出して腕の数ヵ所で留めて、そでのように見せイオニア・アテネ式チュニックなどが基本型だが、どれも「頭を貫いて衣る」式の衣服であることには変わりはない。

男子は活動的なヘルメス神の像が着ているような短いエクソミスを着た。

そして江戸時代の「旅合羽」のような布を羽織った。

中国北京歴史博物館にある「職責図巻」にある「倭国使」の絵は、この「旅合羽=クラミード」が6世紀になっても使われていたことを記録している。

これでヒミコを訪ねる古代ツアーは終った。

次の旅にもぜひご参加いただくよう祈っている。

※出典:HIMIKO 252~253頁


「済州島に倭人=イオニア人の証拠」

加治木義博の心友で済州島研究所長である歴史家・宋錫範氏の『済州島古代文化の謎』(成甲書房刊・1984年)に、倭の別名である「ヨ」または「イェ」のついた、倭人が住みついたために名づけられたと考えられる地域と、村の名が挙げてある。

ヨンルイ。ヨウネ。ヨレムル。ヨクモッ。イェチョン。イユリ。イェジムル。

この「ヨ」は「ヨナ」を「ヨ国」とみた名残りだし、「イェ」は「イオニア」により近い。

そして『魏書東夷章』の中には、この島のことを「馬韓の西海中の大島にいる人たちは、ほとんど裸に近いが革の上着だけ着ている。そして船で中国や韓国と行ききする」と書いてある。

ギリシャの赤絵の壺などに描かれた当時の風俗を見ると、兵士は革のヨロイを着ているが、ごく短いスカートをはいているだけで、胸も腕も脚も裸である。

全然、服装のちがう中国人からみれば、腕も脚もまる見えの姿は、ハダカ同然に見えたのである。

このギリシャと日鮮との関係が不明のあいだは、この人たちの上着は、獣から剥いだだけの毛皮に穴をあけて着ていた、と想像されていただけであった。

しかし今は違う。

たとえばその島の名物になっている古代の石像トルハルバン(石のお爺さん)の顔は目も鼻も大きくて口がひっこんで「刑事コジャック型」だ。おまけにギリシャ帽までかぶっているのである。

※出典:HIMIKO 213頁


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2011年4月28日木曜日

現存している13世紀沖縄のギリシャ風俗のスケッチ

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「スケッチされていたその風俗」
「13世紀の文献に描かれた、なぞの沖縄人」
「13世紀のナゾの沖縄人の凄い画像」
「13世紀の沖縄に倭人がいたか」


「スケッチされていたその風俗」

その風俗は沖縄では13世紀まで確実に続き、その証拠の絵が今も残っている。

その中央にはギリシャ型の冠を被(かぶ)って、ポセイドンの武器・三叉鉾をもった、女性の指揮者が描かれている。

沖縄のアテナだ。男性は「招頭=鉢巻き」して「上長下短の弓」をもつ『魏書倭人章』記事そのままのスケッチを、今でもこの眼で確認できるのである。

「寛元元年(1243)に漂着した商人が描いた『漂到琉球国記』巻末の、著者手書きの写生図」

『図』漂到流球国記巻末絵図の一部 13世紀
漂到琉球国記
漂到琉球国記

※出典:大学院講義録16 20頁


「13世紀の文献に描かれた、なぞの沖縄人」

柳田氏は沖縄で宝貝が首飾りに使わない事実、その理由や歴史を次のように書いている。

「首飾りの習俗が久しく伝はり、是に宗教的関心を寄せ続けて居た社会に於て、

どうして又あの様に手近に豊富に産出し、且つあれほどまで美しく、

変化の奇を極めて居るといってよい宝の貝を、わざと避けたかと思ふばかり、

利用の外に置いて居たのかといふことが説明せられねばならぬ。

……余りにも貴重なる宝の貝であった故に、

それを自分の首飾りにすることのできぬ年月が長かった為であろう。

……(中国で)東夷といひ又島夷といった方面に於て、

その最も明かな痕跡(こんせき)を永く留めたのは沖縄の諸島である。

輸送が江准(コウワイ=南中国)の間に限られず……後まで……

なほ莫大なる輸出をして居たのが、この洋上の小王国であった」。

ではその宝貝を供給して、世界経済を支えていたのは、どういう人々だったのであろう?。

加治木義博の『日本人のルーツ』で、やや詳しく説明してあるが再録してみよう。

鎌倉時代の寛元元年(1243)九月、長崎県五島列島の小値賀(おじか)島から中国へ向け出航した日本商人が、台風にあって琉球列島へ漂着(ひようちやく)したときの見聞録『漂到琉球国記』という文献が今も残っている。

それにはその筆者の写生がそえられているが、そこに描かれた風俗は私が13回にわたり現地調査したタイ奥地からミャンマーヘかけて住む、カリエン人そのままである。

※出典:JINMU 102頁


「13世紀のナゾの沖縄人の凄い画像」

鎌倉時代の寛元元年(1243年)9月に、長崎県五島列島の小値賀(おじか)島から中国へ向けて出航した日本の商人が、台風にあって琉球列島へ漂着しましたが、その時の見聞録を『漂到琉球国記』という文献にまとめたものが今も残っています。

それには筆者が描いた非常に上手な写生がそえられていますが、その絵は私が現地調査の時に見た、現在のミャンマーやタイのカリエン人風俗そのままです。

カリエン人は、戦前の旧ビルマ時代に支配者だった英国人が、誤って「カチン族」を「カリエン」と呼び、本当の[カリエン人]を「カレング」と呼んだために、日本では今でもカレンと呼ぶ人がありますが、[カリエン]という名は「コーレアン」の訛なので、今後は正確に[カリエン]と呼ばないといけないのです。

戦後はミャンマー北部のカレン州とカレンニ州を中心に、国境を越えてタイ国内にも大人口が住み、中国各地にも同族が広く分散して住んでいる人々で、「ブガイ=部外」「スガウ=菅生」「プオウ=部王」という日本語と共通の名をもった三大部族に分かれています。

同族の人々が中国では「黎(リエ)族」と呼ばれて各地に分散していて、その大集団は広東(カントン)省の海南島と雲南省に住んでいます。

またミャンマー国内の「カチン」や「チン」「シャン」「タライン」などの人々も、日本語と同系統の言語を話し、共通の名詞をもち、風俗習慣にも私たちと多くの共通点をもっていることがわかっています。

彼らは『漂到琉球国記』の絵と同じ「貫頭衣」を、男女とも現在もなお頑固に着つづけ、また布で頭を包んでいますが、これも「招頭」と『魏書倭人章』に挙げられているものと完全に同じものです。

この絵では船の真ん中に、冠を被った女性が一人、房飾りを下げた三叉鉾(さんさほこ)を手にして立っていますが、これはどうみても指揮者です。

これもカリエン人の特徴の一つ「母系家長制」の表われで、この点も天照大神や卑弥呼から奈良時代の大和朝廷の女帝に至る系譜や伝統と、共通したものを守り続けていることが観察できます。

そのほかにも細かい点まで多くの類似点が見られます。

絵の人物は弓で魚をとっていますが、その弓も『魏書倭人章』の記事どおり「下が短く上が長い」。

また今のカリエン人は入れ墨を自慢にしていますが、『魏書倭人章』も倭人は全て入れ墨していると記録しています。

戦前までは奄美地方に、手に「ホツキ=彫突き」という入れ墨をした婦人がいました。

人種の移動は言語を調べるとよくわかります。

同じ言葉が点々と分布していれば、それは人々が次第に広がって移住したことを示しているからです。

絵:漂到琉球国記のスケッチ

13世紀当時の沖縄の住民が漁をしている姿を詳細に描写している。

男子の服装や鉢巻きは現在のカリエンの人々が着ている衣服と全く同じで、『魏書倭人章』が記録したいわゆる「貫頭衣」と「招頭」がこれであったことを裏書きしている。

ことに手前の船の中心に三叉鉾を持って指揮している女性は、頭に冠をつけていて、その地位の高さ、女性上位の社会を証言する。

これもまた卑弥呼当時から現代のカリエン人まで継続している慣習と風俗で、絵の弓が上が長く下が短いことなどまで、3世紀の『魏書倭人章』の世界が、13世紀までほとんど変わることなく沖縄で続いていたことを示しているし、また三叉鉾はギリシャ神話の「海神」を象徴する武器で、この人々がギリシャ文化の継承者であり、いわゆる日本神話の「海神=わたずみの神」だったことを、この絵ではっきりと証明している。

※出典:日本国誕生の秘密 117~119頁


「13世紀の沖縄に倭人がいたか」

邪馬台国で有名な『魏書倭人章』には22ページの”貫頭衣”を着、布で招頭(頭を包む)し、下が短く上を長く持つ特殊な弓を使う倭人の風俗が記録されている。

この記事と全く同じ風俗の人々が13世紀の沖縄に現存したことを文章と絵で記録したものがある。

寛元元年(1243)肥前から中国へ向かった日本の商人たちが、漂流して沖縄に流れついた時に書いた『漂到琉球国記』がそれである。

さらに、この風習をもった人々は今も東南アジア各地に見つかる。

邪馬台国の謎はこうした部分から次第に解けつつあるものである。

写真をよく見比べてほしい。

「図」漂到琉球国記巻末絵図の一部:13世紀
13世紀の沖縄に倭人がいたか

※出典:日本人のルーツ 20頁


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沖縄各地に残るギリシャ人の海底遺跡

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「沖縄の海底遺跡」 
「与那国島海底遺跡」
「[PDF] 海底地形図による沖縄海底遺跡の 3D 表示」
「今後の研究課題・再検討価値が蘇ったムー大陸や古文献」
「ムー大陸実在! その実体は日本列島」
「オリエントの遷都開始期」


「沖縄の海底遺跡」 
沖縄の海底遺跡1
沖縄の海底遺跡2
沖縄の海底遺跡3
沖縄の海底遺跡4

「与那国島海底遺跡」
与那国島海底遺跡
与那国島海底遺跡

「[PDF] 海底地形図による沖縄海底遺跡の 3D 表示」
「[PDF] 海底地形図による沖縄海底遺跡の 3D 表示」


「今後の研究課題・再検討価値が蘇ったムー大陸や古文献」

チャーチワードがインドで発見したという『ムー大陸』の話もまた、従来は余り信じられていなかったが、その実体は8000年続いた我が国の話が誤伝されたものと考えると、生々(いきいき)とした生命を持ちはじめる。

我が国はその位置もアジヤの東の海上に実在している。

ただ「ムー大陸」という表現に比べて日本列島はそのサイズが小さいので、地震国である我が国で絶えず起こり続けていた海没した部分の話が、誇大に伝えられたと考えると、辻褄が合ってくる。

そうでないと我が国の存在が、余りにも西の国々に伝わっていないのが不思議なのである。

我国が8000年の歴史を持っていたことが確認できてみると、過去に誤伝や捏造だといって無視されてきた古文献も、改めて再検討する価値が、確実に再生してきたのである。

なぜならインドの人たちも、殷の人たちも、同族であるだけでなく、貝貨幣に始まって、銅の矛や剣や鏡などが、大量に通商されていた事実が、動かぬ物証として残っているのに、その記録はまるで見つかっていないからである。

過去の『文献』のみによる歴史学の手法は確実に欠落した部分をもっている。

それは時代遅れの欠陥学術だったことが明白になった。

これから本当の私たちの先祖の歴史が、続々と生命を蘇らせはじめる。

それは全て言語復原史学会の講座で永年ご研鑽になった先生方の世界の誰も持たない知識による、ご指導によるものなのである。
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録32
:32頁

「ムー大陸実在! その実体は日本列島」

我が国と中国は、少なくとも三千数千年前には同じウバイド人が住み、その伝統の女性主導「大母=大婆(ウバイ)王」国の首都をなしていた。

この母の一音「モ(一例=母里(モリ)」は、沖縄語では「ムー」に成る。

ムー大陸があったという説を頭から嘘と決め手かかるのは間違いである。

それは位置、内容ともに、言語復原史学会で解明してきた真相と多くの一致点をもち、日本列島を巨大な陸地と感じて「大陸」と呼んだことも当然のことである。

言語復原史学会の研究はこれからますます面白くなる予感がする。

これまで検討してきた「ウバイド=ウワイト=倭人」の事実は、すでに疑う余地のない証拠群を積み上げたが、まだ大量にあって、それを全部言語復原史学会の講座で扱うのは場違いである。

これで充分ご納得がいったと思うので、ウバイドの発生と発展の背景である古代オリエント史を、見易く整理しておくことに使う。

在来のオリエント学説では、オリエントの最古の集落遺跡は、イランとイラクとトルコの周辺に散在する農排と牧畜による食料生産経済発生に伴う遺跡群で、紀元前7000年頃のものであろうとされていた。

続いていてメソポタミヤ北部で紀元前6000年頃の新石器を使う人々の村落跡が発見され、サマッラで最古の灌漑農耕施投が見つかっているが、ウバイドが属するメソポタミヤ南部にはせいぜい紀元前5300年頃の集落遺跡しかないとされていた。
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録38
:29頁

「オリエントの遷都開始期」

1980年代にウバイド遺跡の洪積層の下に、さらに古代の遺跡が見つかり、発掘調査の結果、それが8000年前のものだと確認されたが、折悪しく発生した湾岸戦争で中断し、それ以上の進展は見られないから、考古学的な実態は今のところ不鮮明である。

私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。

調査の再開が待ち望まれる。

発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、

その決定方法などをお考えになってお教え頂きたい。

B.C.E.9000年  最古の農耕・牧畜集落遺跡群散在

B.C.E.8000年  前ウバイド期の集落遺跡

B.C.E.8000年  最古の灌漑農耕施設 サマッラ

B.C.E.8000年  新石器使用村落跡 メソポタミヤ北部

B.C.E.6500年
↓      ウバイド文化遺跡群
B.C.E.6000年  フジスタンにスサ誕生
↓      ウバイド文化の北部進出遺跡群
B.C.E.5500年
↓      ウルク期
B.C.E.5100年
↓      ジェムデト・ナスル期 都市化進展
B.C.E.5000年  スメル文明最盛期・都市国家群立
↓      初期王朝時代
B.C.E.1792年
↓      バビロン第一王朝
B.C.E.1750年

出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録38
:30頁

『語句説明』

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
与那国島海底地形
『マルドゥク』
『スーサ』
『ウルク (メソポタミア)』
『北メソポタミア山麓地帯』
『ウバイド文明』
『オリエント』
『メソポタミア』
『ムー大陸』
『古史古伝』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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2011年4月26日火曜日

浪速・難波・那覇はギリシャからきた地名

出典:言語復原史学会
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言語復原史学会


「実在した『季節名連邦』」
「四季の名が生まれ五彩圏超す『四季圏』実在」
「時間帯を教えてくれる地名変化の原則」
「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語」
「沖縄⇒佐賀⇒愛媛⇒大阪⇒群馬=倭国の足跡」
「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」
「卑弥呼がもっている名」
「dzia ma に一致する謝名(ぢゃな)と王称地名」
「奴国は種子島の中心地・野間」
「九州に実在した・数を国名にした国々」
「古代にはスキュタイ人・フン族と同じ「サカ人」が日本にもいた!」


「実在した『季節名連邦』」

カリエンたちは沖縄から九州、さらに朝鮮半島に広がっていったが、沖縄の首都は那覇。
奄美の首都は名瀬。いずれも「ナ」がついて『魏書倭人章』の奴国にあたるが、もう一つの奴国=筑紫の首都も今の福岡で、古名は娜(ナ)津。娜(ナ)津は「ナツ」で夏と同音である。
その福岡の東には今の広島県=「安芸」があり、「アキ」は秋と同音。
3世紀の卑弥呼時代には高句麗に隣接した北の国「夫余」が記録されているが、当時の政権の支配者たちが皆沖縄出身者であることを考えれば、「フヨ」という発音はなくて「フユ」でなければならないからこれも冬である。
そこで春を探してみると、広島より西の九州では原はハルと発音するから、北は対馬の厳原から南は屋久島の原までが候補地で、『倭名類聚鈔』には筑前に早良(佐波良=早春)郡。筑後に御原(=深春)郡。
肥後託麻郡に波良(=春)。肥後葦北郡に桑原(クワ=コワ=酷=酷春)がある。
また鹿児島語では春も原もハリも全て「ハイ」なので、薩摩郡幡利(現在の大口市針持=巴利国)。
大隅の桑原郡。肝属郡の桑原も候補地だが、隼人も古くはハイトと発音したから「春都」だった可能性が高い。
このように方角と気温と気候と季節とに正確に対応した地名の分布で、五彩圏のほかに『季節名連邦』が実在したことは、充分立証されている。
ではそれは五彩圏連邦とどういう関係にあったのであろう…。
夫余は3世紀より前に存在したが、それと対応する奴国は、卑弥呼政権当時は旁国の
最南端にあったが、卑弥呼政権が倒されて邪馬壹国が誕生した時には、福岡まで北上移動した。
そこは九州北端だから春の国よりも北に位置して、南にあってこそ夏の国だったものが意味をなさなくなってしまった。
そのとき季節名連邦は崩壊してしまっている。
このことで季節名連邦は卑弥呼政権のものだったことがわかり、その後、位宮が五彩圏連邦制を採用したことがわかる。
それは後世まで五彩圏連邦の移動を跡づけることのできる地名が、ちゃんと分布しているからである。
※出典:大学講義録07 203頁

「四季の名が生まれ五彩圏超す『四季圏』実在」

天武天皇の死後、持統・元明・元正と女王制が復活したことに対応し、その都も飛鳥、藤原と、仏教倭国の再現を意味している。
邪馬壹国誕生で消滅したかに見えた卑弥呼時代の伝統が息を吹き返した。
それが皇族の填墓に五彩圏思想が見られる理由なのである。
では、壹與時代に始まった「ヒガシ・ニシ・ミナミ・キタ」という『方位名圏』は、どうなったのか?。
我が国には、もう一つ、春(ハル)・夏(ナツ)・秋(アキ)・冬(フユ)圏が実在していた。
これは『五彩圏』と『方位名圏』とに、さらに対立する領域名として、『四季圏』と呼べるものである。
まず冬だが、これは寒い季節だから北である。
高句麗の隣りに実在した夫余(フヨ)は、沖縄発音では「フユ」、ぴったり日本語の「冬」の発音と重なる。
夏は当然「南」だから、博多湾の古名「娜津」が「ナツ」。互いに対象的な位置にある。
その博多の福岡市には「春(ハル)町」があり、そのすぐ南には福岡市に隣接して春日市がある。
発音は「カスガ」市だし、位置も少し具合が悪いが、「ハル○」だった可能性がある。
これは西だから、その東を探すと、広鳥の古名は安芸(アキ)、これもまた、ぴったり「秋」に合う。
すると位置の悪い夏は娜津以外に、もっと南にあったはずである。
福岡と広島の東西の線から夫余までと、ほぼ等距離に、沖縄の首都・那覇がある。
そこは港で、古語の津だから、ナツに合う。
※出典:大学院講義録17 29頁

「時間帯を教えてくれる地名変化の原則」

那覇は「ナ」ではないが、沖縄語はウチナをウチナーと発音する。
このナは「国」を意味する国称だから「ナ」なのだが、それをナーとひっぱる。
そこで新井白石が「縄(ナハ)」と当て字したのである。
那覇も同じことで「覇」には元々特別な意味はない。
長くひっぱった語尾に、勿体をつけただけのものにすぎない。
港の津をつければナツ。
福岡の娜津はこの那覇津の人々が移動した先につけられた「港湾都市の名」だったのである。
これは冬夏の縦軸は沖縄本島から夫余までを含んでいるから、奄美に南限を置く卑弥呼の五彩圏より後で、沖縄を強く意識した時代のものだから、沖縄で即位した壹與と位宮の時代に始まっているが、その時代には広島はまだ安芸にはなっていない。
壹與時代にはナツとフユという日本語は生まれたが、四季圏はまだ生まれていない。
四季圏は、倭(ウワイ)が日向から中国地方に移動して、上井(アゲイ)に発音が変わり、それに「安芸(アゲイ)」という当て字がつけられたあと、「アキ」と読むようになるには相当年月がかかる。
中国地方を東進した倭人は卑弥呼と同じ高句麗系の長寿王=敏達天皇と用明天皇だから、その当時はまだウワイと呼ばれていた時代で、それがアゲイと発音を変え、文字も安芸に変えたあと、さらに「アキ」と続み変えられるのには、また時間がかかる。
※出典:大学院講義録17 30頁

「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語」

誤解はないと思うが、念の為に申し上げておくと、以上の一致点はその名詞のギリシャ語の「意味の部分」ではない。
ギリシャ語の名前の「発音の部分」が、日本では日本語として別の意味をもったのである。
これはその名詞が我が国に入ってくる前には無かった言葉が、その名詞が移住してきて、別の意味をもつ新らしい名詞にに生まれかわったのである。
この考え方が正しいかどうか検討するには、どうすればいいか?、それもお話ししてみよう。
ハルとセットになる日本語は夏、秋、冬である。
春がハルモニアが語源だとすると、他の3つはいつ生まれたのか?。
それは古来、日本列島に土着していた先住民の縄文人が、すでにもっていた言葉=原日本語だったのであろうか?。
ナツは娜津(なつ)と、アキは安芸(あき)と、フユは夫余(フユ)と同じ発音をもっている。
暑い季節は南、寒いところは北だから、春秋はその中間になければならない。
  春に当たるのはどこだろう?。
安芸を広島とすると、娜津は福岡だから同じ緯度にあって夏には合わなくなる。
その辺りには春がなければならないが、福岡市中央区と北九州市に春吉があり、福岡市博多区に春町がある。また読み方はカスガだが文字はハルの春日市は、福岡の南に隣接する市だ。
すると沖縄の那覇も海に面した都市だから古代には那津(ナツ)で、朝鮮半島の夫余(フユ)といい対象になる。
※出典:大学院講義録16 17頁

「沖縄⇒佐賀⇒愛媛⇒大阪⇒群馬=倭国の足跡」

朝倉は7世紀に斉明天皇が亡くなった筑前の地名、福岡県朝倉郡だとされるが、『倭名類聚鈔』の筑前の部にはない。
『倭名類聚砂』には全国でただ1か所、今の群馬県前橋市朝倉町が、那波(ナハ)の郡の筆頭にあるだけである。
だから大和には高市の郡にもない。
城上(きのかみ)郡に長谷が波都勢・ハツセと振り仮名してあるだけだ。
またその高市の郡には御所(ごせ)の名はなくて、「巨勢・こせ」がある。
これは雄略王朝が衰亡した後世に、ここを領有したのが巨勢氏だった証拠で、語源は五瀬や伊勢や石や御所(ゴセ)と同じだが、当て字をみると濁りは消えてコセである。
イサナギの名はここまでくると原形をとどめなくなる。
臣下の巨勢の住まいを御所とは呼ばないから、付近に葛城一族の居住痕跡が濃く、葛城という山があっても、だからと葛城王朝を妄想しては学者とは言えない。
那波(ナハ)の地名が出てきたチャンスに、ナハという地名がどれほど重要なものかもお話ししておこう。
沖縄の首都・那覇は、これまでまるで外国の地名のように見られ思われてきたが、那覇は間に助詞を挟むと那ヌ覇=ナヌハ=難波・浪速になる。
この助詞をガにすると那ガ覇=ナガハ+国(マ)=長浜。
ハを八と書くとナガヤ=長屋(王)。この発音変化ナグヤ=名護屋、名護。
ナゴヤ=名護屋・名古屋。
だから難波や浪速の渡りも転々と移動しているのである。
※出典:大学院講義録15 24頁

「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」

日本列島におけるギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。

沖縄列島の最西端は日本の最西端である、そこを出発点として、日本列島の中に残っているそのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、フリップ化してたどってみよう。

1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に

2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが

4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。

5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島

このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、すでによくご存じである。

それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、彼女が<徐那伐>で即位したと記録しているが、これはヨナバルという発音で、与那原を北九州語で発音したものに朝鮮語で当て字したものだからである。
このことは他にも多くの証拠を残している。
壹與が新羅の初代女王だということは神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、彼女らがパーリ語を話したこと。
赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。などなど……。
※出典:大学院講義録11 17頁

「卑弥呼がもっている名」

ソナカとの出会いと結婚」



神石  石 パーリ amhan  アマ・アマノ (これはアマを「石」と聞き違えた)

白石  白 パーリ odata  オダ一夕   (シラは新羅の誤解)

白 パーリ seta セタ

比売語曾の杜の神(卑弥呼尊)パーリ pemaka ぺマカ 愛 ギリシャ Αγαπη Agaph

比売許曾の   (姫木王尊=ヒメキョオソン)

比売碁曾社(難波・阿加流比売は那覇・大日霎 豊国は ホ=百・穂・日)

赤絹      (新羅人が奪う。取られたのは村人)

(赤 阿加流比売のことを誤解)

(赤幸 パーリ akasati アーカーサチ 光り輝く)

赤織りの絹    (新羅人は王子自身の話)

アカリ=   阿加流  明り

赤玉       (新羅に阿具奴摩という沼)
クヌマ→クルマ→高句麗

玉 パーリ gula グラ (Sk.guda グダ)

パーリ mani マニ       クダ
(グラは大隅語クダ、下、馬、玉が混乱)

阿加流比売    (オ大 力日 ルメ 流 売 霎)

※出典:大学院講義録03 28頁

「dzia ma に一致する謝名(ぢゃな)と王称地名」

だがここで注意がいるのは、古代の沖縄語の主流は、3母音語で O 音がないはずなのに、このヨナを表現する漢字の徐も与も O 音をもっている事実である。
その理由はイオニアのパーリ語訛り「ヨーナ」が、この島名のヨナの語源で、パーリ語には O 音 があるから、その名残をとどめているからなのであり、命名の後に沖縄の住民の主流がマレー語系の人々に変化したため、3母音語が中央語になったことがわかる。
カールグレンが気づいた邪の dzio と dzia の2音は、まさにこの時代変化に一致する。
とすると、 O 音を失った地名が他にもある可能性があるということになる。
Dzia に相当する地名が沖縄にもないか探してみると、最も近いのは謝名(ヂャナ)で、国頭(くにかみ)郡の今帰仁(なきじん)村にあるし、謝名城(ヂャナシロ・ヂャナグスク)も国頭郡の大宜味(おおぎみ)村にある。
この大宜味(おおぎみ)も国頭(くにがみ)という郡名も「大君=王」「国頭=首都」を意味する地名である。
またこの地域の最高峰である与那覇岳の名は、ヂャナとヨナ=イオニアが元は1つだったことを証明しているから、すでにここに邪の字の dzio と dzia の2音の分裂が見られるが、それだけではない。
拗音のない鹿児島語の特徴をもった地名もある。
慶良間列島の座間味(ざまみ)島がそれで、このザマは一見して鹿児島語タイプ。
ヂャマとは僅かな方言差しかない。
※出典:大学講義録13 4頁

「奴国は種子島の中心地・野間」

屋久島には、東北部にある宮の浦の、ちょうど反対側にあたる北西部に「永田」がある。
田を国称であるラの訛り「ダ」だとみると、このナガタは「奴ガ国」とみられなくはない。
しかし奴の発音は漢魏音 no 隋唐音 nuo 明清音 nu であって na ではない。
旁国を記録した帯方郡使は、耳で聴いた発音を忠実に写す当て字を選んでいるから、奴の発音は漢魏音の、「 no =ノ」でなければならない。
当時の鹿児島以南の国称が、多ぐ「マ」であったことを考えると、奴国は「ノマ」と呼ばれた可能性が最も高い。
すると種子島には中央部にぴったり「野間」という地名がある。
現在、空港がある中種子町の中心部である。
その西南には港をもった「島間」があって、ここも「斯馬国」と同名である。
しかし旁国の最南端という奴国=野間より南にあるから、倭人章に書かれた斯馬国ではない。
別の時代のものなのだ。
では、その野間は屋久島の狗奴国より北にあるだろうか?。
屋久島の北端は島間よりさらに南にある。
屋久島全体が野間より南にあるから、狗奴国はもちろん、邪馬国まで含めても、奴国=野間の南にある。
すると日本式数詞の「ナ・ヤ・コ・ト」は、この野間・邪古・十島で北から南に正確に配列されている。
どこからみても、この「野間」以上に奴国に一致する地点はない。
この「ナ」の数詞は、より古い奴国だった那覇と同じく沖縄発音なのである。
※出典:大学講義録13 25頁

「九州に実在した・数を国名にした国々」

沖縄語はマレー語系だから3母音語なのであるが、そのマレー語で「1」を意味する「サツ」が国名の「壹」に取って変わって壹国(マ)→「薩摩(マ)」という国名になったのも、さきにお話しした8世紀の薩末(マ)比売の時代からで、その証拠に、ご覧のとおり薩摩という文字も、当時はまだ完成せず薩末(マ)と当て字している。
だがそれは、その地域が壹国、すなわち壹與と伊支馬を首班とする邪馬壹国だったことの、生きた証拠なのだということである。
では壹国とはどんな意味をもった国名だつたのか?。
実は古代九州には数を国名にした国々が完備していたのである。挙げてみよう。

一国 伊支馬・壹国

二国 日本

三国 三瀦(づま)=三津国(福岡県)

四国 斯馬

五国 呼邑・五島(長崎県)

六国 六合=リクアウ→リクウ=琉球・陸奥=ムツも6

七国 敷根=シッネ(鹿児島県)

八国 八耶=ハヤ=隼人(鹿児島県)・八幡=ハチマン=八国(マン)の(鹿児島県)

九国 狗奴・球磨(鹿児島・熊本県)

十国 重富=ジュウフ(鹿児島県)・投馬=十之国=十島(鹿児島県)

これらは3世紀より前に沖縄から九州全域に分布して、消長があったことがわかる。
古代九州には、数を国名にした国々が、もう1種類ある。
上記はイチ・ニ ・サンという中国の数詞だったが、下記はヒ-・フー・ミーという日本式数詞なのだ。

ヒー 火・日・肥

フー 不弥・不呼

ミー 弥奴

ヨー 与那

イツ 伊都

ムー 霧島・武・牟田

ナー 奴国・那覇・娜・儺

ヤ  八女・山国

コー 高麗・甲突川(鹿児島市)・コーツキ=高津王

トー 投馬=十国=十島

倭人章の中に記録されていない国名があるが、それは「もと百余国あったが、使訳=使者や通訳、通ぜる=これには「外交関係がある」と「知っている」との2つの意味があるが、そんな国が30か国ある」という報告記事があるのだから、魏との外交関係のない国が、記録に入っている国々以外に、まだ70国あったのであって、この数詞の国はその全体に散らばっていたのである。
それが2千年近く経った今でも確認できるほど完全に揃っていることは、それが偶然そう見えるだけなのではなくて、本当に実在したことの証言なのである。
この事実は、3世紀以前の九州の文化が、すでに中国の数詞と日本の数詞とを使い分け、それに対応する漢字も使いこなしていたことを、しっかり立証しているのである。
※出典:大学講義録12 10・13頁

「古代にはスキュタイ人・フン族と同じ「サカ人」が日本にもいた!」

「難波」この地名は古式に頭音使用で読むと「ナハ」である。
これは沖縄の首都那覇市とぴったり同じだ。
しかし敵の皇子たちがいる場所は鹿児島なのだから、沖縄ではありえない。
鹿児島には市の西はずれに谷山という地名がある。
ここは「タンニャマ」と発音する。
この発音と「難波」は共通点が多い。
難の字は「ナン」のほかに「ダン」の発音もある。
というより本当はダンだった、といったほうがいい。
だから難波は古代には「ダニハ」とか「ダヌハ」という発音に対する当て字だったのである。
日本の古代には国のことを「マ」という人々がいたことは、先にも話した。
これは中国では「塞(サカ)」。ギリシャではスキタイ。
ヨーロッパでは「フンとかハン」とか呼ばれてる人々の言葉で、「国・領土・世界」といった意味に使われる。
その人たちが沖縄の島々に、タラマ(多良間)、ケラマ(慶良間)という地名を残した。
『魏書倭人章』にはもっと多くの国名が、この「マ」をもっている。投馬・斯馬、邪馬などがそれだし、巴利国も後世に「播磨」と書かれているのをみると、やはり「ハリマ」だったのである。
だから「ダニハ国」は「ダニハマ」。
古代には「ハ」は「八(ハチ)」の字の影響で「ヤ」と発音する例が多いから、これを濁らずに清音で発音すれば「谷山(タニヤマ)」と当て字することになる。
この「サカ」の人々がいた地名は、他にもたくさん残っている。
「佐賀・嵯峨」もそうだし、大阪の語源もそだということが分かった。
それはだれでも知っている大阪弁の代表的特徴である「……ネン」という語尾は、その人々が今も世界のあちこちで毎日使っている言葉だからである。
その言葉は「フィン・ウゴル語」と呼ぶ言語の仲間で、今では日本から最も遠い国になってしまっているフィンランドの言葉も、実に多くの日本語との共通語をもっている。
私は特にこの系統の言語を永く研究してきて、それが日本語のルーツの主要な柱の一つであることをよく知っている。
※出典:大学講義録HIMIKO 97頁


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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
   シュメル-人類最古の文明  

2011年4月25日月曜日

嘉手納(カデナ)はアテナが語源

出典:言語復原史学会

「ギリシャと我が国共通の名乗り地名」
「ダイダラはギリシャ文化人の命名」
「八俣(やまた)の大蛇(おろち)も八幡の大神」
「種子島広田遺跡で出土した女王用のカメオ」
「カドモス伝承はどれだけ我が国と関係があるか?」
「邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島」
「沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字」
「阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字」
「ギリシャ問題が不可欠だった『魏書倭人章』解明」
「名乗りはギリシャから来た文化」
「竜を退治てテバイ王になったカドモス」
「観世音像のルーツはアテナ像」
「そのまま卑弥呼女王像でもある「金色」の女神像」
「旧・百済の郡県名は出身地までわかる日本語地名」
「弥生に大和朝廷があれば半島も関西地名のはず」
「ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音」
「ウワイ女王国を先頭に東進した」 
「宇治のルーツは沖縄のウチナだった」
「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」
「日本が誕生したとき」
「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」
「日本の竜蛇信仰」

「ギリシャと我が国共通の名乗り地名」

カヂキウス  加治木御主 加治木王 沖縄で使われた王名
シラキウス  新羅 御主 新羅王  今はイタリー領のシシリー島王という名
デゥス    大  御主 大国主  大碓(デウス)のミコト(日本武尊の兄)
ポセイドン  百済 殿  百済王  大隅・穂積・百舌鳥耳(大阪府堺市仁徳陵一帯)
アポルロン  阿日津殿  日本王  ルの南九州発音はヅ、ロはド。大津=ウル
アテナ    嘉手納   吾田女  沖縄語は手はタ。吾田は鹿児島県阿多に移る
アンピトリテ 奄美取手  奄美王  古音ではピはビになる。取手は分かれて茨城へ
スサノオ   須佐之王  須佐王  スサ今のイランのスーサと島根県の須佐

これでわかることは、スサノオだけはギリシャでなくスメルの地名が名乗りになっていることである。
しかし、その名乗りは完全に王たちの伝統の中に重要な位置に重きをなして、ギリシャ系の名乗りよりも、むしろより尊貴な名乗りとして使われて、中国で編集された当時の我が国の記録に、次々に重要な王、または高官の名として掲載記録されている。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ201頁

「ダイダラはギリシャ文化人の命名」

ダイダラボッチは、これまで、野蛮な田舎者たちが、デタラメに考え出した伝説で、その名もやはり思いつきに過ぎないとされてきた。
その名の由来など考えた人もなく、ポリネシアの「ランギ・パパ」伝説が伝わったものだろう、などと言っている。
しかし、名が手掛かりになるのなら、もっと適格な候補者がある。
それはギリシャ神話のダイダロスだ。
彼は、古代ギリシャ最大の大発明家で、金属の斧、船の帆、車、運搬車などを、発明して、ギリシャを富ませ、大文明国にした大恩人である。
アテナイに住んでいたから、その才能で女神アテナにたいへん愛された。
アテナはそれを人間に教えた。
それが発展してそれまで人類が知らなかった「機械技術文明」をつくり出した。
その恩恵に浴している現代の人類の大恩人なのである。
私たちこそ、それを知らなかったが、我が国の古代人は、それをよく知っていたから、ウッタラの名を「大陀良(うつたら)」と書いた当て字をダイダラと読んだ。
法師はボッチと読んだ。
ダイダラボッチの名は、こうして生まれたのだとわかる。
ダイダロスは金属工業の先覚者である。
我が国の鍛治の神・八幡様とは、切っても切れない関係にある。
これで剣や鎧を我が国で造った人たちには、ダイダロスの名は神として常識だった時代があり、それが直ちにウッタラへの当て字をダイダラと読ませてしまったことが、手にとるようにお見えになったと思う。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ114頁

「八俣(やまた)の大蛇(おろち)も八幡の大神」

篤姫の嶋津家が、八幡領を荒らす者を討ち、その代償として嶋津之庄として領地を分け合った正八幡とは、もとは神功皇后と応神天皇の皇居であり、皇大神宮にも劣らぬ信仰と遺跡を伝える組織で、租税の徴収権をもっていて当然だったのである。
それが乱世になって、暴力に手も足も出なくなって頼ったのが、武力の持ち主であって、頼朝が征夷大将軍の権力を与えられて、八幡宮の税収も回復し確保できたという関係にあったことがおわかりいただけたと思う。
それにしては嶋津家側の収税額が多過ぎる感があるが、それが当時の実力とものの考え方を示しているのである。
和銅期の政府はなぜこんなことが必要だったか?
理由は次をお読みいただくと、簡単におわかりになる。
八幡はヤバタとも読める。
馬の発音はバともマとも読める。
これは日本語には鼻をつまんだような鼻濁音方言もあって、八幡は様々に発音され、様々に聞こえる。
その一つがヤマタである。
だから「八俣の大蛇」というのは、八幡の大神のことなのだ。
「大神」は、沖縄や南九州では、大=オオは「ウ」。
神=ジンは「チヌ」だからウチヌ、これは標準語になおせば「ウチの=内の・宇治の」と受けとられるし、沖縄式にウチナと発音すれば「沖縄(うちなー)」と受けとられる。
沖縄は大神が語源で、その大神は天照大神を意味したり、女神アテナを意味したりしている。
それは漢字で阿手名(あてな)王と書くと、阿には可(か)の発音もあるから「カテナウ」と読まれる。
今の嘉手納になってしまったのだ。
八幡の大神にも同じことが起こって、「ヤマタのウチン=八俣の大蛇の」という表現が派生した。
スサノオのミコトは、八幡の大神を斬り殺したのである。
これは史実ではあるが、八幡信仰が重要な国家経済の根幹になっていた当時、その最大の信仰対象を、「斬り殺されたヘビ」と決定してしまっては、余りにも人心を乱し過ぎる、と恐れた政府官僚の意見が通って、「好字に変えよ」という命令が出されたと考えられるのである。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ102~103頁

「種子島広田遺跡で出土した女王用のカメオ」

『古事記』は開巻第一に皇祖を「天の御中主神」と書いたのだ。
これが<美智能宇斯>=道の大人(うし)=『神武天皇紀』の道の臣の命、語源=美紐縫・ビシェヌウ神で、神武天皇=垂仁天皇(高句麗の山上王・位宮)を高句麗で救け、琉球へ連れ戻した種子島×高句麗海軍の総帥だった人物である。
その別名は豊玉彦。豊玉姫の父。 
垂仁天皇は彦日日出見の尊、娘婿だから「入彦=入り婿」を名乗るのである。
しかし『記・紀』はそれを男王制に書替え、彼の五人の娘・日葉酢姫=壹與らを後妻扱いしているが、本来の「倭=ウワイ」の優婆畏=女王制は卑弥呼以前から実在していたことがわかる。
南種子町・広田遺跡出土のギリシャ文字を装飾化した貝製のカメオ細工は、ギリシャの女神アテナ像や、インドの仏像類にみるものと共通のもので、女性祭祀王の身体装飾品とみるしかない。
男王制は後のもの名のである。
貝細工カメオは地中海で発展したもので、道の大人が率いていたのはギリシャ海軍の流れを受け継いだもの、 海神ポセイドンが百済出水(後に出雲)という国名を生んだのも、道の大人がビシュヌウ神を名乗り、卑弥呼がペマカ「愛」、それがマレー語でカシーと呼ばれて、香椎・観世音(カシイ)と当て字されたのも、すべてギリシャ・インド文明が沖縄から種子島を経て、南九州に上陸した史実を、疑いようもなく立証している証拠群なのである。
※出典:大学院講義録29 21頁

「カドモス伝承はどれだけ我が国と関係があるか?」

だから本題に戻ると、フェニキヤやカドモスと我が国とが、どれほど深い繋(つな)がりがあるか、さらに詳しく再確認する
必要がある。
カドモス伝承を手短かに再検討してみよう。
彼はフェニキヤの王子で、妹エウロペ=ユウロパがゼウスにさらわれたのを探しに出かける。
すると女神アテナが彼を助け、女神の助言を守って行動すれば強大な国を発見して王になることができると予言した。
その言葉を信じたカドモスは、今のアテネに近いテーベで竜と戦って倒し、その竜の歯をとって蒔くと、その歯が鉄の鎧を看た武士に変身したので、彼等を部下にしてテーベを取り、強大な都市国家テーバイにして、美の女神アプロディテの娘・ハルモニアと結婚し、二人の娘・セメレとイノを生む。
そのセメレは酒神で祝祭の神のディオニュソスを生んだ。
ゼウスはエウロペを、自分が生まれたクレタ島のイデ山にある豪華な部屋に隠し、彼女に女性最高の栄誉を与えて、彼女の子孫は「その名にちなんで名づけられたまったく新しい土地に住ませる」と約束し、彼女はミノスたち3人の子供を生んだ。
予言通りミノス大王はクレタを当時の世界最強の帝国にしたし、エウロペの名から確かにエウロパ=ヨーロッパが生まれた。
では、ここに登場した名前のうちどれだけが我が国と関係があるか見てみよう。
※出典:大学院講義録21 7頁

「邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島」

① ユウロ 邑婁(ユウロ) ヨーロッパだけでなく、『親書東夷条』には邑婁が明記されている。
その位置は朝鮮半島の北端、高句麗の隣国で、冬でも裸でいるという。
古代ギリシャの風俗画そのままの国民が、古代ギリシャ式に洞穴に住む。

② ゼウス 天照(ゼウ)ス 大神卑弥呼がソナカと結婚する前は、ゼウスを祭る神官で、この大神に仕えており、これはその神名に対する当て字だという結論になる。

③ アテナ 嘉手納    沖縄の現在の大きな地域名・嘉手納は古代にアテナという地名に当てた当て字から変化したもの。

④ カドモス 門松    海神ポセイドンの聖木・松は船の用材として尊とばれた。
それを新年の象徴として門に飾りカドマツと呼ぶのは、フェニキヤ系ギリシャ人の英雄・カドモスのテーバイ王国建国と繁栄の幸運を子々孫々まで忘れず、自分たちもまたそれに、
あやかりたいという祈りの表現。

⑤ テーベ 千葉     テーバイは原名・テーベに「ai]という国称語尾をつけたものである沖縄発音は「e」を「i」に発音するから、テーベはチバになる。

⑥ アフロディテ     淡路島は。
淡=アフ、路=ロ、島=ジ国(マ)で、アフロジ津国への当て字。
※出典:大学院講義録21 8頁

「カドモス伝承はどれだけ我が国と関係があるか?」

だから本題に戻ると、フェニキヤやカドモスと我が国とが、どれほど深い繋(つな)がりがあるか、さらに詳しく再確認する
必要がある。
カドモス伝承を手短かに再検討してみよう。
彼はフェニキヤの王子で、妹エウロペ=ユウロパがゼウスにさらわれたのを探しに出かける。
すると女神アテナが彼を助け、女神の助言を守って行動すれば強大な国を発見して王になることができると予言した。
その言葉を信じたカドモスは、今のアテネに近いテーベで竜と戦って倒し、その竜の歯をとって蒔くと、その歯が鉄の鎧を看た武士に変身したので、彼等を部下にしてテーベを取り、強大な都市国家テーバイにして、美の女神アプロディテの娘・ハルモニアと結婚し、二人の娘・セメレとイノを生む。
そのセメレは酒神で祝祭の神のディオニュソスを生んだ。
ゼウスはエウロペを、自分が生まれたクレタ島のイデ山にある豪華な部屋に隠し、彼女に女性最高の栄誉を与えて、彼女の子孫は「その名にちなんで名づけられたまったく新しい土地に住ませる」と約束し、彼女はミノスたち3人の子供を生んだ。
予言通りミノス大王はクレタを当時の世界最強の帝国にしたし、エウロペの名から確かにエウロパ=ヨーロッパが生まれた。
では、ここに登場した名前のうちどれだけが我が国と関係があるか見てみよう。
※出典:大学院講義録21 7頁

「沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字」

1000人もの女性が卑弥呼に仕えていたという記事には、これまで確実な定説はなかった。
その実体は何だったか?。
ギリシャ人の優位が確実になると、これまでテンソンと読むのが正しいと、無根拠に定説化していた「天孫」は、女性軍団「アマゾン」で有名なギリシャの女性上位国への当て字とみることが必要になる。
アテナ像が、十一面観音像の原型だという理由が、一層鮮明に理解できるようになる。
御存知のようにアテナはゼウスの娘で、武装した女神である。
卑弥呼と壹與とが混合した神功皇后もまた武装した女王で、当時の人々には女神である。
どこかにその遺物が残っている可能性がある。
卑弥呼も壹與もその故郷は沖縄である。
すると沖縄本島に「嘉手納」という語源不明の地名がある。
E音のない沖縄語がなぜか?わざわざ「手」という文字を使っているから、
これをテとよめば、納の字を「ナ」と読ませるのはアテナが元の名だったからではないかと思いつく。
嘉の字はカだが、カとアは色々な理由で入れ換わる。
阿の字は本来はツクリの「可」の音でカだったし、乎、呵、呀、乎、遏なども、ア・カ双方に使っている。
また中国と韓国では私たちがカと発音する文字をハまたはアと発音するものが多いし、漢音と訓音でカとアが変わるものも多い。
嘉手納が、もとアテナだった可能性は大きい。
※出典:大学院講義録20 15頁

「阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字」

沖縄は、近世には嶋津藩と中国の宋とに、2重に服属するという複雑な歴史をもつように、その支配者は変転を繰り返しているから、本来はアテナだったものが、それを嫌って後世に、嘉手納という当て字に変えられたとしても不思議ではない。
ではアテナだとどうなるか?。
瓊瓊杵(ニニギ)の命の妃も神武天皇の妃も共に「アタノヒメ」である。
手は古音タだからアタノは「阿手奴」と書かれてアテナへの当て字だったが、それを「阿多之・阿多都(つ)・吾田津・吾田ノ」などと当て字したために、「アタノ」の方が本当らしくなってしまったのである。
神武天皇妃のモデルは、『崇神天皇紀』の武埴安彦の妻・吾田媛だから、夫とともに戦場へ行って戦っている。
この女神はアマゾンの象徴だから、女武者でありアマゾンだとすぐわかる。
天孫(てんそん)ニニギの尊というのは間違いで、アマゾンとニニギの尊は、2つに分けて読まなければいけないのである。
阿多は鹿児島県の地名だから吾田媛はそこの出身だと従来は考えてきたが、こうみてくると阿多囲も吾田囲もアテナへの当て字で、そこは嘉手納でなければならない。
それが後世に鹿児島に移ったのである。
この阿多国・吾田国はまたアタマと読める。
アタマ=頭。アテナは父の「頭」を破って飛び出した。
アタマという日本語にハッキリ関連が認められる。
※出典:大学院講義録20 16頁

「ギリシャ問題が不可欠だった『魏書倭人章』解明」

嘉手納も日本語の誕生に深く関わっている。
「手」は古音タだから嘉手納はカタナである。
カタナは刀で武器、アテナやアマゾンの持ち物である。
八俣大蛇退治は天照大神をスサノオが討った話で、真相は位宮が卑弥呼を倒した歴史だが、その時、天照大神は武装して弟神を迎える。
大蛇を倒したスサノオは天ノ叢書ノ剣を手にいれる。
天はチヌで沖縄、叢はソウで曽於=大隅、雲はクモで熊毛から球磨。
卑弥呼の名乗りに合う。
それが倒された女王の象徴なのだからご神体である。
それが祭られていたのは「熱田神宮」、これはアタノ神宮だからアテナ神宮。
そのアテナが嘉手納に変わったから、その御神体もカタナと呼ばれた。
だから「剣=刀」であるということがわかる。
嘉手納は間違いなくアテナから変形したものだったことが理解できる。
卑弥呼の「千人の侍女」は、アマゾンたちだったのであり、卑弥呼がギリシャ文化の継承者だったことがわかる。
同じ『魏書倭人章』に書かれた倭国民の男性の横幅衣横幅衣が「無縫で、但、結束」してあるだけだというのが、古代ギリシャ男性の衣服・トーガで、女性の貫頭衣は、 アテナ像が着ているのと同じものだと断定できるし、倭人(ウワイト)が目上に尊敬や誓約を表わすのに「搏手」するというのも、ベンガルの手締め→今の神への拍手と同じものだとわかる。
※出典:大学院講義録20 17頁

「名乗りはギリシャから来た文化」

名乗りの由来は、白鳥の跡を追って出雲または但馬で捕らえ、それを皇子に献上した「鳥取造の祖」の天の湯河板挙にあると、『日本書紀』は垂仁天皇23年10月の小節に書く。
この人物の板挙という名は「イタアゲル」、当て字を変えると「倭・健、ヤマトタケルと同じになる。
この英雄皇子の陵は3つもあるが皆「白鳥陵」と呼ばれている。
どうみても倭健と仲哀天皇は蘆髪蒲見別王を含めて同一人物なのである。
だが湯河板挙は白鳥を追って出雲や但馬まで行っている。
『古事記』になると姓名も山辺の大鷹(たか)に変わり、白鳥を追ったコースも木の国から針間、旦波、三野、科野(しなの)、高志などと、大変な旅を重ねて捕ったとある。
これではとても卑弥呼時代の話ではなくなる。
これは出雲(イズン)は出水(イズン)。
但馬(タジマ)は種子島(タジマ)と読むと、話の原型がわかり、奄美から南九州までの、活動範囲に納まる。
大鷹(たか)という名も「大高=大島と高の国」を意味し、少しもおかしくない。
こうして「名乗り」は素晴らしい働きをしてくれるのである。
ギリシャにはヘルマプロデイトスという名がある。
これはヘルメスとアプロディテとの間に生まれたオス=男という「名乗り」なのである。
名乗りと地名の関係はアテネとアテナイ、ロムルスとローマ、アレクサンドロスとアレキサンドリヤなどで充分理解できる。
※出典:大学院講義録17 26頁

「竜を退治てテバイ王になったカドモス」

ではカドモスが我が国までやってきたのであろうか?。
実は彼らはフェニキヤで大事件に巻き込まれて四散してしまうのである。
事件はエウロペが誘拐されて行方不明になったことから始まる。
父はエウロペが見つかるまで帰るなと兄弟たちを探しに出す。
カドモスは母のテレパッサと同行するが、母はトラキヤで死ぬ。
そこで一人で旅を続けてデルポイへ行き、神殿へ参詣して神にたずねる。
するとビューティアの告げた神託は「牝牛を道案内にして、牝牛が倒れた所に町を造れ」という。
すると本当に彼の前に立って歩く牝牛が現われたので、それについていくと、現在のテパイ市で止まって倒れてしまった。
従者をアレスの泉に水を汲みに行かせると、泉を守っていた竜が従者たちを殺したので、退治た。
すると女神・アテナが現われて、竜の歯を撒けという。
それにしたがって歯を折りとって撒くと、それが鎧兜で武装した兵士たちになった。
その数が余りに多いのでカドモスは石を投げっけたところ、兵士たちは怒って同士討ちを始め、どんどん倒れていき最強の5人が残った。
しかし行為を恥じたカドモスは、晴罪のために8年間、神々に仕えた。
それをめでて、アテネは王国を、ゼウスはアプロディテの娘・ハルモニアを妻として与えたので、4人の娘・アウトノエ、イノ、セメレ、アガウェと、男の子・ポリドロスが生まれた。
※出典:大学院講義録16 14頁

「観世音像のルーツはアテナ像」

卑弥呼が観世音菩薩だということは、詳しく関連部分でお話しした。

しかしそれをうまくお話しになるのは難しいとお考えの方もあると思ったので、一見してご納得のいく写真を、中級講座御卒業の付録として、お役に立てて戴き、記念にご保存戴くことにした。
この写真は、ギリシャ・アテネのアクロポリスにある神殿・パルテノンにあったアテナ像である。

90年近く前の写真で不鮮明だが、今はもう手に入らないので貴重なものである。
Αηθνα アテナは知性、技術、戦いを司る処女神でアテネ市の守護神だった。
アテネ市はB.C.E.5世紀の対ペルシャ戦争に大勝利後、デロス同盟を結んでギリシャ最強の大国、政治経済の中心になり、クレイステネスの改革で民主政治を確立した全世界の先進国だったが、ペロポンネソス戦争に敗れて衰退した工業港湾都市国家で、今も製鉄、繊維、化学、食品工業の中心都市である。
アテナ像と観音像の共通性の多さと、卑弥呼らの史実と、『記・紀』の天照大神の記事を考えると、 鉄器・繊維・化学の先進文化と民主主義といった先進文明が色濃く見られ、また沖縄本島の嘉手納も、韓・漢と同じく語頭のk音がなくなればアテナへの当て字であることも、すでに他のギリシャ神名などと共に検討済みで、卑弥呼らの血統には、このナテネ人の血と知性と技術と思想と信仰が、重なりあっていることがわかる。
※出典:大学講義録34 36頁

「そのまま卑弥呼女王像でもある「金色」の女神像」

アテナの像は異様な冠をかぶっているが、中央は女性の頭部、向かって左は馬、右は羊のように見える。
この発想は十一面観音や馬頭観音に結びつく。
これまではなぜ?、
仏が頭の上にコブのような小さな頭を乗せているのか、
またなぜ?、馬の頭の観音がいるのか?、
いろいろな説明を聞いても納得できなかったが、この像を見ればそれはこのアテナ像が発想の源だったとわかる。
それは当然のことで仏像がギリシャの神象をモデルにしてギリシャ人によって作られ始めたことは周知の事実だからだ。
卑弥呼はその金髪の見事さで両親を驚かせ、天照(ゼウス)大神に仕えるピュティア(稗田阿礼)として天に送られた。
そこで彼女はアマゾン=女性国の指揮者になったとしたら、知と技と学と戦さの女神・アテナの地位にあり、光華明彩、天孫(アマゾン)族の始祖、天照大女(み)神、機織り、スサノオとの対決の武装、剣、弓、曲玉、八爬(ヤアタ)の鏡が、このアテナ像に全て揃っているのを見る。
右手にしているのが剣、左手に持つのが弓である。
このアテナ像は「金色(こんじき)」に塗られていた。
卑弥呼の金髪がなぜ、両親に愛児を手放(てばな)させるはどの威力をもっていたか、それはアテネ人の黄金崇拝に根差している。
それはソナカ宣布団にも受け継がれていた。
彼らは東方の金地(スパルナ・ブーミー)国を求めた。
だからこそミャンマー、タイから奈良まで、大仏は皆「金色」なのである。
※出典:大学講義録34 37頁

「旧・百済の郡県名は出身地までわかる日本語地名」

念のため「地理三」の旧百済も見ておこう。
この地方も「景徳王十六年、熊州と改名」といったふうに徹底して名を変えているが、明かにもとの地名は日本(倭人)語だ。

清音県←伐音支(キリオトシ)県。
馴雉県←甘買(アマゲ=天城)県。
唐津県←伐首只(キリスキ)県。
孤山(コヤマ)県←鳥山(オヤマ=小山)県。
黄山都←黄等也山(キラ・ヤヤマ)郡、(ヤヤマは八重山)。
儒城県←奴斯只(ノシキ=野志木)県。
潔城郡←結己(ユウキ=結城)郡。
燕岐県←豆仍只(ツナキ=津奈木、改名後もツバキ)県。
昧(まい)谷県←未谷(ミタニ)県。
杜城県←豆伊(トイ=都井岬)県。
金溝県←仇知只(クチキ=朽木)山県。
大山郡←大戸山(ウシヤマ)郡。
井邑県←井村郡。
市津県←加知奈(カチナ=嘉手納)県。
雲梯県←只伐只(キバツキ=肝属・キバキ=木脇)県。
沃溝県←馬西良(マシラ=猿・真白)県。
平皐(コウ)県←首冬山県(ストヤマ=外山の大隅発音)。
野山県←閼也山(オヤヤマ=親山)県、
青雄県←居斯勿くイシモチ)県。
栢舟県←比史(ヒシ=菱)県。
代労県←馬斯良(マシラ=猿)県。
烏児県←烏次(ウジ=宇治)県。
馬邑県←古馬弥知(コマミチ=駒道・高麗道)県。

といった調子で、誰がみても出身地までわかるほど、はっきりした日本語地名だったのである。
※出典:大学講義録33 23頁

「弥生に大和朝廷があれば半島も関西地名のはず」

邪馬台国畿内説がいう、奈良や近畿に卑弥呼政権があったという説は、神武天皇の建国が奈良だということである。
仮にそれを正しいと仮定して考えてみよう。
神武天皇は大軍で東征してはいないから、その後進行した卑弥呼時代直前までの半島進出は、
近畿人が追い出されて移住した可能性も高く、小人数で折角取った土地に愛着のある南九州から同行した人々ではない。
紀元前後の弥生中後期には、近畿人が半島まで支配していたことになる。
この仮定の場合、その移住先の地名は近畿の地名と共通でなければならない。
ところが今ご覧の通り、半島の共通地名は全て九州地名である。
これは卑弥呼時代直前までの半島進出は九州人が行なった証拠で、それは同時に神武東征が卑弥呼時代以後だったことも証言しているのである。
どちらからみても卑弥呼以前から奈良に大和朝廷があり、それを継いで卑弥呼が奈良や近畿地方にいたという仮説は、この半島共通地名の問題によっても完全に否定されてしまう。
逆に卑弥呼政権が九州にあった可能性は、はるかに高まる。
例えば上記、馬韓の地名は、天城(鹿児島県徳之島)・甘木(楯岡県)、八重山・嘉手納(沖縄県)と、3世紀の近畿人が使うどころか、まるで知らなかったはずの特殊な地名が混じり、椿(飯塚市)、津奈木(熊本県)などという固有地名まで入っているからである。
※出典:大学講義録33 24頁

「ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音」

十字と同じく「四神」もまた四方を指し示す目印である。
日本では京都の御所(ごしょ)の門と街路がその名で呼ばれでいたのでよく知られている。
南の正面の門が朱雀門(すざくもん)で、それから真南へ九条にあった羅城門(らじようもん)までの大通りを朱雀大路(おおじ)といった。
これは平安京のものが残ったのだが、平安京は中国の唐の都をそっくりまねたもので、その「朱雀」などの名もまる写しである。
中国では始皇帝のころインド系の宗教が流行しはじめ、それ以前からあった道教と合体して仙人が主役になるが、仙人(リシ=ヒジリ)はインドのシバ(ヤマ)派の聖人のことである。
のちの邪馬壹国の和人たちが信仰したシンドゥ教もこの一派で、中国の山東半島の「方士」だった徐福らとは、貝貿易で知らぬ仲ではなかった。
しかし始皇帝は殷人の系統である商人を嫌い、ことごとに弾圧したので、和人が中国に顔を出すことはできず、宗教仲間の方士たちが代わって仕事をすすめてきた。
その「方士」という名でもわかるとおり、彼らは天文、方位、気象に明るい学者集団だった。
彼らは始皇帝に天地の神を祭らせ、道路整備をさせて、その知識を高く売りつけただけでなく、始皇帝の不死の夢をかきたてて「蓬莱」へ脱出することを計画し、ついに成功した。
それは暴君始皇帝がやがて、学者仲間を皆殺しにすることを予知していたからである。
四神というのは、このころに彼らが中国に広めたものだったのだ。
この四神は現代の日本では、奈良の高松塚古墳が発掘されて、その壁画にあったことから一般に有名になり、次第にポピュラーになったが、それ以前は前漢からの青銅鏡背面中央のツマミの回りに、四方に描かれているものが、歴史関係者に知られていた程度である。
この四神が描かれている銅鏡の「製造年代」を調べてみると、漢代以前のものはない。
その大半は、もうご存じの五胡十六国時代、六朝ごろのものである。
中国は漢人の勢力が衰えて、「胡」人が大量に中国に移住、群雄割拠して複数の王朝が乱立していた当時である。
胡人は和人と同じシンドゥ教徒だったから、ビシュヌーを中国式に表現した東王父と西王母を聖なる守り神として、鏡に彫りつけて礼拝の対象にしていたのである。
ビシュヌーが太陽神で東の象徴だったことを思い出していただきたい。
西王母は『山海経』に、髪の毛を振り乱した怪物で、西の神山・崑崙(こんろん)にいると書いてあるが、鏡の絵をみるとそのとおりに描かれている。
漢鏡の虎の絵はずいぶんちがうもので、むしろ人獅子のほうに近い。
ビシュヌーの妻は「シュリ」という。
この名が琉球の首都だった「首里」と同じ発音であることに注意がいる。
沖縄には代々の統治者が、それぞれ自分たちの信仰する女神を祭った遺跡があって、それが地名として残っている。
ギリシャ人は女神アテナを祭っていた。
それが「阿手納(アテナ)」と書かれ、のちに「可手納(カテナ)」と発音されて、今では「嘉手納(カテナ)」になって残っている。
同じことは阿直岐(アチキ)と可直岐(カチキ)・加治木(カチキ)の間にもみられる。
※出典:WAJIN 189~190頁

「ウワイ女王国を先頭に東進した」

ソナカがアショカ王の命を受けて東方布教を進めた大王の名であることは、本シリーズの読者にはもう申しあげるまでもないと思う。
その出発は紀元前の240年代で、ヒミコの事件が記録されたのが、奇しくも紀元後の240年代であることに、何か不思議な因縁を感じる。  
そのあいだ5世紀。それはビルマやタイ、インドシナ半島の各地を経て、インドネシアに至り、途中の各地を仏教圏に変えながら東進し、ついに台湾から沖縄を経由して九州に入った。
そしてその経過地に「ジャムプ・ディパ=ジャバ(爪哇・闍婆)・邪馬臺」と「タイ=泰・臺・俀」などの国名を残した。
その五彩圏はインド起源なのだ。
それが四神の起源と重なることは先にお話ししたが、それはすべての物事を「四」を基数にするインド文明の産物であることは、すぐおわかりになると思う。
そのインドで最も有名な「四」に、その悲惨なカースト制度(階級制度)がある。
それは当然「四つ」に分けられて「四姓」という階級を形づくっていた。
その種姓は下から
スーダラ=シュウドラ(不可触賎民(アンタッチヤブル))、
ヴァィシヤ     (庶民・商工業階級)、
クシャトリヤ    (武士・王族階級)、
ブラフマン     (天仙=聖職階級)の
四つで、赤・黒・黄・白がその象徴色であった。
これでわかるように、「青」がない。
ところが日本の五彩圏には、その青がある。
この違いは何によるものであろうか?
それは青が「倭(オオ=ウワイ)」であることでわかる。
それは女性仏教徒という「カースト」を超越したもの、悲惨な階級制度を拭い去った「救い」の教えの実践者だったのである。
ソナカはその女性布教団を東の先頭に立てて進んだ。
これが東が青であり、「倭(ウワイ)」という文字を中国人が当て字したものだったのである。
彼女たちはギリシャ系の美女を生き仏として崇めた。
それが東南アジアから太平洋にいまだに残る女性上位の国々のルーツなのである。
それはギリシャ人たちからみれば「アマゾネス」であり、「アテナ」であった。
それが後にシンドゥ化した沖縄でも、なお「嘉手納」という名を残した。
それはシンドゥの女神「シュリ」の名も「首里」として残したが、
それらは中国系支配者に変わった後も、一つにして「天妃」として廟に祭られた。
そして「アマゾネス」という言葉も、「天津(アマヅ)乙女子(オニョス)」という当て字として日本に残ったのである。
またギリシャ+サカ人の兜の形はソナカ仏教の僧帽としでラマ教に残り、日本の烏帽子やハワイの王冠にも跡を残している。
日本神話は天照大神が武装してスサノオと争った話を伝え、『記・紀』は神功皇后が男装して三韓を討った話を載せ、『魏書倭人章』はヒミコや壹與が戦った記録を残した。
すべて女戦士アマゾネスであり、武装した女神パラス・アテナの所行である。
こうして東に倭(アオ)、北に韓(クロ)、西に新羅(シロ)、南に大和(アカ)を配した一大五彩圏連邦が、次第に支配圏を広げていったのである。
※出典:WAJIN 242~243頁

「宇治のルーツは沖縄のウチナだった」

日本では「ナ」がいちばん少ないが、お隣の中国もチャイナだし、アテナ、アダナ、チラナなどギリシャ・ラテン系の地名には大量に見つかる。
日本の歴史文献では任那(ミマナ)が有名だが、ほかにも伊那や芦品(あじな)、津名、山名などがあり、ことに『倭人章』には奴国をはじめ奴が後につく国名が7つあり、そのいくつかはこの国称の「ナ」である可能性がある。
また「伊邪国」もイザナキや伊是名(いぜな)島などと比較すると、「イザナ」と読まれていた国だったことが分かる。
ことに沖縄は、その本当の国名の発音が「ウチナ」であり、そこには嘉手納(かでな)、恩納(うんな)、水納(みんな)といった「ナ」が語尾にくる地名や島名がある。
「宇治」は「ウチ」という発音への当て字であったから、「ウチナ」は国を「ナ」に置き換えた「宇ウ 治チ 国ナ」で、奄美大島の「宇ウ 治ジ 国マ」と同じものであったことが分かる。
<マ>と<ナ>が変わっただけだったのだ。
だがそれはどちらも、直接[大邪馬臺国]とは結びつかない。
宇治山田の前半分だけしかないからである。
このナゾはどうすれば解けるであろうか?たとえ前半分にしろ、関係があることは分かったから、今、沖縄にある地名を調べてみれば何か分かるかもしれない。
そうみて調べてみると、なんと、実に素晴らしい答えが見つかった!地名は歴史を「保存」していたのだ。
※出典:JINMU 67頁

「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」

これで永く神話だとされてきた天照大神が実在の人物で、その出身地まで現存していることが証明された。
しかし証拠としては、イザナキによく似た名前があったというだけじゃなと思う方がまだあるかも知れない。
それに答える証拠は、まだまだいくらでもある。
しかしそれはこの本の目的ではない。この本は一冊でヒミコのナゾを解くのが仕事である。
上の疑問には、だれがみても後に疑問を残さないものを、もう一つだけ提出して終りにしよう。
伊是名という名は島の名前だといってしまえばそれまでだが、それには何かの意味があるはずである。
それを明らかにしておこう。
これはそのまま読めば「イゼナ」であるが、濁音のなかった時代には何だったのか。
それは「イセナ」。「ナ」は古代の「国を意味する名詞の一つ」である。
ミマナ(任那)のほか、嘉手納、恩納、山名、猪名、伊那、稲、古那、与那国といった地名に今も残っている。
これは「イセ国」で、漢字で書けば「伊勢国」だったのである。
なぜ、天照大神が「伊勢の大神」だったかが分かったと思う。
ではその「イセナ」の語源は?と次々にきりがないが、それもまた分かっている。
それは後の「卑弥呼の鬼道とは何だったか?」の説明に必要だし、分かりやすいので、そこでお話することにする。
※出典:HIMIKO 62頁

「日本が誕生したとき」

3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。
その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。
彼等はエラム出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。
それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、アテナ出身者は嘉手納(かてな)、チラナ出身者は知覧の名を残すというふうに、「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。
その中でも最大のものが台湾で、「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。
その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。
「マレアなる岬の沖を過ぎ、ラコニアの沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、やがて四面環海の土地、歓喜のヘリオス(日の大神)の国・タイナロンにぞ、着きにけり……」と書いてあります。
ラコニアは六昆で今のタイ国ですが古代にはミャンマーのヤンゴン=ラングーン(六昆)までを含んでいました。
マレアの岬はマレー半島。
四面を海で取り囲まれた大きな土地は、その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。
ヘリオスの妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、これがe音をi音で発音する沖縄語で「ヒラ」と発音したものに「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。
最初の「日本」はタイナロン=台湾で、古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。
これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、本来はこのヘリオスとヘラのことで、そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。
ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、「天照大神」様と呼ばれたために、後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。
これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。
※出典:日本国誕生の秘密 216~218頁

「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」

彼女は『三国史記』に「①13歳で、②徐那伐で、③即位した、④初代、⑤新羅王」と記録されています。
この5つもある限定条件には、他人では体験できなかった非常に多くの史実がからんでいて、彼女だけがもっている「身分証明書」になっています。
それが『竹取物語』『魏書倭人章』『三国史記』という、これまでバラバラだった「記録」を接続し、接着して、復元し、互いに不足を補いあって、永い間「忘却の闇」の中に隠されていた歴史の真相を、はっきりと私たちに詳細に教えてくれたのでした。
それだけでなく、その即位の場所が「徐那伐」だったことが大きな証拠を形成しているのです。
この地名は従来は朝鮮半島のどこかだろうとされてきましたが、『魏書倭人章』との関連から考えると、どうしても沖縄でなければ話が合いません。
「伐」の字は朝鮮語で「パル・バル」なので「徐那伐」は「ヨナバル」と読めるのです。
これに、ぴったりの地名が沖縄にあります。那覇市に近い島尻郡の「與那原(よなばる)」がそれです。
新羅の歴史を考えますと、狗奴国男王の根拠地であり、13歳の壹與が女王に即位した「ヨナバル」は、ここ以外考えられません。
また「ジョ・ナ」という発音は「徐国」を意味し、この<ナ>を<マ>に変えることもできるから「邪馬」と書いても同じ「徐国」だとわかります。
その「ヨナ」は今の<与那国>と同じ発音で、「ヨーナ」とは「イオニア」のインド訛で、ギリシャという意味です。
だから「与那・徐那」は「ギリシャ国」ということなのです。
古代日本には国を「ナ」と呼んだ人々がいました。
沖縄を<ウチナ>と発音しますし、嘉手納、山名、丹那などもそれです。
また「ナ」という発音は沖縄語では助詞の「…の」に当たりますから、「徐那」は「ジョーナ」と引っ張る発音をする人々なら、「女王国」または「女王の」のどちらかにも結びつけて考えることもできます。
※出典:日本国誕生の秘密 262頁

「日本の竜蛇信仰」

八俣大蛇退治の話だけをみると、勝利者はスサノオノミコトになっている。
しかしそれは「出雲神話」として区別されている神話の側からの見方であって本系とされる「日向神話」からみればスサノオノミコトは追放された敗者になったまま地位を回復していない。
このあいまいになっている問題に焦点をあてないと、竜蛇と日の神の問題は本当に答えが出たとはいえない。
日本の竜蛇信仰をみるとそれは意外に少ない。
『記・紀』には、神武天皇の祖母に当たる豊玉姫が、お産の際、竜神の正体を現わしたとか、三輪山の神は蛇であるとか、ヤト(蛇)神が開拓を邪魔したとかいった神話伝承が含まれている。
それを分析してみると全部先住民を意味している。
その信仰が後世に力を失ったということは、縄文人の信仰が負けて、新しい信仰にとって代られたということになる。
八俣大蛇型が負けて太陽神型の天照大神があとに残った。
とすればどちらにしてもインド教の信仰であることに変わりはない。
『日本書紀』にはこの同族関係をはっきり物語る部分がある。
それは神武天皇と長髄彦とが、互いに”天神の子”である証拠を見せ合うが、双方とも同じだったという東征の条である。
しかし天皇が陽に向かって戦って負けたのは当然と反省するのは、太陽神信仰者だったことの証拠である。
これに対し長髄彦は、インド語で竜蛇を意味するナガという名をもっている。
民族は同じでも信仰の中身には差があったのである。
※出典:日本人のルーツ 117頁

『参考』
歴史学講座『創世』うらわ塾
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

GoogleWeb検索
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2011年4月24日日曜日

与那国(ヨナグニ)島とはギリシャ人の国という意味

出典:言語復原史学会

「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」
「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」
「確認できる台湾⇒沖縄⇒九州コース」
「語系…沖縄=ペルシャ、鹿児島=ギリシャ」
「完全に解った卑弥呼共立の実相」
「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった
「神武天皇紀に残る台湾ギリシャ人の東征」
「パーリ語のヨーナはなぜ?ギリシャ人のことか?」
「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」
「実在している「夜食国」それは仏教思想の産物」
「建国時代の天皇家とその政権の信仰は仏教」
「既得知能の総合で、詳細に復元できる史実」
「方言化した地名・国名の歴史を確認し確定させる伝承」
「丹後の浦島太郎伝説『「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)』」
「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」
「立神岩の分布は何を復元するか?」
「名乗りが物語る詳細な勝敗と政変」
「孤立・戦争・亡国を生む『記・紀』編纂のツケ」
「応神以前の為政者も神話でなく史実の人たち」
「伊勢の王イサナキの領地名の移動発展コース」
「位官は与那国王、履中天皇はオルぺウス」
「八幡と日本の語源は同じイオニヤ人」
「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」
「天皇家の信仰の本質と成長過程」
「月読の尊は与那国までを治めた海人族の王」
「月読の尊は卑弥呼の弟・彦狭島=海幸」
「パーリ語人ソナカらが残した現存する遺物」
「卑弥呼当時の連邦の人種構成」
「卑弥呼時代の国名語源一覧リスト」
「広域に及んだアリアン大移動」
「朝鮮半島の百済は後世の植民地」
「邪馬の2種の発音と候補地」
「日本語の中に千語以上のパーリ語がある」
「山幸の見つけた釣針と赤女の真相」
「壹與=かぐや姫の悲劇の真相」
「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」
「読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布」
「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」
「大和は台湾で最初に生まれた」
「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」
「日本語の中に大量に発見される古代インド・パーリ語の痕跡」
「呉の皇帝も青い目をしていた」
「日本が誕生したとき」
「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」


「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」

へルメスが手に持つ、柄に羽のはえた杖「カディキウス」は世界中で象徴になっているが、このカディキウスは、もっと鹿児島と切り離せない重要な事実がある。
それはこの神杖は、もともと距離や天体を計る測定器だったからである。
製図で使うT定規は羽から先の頭の部分がないが、カディキウスが十字架型をしていることはすぐわかる。
その横棒の長さは少し変えてある。
その端を縦棒の端から観ると角度が測定できる。
だから星など天体を見て方角を知り、航海に役立てる。
土地を測量し、材木や石などを測定して建築に役立て、都市を建設する。
もちろん、商品を造り、量を計り、取り引きに指図に欠かせない。
これが産業や交通、知恵の神へルメスの象徴とされたのは当然だ。
それは「行くもの」=先遣部隊とか、移民とか、先導者とかを意味したギリシャ語のイオンの象徴であった。
その人々が住む所をイオニヤと言ったが、それは今のシリヤにまず出来、その後、我が国にも生まれた。
ソナカ=仲哀天皇の祖国語・パーリ語で、イオニヤは鹿児島語のように短縮して変形し「ヨナ」になってしまう。
それが「与那国島(よなくにじま)」という名を今も使っている沖縄県の最西端で、台湾が見える所にあるということは、その位置は台湾から見ると、まさにギリシャからみたシリヤと同じ位置にある。
台湾は古名をギリシャの季節の女神のひとり「ホーライ」に警えて蓬莱島(ほうらいしま)と呼んでいた。
台湾は気候が良く、高山があって、熱帯から寒帯まですべての「季節」が揃っているからである。
こうした命名はギリシャ文化の持ち主でなければ出来ない。
仲哀天皇らが運んできた文明がギリシャ文明とインド文明の融合物だったことは、もう疑う余地はない。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ184頁

「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」

古代ギリシャの国名が「四神」の真意で、日本語の色の名の起源だとわかった。
ギリシャの海の神々も地名の元になっている。
ポセイドンは百済(ポセイ)出水(イヅン・出雲)。
その王妃アンピトリテ(奄美)(取手)。
海から生れた美の女神アフロジテはローマではヴィーナスと呼ばれたが、それに我が国で当て字したものが「淡アフ・路ロ・島ジ・国」。
島の名は、またギリシャ人が来たコースも記録している。
ソナカの国語パーリ語ではギリシャ人をヨーナと呼んだ。
これはイオニヤのイオをYO 、ニヤ をNIA⇒NA ナ と訛ったものである。
我が国の最西端・与那国島はヨーナなのだ。
YONIA ⇒YO  NA イオー ナ=が「硫黄が」(島)になる。
これはさらに、鹿児島弁化して短くなり、跳びはねて、 YOGA(イオーガ)は「YAT ヤッ」になるからヤッチマ、すなわち屋久島にもなる。
このヤッチマは「八(ヤ)ッチマン=屋久島の」と使われるから漢字で書くと「八幡(ヤッチマン)」になる。
こうして次々に謎を解き進んでいくと屋久島はヤバーナから生まれた名だとわかるし、与那国島から屋久島までの南の島が、ギリシャ系の海人たちの世界だったことが明確に認識できたと思う。
では、そのときやってきたのは、どんな人々だったのだろう?
確かに南欧のギリシャから来た人たちがいたこともわかるが、経由したインドの人たちが一緒に来たことも間違いない。
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ173~174頁

「確認できる台湾⇒沖縄⇒九州コース」

ウバイドの伝統は「遷都」にあったのだから、末盧と伊都になる前は、そこがウバイド=倭人の都だったということである。
それが国名を二分して、馬津国と伊都国とに分割されているのだから、どこかへ遷都した跡だけになっている。
ここでもう一度『風土記』を読み返してみると、『播磨の国風土記』の「宍禾(しさわ)郡」の中に、宇波良(ウバラ)という村名と、表戸(ウハト)という地名がある。
宇波良はウバ国のこと、表戸はウワ人で、漢音で読むと「ヒョウゴ」。
播唐の国の後身が現在の兵庫県であることに合う。
しかし九州北部から直接、兵庫県へ遷都したのでないことは、国名の播磨が数えている。
私たちは既に播磨がハリ国であり、それは『魏書倭人章』中の旁国・巴利国=隼人町が拡大移動した後だと知っている。
だから九州北部のウバイドは、九州南部の隼人に遷都し、その後、兵庫県へ遷都したのだと判る。
それだけでなく、ウバラは「茨」だから、茨木は「ウバ国王(ラキ)」で、茨城も同じだ。
大坂府の茨木へ遷り、さらに関東へ行ったのである。
そのコースも伊勢の鳥羽から伊豆へ海上を進み、さらに千葉の夷隅郡に行き、茨城に落ち着いたことは既に見た。
倭人の国名、地名は奈良時代以後、徹底的に消された。
それなのにこんなに残っているのである。
ここまで判ると、序でだから、九州へはどこから来たのか?調べてみよう。
伊都国は旁国の斯馬国と一つにされて糸島郡になった。
伊都国は糸国=イトマである。
沖縄にある糸満が「イ・トマの」で、沖縄から来たことを教えている。
これは沖縄語発音にはイトはなく、イツになるが、
『魏書倭人章』の伊都という当て字は、当時の漢魏音ではぴったりイツと読む。
帯方郡使が無意識に写した発音が、その国名は沖縄からやって来たと明確に、証言していたのである。
しかし沖縄には<ウバ>に当る地名がない。
それは最西海の与那国見より西。
海の彼方の国・台湾にある。
前にお話しした通り、タイワンは「大和ン」で「大和・ウワの韓」に対する当て字が、中国発音でタイワと読まれただけで、
「大和・糸満」=ウワイト国の(マン)…を表現する分割地名そのものだったのである。
ここで「ウバイド」が「ウワイト」になったことも判る。
こうして地名が具体的に語ってくれる遷都の史実は、縄文時代に沖縄へカルデア人がきてカウレアンと呼ばれ、カウレに高麗の文字が当てられ。
それがタカラと読まれて、宝(タカラガイ=貝貨幣)の国と呼ばれ、その宝貝は今も全世界でカウリーと呼ばれている。
※出典:大学院講義録38 17~18頁

「語系…沖縄=ペルシャ、鹿児島=ギリシャ」

ペルセポリスはギリシャ名でパルサカルタが本名である。
ここは現在はフアールスと発音が変化しているが、これは古代のスサが、今ではスーサと引き伸ばした名に訛っているのと同じで、パルサ(=ファルス)が首都を意味し、カルタが街を意味していたのである。
これを、次のように比較対照すると、相互関係が明瞭になってよく判る。

パルサ カ ルタ   ペルシャ語  アケメネス王朝時代語  漢・韓 カン
ファルス   ペルシャ語  中世語         漢・韓 ハン
ペルセ ポ リス   ギリシャ語
パ リ    パーリ語(サカ語⇒インド語)=移動の証人。巴利国。

ペルシャ語の母音はpa、saと「a(ァ)」だが、ギリシャ語はpe、seと「e(ェ)]だ。
これは沖縄語の「a」が鹿児島語で「e」になる関係と同じである。
私たちは既に、ペルシャ湾岸のカルデア人が移住してきて、カリエンとよばれ、沖縄を中心に養殖、加工して、それを貨幣として中国その他と交易。
高句麗や蒙古などを建設し、殷帝国を興して、東亜の経済を支配していた史実を、充分な証拠群によって、よく知っているから、古代湾岸語が沖縄語の基礎にあることも私達の常識の範囲内にあった。
またギリシャ人が東亜に移民して私たちの祖先に加わった事実も、あらゆる角度から見た証拠群の多さで、疑う余地のない史実であると知っている。
鹿児島語の祖語がギリシャ語である可能性も、すでに3000語以上の共通語が存在する事実を発見しているから、それをさらに高めただけに過ぎない。
この講座を熟知しておられる皆様は、こうした世界史最高の最新の知識を常識としてお持ちなのである。
世界の人々に先駆けて、歴史、言語学界に君臨して居られる事を常に念頭に置いて、日々を楽しく、ご満足いただきたい。
ただ、沖縄にもイオニアを指すパーリ語の名「与那国」があり、他にも与那のつく地名が分布しているから、各語の影響が単純ではないことは申し上げるまでもない。
これを、こうして変化した部分だけ対照すると、さらに相互関係が明瞭によく判る。

パ サ a   カ k ペルシャ語  日本語発音       漢・韓 カン
ファf~・h      韓国語・中国語発音   漢・韓 ハン
ペ セ e       ギリシャ語
ポ      ギリシャ語  日(ホ)・穂・豊の国
パ      パーリ 語  巴利国=隼(ハイ)人
※出典:大学院講義録37 7~8頁

「完全に解った卑弥呼共立の実相」

卑弥呼が共立された当時の状況は、この我が国紀元の決め方で、手にとるようにわかる。
『魏書倭人章』が「倭人(ウウィと)」と表現したのは、先着順に呼ぶなら、カリエン系とギリシャ系とマガダ系の小国群が、各地に点在、混合していた連合体の総称だったのである。
カリエン系 沖縄・狗奴国・球磨・肥前・肥後・小倉・高句麗・夫余などを支配していた。
ギリシャ系 与那国・沖縄・奄美・種子島・大隅・不知火・天草・白日別・三韓・邑婁など。
マガダ系  沖縄・馬毛島・大隅・巴利国・日向・大分・筑紫・長門・馬韓・帯方郡など。
このリストで同一地域名が重なるのは、争奪による変化、または混住地域である。
もとはギリシャ系で天照大神=ゼウスの巫女だった卑弥呼は、ソナカと結婚して優婆畏(ウワイ)=倭の女王になったが、仏教宣布を続けるうち、夫・ソナカが戦死したので、アマゾン=天孫を率いて神功皇后として九州を転戦して勝ち、倭国連邦女王として政権を握り、朝鮮半島へ渡って、辰韓・弁韓・馬韓の三韓と前漢が設けた帯方郡を支配下に置いたので、「ソナカを息=沖縄圏、中=中国=九州本土と三韓→息中」と当て字し、帯方郡を帯と表記して『息中帯姫』と名乗った。息長・足仲はその別字である。
そして南九州以南をアカイヤ、東九州をアイオリヤ、西九州をシラクサ、三韓・帯方以北をクロアチヤとする五彩圏をつくり上げた。
※出典:大学院講義録21 18頁

「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった」

これで、ギリシャ人は、いつ?、我が国にやってきたか?、彼等は何を目的にやってきたのか?が完全にわかった。
彼等は、アレクサンドロスの「八紘一宇」の理想実現の夢を追い続けて、アレクサンドロスが病気のため引きあげ、若くして死んだあとも、インドに残り、その後、次第に東へ東へと東征し続けた「世界国家の戦士たち」だったのである。
もちろん本国からの物資輸送などあるはずもないから、行く先々で自活するため小国家を建設した。
先住民との混血で風俗・言語も変化していった。
それが後に残したものが国名だ。
奄美、都井、百済、出水、大隅、淡路島といった海の神々の名をそれにつけたのは彼等が海の戦士だったことを示し、その後も朝鮮半島沿岸を北上して邑婁(ユーロ)などを造った。
その人々を東に送り出した根拠地は台湾。
そこには海神でなく季節の女神・ホーライと名づけている。
これは気候温暖な楽土を理想の国とみて土着を決めたことを意味する。
そしてアルゴ船の故事からタイナ国(ロン)とも呼び、先住南中国人語で「大和Taiwohタイウオ」とも呼んだ。
これがタイワンの語源である。
この国こそアレクサンドロスの夢の「和の国」だと自認したのだ。
しかしさらにその理想と夢を拡大して日本列島にも求める時がやってきた。
沖縄西端の小島・与那国をギリシャ語でイオニヤ(行く者の国)と名づけた時、それは始まったのである。
※出典:大学院講義録19 27頁

「神武天皇紀に残る台湾ギリシャ人の東征」

「東に良き国あり」と神武天皇が語ったのは、与那国から見た沖縄本島なのだ。
なぜなら天皇は占領後、その土地をアキヅシマと呼んでいる。
アキヅとはトンボのこと。
沖縄語では今も蜻蛉を「アキヅ」と呼ぶ。天皇はその国を形容してこう言う。
「アキヅが臀砥(となめ)せる如し」(トンボが身体を曲げたような形をしている)
『神武天皇紀』の三十有一年夏卯月。
この形容に合う地形は沖縄本島しかない。

アキヅシマとは蜻蛉島で、蜻蛉之国(しま)なのだ。
しかし沖縄本島は大きい。肉眼で見たのでは、とてもそんな形をしているとは判らない。
このことは当時すでに「地図」が作られていた証拠なのである。     
これを『日本書紀』の記事通り
「腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘」に登って見た奈良のことだというのは、余りにも無理だし、秋津島とは日本列島のことだというのもまた無茶である。
それこそ大き過ぎてトンボの形どころではないし、また現実にそんな形もしていない。
これはばらばらになった記録の文字を拾い集めてつないで脚色したために、編集者の主観が働いて矛盾だらけの作文が出来上がった証拠なのである。
それを沖縄へもっていけばピタリと当てはまるから、大和は台湾、それに続く占領地が秋津島だと突き止めると、始めて史実が復元できて、それが、台湾を発進したギリシャ人たちが残した貴重な記録だとわかるのである。
※出典:大学院講義録19 28頁

「パーリ語のヨーナはなぜ?ギリシャ人のことか?」

それは西方の大文明が大量に入っていた事実など、想像する能力さえない証拠なのである。
世人に一流の知性人と尊敬されている「大学教授」の肩書きをもつ人々でさえ、そんな有様では、一般の国民はなおのこと、古代日本にギリシャ人やパーリ語を話す人々が来ていたと信じられなくても当然としか言いようがないが、それらの人々にも納得のいくように、まず日本列島の中に、はっきり残っている、ギリシャ語圏の移動拡大から跡づけてみよう。
パーリ語で「ヨーナ」はギリシャ人のこと。
その本当の意味はイオニヤというギリシャ語が「イオン=行く・移る・拓(ひら)く。イァ・ヤ=国・土地」で、「開拓者の国=移住者の国」を意味することからイオニヤンと自称していたギリシャから来た人々を、インドのシヤカ人やマガダ国人などパーリ語系の言葉を話す人々は、『ヨーナ人・ヨーニヤン』と呼んでいた。
この名詞語尾のヤンは静岡県以西で「○○君」を「○○やん」というのと同形で、パーリ語が我が国に入ってきて、使用されていたことを立証している貴重な遺物なのである。
今なら、こんなふうに細かく意味を考えて名詞化するのだが、当時はそれがギリシャ人を指す唯一の代名詞だったから、パーリ人たちはヨーナを人種名として使っていたのである。
それが台湾経由で日本列島への取っ掛かりの島に、今も与那国島として残っているのだ。
※出典:大学院講義録11 16頁

「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」

それは日本列島におけるギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。

沖縄列島の最西端は日本の最西端である、そこを出発点として、日本列島の中に残っているそのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、フリップ化してたどってみよう。

1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に
2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが
4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。
5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島

このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、すでによくご存じである。
それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、彼女が徐那伐で即位したと記録しているが、これは<ヨナバル>という発音で、与那原を北九州語で発音したものに朝鮮語で当て字したものだからである。
このことは他にも多くの証拠を残している。
壹與が新羅の初代女王だということは神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、彼女らがパーリ語を話したこと。
赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。などなど……。
※出典:大学院講義録11 17頁

「実在している「夜食国」それは仏教思想の産物」

このヨナという発音はさらに別の問題にも、正確な答を与えてくれる。
「夜々」と青いて「ヨナヨナ」と読み、夜の仕事を「ヨナベ」という。
この「夜=ヨナ」の発音を意識すると、これまで「夜の食(お)す国」などと読むのだと教えられてきたものの、なんのことだか分らない3貴子分治に出てくる「夜食国」の意味が正しく解ける。
南九州では夕飯の後で夜なべ仕事などをして、もう一度食べる夜食を「ヨナグイ」という。
そして、その南九州語では与那国も「ヨナグイ」と発音する。
夜食国は南九州人が記録した与那国を指す、実に適切な当て字だったのである。
沖縄語は東をアガリ、西をイリという。
明らかに太陽が上がる方向が東、入る方向が西と、太陽を基準にした言葉である。
最も西の大島(だいとう)を西表島(イリオモテ)と呼び、その西に最西端の与那国島がある。
これは確かに太陽が沈んだ後の「夜の国」だから「夜ナ国」でもある。
ヨナヨナ、ヨナベ、ヨナグイの「夜=ヨナ」という日本語は間違いなくここで生まれている。
3貴子の話では夜食国は月読の命が治める冥界である。
亡き母・伊耶那美は冥界に居るから、スサノオは母とともに居たいと、不満で泣きわめいて割り当てられた海洋を治めない。
西に冥界があるというのは仏教だけの思想である。
「西方浄土」という熟語がそれを証明している。
※出典:大学院講義録11 18頁

「建国時代の天皇家とその政権の信仰は仏教」

こうしてヨナという日本語の起源がわかり、夜食国が単なる神話やおとぎ話だけの架空の国ではなく、今も実在する島のことであり、それらはギリシャ語と、パーリ語と、マレー語の実在と、
それらの言葉を話す人々の居住と文化の伝播を、証言していることがわかったが、そればかりではない、そこを冥界とする思想が、当時の日本に仏教が実在したことと、その説話をもつ人々、すなわち『記・紀』を自らの歴史として公表した天皇家とその政権の信仰が、その仏教だったことを、幾重にも重複して明確に立証しているのである。
このことは、さらに重要な証言になっている。
それはそれは明かに仏教徒の支配権を握るためがその冥界の支配者になりたいと強要した事実を記録しているが、このスサノオは山上王位宮・垂仁天皇と<本牟智和気>である。
彼らは何のために<卑弥呼政権>と戦い、<邪馬壹国政権>を樹立したか?。
それは明かに仏教徒の支配権を握るためで、それがこれで明確にわかると同時に、
彼の宗教が仏教だったことが、より明確に証明された。
このことはその跡を継いだ応神天皇が、八幡大菩薩という仏教名や古墳に建てた九輪塔などで証明されてはいたが、ここでさらに動かない証言の数々を加えたからである。
壹與を始祖とする新羅の語源は、卑弥呼の仏教に比べて、より戒律(シーラ)の厳しいシーラバッガ仏教だったことが、決定的に確認できる。
※出典:大学院講義録11 19頁

「既得知能の総合で、詳細に復元できる史実」

壹與がなぜ.?新羅始祖王とされたかも教えてくれる。
彼女は『魏書倭人章』にはっきり「卑弥呼の宗女」と明記されている。
宗女とは宗教上の後継者という意味であることは疑問の余地がない。
その卑弥呼の宗教・鬼道は、すでに完全に解明ずみで細部までわかっている。
それは仏教であり、卑弥呼とその後継者の壹與を観世音菩薩としたことまで、決定的に結論が出ている。
それも単に文献の解読からだけでなく、東アジア各地の言語や、地名や、伝承や、遺物、遺跡に至るまで、徹底的に証拠が満ちみちている。
まず観世音(カンシーイン)の名そのものがマレー語の愛・カシーへの当て字であり、卑弥呼のパーリ語名ぺマカ=愛の訳音であり、神功皇后廟の名・香椎だった。
その観世音信仰の分布と拡大の跡を辿っても、それは中国で南海古仏と呼ばれて、発生地を琉球列島とし、発生時期も卑弥呼当時にあてている。
そして『三国遺事』が高麗外交官の中国での見聞として、娘々(ニヤンニヤン)廟=観音廟を我が国の信仰だと教えられたと記録している。
もちろん信仰の祖型はインドにあるが、関連地名や、そこにある観音信仰の本山は、時代が全て卑弥呼以後のものである。
インドとの交通は決して西から東への一方通行ではなく、従来の予測をはるかに超えた往来があったことも、またこれでよくわかるのである。
※出典:大学院講義録11 20頁

「方言化した地名・国名の歴史を確認し確定させる伝承」

壹與は赫夜姫でもある、姫がなぜ「月の世界」へ行ったのかも、史実が複合して説明している。

連れて行かれたのは「夜国(ヨナ)」で、月読国で、冥界=(死者=鬼=鬼道)=仏教国でもある。
そして「ヨナ原=夜国の首都(ハラ)」で即位した。
『記・紀』と『三国史記』と『説話』の既得知識を総合することで、こまで詳細に史実を復元できるのである。
これまでは「ヘンな名の島」程度にしか見られていなかった与那国島1島だけでも、建国当時の謎がこんなに解ける事実を、一人でも多くの方に、少しでも早く知っていただきたいと思うのは私だけであろうか。
与那国勢力の拡大状況を、探って辿ってみよう。
与那のつく地名は沖縄本島までくると大型化したが、南から北上したものの、本島の3分の1あたりで止まってしまっている。
しかし、そこから出た位宮や壹與は全九州で活躍している。
それなのに与那のつく地名は見当たらない。一体?どうなっているのだろう。
この答は本州で見つかる。
京都府の宮津市に隣接する与謝郡伊根町は浦島伝説で町おこしを計っている漁村で、宇良(うら)神社と浦島神社がある。
その位置は丹後半島の東北部分で、沖縄本島の与那城村の在り方に似ているが、それより伊根・イネという地名がヨナと無関係ではない。
これは「米(よな)と稲」の関係にあるとみれば、徹底した検討が必要になってくる。
※出典:大学院講義録11 21頁

「丹後の浦島太郎伝説『「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)』」

稲はイネ・イナの発音があるから、九州北部には後漢の皇帝に金印をもらった委奴国があったし、その北東に島根と鳥取両県にまたがる米子の大平野がある。
また丹後からの北陸道と京都からの東海道が出会う琵琶湖東岸の分岐点は米原で、今はマイバラと発音しているが、与那原と同じ発音でも読めるから与那国人の遺跡とみると、その東に木曽の伊那盆地があり、木曾川に浦島伝説で名高い「寝覚の床(ねざめのとこ)」があり、下流の恵那(えな)峡もイナ⇒エナで発音変化だ。
丹後の伊根町は、天の橋立(あまのはしだて)で有名な宮津市に隣接している。
その天の橋立(あまのはしだて)を北へ渡るとすぐ難波野で、そこに竜神社がある。
また少し行くと日置(へき)にでる、ここが『丹後国風土記』で有名な「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)」の居た日置の里で、ここにあった筒川村に筒川の嶼子という男がいて、海で五色の亀を釣ったところが、それが美女・亀比売になって海中にある蓬山(ほうざん)(蓬莱山(ホーライさん)=冥界)へ 連れて行く、そこには眼も輝く御殿があり、そこで亀比売と楽しい3年を過ごした後、父母が懐かしくなり筒川へ帰ってみると、実は300年後で、知っている者は一人もいない。
そこで土産の玉厘(くしげ)を開けると、蘭のようなものが空へ閃きながら飛んでいってしまった。という話である。
ご覧の通り、一般に知られている浦島太郎の話とは非常な違いが眼につく。
これは、本来の垂仁天皇の歴史が忘れられた後に、再構成されたものだと証言している。
※出典:大学院講義録11 22頁

「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」

浦島神社まで建てて集るというのは、血縁関係があるからである。
またこの蓬莱の語源がギリシャ神話のホーライであり、台湾が今もホーライと呼ばれていることも、よくご存じの通りでその血縁は他の地名にも及んでいるはずである。
そこで宮津市の地名を見て見ると、まずこの「日置」が鹿児島県では、郡になっている建国史上重要な地名である。
また丹後という国名そのものが、タニ=種、ゴ=子で種子島からの移住を記録していることもすでに検討ずみであるから、種子島の海人王・ビチヌウシン(亀)の娘を亀比売と呼ぶことも決しておかしくない。
むしろ、非常に詳しい知識をもっているというべきだ。
こうみてくると、与那国人は浦島伝説とペアになることで分布先を明示している。
だからそれらの地名は、単に発音が共通しているというだけでなく、それが地域による発音変化で、その移住・拡大は、疑う余地がないと、はっきり証明していると断言できるのである。
また丹後から真南に南下したコースには、兵庫県最東部の猪名川と、大坂府北部の箕面市から兵庫県宝塚市にまたがる稲(いな)地方がある。
その宝塚市には蓬莱峡と呼ばれる名勝があるが、浦島伝説は今では忘れられて僅かに地名だけが残っている。
この稲が、百人一首の「イナの笹原、小夜更けて」のイナであり、孝徳天皇朝の豊日の国の母体になった地域なのである。
※出典:大学院講義録11 23頁

「立神岩の分布は何を復元するか?」

与那国から出発したギリシャ人勢力が、イナと方言化して呼ばれながらも、山陰から岐阜県にまで達していたことが跡付けられた。
しかしそのコースは四国~淡路島経由ではない。明らかに山陰経由である。
これはギリシャ人の東漸といっても、それは単純ではなく、複数のグループがあったという証拠である。
山陰経由のものは浦島伝承をもっているから明らかに位宮・垂仁系だが、淡路島の倭の五王系はそれを持たないグループだ。
こちらは本当に与那国系なんだろうか?…。
それに明確に答えるのが、沖縄の石垣市が作った『八重山の旅』という観光案内書に掲載された与那国島の「立神岩」の写真である。
これは確かに九州を経て淡路島まで達している。

立神岩
※出典:大学院講義録11 24頁

「名乗りが物語る詳細な勝敗と政変」

淡路島のほうはすでに実体が明らかな仁徳天皇系・倭の五王政権だった。
山陰経由の方もすでに明確になっている欽明天皇の高句麗系政権だった。
それは用明天皇の名乗りが橘豊日で「但馬国の豊日(フジ)」を意味し、その後、長柄豊崎の宮に君臨した天萬量日=天満の豊日(フジ)こと孝徳天皇につながる名乗りになっていることも、また検討ずみである。
この豊日(フジ)が百済のフジで、大阪府豊島(フジマ=フジ国=百済国(フジマ))郡にその地名を残したこともまた、よくご存じのことである。
これがあるから倭王・興は百済・蓋盧王の方が有名になったが、彼が国を失った原因の巨大古墳群は、朝鮮半島にはなくて大阪府にあるという厳然たる証拠の前に、今では誰もこの解明史実に反対できなくなったのである。
山陰経由の高句麗系勢力に大阪政権を奪われた倭王・武は、宋の皇帝に上表して、援助を乞うハメに陥ったのである。
『記・紀』はその時、政権を握った高句麗系天皇をば、興=安康天皇の前に挿入して允恭天皇とし、その名乗りを雄浅津間稚子宿祢(紀)、男浅津間若子宿祢(記)と書いているが、それは大雀、伊邪木和気、水歯別、穴穂といった名乗りと明かに異なっているし、その訓(よ)みも「おわさず=居ない」という皮肉なものに変えられている。
これに合う地名はないから、これは明らかに本来の名乗りではないのである。
※出典:大学院講義録11 25頁

「孤立・戦争・亡国を生む『記・紀』編纂のツケ」

淡海の三船はそれにさらに允恭(いんぎょう)と漢風諡号(おくりな)した。
「イン=居ん」であり、「インギョウ=隠形」である。
これで彼もまた、この時の政権交替の実情をよく知っていたことがわかる。
この例だけでも充分みえるように、『記・紀』は、たいへんな敵味方を親子だとして平気でいる『正史』なのである。
繰り返すが、それはあくまで対中国向け宣伝文書だったから、修飾だらけである。
その最大の強調点は天皇家政権の歴史の長久を相手に印象づけることで、それは必然的に建国を古く見せようと神武天皇即位を紀元前660年にし、それ以後、政変は皆無の「万世一系」だとした。
そのため敵であった卑弥呼と崇神天皇もその中に組み込み、内戦に明け暮れた景行天皇も仁徳天皇も欽明・敏達天皇も、天智・天武天皇も、んな引っくるめて万世一系にしてしまった。
それは確かに国策上は重要なことで、責めることはできないが、それが正確な歴史でなく、いかがわしい作り物だというボロが至る所で出ている。
そんなものを明治以降の国家主義者らが悪用して、国策だと津田左右吉氏らの『記・紀』批判者を弾圧したが、極端な天皇制ナショナリズムが全人類に爪弾きされるのは当然だから、大日本帝国は必然的に孤立無援に陥いり、必然的に崩壊してしまった。
天武天皇らの小細工が、早かれ遅かれ天皇家政権を潰す宿命を、重くみじめに背負わせていたのである。
※出典:大学院講義録11 26頁

「応神以前の為政者も神話でなく史実の人たち」

位宮の名は、ヨーナの原音・イオニアのイオンの意味である「行く」に対する当て字の、位宮(イク)だと前にお話しした通り、それも個人名ではなくイオニア王を意味する名乗りだった。
その伴侶であった壹與は、『三国史記』では、新羅始祖王・赫居世居西干と記録してある。
この「居西千」はイセカンだから「伊イ 勢セ 神カン」である。
これは卑弥呼と壹與が、天照大神と豊受大神だという仮説の正しさを証明している。
この2大女神はいうまでもなく三重県の宇治山田市にある伊勢皇太神宮の主神である。
しかしなぜ天照大神というのか?。
『三国史記』では、新羅の王称を尼師今(ニシキン)とも書く。
これは日本語である「尼の師の君(きん)」への当て字だから

尼 寺師 倭 女君
天 照す 大 御神 なのである。

続く新羅王は南海次次雄だ。
この次次雄は朝鮮語発音では「ススウ」で、これに助詞のヌを入れると「ススヌウ」。
これはスサノオの沖縄発音「ススヌウ」とぴったり一致する。
『後漢書』の倭王「帥升」はスィサヌウで、スサノオへの当て字以外には考えられない。
応神天皇以前の天照大神や垂仁天皇=位宮が実在者であったことは、このように『記・紀』以外の『三国史記』や『後漢書』にも明記されていて疑問などない。
※出典:大学院講義録11 28頁

「伊勢の王イサナキの領地名の移動発展コース」

伊勢の大神のイセも、与那国人たちが運んできた名詞で、それがイザナキの命の語源であることも、よくおわかりであるから、
次はそれがどんなふうに移動拡大してきたのか確認しておくことが必要である。

沖縄県には次の4つがある。

石垣島    石川   伊差川     伊是名島
イシガキ   イシガ  イサガ     イゼナ・イジナ
伊勢の王   伊勢の  伊勢の     伊勢の
イサナキ   イサナ  イサナ     イサナ
与那国島の東 沖縄本島 沖縄本島名護市 沖縄本島の北

鹿児島県にも次の4つがある。

伊仙     入佐   伊敷      伊佐郡
イセン    イーサ  イシキ     イサグィ
伊勢の    伊勢   伊勢王     伊勢王
イサナ    イサ   イサナキ    イサナギ
大島郡    松元町  鹿児島市    伊佐郡

※出典:大学院講義録11 29頁

「位官は与那国王、履中天皇はオルぺウス」

垂仁天皇の高句麗王名、山上王・位宮も、位宮は南九州読み「イク」。
このイクは「行く」でギリシャ語ならイオン「行く者」。
それが国名になってイオニヤ。それのバーリ語訛りがヨーナ。
与那国はそれへの当て字だから、位宮王とは与那国王を意味する日本語名だったのである。
これで卑弥呼も位宮も天皇家の先祖が、パーリ語人のいうヨーナ、ギリシャ人だったことが、さらに証拠を加えた。
卑弥呼がパーリ人化してギリシャ文明を仏教文化に塗り替えはしたものの、ギリシャ神話の影響は履中天皇のイザナギの時代になっても続いている。
2神が国生みのあと生んだ皇子カグツチ(=鹿児津王(カグツキ))が火の神だったために、皇后イザナミは大火傷を負って死ぬ。
しばらくするとイザナギ天皇は皇后への恋しさが募って、冥界へ亡き皇后を探しに出かける。
この話はギリシャ神話のオルペウスが、死んだ妻を尋ねて冥界へ行った話と全く同じである。
これに気づいた日本人学者は少なくないが、しかし、それ以上追及した人も研究の結果も知らない。
このオルぺウスも沖縄語ではウルヒユシになる。沖縄の別名はウルマ、ウルシマ。
当て字は漆間、漆島。ウルの国である。
ヒユシは日吉で猿田彦大神の別名で、全て姓や地名として今なお現存している。
少なくとも沖縄地方がギリシャ文化圏だったことは否めない。
※出典:大学院講義録06 29頁

「八幡と日本の語源は同じイオニヤ人」

「言語の分類」  「意味」 「スペル」 「発音」 「語根」「スペル」「遺物」

古代ギリシャ語  イオニヤ人 Iavones ヤポーネス ヤボン JAVON   日本
古代ギリシャ語  イオニヤ人 Iaones   ヤオーネス  ヤオン Yao    八尾
古代ヘブライ語  イオニヤ人 Yavan    ヤパン            (中国語)野蛮
古代ペルシャ語  イオニヤ人 Yauna    ヤウナ      「遺物」

サンスクリット語 ギリシャ人 Yavana   ヤバーナ  八幡・山名
パーリ語     ギリシャ人 YoNA     ヨーナ   与那国・与那原・与那嶺
パーリ語     ギリシャ人 Yonaka   ヨナカ   米花、夜中、世の中
パーリ語     ギリシャ人 Yanaka   ヤナカ   谷中、家中、梁川、柳川
中国語      ギリシャ人 Yaban    ヤパン   野蕃・野蠻
日本語      ギリシャ人 Yaman    ヤマン   八幡・山之口(ヤマンクッ)
(鹿児島の地名)
マレー語     父     Yaman    ヤマン  (Sanguil島語)
ジャワ語     王・陛下  Yamtuan  ヤムトワン Sangulm      陛下
※出典:大学講義録32 13頁

「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」

中国経由でないとすると、どんなコースでやってきたのか?。
忘れてならないのは、台湾北部に現住するアミ人である。
このアミの名は網・阿見と同じ発音であるだけでなく、容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。
また台湾がギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ仙境・蓬莱(ホーライ)で、秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だった。
このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。
仮にこれを疑うと、台湾と与那国という肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、二つできたことの理由、という至難の立証が必要になるし、それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、ほかにはアミに結びつくような神名はない。
別の語源から全然無関係に二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。
従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、それと比較して相手の説が劣り、間違っていると判ったときに主張して「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、「ただ反対したい」だけというのは、劣等感の表現にすぎない。
※出典:大学講義録31 28頁

「天皇家の信仰の本質と成長過程」

こうした事実と、これまで見てきた我が国の古代信仰の遺物とを考え合わせると、皇室の信仰は、まず古くシュメルに始まった宗教だった。
それは「スメロギ=シュメル王(ギ)」という称号その他の遺物が、バビロンの滅亡で四散したカルデア人=カリエン人の一部が台湾・沖縄に宝貝王国を建設して栄えた事実を、歴史と大量の遺物、文化財が教えている。
次いで、紀元前4世紀にアレクサンドロスの東征を引き継いだギリシャ人が、与那国島を皮切りに琉球列島から北上し、高族の政権と合体、継承したためギリシャ信仰が重なった。
またインドからウッタラ第1次仏教宣布団が、中国地方から東海に銅鐸時代を展開、それと並行してシンドゥ教が広まったあと、後漢の孝桓帝、孝霊帝のころ、第2次仏教宣布団のソナカが沖縄を経由して南九州に上陸、卑弥呼と結婚して仏教をひろめ、ソナカの戦死後、卑弥呼を女王とする大倭人達邦が確立して長期政権が続き、三国時代の動乱の余波で卑弥呼政権が敗北移動した後も、さらに様々な政変はあったが、倭国は所を変えて存続し、次第に東遷して近畿に至り、聖徳太子時代を頂点とする仏教時代を現出、大化政変以後もなお仏教の様々な教義を加えて渾然(こんぜん)と一つになったものなのである。
皇室の信仰を「神道」と呼ぶのはいいが、それをシンドゥ教だけだとするのは大きな誤りである。
※出典:大学講義録25 29頁

 「月読の尊は与那国までを治めた海人族の王」

ゼウスに続いてポセイドンが古代日本の原人族の神として信仰されていたことが、動かぬ事実であったことを、よくご理解戴けたことと思う。
それを明らさまに書けなかった『記・紀』の編集者は、海の支配者として「月読の命」という名を考案してつけている。
『日本書紀』の一書に伊弊諾の尊が「月読の尊は滄(あお)海原、潮の八百重を治めよ」といったと書いてある。
この命の名の意味は、月の満ち欠けが潮の満ち干(ひ)を教えるので、月齢を読むことが、海人族にとっては重要な指導力だったから、それを「月を読む指導者」という名乗りで表現したのである。
別の一書では「月夜見の尊」と当て字が異なっているが意味は余り違わない。
この潮の満ち干を使って海事を屈服させた話が『海彦山彦』のオチである。
加治木義博は戦後すぐ鹿児島神宮で、神宝の「潮満つの珠」「潮干るの珠」一対を調査させてもらった。
それはアンパンに似た石にすぎないが、『神話』とされてきたものが、現実の歴史としての具体的な文化財を残している点を熟慮して、発想の転換を計ることが必要なのである。
「月弓の尊」という当て字は、O (オー)を発音しない沖縄語でヨミをユミと訛ったものである。
また『古事記』では「夜之食国」を治めよと命じられる。
「夜々」を「よなよな」と読むから「夜食」を南九州語で「ヨナグイ」と読むと、その発音は与那国と同じになる。
※出典:大学講義録23 17頁

「月読の尊は卑弥呼の弟・彦狭島=海幸」

「月読の尊」

天照大神の弟だから卑弥呼=倭迹迹日百襲姫の弟で、孝霊天皇の皇子の一人である。
すでに伊声耆であることの明らかな彦五十狭芹彦でも、素戔嗚の尊である推武彦でもないから、残るのは唯一人、「彦狭島の命」だけである。
彼が種子島・屋久島から与那国島までの海の支配者、海神・ポセイドンだったとすれば、その証拠はどんなものがあるだろう。

「彦狭島」

名乗りの頭につく彦は「ゲン=毛の」に対する当て字で、ギリシャ人を指すことはすでに考証済みである。
彼は種子島にいた垂仁天皇の皇后・狭穂姫の兄・狭穂彦だから狭島なのだ。
狭穂(ほ)は狭日(ほ)で、狭日国すなわち狭日国(さしま)なのであり、「狭い」はアイヌ語でタンネ→種子の語源。
彼は海幸山幸の海幸だから、ぴったり海の支配者・ポセイドンなのだ。
これで天照大神一族の正体は、単なる物語り中の架空の存在ではなく、『魏書倭人章』が客観的に記録に残した実在者・卑弥呼と、その一族だったことが完全に明らかになり、また神話的表現の『三貴子分治』とは、現実にあった史実だったことが理解できた。
そしてそれと同時に、その『三貴子分治』はギリシャ神話が描くクロノスとその子供たちの神話そのままで、それによつて、ソナカと結婚する前の卑弥呼の教義が、ギリシャ宗教であったことまで、私たちは欠けるところなく知ることができたのである。
※出典:大学講義録23 20頁

「パーリ語人ソナカらが残した現存する遺物」

丹波がパーリ語の地名から生まれた地名だとすると、他にも同じようなものがなくてはならない。
それを宣布団のリストから拾い出してみよう。

スバンナ=周防の国(スバゥンナ)・諏訪の国。
ヨナカ=与那国。
ヤナカ=柳河・谷中。
マハーラッタ=真原田。
アパランタカ=芦原(あはら温泉)。
マヒサカ=舞阪(静岡県浜名郡)。
カスミーラ=香住国(カスミーラ)(兵庫県城崎郡香住町)、霞ヶ浦。
ガンダーラ=カンダハル=神田・上田原。

パーリ語の発音だと、日印の地名がどれだけ近いか、パーリ語を話す人たちが渡来した事実がこれでよくおわかり戴けたと思う。
その渡来者を『古事記』も記録している。
崇神天皇の名乗りは 御真木 入日子 印恵 命 だ。
「御=オ=ウ」「真=シン」「木=キ=王」で、「ウシンキ=牛の王」。
朝鮮語では牛は「ソ」だから、「ソナカ=ソの人」は「牛の人」だと誤解される。
これがソナカシチがウシキアリシチという別名をもっている理由だとわかるが、
この名は一層よく御真木(ウシキ)入彦に合う。
インドは発音者の言語差によって、sind シンド、Hind ヒンド、Ind インド と変化するが、日本語も発音差で
「入り=ハイリ→アイリ→アリ」「ヒコ→日木=ヒキ→シチ(大隈語)」と変化する。
ソナカと御真木は同一人物の名乗りだったのだが、『古事記』編集者が正しく理解できずに、まるで別人に見えるように歴史を「創作」してしまったのである。
※出典:大学講義録21 12頁

「卑弥呼当時の連邦の人種構成」

パーリ語が単なるお経の言葉なら、どうして鹿児島語などの南九州語が、パーリ語を現代まで受け継いでいるのであろうか?。
パーリ語の力でイオニア・Ionia は、Io=ヨ・ nia=ニヤから、さらに短縮してヨナになり、与那国、与那原として現代まで残った。
だが今の沖縄語は母音の「O」がないし、こんなに短縮もしない。
同じ短縮をするのは大隅・鹿児島などの南九州語で、それは「ニヤ」即「ナ」になったのとそっくりそのままに、醤油・焼酎を「ソユ・ソツ」と発音する。
言語は使用者が多いとその土地に土着して、新しく入ってきた人々も、「郷(ごう)に入れば郷にしたがえ」で、その土地の言葉で話すようになる。
現代までパーリ語が残っているということは、パーリ語を話す人々が、それまでいた先住民を完全に抹殺したようにみえる。
しかし卑弥呼の仏の教えは慈悲を説く、先住民を抹殺することはありえない。
このパーリ語の普及は永い卑弥呼君臨時代の「教育」によるものだったのだ。
では先住民はどんな人たちだったか?。
少なくとも与那国島にはイオニヤ人がおり、沖縄から高句麗にかけてはバビロン人の子孫カリエン人が、中国その他からの移住者たちと雑居していたのである。
※出典:大学講義録19 34頁

「卑弥呼時代の国名語源一覧リスト」

国名  ギリシャ語の原名    パーリ語の原名   マレー語その他の原名
狗邪韓  kudiao 独立して進む戦士  
対馬    tu admes 「慣れた君」  
一大    ie 女性 dad 拡張者    
末盧                Malla マッラ
伊都    ie 女性 toi 意思表示    
不弥                          マレー語 Puo Miaoプオ・カリエン人・ミャオ人
投馬                                              マレー語 tuma シラミ(虱)
狗奴    kuno 犬・狗

「旁国名」

斯馬    SIMOS 低い鼻・サカ人・タタール人sima 戒壇・境界
己百支  Sibullistes 巫女の信者 sibbati 縫う
伊邪                                                アラブ語 iar dzib シャチ(鯱)
都支    tothen 「ここから!」
弥奴                            miyya nu 死を悟る知者
好古都  KOKKOS 穀物・種子
不呼                        ミャンマー語 pogoda 仏塔
姐奴              tina 茅野
対蘇  tuide 此処こそ sos 汝                       タイ語 tua So 老ソ族
蘇奴    SOROS 土器・陶棺      
呼邑              go yayu 牛専業
華奴蘇奴ganoo 輝かす SOROS 土器
鬼   kie 「進め」            Kuvera 多聞天
為吾  GUION 手先 gone 生産            マレー語 guri angon 土器と牧場
鬼奴  kie 進め NOOS 参謀      Kuvera nu 多聞天知者
邪馬  diamao 斬り進む         jhama 焼く
躬臣    KION アトラスの柱 DIEMAI 平原          マレー語 kiong dien カタツムリ、蝋燭
巴利                pali 『聖典』=お経
支惟    tieres 鉢巻 ualos 宝石  tidiva 帝釈天
烏奴    ONOS ロバ(驢馬)
奴国    nomas 遊牧民
※出典:大学講義録19 35~36頁

「広域に及んだアリアン大移動」

「邪馬国」

ジャム(インド北部)-ジャフナ(スリランカ)-シャン(ミャンマー)-シャム(タイ)
ジャバラ(インドネシア)-ジャバ(インドネシア)-邪馬(倭国)-ジャマイカ

「斯馬国=島・志摩・須磨」
シバ(Yaman)-シビ(パキスタン)-シプ(マレーシア)-シムルー(インドネシア)-シボ(中国山東省)-スメル(バビロニアとジャバ)-スマラン(ジャバ)-スマトラ(インドネシア)
-シバ(芝・斯波など日本)-シビ(紫鳥山・出水市)-シムラ(志村)

「与那国」

与那国は沖縄本島より台湾のほうが、はるかに近い日本の最西端の島で、当然、旁国の中には入っていないが、その名はパーリ語でイオニアを「ヨーナ」と呼んだのと一致する。
それが沖縄語化した「ユーナ」は、中国西南部を含む東南アジア語に入ってギリシャ人を指す名詞の「ユーナン」や「ユナニー」などになっている。
雲南省を指す中国語の発音も「ユンナン」に近いから、ギリシャ人居住区という意味で、事実そこは少数民族自治区に分類されている、いわゆる漢人とは異なった、古代ギリシャ系の人々を主流とする集団の子孫が多数住む地域である。
アリアン人の大移動はインド以外の広域に及んでいたのだ。
※出典:大学講義録14 16頁

「朝鮮半島の百済は後世の植民地」

位宮や壹與がいた3世紀、朝鮮半島には馬韓国が存在して、『魏書・東夷・韓』の章に、その国情が記録されている。
その位置は後の百済とほぼ同じである。
その中に百済と同じく「ハクセイ」と読める国の「伯済国」がある。
これはその位置からいって百済の一族であり、後の百済王国の基盤を造った人々の国である。
しかし朝鮮半島の百済が中国の文献に始めて現われるのは、5世紀に生まれた南齊の建元二年480年の百済王・牟都の遣使記事からで、
その前の『宋書』にある倭の五王の、初代・讃の名乗りの中に始めて出てくる百済の名は、その国がどこにあったか不明だが、仮にこれも朝鮮半島だとしても425年のことである。
位宮の名乗りの一つ「穂穂手見」のポセイドンが、種子島の長谷ん野のポセイドンの名乗りである以上、朝鮮半島の百済は、後世にそこに移住した植民地(イオニア)であり、国民はイオ(魚)族だから、クダラという名は大魚クジラと無関係ではないはずだ。
与那国のイオニア人から分かれた一族以外、持つはずのない特殊な魚の部族名を、国号にまでしているとすれば、やはりその出身地は朝鮮半島ではなく南海だと予測できるが、しかしクダラとクジラは少し違う。
はたして本当に同じものなのかどうか。
このよく似た名詞の真相が不明のままでは断定はできないから、次はその相互関係を検討してみよう。
朝鮮半島の百済の前身だった馬韓(マカン)国。その名は何を意味しているのだろう。
『三国史記』百済本紀第一の、始祖王の章に
「其 世系 輿 高句麗 同 出 扶餘 故 以 扶餘 為氏=その王実は高句麗と同じく扶餘から  出ている。だから扶餘を姓にしている」
と百済王家が扶餘人=隼人出身だったことを特記している。
扶羊風・扶揺風と書いて「ハヤのカゼ」と読む。
扶餘もこれと同じ「ハヤ」という、発音への当て字の一つなのだ。
ご存知のように位宮は高句麗・山上王だったから両王統に属している。
この記事は真実である。
また同じ章の二年と三年に「靺鞨(マカラ)が北の国境を荒らす」という記事が連続し、その八年には三千人が侵入してきて慰礼城を囲んだとある。
この城の名は「イリキ」と読むと鹿児島県薩摩郡の「入来」町に一致するし、その靺鞨が兵糧がなくなって北へ戻ったのを追いっ追われつして戦った戦場も、大斧城(大野城(キ))=福岡、馬首城(マスキ)(益城)=熊本、瓶(カメ)山(亀山)柵=宮崎、立城(タキ=高城)柵=鹿児島と、全部が九州の地名と遺跡に合う。
九州の北には朝鮮半島しかないし、そこにいて攻めてきた「マカラ」は、「馬韓」もまたマカラと読めるから、馬韓人だったのである。
しかしこの時の馬韓人は必ずしも半島だけにいたとは限らない。
馬の国=馬津国(マツラ)で、これは松浦=末盧国に一致するからである。
百済とその前身の馬韓に関連のある名詞を、見やすいようにリストアップしてみよう。

小国・小馬 コマ  駒  高麗  高句麗    クマ   熊・球磨 クノ  狗奴国
大国・大馬 ウマ  馬  大国  大之国(シマ) 奄美大島 ウラ   浦   倭国
馬国  馬(クダ)国(ラ)    マレー語                 百済
馬 韓    マ  カン   マ  カラ    靺 鞨
馬 関    マ  カン   馬韓       馬津国  マツラ  松浦  末盧国
下 関   クダ  カン   馬韓      (参考   下松 クダマツ  馬国津)
赤間関   赤馬  韓  赤は南 アカイヤ 明国(アカイヤ)が語源 赤間関は南馬韓国
卑弥呼は日矛の妻の阿加流比売(アカリウシメ)=明姫 阿鹿児之国(アカルシマ)姫=鹿児島姫
靺 鞨    マ    カラ   馬韓    海の大魚  鯨
         ガジャ(象)・ミナ(海)=海の象=鯨(マッコウクジラ) 臥蛇(ガジャ)島
クダ ラ              マレー語
クディラ  「ダ」が「ディ」になるのは大隅語   大根ディコン 大仏ディプッ
(肥満=デ プの語源)
クダラ(マレー語)→クディラ(大隅語)→クジラ(種子島語)
これでウマとコマが大と小を使った対語であり、それは馬と国の大小を分類すると同時に、名詞としても様々に使われていることがわかる。
次に「クダラ」という発音はマレー語による読み替えで、サツマと同じくマレー語人が使った呼び名だったこともわかる。
馬韓はマカラのはかに、クダカンともマカンとも発音できる。
山口県の下関もまたクダカンと読めるし、馬関海峡に面しているが、この馬関はマカンと読める。
さらに下関は赤間が関ともいう。
赤間は赤馬と同じで赤は南を意味するから南馬韓という意味なのだ。
南を赤と呼ぶ語源は、ギリシャの南端、エーゲ海に面した国が「アカイヤ」と呼ばれたのと一致する。
大分と大阪の比売許曾(ヒメコソン)神社は卑弥呼尊を祭る。
その夫・天日矛(シポコ)は天稚彦(チビコ)と同一人で、日矛の妻は「阿加流比売(アカリウシメ)」=「明姫」。
この「明」は鹿児島革でアカイ。
応神天皇の明宮は明国(アカイヤ)の皇居という意味。
阿加流(ル)は阿鹿児(アカル)とも書けるから鹿児之国(シマ)姫。
このことの重要性は、卑弥呼が一名鹿児島姫で、その語源がアカイヤという国名だということである。
靺鞨(マカラ)というのはインド神話の大魚の名。鯨は後世、ガジャ・ミナと呼ばれた。
このガジャも鹿児島に「臥蛇(ガジャ)」島という名で残っている。
鯨のクジラという発音は、大隅語でクダラの「ダ」を「ディ」と訛り、そのディを種子島語で「ジ」と訛ったとみれば不思議はない。
※出典:大学講義録14 25~28頁

「邪馬の2種の発音と候補地」

邪馬は dzia ma ヂャ マ・ dzio ma ヂォ マと、すでに漢魏音で発音が分裂している。
このうちのどちらが旁国の邪馬や邪馬壹国の邪馬の正しい発音か、確認できるまで研究する必要がある。
そしてこれらの国々がどういう歴史をもっているか、できるだけ明確に知り、その語源がどこの言葉か確認できれば、その国名の正しい発音と意味もわかる。
旁国は卑弥呼当時の3世紀には九州に存在していたもので、後世にそこから日本列島全域へ移動拡大した事実がすでに確認できているし、またその九州本土へは沖縄列島経由で移動してきたものが大多数だということも明瞭に確認できている。
このヂォの発音をもつ「徐」も『三国史記』に「徐那伐」と書かれた記録があり、それはヨナバルへの当て字だったことも既に充分解明、証明ずみである。
そしてこのヨナの名は、琉球列島最西端の与那国島からみられ、沖縄県内ですでに分化して広く分布している。
Dzio ma ヂォ マと「ヨ ナ」を比較すると、マとナはともに国称だから除外できる。
残るヂォとヨの関係をみると、これはヨーロッパで、「 jo 」という1つのスペルを、ジォとヨと2種類に発音する英語とドイツ語の方言差にピッタリ共通しているから、
今ヨナがついている地名は皆、この dzio ma の候補地としても間違いではない。
※出典:大学講義録13 3頁

「日本語の中に千語以上のパーリ語がある」

標準語のウオ(魚)という発音は鹿児島生まれだと説明したが、その鹿児島には<魚>を<イオ>と発音する人々がいる。
また沖縄では<イユ>と発音する。
これまでは、これは単にウォという本州語発音が訛った方言だと思われていたが、事実はそんなに単純ではなかったのである。
沖縄県の最も西の端は与那国島である。
この島の「ヨナ」という変わった名前は、卑弥呼政権の祭政一致の国家宗教、当時の帯方郡使が「鬼道」と呼んだ仏教の用語パーリ語でギリシャを意味する名詞「ヨナ」だったことがわかっている。
このヨナは、古代ギリシャの一地方だった「イオニヤ」の訛ったもので、イオニヤ>の語源は「イオン」すなわち「行く・遠征する」という言葉だから、「イオニヤ」とは「遠征によって取った地方」または「遠征隊の国」を意味していた。
だから与那国という名も、この「遠征隊の国」というギリシャ語が「イオニヤ」と発音されていたものを、沖縄へ仏教を広めにやってきたアシャカ仏教宣布団>の宣教師たちが、パーリ語訛りでヨナ国と呼んだので、 <与那国>という当て字が現在まで残ったのだとわかっている。
こうした事実はすでに市販されている私の著書に詳しく解説済みなので、もっと許しく知りたい方はそれらをお読み戴きたい。
このヨナは、沖縄語では「ユナ」と発音される。
これは東南アジアでも同じ地域が多いから、マレー語圏やミャンマーではギリシャ人を「ユナン」とか「ユナニー」と呼んでいる。
これに中国人が当て字したものが「雲南=ユンナン」という省の名として残っているので、与那国の名は何も特別なものではないことがわかるのである。
それ以上に重要なのは、与那国の本来の国名が、「イオン=行く」だったことである。
このイクという発音と、この島の王の名の発音が一致すれば、それは「名乗り」だとわかる。
それが実在している。
卑弥呼政権を倒した<狗奴国男王>は、山上王・位宮という名乗りを持っているが、この位宮は「イク」とも読めるので、「イク」という発音につけた当て字とみても不合理ではない。
彼は、卑弥呼の跡をついで女王になった<壹與>を<与那原>で即位させている。
彼が<与那国王>だったのなら、それはごく当然のことだったとわかる。
「与那原=イオニヤの都」だからだ。
これで当時の沖縄地方には沖縄語のほかにギリシャ語と日本語、パーリ語などがあったことがわかる。
この内パーリ語は今の日本語と比較しても、共通語が軽く1300語以上もあるから、日本語の中核になった言語だとわかる。
※出典:大学講義録09 13~14頁

「山幸の見つけた釣針と赤女の真相」

この壹與の名もまた<与那国>の名乗りと深い関係がある。
それは壹與という一当て字は沖縄語なら「イユ」と読むからである。
このイユとは沖縄では魚のことである。
ここまでわかると海幸・山幸の謎がまた一つ解ける。
山幸が求めて海神国まで行ったのは、魚にとられた「針」を手にいれるためだった。
それは海神宮で見つかった。
針が喉に刺さって苦しんでいたのは「赤女」だった。
この赤女とはタイのことだとか、オコゼだとか、いろいろな説があった。
説は一致しないが、喉を釣針に刺されて苦しむのは魚類の宿命だから、赤女が魚であることには異論はなかった。
とすれば、壹與が「イユ=魚」という名乗りをもっていたことで、少なくとも第一開門は突破できる。
では赤とは何であろう?。
それは先にお話しした<五彩圏の赤>である。
鹿児島以南の海の世界、そこが「赤の国」だったことはいうまでもない。
赤もまた、そこの出身で女王でもある<壹與>の肩書き、名乗りの一つであることは間違いない。
こうわかると、女は女王の省略とみていい。
「魚=イユ=壹與」「赤=赤の国」「女=女王」で、すべてぴったりである。
では「針」とは何だろう?。
『魏書倭人章』には女王国連邦の旁国の名が挙げられているが、その中に「巴利国」というのがある。
これは正確には「パリ国」だが、日本の古語では<パ>を<ハ>と発音するものが多いから、これがハリだったとするのが正しい。
では巴利国とはどんな国だったのか?。
いまイオニヤをヨナ>と発音したのはパーリ語だとお話ししたが、古代日本に、なぜそんな言語があったのだろう?と疑問に思われたと思う。
パーリ語というのは古代インドで使われていた言葉で、お繹迦(シヤカ)様たちが使っていたし、仏教では有名なマガダ国のアシャカ王たちも使っていたとみえて、古いお経は皆これで書いてある。
アシャカ王は仏教を世界に広めて平和な世界を作ろうと考え、王族や皇族を団長に任命して、四方へ大布教団を派遣した。仏教ではその団長を長老と呼ぶが、それは次の通りだ。

方角  目標国名         長老名
東   スパンナプーミ      ソナカ      ウッタラ
北   カスミーラとガンドハーラ マッジャンチカ
北   ヒマバンタパデサ     ミッジマ
西北  ヤナカ-ロカ       マハーラッキタ
東南  バナバシ         リッキタ
東南  マヒサカマンダラ     マハーデバ
南   タンパパンニディバ    マヒンダ  ウッチヤ  サムバラ  バッダサーラ
西   アパランタカ       ヨナカ-ダンアラッキタ
西   マハー-ラッタ      マハー-ダンマラッキタ

以上が宣布団の構成だが、長老名が複数になっているのは、第一次、第二次と、宣布団の派遣がくりかえされたことを示している。
発見された仏教遺跡や古代文献、仏教思想の分布などによって、それらの人々がどこまで行ったかが次第に明かになりつつある。
その内、日本列島まで来たソナカ宣布団のコースと歴史については、ほとんどを明かにした加治木義博の研究が、世界で最も進んでいるが、はるかに西へ進んだ宣布団がアショカ王の祖母の祖国ギリシャのマケドニヤから、シリヤ、シレーネ、エジプトの首都・アレクサンドリヤなどへ到着したことは、西欧の学者も次第に確認してきて、西欧の世界史の教科書にも見られるようになってきた。
このショカ仏教宣布団が、日本まで来たという事実は、皆さんが意外に思われるような種類の遺物をたくさん残している。
その手っとり早い一例が前記載の国名や長老の名前である。
原名と下の当て字とを比べてみて戴くと、それらの名が日本名になって、たくさん現存していることがすぐおわかり戴けると思う。
(先にご説明したが、濁点などは変化して日本語化している。
また語尾のラ・マ・ヤ・ナ・ダなどは、、古代日本で「国」を意味した発音として除外する)

スパンナプーミ   諏訪の国(スワンナ) 不弥国(プーミ)
ウッタラ      内多良・大多良
カスミーラ     香住・香純・霞
ガンドハーラ    神戸原・神田
マッジャンチカ   間辻
ミッジマ      三島
ヤナカ-ロカ    谷中(ロカ=世界)
マハーラッキタ   真原の北
バナバシ      花橋
マヒサカマンダラ  舞阪
マハーデバ     出羽
タンバパンニディバ 丹波
マヒンダ      真品田・舞野田
ウッチヤ      内谷・内山
サムバラ      寒原・佐牟原
ヨナカ       米花
リッキタ      力田
(マハーは大という意味だから省略してもいい。大の沖縄発音=ウ)  
※出典:大学講義録09 15~18頁

「壹與=かぐや姫の悲劇の真相」

単にパーリ語が日本語に大量に入っているだけでなく、その言葉を話した人たちもまた大量に日本へやって来ていたことがわかる。
それでなければ、単に言語だけが伝わってきても、そのために姓や地名までが変わるということは、古代にはありえない。
大量に移民してきたからこそ『魏書倭人章』に、巴利国が存在した事実が、国名記録として残ったのである。
その国はもういうまでもなくアショカ仏教国だった。
壹與が喉に刺さって苦しんでいた針とは、「巴利の名が代名詞だった仏教」だったのではないだろうか?。
考えてみよう。
彼女は『魏書倭人章』に、「卑弥呼の宗女」と、わざわざそのつながりを書かれているから、卑弥呼の跡を継ぐように決められていた仏教徒中の仏教徒だったことは疑いない。
その「仏教=パーリ=巴利国人」であったことがなぜ彼女を苦しめたのか?。
これは簡単にわかる。
彼女は卑弥呼の弟子で、しかも優遇されてきた後継者なのに、卑弥呼の敵=山幸=山上王位宮の味方として、<与那原>で敵国の女王に即位させられた。
そして次は恩師<卑弥呼>を倒す戦いをしなければならない。
パーリ仏教(針)を学んだ(呑んだ)ことが、まさに釣針を呑んだ魚同様の苦痛を、彼女に与えていたことは間違いないからである。
このことで、位宮の宗教が仏教ではなかったことがわかる。
それは山上王という彼の肩書き、名乗りでわかる。
「ヤマガミ王」とは「ヤマ神を祭る王」ということで、ヤマ神とは、シバ神>のこと、すなわち「シンドゥ(英語訛りヒンヅー)教の王」だから、仏教とはもともと敵味方のあいだがらだった。
卑弥呼と位宮のその対立は単なる政権争いではなくて、古代から今に至るまで、地球上を暗くしている人類社会のガン=宗教対立であり、宗教戦争だったのである。
壹與はまた、おとぎ話しの『かぐや姫』のモデルでもある。
彼女が強制的に連れて行かれた「月の世界」とは、『夜の国=夜なぐに=与那国』のことであり、『日本書紀』に<スサノオのミコト>がもらった領地として書かれている『夜食国=よなぐい(夜食の鹿児島語)国』のことで結局は<与那国島>のことだったし、夜は昼の反対で、月世界は太陽すなわち日の神=天照大神=卑弥呼の国と対立する国のことだったのである。
13才で女王に即位した、人もうらやむ幸運児、日本版シンデレラのヒロイン壹與の現実は、針に喉を貫かれた赤女の苦痛、かぐや姫の血涙に表現された希にみる悲劇だったのである。
この講座では感傷にふけっている余裕はないが、これで従来は見過ごされていたおとぎ話しの真の内容の潔さ…、殊に、ほとんど無意味と思われていた『名詞』が、どんなに深い意味を秘めているかが充分にご理解いただけたと思う。
言語は歴史を復元できるのである。
※出典:大学講義録09 19~20頁

「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」

イオニヤ人の移住がアショカ仏教宣布団の渡来とは別だという証拠はまだほかにもある。
それは仏教宣布団の言語であったパーリ語では、イオニヤを「ヨーナ」と発音して決してイオニヤとは発音しないという動かない重要な条件があるからである。
このヨーナという発音からは、どんなにしても魚類を「イオ」と呼ぶ発音は生まれない。
またヨーナの名は全く別の名詞として現在まで残っている。
それは「与那国島」という島の名や「与那原・与那嶺・与那覇」という地名や姓として沖縄県に現存している。
仮にイオニヤ人がパーリ語を話す仏教宣布団の一員としてやってきたのなら、それは先にみた生物名の命名原則に従って魚類を「ヨーナ」と呼ばねばならないのに「イオ」と呼んできた。
これはイオニヤ人が別に渡来して、すでに新たな日本語を作りつつあった後に仏教宣布団が到着して、イオニヤ人の住む島を「ヨーナ国」と呼んだという以外に説明がつかない。
では彼等はいつ、どんなコースでやってきたのか…。
古くB.C.E.3世紀の秦の始皇帝の時代に、すでに台湾は「蓬莱=ホーライ=ギリシャの季節の妖精の名」と呼ばれていた。
またギリシャ神話には金毛の羊皮を求めて、ラコーン(タイから中国南部の古名)やマラヤの岬(マライ半島)という地名のある沿岸を東に遠征した「アルゴ船」の有名な記録がある。
※出典:大学講義録07 12頁

「読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布」

史実の天孫降臨が南九州を舞台にしていることは疑いの余地がない。
その天孫の「天」が「ウチナ=大天」の沖縄地域であることもまた周知の事実である。
そこには釋迦が使ったパーリ語でギリシャを意味する「ヨーナ=与那国、与那原」のつく地名が幾つも現存しているが、他にも沖縄本島の読谷村は正確には「ユンダン」と発音して、やはりマレー語の「ユナン」、南中国語の「ユンナン=雲南」の鼻濁音訛り(=ナ=ダ)に過ぎない。
また沖縄だけでなく、ここ猪名川には「紫合」と書いて「ユーダ」と読む地名があり、これを単純に「ユダ」だと思っている人があるが、それはユダヤである前にこの「ヨーナ」が「与那原・米原」と変化して分布しているのと同じく、湯田・湯田中・木綿田・夕田などと様々な当て字で南九州から東北地方まで分布している「ユーダ」の内の一つなのである。
この地名はさらにアラブから北中国語では「ヤバーナ」になり、漢字で「野蕃」と書く。
中国人が台湾の高地人を野蕃人と呼んだのは、この点からみて軽蔑してそう呼んだのではなく、本来の名詞への正しい当て字だったのである。
この「野蕃」の文字は、今の北京語では「イェーメン」と発音してアラブ最南端のシバの女王の国名と同じになるが、文字のスペルは「ヤマン」になり「八幡」と当て字すると「ヤバーナ」とも読めて言語のもつ力を知らされる。
現在でも日本には全国に三万を越える数の八幡社がある。
それらは、以上挙げた地名や国名、人種名とともにすべて「天孫族=ギリシャ人」が居住していた遺跡なのである。
※出典:講演(1995.10.29 レジメ)

「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」

行とカ行の関係が理解できると、この「ホ」の国と、それをめぐる国々の国名が、何から生まれて、どう分裂して増えていったかが完全にわかる。
沖縄語の「ク」は本土語の「コ」だとわかるから、高麗は「コマ=コ国(マ)」で、やはり同じ国だとわかる。
この高麗は本来「コーライ・コーレイ・コーリー」などとと呼ばれていた。
それはこの地方が3000年前には、古代世界で最大の貝貨幣・宝貝の産地で供給国だったが、そのため宝貝は今でもインド語で「コーリー」、学名も英語も「カウリー」と呼ぶ。
産物の名の多くは、その生産地の地名と同じになるから、これは「高麗」が世界を代表する産地だったことを記録しているのである。
そして、学名と英語の「カウリー」は、実は沖縄語なのだ。
那覇(なは)と反対側の中城湾(なかぐすくわん)には「高離島」という島があって土地の人はそれを「カウリー・ジマ」と呼んでいるのである。
それは沖縄発音で、もとは「コーライ」だったことがわかる。
なぜならすぐ隣りにある台湾は、秦の始皇帝のころから「蓬莱=ホーライ」島と呼ばれているからである。
「ホ」と「コ」が入れかわっているだけであることは、ご説明しなくてもいいと思う。
では「蓬莱」という漢字のついた台湾は中国領だったのだろうか?
始皇帝はその島を神仙の住む別世界の仙境と信じて、「真人」になるために神薬を授かりに徐福らをその島へ派遣したのである。
この「蓬莱」を徐福らの作り話だとする者が多いが、それは間違っている。
それは実在し、徐福は場所も知っていた。
彼は野蛮な独裁者・始皇帝の力を逆に利用して無事に中国を脱出する唯一の手段として、また万一の場合に備える「保険=人質」として、始皇帝の第三女ら多数の少年少女を連れて移住したのである。
その子孫が首都を沖縄に移して大琉球と称し、台湾は小琉球になった。
さらに種子島に移って女王国家「ホの国」を建国、南種子町の広田遺跡の墓に「山字文」の貝製装身具を残した。
豊玉姫の伝統は弥生時代からのものだったのである。
その後の足取りは、大隅の「襲(ソ)」という別名と「徐(ソ)」は同じ発音だから、そこが「徐の国」だったことがわかり、『日本書紀』と『三国史記』の記事で、さらに多数の証拠が見つかる。
天慧甗(テンエゲン)もそこに伝えられて実在する。
天武天皇はその子孫の一人だったから、あれほどまでに「ヤマト=仙」にこだわり、それを国教にし、国名にしたのである。
では元の名の「ホーライ」とは何だったのか?
それは台湾の先住民・ギリシャ人の神話に出てくる大神ゼウスの娘で三人姉妹の「季節の女神(ホーライ)」のことである。
台湾はギリシャ以上に温暖な気候と豊富な果物に恵まれた仙境だから、季節の女神の島と呼ばれたのだ。

※徐福が運んできた 天慧甗

この徐福の徐は与や邪の字と全く同じ発音で、与那国がギリシャ人を意味している通り、イオニア系ギリシャ人だった。
だから「与ナ」は国をマという人には「邪マ」と書かれた。
邪馬壹国もギリシャ人の国という意味なのである。
その「徐」は「ソ」とも発音する人々がいた。
韓国のソウルも「徐伐」と書かれている。
そのソの国は今の大隅地方で、そこにこの中国・秦の時代に作られた徐の国製だと銘記された銅器が現代まで宝として伝世してきたのである。
『天孫降臨』の一部にこの「ソの国」を「添」とか「曾堡里」とか当て字しているのは、内容とは別の史料として重要な意味をもっている。
※出典:YAMATO 184~186頁

「大和は台湾で最初に生まれた」

だが西はこれで納得がいったが、一番の難問題は沖縄より南には、東シナ海よりも、もっと大きな大洋しかないということだ。
どこに赤の国があるのだろう?
それが本当に実在するのであるといっても現代の精巧な地図でもそれは載っていない。
というより精巧な地図だから載っていないといったほうがいい。
というのは今の地図で正確に真南を捜しては見つからないのである。
古代人の方向感覚で南の国を考えると、沖縄の南の国は台湾である。
そこが間違いなく赤の国だったのである。
それは消えてしまった古代の名なんかではない。
私たちの発音する台湾の名を耳を澄まして聞いてみると、その今の名前の「台湾」がそうだと証言しているのである。
そして別にヤヤコシイ読み替えも、発音変化も必要ない。
あなたがいつも口にしているその「タイワン」が、そのままで答えになっているのである。
「タイワン」は「タイワ・ン」「大和・の」に一致しているのである。
「大和」が「オカ=阿和=アカ」であることは、すでにいくつもの例でご説明したとおり疑問点はない。
しかし外国の台湾がまさかと、まだ疑問にお思いの方は、この本をまじめに読んでいない人なのだ。
この講座ではゴビ砂漠はおろか、タクラマカン砂漠の彼方まで、私たちの仲間の世界だったとお話しし続けているのである。
それにくらべると台湾は、与那国(よなくに)島から肉眼で見えるお隣りの島なのだ。
しかもその島は古代には小(しょう)琉球と呼ばれていた。
小さな沖縄のほうが大琉球だったのである。
この「大和(たいわ)」はその時代につけられた「赤」を意味した当て字だったのだ。
それを示すのは台湾の古名の一つに「ホーライ=蓬莱」があることである。
これはもともとギリシャの春の妖精(ニンフ)のことなのだが、
中国人には「鳳凰(ほうおう)が来る島=鳳来(ほうらい)島」と解釈されていた時代がある。
それが今お話しした徐福の当時で、ソナカ布教団の先頭が台湾へやってきたころなのだ。
中国ではそれを「神仙」だと信じて、鏡などに大いに描き始めた。
それが南方を赤い鳥で表現することになった初めと考えると、本来インドの四神の鳥はビシュヌー大神の乗り物である金麹鳥(きんしちょう)で「金の鳥」だったのに、なぜ中国で朱雀(すざく)になったかという謎が解ける。
朱雀というのは中国で別名「丹鳳」という赤い鳳凰のこととなのである。
※出典:WAJIN 177~178頁

 「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」

これで永く神話だとされてきた天照大神が実在の人物で、その出身地まで現存していることが証明された。
しかし証拠としては、イザナキによく似た名前があったというだけじゃなと思う方がまだあるかも知れない。
それに答える証拠は、まだまだいくらでもある。
しかしそれはこの本の目的ではない。
この本は一冊でヒミコのナゾを解くのが仕事である。
上の疑問には、だれがみても後に疑問を残さないものを、もう一つだけ提出して終りにしよう。
伊是名という名は島の名前だといってしまえばそれまでだが、それには何かの意味があるはずである。
それを明らかにしておこう。
これはそのまま読めば「イゼナ」であるが、濁音のなかった時代には何だったのか。
それは「イセナ」。「ナ」は古代の「国を意味する名詞の一つ」である。
ミマナ(任那)のほか、嘉手納、恩納、山名、猪名、伊那、稲、古那、与那国といった地名に今も残っている。
これは「イセ国」で、漢字で書けば「伊勢国」だったのである。
これでなぜ、天照大神が「伊勢の大神」だったかが分かったと思う。
ではその「イセナ」の語源は?
と次々にきりがないが、それもまた分かっている。
それは後の「卑弥呼の鬼道とは何だったか?」の説明に必要だし、分かりやすいので、そこでお話することにする。
※出典:HIMIKO 62頁

「日本語の中に大量に発見される古代インド・パーリ語の痕跡」

アショカ仏教が日本に来たという何か証拠があるだろうか。
加治木義博は第二次大戦末期には鹿児島県北部の栗野国民学校の教師をしていた。
当時、考古学の大家として全国的に知られていた寺師見国(てらすみくに)医師が隣接した大口市におられたので、お訪ねしたついでにこの話もした。
すると「ここには曲田(マガタ)という姓がありますが、それは関係ありませんかネ……」というヒントをいただいた。
なぜそれがヒントになったかというと、アショカ王は「マガダ(Magada)国王」だったからである。
ご存じのように「田」は「ダ」と発音する。このマガタは「マガダ」さんだった可能性が非常に高い。
しかしこれ一つでは「他人のそら似」で証拠にはならないから、そんな国名や地名に共通するものがほかにないか、さがし始めた。
鹿児島語とインド語の共通性はこうしたことから研究しはじめた結果だったのである。
ところがインド、ことに古代にシヤカ(釋迦)が使った言葉であったパーリ語が、日本語に大量に入っていることが分かった。
(詳しいことは加治木義博の『邪馬臺国の言葉』コスモ出版刊=1976年の付録参照)。
そのパリー語ではギリシャ人のことを「ヨナ」と呼んでいる。
まずその「ヨナ」から見ていこう。
これは日本の南西諸島の中でも、いちばん南西にある島である「与那国島」の「ヨナ」と同じである。
この島に限ってわざわざ「ヨナ国」と国の字がつけてある。
これは周辺の島々の住民とは違った人間が、独立国として存在した名残りである。
ではなぜ、パーリ語はギリシャと呼ばずに「ヨナ」と呼んだのだろうか?
ギリシャは古来、大きくなったり小さくなったりしている。
ご存じのとおりアレッサンドロス(英語なまり=アレキサンダーの時代には、それはエジプトからインドにまで拡大した。
しかしアレッサンドロス自身が、それまでのギリシャ人からみれば、東のほうから流れてきた「マケドニア=マケド国」国民で、それが父王ピリッペ(英語なまり=フィリップ)の時代に、隣接したギリシャを「勢力下におさめた」ということだったのである。
マケドニアは今はユーゴの中に入っているが、当時は今のシリア一帯の「イオニア」もその勢力下にあり、それらをひっくるめて、ギリシャと呼んでいたのである。「ヨナ」というのは、このイオニアをパリー語流に、短く縮めた発音なのだ。
「ソナカ~パーリ語~ヨナ国」と見てくると、私たち日本人の血には、どうやらこれまで余り縁のなさそうだった「遠い国」からやってきた血が流れている、と思わないわけにはいかなくなってくる。
それは日本のいちばん南西のはし、そしてヨーロピアンの容貌をもった人たちがたくさんいる鹿児島~沖縄地方なのだ……。
※出典:HIMIKO 180~182頁

「呉の皇帝も青い目をしていた」

私たちは、いま、邪馬臺国が、もと沖縄から出た人たちの政権であったことをはっきり知っている。
過去の九州北部説や大和説などが思いもしなかったことが、重要な大問題として浮かび上がってくるのである。
それは沖縄の与那国島と呉とは、海をへだててはいるが、九州本土までの距離より、はるかに近いということである。
台湾が古代には「小琉球」と呼ばれて、沖縄の統治下にあったことも事実である。
そこからなら、呉の海岸へ百五、六十キロメートルしかない。
その呉の大帝・孫権の一族は背が高く、色が白く、目と鼻が大きく、ときどき碧眼の子供が生まれた。青い目をしていたのである。
それを「中国人には、たまにそんな人が生まれる」などといってすましていてはいけない。
それには理由があり、歴史という学問ではそれがなによりも大切なのだから……。
私たちは、いつからか分からないが「呉」の字を「ゴ」と発音している。
しかし中国では古来、南北とも「ウ」で、語頭の「g」は私たちの耳には聞こえない。
その中国の北には有名な「万里の長城」があるが、それを中国人に作らせた北の強国の一つに「ウーソン(烏孫)」というのがある。
呉王も「呉・孫」は「ウ・ソン」なのだ。
これだけならタダ同じ発音だというだけだが、もっと重大なことがある。
それは烏孫人が、やはり青い目、金髪の混じった地中海人だったことだ。
彼等はギリシャ人たちと同じ仲間だったのである。
それはその名をみても分かる。
「ウーソン」と呼ばれた元の名は正確には分からないが、それはギリシャの古代の勇士イヤソンなどと同じ語尾をもっている。
これを見ると孫権は元はその烏孫人であって、それを中国風に一字ずつ切って、国名と姓にしたと考えることができる。
それが「呉孫」と「烏孫」とが一致する理由だといっていい。
この孫権一族の風貌は、直接の敵である魏人にとっては、知らぬ者のない有名な話だったから、帯方郡使がヒミコに会ったとしたら、ハッと驚くことは間違いない。
たとえ孫権と赤の他人で完全に無関係だとしても、いい印象を与えないことは間違いない。
そうして、もう一つ考えておいた方がいいことがある。
それは日本語の「イツ」は中国語の「ウー」だということである。
それはもちろん「数詞五」の話である。
倭人の国々がその数詞と深いかかわりがあることはご記憶にあると思う。
とすれば伊都国とはこの「呉」となんらかの関係のある名だということになる。
なぜそう言い切れるか。それは今お話したとおり、日本では呉を「ゴ」と発音する。
「それはなぜか?」というこの疑問は、この「イツ」と「ウー」と「ゴ」の関係を認めると、簡単に解けるのである。
これは証拠とはいえないだろうか。
※出典:HIMIKO 248~182頁

「日本が誕生したとき」

3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。
その中核だったのが、バビロンから来たカリエン=和人=高麗人でした。
彼等はエラム出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。
それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、アテナ出身者は嘉手納(かてな)、チラナ>身者は知覧の名を残すというふうに、「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。
その中でも最大のものが台湾で、「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。
その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。
「マレアなる岬の沖を過ぎ、<ラコニア>の沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、やがて四面環海の土地、歓喜のヘリオス(日の大神)の国・タイナロンにぞ、着きにけり……」と書いてあります。
ラコニアは六昆で今のタイ国ですが古代にはミャンマーのヤンゴン=ラングーン(六昆)までを含んでいました。
マレアの岬はマレー半島。四面を海で取り囲まれた大きな土地は、その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。
ヘリオスの妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、これが「音を音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。
 最初の「日本」はタイナロン=台湾で、古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。
 これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、本来はこのヘリオスとヘラのことで、そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。
 ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、「天照大神」様と呼ばれたために、後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。
 これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。
 ※出典:日本国誕生の秘密 216~218頁


 「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」


 壹與=赫居世は『三国史記』に「①13歳で、②徐那伐で、③即位した、④初代、⑤新羅王」と記録されています。
 この5つもある限定条件には、他人では体験できなかった非常に多くの史実がからんでいて、彼女だけがもっている「身分証明書」になっています。
 それが『竹取物語』『魏書倭人章』『三国史記』という、これまでバラバラだった「記録」を接続し、接着して、復元し、互いに不足を補いあって、永い間「忘却の闇」の中に隠されていた歴史の真相を、はっきりと私たちに詳細に教えてくれたのでした。
 それだけでなく、その即位の場所が「徐那伐」だったことが大きな証拠を形成しているのです。
 この地名は従来は朝鮮半島のどこかだろうとされてきましたが、『魏書倭人章』との関連から考えると、どうしても沖縄でなければ話が合いません。
 「伐」の字は朝鮮語で「パル・バル」なので「徐那伐」は「ヨナバル」と読めるのです。
 これに、ぴったりの地名が沖縄にあります。那覇市に近い島尻郡の「與那原(よなばる)」がそれです。
 新羅の歴史を考えますと、狗奴国男王の根拠地であり、13歳の壹與が女王に即位した「ヨナバル」は、ここ以外考えられません。
 また「ジョ・ナ」という発音は「徐国」を意味し、この<ナ>を<マ>に変えることもできるから「邪馬」と書いても同じ「徐国」だとわかります。
 その「ヨナ」は今の<与那国>と同じ発音で、「ヨーナ」とは「イオニア」のインド訛で、ギリシャという意味です。
 「与那・徐那」は「ギリシャ国」ということなのです。
 古代日本には国を「ナ」と呼んだ人々がいました。
 沖縄を<ウチナ>と発音しますし、嘉手納、山名、丹那などもそれです。
 また「ナ」という発音は沖縄語では助詞の「…の」に当たりますから、「徐那」は「ジョーナ」と引っ張る発音をする人々なら、「女王国」または「女王の」のどちらかにも結びつけて考えることもできます。
 ※出典:日本国誕生の秘密 262頁


 『参考』
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