私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。 発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、今後、若い人たちの研究課題である。 また、オリエント史(ウバイド・アッカド・シュメル等)・ギリシャ史・インダス文明史・中国史・朝鮮史等の理解を深めることにより、 今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化の源流、日本語の語源・成立、日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できれば幸いです。
2012年4月5日木曜日
ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動(1)
《ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動》
「ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動」
《呉の皇帝と同族だった卑弥呼》
「呉の皇帝と同族だった卑弥呼」
日本語で[クニ]といえば、
「クニのおっ母(か)さん]
[クニヘ帰る]のクニは[故郷=出身地]のことです。
[六合]は[国家]の意味ではなく、
[故郷]のことで、
その言葉を使った人々は[六合県出身者]だったということがわかります。
ば卑弥呼が、呉の皇帝・孫権の一族と同じギリシャ系の、
よく目立つ特徴をもっていても、
少しも不思議ではないことになります。
少しずつの手掛かりがしっかり結びあい隙間を埋めあって、
金髪も、青い眼も、六合も、大遷都も疑いの余地は残りません。
呉は、
[呉孫=ウースン=烏孫(ウースン)人]が、
筏(いかだ)を使って大挙して揚子江(ヨウスコウ)を下り、
河口一帯に土着、繁栄していた土地でした。
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の話で有名な、
戦国時代の呉や王族とは800年近くもへだたって、
中身は国も人もそっくり変わっていたのです。
魏・呉・蜀二国の対立は、
蜀は孔明の死でほとんど無力化しましたから、
後は魏の敵は呉だけになっていました。
魏政権の次の目標は当然、
残る呉を倒して魏による統一中国を実現しようということでした。
だが呉は蜀と違って、
魏の背後に有力な同盟国・公孫氏の「燕(エン)」がいて、
魏を挟み討ちにできる態勢を整えています。
これが次の大問題でした。
ここで呉とはどんな国なのかを簡単にお話ししておきましょう。
まず「呉」というその国名の読み方から確認していく必要があります。
日本では「呉」を、従来はいいかげんに「ゴ」と読んできましたが、
それは言語学からいうと大変な間違いなのです。
なぜなら中国は日本と違って広大な国土をもっていますから、
その言語も地域ごとに大きく異なります。
呉は中国の南部を占めていた国で、
北部を占めていた魏魂や、
西部を占めていた蜀とは同じ漢字でも、
その発音がまるで違うからです。
中国語の発音は先にお話ししたように時代と地域で大きな違いがあります。
「呉」を私たちが「ゴ」と発音するのは、
漢、魏の時代の北部中国語の発音なのです。
文章としてお読みになるのには、従来通りゴとお読みになってもいいが、
本当は呉の国では「ウー」と発音するのが正しいということを憶えていてください。
なぜそれが重要かといいますと、
いま日本は外国人には、
ジャパン、リーペン、ハポン、ジープンなどと呼ばれていますが、
「ニホン」か「ニッポン」と発音しないと日本語として通用せず、
発音をもとにした比較研究はできません。
日の字を<リー>とか<ハ>に当てたのでは、
「日子」とは「リース」という英語のことだというような、
とんでもない「コジつけ」ができあがるからです。
「呉=ウー」も同じことで、
それは正しく「ウー」と読んでこそ、
はじめて彼らが何者だったかがわかり、
正しい歴史の謎解きができるのです。
《白人だった呉の皇帝・孫権》
「白人だった呉の皇帝・孫権」
では呉の国民は何者だったのでしょう?。
それは3世紀の皇帝・孫権の顔だちをみればすぐ謎が解けます。
『魏書倭人章』の編集者・陳寿の『三国志』に入れられた
『呉書』には彼が生まれた時のお話が特記されています。
彼の父・孫堅(スンキン)は後漢時代には
呉郡と呼ばれていた地域の富春(フシュン)という町の出身で、
17歳で海賊を負かして軍人に採用され、
184年に起こつた黄巾族(こうきんぞく)の乱と、
その翌年涼(リョウ)州の大反乱で、
たて続けに大手柄をたてましたので、
抜擢されて長沙(チョウサ)郡の太守になり、
その後の功績で「烏程侯(うていこう)」という貴族になった人物なのです。
孫権はその孫堅の次男ですが、
彼が生まれたときその顔を見て父がうなりました。
「ううむ、これは貴相じゃ!……
こいつは大した出世をするぞ!……目出度い、目出度い!」
とはしゃいだといいます。
一体どんな変わった顔をしていたのでしょう?。
目が大きくて瞳(虹彩)が明るい色に輝やき、
口が大きくて、エラの張った頑丈な顎(あご)をしていました。
今でいうと白人の子の典型的な顔だちをしていたのです。
だがそれはなにも不思議ではありません。
父の孫堅自身が、
人並はずれて背が高く頑丈な肉体の持ち主でしたし、
彼らが地中海人の子孫であったことは、
その部族名の「ウースン」を中国式に二つに分けて、
国名と王名にした「呉・孫=ウースン」や、
その本拠地の呉淞(ウースン)という同じ発音の地名ですぐわかります。
ウースン人は倭人や高句麗人と共通のギリシャ系集団で、
「烏孫」と当て字されて、
戦国時代までは朝鮮半島北部一帯に住んでいましたが、
その後、彼らは西へ移動して西域に建国し、
70年に戦いに敗れて四分五裂して、
その一部が揚子江の上流に逃げ、
さらに長江を下って、
かつての呉の地方まで集団移動して次第に勢力を拡大していったのです。
日本でいえば野武士とか郷士に当たりますから、
その武力で海賊を倒したのです。
孫堅はその小さな王だったのであり、
のちの烏程侯という肩書も
「烏(ウ)人の程(てい)(法律)を行使する資格をもった貴族」
という意味なのです。
《ギリシャ神話の英雄の子孫たち》
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
このウースンというのは、
『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。
その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、
船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、
それは史実が後世に次第に変型したもので、
ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、
その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。
ギリシャ語には多くの方言がありますから、
<イャーソン>という名は<ヨーソン>から<ユースン>、<ウースン>と変化します。
先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、
それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。
『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、
<ウロ>とは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。
これで「イヤ」と<ヨ>と<ユ>と<ウ>との訛りかたがわかると思います。
だからその地域での「ウースン」が、
ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。
その神話に残され地名とコースが、
東南アジアの現在の国々と一致しているので、
今では彼らがマレー経由で台湾へきて、
そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、
その後、カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、
明らかになってきました。
また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、
その基地として
高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・夫余(フユ)・
挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、
あますことなくわかったのです。
しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、
彼らは営業を続けられなくなりました。
ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、
中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、
古代の呉の地に根をおろしたのでした。
このウースン人についてはもっと重大な事実があります。
それは鹿児島県の東半分を占める
「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。
そして今も鹿児島県人には、
大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、
ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、
ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。
この一致で、大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは
疑いの余地がありません。
《「黄金の国の黄金の女王」ヒミコ》
「「黄金の国の黄金の女王」ヒミコ」
また呉は「ウ」だけでなく「ウー」とも発音される。
それは南中国系の「具さん」は皆そう呼ばれているし、
「呉淞」と書いてウースンと読む地名が上海にある。
そして孫権の一族が「ウー」氏で、
その一族もまた日本の南島へやってきていたと仮定すると「ウー」は「大」。
その国は「大国」=大島。
奄美大島がそれで、そこの王が「大国主」だということにもなる。
そしてヒミコ「下照姫」はその娘だと『記・紀』に書いてある。
これもまた結論はあとに譲るしかないが、
卑弥呼が呉の孫権と同じく烏孫系のギリシャ人だった可能性は、
さらに高くなったわけである。
台湾がソナカ一族のコースに入ることも間違いない。
そして彼等は東南アジアの各地にスヴァルナブーミーの地名を残した。
インドネシアがその「金の国」に相応しい産金国だったことは、
歴史に詳しく記録されているし、
ミャンマーからタイヘかけて凄い金ピカの大仏像があることも、
今では私たちが自分の目で確かめられる。
そうだとすると、沖縄はなぜ「チヌ=角」の国だったかも分かる。
「チ=キ」「ヌ=ン」。
本当は「キン=金」の国だった。
沖縄も間違いなく「スヴァルナブーミー」だったのだ。
それなら金髪の彼女が「象徴」として最適任だったことは、だれにも分かる。
彼女は黄金の国の、黄金の女王、
「光華明彩」の天照大神に最もふさわしい少女だったのだ。
《敦煌は重要な[倭人]遺跡》
「敦煌は重要な[倭人]遺跡」
敦煌は唐代以後も余命を保ったから、
その時代時代に新たに荘厳を加えていて、
その出発点がアショカ時代だということが分からなくなっている。
日本では、
さらに小説などで全く別のイメージに作り変えられてしまったが、
実体はそんな小説程度のものではなく、
仏教史上最大の意義をもった大遺跡であり、
『ヒミコ』でご説明した
[金髪碧眼(へきがん)のウースン(鳥孫)人]のいた都だったのである。
彼らの特徴は岩山を掘って巌窟(がんくつ)を作っていることで、
同じ地中海人の[邑婁]人も、
『魏志東夷伝』に「常に(いつも)穴居する」のが特徴だと書いてある。
その巌窟寺院を彼らが創始したのは、
洞窟の奥深くに聖域を設けるギリシャ思想の現れなのである。
それも『ヒミコ』でお話ししたとおり、
彼女も受け継いでいた伝統で、
日の神アポロンの巫女ビューティアが鎮座(ちんざ)していた洞窟であり、
天照大神の[天の岩屋]でもある。
こうみてくると
[烏孫]の烏も[ウワイ]の語源[ウパサカ]への
方言差の交じった当て字だった可能性が強い。
それはほかにも同じような証拠があるからである。
『魏志鳥丸(ウカン)伝』をみると
大量の古代日本的民俗があるだけでなく、
[ウカン]という発音は[大日の]と書いたものの大隅式読み方と一致するし、
その聖地[赤山]はインドに今も大勢いる[アカヤマ]という名と同じである。
それはまた次のように、
[倭]の名が分布していた地域でもあるのだ。
《西域の「イリ」は沖縄語の国名》
「西域の「イリ」は沖縄語の国名」
インド~アーリア系だというのは、
それが狭い小範囲のものではなかったからである。
『ヒミコ』とこの本で、彼女と壹與が金髪だったことをお話ししたが、
その人々が大集団を作っていた地域は今も祁連(きりん)と
呼ばれている山脈の北、楼蘭の西、新疆自治区に当たる地域から、
旧ソ連のキルギス共和国の一部で、いわゆる西域の最西端である。
そこに漢代に「伊列・伊黎(イリ)」と書かれた国があった。
これは西を「イリ」と発音する沖縄語と完全に一致する。
その東にあったのがヒミコの遠い故郷だったと話した「烏孫(ウーソン)」である。
「鳥(ウー)」も本土語の「オオ=青」で東だ。
その南には「大月氏国」があるが、これは「大月(ウカツ)」で「大和津=赤」に合う。
その烏孫の真ん中が、『コフン』でサムライそっくりの人々の青銅像をご覧にいれた、
あの「滇=テン国」だったのだ。
ギリシャ人を意味するキリン山脈やキルギス国は「黄」でもある。
洒落じゃないか「キリ」がないくらい大量の証拠が見つかる。
この本は学術書ではないので、
発見したことの中から適当なものだけを選んでお話ししている。
あげた証拠は発見量の1パーセントにも満たないが、
それでも十分、ご理解いただけたと思っている。
それはどんなに角度を変えて検討してみても、すべての答えが一致して、
結論が全部一つに結びつき、決して変わらないからである。
言語復原史学会
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《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
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