2012年4月7日土曜日

ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動(3)



 《ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動
 「ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動


 《『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り
 「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り

 真実の我が国の歴史は、はるか紀元前に国家をつくり、

 のちに百済(ホセイ)という当て字をもったギリシャ文明の先端が、

 ソナカの仏教文明と複合して築き上げた高度文明国家で、

 その高さは古墳文化などが、出土品だけでなく様々のファクターで、

 次々に実証し続けている。

 その百済国は、移動とともに発音が変わり、

 ホーライ⇒ホーレイ⇒ホゼイ⇒ボセイ⇒フジィ⇒ハツセイ⇒ハツセ⇒ハセ⇒オオスミ⇒

 ウースン⇒ホヅミ⇒モズミ⇒マヅミ⇒マヅメ⇒マツラ⇒クダラ⇒モモダリ⇒パクチェ

 などと変化した。

 この建国期の史実も知らずに、

 百済とはクダラと読むとしか知らない連中が、

 それを半島の独立国、皇室とは無関係な外国だと信じて、

 教えつづけてきたという無茶苦茶な国が、

 私たちの現代日本だったのである。

 しかしこの発音を写した穂積皇子や伯瀬部皇女の名乗りは

 『萬葉集』にまで並んでいて、

 皇室の由来が、

 消えることなく伝えられ続けているのを、見ることができる。

 その穂積皇子の歌は

 「降る雪は 劇(あは)には降りそ 吉隠(よなばり)の 猪飼(いかい)の丘の寒からましに」

 だ。

 ヨナバリ=与那の巴利=ギリシャ人の都の名も見える。

 柿本人麿の高市皇子への弔歌には、
 
 「言(こと)さへぐ百済(ほづみ)の原ゆ 神葬(はふ)り」という一節がある。

  神社や陵は、神=貴人を祭ってあるのであって、

 伊弉諾神宮でも八幡宮でも、

 架空の神話の空想の産物を迷信しているのではない。


 《ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史
 「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史

 その大隅は地元発音でウースン。

 この当て字の一つが「烏孫」。

 彼等は前漢の武帝が即位した紀元前140年には

 西域で月氏をバクトリヤに追い払っている。

 これは大隅人が拡大して朝鮮半島を北上して

 鴨緑江両岸に邑婁(ユウロ)や夫余をつくり、

 殷代からの高族の国、高麗を支配下におさめて、

 黒の国=玄武の国と名付けたことと、

 烏は黒鳥だから「烏孫」と言う当て字は、

 この地域にいる時に当て字された、という事実まで、

 併せて立証しているのである。

 彼等は、さらに北へ移動、

 中国北部を迂回して西進して月氏の居住地を奪い取ったのだ。

 その本国・大隅は新しい領土の都として栄え、

 3世紀には7万戸ある大国・邪馬壱国の前身になった。

 こうみてくるとその時期と、五彩圏の誕生がぴったり重なり、

 そこにつけられた多くの国名が

 ギリシャの五彩圏や神名群に一致するのだから、

 この勝者がギリシャ人だったことは疑う余地がない。

 では彼等はどこから大隅へやってきたか?。

 それは与那国島がイオニヤを語源にもち、

 台湾がホーライというギリシャの女神名をもち、

 そこに一見して欧州人の子孫だとわかるアミ人が今も居住し、

 アトモと呼ぶギリシャ式双耳土器を

 現代まで焼き続けている人々もいる。

 また、ポセイドン、アンピトリテ、アフロヂテなどといった

 多数のギリシャ海神名が、百済、奄美、淡路島という国名に一致している。


 《ギリシャ人を立証する信仰の形=葡萄唐草文様
 「ギリシャ人を立証する信仰の形=葡萄唐草文様

 この葡萄唐草文様は、

 ギリシャから中近東にかけて盛大だった

 酒の神・ディオニュツソス信仰の産物である。

 葡萄は酒の母体であり神の賜物であった。

 それは健康と快楽と長寿繁栄をもたらす霊草だった。

 それに配された馬は海神ボセイドンの象徴であり、

 その実体は海馬=竜の落し子(タツノオトシゴ)で、

 これはギリシャ海人たちが、守護神として頼る信仰の証しである。

 この信仰が中国の技術と結合してこの鏡が生れた。

 しかし職人が中国人のため霊物の姿も中国人の常識に置き換わった。

 鳥獣などの表現が全てギリシャ文明そのままというわけではないが、

 その最大のモチーフである葡萄唐草文は、

 永くしっかりと守り続けられている。

 ギリシャ生れのこの信仰が、

 これで中国に入ったことが確認できたのである。

 その時期が隋唐時代だというのは、

 まさに大隅ギリシャ人の発展を裏書きしている。

 大隅を都に発展し、

 3世紀には7万戸の大都市国家を造った彼等は、

 大隅から溢れ出てウースンと呼ばれながら北上し、

 鮮卑(朝鮮の日人)と呼ばれながら中国を制圧して隋・唐政権をっくった。

 そしてそんな鏡をつくるまでに繁栄した。

 こうみてくると「たかが鏡」だなどとはいえない、

 強力な証拠力をもった俸大な文化財であり、

 それが記録しているギリシャ信仰や文明の、

 動かし難い完璧な物的証拠として、

 あらゆる反対を吹き飛ばす大きな役割を果したのである。


 《ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々
 「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々

 その実態が、先にお話しした大隅(ウースン)(烏孫)あり、

 『五彩圏連邦』そのものであり、

 高句麗の周辺に生まれた邑婁・夫余といった国々であり、

 それがさらに生んだ匈奴であり、鮮卑てあり、隋・唐政権でもあったのである。

 それは時とともに姿を変えていったのだ。

 それを朝鮮半島の王は

 「百済と高句麗は、ともに扶余から出た」と証言している。

 扶余は「扶養(ハヤ)の風=南風(ハヤ)」のハヤであり、ハヤ=海人=隼人、

 すなわちギリシャ海軍の出身であり、隼人=大隅人だということなのだ。

 その百済は出水とともに海神・ポセイドンが語源だった。

 海神の名を選んでアンピトリテ?奄美、都井岬、取手。

 ボントス→本都別→誉田別天皇。

 アフロディテ→淡路島などという名を沢山のこしたのは、

 ギリシャ人の海人たちだったと、

 誰が考えてもすぐわかる言語文化財が大量に残っているので、

 疑いの余地はない。

 在来の東洋史などにみる「騎馬民族」といった分類は根本的に誤りで、

 多様な故郷から溢れ出た人々が好き勝手な方向に移動して土着しては、

 不意にやってくる敵や異常気象に襲われて放浪する生活の繰り返しで

 分散集合してしまっただけの違いしかない。

 「何民族」といった固有の「民族」など存在しない。

 もちろん時代が進むと同時に外敵に対する防御法として民結して

 「私有地=国」を主張するが、

 それは純血とか民族とかを意味しない。


 《すべての宗教はウバイドに遡る
 「すべての宗教はウバイドに遡る

 大学院講義録39ですでにご存じの通り、

 歩き巫女はジプシーや、シベリアのシャーマンとも共通している。

 シャーマンは沙門というれっきとした仏僧の一種だったが、

 呪術師と化してしまった人々で、

 青森の恐山のイタコや沖縄のユタ類似のものであり、

 仏教と神道とがどういう関係にあるかを教えてくれるし、

 その根を辿ればオリエントの信仰に遡り、

 アレクサンドロスの母が奉じた宗教も、

 アブラハムが承け継いだバビロンの信仰も、

 アーリヤ人がインドに広めたバラモン教も、

 それから派生した仏教も、

 源流に遡れば一系になることに変わりはない。

 また途中で逸れてしまったが
 
 『記・紀』の神名にある鮮卑、東夷の首長の名は、

 もともと中国北辺の住民が、

 日本列島からの移住者だった、という事実の証拠になっている。

 烏孫と書くウースンが大隅のことで、

 宇迦之(ウカノ)山、宇迦之御魂と同名の烏丸(ウカン)は、

 『魏書』に「烏丸・鮮卑.東夷」とトップに挙げられている大国だが、

 我が国の明治以前の首都・京都の下京区四条には、

 烏丸の文字はそのまま使い、

 発音だけをカラスマと読み変えた地名が今なお残っている。

 このウカは「大日」如来から来ており、

 本土語のオカだから岡や遠賀のつく地名や姓の本体であり、

 大日如来は我が国では

 ビルシャナ仏(毘盧遮那仏=奈良の大仏も同じ)と呼ぶが、

 ミヤンマーもビルマ=毘盧国を国名にしているのである。

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2012年4月6日金曜日

ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動(2)



 《ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動
 「ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動


 《金髪の卑弥呼は大隅(鳥孫=ウースン)人
 「金髪の卑弥呼は大隅(鳥孫=ウースン)人

 この「カイ」を「ケ」と発音する言語は、

 鹿児島独特のものなのであろうか?

 実はそれは中国南部の言葉の一つ、呉の発音なのである。

 あなたは仏教の用語が、

 私たちが普通に使う発音とずいぶん違っていることに

 お気づきになっていらっしやると思う。

 「カイ」の発音をもつ例を挙げてみると、

 「快楽」は普通なら「カイラク」と読むが、

 仏門では「ケラク」または「ケナク」と読むのである。

 カイがケに変わっていて

 鹿児島語と同じであることがおわかりになったと思う。

 これは一体、なぜなのだろう?

 鹿児島の人の姓の中には中国の地名をそのまま名乗っている人がいる。

 「江夏」は鹿児島ではエナツではなく「コウカ」と中国式に発音する。

 また文字は中国のままで、発音を日本式に変えたものもある。

 「汾陽=フンヨウ」は中国山西省にある地名だが、

 これは「カワナミ」と読むように変えてある。

 「穎川=エイセン」もやはり中国の地名だが、

 これも「エガワ」と読む。

 いちいち挙げているわけにいかなが、少なくとも25以上ある。

 これは不思議でもなんでもない。

 鹿児島県の東半分は「大隅」であることは常識だが、

 これは現地の発音では「ウースン」である。

 中国で「ウースン」というのは、

 上海の隣りにある揚子江に面した港「呉淑(ウースン)」だが、

 これも当て字で、

 本来は「呉孫(ウースン)」すなわち『三国志』の呉の皇帝・孫権(スンキン)

 一族からきた地名で、そのウースンは、

 彼らの集団が元は揚子江(ヨウスコウ)を下だってきた

 「烏孫(ウソン=ウースン人)」だという「名乗り」からきている。

 この烏孫人はギリシャ系の地中海人で、金髪の人も混じっていた。

 私が卑弥呼は金髪だったと突きとめたのは、

 こうした人々の歴史を

 バビロン、シュメル時代まで遡って明らかにしたからである。

 また大隈はソ=襲の国で、

 呉もまたソ=蘇州と呼ばれることも証拠の一つである。


 《天智天皇と天武天皇は敵対する別部族の王
 「天智天皇と天武天皇は敵対する別部族の王

 弟のはずの天武天皇が兄のはずの天智天皇より、

 4つ年上だったということは、

 学者仲間の常識であるが、

 天智天皇と天武天皇とが兄弟ではない、

 というもう一つの大きな証拠は、

 その王称である「天皇」というのが天武天皇の方の王称だったのに対して、

 天智天皇の方は別の王称を使う人々だったこともあげていい。

 それは彼がまぎれもなく新羅王・金春秋だったからすぐわかる。

 新羅では後世は単に「王」と呼んでいるが、

 もともと「歯叱今」と呼んでいた。

 『三国史記』はこの名詞を

 「歯は朝鮮語でイと発音する」と解説をつけている。

 それをもとに、この発音を復元してみると、

 「叱=シ」「今=コン」だから「イシコン」になる。

 これは初代王・赫居世が「居西干=イセカン」という称号をもっているが、

 それは「伊勢神」に表する。

 彼女は確かに伊勢の外宮に祭られている伊勢神である。

 イセとイシの発音差は標準語と沖縄語との違いである。

 するとイシは沖縄語なのだから、

 「今」の字を「コン」と発音することはない。

 これは「キン」であって、

 「イシキン」と読まれていたとしなければならない。

 これで、この称号がもともと何という称号だったかがわかる。

 それは初代新羅王の赫居世が、

 卑弥呼の宗女・壹與だったことが完全に確認されているからである。

 彼女が金髪のギリシャ系の女性で、

 卑弥呼と同じ烏孫人の子孫であったことは、

 これもすでにこのシリーズで考証ずみである。

 その第一の証拠が彼女らの政権があった母国「大隅」という地名が、

 南九州語の発音で「ウースン」であることがなによりの証拠だと先にもお話しした。

 それがなぜ、どういう経路で沖縄から鹿児島にかけて住んでいたかも、

 すでにすべて明らかになった。


 《天皇陵関連の参考事項
 「天皇陵関連の参考事項

 倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国

 ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から

 台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)

 奄美では国名は…ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。

 これが「大国主」の名の始まりで、

 7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、大化までは継続した。

 しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。

 さらに大分県宇佐に移動。

 『宋書』の倭国伝に記録された倭王・武の視点はこの宇佐にある。

 その後、さらに四国愛媛に移動、次第に讃岐・阿波へと拡大した。

 これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。

 当時倭の五王時代の始まった4世紀で、

 さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。

 大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、

 これは沖縄語の「キノ国」のこと。

 この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、

 これ大と紀州を取ったことを意味している。

 天皇名は去来穂別=履中天皇。

 去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。

 二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。

 和泉の王が済(イスミ)。

 河内(コウチ)の王が「興」。

 武(タケシ)にいたって

 ヤット奈良県に入って高市(タケチ)国を始めた。

 これが神武奈良東征の原型になる。

 その神武(カム・タケシ)という当て字は、この倭王・武を指している。

 だが、『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が混入している。

 その神武東征の内容は、

 3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが最大のウェイトを占めているし、

 さらに遡って、

 紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。

 これが神武紀元を紀元前660年に決めさせた原因である。

 日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。

 基礎に一か所、駄目なところがあれば、全てが崩壊してしまう。

 これは何も歴史研究だけが特別なのではない。

 それは現実が教える。

 近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。

 それは建築の進歩による。

 同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、それを立証している。

 人生も、研究もすべて同じことなのだ。

 キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、自分の未来も、

 ずっと以前から明瞭に見えているものである。

 よく考えることをしないで「幸福を神に祈っても駄目」である。

 なぜなら「神」は実在し、「霊」も長く死なずに生き続けている。

 それはDNAの中にいるのである。

 「よく考え、瞑想して」その神や霊と話さなければ、神も霊も教えようがない。

 他のことに夢中になっていては悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。

 (1994.10.30 レジメ)


 《「倭は呉と同族」とみていた梯儁
 「「倭は呉と同族」とみていた梯儁

 以上の数例はすべて、

 中国の仏教が呉音をもたらしたのではなく、

 逆にこちらから観音信仰を伝えたことを証言しているし、

 梯儁自身が「仏教」を知らずに「鬼道」と呼んでいることと併せて、

 呉音は仏教とは無関係に伝わったもの、

 それはむしろ卑弥呼らと同族である呉の孫権らの

 「呉孫=ウースン=烏孫=大隈」人が、

 卑弥呼以前から日本列島へも移住して伝えたものと訂正しないと、

 これに関連する問題は至るところで食違い行き詰まる。

 この呉人の移住が事実だったこともまた『魏書倭人章』が補足立証している。

  「夏后少康之子 封於 會稽 断髪 文身 以避 蚊竜之害 今 倭水人
 
   好 沈没 捕 魚蛤 文身 亦以 獣 大魚水禽……」

   (中国最古の「夏」王朝中興の王・少康の王子が會稽=呉の領主になったとき、

   その土地の風俗に従って頭髪を短く切り、身体に入れ墨をした。

   いま倭人の漁師を見ると、好んで潜水して魚や貝をとるが、

   やはり入れ墨をしている。

   これは會稽王が入れ墨をしたのと同じ習俗で、

   サメや漁を邪魔する海鳥などを威嚇するためだ)

 と書いて、

 こんなに呉人と倭人に共通点が多いのは、

 私(加治木義博)の考えでは

 「倭人は呉人と同族だろうと思う」という事を言外に匂わせている。


 《同族だった沖縄と呉(ゴ)の残した遺物
 「同族だった沖縄と呉(ゴ)の残した遺物

 また漢訳や沖縄の対岸、呉で始まっていることも軽視できない。

 なぜなら過去に日本史学者が

 「世界・字宙」などと解説して来た前記の「六合」は、

 その呉の一部が「六合県」として、今もなお古代の史実を伝えているし、

 「六合=リクアウ=陸奥=リクウ=琉球」という

 日本語が生み出した地名があることも

 解析ずみである。

 また卑弥呼と同時代の呉の皇帝・孫権とその父が

 ウースン系のギリシャ人の子孫であり、

 呉孫権(ウースキン)、呉孫竪(ウースキン)は

 どちらもウースン公(きん)という名乗りへの

 九州語読みの当て字であり、大隅も奥州も奥村も宇佐もまた、

 このウースンへの当て字であることはすでによくご存じで、

 当時の沖縄と呉との間に、国境や国籍を考えるのは間違っているからでもある。

 視点を変えても、

 卑弥呼は魏への遣使に「上表(てがみ)」を持たせてやったから、

 魏帝も彼女らの「好物」が鏡だと知ったのだし、

 読めることがわかったから難しい漢文の詔書を長々と書いて寄越したのだし、

 それに対するお礼をまた倭王・卑弥呼が即座に

 「因使上表 答謝詔恩」したと明記している。

 また、卑弥呼や邪馬壹国というのは、

 中国人が我が国を軽蔑して卑しい「卑・邪」といった文字を、

 わざわざ選んで使ったのだといい、それが一般に信じられているが、

 それらの文字も皆、卑弥呼自身が使っていた文字だとはっきりわかっている。


 《ギリシャ人はどこから来たか?
 「ギリシャ人はどこから来たか?

 ここで私たちは、

 もう一つ重要な「証拠」を手に入れていることを見落としてはならない。

 それは魏の発音なら「イエッ」である「壹」を、

 当時の倭人たちはその魏音通りに発音せず「イチ」と発音して、

 壹国を「イチマ=伊支馬」と発音している事実である。

 この「イチ」は、

 中国北方の漢魏音に対立していた南方音の呉音(ゴおん)なのである。

 これは魏の強敵、呉の国の言葉だから、

 張政が呉音を知っていたら気を悪くするぐらいでは済まない。

 だが幸いに、彼はそれに気づかず単なる官名として、

 固有名詞扱いされてすんだ。

 その報告を読んだ魏政府の役人もまた気づかずに、

 そのまま現代まで変更されることなく残った。

 そのお陰で私たちは、

 位宮や壹與たちが呉を経由して沖縄地方に移住してきた

 ギリシャ系ウースン人の子孫だったことに確信がもてたのである。

 それは大隅から奥州に至る我が国の多くの古い地名や姓が、

 そのウースンを意味している事実を知っているだけでなく、

 幼い天照大神の『光華明彩』が、照り徹(とお)したと

 「記・紀」が書く「六合」までもが、

 呉の時代の名残を今に残す県名として実在する事実を知っている。

 六合は現在でも我が国に地名・姓として現存しているが、

 その発音は多く「くに」である。

 「くに」は母国・故郷のこと。

 忘れ難い故郷は呉の六合だと今も歌い続けているのである。


 《大隅と出水に進出した百済人(ポセイドン)のその後
 「大隅と出水に進出した百済人(ポセイドン)のその後

 その南九州人が、

 種子島のナガタニ=長谷一帯(南種子町長谷(はせ)ン野)に移住したことも、

 チョウコクという漢字を「ハセ」と読むことでわかる。

 「百済」を「ハツセ」と読むのは、これも南九州人の癖だからである。

 そこで勢力を蓄えて、次に移住した土地もわかっている。

 それもご存知の通り「百済」もオオスミと読めるから大隅なのである。

 この移住には「サカ⇒サタ」という大移住の標識地名が、

 今なお現存していることもまた、よくご存知である。

 その時もう一波の移住者が鹿児島県の出水地方へ移った。

 彼らも大隅人と同じく沖縄訛りを話したが、

 百済は大隅という新しい当て字に変わったことから、

 ウースンと呼ばれるようになったので、

 出水への移住者は、それと区別するために、

 ポセイドンの後半を国名にしてイヅンと発音するので「出海(イズウン)」、

 のちに「出水」という当て字を使った。

 ヅはドの沖縄訛りだから、彼らの方が大隅人以上に、

 沖縄訛りが強く残っていた人々だったことがわかる。

 出水から北へ一山(ひとやま)越せば熊本県の球磨(くま)地方である。

 ここから大隅の曽(ソ)於郡地方までを一括した地域名が「熊襲」であることは、

 古来よく知られた事実である。

 その熊襲は「肥・日」をクマと読み、

 ソに「素」の字を使った当て字によって

 クマモトと呼ばれるようになった。

 またモトに「本」の字を使うと「熊本」だから、

 次の発展地がどこか簡単にわかる。

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2012年4月5日木曜日

ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動(1)



 《ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動
 「ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動

 
 《呉の皇帝と同族だった卑弥呼
 「呉の皇帝と同族だった卑弥呼

 日本語で[クニ]といえば、

 「クニのおっ母(か)さん]

 [クニヘ帰る]のクニは[故郷=出身地]のことです。

 [六合]は[国家]の意味ではなく、

 [故郷]のことで、

 その言葉を使った人々は[六合県出身者]だったということがわかります。

 ば卑弥呼が、呉の皇帝・孫権の一族と同じギリシャ系の、

 よく目立つ特徴をもっていても、

 少しも不思議ではないことになります。

 少しずつの手掛かりがしっかり結びあい隙間を埋めあって、

 金髪も、青い眼も、六合も、大遷都も疑いの余地は残りません。

 呉は、

 [呉孫=ウースン=烏孫(ウースン)人]が、

 筏(いかだ)を使って大挙して揚子江(ヨウスコウ)を下り、

 河口一帯に土着、繁栄していた土地でした。

 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の話で有名な、

 戦国時代の呉や王族とは800年近くもへだたって、

 中身は国も人もそっくり変わっていたのです。

 魏・呉・蜀二国の対立は、

 蜀は孔明の死でほとんど無力化しましたから、

 後は魏の敵は呉だけになっていました。

 魏政権の次の目標は当然、

 残る呉を倒して魏による統一中国を実現しようということでした。

 だが呉は蜀と違って、

 魏の背後に有力な同盟国・公孫氏の「燕(エン)」がいて、

 魏を挟み討ちにできる態勢を整えています。

 これが次の大問題でした。

 ここで呉とはどんな国なのかを簡単にお話ししておきましょう。

 まず「呉」というその国名の読み方から確認していく必要があります。

 日本では「呉」を、従来はいいかげんに「ゴ」と読んできましたが、

 それは言語学からいうと大変な間違いなのです。

 なぜなら中国は日本と違って広大な国土をもっていますから、

 その言語も地域ごとに大きく異なります。

 呉は中国の南部を占めていた国で、

 北部を占めていた魏魂や、

 西部を占めていた蜀とは同じ漢字でも、

 その発音がまるで違うからです。

 中国語の発音は先にお話ししたように時代と地域で大きな違いがあります。

 「呉」を私たちが「ゴ」と発音するのは、

 漢、魏の時代の北部中国語の発音なのです。

 文章としてお読みになるのには、従来通りゴとお読みになってもいいが、

 本当は呉の国では「ウー」と発音するのが正しいということを憶えていてください。

 なぜそれが重要かといいますと、

 いま日本は外国人には、

 ジャパン、リーペン、ハポン、ジープンなどと呼ばれていますが、

 「ニホン」か「ニッポン」と発音しないと日本語として通用せず、

 発音をもとにした比較研究はできません。

 日の字を<リー>とか<ハ>に当てたのでは、

 「日子」とは「リース」という英語のことだというような、

 とんでもない「コジつけ」ができあがるからです。

 「呉=ウー」も同じことで、

 それは正しく「ウー」と読んでこそ、

 はじめて彼らが何者だったかがわかり、

 正しい歴史の謎解きができるのです。

 
 《白人だった呉の皇帝・孫権
 「白人だった呉の皇帝・孫権

 では呉の国民は何者だったのでしょう?。

 それは3世紀の皇帝・孫権の顔だちをみればすぐ謎が解けます。

 『魏書倭人章』の編集者・陳寿の『三国志』に入れられた

 『呉書』には彼が生まれた時のお話が特記されています。

 彼の父・孫堅(スンキン)は後漢時代には

 呉郡と呼ばれていた地域の富春(フシュン)という町の出身で、

 17歳で海賊を負かして軍人に採用され、

 184年に起こつた黄巾族(こうきんぞく)の乱と、

 その翌年涼(リョウ)州の大反乱で、

 たて続けに大手柄をたてましたので、

 抜擢されて長沙(チョウサ)郡の太守になり、

 その後の功績で「烏程侯(うていこう)」という貴族になった人物なのです。

 孫権はその孫堅の次男ですが、

 彼が生まれたときその顔を見て父がうなりました。

 「ううむ、これは貴相じゃ!……

  こいつは大した出世をするぞ!……目出度い、目出度い!」

 とはしゃいだといいます。

 一体どんな変わった顔をしていたのでしょう?。

 目が大きくて瞳(虹彩)が明るい色に輝やき、

 口が大きくて、エラの張った頑丈な顎(あご)をしていました。

 今でいうと白人の子の典型的な顔だちをしていたのです。

 だがそれはなにも不思議ではありません。

 父の孫堅自身が、

 人並はずれて背が高く頑丈な肉体の持ち主でしたし、

 彼らが地中海人の子孫であったことは、

 その部族名の「ウースン」を中国式に二つに分けて、

 国名と王名にした「呉・孫=ウースン」や、

 その本拠地の呉淞(ウースン)という同じ発音の地名ですぐわかります。

 ウースン人は倭人や高句麗人と共通のギリシャ系集団で、

 「烏孫」と当て字されて、

 戦国時代までは朝鮮半島北部一帯に住んでいましたが、

 その後、彼らは西へ移動して西域に建国し、

 70年に戦いに敗れて四分五裂して、

 その一部が揚子江の上流に逃げ、

 さらに長江を下って、

 かつての呉の地方まで集団移動して次第に勢力を拡大していったのです。

 日本でいえば野武士とか郷士に当たりますから、

 その武力で海賊を倒したのです。

 孫堅はその小さな王だったのであり、

 のちの烏程侯という肩書も

 「烏(ウ)人の程(てい)(法律)を行使する資格をもった貴族」

 という意味なのです。


 《ギリシャ神話の英雄の子孫たち
 「ギリシャ神話の英雄の子孫たち

 このウースンというのは、

 『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。

 その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、

 船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、

 それは史実が後世に次第に変型したもので、

 ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、

 その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。

 ギリシャ語には多くの方言がありますから、

 <イャーソン>という名は<ヨーソン>から<ユースン>、<ウースン>と変化します。

 先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、

 それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。

 『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、

 <ウロ>とは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。

 これで「イヤ」と<ヨ>と<ユ>と<ウ>との訛りかたがわかると思います。

 だからその地域での「ウースン」が、

 ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。

 その神話に残され地名とコースが、

 東南アジアの現在の国々と一致しているので、

 今では彼らがマレー経由で台湾へきて、

 そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、

 その後、カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、

 明らかになってきました。

 また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、

 その基地として

 高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・夫余(フユ)・

 挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、

 あますことなくわかったのです。

 しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、

 彼らは営業を続けられなくなりました。

 ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、

 中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、

 古代の呉の地に根をおろしたのでした。

 このウースン人についてはもっと重大な事実があります。

 それは鹿児島県の東半分を占める

 「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。

 そして今も鹿児島県人には、

 大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、

 ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、

 ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。

 この一致で、大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは

 疑いの余地がありません。


 《「黄金の国の黄金の女王」ヒミコ
 「「黄金の国の黄金の女王」ヒミコ

 また呉は「ウ」だけでなく「ウー」とも発音される。

 それは南中国系の「具さん」は皆そう呼ばれているし、

 「呉淞」と書いてウースンと読む地名が上海にある。

 そして孫権の一族が「ウー」氏で、

 その一族もまた日本の南島へやってきていたと仮定すると「ウー」は「大」。

 その国は「大国」=大島。

 奄美大島がそれで、そこの王が「大国主」だということにもなる。

 そしてヒミコ「下照姫」はその娘だと『記・紀』に書いてある。

 これもまた結論はあとに譲るしかないが、

 卑弥呼が呉の孫権と同じく烏孫系のギリシャ人だった可能性は、

 さらに高くなったわけである。

 台湾がソナカ一族のコースに入ることも間違いない。

 そして彼等は東南アジアの各地にスヴァルナブーミーの地名を残した。

 インドネシアがその「金の国」に相応しい産金国だったことは、

 歴史に詳しく記録されているし、

 ミャンマーからタイヘかけて凄い金ピカの大仏像があることも、

 今では私たちが自分の目で確かめられる。

 そうだとすると、沖縄はなぜ「チヌ=角」の国だったかも分かる。

 「チ=キ」「ヌ=ン」。

 本当は「キン=金」の国だった。

 沖縄も間違いなく「スヴァルナブーミー」だったのだ。

 それなら金髪の彼女が「象徴」として最適任だったことは、だれにも分かる。

 彼女は黄金の国の、黄金の女王、

 「光華明彩」の天照大神に最もふさわしい少女だったのだ。


 《敦煌は重要な[倭人]遺跡
 「敦煌は重要な[倭人]遺跡

 敦煌は唐代以後も余命を保ったから、

 その時代時代に新たに荘厳を加えていて、

 その出発点がアショカ時代だということが分からなくなっている。

 日本では、

 さらに小説などで全く別のイメージに作り変えられてしまったが、

 実体はそんな小説程度のものではなく、

 仏教史上最大の意義をもった大遺跡であり、

 『ヒミコ』でご説明した

 [金髪碧眼(へきがん)のウースン(鳥孫)人]のいた都だったのである。

 彼らの特徴は岩山を掘って巌窟(がんくつ)を作っていることで、

 同じ地中海人の[邑婁]人も、

 『魏志東夷伝』に「常に(いつも)穴居する」のが特徴だと書いてある。

 その巌窟寺院を彼らが創始したのは、

 洞窟の奥深くに聖域を設けるギリシャ思想の現れなのである。

 それも『ヒミコ』でお話ししたとおり、

 彼女も受け継いでいた伝統で、

 日の神アポロンの巫女ビューティアが鎮座(ちんざ)していた洞窟であり、

 天照大神の[天の岩屋]でもある。

 こうみてくると

 [烏孫]の烏も[ウワイ]の語源[ウパサカ]への

 方言差の交じった当て字だった可能性が強い。

 それはほかにも同じような証拠があるからである。

 『魏志鳥丸(ウカン)伝』をみると

 大量の古代日本的民俗があるだけでなく、

 [ウカン]という発音は[大日の]と書いたものの大隅式読み方と一致するし、

 その聖地[赤山]はインドに今も大勢いる[アカヤマ]という名と同じである。

 それはまた次のように、

 [倭]の名が分布していた地域でもあるのだ。


 《西域の「イリ」は沖縄語の国名
 「西域の「イリ」は沖縄語の国名

 インド~アーリア系だというのは、

 それが狭い小範囲のものではなかったからである。

 『ヒミコ』とこの本で、彼女と壹與が金髪だったことをお話ししたが、

 その人々が大集団を作っていた地域は今も祁連(きりん)と

 呼ばれている山脈の北、楼蘭の西、新疆自治区に当たる地域から、

 旧ソ連のキルギス共和国の一部で、いわゆる西域の最西端である。

 そこに漢代に「伊列・伊黎(イリ)」と書かれた国があった。

 これは西を「イリ」と発音する沖縄語と完全に一致する。
 
 その東にあったのがヒミコの遠い故郷だったと話した「烏孫(ウーソン)」である。

 「鳥(ウー)」も本土語の「オオ=青」で東だ。

 その南には「大月氏国」があるが、これは「大月(ウカツ)」で「大和津=赤」に合う。

 その烏孫の真ん中が、『コフン』でサムライそっくりの人々の青銅像をご覧にいれた、

 あの「滇=テン国」だったのだ。

 ギリシャ人を意味するキリン山脈やキルギス国は「黄」でもある。

 洒落じゃないか「キリ」がないくらい大量の証拠が見つかる。

 この本は学術書ではないので、

 発見したことの中から適当なものだけを選んでお話ししている。
 
 あげた証拠は発見量の1パーセントにも満たないが、

 それでも十分、ご理解いただけたと思っている。

 それはどんなに角度を変えて検討してみても、すべての答えが一致して、
 
 結論が全部一つに結びつき、決して変わらないからである。

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2012年4月4日水曜日

日本、百済、新羅、奄美など多数の国名や地名はギリシャ人がつけた




 《日本、百済、新羅、奄美など多数の国名や地名はギリシャ人がつけた
 「日本、百済、新羅、奄美など多数の国名や地名はギリシャ人がつけた

 《日本とソツクリ! 古代中東の名前
 「日本とソツクリ! 古代中東の名前

 こうした日本語以外の言葉との共通性は、

 一つ二つなら、いかにもコジツケ、語呂合わせに見えるものですが、

 それが大量に見つかる場合はそれは「真実」だという証拠なのです。

 しかし世界の古代史を知らないと、

 そうした言葉がたくさん一緒になって

 日本に入ってきた理由がわからないと思います。

 この本は「世界史」の本ではありませんから、

 簡単にお話しするしかありませんが、

 それでもよくおわかりになると思います。

 『聖書』で有名な「モーセのエクソダス=出(しゅつ)エジプト」より前の中近東史は、

 人類文明の曙として学校で学んだことと思いますが、

 紀元前20世紀ごろまでをみると、つぎのような国名が見つかります。

 キンザ、アルザワ、ミタンニ、マルハシ、ヤジリカヤ、アラシヤ、ハナ、アムール、スバル。

 これは漢字で、

 金座、有沢、三谷、丸橋、鏃(やじり)賀屋、嵐屋、花、天降、昂または須原、春原

 と書くことができ、いかにも日本の名だと思えるのです。

 ただアムールだけが少し変な気がしたかも知れません。

 しかし、

 これは私たちが今はもうよく知っている隼人町の、

 そのまた鹿児島神宮のそばへ霧島山から流れてくる川の名なのです。

 発音は少し違って「アムウイ川」と聞こえますが、

 文字にすると「天降川」。

 これは古代には北朝鮮を超えて、

 もっと北の地域に広がった人々の手で、

 そこにある巨大な大河に名づけられた名と同じです。

 その名は「アムール河」、中国名を黒竜江という大河です。

 日本で日田・飛騨・引田・八田などの名を生んだ

 ヒッタイト=日田人は一般にハティ人と呼ばれていますが、

 その王の名前も紀元前14世紀の王は「ムーワタリ」といいますが、

 鹿児島出身者には「馬渡=マワタリ」という姓があります。

 その帝国の中の小国の王には「マド・ワタ=窓・綿または渡」がいましたし、

 スサの王は「キタ」という名でした。

 カッシート人は、そのまま「香椎人(カシート)」ですし、

 その王称は「アグム」で、

 『記・紀』に出てくる天皇を指す言葉「吾君(あぎみ)」とよく似ています。

 古代ギリシャ人はこの人々を「コッサイオイ」と呼んでいましたが、

 この語尾の

 「オイ」は何々(なになに)人という「人」のことです。

 彼等は初期バビロンの東と東北部を支配し、

 暦の計算法を改善するなど高い文化を誇っていました。

 沖縄の波照間岳はハティマで、彼等の遺跡なのです。


 
 《「日本」が誕生したとき
 「「日本」が誕生したとき

 3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。

 その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。

 彼等は<エラム>出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。

 それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、

 彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、

 <アテナ>出身者は嘉手納(かてな)、

 <チラナ>出身者は知覧の名を残すというふうに、

 「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。

 その中でも最大のものが台湾で、

 「タイワン」というその名もギリシャ人が

 「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。

 その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。

 「<マレア>なる岬の沖を過ぎ、

  <ラコニア>の沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、

  やがて四面環海の土地、歓喜の<ヘリオス>(日の大神)の国・<タイナロン>にぞ、

  着きにけり……」と書いてあります。

 <ラコニア>は<六昆>で

 今のタイ国ですが古代には<ミャンマー>の<ヤンゴン>=ラングーン(六昆)までを

 含んでいました。

 マレアの岬はマレー半島。

 四面を海で取り囲まれた大きな土地は、

 その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。

 <ヘリオス>の妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、

 これが「音を音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに


 「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。


 最初の「日本」はタイナロン=台湾で、


 古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。


 これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、


 本来はこの<ヘリオス>と<ヘラ>のことで、


 そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。


 ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、


 「天照大神」様と呼ばれたために、


 後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。


 これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、


 後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。






 《ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音
 「ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音


 十字と同じく「四神」もまた四方を指し示す目印である。


 日本では京都の御所(ごしょ)の門と街路がその名で呼ばれでいたのでよく知られている。


 南の正面の門が朱雀門(すざくもん)で、


 それから真南へ九条にあった羅城門(らじようもん)までの大通りを朱雀大路(おおじ)といった。


 これは平安京のものが残ったのだが、平安京は中国の唐の都をそっくりまねたもので、


 その「朱雀」などの名もまる写しである。


 中国では始皇帝のころインド系の宗教が流行しはじめ、それ以前からあった道教と合体して仙人が主役になるが、


 仙人(リシ=ヒジリ)はインドのシバ(ヤマ)派の聖人のことである。


 のちの邪馬壹国の和人たちが信仰したシンドゥ教もこの一派で、


 中国の山東半島の「方士」だった徐福らとは、貝貿易で知らぬ仲ではなかった。


 しかし始皇帝は殷人の系統である商人を嫌い、ことごとに弾圧したので、


 和人が中国に顔を出すことはできず、宗教仲間の方士たちが代わって仕事をすすめてきた。


 その「方士」という名でもわかるとおり、彼らは天文、方位、気象に明るい学者集団だった。


 彼らは始皇帝に天地の神を祭らせ、道路整備をさせて、その知識を高く売りつけただけでなく、


 始皇帝の不死の夢をかきたてて「蓬莱」へ脱出することを計画し、ついに成功した。


 それは暴君始皇帝がやがて、学者仲間を皆殺しにすることを予知していたからである。




 四神というのは、このころに彼らが中国に広めたものだったのだ。


 この四神は現代の日本では、奈良の高松塚古墳が発掘されて、


 その壁画にあったことから一般に有名になり、


 次第にポピュラーになったが、


 それ以前は前漢からの青銅鏡背面中央のツマミの回りに、


 四方に描かれているものが、歴史関係者に知られていた程度である。


 この四神が描かれている銅鏡の「製造年代」を調べてみると、


 漢代以前のものはない。


 その大半は、もうご存じの五胡十六国時代、六朝ごろのものである。


 中国は漢人の勢力が衰えて、


 「胡」人が大量に中国に移住、群雄割拠して複数の王朝が乱立していた当時である。


 胡人は和人と同じシンドゥ教徒だったから、


 ビシュヌーを中国式に表現した東王父と西王母を聖なる守り神として、


 鏡に彫りつけて礼拝の対象にしていたのである。


 ビシュヌーが太陽神で東の象徴だったことを思い出していただきたい。


 西王母は『山海経』に、髪の毛を振り乱した怪物で、


 西の神山・崑崙(こんろん)にいると書いてあるが、


 鏡の絵をみるとそのとおりに描かれている。


 漢鏡の虎の絵はずいぶんちがうもので、むしろ人獅子のほうに近い。


 ビシュヌーの妻は「シュリ」という。


 この名が琉球の首都だった「首里」と同じ発音であることに注意がいる。


 沖縄には代々の統治者が、


 それぞれ自分たちの信仰する女神を祭った遺跡があって、


 それが地名として残っている。


 ギリシャ人は女神アテナを祭っていた。


 それが「阿手納(アテナ)」と書かれ、


 のちに「可手納(カテナ)」と発音されて、


 今では「嘉手納(カテナ)」になって残っている。


 同じことは阿直岐(アチキ)と可直岐(カチキ)・加治木(カチキ)の間にもみられる。




 《沖縄の国名の変遷による史実の証明
 「沖縄の国名の変遷による史実の証明


 日本列島に移動してきて日本人を構成した人たちが、どんな人々だったかを示し、


 記録しているものに、伝承されて今もよく知られている地名の呼び名がある。


 それは過去には単なる別名ぐらいにしか考えられていなかったが、


 こうして次々に真相が明かになると、それらは無意味な別名ではなくて、


 それぞれが私たち日本人にとって、ゆるがせにすることのできない重大な史実であり、


 いつ、そう呼ばれていたか、それはなぜだったかが明瞭に理解できるようになった。


 それは同時にこれまでお話ししてきた歴史が、すべて根拠のある真実の歴史だったことを、


 完璧に立証しているのである。


 1 <ウルマ>


 英国のウーリーの発掘で有名なメソポタミヤの大都市国家


 [ウル]国(マ)=最古の国名=第一王朝建設B.C.E.3000年頃。


 そのあとを継いだ第一バビロン王朝の滅亡(B.C.E.1750年頃)によって


 カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、


 沖縄についたのは殷時代(B.C.E.1500年頃)より前、


 それが更に中国本土に入って中国最古の王朝・夏を築いたが、


 殷人が侵入してきて商王朝を興し、夏王朝を倒した。


 皮肉なことに殷商帝国を強力にした殷の貝貨幣は、


 琉球列島に残って貝貨幣産業で栄えていたカリエン人が供給したものだった。


 殷人はインディアという名前への中国式当て字。


 その青銅器製作技術は、


 B.C.E.1500年頃に西アジアから伝来しているので


 カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、


 夏帝国が誕生した時期に一致している。


 この琉球カリエン人たちが国名を故郷と同じ〔ウルマ]とつけなかったなら、


 今の沖縄に「ウルマ」という古い国名は残るはずがない。


 また殷人の同族は、縄文時代後期には、


 すでに茨城県稲敷郡の福田貝塚に、


 殷人と同じ信仰をもっていたことの明かな、


 より原始的な宗教遺物を残していること、


 「稲敷」という名は「殷の儀式=祭り」を意味する発音をもっているから、


 殷人の聖地に当たり、


 それは単に殷人が知っていたというだけでなく、


 正確に2200km東西に大測量をして都の位置を決める起点にしている事実など、


 どこからみても殷人は日本列島に故郷をもつとみるのが妥当だから、


 日本列島から中国に移動した人たちだったことは動かない。


 2 <流求>


 この発音は、現地では「ルク」と発音されていた。


 これはドイツのルクセンプルクがギリシャ名の「ルキウス」に語源があるのと同じく、


 古代インド東アジア帝国のギリシャ人皇帝ルキウスの支配下にあるという意味の


 [ルキウス国]への、中国人による漢字の当て字であるとみると、


 アレクサンドロス大王の残したルキウスはB.C.E.2世紀の人。


 日本の弥生時代の始めに合う。また日本語に大量のギリシャ語が入っていること。


 『日本神話』のモチーフは100%『ギリシャ神話』と一致するので、


 ギリシャ人が私たちの先祖であることは全く疑問の余地がない。


 3 <ウチナ>
 
 [大秦=ウチナ]。


 徐福(徐市=どちらもジョフッ)が、


 秦の始皇帝の命令を受けて、童男童女、数千人を連れて


 山東半島から支那海へ航海に出た後、日本へ着いたという記録がある。


 紀元前200年頃。


 この秦は秦氏が実在し、天武天皇の名乗りが始皇帝の子孫を意味しているなど、
 
 多数の文化財を残しているのでこれも疑問の余地がない。


 詳細はそれぞれの専門項目でご覧戴きたい。




 《沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名
 「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名


 だからそれは日本列島におけるギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。


 沖縄列島の最西端は日本の最西端である、そこを出発点として、


 日本列島の中に残っているそのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、


 フリップ化してたどってみよう。


 1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に


 2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが


 4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。


 5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島


 このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、すでによくご存じである。


 それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、


 彼女が<徐那伐>で即位したと記録しているが、これは<ヨナバル>という発音で、


 <与那原>を北九州語で発音したものに朝鮮語で当て字したものだからである。


 このことは他にも多くの証拠を残している。


 壹與が新羅の初代女王だということは神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、


 彼女らがパーリ語を話したこと。


 赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。などなど……。




 《[立神岩]の分布は何を復元するか?
 「[立神岩]の分布は何を復元するか?


 こう見てくると、


 与那国から出発したギリシャ人勢力が、イナと方言化して呼ばれながらも、


 山陰から岐阜県にまで達していたことが跡付けられた。


 しかしそのコースは四国~淡路島経由ではない。


 明らかに山陰経由である。


 これはギリシャ人の東漸といっても、それは単純ではなく、


 複数のグループがあったという証拠である。


 山陰経由のものは浦島伝承をもっているから明らかに位宮・垂仁系だが、


 淡路島の倭の五王系はそれを持たないグループだ。


 こちらは本当に与那国系なんだろうか?…。


 それに明確に答えるのが、右の写真である。


 これは沖縄の石垣市が作った


 『八重山の旅』という観光案内書に掲載された与那国島の


 「立神岩」の写真である。


 これは確かに九州を経て淡路島まで達している。


 「写真」与那国島の[立神岩]




 《建国史の解明になぜギリシャ神話知識が不可欠か?
 「建国史の解明になぜギリシャ神話知識が不可欠か?


 私たちは、熊本県の天草地方が、


 応神天皇系の地名を多く残していることを知っている。


 品陀真若や誉田別といった名乗りは、


 ギリシャの海神・ポントスを固有名にしたものであり、


 今、天草の首都の名として使われている「本渡(ほんど)」も、


 やはりその当て字の1つだからである。


 また出水からそこへ行くコースには、


 津奈木(つなぎ)、御所の浦、栖本(すもと)という地名が並んでいて、


 淡路島の津名と洲本に対応し、淡路島を基地にして近畿を制覇し、


 大和朝廷を樹立した倭の五王たちが、ポントス=応神天皇一族だったことを、


 徹底的に立証し尽くしているのだった。


 その淡路島(アフロジマ)という名もまた、


 海から生まれた美の女神・アフロディテに対する当て字で、


 ギリシャ神話の知識さえあれば、彼らの出身は迷わずにわかる。


 台湾のギリシャ人が


 沖縄⇒種子島⇒大隅⇒出水⇒天草⇒宇佐⇒四国⇒淡路島⇒紀伊⇒和泉⇒河内⇒大和と、


 拡大移動を続けて、ついに大和朝廷を確立した。


 これがわかると倭の五王の名乗りには、


 倭のあと1番目に、


 なぜ「百済」が来るのか始めて理解できる。


 それを朝鮮半島だけにあった独立国だと錯覚していては、


 この国名のナゾは絶対に解けない。


 5世紀の半島百済(パクチェ)は小植民地に過ぎず、


 7世紀の本国は大阪市の十三(じゅうそ)と中津にあった。


 登美(トミ)能那賀須(ナカヅ)泥毘古はその名乗りだ。


 これらを知らずに日本の古代史を語る資格があるか?、


 答は申し上げるまでもないと思う。




 《邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島
 「邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島




 ① ユウロ 邑婁(ユウロ) 


   ヨーロッパだけでなく、『魏書東夷条』には邑婁が明記されている。


   その位置は朝鮮半島の北端、高句麗の隣国で、冬でも裸でいるという。


   古代ギリシャの風俗画そのままの国民が、古代ギリシャ式に洞穴に住む。


 ② ゼウス 天照(ゼウ)ス 


   大神卑弥呼がソナカと結婚する前は、ゼウスを祭る神官で、


   この大神に仕えており、これはその神名に対する当て字だという結論になる。


 ③ アテナ 嘉手納


   沖縄の現在の大きな地域名・嘉手納は古代に


   アテナという地名に当てた当て字から変化したもの。


 ④ カドモス 門松


   海神ポセイドンの聖木・松は船の用材として尊とばれた。


   それを新年の象徴として門に飾りカドマツと呼ぶのは、


   フェニキヤ系ギリシャ人の英雄・カドモスのテーバイ王国建国と


   繁栄の幸運を子々孫々まで忘れず、自分たちもまたそれに、


   あやかりたいという祈りの表現。


 ⑤ テーベ 千葉


   テーバイは原名・テーベに「ai]という国称語尾をつけたものである


   沖縄発音は「e」を「i」に発音するから、テーベはチバになる。


 ⑥ アフロディテ


   淡路島は。


   淡=アフ、路=ロ、島=ジ国(マ)で、アフロジ津国への当て字。


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2012年4月3日火曜日

ギリシャ文化を示す古代の鏡



 《ギリシャ文化を示す古代の鏡
 「ギリシャ文化を示す古代の鏡

 《「三種の神器」は何を象徴するか
 「「三種の神器」は何を象徴するか

 こうお話してくると、

 古代ギリシャと古代インドの、

 切り離すことのできない「接点」が、

 必ず、どこかにあったことを考えないわけにいかない。

 そしてそれは「鬼道」に、

 仏教とシンドゥ教とギリシャ文化が渾然一体となっていることと、

 さらにインド文化がそのまま日本に移入されている事実から、

 古代にそんなことが可能だった唯一事件は、

 マカダ国から派遣されたアショカ仏教宣布団の到来しかないことが、

 はっきり浮き彫りになって、読み取れるのである。

 そして、その支配者「ソナカ」一族の名と、

 それに付随してきた人々の名までが記録の中に見つかり、

 さらにそれ以前に日本へ入った先駆者の人々の歴史もまた、

 中近東の古代名族の名の分布から読み取れることなどで、

 私たちのヒロイン「ヒミコ」の人種関係もほとんど明瞭になったといえる。

 彼女は、どこからみてもアーリア系の女性だったのである。

 しかしまだ神と仏の関係や、

 天照大神であったヒミコの人種関係などに、

 不安感がまとわりつくかたのために、

 わが国で最も神聖不可侵の宝器として知られる

 「三種の神器」とはどんな意義をもつものなのか、

 ここで読者に特別に明らかにしておこう。


 [八坂瓊の曲玉]ヤサカニノマガタマ。
        

 八坂はヤバン。

 瓊は赤い宝石。
        

 すなわちヤバン産の赤い宝石で作った曲がった玉という意味の名だ。
        
 しかしそれは文字の意味だけで、それくらいのことは、これまで分かっていた。
        

 「マガダマ」は「マガダ国」。

 すなわちマガダ国を象徴しているが、

 それがさらに上級の「マケド」(人の国=ニヤ)も象徴している。

 このことはもう少し後まで読んでいただくと、よく分かる。

  また先の三種の神器の原型の写真説明(第2章・扉)にある

 リュキアの太陽象徴も忘れてはならない。

 それは『琉球』という国名にもなっているからである。

 [八咫の鏡]ヤアタノカガミ。

 八咫はハティ・アタ(阿多)だから「ハチアタ」と読むのが正しい。

 世界最高の金属文化と、後でお話する王権の象徴。

 これもヒミコを共立したアショカ仏教宣布団の重要な構成分子だったのである。   

 [草薙の剣]クサナギノツルギ。

 このクサも古謝(クザ)、日下のところでお話した人々、

 「カッシート=香椎人」(の王=ナキ)を示している。

 これは八俣の大蛇を退治して得られた剣だから、

 一度、スサノオに奪われて、返されてきたもの。

 このカシーはマレー、インドネシアでは「愛」を意味する言葉で、

 ヒミコの別名になっている。

 三種の神器とは、

 ヤヴァナ人を頭に、

 ハティ人

 カッシート人

 構成された倭人文化の象徴だったのである。

 それはまだ深い意味を暗示しているが省略するしかない。

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方位を示す四神の四つの色の名、青白赤黒(アオシロアカクロ)はギリシャ生まれ(2)



 《方位を示す四神の四つの色の名、青白赤黒(アオシロアカクロ)はギリシャ生まれ
 「<方位を示す四神の四つの色の名、青白赤黒(アオシロアカクロ)はギリシャ生まれ/a>」




 《倭人圏はギリシャ帝国と同じ四神配置の連邦
 「倭人圏はギリシャ帝国と同じ四神配置の連邦

 これで、

 卑弥呼が生まれたときにつけられた名は、

 絶対に大日霎貴ではなかったことが、

 確認できた。

 もう間違いを犯す危険はない。

 それと同時に、

 古文献は貴重な史料ではあるが頭からウ飲みに丸々信用はできない。

 こんなふうに徹底的に確かめてから、

 確実なデータだけしか使えないのだ、

 ということもわかった。

 それにもまして、

 動かなくなったのは彼女たちの血族が、

 やはりギリシャ出身だという確証がえられたことである。

 これまでも繰り返しお話してきたが、

 アカイヤはギリシャの最南端、地中海に面した暖国で、

 まさに九州における鹿児島県の位置にある。

 さらにいえば北端にクロアチアのある

 現在のギリシャ周辺の『四神』式国家配置と、

 高句麗を北端とする当時の倭人圏とは、


 さらに完全な一致を見せているのである。

          (北)  
         クロアチア
          ↑
 (西)シラクサ←ギリシャ→アイオリヤ(東)
          ↓
         アカイヤ
          (南)


 《我が国の四神とは全然ちがう古代中国の方角意識
 「我が国の四神とは全然ちがう古代中国の方角意識


 戦前は元旦に「四方拝」を行なう習慣が普及していたが、

 その四方の神の正体は、

 <青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>という「四神」である。

 在来の学者は、

 その「四神は中国の文化を輸入したものだ」と、さも権威ありげに教えてきた。

 だが中国には我が国の<神道>はない。

 近いものは<神仙>を崇拝した<道教>だけだ。

 その道教の「四神」も隋唐以後になると我が国のものと同じになるが、

 それ以前の方角思想は、我が国のものとは根本的に違っていた。

 その証拠は、漢の建国史で最も有名な一場面である

 <項羽>と<劉邦>の「鴻門の会」に出てくる。

 常勝将軍の<項羽>はづかづかと席に入ってくるなり、西の椅子にどっかと座る。

 <劉邦>は南の席に案内された。

 これは何を意味したか?。

 西の席は東に向き日の出の方角を見る最も縁起の良い最高の席である。

 これは南面する北の席も同じく明るい太陽に対面する意味があったので、

 天皇は南面し、

 最下位の武臣は北面して座るので

 『北面の武士』という特殊な呼び名も生まれたが、

 これは後世の我が国でのこと、

 中国では西が最高の地位を意味していたのだ。

 <劉邦>は臣下の座る席に座らされた。

 それも暗く寒々とした北を正面に見る最低の席、だったのである。

 この極端な差別が<項羽>の四面楚歌=悲惨な最期を招いた。

 古代の中国人はこんなに「方角に強い差別意識をもっていた」。

 これが中国本来の<方位信仰>なのである。

 《隋代には中国にも入っていた我が国の四神
 「隋代には中国にも入っていた我が国の四神

 これに対して我が国の<四神>は、東西南北にはどの方向も、

 特に尊いとか下座(しもざ)だという差別はない。

 最も尊いのは、中心の「黄」の位置だけなのである。

 ところが中国にも、

 隋代になると東西南北に

 <青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>を配置した鏡がある。

 唐代に書かれた小説の『古鏡記』に、

 はっきりと「中央の紐(ちゅう=摘(つま)み)には

 麒麟(キリン)が、その四方には亀・竜・鳳(おおとり)・虎が鋳出されている」と書いてある。

 これで初めて五彩圏の中央の「キ」に、

 「キリン」の「麒」が当てられたことがわかるのである。

 隋唐の支配者たちは中国の先住民ではない。

 <高句麗>という国名とカリエン人の<貝貨交易>と、

 <倭迹迹日百襲姫>と書かれた<卑弥呼>たちの

 「孝霊天皇系譜」で明らかなように、

 朝鮮半島北端の<高句麗>地方は、

 3000年前から沖縄系の人々の居住地だったが、

 それから分かれた「鮮卑」と呼ばれた人々が、

 今の中国東北区から中国に入って、

 <五胡十六国>時代に中国を征服して、隋唐時代をっくったのである。

 それは7世紀の初頭以後だから、

 <卑弥呼>時代からははるかに後世である。

 その<卑弥呼>時代以前の中国鏡には、

 <四神>を描いたものなど1面もない。

 さらに考えると<項羽>と<劉邦>の<方角思想>は「上下階級思想」で、

 敵対支配関係なのに対して、

 我が国の「四方拝」は、

 順序はあるが四方を平等に尊崇する和(なご)やかなものである。


 《四神思想は絶対に中国のものではない
 「四神思想は絶対に中国のものではない

 うっかりしていると、

 我が国の<四神>の<中央の黄>は、

 <麒麟>の<麒>が語源のように見えるのだが、

 それは何でもかでも古代文化は中国から入ったという、

 根本的に誤った先入観しか、もっていないからで、

 も少し精密に世界史を読みさえすれば、

 我が国の建国以前の世界の先進国は、

 北の中国ではなく、

 エジプトからバビロンまで、すべて西に集中していることがわかる。

 ギリシャとインドは紀元前4世紀には、

 <アレクサンドロス>の東征で一体といっていいほど固く結びついていたし、

 <釈迦>はそれ以前に人類最高の哲学を生んたが、
 
 その母体は西に海をへだてただけの

 <シュメル>(現在のイラク)大文明があったことは、

 その須弥山(シュミせん)(シュメルを象欲したもの)崇拝でよくわかるし、

 インドと中東・西欧は大規模な往来と混血を繰り返していた。

 その証拠にインド-アーリヤ語は、

 遠く北欧の隅々にまで行き渡っている。

 また<五彩圏>の<中央の黄>は、

 <黄泉の黄>でもあったことは、

 <ペルセポネ>の<黄泉戸喫>(よもつへぐい)の説話で、

 古代ギリシャの法律であり、

 その執行者=王を意味する<キ>でもあることがわかるとお話しした。

 この<五彩圏>の色の名の<キ>も、

 <王>を意味する<キ>(君のキ)も、

 ともに日本語なのだから、

 中国語の<麒麟>の<麒>ではない。

 また周囲に配置された<四神>の色名も

 全て日本語で読んでこそ意味が通じるが、

 中国語の発音では何の意味もなく、

 見つけることもできない。

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