2011年5月6日金曜日

種子島の弥生時代遺物にギリシャ文字がある

 出典:言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 「広田装身具のギリシャ文字」
 「悲劇『さほのはやさめ』」
 「『八幡教』が生まれた世界宗教史」
 「シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物」
 「種子島「山」字遺物と壹與たちの関係は?」
 「種子島広田遺跡で出土した女王用のカメオ」


 「広田装身具のギリシャ文字」

 種子ガ島の南種子町広田遺跡出土の夜光貝製装身具には、
 「山の漢字」が彫られていることで有名だが、
 私が検討した結果、下の二つのように他にもギリシャ文字が彫られていたことを確認した。

 左のものは「aY」、右のものは「XM」を文様化して彫ったもので、
 「アイ=愛」と「クマ=熊」と読むと、信条と部族名に一致する。

 この地域の名の熊毛とは、「クマのギリシャ」という意味があり、熊襲=日本と呼ばれたこと、

 「広=ヒロ=日の国」
 「広=コウ=高=高・武・什・タカラ」で、

 卑弥呼の原名=ヒーミャグァ=日の宮子やヒルメ=日留女、高志の八俣大蛇、高千穂、武内宿弥、斉明天皇、竹取りの翁にまで直接関係していることなどからみて、現在ではこれが「日本誕生」の最古の遺物である。

 (加治木義博著『ヒミコ』『ジンム』参照)。

 この貝彫刻の発想と技術は、地中海名物の「カメオ」と同じもので、ギリシャ文字がなぜ種子ガ島に?という疑問を吹き飛ばしてしまう。(弥生時代中~後期)

 ※出典:YAMATO 179頁


 「悲劇『さほのはやさめ』」

 『日本書紀』「神武天皇三十一年」に昔、イサナキノミコトが、日本の国を呼んだ名の一つとして「秀真国(ホツマクニ」という名を挙げています。

 これはそのまま「豊都国(ホツマ・ホタマ)=豊玉」と一致します。

 また山幸彦と神武天皇は、どちらも「彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」という名をもっています。

 これは祖父と孫だから名前の相続だといわれてきましたが、『記・紀』は混乱していて、時代の異なる記事を一緒に混ぜたり、同一人を別人として、あちらこちらにはめこんでいたりしています。

 「写真」広田遺跡のギリシャ文字カメオ

 種子島の南岸、広田遺跡から出土した貝殻製装飾品。

 そこに影られた文字はギリシャ文字で、

 (左上から)Yα=ヤ、
       XMO=クモ、
       ΦαTso=タツオー、
 (右上から)Yox=ヨク・ユク・ヤク、
       ∑PΦα=スルタ・シロタ・サルタ、
       soΦ=ソト

  と読める。

 位宮はスサノオで、「八雲立つ…」の歌は彼がよんだ歌とされるが、それとも「竜王」ともよく一致しているし、<シロタ>は広田で、<スルタン>、<サルタ>は猿田彦とつながり、<ソト>は<ソ>=襲や<ソトモ>という<サツマ>の別名に一致しているなど『記・紀』の記事と一致点が多い。

 「図」さほのはやさめ=狭穂の疾雨」:
    深沢省三画(菊池寛「日本建国童話集』文芸春秋社刊の挿絵)

 そして忘れてならないのは、日本最古の悲劇ロマンとして知られる『日本書紀』[垂仁天皇紀]にある「狭穂(さほ)姫皇后の悲劇」です。

 そのあらすじを見てみましょう。

 秋のある日、天皇は皇后狭穂姫のひざを枕に、うたた寝をしていて夢をみて眼を覚ました。

 「錦の色をした小蛇が首に巻きつき、狭穂(さほ)のほうから真っ黒な黒雲がやってきて、急に雨が顔に降りかかった夢をみた。

 これは何の知らせだと思う?……」

 みると皇后は涙を流していて、そこへ両手をついて詫びた。

 「実は兄が陛下を殺せとこの小さな刀を渡しました。
 
  だが何も知らずに安心して私のひざでおやすみの顔をみていると、

  陛下と兄の板挟みになった自分の宿命の悲しさに

  つい涙が散って陛下のお顔にかかってしまいました。

  蛇は小刀、雨は涙、黒雲は兄の狭穂彦でごぎいましょう。

  どうか私をお罰しくださいませ……」

 「そうか……しかし、そなたの罪ではない。悲しむな」

 垂仁天皇は部下に命じて狭穂彦を捕えにやった。

 ると予期していた狭穂彦は大急ぎで稲わらを積み上げて防戦の準備をしていた。。

 月を越えても決着がつかない間に、皇后は生まれたばかりの皇子・誉津別命(ホムツワケノミコト)を抱いて兄のところへ帰ってしまった。

 天皇は驚いて将軍をやって皇后と皇子を返せと交渉させたが狭穂彦はきかない。

 将軍は威嚇のためにその稲わらに火をつけさせた。

 すると皇后が現われて、駆けつけた天皇に「私と皇子に免じて兄の罪を許していただけたらとここへ釆ましたが、焼かれるのをみると許していただけないとわかりました。

 私は捕えられて生きようとは思いません。私が死にました後の皇后には丹波の道主(みちぬし)の王の娘をお選びください」という。

 火勢が強くなって稲わらの防壁が崩れおちるのをみた天皇は、皇后を助け出させようとしたが皇后は、皇子だけを兵士に渡して自分は火の中へ飛びこんでしまった。

 もちろん狭穂彦も妹とともに焼け死んだ。

 垂仁天皇の「竜宮城」での楽しい日々は終わった。

 これが神話の「豊玉姫のお産と離婚の悲劇」の真相なのです。

 悲劇の原因は姫の正体が竜だったからだというたとえ話は、宗教の違いと、こうした醜い肉親間の争いを不思議な話にすりかえて穏すための方便だったのです。

 またこれと『魏書倭人章』とのつながりをみますと、狭穂姫皇后が推薦した後任の皇后・日葉酢(ビバス)姫皇后は、その系譜を整理すると豊玉姫の妹の玉依(たまより)姫であり、『魏書倭人章』の「壹與(イチヨ)」その人なのです。

 だから玉手箱の「玉」は豊玉・玉依姉妹の象徴。楽しい日々の裏に潜む醜い権力争奪を戒めるのがこのお話の本当の目的です。

 だが位宮は悲劇を見てしまいました。

 「竜宮城」の楽しい夢は「玉手箱の煙」のように一瞬に消えて、後には急に老けこんだ「浦島太郎=位宮」しか残りませんでした。

 その枯れ果てた心はまさに何百歳の老人のようだったのです。

 ※出典:日本国誕生の秘密 226~230頁


 「『八幡教』が生まれた世界宗教史」

 言葉を換えると、ヤマト朝廷の権威の源が『八幡信仰』だったのである。

 だから全国に3万を超える八幡社があり、それが会社のような働きをもつ「社」の全国組織を形成し、朝廷の名が「八幡徒=ヤマト」と呼ばれてきたのだということが、はっきりわかる。

 では八幡とはなにか?…。

 それは「八幡大菩薩」の名が示すように実体は仏教、概観は神道の日本独特の宗教だが、その実体は次のような歴史が産み落した混血児である。

 ① シュメルでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
   
   この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、

   彼等が神と、その継承者を「シュメル=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、
   
   バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、
   
   神話の古代国名を生んだのである。

 ② シュメルがスメラになったのは、それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」を
   
   「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、

   「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」

   などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。


 ③ それより前、バビロンに倒されたシュメール人たちは、中国に入って「周」と呼ばれ、

   殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の

   名山崇拝となり、それを台湾を「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶ

   ギリシャ系中国人・徐福らの「方士」が受け継いで「道教」の体系をととのえた。

 ④ これが秦の始皇帝のとき、徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、

   それは本来「オリンパス山」を神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だから

   「ヤマ」で、種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された「貝製装身具」に

   漢字の「山」と、ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、

   このためなのである。

 ⑤ この地域には、さらに古くからインド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、

   往来していた。

   それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、それに今も大量に日本語の中に

   残っているマレー語やパーリ語やヒンドスタニーの単語が証拠であるし、
  
  『記・紀』の神名や人名もまた動かない証拠群をかたちづくっている。

 ⑥ こうしたものが相互に影響し合って次第に融合したものに、卑弥呼当時に最大勢力に

   発展し君臨したのがアショカ仏教で、その後をこの「八幡教」が継いだことが、

  『魏書倭人章』の卑弥呼・壹與と、『記・紀』の[神功皇后紀]から複元できる。

 ⑦ だから「ヤマン」に対する当て字が「八幡」で、これを「ヤバーナ」と発音したものが、

   中国から西の広いアジア全域で「ギリシャ人」を指す固有名詞として使われてきたのである。

 ⑧ しかし「八幡」は『大隈正八幡の縁起』に登場する八幡=応神天皇と、

   天皇に位を譲った先代の八幡がいて、それが二つの「倭」を生んで、

   日本の建国史を非常に複雑にしているから、

   この『倭』を主役にした講義は、その締括りとして、

   この問題を解明せずに通過することはできない。

   なぜなら『古事記』の[神功皇后記]に応神天皇が「イザサ=伊奢狭・和気大神」と

   名前を取り替えたという話しが載っているからである。

 ※出典:大学講義録05 24~26頁


 「シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物」
 
 『後漢書』が記録した107年に後漢を訪れた倭国王・帥升は、

 漢魏音でスイサヌウ、すなわちスサノオという名乗りで、
 
 これはシュメルの古都スサ(現在のイラクのスーサ)の王を意味し、

 出雲神話のスサノオの尊の八俣の大虵退治も、

 何代目かのスサノオ=位宮が卑弥呼政権を倒した史実を、

 英雄ギルガメシュの大蛇退治神話を模して説話化したものである。

 八俣とは、八幡をヤバタ→ヤマタと訛った当て字、

 大虵(ウチ)は鹿児島神宮所在地の名の「ウチ=内=宇治」への当て字である。

 ヤマタは邪馬臺に似ているが、

 邪馬(ジャマ)がヤマと発音されるようになったのは8世紀以後のことで、

 この神話とは全く関係なく、

 邪馬臺(ジャマダイ)がヤマトだというコジツケと全く同じで無知の産物にすぎない。

 さらに邪馬臺という名詞自体、後世の人間の錯覚が産み出した幻覚で、

 現実にはこの地球上に存在したことのない幻なのだ。

 「中国の山岳崇拝→種子島」

 バビロンに敗北したシュメル人は中国に移動して「周」をたて、殷帝国を倒した。

 またアレクサンドロス東征の落とし子・ギリシャ人も中国に住み、

 オリンパス山などを神山とするギリシャ宗教の「山」信仰で、

 台湾を女神ホーライの名で蓬莱山(ホーライ)と呼ぶ

 秦(シン)の徐福らの「方士」が秦代に

 琉球の与那原(よなばる)=徐那伐(ヨナバル)=徐福の都(ジョナハラ)へ伝え、

 それが種子島南部の「広田」弥生遺跡に、
 
 「山」字とギリシャ文字を彫った貝製装身具を残したのである。

 ※出典:大学講義録32 30頁


 「種子島「山」字遺物と壹與たちの関係は?」

 大学講義録32の30頁で触れた南種子・広田海岸に

 「山」字とギリシャ文字を彫った遺物を残した人々は、

 一体どんな人たちだったのであろう?。

 また卑弥呼や壹與との関係は……?。

 私たちは垂仁天皇と狭穂姫の悲劇が、種子島で起こった事件だったことをよく知っている。

 その理由は沢山あるが、

 「狭い」はアイヌ語の「タンネ」で、

 細長い島の形と島名によく一致していて、

 語源になっていることを繰り返し確認してきたから、疑いの余地はない。

 この「狭」の字を名乗りにもつ重要な女神がもう一人いる。

 それは天照大神と素戔鳴の尊の「誓約(うけひ)」で生まれた

 3人の女神の一人、狭依(サヨリ)昆売の命である。

 この名乗りの、もう一つの文字「依」も、

 豊玉姫が山幸の子を生んだとき、

 捨てた子供・ウカヤフキアエズの尊を育てて、

 後に結婚した豊玉姫の妹・玉依(ヨリ)姫がもっている。

 私たちは名乗りの文字が、領土や地位、

 職掌を表現している重要な史料であることを、

 これまでイヤというほど実例で知っているから、

 同じ種子島の女神が同じ「依」のつく名をもっていれば、

 それは近縁か、あるいは同一人であるとすぐわかる。

 狭=タンネ、
 玉=タマ。

 この二つの字はどちらも

 「タン=種子・丹後・淡(タン)路のタン」という発音を

 写した当て字だとみると同一人の可能性が高い。
 
 ※出典:大学講義録33 3頁


 「種子島広田遺跡で出土した女王用のカメオ」

 『古事記』は開巻第一に皇祖を「天の御中主神」と書いた。

 これが<美智能宇斯>=道の大人(うし)=『神武天皇紀』の道の臣の命、

 語源=美紐縫・<ビシェヌウ>神で、

 神武天皇=垂仁天皇(高句麗の山上王・位宮)を高句麗で救け、

 琉球へ連れ戻した種子島×高句麗海軍の総帥だった人物である。

 その別名は豊玉彦。

 豊玉姫の父で、垂仁天皇は彦日日出見の尊、

 娘婿だから「入彦=入り婿」を名乗るのである。
 
 しかし『記・紀』はそれを男王制に書替え、

 彼の五人の娘・<日葉酢姫>=<壹與>らを後妻扱いしているが、

 本来の「倭=ウワイ」の<優婆畏>=女王制は<卑弥呼>以前から実在していたことがわかる。

 南種子町・広田遺跡出土のギリシャ文字を装飾化した貝製のカメオ細工は、

 ギリシャの女神アテナ像や、インドの仏像類にみるものと共通のもので、

 女性祭祀王の身体装飾品とみるしかない。

 男王制は後のもの名のである。

 貝細工カメオは地中海で発展したもので、

 道の大人が率いていたのはギリシャ海軍の流れを受け継いだもの、

 海神<ポセイドン>が<百済出水>(後に出雲)という国名を生んだのも、

 道の大人がビシュヌウ神を名乗り、

 卑弥呼がペマカ「愛」、それがマレー語で<カシー>と呼ばれて、

 香椎・観世音(カシイ)と当て字されたのも、

 すべてギリシャ・インド文明が沖縄から種子島を経て、

 南九州に上陸した史実を、

 疑いようもなく立証している証拠群なのである。

 ※出典:大学院講義録29 21頁

 種子島の弥生時代遺物
 種子島の弥生時代遺物

 種子島広田遺跡
 種子島広田遺跡
 山字貝製遺物
 山字貝製遺物
 夜光貝製装身具
 夜光貝製装身具
 カメオ
 カメオ
 広田遺跡のギリシャ文字カメオ
 広田遺跡のギリシャ文字カメオ
 広田装身具のギリシャ文字
 広田装身具のギリシャ文字
 シュメル原産のスサノオ
 シュメル原産のスサノオ

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 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明  

2011年5月5日木曜日

ギリシャ人が作った弥生時代

 出典:言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 「「商人」文化の源か?「シアルク文明」」
 「文化史年表(CHRONOLOGICAL CHART)抜粋」
 「ギリシャ人が創った「弥生時代」」
 「中国文明の母胎は太古ペルシャのシアルク文化」
 「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」
 「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々」
 「民族史観と国境を否定する『文化史年表』」
 「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」
 「我が国へきたインド「商人」のコースと生態」
 「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」
 「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」


 「文化史年表(CHRONOLOGICAL CHART)抜粋」

 日本(JAPAN)

-3000                          -350
←        縄文文化                  →← 弥生文化

                沖縄文化  貝貨幣産業⇒殷  
 商人(シアルク=さろく=歩き回る) 霊ライン⇒ 殷 ⇒⇒   古墳文化 
               稲敷文化          
               干支圏

 エーゲ海(AGGEAN SEA)

   ミノア文化         ギリシア文化        -350
   キクラデス文化       ギリシア文化        →← マケドニア

 マケドニア
 マケドニア

 ※出典:大学院講義録20 6頁

 「「商人」文化の源か?「シアルク文明」」

 次々に創案された古代連邦圏を表現する色、方位、霊獣、季節、干支といった

 標識が実在したことを発見。

 それによって時代ごとに発展した意外な古代文化を知ったが、

 それは微々たる日本列島を離れて広大なアジアを西に越えた、

 エーゲ海文明に端を発したもの。

 時代はさらにさかのぼってアムール(アムリ)文明にまで至り、

 それが隼人町のアムリ川や「天降(あむ)り」や、

 中ロ国境のアムール河(黒竜江)の名にまでなっていることに結びつく、
 
 これらから類推すれば、
 
 そのアムール(アムリ)と並立していたシアルクという文明の名が、

 今も南九州地方で使われている

 「さるく=仕歩(しある)く=歩き回る」という言葉と完全に合い、

 シアルを中国訛りで発音したシァウにも「商」の当て字がピッタリ合うことから、
 
 そこに殷・商人の出自を求める必要が考えられるところまで、私たちの建国探求は遡上した。

 しかしそれに深入りすることは、本来の主題である『記・紀』解明からは、
 
 明らかに脱線行為だから、私たちの先祖たちのもっていた文明が、
 
 どんなものだったかがわかった現状で満足して、また本題にもどることにするが、

 これまで明らかになった私たちの血統が、

 どういった文明と深く結びっいているかを印象深く記憶に焼き付けるシステムとして、

 我たちの史学には欠くことのできない『文化史年表抜粋』は一つである。

 エーゲ海文明
 エーゲ海文明 
 アムール(アムリ)文明
 アムール(アムリ)文明

 ※出典:大学院講義録20 4頁


 「ギリシャ人が創った「弥生時代」」

 上の年表は、一見してわかるように、時間帯をはっきり印象に止めるのに不可欠といっていい長所をもっている。

 年表は利器として様々に転用できるから、ご活用いただきたい。

 日本の弥生時代と、縄文時代との境界の次期(前350年頃)

 マケドニアの建国期に重なっていることである。

 この弥生時代の初めは、全考古学者が認める定説ではあるが、

 それは、おおよその時間帯であって、ほぼ、この頃であろうという仮定の目安に過ぎない。

 ところがその直後に、私たちがギリシャ人が来た時期として突き止めた、

 アレクサンドロス東征の時間帯がくる。

 そして弥生土器の祖型を備えている加治木義博の所蔵する八重山土器は、

 その土器年代からも発掘地点からも、

 アレクサンドロス東征のその時間帯に完全に一致し、

 台湾→与那国→沖縄諸島→大隅諸島という海上コースをとった、

 ポセイドンら海神を守護神としたギリシャ海人たちがもたらした

 ギリシャからの文化財だったことは、

 この完全に揃った論理的証拠群によって、もう絶対に動かないことがわかる。

 「ギリシャ人はいつ来たか?」というのはもう謎ではない。

 それは台湾に至る地名、ギリシャ神話、秦の始皇の蓬莱憧憬の史実、

 イオニヤという与那国の語源などの証拠群に、

 さらに「弥生時代」という凄い証拠を加えたからである。

 縄文時代
 縄文時代
 弥生時代
 弥生時代
 八重山土器
 八重山土器

 ※出典:大学院講義録20 7頁


 「中国文明の母胎は太古ペルシャのシアルク文化」

 次は、この年表が明確化した史実の概略を、古いほうからお話ししておこう。

 ペルシャの欄と、その上の西域を見ると、「商人文化」は殷時代前後に始まったのではなく、
 
 世界最古のエジプト早期王朝と並ぶペルシャのシアルク期や

 西域のアムリ期からのものだったことが見えてくる。

 そしてそれがシベリヤのミヌシンスク文化にまで届いているのもみえてくる。

 しかし今の私たちはこれを見ても少しも驚かない。

 それは前以てシベリヤの『干支圏』を調査して大きな予備知識をもっているからである。

 こうして『干支圏』の研究をおこなって、大きな成果を獲得していたことの重要性と、

 その結果の大きさを教えられる。

 それは他人事ではなく、

 商人たちの血と文化が、

 沖縄の宝貝貨幣文明を生み、

 その文明が殷・商文明から中国の統一を生み、

 それが文字・言語の発達を進め、学問の体系を整えさせたからである。

 中国文明はラクダをつらねたキャラバンによって、

 シルクロードで西に文化を伝えたが、

 それは紀元前3000年以前に西からやってきた

 シアルク=仕歩く(日本語)文化の子孫だったのである。

 エジプトに初めて王朝が生まれた頃から東西を結ぶ行商を繰り返していたのだ。

 その物的証拠はまだ見つかっていない。

 しかし、こうして名詞は残り、それでこんなに史実を復元できる。

 私たちの学術体系が優れていることを、見事に立証してくれているのである。

 ミヌシンスク文化
 ミヌシンスク文化

 ※出典:大学院講義録20 8頁


 「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」

 しかし殷は、沖縄の宝貝で商帝国を立ち上げただけでなく、稲敷を故郷だと証言している。

 このことは、シルクロードの開発が漢代には実現せず、

 隋・唐代まで遅れた事実とともに、太古の往来は海路だったために、

 インド亜大陸沿いに往復した商人が、

 中国より日本列島に早く釆ていたことを証言している。

 ペルシャ湾はその海の「西の玄関」だったのである。

 これはギリシャ人が来たコースも教える。彼等はペルシャ湾から船出した海軍だったのだ。

 アレクサンドロスがダリウス王を倒して、自分はその皇女と結婚し、

 そして1000人の花嫁をギリシャ軍人の妻にした「八紘一宇結婚式」が済んだあと、

 さらに東のインドへと出発したとき、

 陸路をとった大王軍とは別に、海上を進んだ別動隊だったのである。

 だから彼等は、インド北部で病を得てギリシャへ引き返した大王の情報を得られぬまま、

 インドからさらに東へ東へと進んでしまった。

 そしてやがて大王の死を知って帰国を諦め、建国の地に選んだ新天地が、

 気候温暖な理想境「ホーライの国=台湾」だったのである。

 するとその眼の前には、意外にも富み栄えている沖縄カリエン経済界があった。

 目と鼻のさきにある小島を取ってイオニヤ(行く基地)にしたギリシャ人たちは、

 沖縄の島々を或いは戦って取り、

 あるいは島長(しまおさ)の娘と結婚して先住民に溶け込みつつ、

 さらに拡がっていった。

 稲敷
 稲敷

 ※出典:大学院講義録20 9頁

 
 「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々」

 その実態が、先にお話しした大隅(ウースン)(烏孫)あり、

 『五彩圏連邦』そのものであり、高句麗の周辺に生まれた邑婁・夫余といった国々であり、

 それがさらに生んだ匈奴であり、鮮卑てあり、隋・唐政権でもあったのである。

 それは時とともに姿を変えていったのだ。

 それを朝鮮半島の王は「百済と高句麗は、ともに扶余から出た」と証言している。

 扶余は「扶養(ハヤ)の風=南風(ハヤ)」のハヤであり、ハヤ=海人=隼人、

 すなわちギリシャ海軍の出身であり、隼人=大隅人だということなのだ。

 その百済は出水とともに海神・ポセイドンが語源だった。

 海神の名を選んでアンピトリテ?奄美、都井岬、取手。

 ボントス→本都別→誉田別天皇。

 アフロディテ→淡路島などという名を沢山のこしたのは、

 ギリシャ人の海人たちだったと、

 誰が考えてもすぐわかる言語文化財が大量に残っているので、疑いの余地はない。

 在来の東洋史などにみる「騎馬民族」といった分類は根本的に誤りで、

 多様な故郷から溢れ出た人々が好き勝手な方向に移動して土着しては、

 不意にやってくる敵や異常気象に襲われて放浪する生活の繰り返しで

 分散集合してしまっただけの違いしかない。

 「何民族」といった固有の「民族」など存在しない。

 もちろん時代が進むと同時に外敵に対する防御法として民結して「私有地=国」を主張するが、

 それは純血とか民族とかを意味しない。

 ※出典:大学院講義録20 10頁


 「民族史観と国境を否定する『文化史年表』」

 それを別々の民族だなどと思い込むと、真実は根底から崩れてしまい、

 八紘一宇どころか、隣り近所が殺し合うヒトラー型思想に毒されてしまう。

 ヒトラーは「国民の血の純潔さ」を謳い文句にして侵略を正当化しようとし、

 その恐怖政治の見せしめにするつもりでユダヤ人(イスラエル人)を大量虐殺したが、

 当時、世界の異端、全体主義者として全人類の憎悪の的になった日本人も、

 同じ「民族」思想に寺されて奇妙な自尊心をもち、

 朝鮮半島や中国の人々を理由(ゆえ)もなく蔑視して恥ずかしいとも思わずにいた。

 いま近隣某国のテレビ画像が自国の元首を、かつての天皇のように扱うのをみるたびに、

 同じ目的で、同じ扱いを受けていた戦前の皇室を思い出して、

 背筋がぞっと寒く冷たくなるのをおぼえるのは私1人ではない。

 その思想の産物「民族」という名詞は、その遺物であり人類の敵である。

 幼稚なマスコミなどが今なおそれを使い続けていること自体、

 人道の敵であることを忘れてはならない。

 『文化史年表』は、

 始皇帝が万里の長城を築いて国境を固持しようとした時代よりずっと古くからの人類の歴史を
 一覧させてくれる。

 それは他に方法がないために、やむなく国別に分けられてはいるが、
 本当は古代には国境などない。

 私たちは島国に住んでいるため水陸の境を国境のように錯覚しているが、
 もともと海は「世界を結ぶ道」だったのである。

 ※出典:大学院講義録20 11頁


 「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」


 古代ギリシャの国名が「四神」の真意で、日本語の色の名の起源だとわかった。

 ギリシャの海の神々も地名の元になっている。

 ポセイドンは百済(ポセイ)出水(イヅン・出雲)。

 その王妃アンピトリテ(奄美)(取手)。

 海から生れた美の女神アフロジテはローマではヴィーナスと呼ばれたが、

 それに我が国で当て字したものが「淡アフ・路ロ・島ジ・国」。

 島の名は、またギリシャ人が来たコースも記録している。

 ソナカの国語パーリ語ではギリシャ人をヨーナと呼んだ。

 これはイオニヤのイオをYO 、ニヤ をNIA⇒NA ナ と訛ったものである。

 我が国の最西端・与那国島はヨーナなのだ。

 YONIA ⇒YO NA イオー ナ=が「硫黄が」(島)になる。

 これはさらに、鹿児島弁化して短くなり、

 跳びはねて、 YOGA(イオーガ)は「YAT ヤッ」になるからヤッチマ、

 すなわち屋久島にもなる。

 このヤッチマは「八(ヤ)ッチマン=屋久島の」と使われるから

 漢字で書くと「八幡(ヤッチマン)」になる。

 こうして次々に謎を解き進んでいくと屋久島はヤバーナから生まれた名だとわかるし、

 与那国島から屋久島までの南の島が、ギリシャ系の海人たちの世界だったことが

 明確に認識できたと思う。

 では、そのときやってきたのは、

 どんな人々だったのだろう?

 確かに南欧のギリシャから来た人たちが

 いたこともわかるが、

 経由したインドの人たちが一緒に来たことも間違いない。

 四神
 四神

 ※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
     『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 173~174頁


 「我が国へきたインド「商人」のコースと生態」

 そこに書かれた古代文化は、国ごとに区切られていたのではない。

 在来の旧式観念が作り出した国境や地域とは関係なく、

 人々の移動・交流する範囲に広く広まっていた知識だったのである。

 それを象徴的に教える身近な事実をお話ししよう。

 私たちは魚河岸や株式の取引所で商談が成立すると、

 威勢よくボンボンと手打ちするのを、いかにも江戸っ子らしいとか、

 日本独特の風物詩だとか感じて来た。

 15世紀初頭に書かれた『星瑳勝覧』という中国文献にも、

 この「手締(じ)め」を実際に見た記録が載っている。

 「商談が成立して価格が決まると、手を打って納めとし、後で紛争など起こさない」

 と書いている。

 まさにその通りだが、著者・費信が旅してそれをみた場所は日本ではない。

 「榜葛刺(ボカラ)国」で、現在のインドのベンガルだったのだ。

 これも商習慣という名が示す通り、古代商人が広めたもので、
 
 それがインド経由で我が国まできた証拠だ。

 それはその国名が倭の五王の名乗りにある慕韓(ボカラ)そのものだからである。

 しかしその名乗りにインドの地名は入っているはずがない。

 その時代には、それは朝鮮半島の弁韓以外ない。

 弁韓はべンカラで、我が国では紅をベニ・ベンガラ色という。

 沖縄のビンガタの原産地で、紅(ベニ)の語源はベンガルのベンだとわかる。

 インド商人は3世紀より前に、沖縄経由で朝鮮半島に弁韓国をつくっていたのである。

 星瑳勝覧
 星瑳勝覧
 紅(ベニ)
 紅(ベニ)

 ※出典:大学院講義録20 12頁


 「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」

 我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

 『文化史年表』は、その「商人」が誕生した地域を、

 冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

 その商人独特の慣習が、大貿易港のベンガルに残り、江戸の魚河岸に残るのは、

 やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

 縄文時代の海上交易の名残だったのである。

 だからギリシャの人たちも、何の知識もない「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

 偶然やってきたわけではない。

 ホメロスの作品や神話などとは別の、現実的な世界観の中で、

 はるか東方に四季の鮮明な、

 美しいホーライの女神たちの国にたとえられる島があることを知っていたのである。

 そして一(ひ)と足早く出遭った台湾の環境につられて、

 これこそホーライの国だと信じたために、

 その名が後世、フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

 でも中国人はその誤りを知っていた。

 なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

 命令を受けた徐福は、山東半島から東に向かって船出した。

 その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

 「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある

 日本列島にあったのである。

 台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、見える程の位置にある。

 いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

 彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。

 蓬莱
 蓬莱

 ホーライの女神
 ホーライの女神
 フオルモサ
 フオルモサ
 徐福
 徐福

 ※出典:大学院講義録20 13頁


 「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」
 
 ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

 これはギリシャ人が始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

 始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

 ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

 こうして整理すると古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

 私たちが日常体験しているような、ハツキリしたものだとわかる。

 我が国へ来たギリシャ人は、どんな人たちが、何を目的に、いつ、どこを出発して、
 どこを通ってやってきたか。

 そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

 それは天照大神=卑弥呼を生み、応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

 それ以前にすでに領土を拡大して、中国を中心に沢山な国をつくり、東アジアを支配した。

 こうして細部にわたって疑問が全て解けたことを、よく再認識しておいて戴きたい。

 また文化史を年表にして見ると、

 弥生時代そのものがギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

 そして、さらにそれに先行して、西アジア古代文明もまた、

 我が列島まで届いていたことも読み取れた。

 こうして在来の史学では想像もできなかった巨大な問題群が、

 疑いが残らないはど確実に、そして大量に解明できたのである。

 それを、これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

 完全といっていいほどに、卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

 ※出典:大学院講義録20 14頁

2011年5月4日水曜日

日本女子名の『○○子』はオリンピアスの遺物

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「弥勒菩薩も観世音菩薩の仲間、歴史上の人物」
「卑弥呼の「鏡が好物」の真相」
「平和共存思想と排他強国主義の葛藤」
「歴山大王の父を暗殺した母・オリンピアス」
「ギリシャの血が伝えた宿命の思想の激突」
「愛の世界帝国実現の大理想の証し『欧亜結婚』」
「皇室にみる「愛の八紘一宇」」
「女性名の「○○子lはオリンピアスの遺物」
「天皇家の信仰の本質と成長過程」


「弥勒菩薩も観世音菩薩の仲間、歴史上の人物」

これで卑弥呼と観世音菩薩との関係が、釋迦が弟子に説いたとされる

アヴァ ロキ テスヴァラ から、どう展開していったか、

『観音経』の文面を読めば転化の原因から結果までがアリアリと見える。

その愛・慈悲をマレー語系の人々がカシーと呼んだ。

それが「光世音・観世音」と当て字されたために、菩薩名と受け取られ、南中国から周辺に信仰が広まったが、それは様々な民間信仰にまで分化、今なお「女神・聖母」と崇拝され続けている。

彼女は死後、夫・ソナカの廟に妻・神功皇后として合祀され、カシーは香椎という地名を生んだが、それが7世紀に天智天皇即位地になったため、「カシハラ=カシー政府」という名が、『記・紀』編集の混乱から奈良の地名だと誤認された。

だが福岡の「カシー=香椎」がなければ、橿原の名が神武建国地名として国史に登場することもなかったのである。

これでもまだ「卑弥呼が菩薩だなんて…」と不安にお思いの方々のために、もう少し付け加えておこう。

菩薩 Bodhi sattva  とは仏の心で教化する人のことで、神仏の名ではない。

観世音と並んで有名な弥勒(ミロク)菩薩も、生死の年は不明だがA.D.270~350頃の歴史上の人物で、『分別説瑜伽(ヨガ)論』など7種の弥勒真撰が彼の著書であるとはっきりしたので、今では唯識(ゆいしき)派の開祖だと認められている。

菩薩とは釋迦が実在者なのと同様、本来、実在者をいうのである。

弥勒菩薩
弥勒菩薩
観世音菩薩
観世音菩薩
観音経
観音経

※出典:大学講義録22 5頁


「卑弥呼の「鏡が好物」の真相」

だが卑弥呼は、さらに大きな影響を、今なお、愛する日本の女性たちに与え続けているというお話しを、ここでどうしても付け加えておきたい。

それは日本の女性名の最大の特徴である「○〇子」というスタイルこそ、世界に類を見ない最高の命名方式であって、日本文化の高さを象徴する偉大な文化財なのだということである。

欧米の命名様式は、単に故人名を踏襲するだけであるのに対し、「○○子」は女性語尾の「子」だけを規定し、個性を表わす「○○」部分は各自の創意工夫に任せて自由にしてある。

これなら無限大に新しい名が創造できる。

欧米のように同じ名がひしめき合っているような無残なことには、原則としてならないからである。

それが卑弥呼の名の影響だという好例は、光明皇后の裸名「光明子」である。

光ヒカル・明 ミョウ・子コという万葉ガナだ。

アヴァ ロキ テスヴァラ の最初の訳語「光世音」と光明子は二重に重なって、あることを教えてくれる。

ヒカルとは「日借る・火借る」という関西語で、反射光のことである。

これは鏡が最大の機能をもつ。

卑弥呼はこの鏡の機能を、比喩として上表文に使った。

それを魏帝らは「鏡が好物」と誤解したことがわかる。

光明子の名はこれだけの真相を物語る。

日本中の○○子さんも同じ機能をもっているのである。

光世音
光世音
光明子
光明子

※出典:大学講義録22 6頁


「平和共存思想と排他強国主義の葛藤」

殺生禁断、平和主義の仏教徒・卑弥呼と、現実に魏の侵略と戦って、必ず襲いかかる魏の野望から倭人を守るためには、軍国主義以外にないと決意した位宮との、平和共存を理想とする思想と排他戦闘しかないとする現実主義の葛藤が、信仰の差として強調されたと見るのが正しい。

だが当時の倭人たちが、そんな高度の思想戦争をしただろうか?と疑問にお思いの方もあると思う。

これまでギリシャやインドからの移住者が、倭人の中核だったという証拠を、多くご覧に入れてきたのは、私たちが世界の人たちに孤立した奇妙な特異人種とされてきたことを是正したいためだが、それだけではない。

当時の倭人の常識中にこの卑弥呼と位宮の悲劇と全く同じ歴史が、幾つも先行してあったことを、ご理解戴きたかったためなのである。

その第一に挙げなければならないのは、アレクサンドロス大王の両親が迎えた悲惨な流血の破綻である。

父のマケドニア王・プヒリプ(Philip)2世が即位したB.C.E.359年当時のマケドニアは都市も港も産業もない貧弱な農業国に過ぎなかった。

それが20年たらず後にはギリシャ全土を支配する大ギリシャ・マケドニア連邦の盟主国になっていたのである。

※出典:大学講義録25 23頁


「歴山大王の父を暗殺した母・オリンピアス」

そしてB.C.E.336年には、当時、東洋そのものだった大ペルシャ帝国を併合して世界国家を実現しようという彼の夢が認められて、彼は対ペルシャ戦の大元帥こ就任、その先鋒軍が多数海を渡って侵入を開始した。

先に神武天皇の「八紘一宇」はアレクサンドロスの思想だとお話ししたが、より正確にはプヒリプの理想であり夢だったのである。

プヒリプの妻の弟・エピロス王がプヒリプの娘と結婚する日、プヒリプは上機嫌で式場を進んだ。

親衝隊の一人の将校が彼に近づくと、突然剣を抜いて彼を刺し殺した。

真犯人は別にいた。

それを命令した者は彼の妻でアレクサンドロスの生母、王妃オリンピアスである。

オリンピアスはマケドニアの隣国・エピロスの王女だった。

サモトラキアの祭りで会った二人は熱烈な恋愛結婚をして3年後にアレクサンドロスが生まれた。

『英雄伝=対比列伝』の著者:Ploutarcos プルタークは、英雄を賛美する側だから王妃のことを悪く書いているが、彼女は伝統的なギリシャ教の巫女で、蛇を使って神託を下すことで国民に崇敬されていた。

卑弥呼や壹與を知る上で欠かすことのできない大先輩なのである。

彼女は蛇でさえ愛する平和主義者だったから、あくなき支配欲に駆られた夫が多くの国の人々を殺し、味方の戦死者の家族が嘆き悲しむのを見て、夫を悪鬼のように非難憎悪する妻に変わっていたのだった。

オリンピアス
オリンピアス

※出典:大学講義録25 24頁


「ギリシャの血が伝えた宿命の思想の激突」

プロウタルコス(プルタークは英語読み)は、オリンピアスの動機を、その直前に夫が妃にしたクレオパトラへの嫉妬であるとして、王に続いて妃とその幼児が殺された事件を証拠として挙げているが、現在の私たちから見れば、それらは独裁君主制のあるところ全世界で無数に同じことが起こって、その欠陥を立証している「お家騒動」の一つでしかない。

「君主制」というものがどうなったかは、20世紀だけみても、どれだけの国々が「王政」から「民主制」に、国民が奴隷から「主権者」に変わったか、一目瞭然である。

その中には逆の思想だったはずのヒトラーもスターリンまでも入っている。

だからプロウクルコスには衝撃的でも私たちには無視すべきことで、注目が必要なのは、「愛」と「暴力」との思想の激突が古代ギリシャの「政権内」で、すでに始まっていたという史実のほうなのである。

それがギリシャと隔絶した、これまで全く無関係とされてきた古代日本に、そっくりの形で起こった。

しかし私たちは古代インドを介してギリシャ文化が倭人に大きな影響を与えていた事実を次々に発見し続けてきた。

だから卑弥呼と位宮の間に立ちふさがった思想の壁は、東海の孤島で突然発生した知性の産物ではなく、彼等の血に流れている遺伝子(DNA)同様、父祖から受け継いだ哲学の逆流が激突して作った、 宿命的な障害物だったのである。

※出典:大学講義録25 25頁


「愛の世界帝国実現の大理想の証し『欧亜結婚』」

それは未だに全世界に「国境」という鋼鉄よりも硬く冷たい姿で立ち塞がっている。

真の「愛の八紘一宇」が実現する日までそれが消えることはないが、アレクサンドロスのほうは、そのお陰で父が殺されて、王位と大元帥が同時に転がりこんできた。20才だった。

彼はそれまで実母オリンピアスの味方で、父が次々に妃を作っては子供を生ませて後継者候補を殖やし、皇太子としての彼の地位を不安定にしていくのを憎んでいた。

彼は父の戦闘現場から伝えられる戦勝報道が国民を沸かせるたびに友人らに

「父は皆、先取りしすぎるよ。君らや僕には大事業は残さないっもりさ」と皮肉ったと

『英雄伝』に書いてある。

しかし彼は、徳川家光が真似た「余は生まれながらの将軍である」というセリフを吐いて、

母と父の主張の壁を一刀両断に斬り捨てた「愛の八紘一宇」実現に勇躍してペルシャへ進軍して行った。

そしてペルシャを取り、スサノオの語源になったスサで

「人種の壁を除去して人類を一家に融合する愛の世界帝国実現の大理想の証し」に、

「合法かつ正当な結婚により生まれてくる子孫によって、欧亜を永遠に一つに融合するのだ」と、

彼は皇帝ダリウスの娘と結婚し、都下の将軍たち90人と、数千人のマケドニア兵士が、

それぞれペルシャその他のアジア人女性たちを同時に花嫁にする巨大結婚式を挙行した。

有名な『欧亜結婚』である。

八紘一宇
八紘一宇
欧亜結婚
欧亜結婚

※出典:大学講義録25 26頁


「皇室にみる「愛の八紘一宇」」

アレクサンドロスはサマルカンドでも王女・ロクサーヌと結婚している。

彼自身は病気のためインドから引き返したが、その理想であるアジア遠征は、その部下たちに受け継がれて、さらに東へ広がって行った。

それは我が国在来の史学では無知のままに放置されてきたが、本講ですでに確認した通り、我が国にも無数の遺物を残していて疑問の余地は全然ない。

これが卑弥呼から壹與、光明皇后、さらに現代まで続く天皇家の伝統や、巨大神教を作る思想と技術とを仏教にまで色濃く残しているギリシャ型信仰と、思想の実体なのである。

ギリシャ型信仰の特徴は、女性による神託と、次々に優れたものを排他牲なく取り入れて、さらに改善する進歩思考にある。

それはアレクサンドロスの大理想であり大方針でもあった。

沖縄に現存する巫女「ノロ」は頑にギリシャ独特の月桂冠をつける。

ノロはノルで「宣(の)る」すなわち神託である。

天皇の言葉「ミコトノリ」も本来は、この女帝による神託だった。

だからこそ卑弥呼は仏教を受け入れ、後世の国教も神仏を共に排斥しないで来た。

正倉院の御物(ぎょぶつ)などの欧亜混交の宗教用文物は、これまで美術の珍品、古物愛好者のコレクションていどにしか扱えない学者しかいなかったが、天皇たちの根本思想が、偏狭なナショナリズム(ヒトラー的民族主義)などでなかったことを、何よりも雄弁に語る真の宝物なのである。

ミコトノリ
ミコトノリ
正倉院の御物
正倉院の御物

※出典:大学講義録25 27頁


「女性名の「○○子lはオリンピアスの遺物」

宮廷風俗をみても多くの国々の文化をこだわりなく受け入れている。

それは20世紀の軍国主義者が唱えた「侵略八紘一宇」ではなく、アレクサンドロスの「愛の八紘一宇」である。

視点を変えてみるとオリンピアスは別の遺物を今も日本に充満させている。

天照大神宮はアマ・ゼウス・オリンピヤが語源で、

大神宮はウジンビヤからウジンミヤに発音が変わった土地で付けた当て字だとお話しした。

光明皇后の「光明子」もこれと同じ原理で謎が解ける。

明子の昔の振り仮名はミヤゥシかミヤゥスだから、ビヤスやミヤスが原音だといえる。

日本女性に圧倒的に多い○○「子」という女性語尾はオリンピアスの女性語尾「ス」と同じで、

オリンピアスの記憶から生まれたギリシャ型女性名詞の名残だといって間違いではない。

そしてさらにこのことが卑弥呼の「弥」を、なぜ「ヤ」とも読むのか?という謎にも答えてくれる。

オリンピアスのオリンは日本女性の名にもあるが、オリンはウジンで大神という当て字だから、

「大神卑弥(ヤ)子」と書くと「オリンピヤス」と一致する。

卑弥呼から卑弥子に当て字が変わるのは不思議ではないから、

オリンピアスの名は、単にオリンさんだけでなく、

ミヤズヒメ=宮姫、ミヤコ=都などを新たに生み、御息所(みやすどころ)

(天皇の寝(やすむ)む所、という意味から、皇子・皇女の生母を指し、皇太子妃・親王妃も指す)にもなって残っているのである。

※出典:大学講義録25 28頁


「天皇家の信仰の本質と成長過程」

こうした事実と、これまで見てきた我が国の古代信仰の遺物とを考え合わせると、

皇室の信仰は、まず古くシュメルに始まった宗教だった。

それは「スメロギ=シュメール王(ギ)」という称号その他の遺物が、

バビロンの滅亡で四散したカルデア人=カリエン人の一部が

台湾・沖縄に宝貝王国を建設して栄えた事実を、歴史と大量の遺物、文化財が教えている。

次いで、紀元前4世紀にアレクサンドロスの東征を引き継いだギリシャ人が、

与那国島を皮切りに琉球列島から北上し、

高族の政権と合体、継承したためギリシャ信仰が重なった。

またインドからウッタラ第1次仏教宣布団が、

中国地方から東海に銅鐸時代を展開、

それと並行してシンドゥ教が広まったあと、

後漢の孝桓帝、孝霊帝のころ、

第2次仏教宣布団のソナカが沖縄を経由して南九州に上陸、

卑弥呼と結婚して仏教をひろめ、ソナカの戦死後、

卑弥呼を女王とする大倭人達邦が確立して長期政権が続き、

三国時代の動乱の余波で卑弥呼政権が敗北移動した後も、

さらに様々な政変はあったが、倭国は所を変えて存続し、

次第に東遷して近畿に至り、

聖徳太子時代を頂点とする仏教時代を現出、

大化政変以後もなお仏教の様々な教義を加えて

渾然(こんぜん)と一つになったものなのである。

だから皇室の信仰を「神道」と呼ぶのはいいが、

それをシンドゥ教だけだとするのは大きな誤りである。

神道
神道
シンドゥ教
シンドゥ教

※出典:大学講義録25 29頁

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
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イソップが『花咲爺さん』の原作者

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「余りにもよく似たイソップという地名」
「日本昔話『正直爺さん』ものの原作者」
「壹與の宗教を伝える『百合若説教』」
「沖縄語・大隅語・鹿児島語の故郷?わかる」


「余りにもよく似たイソップという地名」

人は故郷を懐かしみ、誇りに思うから移住先に故郷の名をっける。

だからこそ、こうした地名は、種子島を中心にして、九州にあった旁国などの、どの地域の人々が移住に参加して丹波国を造り上げたか、明瞭に話してくれるのだということがおわかり戴けたと思う。

ところが、この丹波の地名には、もっと遠くから来た人びとがいたという事実を証言しているものが3か所にある。

丹波国氷上郡の「石生(いそふ)」と但馬国七美(しとみ)郡の「射添(いそふ)」は、両方とも同じ「伊曽布(いそふ)」という読み仮名がつけてある。

これでいくと但馬国朝来(あさこ)郡の磯部もイソベと仮名は振ってあるが、部(ぶ)の清音は「フ」だから、他の2つよりも「イソフ」によく合う。

これは何から来た名前だろうか?。

1593年(文禄2年)に、天草のイエズス教会が出したローマ字書き日本語版の翻訳書は、『伊曽保物語』という名でかなりよく知られているが、それは『ESOPONO FABVLAS=イソポの物語』という表題への当て字である。

その内容はよくご存知の『イソップ物語』で、

イソップとは、esopus Αισωποσ …と書くB.C.E.6世紀のギリシャの寓話作家である。

伊曽保はESOPOのラテン系発音=イソポへの当て字で、イソップなら「伊曽布(いそふ)」のほうが正確である。

また例によって「まさか…?」という人もあると思うが、これは他人の空似なのだろうか?。

イソップ
イソップ
イソップ物語
イソップ物語
伊曽保物語
伊曽保物語

※出典:大学講義録27 7頁


「日本昔話『正直爺さん』ものの原作者」

『お爺さんが池のそばで木を切っていると、

手がすべって鉈(なた)を水の中に落としてしまった。

困っていると、水の中から美女が現われて、落としたのはこれか?と黄金の鉈を差し出す。

爺さんは「違う、錆びた古鉈だ」と答えると、

錆びた古鉈を探してきてくれたが、「正直のご褒美に」といって黄金の鉈もくれる。

この話を聞いた隣りの爺さんは、そこへいって鉈を池に投込んだ。

美女が現われて「落としたのはこれか?」と黄金の鉈を差し出す。

爺さんは「そうだ!」と手をだす。

すると美女は怒って「このウソつき」と黄金の鉈で爺さんの頭を叩き切る。

いのちは助かったが、その後いっそう貧乏になった』という昔話は、

そのイソップが原作者である。

すぐおわかりだと思うが、『花咲か爺』などの原形である。

いつ、こんな話が日本に伝わったか。

過去にも多くの研究者があったが、

日本の建国史も不明だった時代には、まさかギリシャ人が日本まで釆ていたなどと想像さえする者もなく、ギリシャ神話『ユリシーズ(英名)』そのままの『百合若大臣物語』でさえも、 ユリシーズとは無関係だという結論をだした者までいる。

だから過去の業績はゼロ以下で、何の役にも立たない。

では正しい答はないのか。

こうした説話を最初に全国に広めたのは大隅正八幡=鹿児島神宮を本山とする歩き巫女で、

その発生は応神天皇以前、いや卑弥呼以前である。

正直爺さん
正直爺さん
ユリシーズ
ユリシーズ
百合若大臣物語
百合若大臣物語
大隅正八幡
大隅正八幡

※出典:大学講義録27 8頁


「壹與の宗教を伝える『百合若説教』」

その古型を現代まで残していたのは壱岐(一大国)の『百合若説教』という「語り物」である。

毎月28日に行なわれる「ヤボサ=八菩薩=八幡大菩薩」の祈りの場でイチジョーという名の巫女が、横たえた弓を2本の竹棒で打ち鳴らして拍子をとりながら「語る」もので、もと説教節と呼ばれていた浪曲の原始的なものだと思えばいい。

イチジョーという巫女の役名も、そのまま「壹與」時代からの行事であることを証明している。

すると、その説教の内容が貴重な手掛かりになるはずである。

『百合若大臣』は後世の脚色で、嵯峨天皇のとき左大臣「きんみつ」が奈良の初瀬(長谷寺)の観音に願をかけて生まれたのが百合若で、右大臣になったとき蒙古襲来が起こり出陣して勝って帰るとき裏切り者のため玄界灘の孤島に置き去りにされたことから話が展開するが、

『百合若説教』のほうは名と筋は共通だが、

宇佐八幡と、仲哀天皇と神功皇后・応神天皇を祭る大分の柞原(ゆすはる)八幡の霊験を宣伝する本地物なので、宇佐八幡もまた壹與時代の名残りだとわかる。

すると、すでにポセイドンと百済・出雲など、多数の証拠をもっているギリシャ文化の流入例に、このユリシーズと百合若大臣もイソップ=イソフが加わるだけではなく、

「伊曽布」地名の住人が、

こうした語り物の巫女たち「語り部=稗田阿礼(ピューティア)」の一族だったことになる。

百合若説教
百合若説教
ピューティア
ピューティア

※出典:大学講義録27 9頁


「沖縄語・大隅語・鹿児島語の故郷?わかる」

このユリシーズの原話の本当のギリシャ名は

『オデュッセイア=Odysseya Οδνσσευα』であるが、

それを「ユリシーズ」と英語で発音するのは、ラテン語訛りからきている。

主人公の名の綴り ギリシャ文字     ローマ字綴り   発音読み仮名

ギリシャ語    Οδνσσευα   Odysseus     オデュッセウス

ラテン語                Ulysses     ウリ ッセ ス

英 語                 Ulysses     ユリ  シーズ


これでお気づきになったと思うが、

U=ウがO=オになり、ly=りがdy=ヂになるのは沖縄語と鹿児島語との関係とぴったり同じである。

またセスがシーズになるのも鹿児島語と沖縄語との関係とぴったり同じである。

<鹿児島語はギリシャ語型>、<沖縄語はラテン語型>だが、

ウリッセズにはセ=Seというe=エ音が混じっているので大隅語型。

英語のユリシーズのほうが、より沖縄語に近い。

古代日本への移住者と方言関係の謎が解けてくるのをみる。

また沖縄語がラテン語及びその方言の英語と同じ発音原則をもつ事実は、「琉球の語源」という大きな謎の答を予想させる。

もちろん充分な研究が必要だが、それは琉球と同じ発音のルキウスが、

同時代の161年にローマ帝画の統治者になった事実と符合するからである。

ルキウス
ルキウス

※出典:大学講義録27 10頁

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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イソップから生まれた日本の地名

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
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「余りにもよく似たイソップという地名」
「古代にタイムスリップさせる発見につぐ発見」
「倭の五王の上表は中国への威嚇でもあった」
「1200年前に勝敗が決まっていた邪馬台論争」
「天孫降臨も神武東征も嘘にする大阪湾・国生み説」
「淡路はヤマトと共に大移動した」
「出発点サカと到着点サタ」
「丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?」
「畿内説を完全に否定する播磨と高砂」
「中国地方を進んだ日本、四国を進んだ倭」
「サカとサタの分布とイソップの変種」


「余りにもよく似たイソップという地名」

人は故郷を懐かしみ、誇りに思うから移住先に故郷の名をつける。

だからこそ、こうした地名は、種子島を中心にして、九州にあった旁国などの、どの地域の人々が移住に参加して丹波国を造り上げたか、明瞭に話してくれるのだということがおわかり戴けたと思う。

ところが、この丹波の地名には、もっと遠くから来た人びとがいたという事実を証言しているものが3か所にある。

丹波国氷上郡の「石生(いそふ)」と但馬国七美(しとみ)郡の「射添(いそふ)」は、両方とも同じ「伊曽布(いそふ)」という読み仮名がつけてある。

これでいくと但馬国朝来(あさこ)郡の磯部もイソベと仮名は振ってあるが、部(ぶ)の清音は「フ」だから、他の2つよりも「イソフ」によく合う。

これは何から来た名前だろうか?。

1593年(文禄2年)に、天草のイエズス教会が出したローマ字書き日本語版の翻訳書は、『伊曽保物語』という名でかなりよく知られているが、それは『ESOPONO FABVLAS=イソポの物語』という表題への当て字である。

その内容はよくご存知の『イソップ物語』で、

イソップとは、esopus Αισωποσ …と書くB.C.E.6世紀のギリシャの寓話作家である。

伊曽保はESOPOのラテン系発音=イソポへの当て字で、イソップなら「伊曽布(いそふ)」のほうが正確である。

また例によって「まさか…?」という人もあると思うが、これは他人の空似なのだろうか?。

イソップ
イソップ
イソップ物語
イソップ物語
伊曽保物語
伊曽保物語

※出典:大学講義録27 7頁


「古代にタイムスリップさせる発見につぐ発見」

丹波にある3つの「イソフ」と、いう発音をもつ地名から、ずいぶん重大な問題の答が幾つも次々に見つかった。

それは1593年の『伊曽保物語』以後のものではない。

10世紀より前にその名が実在したことは間違いない。

もちろん全てが史実かどうか、完全に決定したわけではないが、学問として見逃してはいけないもの、を発見したことに変わりはない。

それらをさらに研究し、確実な成果を加えていけば、まるで私たちの先祖の時代にタイムスリップしたように全てが明快に見えて、当時をさらに正確に復元できるのである。

例えばイソップは英語の発音で、イソフも本当のラテン語ではない。

ところが英語は非常に多くの日本語との共通語をもった言語の1つだ。

だから古代に日本列島で話された言葉のうち、イソフを地名に選んだ人々のその訛りを研究すれば、それを持ち込んだ語り部の素性がわかる。

本務は研究書ではないから、基本技術がおわかり戴ければ次の着眼点とその解明法に進む。

今は主題に選んだ反正天皇に戻らなければいけない。

彼は確かにタジヒを名乗っていた。

だがこの丹波国の場合は反正天皇と直接むすぴつかない。

なぜなら彼のもう一つの名乗りが告げるものは丹波を経由していないからである。

その名乗りとは『記・紀』の書かないフルネーム、すなわち倭の五王の一人としての名乗りである。

それを分析してみよう。

※出典:大学講義録27 13頁


「倭の五王の上表は中国への威嚇でもあった」

その名乗りをみてみよう。

『宋書』では記事が簡略で意味不明の点もあるが、

初代の讃から5代の武まで一貫している名乗りは

「倭・百済・新羅・任那・(加羅)・秦韓・慕韓・六(七)国諸軍事・安東大将軍」である。

それらの国々に該当する地域をみると、

国名  出発点   経由地と      該当国   植民地(すでに半独立国化している)

百済  種子島   百舌鳥耳(モズミ)  穂積    韓国百済(確実に実在していた)

新羅  開聞(薩摩) 知覧(薩摩)     白日別   韓国新羅(確実に実在していた)

任那  三間(福岡) 三潴(みずま)(福岡) 水間    韓国任那(確実に実在していた)

加羅  姶良(カラ) 唐津(佐賀)           韓国加羅(確実に実在していた)

秦韓  大秦=沖縄 大阪茅沼      太秦(京都) 

慕韓  ボハーラ(インド) 防府(山口県=長州→高句麗・長寿王=敏達天皇の都)

安東  中国遼寧省安東(丹東(アントン))、鴨緑江河口。
旧高句麗領。
安東は対中国、倭国防衡の最前線だったから威嚇のため「七国諸軍事・安東大将軍」を
強調したのである。
今は「丹東」が公式名だが、その名にも種子島人の領地だった名残が強く残っている。

倭   これらを引っ括(くる)めた連合国家群全体と、済なら大阪府・田尻に都を置いた本国名。
※出典:大学講義録27 14頁


「1200年前に勝敗が決まっていた邪馬台論争」

私たちの知識の中にはオオヒルメについて、もう一つの情報がある。

『大隅正八幡縁起(えんぎ)』の大比留(ル)女である。

彼女はすでに、前後の事情や物証によって、壹與であることがはっきり立証されている。

だから『日本書紀』は、オオヒルメ=壹與だけを皇祖と認めて、卑弥呼=天照大御神は認めようとしていないのだ。

一方、『古事記』はその逆に、卑弥呼だけを皇祖として認め、壹與を認めようとはしていないのである。

これは、卑弥呼の倭国政権が、壹與の日本国(邪馬壹国)政権に倒された事実を何よりも明確に、双方の後継者が認め、主張し、明記して証明している国史上最高の「証拠」なのだ。

在来の邪馬台論争では卑弥呼は、「実在の邪馬壹(いち)国を誤解して生まれた蜃気楼(しんきろう)にすぎない邪馬臺(タイ)国」の女王だという珍説をはじめ、神武東征以後、ずっと日本国だけが継続していて、卑弥呼はその政権の第7代・孝霊天皇の皇女で、第10代・崇神天皇時代にも活躍した女性であるとして、

「全く卑弥呼の倭国政権と壹與の日本国(邪馬壹国)政権の対立にさえ

気付かない大和説や畿内説など」知性の存在を疑うほどの説まで、

ワンサとヒシメキあっているが、それらを判定する立場にある『日本書紀』と『古事記』は、

すでに1200年前にこうして明確に2国対立抗争の史実を明かして、自派の政権の根拠を強く主張していたのである。

大隅正八幡縁起
大隅正八幡縁起
※出典:大学講義録28 6頁


「天孫降臨も神武東征も嘘にする大阪湾・国生み説」

次は<卑弥呼>と<壹與>のどちらかが、本当に大坂湾生まれだったかどうか?…の問題である。

<伊弉諾尊>・<伊弉冉尊>2神が、天から降った。

というのは、そのままには受けとれないから、天の浮き橋は船であって、航海してはきたものの、先住民の抵抗が激しくて、小さな島以外には上陸できなかったからだとみれば、この記事は史実としては合理的に生きてくる。

しかし<伊弉諾>・<伊弉冉>2尊が大阪湾に建国したとすれば、その曽孫である「瓊瓊杵(ニニギ)の命の天孫降臨」は、なぜ必要だったのか?。

なぜ特記する必要があるのか?。

なぜまた大阪に比べて、はるかに辺鄙な日向などに降臨したのか?。

全然わからなくなる。

また、2神当時に、すでに皇祖が畿内に天降ったのなら、その子孫である神武天皇はなぜ?

その辺鄙な日向から出発して東征したのか?。

これも全然わからなくなる。

も少し念入りに考えると、先祖が建国し、確保していた土地に、なぜ、直系の子孫である神武天皇が、はるばる九州のはずれから出発して攻め込み、占領して新しい国とした上で、初代天皇として即位したというのか?。

橿原建国は何のためか、まるでわからなくなる。

その細部をみても、その占領地は神武天皇が、塩土の老爺に「東に美地あり」と教わって初めて知った土地であって、とても肉親の、近いご先祖が拓いた国だったとは思えない。

※出典:大学講義録28 7頁


「淡路はヤマトと共に大移動した」

そこで入念に細かく考えてみると、そこの地名は茅沼(チヌ)の海でチヌは天やウチナ=沖縄でもある。

伊弉諾・伊弉冉の二尊も伊是名(イゼナ)島に合う「沖縄名乗り」をもっている。

己凝(オノゴロ)島は後世人がつけた名だから、あとに残るのは淡路洲だけだ。

これは兵庫県の淡路島以外には侯補地はないのだろうか?。

淡路の万葉読みは「タンジ」。

前にみた丹児(ご)のタンジと同じものへの当て字であり、それは淡路(タンジ)→種子(タネジ)→丹児(タンジ)という当て字で表わせる地名だ。

それは南西諸島から次第に大型化しつつ北に東に分布して、決して兵庫県の淡路島だけが独占している固有地名ではない。

その移動は次ページの地図で一目瞭然だが、この地図では四国にだけ、このタンジがないように見える。

だが、それこそ淡=アワ=阿波=徳島であり、問題の淡路島だったのだ。

そこでは余りにも巨大化が激しく進んでいたために、サカ→サタという渡海点からは見落とすほど距離がありすぎたのだ。

卑弥呼時代には種子島にあって、壹與時代に大移動が始まった奴国(ノマ)=野間は、野の漢字音はヤだから、野(ヤ)間=ヤマで野間人はヤマト。

それは海(ハイ)人=ハイトと対立した山人=山幸で、山上(カミ)王とも書かれた位宮をも指すから、
彼の政権もヤマト=日本と呼ばれた。

この呼び方は『日本書紀』が冒頭の「創世紀」で、「日本は耶麻謄(ヤマト)と読め」と指示している。

※出典:大学講義録28 8頁


「出発点サカと到着点サタ」

《語源は》

塞(サカ)の神=猿田彦=岐(フナト)の神

塞(サヘ)の神=佐太 船渡(フナト)・船人(フナト)

塞(サイ)の神=佐太 船渡(フナワタ)・船人(フナト)

サカ     サタ  ワタツミ

釋迦族    = スキュタイ人

船岐・船木=フェニキヤ人

塞国=サカナ=魚=海神

魚(イオ)国=倭国(ウオマ)=イオニヤ人

倭・塞=オオサカ

ポセイドンの国大阪

百済・和泉 国

サカ   →   サタ   時代     人物

① 種子→日向    坂井       佐多岬  247年   壹與

② 豊後→伊予    佐賀関      佐田岬  421年以前 仁徳天皇

③ 和泉→河内    堺        佐太   469年   興

④ 丹波→出雲    嵯峨       佐太   475年以後 佐太(守口)の太守


《その他》  

① 讃岐→吉備    坂出       西大寺

② 肥前       佐賀  

③ 土佐       佐賀

※出典:大学講義録28 9~10頁


「丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?」

淡路島から但馬までが現在の兵庫県下にあること。

それは確かに、播磨(ハリマ)=巴利国(ハリマ)、だったことを示している。

そしてさらに上古には、丹波は兵庫県全域から京都府全域までを包含(ほうがん)していた。

それは当時の大和、現在の奈良県北部の10倍近い大きさをもつ超大国だったことを決して見落としてはならない。

だからこそ、その実力が、近畿を支配する政権を手に収めさせたことは、ごく当然だったとわかるが、それは卑弥呼時代ではなく、壹與時代でもなく、はるか後世になってからである。

『魏書倭人章』が記録した倭国連合が、仮に近畿圏だったとしても、卑弥呼が3世紀に奈良にいて、それを支配した可能性は全くない。

では丹波は、いっ?、

倭国(ウワイ)か日本国(ヤマト)か?、

どちらの勢力が占領したものなのであろうか?。

この謎の答は、次のようにすれば見つかる。

その丹波の西半分のそのまた南半分が、中古になると播磨になる。

その発音や前後の歴史から、播磨は巴利国の後身であることは疑いない。

だとすると、淡路はヤマトと一心同体だったはずなのに、ナゼ?、

その山人(ヤマト)とは敵の巴利人(ハイト)=海人(ハイト)の勢力圏にあるのだろう?。

と不審を抱かなくてはならない。

すると壹與は巴利国とは確かに戦ったが、卑弥呼政権を倒した後、巴利国を自分の国・邪馬壹国にしたから、それ以後はハリマが、当然、その日本国(ヤマト)の大移動に加わったのだとわかる。

※出典:大学講義録28 11頁


「畿内説を完全に否定する播磨と高砂」

このことは、これまで大問題だった邪馬壹国の所在地は「畿内ではない」と結論する最も重要な決(き)め手である。

なぜならそうした合体政権は、他にも多くの敵味方国連地名を共有している。

たとえば高砂(たかさご)の尉(じょう)と姥(うば)は、壹與がモデルである『竹取物語』に起源をもつ。

(加治木義博著『日本国誕生の秘密はすべて「おとぎ話」にあった』ご参照)。

この高砂も、播磨の中では重要な市(し)の名になっている。

高砂の老夫婦は、皇国をヒロインとする伝承の登場人物なのだから、高砂は卑弥呼女王国の首都だった巴利国とは、全然無関係な名である。

だから高砂が大きな地名として混入している播磨は、発音は卑弥呼の旁国・巴利国(ハリマ)と同じでも、卑弥呼の旁国ではなく、壹與以後の後世の移住先地名であって、時代も内容も巴利国(ハリマ)と一致しない。

だから播磨は壹與政権成立以前の卑弥呼時代には近畿にはなかった国で、邪馬壹国の誕生以後に生まれた移住先名だとはっきりしている。

当然、卑弥呼時代の巴利(パーリ)国では絶対にない。

卑弥呼の都で、その後、邪馬壹国になった人口が七万戸もあった巴利国に合う地名をもつ市町村は近畿にはない。

その巴利国は「近畿以外で同音の名をもつ土地」にあった。

それに合う土地は日本列島全域の中にも、鹿児島県の姶良郡隼人町プラス国分市にしかない。

これは「卑弥呼は播磨にも近畿にも絶対にいなかった」という、最強の、動かぬ証拠なのである。
竹取物語
竹取物語
※出典:大学講義録28 12頁


「中国地方を進んだ日本、四国を進んだ倭」

九州から近畿へ丹波と播磨を運んだのは、確かに日本(ヤマト)だった。

しかし今みた地図で見ると、そのうちの淡路島は四国を進んだ倭国と無関係だったとは思えない。
なぜなら反正天皇は倭の五王の一人、倭王・済だったことは疑いないから、彼は倭王・讃(仁徳天皇)が確保した阿波と讃岐から出発して、大阪府南部の田尻に進出している。

彼の前の倭王・珍も茅沼(チヌ)(大阪府泉南)・紀(キ)伊の(ノ)宮(キノ=チヌ=沖縄語、和歌山県)を確保している。

ということは、四国から大阪、和歌山への最短距離に並ぶ淡路島と紀淡海峡の島々は、徳島と和歌山と大阪とを結ぶ重要な三叉点にあるから、倭王たちの重要な領土だったはずだからである。

だから淡路島は、同じ兵庫県だといっても、丹波と同時の命名でないことは、その当て字の違いをみても明かだ。

丹児は日本の当て字、淡路は倭の当て字だと分類する必要がある。

では次は、そのコースを倭の五王の名乗りで見てみよう。

それは阿波から淡路島、そして和歌山・大阪の順に確保されている。

西から東へ移っていることは疑う余地がない。

これは淡路島とは、「阿波へ行く道の島」という意味の島名ではないことを証明している。

それは逆に大阪へ行く道の島だったのだから、大阪のオオは「淡(オオ)」で」そこへ行く道だから淡路島と名付けられたといったほうが、むしろ正確である。

しかしそれも間違っている。

※出典:大学講義録28 13頁


「サカとサタの分布とイソップの変種」

なぜ間違っているか?。

それは淡路島は近畿で始めて名付けられた地名ではなく、種子島・丹児・但馬と同じ語源をもつ国名の、新しい分布地だとわかっているからである。

それは「淡へ行く道」などという道案内用の名ではない。

倭や日本と同様に、新植民地を支配する権力者の母国名、すなわち出身地名で表示した新「領土名」だったのである。

方向を指示する地名のサカ→サタも、大阪府に入ると姿が変わってしまう。

サカはサカイ(堺)で、むしろ種子島へ戻っているが、サタは、はるかに北の守口市佐太以外にない。

さらに北上すると古代丹波だった京都こ嵯峨(サガ)があり、相楽(そうらく)郡がある。

この郡は古音サカラカ。

しかしサタは出雲までいかないとない。

島根県八束(やつか)郡鹿島町に佐陀本郷と佐陀宮内とがあり、ここは戦前は佐太村で、昔の国幣(こくへい)小社・佐太神社がある。

『出雲国風土記』島根郡加賀郷に「佐太大神のいます所」とあり、加賀の神埼(さき)の説明に小文字で注記して「佐太大神の産まれた処、その産まれたとき弓矢がなくなった。

枳佐加地売命(キサカジメのミコト)が祈ると水面に角(つの)で作った弓矢が浮き出た。

命がこれではないというと、今度は金の弓矢が流れ出てきた。

命はそれを取って「この窟(いわや)は暗い」といって岩窟を射抜いた……」

という話が書き添えてある。

これは先にお話ししたイソップの『金の斧』の変形だということが、すぐおわかりになったと思う。
出雲国風土記
出雲国風土記
※出典:大学講義録28 14頁


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2011年4月30日土曜日

霧島(キリシマ)はギリシャという名への当て字

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会


「霧島はギリシャへの当て字」
「天の逆鉾(さかほこ)もカディキウス」
「逆鉾は神話や作り話ではなく本当の歴史の遺物」
「桃太郎が記録している邪馬壹国の人種構成」
「毛人・という当て字に充満する証拠群」
「完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在」
「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答」
「アカイヤだった・明の宮」
「ヒガシの語源は日向」
「キジは金髪の壹與とギリシャ人」
「毛人国と国称分類」


「霧島はギリシャへの当て字」

《鹿児島に天皇家を生んだギリシャ文明》

『旧唐書』には、まだ重要なことが数多く書いてある。

その一つは、小日本国の東と北の国境の向こうは、「毛人」の国だというのだ。

倭国人と日本人のほかに「毛人」と呼ばれた人々が、天平時代になっても別の国を作っていたのである。

それだけではない。

11世紀に編集された『新唐書』には、最後に「その東海の島には邪古、波邪、多尼の三小王あり」と書いてある。

これは大隅語で読めば邪古はヤク、波邪はハヤ、多尼はタネと読めて、屋久島、隼人、種子島のことだとすぐわかる。

それが東海だというのは鹿児島県の西南の端、今の枕崎市あたりからの、古代人の大ざっばな感覚で東海と表現したので、

そこにある坊の津が遺唐船の発着港だったから、よく地理を知らない遣唐使などが、耳にした知識を話したものだったと考えると納得がいく。

そしてもちろん、その国は「小日本国」であって、その東と言うことである。

毛人の国は鹿児島県の東から北をさえぎる山々の向うだと言うのだから、霧島の山塊がそれに当たるし、球磨の山地も国境である。

ではいったい毛人とは、どんな人々だったのであろうか?

それは霧島という名が、すぐ連想させてくれる。

仮名書きするとキリシマで、ギリシャそっくりだからである。

語尾にヤのつく地名を見ると、名古屋、熊谷、日比谷、諌早などがすぐ浮かぶが、谷の字で当て字した地名は案外多い。

この国を意味する語尾は、ラマヤナが多く、ヤをマに変えるとギリシャはギリシマになる。

毛人という集団は、ほかにも鹿児島に大きな地名を残している。

能毛だ。

熊は球磨や熊襲、熊本といった名詞群で、南九州一帯にいた人々の名だったことは常識である。

だから毛もその人々と一つになっていた地域がある。

それが熊毛という地名を今まで残したのだと考えるほかない。

その熊毛に、毛のついた名をもつ島がある。

種子島の小島「馬毛(まげ)の島」である。

これを馬毛島=マケドと読むと、アレクサンドロス大王の祖国・マケドニヤのマケドまでが現われる。

ニヤも、南九州語の助詞が「ン」だからそれを付け足して、国称語尾のイヤを付けると、完全にマケドニヤになる。

この略称は南九州語では「マケドン」これは聞く者には「負けドン=負けた奴」と聞こえる。

そしてこれと対称的な名も鹿児島には揃っている。

それは「勝ち王(キ)」すなわち加治木(カチキ)である。

南九州語では、この地名は「カチキ」と読むのである。

こう見てくると小国日本が大国倭国に勝って、日本国が生まれたというのが正しいことがわかる。
ソナカの政権・倭国が斉明天皇まで続き、天智天皇の日本がそのあとに出来たのが640年。

『唐書』が書く日本誕生とぴったり合う。

よく知られている神話のイザナギのミコトが、死んだイザナミのミコトを尋ねて、死者の国に行くのも、ギリシャのオルペウスが死んだ妻を尋ねて死者の国に行くのと同じ話である。

こんな引用は『古事記』『日本書紀』の中に大量に見つかっている。

霧島
霧島

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 147~149頁


「天の逆鉾(さかほこ)もカディキウス」

《ギリシャ文明の象徴「カディキウス」》

私(加治木義博)は、太平洋戦争が終わったとき、鹿児島県にいたので、近くの霧島神宮にお詣りして、引き揚げてくる友人たちの無事を祈った後、その背後に聳える霧島の高千穂の峰に登った。

郭公(カッコウ)の勇ましい鳴き声を聞きながら登り着くと、山頂に石囲みがあって砂利が敷きつめてある中心に、青銅製の太い杖のようなものが立ててあった。

地上に見えている部分は1.5メートルぐらいで、太さは径20センチくらいに見えた。

幾らか傾いているので真っ直ぐ立てようとしたが、重くて深く入っているようで動かなかった。

それでよく見ると、上のほうは太刀の柄の形をしており鍔の部分に左右に突起物がある。

その形は天狗の鼻になっていて、一般の天狗の面の鼻とは違い、先が細くなっているのだ。

その根元も鼻をかたどっているし、眼も彫ってある。

間違いなく天狗の顔ではあるが、後世の天狗のイメージではない。

それが背中合わせに左右に彫られているので、剣の形は十の字になっているのである。

これはまさしくカディキウスなのだ。

しかも最も重要なことは、その長い鼻は、まさしく天狗の鼻そのものである。

猿田彦は古来、天狗の容貌と姿で表現されてきた。

天狗に類するイメージをもったものは、タイの聖獣ガルーダを始め、東南アジア一帯に濃く分布しているが、それらはインド文化の子孫だとわかっている。

またガルーダの羽根もカジキウスの羽の子孫だということになると、ガルーダ自身が、カディキウスそのものだったと気付くのである。

それは今も、擬人化されながら人々を導く象徴神として、広くインドから東南アジア、中国の一部にまで分布して、信仰を集めているのである。

これが我が国古代の南九州の支配者・猿田彦として、天孫の降臨を出迎えたのである。

「図」加治木は古代の大商工業の中心地だった

球磨川沿:霧島・栗野・人吉・久七峠・大口・水俣

薩摩半島:川内・鹿児島・笠沙・加世田・知覧・地林島・開聞岳

大隈半島:加治木・隼人・大根占

「写真」トルコ・カッパドキア遺跡で発見された壁画

「図」知恵の神ヘルメスが手に持つ杖「カディキウス」

天の逆鉾
 天の逆鉾
カディキウス
カディキウス
カッパドキア遺跡
カッパドキア遺跡
ヘルメス
ヘルメス

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 188~190頁


「逆鉾は神話や作り話ではなく本当の歴史の遺物」

《ギリシャ文明の象徴「カディキウス」》

高千穂の峰は、天孫・ニニギノミコトが天からやってきた降臨地だと『日本書紀』と『古事記』に書いてある。

そこへ猿田毘古(猿田彦)が出迎えて案内し、ニニギノミコトは王として大八洲に君臨する。

そこが今の鹿児島県であることは、『古事記』が書いているミコトが高千穂で言った言葉で確認できる。

「此の地は韓国(からくに)に向かい、 笠紗(かささ)の御前(みさき)を真来(まき)通りて、朝日の真刺(まさす)国、夕日の日照国」。

この韓国(からくに)は、今の韓国(かんこく)ではない。

霧島山塊には韓国見岳(からくにみだけ)という一峰があるが、そこからは韓国(かんこく)は見えない。

見えるのは姶良(あいら)郡だけである。

この姶良(あいら)の姶は「カ」という発音があるから、カラ郡(ぐに)なのである。

だからこの韓国は姶良郡のことなのだ。

すると先にお話した新羅や百済が鹿児島県内にあって、神功皇后が三韓征伐をしたのに、都が隼人だったという史実が、少しもおかしくない。

「韓」を韓国ではハンと発音する。

だからカラはハラなのである。

するとタカマガハラのハラも、カラなのである。

高天が原は、辰韓や弁韓と同じように、地上の国だったのだ。

その発音から行けばコマカラかクマカラと読めるから、高麗の故地、高麗=タカラ=宝島、トカラは吐喝喇(とから)諸島で、いかにも始良郡にやってきて上陸したであろう位置関係にある。

ちなみに吐火羅と書くと、それは中央アジア。

トルキスタン地方のアム河畔に、後魏時代に住んでいた人たちの名になるから、彼等は、吐喝喇諸島の出身者とみて間違いない。

またこの諸島の南に連なる位置に徳の島がある。

古い呼び方で徳国(とくら)と呼ぶとそれはトカラの発音変化の範囲内に入るから、もとは同じ名前だったとみていい。

そこを後にしてニヤマトニギノミコトたちは、隼人に上陸して八幡の都ーヤマトにしたのである。
ちなみに高句麗を「コクラ」と読めば、北九州の小倉だから、確かに三韓は九州の中に、今も地名を残しているからである。

高千穂の峰
高千穂の峰
韓国見岳
韓国見岳
吐喝喇諸島
吐喝喇諸島
吐火羅
吐火羅
猿田毘古
猿田毘古

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 191~192頁


「桃太郎が記録している邪馬壹国の人種構成」

『記・紀』の記事だけでなく、寓話やお伽話からも「歴史」が読み取れる。

<殷>は<イン>で、南九州語では「犬」のことである。

<新バビロニヤ>の王名は建国者が<ナボポラッサル>。

最盛期の王は<ネプカドネザル>、どちらも「<サル>=猿」。

その前には北方の<アッカド>の王<サルゴン>もいる。

またアラブの王は<サルタン>と呼ばれる。

これに当て字すると<猿田ン彦>である。

<霧島>は御存知の通り<ギリシャ>への当て字だったが、本来の南九州語は<ラ>行を<ダ>行か<ザ>行に変え、<リンゴ>は<ジンゴ>、<リス>は<ジス>、<クリ>は<クジ>(『日向風土記』)と発音したから、<霧>は<キジ>で、<ギリシャ人>を指すと、加治木義博著『日本誕生の秘密…』(徳間書店刊)でも説明した。

犬・猿・雉子(キジ)が供をするのは桃太郎である。

これでその供が何者だったかが明瞭に判る。

それを率いた桃太郎は「百(もも)」=「百済(ポセイ)」以外にない。

これは<ハセ>=<長谷>で種子島の太郎が、出水(イゾン)=イドン人=委奴の(イドン)=<イヌ>。

<高麗人>=<サル>と、<霧島のギリシャ人>らを味方にして、<オニ>=<倭人>を攻めた「歴史」が、お伽話に見えるもので、明らかに南九州での戦いでありそれに該当するものは<位宮>と<壹與>による<卑弥呼政権攻め>、5~6頁でお話しした<武埴安彦の乱>の裏返しで、<邪馬壹国>が誕生した史実の童話化であることは動かない。

※出典:大学院講義録28 24頁


「毛人・という当て字に充満する証拠群」

少し深く考えるとギリシャの『五彩圏』も、四神の色名に蹄まれているのはギリシャそのものである。

それを古代日本人式に清音で読むとキリシャ、やはり「キ」の国である。

またキリシャとキリンを比較してみると、「キリ之」と書けばキリシとキリンの両方に読める。

これに国称のヤをっければキリシヤになり、国称をマに変えればキリシマになる。

これで、霧島を霊峰として崇(あが)める大隅人が、ギリシャ人だったことがわかるだけでなく、『旧唐書』が日本国の 「東界北界、大山ありて、限りと為(な)す。山外すなわち毛人国」

というその大山は、東西南北とも、わずか数千里しかない小国当時の日本とは、今の鹿児島県以外には該当する地域がないから、その東北に贅えるのは霧島山、その名はギリシャを意味するとすれば、そこから先に住むという毛人は、沖縄語発音で「キージン」。

南九州語ではキリンもキジン。

毛人という文字は「キリ之」国、すなわち、キリシマとギリシャの双方を表現し、麒麟はその象徴として当てられた「日本語の名をもつ霊獣」だということになる。

そうして、その霧島は地もとの大隅語では「キイシマ」と発音する。

霧もギリも「キイ」なのだ。だから語源は霧ではなく「黄(キイ)」だったのである。

また麒麟も「キイン」で「黄(キー)の」を意味する獣なのである。

しかし実在しないものをなぜ?使えたのだろう?

※出典:大学院講義録19 21頁


「完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在」

宇佐の八幡は、大隅の八幡・本都(ポント)別皇子ではないのか?。

彼は隼人町を動かなかったと記録されているのだから、名前を譲ったほうである。

するとなぜ?彼は笥飯(ケヒ)の大神などと書かれているのか?。

それは笥飯でわかる。

この当て字はケヒともケイとも読める。

ケイは「軽」と書いてもケヒ・ケイで、応神天皇の皇居・軽島の明の宮=軽之(シ)国(マ)の明(アカル)の宮=鹿児島(カルシマ)の阿鹿児(アカル)の宮=鹿児島神宮の所在地を、別の当て字で書いただけなのである。

一方、名を譲られたほうの八幡は、福岡県糟屋(かすや)郡の宇美(うみ)町で生まれたとされている。
そこは宇佐とは直線距離でも80kmのところにあるが、宇美を宇三と書けば宇佐になる。

どちらにしても仁徳天皇系の倭の五王の先祖である。

しかし倭の五王はヤマトとは無関係だった。

とすればヤマトと名乗ったのは、隼人町に残ったほう八幡のグループだったのか?。

そのグループがつ?

奈良まで移動して、そこをヤマトの国と呼ばせたのか?、疑問だ。

隼人町は巴利国だった。

「山」はパーリ語で「giri ギリ」である。

海岸にある隼人町から見ると、山は霧島である。

「giri之国(しま)」と書くとギリシマ、清音になればキリシマになるし、マをヤに換えればギリシャになる。

これで山岳信仰のギリシャ人の国をうまく表現した当て字が「霧島」だとわかる。

どこからみても無理のない「山人」の国がここにある。

※出典:大学講義録32 23頁


「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答」


「姫講は」

「姫講(ひめこ)さあ=卑弥呼様の講」という名で現代まで継続している南九州の「観音講」。

「応神皇居」も、古代ギリシャの南端の国アカイヤの名をそのまま使って、「明(アカイ)・宮(ミヤ)=御家(ミヤ)=家(ヤ)=アカイヤ」という「南の皇居」を意味する表現になっている。

そのカルシマはそのまま鹿児島と当て字できるし、カルの別の当て字は「姶良(カル)」で、これはカルから「カラ」になり、韓国とも呼ばれた証拠が霧島山塊の主峰「韓国見岳(カラクニみだけ)」の名になって残り、応神が支配した朝鮮半島に韓国の名を残し、南九州から百済、新羅の名がそこへ移動したことを、否定する者はいない。

そして『三国史記』は明瞭に初代新羅王を赫居世と記録しているが、その名は「赫居世国(カゴシマ)」という当て字。

ほかにも13才で王になったなど、壹與だったことを示す記録に満ちている。

南が赤(四神の朱雀(すざく))なら北の玄武は「玄(クロ)武(タカ)」で、クロアチアとタカクニ(高句麗)。

その中央に、東は青竜=「青=オオ=倭、竜=辰巳島=種子(タツネ)島。

地中海の東瑞に面していた古代アイオリヤ(藍織国(ヤ))=青(ア)い織り(オリ)物の王(ウ)国=アオリウ(青竜)国(後世→播磨の相生(アイオイ))である。

西は白虎=「白(シラ)ヒラ(枚)ヒラキ(開)(木(キ))=コ(虎)、枚聞(ヒラキキ)・開聞(ひらきき)。

このシラは古代シラキウス(今のイタリア領・シチリア島)である。

※出典:大学講義録31 34頁


「アカイヤだった・明の宮」

「明=阿鹿児」は、もう一つ重大なことを救えてくれる。

「赤」といえば五彩圏連邦の南を意味するから、「赤ル」は「赤国=赤盧=アカロ」の
沖縄発音「アカル」にぴったり一致していることである。

これはギリシャですでに「アカイヤ」がその位置を占めていた。

五彩圏連邦を日本列島からアジア全域に移入したギリシャ系の人たちは、間違いなく南九州を「アカイヤ」と呼んでいたのである。

しかし南九州語が言葉を短く短縮して発音する特徴をもつことを計算に入れると、アカイヤは「アカイまたはアカヤ」になる。

明の宮の「明」を標準語では「アカリ」と発音するが、南九州語では「アカイ」と発音する。

だから明宮を「アカイ宮」と呼んだか、または全体が「アカイヤ」に対する当て字かのどちらかなのである。

大隈半島中部の都市「鹿屋」は先にみた「科野」に当たるが、この二つに「阿」を被せるとやはり「アカヤ」になるから、そこが「赤の都」だった名残りとみると、語尾の<ヤ>は<ラ><マ><ナ>にも変わるから、<カラ>と呼んだ人々もいた。

それに当てた当て字が「姶良」であり「韓国」だから、今も隼人町を南端の中心に広大な姶良都が残り、またそれを一望のもとに見下ろす霧島山塊の最高峰が「韓国見岳」と呼ばれているのである。
明の宮はここにしかないのだ。

※出典:大学講義録06 9頁


「ヒガシの語源は日向」

日向は今の宮崎だが、蝦夷が宮崎にいただろうか?…。

『旧唐書』の「日本」は鹿児島県以外には当てはまらない特徴を多数備えているが、その東と北の境に大山があり、その向うは「毛人」の国だと書いてある。

その大山は霧島山塊に当たるが、「キリシマ」とは「毛人之国」の一つの読み方である。

そして「毛人」と「蝦夷」は同じ人々を指す呼び名なのだ。

唐の時代になってもまだ、宮崎は「蝦夷の国」だったのである。

しかし宮崎を果して「東」と言ったか?という疑問が最後に残る。

この答えは「ヒガシ」というもう一つの発音である。

「日向」は「ヒュウガ」と発音しているが、これはどこかの訛りの一つで、本来は「ヒムカ」だった。

これに「之国」をつけると、「ヒムカ之国」で、これは「ヒムカシ国」と読める。

日本の古文や万葉集などの古語ではヒガシでなく「ヒムカシ」と発音している。

それが次第に「ヒガシ」に訛ったのだから、その語源は間違いなく「日向」だったのである。

しかし古代日向は宮崎県だけではなかった。

鹿児島県も日向に入っている。

このことはヒムカシという言葉が生まれた時代が、宮崎だけが日向になった後だという証明なのである。

武内宿祢はそこへ「西の国」から視察に行った。

宮崎の西には鹿児島県しかない。

※出典:大学講義録06 7頁


「キジは金髪の壹與とギリシャ人」

「キジ」は沖縄語で毛のことを「キ」と発音しますから、これに「人」のついた「毛人はキジン」だとみるのが、いちばんわかりやすいと思います。

この「キ」は色の黄の発音と同じですから、五彩圏連邦の中心の色である黄は、この毛人の象徴だったこともわかります。

「畿」という字を好んで首都の意味に使い、今も畿内、近畿という言葉が使われているのは、やはりこの「黄」に合わせて選ばれた文字なのです。

また鹿児島語では黄は「キー」と発音します。これは「キリ」と同じもので、「キリシマ」の「キリ=キー=黄」なのです。

『旧唐書』は「日本国は倭国の別種」と書き、鹿児島県以外にない地理上の特徴を挙げています。
その中に「東と北の境に大山があり、その山外は毛人の国だ」と書いてあります。

鹿児島県の東北には霧島山塊があり、その地理条件はこの記録と少しも違わないばかりか、その霧島の発音が「毛人之国=キリシマ」になることで完全に証明されます。

キリシマの「マ」は国で、それを「ヤ」と発音する人たちもいます。

すなわち「キリシヤ」です。

前に繰り返してお話ししたキリシマとギリシャとが元は同じものだということを、思い出していただければ、すべて疑問を残しません。

さらに重要なことは卑弥呼や壹與が「金色に光り輝いていた」という身体的特徴です。

南九州語の「キン=黄の」と「金」の発音が一致しますから、日本語の「黄」もやはりこの、「ギリシャ=キリ=キー」と複合して、ギリシャ人を指す色であり、代名詞だったのです。

だからこそ、その特徴が貴ばれて、多くの女性の中から選ばれて女王の座についたのです。

その壹與は間違いなく位宮に従って参戦していますから、すべての点でキジに一致します。

彼女とギリシャ人軍団が『桃太郎』で活躍するのは当然だといわねばなりません。

※出典:日本国誕生の秘密 312頁


「毛人国と国称分類」

日本、倭、毛人と対立している毛人之国も考えておこう。

これは東と北を限る山の向う側の国だとあった。

鹿児島湾北岸の平野部からみると。

霧島山塊は北と東を限る大山である。

この<キリシマ>は、方言によってはそのまま毛人の国に当るのである。

このことは前提として日本語の方言中、<ダ行>を<ラ>行音に発音するものがあることを確認して戴く必要がある。

それは、よく引き合いに出される河内弁である。

<キツネウドン>という所を 「ケツネウロン」と発音し「だけど」を「やけろ」と発音する。

<ド>が<ロ>になっているのがみられる。

この反対に四国、広島方言ではお遍路さんを「ヘンド」と発音し、

関西全般に「辛労」を「シンド」と発音する。

リンゴ、をヂンゴ、ジドウシャをリロ-シヤ、ラムプをダンプ、婚礼をコンディと発音する人々もある。

こうした発音のちがいは海外にも多く見られる。

アメリカ英語は、よく聞きなれないと<ディ>も<ティ>も<リ>と聞こえるし、北京語では日本人が<リーペンリ>と聞こえる。

私たちが<ジ>と発音するものが、<リ>と区別つきにくい。

また毛人は体毛が多いためにそう呼ばれる、とされている。

毛の発音は沖縄弁では<キ>である。

人をつけると<キジン>、<キリン>、<キリ>といった発音が生れることがわかる。

之国の読み方も調べてみよう。

国と書いたものを<ラ>と読む人がいたことはすでにみた。

朝鮮語では羅は<ナ>になる。

網羅と書いて<マンナ>と発音される。

だから新羅は<シムナ>になる。

国名の任那は<ミマナ>と発音されているから、この語尾の郡は、羅の変型したもので、それは朝鮮語の国称なのである。

任那というものは存在しなかったという説があるが、この国称の状態からは、では何故、それが朝鮮語表現になっているのか?

と反論が生れる。

また大国主と大汝持が同意であることも国が<ナ>と読まれたせいであることが明瞭にわかる。

この<ナ>に対して沖縄弁では<マ>と発音される。

沖縄ではn音に当るものをm音に発音するものが多い。

庭は<ニワ>ではなくて<ミヤ>である。

荷を入れる家である倉をミヤケと呼んだのも、この沖縄弁である。

沖縄圏にはかって島々が一国であった時代の名をそのまま止めた島名が沢山みられる。

波照問、多良間、池間、慶良間、加計呂麻といったものが現存し、倭人伝中の対馬、投馬、新島といった国々との関連を示唆しているのである。

国称にはこの他に<ヤ>というものもある。

伽耶、名古屋といったものは、シベリヤ、カルデヤ、ギリシャなどと同じ国称語尾である。

これは<ラ>との方言関係であって、マルセイユはマルセイッレとスペルを綴るように、L字はY音にも変るのである。

同じ<ラ>が<ダ>に訛ったものはヤマダ、タカダ、カナダ、オランダという語尾になり、これは<ド>ともごく近縁で本渡、神戸(カンド)、インド、リヤドなどがある。

このほか日本には国が変った<ギ>があったことは新羅の所で見たが、さらに清音化して<キ>にもなっている。

またまれに国を<コク>と漢字で発音したものに谷をあてたものが「ヤ」や「ヤツ」「タニ」に変化したり、頭音使用で<コ>、<ゴ>になったものもある。

毛人之国を毛=キ、人=リ、国=マと置きかえてみると、キリシマとはキリ之マだということになる。

之は漢音で<シ>であるから、<シマ>とは島の意味でなく、之国の意味であったことがわかり、山であるのに島と書かれたのは単なる当て字であったことがわかると同時に、私たちが<シマ>と呼ぶものが、かっては之国であった時代を証明すると同時に、新らしい言葉が分化して生れる様子が、はっきり眼に見るようにわかってくるのである。

こうみてくると毛人は<キリ>と読まれる程であるから、さらに<ケ>、<モウ>という発音でも読まれたはずだということになってくる。

山口県の大名「毛利」氏もまたその一族らしいことになる。

※出典:日本国誕生の秘密 77~78頁

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『参考』
歴史徒然
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オリエント歴史回廊(遷都)    
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