2011年4月30日土曜日

霧島(キリシマ)はギリシャという名への当て字

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会


「霧島はギリシャへの当て字」
「天の逆鉾(さかほこ)もカディキウス」
「逆鉾は神話や作り話ではなく本当の歴史の遺物」
「桃太郎が記録している邪馬壹国の人種構成」
「毛人・という当て字に充満する証拠群」
「完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在」
「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答」
「アカイヤだった・明の宮」
「ヒガシの語源は日向」
「キジは金髪の壹與とギリシャ人」
「毛人国と国称分類」


「霧島はギリシャへの当て字」

《鹿児島に天皇家を生んだギリシャ文明》

『旧唐書』には、まだ重要なことが数多く書いてある。

その一つは、小日本国の東と北の国境の向こうは、「毛人」の国だというのだ。

倭国人と日本人のほかに「毛人」と呼ばれた人々が、天平時代になっても別の国を作っていたのである。

それだけではない。

11世紀に編集された『新唐書』には、最後に「その東海の島には邪古、波邪、多尼の三小王あり」と書いてある。

これは大隅語で読めば邪古はヤク、波邪はハヤ、多尼はタネと読めて、屋久島、隼人、種子島のことだとすぐわかる。

それが東海だというのは鹿児島県の西南の端、今の枕崎市あたりからの、古代人の大ざっばな感覚で東海と表現したので、

そこにある坊の津が遺唐船の発着港だったから、よく地理を知らない遣唐使などが、耳にした知識を話したものだったと考えると納得がいく。

そしてもちろん、その国は「小日本国」であって、その東と言うことである。

毛人の国は鹿児島県の東から北をさえぎる山々の向うだと言うのだから、霧島の山塊がそれに当たるし、球磨の山地も国境である。

ではいったい毛人とは、どんな人々だったのであろうか?

それは霧島という名が、すぐ連想させてくれる。

仮名書きするとキリシマで、ギリシャそっくりだからである。

語尾にヤのつく地名を見ると、名古屋、熊谷、日比谷、諌早などがすぐ浮かぶが、谷の字で当て字した地名は案外多い。

この国を意味する語尾は、ラマヤナが多く、ヤをマに変えるとギリシャはギリシマになる。

毛人という集団は、ほかにも鹿児島に大きな地名を残している。

能毛だ。

熊は球磨や熊襲、熊本といった名詞群で、南九州一帯にいた人々の名だったことは常識である。

だから毛もその人々と一つになっていた地域がある。

それが熊毛という地名を今まで残したのだと考えるほかない。

その熊毛に、毛のついた名をもつ島がある。

種子島の小島「馬毛(まげ)の島」である。

これを馬毛島=マケドと読むと、アレクサンドロス大王の祖国・マケドニヤのマケドまでが現われる。

ニヤも、南九州語の助詞が「ン」だからそれを付け足して、国称語尾のイヤを付けると、完全にマケドニヤになる。

この略称は南九州語では「マケドン」これは聞く者には「負けドン=負けた奴」と聞こえる。

そしてこれと対称的な名も鹿児島には揃っている。

それは「勝ち王(キ)」すなわち加治木(カチキ)である。

南九州語では、この地名は「カチキ」と読むのである。

こう見てくると小国日本が大国倭国に勝って、日本国が生まれたというのが正しいことがわかる。
ソナカの政権・倭国が斉明天皇まで続き、天智天皇の日本がそのあとに出来たのが640年。

『唐書』が書く日本誕生とぴったり合う。

よく知られている神話のイザナギのミコトが、死んだイザナミのミコトを尋ねて、死者の国に行くのも、ギリシャのオルペウスが死んだ妻を尋ねて死者の国に行くのと同じ話である。

こんな引用は『古事記』『日本書紀』の中に大量に見つかっている。

霧島
霧島

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 147~149頁


「天の逆鉾(さかほこ)もカディキウス」

《ギリシャ文明の象徴「カディキウス」》

私(加治木義博)は、太平洋戦争が終わったとき、鹿児島県にいたので、近くの霧島神宮にお詣りして、引き揚げてくる友人たちの無事を祈った後、その背後に聳える霧島の高千穂の峰に登った。

郭公(カッコウ)の勇ましい鳴き声を聞きながら登り着くと、山頂に石囲みがあって砂利が敷きつめてある中心に、青銅製の太い杖のようなものが立ててあった。

地上に見えている部分は1.5メートルぐらいで、太さは径20センチくらいに見えた。

幾らか傾いているので真っ直ぐ立てようとしたが、重くて深く入っているようで動かなかった。

それでよく見ると、上のほうは太刀の柄の形をしており鍔の部分に左右に突起物がある。

その形は天狗の鼻になっていて、一般の天狗の面の鼻とは違い、先が細くなっているのだ。

その根元も鼻をかたどっているし、眼も彫ってある。

間違いなく天狗の顔ではあるが、後世の天狗のイメージではない。

それが背中合わせに左右に彫られているので、剣の形は十の字になっているのである。

これはまさしくカディキウスなのだ。

しかも最も重要なことは、その長い鼻は、まさしく天狗の鼻そのものである。

猿田彦は古来、天狗の容貌と姿で表現されてきた。

天狗に類するイメージをもったものは、タイの聖獣ガルーダを始め、東南アジア一帯に濃く分布しているが、それらはインド文化の子孫だとわかっている。

またガルーダの羽根もカジキウスの羽の子孫だということになると、ガルーダ自身が、カディキウスそのものだったと気付くのである。

それは今も、擬人化されながら人々を導く象徴神として、広くインドから東南アジア、中国の一部にまで分布して、信仰を集めているのである。

これが我が国古代の南九州の支配者・猿田彦として、天孫の降臨を出迎えたのである。

「図」加治木は古代の大商工業の中心地だった

球磨川沿:霧島・栗野・人吉・久七峠・大口・水俣

薩摩半島:川内・鹿児島・笠沙・加世田・知覧・地林島・開聞岳

大隈半島:加治木・隼人・大根占

「写真」トルコ・カッパドキア遺跡で発見された壁画

「図」知恵の神ヘルメスが手に持つ杖「カディキウス」

天の逆鉾
 天の逆鉾
カディキウス
カディキウス
カッパドキア遺跡
カッパドキア遺跡
ヘルメス
ヘルメス

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 188~190頁


「逆鉾は神話や作り話ではなく本当の歴史の遺物」

《ギリシャ文明の象徴「カディキウス」》

高千穂の峰は、天孫・ニニギノミコトが天からやってきた降臨地だと『日本書紀』と『古事記』に書いてある。

そこへ猿田毘古(猿田彦)が出迎えて案内し、ニニギノミコトは王として大八洲に君臨する。

そこが今の鹿児島県であることは、『古事記』が書いているミコトが高千穂で言った言葉で確認できる。

「此の地は韓国(からくに)に向かい、 笠紗(かささ)の御前(みさき)を真来(まき)通りて、朝日の真刺(まさす)国、夕日の日照国」。

この韓国(からくに)は、今の韓国(かんこく)ではない。

霧島山塊には韓国見岳(からくにみだけ)という一峰があるが、そこからは韓国(かんこく)は見えない。

見えるのは姶良(あいら)郡だけである。

この姶良(あいら)の姶は「カ」という発音があるから、カラ郡(ぐに)なのである。

だからこの韓国は姶良郡のことなのだ。

すると先にお話した新羅や百済が鹿児島県内にあって、神功皇后が三韓征伐をしたのに、都が隼人だったという史実が、少しもおかしくない。

「韓」を韓国ではハンと発音する。

だからカラはハラなのである。

するとタカマガハラのハラも、カラなのである。

高天が原は、辰韓や弁韓と同じように、地上の国だったのだ。

その発音から行けばコマカラかクマカラと読めるから、高麗の故地、高麗=タカラ=宝島、トカラは吐喝喇(とから)諸島で、いかにも始良郡にやってきて上陸したであろう位置関係にある。

ちなみに吐火羅と書くと、それは中央アジア。

トルキスタン地方のアム河畔に、後魏時代に住んでいた人たちの名になるから、彼等は、吐喝喇諸島の出身者とみて間違いない。

またこの諸島の南に連なる位置に徳の島がある。

古い呼び方で徳国(とくら)と呼ぶとそれはトカラの発音変化の範囲内に入るから、もとは同じ名前だったとみていい。

そこを後にしてニヤマトニギノミコトたちは、隼人に上陸して八幡の都ーヤマトにしたのである。
ちなみに高句麗を「コクラ」と読めば、北九州の小倉だから、確かに三韓は九州の中に、今も地名を残しているからである。

高千穂の峰
高千穂の峰
韓国見岳
韓国見岳
吐喝喇諸島
吐喝喇諸島
吐火羅
吐火羅
猿田毘古
猿田毘古

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 191~192頁


「桃太郎が記録している邪馬壹国の人種構成」

『記・紀』の記事だけでなく、寓話やお伽話からも「歴史」が読み取れる。

<殷>は<イン>で、南九州語では「犬」のことである。

<新バビロニヤ>の王名は建国者が<ナボポラッサル>。

最盛期の王は<ネプカドネザル>、どちらも「<サル>=猿」。

その前には北方の<アッカド>の王<サルゴン>もいる。

またアラブの王は<サルタン>と呼ばれる。

これに当て字すると<猿田ン彦>である。

<霧島>は御存知の通り<ギリシャ>への当て字だったが、本来の南九州語は<ラ>行を<ダ>行か<ザ>行に変え、<リンゴ>は<ジンゴ>、<リス>は<ジス>、<クリ>は<クジ>(『日向風土記』)と発音したから、<霧>は<キジ>で、<ギリシャ人>を指すと、加治木義博著『日本誕生の秘密…』(徳間書店刊)でも説明した。

犬・猿・雉子(キジ)が供をするのは桃太郎である。

これでその供が何者だったかが明瞭に判る。

それを率いた桃太郎は「百(もも)」=「百済(ポセイ)」以外にない。

これは<ハセ>=<長谷>で種子島の太郎が、出水(イゾン)=イドン人=委奴の(イドン)=<イヌ>。

<高麗人>=<サル>と、<霧島のギリシャ人>らを味方にして、<オニ>=<倭人>を攻めた「歴史」が、お伽話に見えるもので、明らかに南九州での戦いでありそれに該当するものは<位宮>と<壹與>による<卑弥呼政権攻め>、5~6頁でお話しした<武埴安彦の乱>の裏返しで、<邪馬壹国>が誕生した史実の童話化であることは動かない。

※出典:大学院講義録28 24頁


「毛人・という当て字に充満する証拠群」

少し深く考えるとギリシャの『五彩圏』も、四神の色名に蹄まれているのはギリシャそのものである。

それを古代日本人式に清音で読むとキリシャ、やはり「キ」の国である。

またキリシャとキリンを比較してみると、「キリ之」と書けばキリシとキリンの両方に読める。

これに国称のヤをっければキリシヤになり、国称をマに変えればキリシマになる。

これで、霧島を霊峰として崇(あが)める大隅人が、ギリシャ人だったことがわかるだけでなく、『旧唐書』が日本国の 「東界北界、大山ありて、限りと為(な)す。山外すなわち毛人国」

というその大山は、東西南北とも、わずか数千里しかない小国当時の日本とは、今の鹿児島県以外には該当する地域がないから、その東北に贅えるのは霧島山、その名はギリシャを意味するとすれば、そこから先に住むという毛人は、沖縄語発音で「キージン」。

南九州語ではキリンもキジン。

毛人という文字は「キリ之」国、すなわち、キリシマとギリシャの双方を表現し、麒麟はその象徴として当てられた「日本語の名をもつ霊獣」だということになる。

そうして、その霧島は地もとの大隅語では「キイシマ」と発音する。

霧もギリも「キイ」なのだ。だから語源は霧ではなく「黄(キイ)」だったのである。

また麒麟も「キイン」で「黄(キー)の」を意味する獣なのである。

しかし実在しないものをなぜ?使えたのだろう?

※出典:大学院講義録19 21頁


「完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在」

宇佐の八幡は、大隅の八幡・本都(ポント)別皇子ではないのか?。

彼は隼人町を動かなかったと記録されているのだから、名前を譲ったほうである。

するとなぜ?彼は笥飯(ケヒ)の大神などと書かれているのか?。

それは笥飯でわかる。

この当て字はケヒともケイとも読める。

ケイは「軽」と書いてもケヒ・ケイで、応神天皇の皇居・軽島の明の宮=軽之(シ)国(マ)の明(アカル)の宮=鹿児島(カルシマ)の阿鹿児(アカル)の宮=鹿児島神宮の所在地を、別の当て字で書いただけなのである。

一方、名を譲られたほうの八幡は、福岡県糟屋(かすや)郡の宇美(うみ)町で生まれたとされている。
そこは宇佐とは直線距離でも80kmのところにあるが、宇美を宇三と書けば宇佐になる。

どちらにしても仁徳天皇系の倭の五王の先祖である。

しかし倭の五王はヤマトとは無関係だった。

とすればヤマトと名乗ったのは、隼人町に残ったほう八幡のグループだったのか?。

そのグループがつ?

奈良まで移動して、そこをヤマトの国と呼ばせたのか?、疑問だ。

隼人町は巴利国だった。

「山」はパーリ語で「giri ギリ」である。

海岸にある隼人町から見ると、山は霧島である。

「giri之国(しま)」と書くとギリシマ、清音になればキリシマになるし、マをヤに換えればギリシャになる。

これで山岳信仰のギリシャ人の国をうまく表現した当て字が「霧島」だとわかる。

どこからみても無理のない「山人」の国がここにある。

※出典:大学講義録32 23頁


「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答」


「姫講は」

「姫講(ひめこ)さあ=卑弥呼様の講」という名で現代まで継続している南九州の「観音講」。

「応神皇居」も、古代ギリシャの南端の国アカイヤの名をそのまま使って、「明(アカイ)・宮(ミヤ)=御家(ミヤ)=家(ヤ)=アカイヤ」という「南の皇居」を意味する表現になっている。

そのカルシマはそのまま鹿児島と当て字できるし、カルの別の当て字は「姶良(カル)」で、これはカルから「カラ」になり、韓国とも呼ばれた証拠が霧島山塊の主峰「韓国見岳(カラクニみだけ)」の名になって残り、応神が支配した朝鮮半島に韓国の名を残し、南九州から百済、新羅の名がそこへ移動したことを、否定する者はいない。

そして『三国史記』は明瞭に初代新羅王を赫居世と記録しているが、その名は「赫居世国(カゴシマ)」という当て字。

ほかにも13才で王になったなど、壹與だったことを示す記録に満ちている。

南が赤(四神の朱雀(すざく))なら北の玄武は「玄(クロ)武(タカ)」で、クロアチアとタカクニ(高句麗)。

その中央に、東は青竜=「青=オオ=倭、竜=辰巳島=種子(タツネ)島。

地中海の東瑞に面していた古代アイオリヤ(藍織国(ヤ))=青(ア)い織り(オリ)物の王(ウ)国=アオリウ(青竜)国(後世→播磨の相生(アイオイ))である。

西は白虎=「白(シラ)ヒラ(枚)ヒラキ(開)(木(キ))=コ(虎)、枚聞(ヒラキキ)・開聞(ひらきき)。

このシラは古代シラキウス(今のイタリア領・シチリア島)である。

※出典:大学講義録31 34頁


「アカイヤだった・明の宮」

「明=阿鹿児」は、もう一つ重大なことを救えてくれる。

「赤」といえば五彩圏連邦の南を意味するから、「赤ル」は「赤国=赤盧=アカロ」の
沖縄発音「アカル」にぴったり一致していることである。

これはギリシャですでに「アカイヤ」がその位置を占めていた。

五彩圏連邦を日本列島からアジア全域に移入したギリシャ系の人たちは、間違いなく南九州を「アカイヤ」と呼んでいたのである。

しかし南九州語が言葉を短く短縮して発音する特徴をもつことを計算に入れると、アカイヤは「アカイまたはアカヤ」になる。

明の宮の「明」を標準語では「アカリ」と発音するが、南九州語では「アカイ」と発音する。

だから明宮を「アカイ宮」と呼んだか、または全体が「アカイヤ」に対する当て字かのどちらかなのである。

大隈半島中部の都市「鹿屋」は先にみた「科野」に当たるが、この二つに「阿」を被せるとやはり「アカヤ」になるから、そこが「赤の都」だった名残りとみると、語尾の<ヤ>は<ラ><マ><ナ>にも変わるから、<カラ>と呼んだ人々もいた。

それに当てた当て字が「姶良」であり「韓国」だから、今も隼人町を南端の中心に広大な姶良都が残り、またそれを一望のもとに見下ろす霧島山塊の最高峰が「韓国見岳」と呼ばれているのである。
明の宮はここにしかないのだ。

※出典:大学講義録06 9頁


「ヒガシの語源は日向」

日向は今の宮崎だが、蝦夷が宮崎にいただろうか?…。

『旧唐書』の「日本」は鹿児島県以外には当てはまらない特徴を多数備えているが、その東と北の境に大山があり、その向うは「毛人」の国だと書いてある。

その大山は霧島山塊に当たるが、「キリシマ」とは「毛人之国」の一つの読み方である。

そして「毛人」と「蝦夷」は同じ人々を指す呼び名なのだ。

唐の時代になってもまだ、宮崎は「蝦夷の国」だったのである。

しかし宮崎を果して「東」と言ったか?という疑問が最後に残る。

この答えは「ヒガシ」というもう一つの発音である。

「日向」は「ヒュウガ」と発音しているが、これはどこかの訛りの一つで、本来は「ヒムカ」だった。

これに「之国」をつけると、「ヒムカ之国」で、これは「ヒムカシ国」と読める。

日本の古文や万葉集などの古語ではヒガシでなく「ヒムカシ」と発音している。

それが次第に「ヒガシ」に訛ったのだから、その語源は間違いなく「日向」だったのである。

しかし古代日向は宮崎県だけではなかった。

鹿児島県も日向に入っている。

このことはヒムカシという言葉が生まれた時代が、宮崎だけが日向になった後だという証明なのである。

武内宿祢はそこへ「西の国」から視察に行った。

宮崎の西には鹿児島県しかない。

※出典:大学講義録06 7頁


「キジは金髪の壹與とギリシャ人」

「キジ」は沖縄語で毛のことを「キ」と発音しますから、これに「人」のついた「毛人はキジン」だとみるのが、いちばんわかりやすいと思います。

この「キ」は色の黄の発音と同じですから、五彩圏連邦の中心の色である黄は、この毛人の象徴だったこともわかります。

「畿」という字を好んで首都の意味に使い、今も畿内、近畿という言葉が使われているのは、やはりこの「黄」に合わせて選ばれた文字なのです。

また鹿児島語では黄は「キー」と発音します。これは「キリ」と同じもので、「キリシマ」の「キリ=キー=黄」なのです。

『旧唐書』は「日本国は倭国の別種」と書き、鹿児島県以外にない地理上の特徴を挙げています。
その中に「東と北の境に大山があり、その山外は毛人の国だ」と書いてあります。

鹿児島県の東北には霧島山塊があり、その地理条件はこの記録と少しも違わないばかりか、その霧島の発音が「毛人之国=キリシマ」になることで完全に証明されます。

キリシマの「マ」は国で、それを「ヤ」と発音する人たちもいます。

すなわち「キリシヤ」です。

前に繰り返してお話ししたキリシマとギリシャとが元は同じものだということを、思い出していただければ、すべて疑問を残しません。

さらに重要なことは卑弥呼や壹與が「金色に光り輝いていた」という身体的特徴です。

南九州語の「キン=黄の」と「金」の発音が一致しますから、日本語の「黄」もやはりこの、「ギリシャ=キリ=キー」と複合して、ギリシャ人を指す色であり、代名詞だったのです。

だからこそ、その特徴が貴ばれて、多くの女性の中から選ばれて女王の座についたのです。

その壹與は間違いなく位宮に従って参戦していますから、すべての点でキジに一致します。

彼女とギリシャ人軍団が『桃太郎』で活躍するのは当然だといわねばなりません。

※出典:日本国誕生の秘密 312頁


「毛人国と国称分類」

日本、倭、毛人と対立している毛人之国も考えておこう。

これは東と北を限る山の向う側の国だとあった。

鹿児島湾北岸の平野部からみると。

霧島山塊は北と東を限る大山である。

この<キリシマ>は、方言によってはそのまま毛人の国に当るのである。

このことは前提として日本語の方言中、<ダ行>を<ラ>行音に発音するものがあることを確認して戴く必要がある。

それは、よく引き合いに出される河内弁である。

<キツネウドン>という所を 「ケツネウロン」と発音し「だけど」を「やけろ」と発音する。

<ド>が<ロ>になっているのがみられる。

この反対に四国、広島方言ではお遍路さんを「ヘンド」と発音し、

関西全般に「辛労」を「シンド」と発音する。

リンゴ、をヂンゴ、ジドウシャをリロ-シヤ、ラムプをダンプ、婚礼をコンディと発音する人々もある。

こうした発音のちがいは海外にも多く見られる。

アメリカ英語は、よく聞きなれないと<ディ>も<ティ>も<リ>と聞こえるし、北京語では日本人が<リーペンリ>と聞こえる。

私たちが<ジ>と発音するものが、<リ>と区別つきにくい。

また毛人は体毛が多いためにそう呼ばれる、とされている。

毛の発音は沖縄弁では<キ>である。

人をつけると<キジン>、<キリン>、<キリ>といった発音が生れることがわかる。

之国の読み方も調べてみよう。

国と書いたものを<ラ>と読む人がいたことはすでにみた。

朝鮮語では羅は<ナ>になる。

網羅と書いて<マンナ>と発音される。

だから新羅は<シムナ>になる。

国名の任那は<ミマナ>と発音されているから、この語尾の郡は、羅の変型したもので、それは朝鮮語の国称なのである。

任那というものは存在しなかったという説があるが、この国称の状態からは、では何故、それが朝鮮語表現になっているのか?

と反論が生れる。

また大国主と大汝持が同意であることも国が<ナ>と読まれたせいであることが明瞭にわかる。

この<ナ>に対して沖縄弁では<マ>と発音される。

沖縄ではn音に当るものをm音に発音するものが多い。

庭は<ニワ>ではなくて<ミヤ>である。

荷を入れる家である倉をミヤケと呼んだのも、この沖縄弁である。

沖縄圏にはかって島々が一国であった時代の名をそのまま止めた島名が沢山みられる。

波照問、多良間、池間、慶良間、加計呂麻といったものが現存し、倭人伝中の対馬、投馬、新島といった国々との関連を示唆しているのである。

国称にはこの他に<ヤ>というものもある。

伽耶、名古屋といったものは、シベリヤ、カルデヤ、ギリシャなどと同じ国称語尾である。

これは<ラ>との方言関係であって、マルセイユはマルセイッレとスペルを綴るように、L字はY音にも変るのである。

同じ<ラ>が<ダ>に訛ったものはヤマダ、タカダ、カナダ、オランダという語尾になり、これは<ド>ともごく近縁で本渡、神戸(カンド)、インド、リヤドなどがある。

このほか日本には国が変った<ギ>があったことは新羅の所で見たが、さらに清音化して<キ>にもなっている。

またまれに国を<コク>と漢字で発音したものに谷をあてたものが「ヤ」や「ヤツ」「タニ」に変化したり、頭音使用で<コ>、<ゴ>になったものもある。

毛人之国を毛=キ、人=リ、国=マと置きかえてみると、キリシマとはキリ之マだということになる。

之は漢音で<シ>であるから、<シマ>とは島の意味でなく、之国の意味であったことがわかり、山であるのに島と書かれたのは単なる当て字であったことがわかると同時に、私たちが<シマ>と呼ぶものが、かっては之国であった時代を証明すると同時に、新らしい言葉が分化して生れる様子が、はっきり眼に見るようにわかってくるのである。

こうみてくると毛人は<キリ>と読まれる程であるから、さらに<ケ>、<モウ>という発音でも読まれたはずだということになってくる。

山口県の大名「毛利」氏もまたその一族らしいことになる。

※出典:日本国誕生の秘密 77~78頁

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