出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会
「地名が物語る古代文明の波及」
「大隈地方にあった黄の国」
「ギリシャ系倭人の「五彩園連邦」は実在していた」
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
「「天孫」はアマゾンへの当て字」
「「白=シラ」はギリシャやマレーと共通」
「「百済」はギリシャ生まれの鹿児島育ち」
「2種類あった五彩圏とその判別」
「沖縄の国名の変遷による史実の証明」
「わかった「ウオ」という日本語の語源」
「日本語の中に千語以上のパーリ語がある」
「ギリシャ式発音が生んだ唐代以後の地名」
「古代沖縄のギリシャ文明遺物」
「高度の知性を立証するパーリ語国名」
「卑弥呼時代の国名語源一覧リスト・結論」
「ポセイドンから普陀落への変身」
「ギリシャ語で書かれた歴史書も実在」
「日本の地名によく合うギリシャ地名」
「沖縄語・大隅語・鹿児島語の故郷?わかる」
「高句麗=根・足・帯はギリシャ語名への当で字」
「世界最古の総合病院・デルポイのアポロン神殿」
「セットになった「サカ~サタ」は何語か?」
「サカの語源はギリシャ語のサコス」
「坂井・堺・坂名井は「釋迦王(サカイ)」の都」
「サガの複合語源と偉大な文化財=鹿児島県のサカ群」
「サタの語源をパーリ語と断定できる理由」
「一般名詞で史実を知る法= 例「網(あみ)」」
「倭国と共に移動し分布した女神名(アムピトリテ)の地名」
「ギリシャ語の名が残したもの」
「世界の先進文明をもった父祖の偉業史」
「八幡と日本の語源は同じ「イオニヤ人」」
「ウッタラと銅鐸が残した多数の言語遺物」
「卑弥呼がもっている名 総検リストまとめと追加」
「ギリシャ神話とパーリ語が生んだ日本語」
「もう1つギリシャの神名を使った東西南北の国名」
「門松の語源はギリシャ神話のカドモス」
「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語」
「日本国の色名はデウカリオンの一族から」
「橙色も「色」という言葉もギリシャから」
「ギリシャ文化から生まれた「天の目一箇神」」
「語系…沖縄=ペルシャ、鹿児島=ギリシャ」
「色の名、アオ・アカ・シロ・クロはギリシャ語」
「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」
「神武天皇以前に薩摩にいたアブラヒムたち」
「地名が物語る古代文明の波及」
ほかにも同じような、私たちの先祖の手掛かりはないかとさがしてみると、
まだほかにもいろいろ見つかった。
たとえば同じ沖縄県の「波照間島」もその一つである。
この島(波照間島)の名は沖縄語や鹿児島語では「ハティマ」と発音する。
語尾のマは国を意味するものだということは、もうよくご存じのことである。
だからこれは「ハティ」というものを指している。
ハティというのは、アレッサンドロス時代の前後に、
やはり中近東で大活躍していた人たちの名である。
「ハティ人」は英語訛りでは「ヒッタイト」と発音する。
古代金属文化の先進国人として、世界史上でも有名な人たちである。
日本語の「ハチ=蜂」を考えてみると、この武器をもった連中と同じ性質をもっている。
どちらも「剣をもつ者」なのだ。
それだけではない。
麦を火で炒(い)って粉にひいて、お湯でこねて食べる、
あの粉を大阪周辺では「ハッタイ粉」という。
それよりもさらに重要なのは、
この地域から出て朝鮮半島を治めたアカハチや中国の東北部から出て
後の中国・清(しん)帝国の祖になった
金王ヌルハチがもっている「ハチ」という称号も、
このハティとつながりをもっていることである。
その古代ハティ語は、今シリア特有の象形文字として見つかっている。
ヨナ国島との関係は切っても切れないものがあるのだ。
その遺跡から見つかった印章には「ハットウシル三世大王」のものもあり、
その首都の名も「ハットウス」だった。
だから「八頭」という当て字があれば八俣の大蛇ともつながってくる。
また八田、波多、畑といった姓も、「果てる」「はて=涯」という言葉も、
やはりこれにつながっていると考えていい。
なぜなら波照間島もヨナ国島も、
その名のとおり日本の果てにある「果てる国(マ)」だからである。
またこの式でいけば九州北部にある「日田(ヒタ)」も「日田人」と書けば
「ヒッタイト」への当て字として使える。
さきにお話した、三種の神器の一つである精巧な古代の神剣は、
日本の鉄器時代の初めのものだけに、この人々のものであり、その象徴とみてもいい。
またその人たちは全部、船に乗ってそれらの島々へきた。
日本語の「フネ」という発音と、古代ギリシャとの関係は、
その海軍の主力だった「フェニキア」と切り離しては考えられない。
沖縄語ではその名は「フニチ国」になる。
これは本土語に直せば「フナキ」船木という姓に一致する。
またフニチ国を「船津国」と書けば、それが船の国という古語だと分かる。
こうみてくるとアレッサンドロス帝国の中にあった「カッパドキア」と、
日本の「カッパ」という名もまた無関係だとはいいきれなくなる。
ローマ法王をマグナ・カッパと呼ぶが、その頭は本当に「河童」のように丸く剃る。
怪物としての河童は架空のもので、ここでは議論する対象ではないが、
カソリックの儀礼や3世紀の卑弥呼の儀礼や、その起源であるシンドゥ教の最高神シバと、
キリスト教の最高神のエホバが同じ神だということを考えれば、
これもまた学問上、無視することはできない。
日本語には「切れるか・切れないか」という言葉がある。
これと語呂合せのできるギリシャ語がある。
「キレナイカ」である。これは古代イタリア半島の国「キレニア」人をさす。
この名は今もラテン化してチレニア海や、アルバニアの首都・チラナなどとして残っている。
そして鹿児島にも「喜入」や「知覧」として残っているのである。
ムギは、本来、地中海農耕文化の主食である。
このハッタイもハティ人に対する呼び名変化の中の一つと同じである。
※出典:HIMIKO 182~184頁
「大隈地方にあった黄の国」
話を「色の名の国」にもどそう。
では倭(ウワイ)国連邦がどうなっていたか?
それはいつから? どこから? どんなふうに始まっているのだろう。
一足跳びでなくもうひとつ前の段階をみてみよう。
南の「大和=アカ」を同じ宝島に置いて、南九州に黄の国を求めると、
鹿児島県大隅地方にそれが見つかる。
『続日本紀』に、天平勝宝元年(749)八月
「曽の県主・岐の直(あたえ)・志自羽志(しじはし)」と
「加祢保左(かねほさ)」の二人を外従五位の下(げ)に昇格する、という記事がある。
曽は「襲」で大隅のことだ。
10世紀に書かれた日本最古の百科事典『倭名類聚鈔』には、
日本全国の国々の郡(こおり)や郷(ごう)の名が載っている。
それでみると、岐という郷は大隅の国の中にある。
この「岐」という字は『日本書紀』の「一書」には神の名として出ている。
伊弉諾(イサナキ)・伊弉冉(イサナミ)の二神が国生み中にイサナミのミコトが死ぬ。
イサナキのミコトは死者の国「黄泉(よみ)」へ、死んだ妻を訪ねていく。
すると妻は暗やみの中で、
「私はもう死の国の食べ物を食べてしまったので見ないで帰ってください」という。
しかし夫は見ずにいられず、櫛を燃して妻の痛ましい姿を見てしまう。
妻は怒って8人の恐ろしい女鬼に夫をつかまえさせようとする。
夫は剣を抜き、手当たりしだいに物を投げつけて逃げる。
そして大きな岩で坂道をふさいで、そこまで追ってきた妻と問答をしたあと、
「ここからは来るな」といってもっていた杖を道に投げる。
その杖が「岐の神」なのだ。
これはギリシャ神話の「オルフイコイ=オルフエウス神譚(しんたん)」の変型したもので、
この杖はヘルメスがもっているカディキウス=航海用の天測儀なので、
『古事記』では「船戸の神」と当て字しているが、
中国では船乗り集団を「船戸(せんこ)」と呼んだから、それをそのまま使ったのである。
この杖が「舵取り用の木=機」であることを考えると「カジキ」で、
それがギリシャ語のカディキウスと通じており、
加治木義博の姓にもなっている大隅・姶良(あいら)郡の「加治木」という地名とも、
大魚のカジキとも同じ発音であることはすぐわかると思う。
加治木町には『加治木故老物語』という古記録があって、
「加治木は昔、天狗の面で有名な猿田彦の神が領主だったが、
船で沖へ出たまま帰らず、船の舵だけが流れ戻ってきた。
それが不思議にも芽をふいてクスの巨木になったので
「カジキ」という地名になった」とある。
そのあとの領主は「阿知岐(あちき)=阿知の使主(おみ)」で、
『記・紀』では応神以下歴代の天皇に仕えた。
この人物の名にも「岐」の字が入っているので、
問題の「岐」郷というのはこの辺り一帯だとされている。
この町は大相撲の寺尾関の故郷でもある。
彼のアレクサンドロス大王タイプの容貌と天狗の顔など、
以上の話が互いにどれくらい強く結びつくか、
応神天皇の皇居であった鹿児島神宮が隣町にあることなど、
楽しくお考えになってみて戴きたい。
※出典:WAJIN 170~171頁
「ギリシャ系倭人の「五彩園連邦」は実在していた」
実はこの「四神」はギリシャ生まれなのです。
なぜなら今もギリシャを中心に、この色の名が濃厚に分布しているからなのです。
西の色は「白」ですが、シシリー島に「シラクサ=シラキウス」があります。
北は「黒」ですが「クロアチア」があります。
南は「赤」ですがこれはギリシャ最古の中心「アカイヤ」があります。
そして東の「青」には「オーマン=オマーン」があります。
この最後の国はアレクサンドロス以後の領土で、
このアラブ地域には南に当たる「アカバ」もありますし、
ギリシャ本土の南端はアカイヤ地方です。
ドイツの東の国「オーストリア」の「オー」もやはり東を意味していて、
オーストリアとは 「東の国」という形容名詞です。
私たちが日本語だと思っていた「色の名」はこのようにギリシャ語が語源だったのです。
そして中心にギリシャ「ギ=キ=黄」の国があることを見落してはなりません。
これはインドに入ってさらに発達してトーテム動物との組み合わせが完成したのですが、
その話は長くなりますから避けます。
この四神の五色の名による国々の配置が、
東アジアに幾つも見られるということだけを知っておいてください。
この五つの色で表示された連邦の国々の配置を私は「五彩圏(ごさいけん)」と命名しました。
これを研究していくと、日本列島と朝鮮半島とにまたがって、
幾つもの「五彩圏」が見つかります。
その「五彩圏九州連邦」時代の代表例を挙げておきましょう(61頁・図参照)。
東の「青」が「大分」の時代には、
西の「白」は「平戸=ヒラド=シラド=長崎県」、
北の「黒」は「高麗=クレ=高句麗」でこれは南九州訛です。
南の「赤」は「赤水=鹿児島・桜島」または明(アカ)の宮=鹿児島神宮、
もっと南なら奄美大島の「大和村」で、
これは「大=オ=阿=ア、和=カ」で元は「アカ」だったものです。
鹿児島神宮は八幡の本家で、八幡様は応神天皇です。
この天皇の皇居がどこにあったかを調べた結果、その皇居名の「軽・明宮」とは、
この鹿児島神宮以外にないことが突きとめられました。
それは今のペキン語で「児」を「ル」と発音しますが、
ペキン語は古代沖縄にいた人たちの子孫の言葉なので
「鹿児」は「カル」と読まれるからなのです。
すると「軽の明の宮」とは「軽=カル=鹿児、明=アカル=阿鹿児」で、
「阿」は丁寧にいう場合の敬称ですから、どちらも鹿児島神宮を指すことがわかります。
鹿児島語では「明り」を「アカイ」と発音しますから、
「明宮」とは、本来は「アカイヤ」への当て字だった「明家」という字を、
『古事記』の編集者が皇居の名らしく敬称化して、
「家」の字を「宮」の字に文字を変えたものだとわかるからです。
これで卑弥呼がなぜ「明姫」という別名で呼ばれていたかという理由もわかります。
やはりアカイヤの国の女王という意味の当て字だったのです。
こうしたことを『記・紀』の編集者たちは見抜けずに、
別人として扱ったために『天稚彦神話』になってしまったのです。
※出典:日本国誕生の秘密 146~147頁
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
このウースンというのは、『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。
その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、
それは史実が後世に次第に変型したもので、ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、
その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。
ギリシャ語には多くの方言がありますから、
<イャーソン>という名は<ヨーソン>から<ユースン>、<ウースン>と変化します。
先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、
それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。
『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、
<ウロ>とは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。
これで「イヤ」と<ヨ>と<ユ>と<ウ>との訛りかたがわかると思います。
その地域での「ウースン」が、ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。
その神話に残され地名とコースが、東南アジアの現在の国々と一致しているので、
今では彼らがマレー経由で台湾へきて、
そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、
その後、カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、
明らかになってきました。
また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、
その基地として高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・
夫余(フユ)・挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、
あますことなくわかったのです。
しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、
彼らは営業を続けられなくなりました。
ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、
中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、古代の呉の地に根をおろしたのでした。
このウースン人についてはもっと重大な事実があります。
それは鹿児島県の東半分を占める「大隈(おおすみ)」を、
地元で「ウースン」と発音することです。
そして今も鹿児島県人には、大相撲の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、
ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、
ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。
この一致で、大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは疑いの余地がありません。
※出典:日本国誕生の秘密 169~170頁
「「天孫」はアマゾンへの当て字」
「赫夜姫」は月から迎えがきて、「呼び戻される」のだという点が重要なのです。
もともと彼女は「金色に光り輝く金髪をもった別世界の人」でした。
金髪の異人だったからこそ壹與も卑弥呼と同じく女王に選ばれ、
連邦政権に君臨することになったのです。
これを先住民である庶民の側からみますと、
彼女は故郷である「異人」の世界へ呼び戻されたと見えたのです。
それは現実には、本来の出身地である「天の国」へ帰ったのでした。
それが大天国=ウチナ=沖縄であり、与那原だったのです。
「与那=ヨーナ」というのは、
インド・パーリ語でギリシャという意味、ギリシャ語の「イオニア」の訛です。
金髪の壹與は親元を離れて育てられていましたが、沖縄のギリシャ人世界に戻りました。
そこはまた天界とは切っても切れない「織女星=たなばた=棚機=新式織機=七夕」の世界でもあったのです。
前にお話しした南海の優れた織物の話も元は同じです。
有名な司馬遷(シバセン)の中国の正史『史記』の[天官書]には、
「織女、天女孫也」と書いてあって、
その索引には「織女、天孫也」と「天孫」と書いてあります。
私たち日本人は、古来なぜか「天孫族」だと自称し、
『日本書紀』にも天智天皇が大化改新のとき、やはり「天孫」と自称したと記録していますが、
天孫とは中国では「織女星」のことだったのです。
3世紀当時の沖縄地方は、
すでに1000年以上も貝貨産業を続けてきたカリエン人の世界に縄文末期に移住してきた
弥生人=ヤオ人やマレー人、インドネシア人が混血し、
さらに前1世紀に移住してきたソナカ布教団の倭人(ギリシャ系インド人)が、
ミャンマーやタイやベトナム、フィリピン、台湾からの技術教師や商人などを
大量に連れてきました。
さらにそこへ中国南部からの商人や漁民や移住者が加わって、あるいは人種的独立集団になり、
あるいは混成集団をつくっていたのですから、
とても「民族」などと区別できるような人種構成ではなかったのです。
ですから強いて「天孫」とは何を指すかと考えると、
それはギリシャ系の人々が女系集団の倭人(ウワイト)を
「アマゾン」と渾名(あだな)したものへの当て字「天孫=アマゾン」だったことになります。
それが先の「有窮国」などの天上の話として古くから中国へ伝わっていたのです。
※出典:日本国誕生の秘密 288~289頁
「「白=シラ」はギリシャやマレーと共通」
このことでまた別の疑問をもたなければいけない。
それは黄色だけがマレー語だったのかということである。
するとマレー語では彫刻家が使う白い石膏を「シラ」と呼ぶから、
東南アジアでもやはりギリシャ語の「シラ」が「白」の意味で使われていたことがわかる。
ギリシャでは西の国を「シラ」と呼び、
その首都を「シラキウス=新羅御主=のちのシラクサ」と呼んだ。
その「シラの国」が、イタリア半島では「チレニア」「チラナ」などと訛り、
ラテン語に翻訳されて「アルバニア=白の国」などとして今も現に残っている。
またマレー語で「シラング」というのは「十字形=プラス型」のことだから、
薩摩の嶋津氏がその十字形を家紋にしていることと、
薩摩に現存する枚聞・開聞から知林ガ島・知覧にかけてのシラギに結びつく複数の地名と、
壹與の子孫で小国日本と呼ばれた鹿児島の領主だつた7世紀の天智天皇が、
朝鮮の正史『三国史記』では
「新羅王・金春秋」として記録されていることなどを考えあわせると、
新羅を「シラギ」という不思議な発音で読むのは、
ギリシャ語の「シラキウス=新羅御主」などを語源とする
「シラング」が鹿児島流に短縮されて「シラギ」になったものだという結論に、
自然になってしまう。
マレー語ではまた「黒lを「イタム」「イタン」という。
これに当て字すると「伊丹」が ぴったりだが、
伊丹さんはもともと鹿児島で発生した姓なのである。
このイタムは方言化すると「イタブ」にもなるから、「板付」もイタブに対する
当て字だつたものが、後世に「イタヅケ」と発音されるようになったものとみると、
いま福岡空港のある板付(いたづけ)は、九州北部にある位置関係からみて、
やはり3世紀の「五彩圏連邦」当時の、北の国を意味する地名遺跡だったことが
確認できたことになる。
そしてそれはまた同時に、
3世紀当時の倭人のあいだでマレー語が使われていた事実の動かぬ
証拠にもなって、従来の『魏書倭人章』研究などとは比較にならない、
非常に精密な歴史の真相が浮かび上がってくることが、おわかり戴けたと思う。
この「イタム・イタン」の問題は、さらにもっと重要なことを教えてくれる。
それがいつ「黒」の意味で、地名として名づけられたか、
その時代と意味を『魏書倭人章』が教えてくれるからである。
ご覧いただきたい。
『魏書倭人章』にはこの「イタム」に当てた漢字の「名」が「3つ」入っている。
まず国々の名をみると、
九州北部にある国は対馬、一大、末盧、伊都、奴、不弥の6カ国であるが、
この中に「イタム」にあたる「国名」が「2つ」ある。
「一大国」は、別にそれほど言語学の知識がない人がみても、
「一=イ」
「大=タ」
「国=マ」で、
「イタム」に対する当て字としてピツタリだとすぐわかる。
※出典:大学講義録04 9~10頁
「「百済」はギリシャ生まれの鹿児島育ち」
次は百済はどこで生まれて、どう変化したかを調べてみよう。
日本神話の神々の名は、大半がギリシャ神話の神名に当て字したものである。
『記・紀』に「海神」と書いたものを在来はワタツミなどと読めと教えてきたが、
神話を読むとその海神は鹿児島からみて南の海の支配者のことである。
その地域に百済という名がついているのだから、ギリシャの海神の名と比較してみると
ギリシャ ポセイドン ポ セイ ドン
日 本 百済 百 済 殿 ぴったりだ。
ポ・セ・ドの3音が、沖縄語にはない「オ・エ」の2母音をもっているので、
これは沖縄でつけられた当て字ではないことがわかる。
最後の「殿」まで鹿児島語である。
この「殿」は、アポロンと「阿日殿」とが一致するので、
ポセイドン以外にも使われていたことが考えられるし、
鹿児島で「ドン」が敬称として使われたのは、
ギリシャ語の名詞語尾が語源だったとわかると、
同じギリシャ語の子孫であるスペイン語の「ドン」と
同じものであっても少しも不思議ではなくなる。
また先にお話しした「フジー・フシ」は、
鹿児島で当て字した「百済」を、
沖縄~大隈語で発音した2次名詞だったこともこれでわかった。
※出典:大学講義録05 10頁
「2種類あった五彩圏とその判別」
しかしこれで、五彩圏思考が仏教と無関係だったと考えるのは早計である。
それはマガダ国を中心に、五彩圏が実在していたことが明らかだからである。
今のミャンマーは古来、ビルマと呼ばれてきたが、このビルはインド~アーリヤ語では、
青色のことで、英語のブルーからマレー語のブラウまで完全に方言関係にある。
青はいうまでもなく青竜の色で東を指し、ビルマはマガダ国の東にある。
同じインド~アーリヤ語では黒はカラで、北にはカザフ共和国の大都市カラガンダはじめ、
インドと蒙古の双方にカラコルム、その中間の中国西域にカラマイという地名が並んでいる。
これと対象の位置にある南は、アショカ仏教史でも有名なスリランカで、
ここから移動した人々が1世紀にインドネシアに植民した中心がシュリビジャヤ。
そこからさらに東に移ったという地名をもつのが、沖縄の首都シュリ=首里である。
そして日本では赤色をシュ=朱というから、
それらはみな南=朱雀としてつけられた地名だったのである。
これで納得がいくように、アショカ仏教圏は五彩圏を伴っていた。
ただ注意が必要なのは、
それは「アオ・クロ・アカ・シロ」というギリシャ語ではなかった点である。
それは日本列島では位宮の五彩圏以後のものである。
こうした細部を見落とさないように…。
※出典:大学講義録07 21頁
「沖縄の国名の変遷による史実の証明」
日本列島に移動してきて日本人を構成した人たちが、どんな人々だったかを示し、
記録しているものに、伝承されて今もよく知られている地名の呼び名がある。
それは過去には単なる別名ぐらいにしか考えられていなかったが、
こうして次々に真相が明かになると、それらは無意味な別名ではなくて、
それぞれが私たち日本人にとって、ゆるがせにすることのできない重大な史実であり、
いつ、そう呼ばれていたか、それはなぜだったかが明瞭に理解できるようになった。
それは同時にこれまでお話ししてきた歴史が、すべて根拠のある真実の歴史だったことを、
完璧に立証しているのである。
1 <ウルマ>
英国のウーリーの発掘で有名なメソポタミヤの大都市国家
[ウル]国(マ)=最古の国名=第一王朝建設B.C.E.3000年頃。
そのあとを継いだ第一バビロン王朝の滅亡(B.C.E.1750年頃)によって
カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、
沖縄についたのは殷時代(B.C.E.1500年頃)より前、
それが更に中国本土に入って中国最古の王朝・夏を築いたが、
殷人が侵入してきて商王朝を興し、夏王朝を倒した。
皮肉なことに殷商帝国を強力にした殷の貝貨幣は、
琉球列島に残って貝貨幣産業で栄えていたカリエン人が供給したものだった。
殷人はインディアという名前への中国式当て字。
その青銅器製作技術は、
B.C.E.1500年頃に西アジアから伝来しているのでカルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、
夏帝国が誕生した時期に一致している。
この琉球カリエン人たちが国名を故郷と同じ〔ウルマ]とつけなかったなら、
今の沖縄に「ウルマ」という古い国名は残るはずがない。
また殷人の同族は、縄文時代後期には、
すでに茨城県稲敷郡の福田貝塚に、殷人と同じ信仰をもっていたことの明かな、
より原始的な宗教遺物を残していること、
「稲敷」という名は「殷の儀式=祭り」を意味する発音をもっているから、
殷人の聖地に当たり、それは単に殷人が知っていたというだけでなく、
正確に2200km東西に大測量をして都の位置を決める起点にしている事実など、
どこからみても殷人は日本列島に故郷をもつとみるのが妥当だから、
日本列島から中国に移動した人たちだったことは動かない。
2 <流求>
この発音は、現地では「ルク」と発音されていた。
これはドイツのルクセンブルクがギリシャ名の「ルキウス」に語源があるのと同じく、
古代インド東アジア帝国のギリシャ人皇帝ルキウスの支配下にあるという意味の
[ルキウス国]への、中国人による漢字の当て字であるとみると、
アレクサンドロス大王の残したルキウスはB.C.E.2世紀の人。
日本の弥生時代の始めに合う。
また日本語に大量のギリシャ語が入っていること。
『日本神話』のモチーフは100%『ギリシャ神話』と一致するので、
ギリシャ人が私たちの先祖であることは全く疑問の余地がない。
3 <ウチナ>
[大秦=ウチナ]。
徐福(徐市=どちらもジョフッ)が、
秦の始皇帝の命令を受けて、童男童女、数千人を連れて
山東半島から支那海へ航海に出た後、日本へ着いたという記録がある。
紀元前200年頃。
この秦は秦氏が実在し、天武天皇の名乗りが始皇帝の子孫を意味しているなど、
多数の文化財を残しているのでこれも疑問の余地がない。
詳細はそれぞれの専門項目でご覧戴きたい。
※出典:大学講義録07 23~24頁
「わかった「ウオ」という日本語の語源」
またこの結論から、「青の国」が大国だったからこそ、
「オオ」が「大」を意味する日本語として定着したこともわかる。
その東の青の国は「倭国」だったのだから、<倭国>は<新羅>や<高麗>よりも大きく、
<クジラ>で表現される<百済>よりも大きかった。
そのため<倭国>を意味する「オオ」は「大」の意味だけに使われて、
<魚>の名前には転用されなかったのだとみると、
「倭」の南中国音「ゥオー」も、
またその日本訛りの「オオ」も、北中国音の「ウワイ」にも、
その国名と共通する<魚>の名は、なくて当然だったこともわかる。
そして<魚>そのものが「ウオ」と呼ばれているから、
語源は、ほとんど同じ発音の南中国語=「倭=ゥオー」だったとみると、
<魚>の「ウオ」という発音こそ「倭」だったのだと理解できる。
厳密に考えれば、<ゥオー>と<ウオ>は発音が違うが、発音は地域によってかなり変わる。
外国語の発音やイントネーションを、そっくりに使えたと考えるほうがおかしい。
鹿児島語なら長い発音や強いアクセントも、すべて短い発音に変えてしまうから、
「ショウチュウ」は「ソツ」、
「石灯籠=イシドウロウ」も「イヅロ」と大きく変わってしまう。
卑弥呼のいた倭の首都大隅では、
「ゥオー」は必然的に短く明瞭な「ウオ」に変化したはずである。
<倭>は『魏書倭人章』に
七万戸の大屋に老若男女が同居していたとある<邪馬壹国>の前身だから、
三千戸の<高句麗>とは比較にならない大国だった。
卑弥呼当時は南九州の東を占め、
<青の国>であると同時に連邦そのものを支配し代表する大国だったし、
政変による移動後も<倭国>という国名が当時の日本を代表する政権だったことは、
『魏書倭人章』から『新唐書』に至る中国の記録でも明らかである。
間違いなく<倭人五彩圏連邦>の<宗主国>だったから、
その国名は個々の魚の名としてではなく、
当時水棲動物全体を意味した「魚」の総括名として、
「ウオ=倭」が使われたのは、ごく当然で自然なことだったのである。
※出典:大学講義録09 7~8頁
「日本語の中に千語以上のパーリ語がある」
標準語のウオ(魚)という発音は鹿児島生まれだと説明したが、
その鹿児島には<魚>を<イオ>と発音する人々がいる。
また沖縄では<イユ>と発音する。
これまでは、これは単に<ウォ>という本州語発音が訛った方言だと思われていたが、
事実はそんなに単純ではなかったのである。
沖縄県の最も西の端は<与那国島>である。
この島の「ヨナ」という変わった名前は、卑弥呼政権の祭政一致の国家宗教、
当時の帯方郡使が「鬼道」と呼んだ仏教の用語パーリ語で
ギリシャを意味する名詞「ヨナ」だったことがわかっている。
この<ヨナ>は、古代ギリシャの一地方だった「イオニヤ」の訛ったもので、
イオニヤの語源は「イオン」すなわち「行く・遠征する」という言葉だから、
「イオニヤ」とは「遠征によって取った地方」または「遠征隊の国」を意味していた。
だから<与那国>という名も、
この「遠征隊の国」というギリシャ語が「イオニヤ」と発音されていたものを、
沖縄へ<仏教>を広めにやってきた<アシャカ仏教宣布団>の宣教師たちが、
パーリ語訛りで<ヨナ国>と呼んだので、
<与那国>という当て字が現在まで残ったのだとわかっている。
こうした事実はすでに市販されている加治木義博の著書に詳しく解説済みなので、
もっと許しく知りたい方はそれらをお読み戴きたい。
この<ヨナ>は、沖縄語では「ユナ」と発音される。
これは東南アジアでも同じ地域が多いから、
マレー語圏やミャンマーではギリシャ人を「ユナン」とか「ユナニー」と呼んでいる。
これに中国人が当て字したものが「雲南=ユンナン」という省の名として残っているので、
<与那国>の名は何も特別なものではないことがわかるのである。
それ以上に重要なのは、<与那国>の本来の国名が、「イオン=行く」だったことである。
この<イク>という発音と、この島の王の名の発音が一致すれば、それは「名乗り」だとわかる。
それが実在している。
卑弥呼政権を倒した<狗奴国男王>は、<山上王・位宮>という名乗りを持っているが、
この<位宮>は「イク」とも読めるので、
「イク」という発音につけた当て字とみても不合理ではない。
彼は、卑弥呼の跡をついで女王になった<壹與>を<与那原>で即位させている。
彼が<与那国王>だったのなら、それはごく当然のことだったとわかる。
「与那原=イオニヤの都」だからだ。
これで当時の沖縄地方には沖縄語のほかに
ギリシャ語と日本語、パーリ語などがあったことがわかる。
この内パーリ語は今の日本語と比較しても、
共通語が軽く1300語以上もあるから、
日本語の中核になった言語だとわかる。
※出典:大学講義録09 13~14頁
「ギリシャ式発音が生んだ唐代以後の地名」
好古都の音声記号は xog ko to だが、この「 x 」は舌根を使う喉音で、
ギリシャ語のカ行の音価を表わす文字。
古代ギリシャ語もカ行・ハ行・サ行が混乱する方言があり、
インドがヒンドゥやシンドゥと発音されるのもそのためで、
中国語もヒマラヤを喜馬拉雅と書く。
カールグレンが、この音声記号にわざわざ「 x 」を選んだのは、
当時の「好」の発音がギリシャ語式に曖昧で、
古や都のように k や t で表わせない音域をもった文字だったからである。
ギリシャ語のⅩの読み方は Khi 、その発音は khi=キまたは xεi =ケイで、
日本語の「毛」の沖縄語と関西語との発音差に相当するが、音価は kh でクフだから、
方言では k と h とに分かれる。
好の字の漢魏音も、ちょうどこれと同じく k と h に分かれるのである。
その証拠に、この好古都は3世紀以後どんどん方言化して、
移動先に k ・ h ・ S 音で始まる(子地名)や(孫地名)を生みつけて行った。
※注(都がツやタになるのは唐音が入った後である)
K カコツ 篭津 篭の津 カゴの枕崎(鹿児島県枕崎市) 篭津国=カゴッマ=鹿児島
カコジマ 賀古島・カコガウ 加古川(兵庫県) サコタ 迫田・佐古田
H ハコツ 筥(はこ)都→ハカタ 博多・ハコザキ 筥崎(福岡市)伯方(はかた)(愛媛県・広島県)
ハコチ 伯津→ハコキ 伯木→ハウキ 伯耆(鳥取県) サカタ 坂田・佐方
※出典:大学講義録12 11頁
「古代沖縄のギリシャ文明遺物」
古い沖縄にはアカイヤという名詞が、そのまま実在した。
宮古島の古代伝承に、
「日神と月神が人間に長寿を授けようと、
アカイヤニザという青年を下界に派遣した。
彼はシジ水(若返り水)と死水とが入った二つの水瓶(みずがめ)を担いで行くが、
油断している間に、蛇がシジ水を全部浴びてしまう。
だから蛇は脱皮を繰り返して長生きできるが、
人間は残りの死水しか貰えなかったので、
必ず死ぬのだ」という宿命説話がある。
このアカイヤニザの「ニザ」は、
鹿児島の「二才(ニセ)」と同じもので若者、青二才という意味。
ところがこのアカイヤが何を意味するかわからなくなった後、
それは日と月の家来なのだから「明り星」だとか、いや、
それは東(アガリ)のことだとか考えた人があって、
アカリヤニザとかアガリヤニザ、アカリヤザガマ、アカナーなどと様々に変形しているために、
一層アカイヤが語源だという真相がわからなくなっていたが、
沖縄の古い信仰、ニルヤという聖地にいる
神の王の名「アガルイ大主(ウシュ)」も「アカリウス 水瓶(みずがめ)」で、
水瓶座という皆さんよくご存知の星座名と同じものだから、
ギリシャ文化が古代沖縄に濃厚に入っていたことは疑問の余地がない。
そしてそのアカイヤと赤い国(アカイヤ)、明り星、上がり、明るい、赤いといった日本語が、
すべてギリシャ語から生まれているという事実を、決して見落としてはいけない。
※出典:大学講義録14 29頁
「高度の知性を立証するパーリ語国名」
ツムバを沖縄語とみた大隅語や鹿児島語の人は「ツマ」と発音する。
ツムバは壷のことだから、土器生産が主要産業の国という意味になる。
またこのパーリ語が日本語に間違いなく入っていることを証明するのは、
そのツムバが訛って短縮して「ツボ」という名詞になった可能性が非常に高いことである。
ツンバ→ツンボ(聴覚障害)→ツボというコースだ。
「狗奴」
クノという名詞はバーリ語にはない。
しかし狗奴国があった地域の広域名である熊毛にぴったりの「クマッガ」が、
「邪道」という意味をもっている。
パーリ語は仏教徒たちの用語であって、この熊毛に合う名詞はギリシャ語の kum と共に、
仏教徒と対立していた狗奴国人の自称ではない。
明らかに卑弥呼側がつけて呼んだ蔑称に間違いない。
「斯馬」
この国は、大隅ではなく宮崎県に突出して都城市にある。
国境の最先端として「境界の国」と呼ばれた名残りとみると適確な命名といえる。
その境界の内側は自分たちにとって神聖な「教区」であり「戒壇」でもある。
こうみるとこの名もパーリ語で、その発音は帯方郡使がつけた当て字よりも、
シマという日本語として遥かに強力に残っている。
「己百支」
これは斯馬とは反対に、当て字の音に非常によく合ったシッバチィという単語だ。
パーリ語だったとすると、この奇妙な国名は「繊維産業の国」といった意味だっのだ。
※出典:大学講義録19 25頁
「卑弥呼時代の国名語源一覧リスト・結論」
国名 ギリシャ語の原名 パーリ語の原名 マレー語その他の原名
狗邪韓 kudiao 独立して進む戦士
対馬 tu admes 「慣れた君」
一大 ie 女性 dad 拡張者
末盧 Malla マッラ
伊都 ie 女性 toi 意思表示
不弥 マレー語 Puo Miaoプオ・カリエン人・ミャオ人
投馬 マレー語 tuma シラミ(虱)
狗奴 kuno 犬・狗
「旁国名」
斯馬 SIMOS 低い鼻・サカ人・タタール人sima 戒壇・境界
己百支 Sibullistes 巫女の信者 sibbati 縫う
伊邪 アラブ語 iar dzib シャチ(鯱)
都支 tothen 「ここから!」
弥奴 miyya nu 死を悟る知者
好古都 KOKKOS 穀物・種子
不呼 ミャンマー語 pogoda 仏塔
姐奴 tina 茅野
対蘇 tuide 此処こそ sos 汝 タイ語 tua So 老ソ族
蘇奴 SOROS 土器・陶棺
呼邑 go yayu 牛専業
華奴蘇奴ganoo 輝かす SOROS 土器
鬼 kie 「進め」 Kuvera 多聞天
為吾 GUION 手先 gone 生産 マレー語 guri angon 土器と牧場
鬼奴 kie 進め NOOS 参謀 Kuvera nu 多聞天知者
邪馬 diamao 斬り進む jhama 焼く
躬臣 KION アトラスの柱 DIEMAI 平原 マレー語 kiong dien カタツムリ、蝋燭
巴利 pali 『聖典』=お経
支惟 tieres 鉢巻 ualos 宝石 tidiva 帝釈天
烏奴 ONOS ロバ(驢馬)
奴国 nomas 遊牧民
※出典:大学講義録14 35~36頁
「ポセイドンから普陀落への変身」
これまで詳しく検討してきた通り、飛鳥、春日、大和など旧地名の当て字を
そのまま使って発音だけ変えるという、我が国古代独特の手法の早期の先例が
「百済」のボセイドン→フダラ→クダラ→モズミ(百舌鳥耳)→フジ→
ホズミ(穂積)→モモダリ(桃太郎)→モモダイ(桃谷)などで、
卑弥呼の名乗り百襲姫の「百」も、唯一この百済しかない。
これは4世紀より以前はまだクダラとは読まれず、
ギリシャ語時代のポセイドンへの当て字音「百=ポ」で、
「済」だけを「ダラ」と読み替え始めている。
その理由はソナカ仏教宣布団がマガダを出発して南進し、
前記のマドゥラなど南インドで教化に努め、
スリランカ= Tambapannidipa へ入った Mahinda らと分かれて
ボダラッカ山を聖地としたグループの一部が東へ船出し、
東南アジアを布教しながら南九州までやってきた。
そしてそこに観音信仰の本山を置いてボダラッカ山と名づけた。
その地域の主力が沖縄語人だったので、
母音「O(オー)」のない沖縄発音で「百」の発音が「フ」に変わり、
さらに「済」も「ダラ」と読まれることになり、
不足する「カ山」を新たに補って「フダラッカ山」、
すなわち後の「普陀落迦山」と同じ発音の当て字として使った。
この推理は、その子孫がいまもその古い型の「フタラ」の名を残していて、
この結論の確かさを強く保証している。
※出典:大学講義録20 29頁
「ギリシャ語で書かれた歴史書も実在」
これまで日本神話と呼ばれてきたものが、実は日本最古の史実を書いた『歴史』であり、
それが当然ギリシャ語で書かれていたことも立証している。
なぜならパーリ語やその他の言語に訳されてしまうと、
とうてい元の発音が残らないはずの名詞が全て、
いま見た通り全くギリシャ語のとおりに、漢字に写されているからである。
私たちは、真の原名を容易にギリシャ語名に復元することができた。
これまでは、太安萬侶(おおのやすまろ)が書いたということになっている
『古事記』の序文に災いされて、我が国には『記・紀』の編集当時までは文字記録がなく、
稗田の阿礼といった「語り部(べ)」が、口承したものを筆記して、
初めて『記・紀』のような『歴史書』が誕生した。と教えられ、また信じられてきた。
ところが、以上で『記・紀』以前に『帝王本紀』といった歴史書が確実にあったことが、
しかもその中には、次にみるパーリ語のものと同時に、
「ギリシャ語で書かれた歴史書」が間違いなく実在していたことが証明されたのである。
『日本書紀』の『欽明天皇紀』の冒頭、2年3月の部分の割り注に、
「『帝王本紀』には古字、多く有り」と青いてあるのは真実だったことが、
ここでもまた次々に立証されて、疑問をもつ余地はもう残らない。
※出典:大学講義録23 21頁
「日本の地名によく合うギリシャ地名」
また前回は天照大神の語源がギリシャ語だったことをお話しした。
それを要約すると天照大神の「天 アマ」は
「ギリシャ語 ama αμα 共に同時に」で、
「照す」の漢音はゼウで、「ギリシャ語 Ζενσ Zeus」だから、
天照大神は「ゼウスの大神と共に」という名だとお話しした。
しかし後で考えてみると、それだけでは「大神」という日本語が混じってしまって、
本来のギリシャ語ではないから、一応ご納得はいただけても、
おそらくご不信感が残っていると思ったので、ここでそれを補足させて戴こうと思う。
アカイヤ Ακηαια Akhaia は、すでにご存じの通り、
古代ギリシャの「赤と南の国を意味する国名」だったが、
そのアカイヤには宗教の中心オリンピア Ολνμπια Olympiaがあって、
今もなお、神殿遺跡とスポーツの世界的祭典オリンピックと、
その会場に灯(とも)す整火の採火地・出発点として、全世界の人々によく知られている。
そのアカイヤとその周辺には、
現在も kato(カトー)、
K1avrita(カラヴリタ)、
Killini(キリニ)山、
Xilokastlon(タシロカストロン)、
Ayion(アイオン)、
Mykenae(ミケナイ)、
といった日本語に近い地名があるが、
ご存じの通りポセイドンなど、神話の神名が日本の地名になったものも多数ある。
そのポセイドンの妻は「アンピトリテ」で、地名は南西諸島中にあるはずである。
アンピはアンビだから「奄美(アンビ)」」。
これをアマミと読むのは後世の読替え強制政策のせいなのだ。
※出典:大学講義録24 11頁
「沖縄語・大隅語・鹿児島語の故郷?わかる」
ユリシーズの原話の本当のギリシャ名は
『オデュッセイア=Odysseya Οδνσσευα』であるが、
それを「ユリシーズ」と英語で発音するのは、ラテン語訛りからきている。
主人公の名の綴り ギリシャ文字 ローマ字綴り 発音読み仮名
ギリシャ語 Οδνσσευα Odysseus オデュッセウス
ラテン語 Ulysses ウリ ッセ ス
英 語 Ulysses ユリ シーズ
これでお気づきになったと思うが、
U=ウがO=オになり、ly=りがdy=ヂになるのは
沖縄語と鹿児島語との関係とぴったり同じである。
またセスがシーズになるのも鹿児島語と沖縄語との関係とぴったり同じである。
<鹿児島語はギリシャ語型>、<沖縄語はラテン語型>だが、
ウリッセズにはセ=Seというe=エ音が混じっているので大隅語型。
英語のユリシーズのほうが、より沖縄語に近い。
古代日本への移住者と方言関係の謎が解けてくるのをみる。
また沖縄語がラテン語及びその方言の英語と同じ発音原則をもつ事実は、
「琉球の語源」という大きな謎の答を予想させる。
もちろん充分な研究が必要だが、それは琉球と同じ発音のルキウスが、
同時代の161年にローマ帝画の統治者になった事実と符合するからである。
※出典:大学講義録27 10頁
「アフロディテ(ヴィーナス)は日本語?」
ギリシャの神が語源だということに、まだご納得のいかない方のために、
もう一つ実例をあげておこう。
『古事記』は国生みのあと、さらに生まれた神々をあげているが、
その中に海の神、港の神を生んだ後、
「河や海によって持ち分けて生む神の名」として、
沫那芸(アワナキ)の神(アワナキの神)と沫那美の神(アワナミの神)をあげている。
沫は泡のことである。
ギリシャ神話には有名なアフロディテ Αφροδιτε(英語名・ヴィーナス)があるが、
この名は「泡から出た」という意味である。
この発音を分解してみると
「アフAphw→アフヮ」ro→ロ」「dite→ディテ」で、
沖縄語の「泡=アフヮ」「出て=ディテ」に非常に近い。
中間の「ロ」は沖縄語にはないO音をAに替えると「ラ」。
「アフヮカラ ディテ=泡から出て」と「カ」1音だ少ないだけである。
またビールなどの発泡酒の栓を抜くと、泡が溢(あふ)れ出る。
アフロディテは「溢(あふ)れ出て」という日本語により近い。
語源だといってもいい。
これは大量の日本語とギリシャ語の共通語が実在するから、
「よく似ている」のではなくて「もとは同じ言葉」である。
だから沫那芸(アワナキ)の神(アワナキの神)と沫那美の神(アワナミの神)は
「アワの王(キ)と女王(ミ)」で、
アフロディテとその夫の夫妻の神を指すと同時に、
阿波・淡の支配者夫妻という意味もあるのである。
※出典:大学講義録28 20頁
「高句麗=根・足・帯はギリシャ語名への当で字」
孝安天皇には根子がないのに、続く3天皇と同じく高句麗王が加えてあるのは、
足・帯がこの根と同じく「タル・タラス・タラシ」と読まれて、
景行・成務・仲哀・神功皇后4代と、飛んで清寧天皇、
また飛んで舒明・皇極(斉明)・元明・元正の4代についていているので、
この孝安天皇も「根子天皇」に入れる必要があるのである。
この「タル・タラス」が、実は高句麗の別名だというお話しを、ここでしておくと、
この問題は疑問が残らなくなる。
もう一度、垂仁天皇が伊佐知(チ)で、これは伊佐那岐(キ)の沖縄発音。
彼が行(い)った冥界は「根の国=高句麗」だったことを思い出して戴きたい。
なぜならその冥界・根の国をギリシャ神話では「タルタロス」と呼んでいるからである。
一見しておわかりのように「タル・タラス」は、
このギリシャ語の名への当て字で、略名だったのである。
これで高句麗王を兼ねていた天皇は、孝霊天皇以外にもいたことがわかる。
この名乗りを
文化勲章受賞者”つだ・そうきち=津田左右吉”氏と
その後継者水野祐氏、井上光貞氏らは
「欠史8代の天皇の名は、7、8世紀に奉った国風諡号(おくりな)の
元明・元正型と著しく類似している。
これは『記・紀』成立ごろ作られたものであることを、ほぼ確実に示している」と抹殺した。
そしてこの説が戦後の文部科学省を支配してきたのである。
※出典:大学講義録29 19頁
「世界最古の総合病院・デルポイのアポロン神殿」
それこそが信仰と「医療技術」を融合したピュテーアの仕事だった。
この大蛇に例えられた名詞ピュトンのギリシャ語本来の意味は「腐敗(腐敗)」である。
大学講義録28号の「みずはのめ」の解説で、蛇は尿や汚物の化身だと考えられていたと、
お話ししたとおりなのである。
これを日本式に考えるとピュトンは
「腐(くさ)る・臭(くさ)い・糞(くそ)・燻(くす)む」を意味していて、
八俣大蛇がもっていた剣の草薙の剣(くさなぎのツルギ)とは、
持ち主を示す「腐の王(クサナギ)の剣」だと見るほうが、ずっとふさわしい。
日本武尊が焼津(やいづ)で、
燃える草を斬って脱出したという話は全てが不合理だし、
彼は静岡などへは行っていないから、
この話は当て字に合せて作った故事(コジ)つけだとしか考えられない。
蛇は穴の中に住む。
大蛇ならその穴も大きくて洞窟と名が変わるだけのことである。
腐敗は日当りの悪い暗湿な場所で進行する。
病気もそんな腐敗の仲間が、日の当たらない体内で繁殖して、捨てておくと進行して悪化する。
その時黒の洞窟を太陽神アポロンが光線の矢で貫ぬくと、
洞窟は射抜(いぬ)かれてポッカリ出口が開き、太陽光が注(そそ)ぎ込み、
通風も良くなって、「腐敗(ピュトン)」は死んだ。
これは日光と通風によって環境を浄化し治療する古代医学の神話化で、
アポロンが医術の神でもある理由なのだ。
事実、デルポイの神殿は、患者たちに流れで水禊(みそぎ)をさせ、
薬草と日光浴とスポーツと精神療法の祈りで治す、世界最古の総合病院だった。
※出典:大学講義録29 25頁
「セットになった「サカ~サタ」は何語か?」
こうして史実の時代が確定でき、事件の内容が完全に把握できると、
『紀・紀』が書いている仁徳天皇系皇朝の歴史や、
『三国史記』の疑わしい記事も、批判しながら取捨選択できるようになる。
その意味で「サカ~サタ」は実に適当な教材を提供する
偉大な文化財だったことがよくおわかり載けたと思う。
だがこの講義は学説発表の場ではない。
着眼点と疑問の解決システムをお教えする講座である。
あとはご自分で原典から史実をご発掘い戴きたい。
ではサカ~サタは何語だったのであろう?。
塞の字は閉塞(へいそく)、城塞(じょうさい)と、
漢音ではソクとサイと発音するが、優婆塞(ウバサカ)でわかるように「サカ」とも読む。
『日本書紀』では塞の字を使った塞(さい)の神が、
伊弊諾(イサナキ)尊が黄泉から逃げる場面に出てくるが、この神名は猿田彦の別名である。
しかしサカには釋迦を指す使い方もある。
卑弥呼が死んだ時、伊都国に滞在していた張政の「塞曹掾史」という肩書きも、
当時、中国に対する強い外圧の一つだった
「塞(サカ)族=釋迦(シャカ)族=スキュタイ人」を
相手にする外交官を意味しているから佐賀は釋迦(シャカ)である。
だがこれだけしか念頭にないと、サカはスキュタイ人の居住地だということになり、
それと向かい合う地点のサタの意味がわからなくなる。
サカ~サタはセットになっていることで重要なのだから、
その理由が理解できる語源を、伊都国の佐賀とは別に、みつけることが必要なのである。
※出典:大学講義録31 7頁
「サカの語源はギリシャ語のサコス」
日本語のサカは、ウパサカでわかるように、パーリ語の特徴をもっている。
また佐賀市が伊都国の跡にあり、卑弥呼当時、仏教中心地で首都だった事実から
「サカ=釋迦、イ=王、ト=都で、釋迦王都(サカイト)の名残とみると、
サカイの意味もわかり最も合理的である。
塞は小さな砦のことで、大きな城や小さな砦を総括した城塞ではないから、
伊都国の跡の佐賀は「塞=サカ」ではない。
ではそれは大分の佐賀の関でも同じなのだろうか?。
ここは同じ「佐賀」の文字が使ってあるが、意味は異なっている。
それは「盾の類・防衛する・楯形地形・関所」などを意味するギリシャ語の
「サコス σακοζ sakos」に一致する。
佐賀の関は小さな半島で、しかも四国へ渡海する最短距離に、対岸の佐田岬半島がある。
交通の要所であると同時に防衛の要所でもある。
とすればそこに関所が置かれるのは必然で、今なお佐賀の「関」という名を保存して、
ギリシャ語のサコスに完全に合うのである。
我が国で「塞」をサクと読み、柵を塞の意味で使うのは、
このギリシャ語が変化したものとみる以外にない。
サコスは複数形だから単数形ならサコ、
南九州語では遺幅が急に狭くなった道を「迫 サコ」という。
これは沖縄では「サク」になるから、
サクという発音をもつ柵の字が当て字として使われたことは、
他の当て字群の実例からも疑いの余地がない。
※出典:大学講義録31 8頁
「坂井・堺・坂名井は「釋迦王(サカイ)」の都」
これでは一つのものに二つの語源があって、どちらが正解か迷うが、
それは多言語国家の時間差の結果で、真相は不可解なものではない。
まず「王」を「イ」と呼ぶのはマレー語である。
今の私たちは、これまでお話ししてきたことでおわかりのように、
複数の言語が混入しているのに、それらの語源がどこの言葉か知らずに、
全部日本語だと思って使っているが、卑弥呼当時も同じだった。
壹国(イチマ)を伊支馬(イチマ)という人と、
壹国(サツマ)(マレー語)=薩摩と呼ぶ人とが混じり合って住んでいて、
便利さえよければ区別せずに使っていたのである。
「時間差」というのは、佐賀にいた当時は首都人だった倭(ウワイ)人が、
佐賀の関に移り、四国へ渡った時代には、衰えて単なる釋迦教徒に過ぎなくなっていた、
という時代差なのである。
そこではもう、サカイとは呼んでもらえなかったが、
大阪府まで進出して百舌鳥耳(モズミ)原皇朝を樹立した当時は、
昔に勝る都をもち、
堺都(サカイト)=釋迦王都(サカイト)と呼ばれたから後世までサカイの地名が残ったのである。
この見方だと、種子島の坂井も、また継体天皇の出身地「坂名井」も、
ともに「釋迦の(ナ)王」を意味する地名だったと理解できるようになる。
念のためパーリ語をみるとsakaは「自分の」という形容詞。
サガはない。
マレー語 sakaは「柱・血統」、sagaは「木の名」で、どちらも無関係である。
※出典:大学講義録31 9頁
「サガの複合語源と偉大な文化財=鹿児島県のサカ群」
サガに近いギリシャ語に
「サガリス σαγρισ Sagaris 武器の片刃(かたは)の斧(おの)・矛(ほこ)」がある。
堺が中近世の、我が国最大の武器産地であり、種子島も古代から鉄器産業の先進地だったし、
火縄銃が「種子島」という代名詞で呼ばれていた事実と、
これもまたその最大の生産地が堺だった事実からも、
歴史の背後に潜む坂井と堺の関係の深さが推測できるが、
サカ・サガの語源としては、サコスにはかなわない。
しかしいずれにしても語源はギリシャ語である。
いま鹿児島県にあるサカは謎に答を提供してくれる。
種子島以南では大島郡の喜界町(鬼界が島)にだけ坂嶺(サカミネ)がある。
ここは江戸時代の記録でも筋骨逞(たく)しく金髪、赤髪・裸体の鬼=(ギリシャ人)が住む
とある島である。
「サカの初め」と読める坂元は大隈、薩摩両半島の中心地、
大隈町と鹿児島市とに大地域名があり、
釋迦会(サカエ)と読める「栄(サカエ)」は種子島の首都・西之表市にある、
ここは良港なので佐多へ船出したサカイはこことみてもいいが、
大隈半島の南北、曽於郡末吉町と垂水市と、
薩摩半島の南北、串木野市と阿久根市にも「栄(サカエ)」町が配置されている。
だが中種子町の坂井に対応するのは、出水市の「境」町である。
種子島は百済「ホセイ」。
出水は「イヅン=イドン」。
この2か所にだけ、きっちりとサカイが配置されている。
卑弥呼当時の文化財地名が、今なお、こんなに整然と歴史を保存しているのである。
※出典:大学講義録31 10頁
「サタの語源をパーリ語と断定できる理由」
次はサタだが、ギリシャ語にもマレー語にもない。
パーリ語の sata は「百・正・善・法・念」で、
卑弥呼の名乗りの倭迹迹日百襲姫の百(=百済)に合い、
佐多半島が百済なら続く曽於が襲の国(蘇奴国)で、
百襲姫の名乗りが一層詳しくわかることにもなる。
また佐太の大神とは「正法、正念の王」ということで、
本来は仏教指導者だったが敗北後に「神」にされたものとみると、
前後の関係がさらに浮き彫りになるし、
「正念場(しょうねんば)」という言葉は、
追い詰められた状況で覚悟をきめることをいうから、
嵯峨から出雲へ大脱走を試みた佐太の太守の心境そのものである。
本来はそんな状況とは全く無関係な仏教用語の「正念」が、
こんな異常な意味に使われるのは、
百済倭国の敗走時にこの言葉が生まれて今まで伝わった、
超大型事件の記憶以外にはありえないから、
語源はこのパーリ語だと断定していい。
サタの最南端は沖縄県宮古郡伊良部町の佐和田で、
これは「サーダ」と沖縄式発音で引き伸ばされたもの。
また沖縄本島に国頭(くにがみ)郡・国頭村・佐手がある。
沖縄にはサカ・サガはない。
同様の離島部には、鹿児島県西部沖の甑(コシキ)島の首都・里(サト)がある。
新潟県の佐渡島(サドがしま)と山形県の寒河江(サガエ)市とが対称的な位置にあるのと、
この里と鹿児島県の栄(サカエ)町群とが発音、
位置関係とも共通なのは、見逃せない研究対象である。
※出典:大学講義録31 11頁
「一般名詞で史実を知る法= 例「網(あみ)」」
出雲と切っても切れない日本語の名詞に「網(あみ)」がある。
地名が多くの史実を記録していて、歴史の復元に欠かせない重要文化財であることは、
もう充分にご確認戴いているが、地名以外の名詞もまた同様の働きを内蔵している。
その例として「網」のお話しをしよう。
網とは、現在では様々な意味に使われていて、ちょっと一言(ひとこと)ではつかみ難いが、
古代には「魚を一網打尽(いちもうだじん)にする道具」だった。
だから、「アミ」という日本語の語源は?というと、
海人たちの生活を支える生命(いのち)の親、尊い神聖な武器だったのである。
その名は海人たちには尊敬に値いする名が選ばれているはずである。
それは彼らが海神ポセイドンを、自分たちの固体名に選んで国名や地名や姓にして、
今まで用い続けているように……。
だから「網」はポセイドンに関係のある名だった可能性が高い。
ポセイドンの妻、海の女神の名は「アムピトリテ Αμπιτριτε Amphitrite」で、
古代の「ピ」音は沖縄語では「ビ」で「アムビ」だ。
南九州語ではさらに「ミ」になり短縮するから「アムミ→アミ」になる。
網はこの女神の名の前半が、ちょうどポセイドンの名の前半・ポセイを百済として使ったのと
全く同様に使っていることになる。
では、それはただ網という道具名としてだけしか残っていないのだろうか?。
ポセイドンは地名や姓を沢山のこしているのに…?。
※出典:大学講義録31 12頁
「倭国と共に移動し分布した女神名(アムピトリテ)の地名」
その手掛かりは女神の名の後半「トリテ」にある。
東京都からJR常磐線で北東に20kmの利根川北岸に茨城県取手(トリデ)市があり、
その北東20kmに阿見(アミ)町(稲敷郡)がある。
取手市は今は「トリデ」と発音しているが、
その文字は幕末まで下級警官の呼び名だった「取手=トリテ」と同じだし、
網はそれを使う取り手(漁師)がいなくては役に立たない。
阿見と取手はワンセットになった名前だから、
間違いなく「アムピトリテ」を守護神にした一族の居住地に、
南海から海人たちが運んだギリシャ文明の遺産なのである。
ではそれは、いつ?生まれたのか?。
その地域の大地名になっている茨城(いばらぎ)がその時間帯を物語ってくれ。
なぜならそれと同名だとわかる「茨木(いばらぎ)」は、
大化改新まで倭国が都(みやこ)していた大阪府北半部の重要地点・茨木市にあって、
その経済環境もどちらも大河に沿った古代の水郷地帯である。
また茨木市には今も穂積・大住・藤の里=百済(ポセイ)。
泉、泉原=出雲(イドン)があり他にない不思義な地名「安威(アイ)」がある。
これは継体天皇陵の藍野(あいの)と共に卑弥呼め語源である「愛(アイ)」でもあるが、
「アムヒ」が河内弁では「アンイ」になるから、やはりアムピトリテの遺物でもある。
すると同市の十日市・戸伏という地名もトリテ→トイチ→トーイチ→トフシと
変化した遺物だとわかり、阿見と取手は660年代の倭国の大化東遷の遺物だと断定できる。
※出典:大学講義録31 13頁
「ギリシャ語の名が残したもの」
出発点 原語 訛り 意味 転訛
① ギリシャ語αγαπη Agape→沖縄語 アガフイ 愛(聖い) アガム 崇拝
② 大隈語 アカイ 赤い・明かり アカシ 明石・証
③ 薩摩語 アケ 赤・朱・明 アゲイ 上井・安芸
④ 標準語 アカ 赤・垢・銅 アカ 閼伽
⑤ ギリシャ語Αμφιτριτε→種子島語アーイ 愛 →薩摩語 エ 可愛・藍
⑥ パーリ語 pemaka →ピーミャ―グァ ペマカ 愛・慈悲 卑弥呼 姫・姫講
⑦ 祖国名 Ακαρνανια Akarnania アカルナニア 明姫 と 難波
ギリシャ語 Ακηαια Akhaia アカイヤ 赤と南を意味する古代ギリシャの地名
⑧ 『古事記』 軽島 明宮は カルシマ アカイヤ 応神天皇皇居 赤(南)の家
大隈語 鹿児之国 明 い家 家 カゴシマ 鹿児島
アカンミヤ
阿神御家 = 宮
オオジン ン
ギリシャ語 オリンピア →沖縄語 ウジンミヤ Ujimmia 倭人(応神)・宇治の宮
ウジン ウチ
ギリシャ語 Ολνμπια Olympia 大神宮 Olympia 鹿児島神宮・宇都の宮
※出典:大学講義録31 30頁
「世界の先進文明をもった父祖の偉業史」
これで古代ギリシャと倭国連邦との関係、その構成国、
さらにそれらと切っても切れない『四神』の真相が、
簡単な略文ながら、的確にご理解戴けたと思う。
ついでにお話しすると、虎の「トラ」という発音も、
古代大ギリシャ帝国の中の1国の、トラキヤ=虎王国(トラキヤ)からきている。
これはもうよくご存じの通り、コルシカ=黒鹿(コルシカ)島や、
その南のサルジニヤ=猿人国(サルジニヤ)、シシリヤ=獅子人国(シシリヤ)(今のシチリア)、
イオニヤ=魚人国(イオニヤ)諸島らと
同じケースであって、一つ二つだけが偶然似ているといった単純なものではない。
これ程の量の証拠群の価値が判定できないとしたら、
それは気の毒ながら脳に欠陥があるのである。
この例では「人」をいろいろに発音してあるが、ジは「日本人」のジン、
ニは「他人」のニンで、私たちが日常使う発音であり、
リは「日本人(リーペンリ)」のりで、
今の北京(ぺキン)語=古代の夫余(=倭・高句麗・百済と同族)語である。
このことから、こうした発音の違い「方言差」の原因は、
地中海の方言差にあったことも、これでよくわかる。
世界の比較言語学も古い殻を脱ぎ捨てて、
21世紀にふさわしいものに羽化する必要があるのである。
このリストで、もう一つ重要な問題は、卑弥呼一族の遠い故郷「アカルナニア」と、
その間接的な後継者・応神天皇の皇居名「アカイヤ」の違いである。
これは同じギリシャ出身者でも出身地の違いが、
こうした違いになって現われたとみる人もあると思うが、
今見た通り日本語との共通名が非常に多いのだから、
古代ギリシャ語は日本語で理解できるはずであり、
アカルナニアとアカイヤとはほとんど同じ意味をもつ国名だったと考えると、
この2国名はもとは同じ名前で同族だったが、2国に分かれたために、
意識して区別したのか、地域差等によって、少し変形したのだと見たほうが合理的で、
それだと卑弥呼と応神の双方が、明り、赤い、大神、内、宇治など、
多数の表現や名詞を共有している理由も納得が行くが、
これを全く別の、縁もゆかりもない2国名だったとすると、
このリストの一連の名詞は、全て偶然にも、奇跡的に、うまく相似した神秘な名詞だという、
奇妙な説明が必要になる。
だから私はこの2国は同族で、
むしろ「アカルナニア」へ「明の宮(アカルナニヤ)」と当て字したものだと理解している。
それは前にお話しした「ニワトリ」を「ミヤドリ」と発音する沖縄語だと、
「ニヤ」が「ミヤ」になる可能性があるからだが、ご参考までにお話しして断定せずにおく。
ウジンミヤ=オリンピアは、
大学講義録24の12頁から講義録25の28頁の間で詳しくお話し済みで、
省略させて戴くが、
『記・紀』神話を根幹にした神社神道の根底には、ギリシャ神話があることを、
さらによくご確認戴きたいし、
我が国の建国史(高度政権国家成立史)は、私たちに生命を与えた祖先、
地中海からインド亜大陸に至る世界の先進文明をもった父祖が、
この列島に到着して苦闘して築いた国文化の努力の歴史だという事実を、
強くご認識戴きたい。
※出典:大学講義録31 35~36頁
「八幡と日本の語源は同じ「イオニヤ人」」
「言語の分類」 「意味」 「スペル」 「発音」 「語根」「スペル」「遺物」
古代ギリシャ語 イオニヤ人 Iavones ヤポーネス ヤボン JAVON 日本
古代ギリシャ語 イオニヤ人 Iaones ヤオーネス ヤオン Yao 八尾
古代ヘブライ語 イオニヤ人 Yavan ヤパン (中国語)野蛮
古代ペルシャ語 イオニヤ人 Yauna ヤウナ 「遺物」
サンスクリット語 ギリシャ人 Yavana ヤバーナ 八幡・山名
パーリ語 ギリシャ人 YoNA ヨーナ 与那国・与那原・与那嶺
パーリ語 ギリシャ人 Yonaka ヨナカ 米花、夜中、世の中
パーリ語 ギリシャ人 Yanaka ヤナカ 谷中、家中、梁川、柳川
中国語 ギリシャ人 Yaban ヤパン 野蕃・野蠻
日本語 ギリシャ人 Yaman ヤマン 八幡・山之口(ヤマンクッ)
(鹿児島の地名)
マレー語 父 Yaman ヤマン (Sanguil島語)
ジャワ語 王・陛下 Yamtuan ヤムトワン Sangulm 陛下
※出典:大学講義録32 13頁
「ウッタラと銅鐸が残した多数の言語遺物」
「銅鐸」というのは現代の考古学が仮につけた学名だから、古代からあった名前ではない。
古代には何と呼ばれていたか。
ウッタラが使った言葉はパーリ語だから、
金属製で宗教用の打楽器には銅鑼(どら)、鐃鈸(ねうはち)、鼓(つつみ)などを
意味する alamba アーラムバ、alambara アーラムバラ=太鼓などがある。
ところがalambati アーラムバチと変化すると、
「ぶら下がる・懸(か)ける」という意味になる。
銅鐸はその上部の形からみて、間違いなく「ぶら下げる」構造になっており、
下に置いたのでは鳴らないのは明白である。
そしてアーラムバチの「バチ」は、打楽器を打つ「ばち」と同じで、
鐃鈸(ねうはち)の「ばち」でもある。
また昔の僧侶などが、門(かど)づけをする際には鐘を叩いて鳴らしたが、
それを鐘叩きとはいわずに「鉢(はち)叩き」といった。
このハチもまたウッタラ時代のアーラムバチの遺物だとみられる。
こうみてくると植木鉢は銅鐸を逆さにした形と共通牲が多く、
鉢というのは底のある食器だけとは限らないことに気付く。
そして打楽器というものは「打ったら鳴るが、
打たねば鳴らない」その「打ったら鳴る」銅鐸がウッタラの持ってきた聖器だったのだから、
「打ったら」という日本語の語源がこの「ウッタラ」に結びつく。
銅鐸以前には打楽器は見られないから、これらの複数の日本語は、
ウッタラと銅鐸が残した言語遺物だったとみて無理はない。
※出典:大学講義録34 22頁
「卑弥呼がもっている名 総検リストまとめと追加」
ではこれで正確な「卑弥呼の生涯」の描写ができるだろうか?。
まだまだそうはいかない。
ではどれくらいの調査が必要か?。
それは一つずつ説明していたのでは容易なことではないから、リストにしてご覧にいれよう。
出先点 原語 訛り 意味 転訛
ギリシャ語 Αγαπη Agaph アガペ→沖縄語 アガフィ 神聖な愛 アカヒ 赤日
大隈語 アカイ 明り アカシ 明石
薩摩語 アケ 赤・朱 アケヒ 安芸
パーリ語 pemaka ペマカ 愛 卑弥呼
中国語 アイ 愛 薩摩語エ 藍・可愛
ギリシャ語 Ακηαια Akhaia アカイヤ 赤と南を意味する国名
オリンピア Ολνμπια Olympia 古代アカイヤには宗教の中心地オリンピアがあった。
周辺にはKato,Kalavrita,Killini山,Xilokastlon
カトー カ ラ ブリタ キ リ ニ 山 クシロ カ ストロン
Katakolon,Aiyion,Mycenae,
カ タ コ ロ ン アイ オン ミケナイといった地名がある。
応神天皇皇居 軽の宮 は 日本語 アカルの アカイミヤ への当て字
阿鹿児之国 明 御家
軽の宮 は ×カゴシマ アカイ ヤ
カゴシマ 明 宮
イ 「卑弥呼の語源」
パリー語の「ペマカ 愛、慈悲」をもとにギリシャ語を探すと同じ意味の聖なる
「愛」は「アガペ」だが、これは沖縄語では「アガフイ」になる。
その発音は前記リストのように、
大隅語、薩摩語、標準語と次々に靴化(てんか)するにつれて、
生まれた新しい発音が全て日本語として意味をもつうえに、
日本の建国史に直結する地名などとして生きている。
これは彼女の幼名が間違いなくギリシ語の
Αγαπη Agaph アガペだったことが
真実だという不動の強い証拠である。
ロ 「大日霎貴」
(阿加流比売 大 日 流 比 売)
ウ カ ル ヒ メ
大 日 霎 (霊女) 貴
「ナムチは悪魔」
これを在来の学者は理由もなく、
「オオヒルメノムチ」と読み、そう教え続けて平気でいたが、
その理由は「大国主=大汝持 オオナムチ」の語尾の「ムチ」を、
「敬称語尾」と信じこんでいて、それと同じものだから「貴」も「ムチ」と読むのだと
江戸時代の説に疑問ももたなかったお粗末な状態だったからだ。
すでにご存じの通り、肝心の論拠であるその「大汝持 オオナムチ」は、
日本語ではなくパーリ語の名詞で、ナムチは敬称語尾どころか、
「悪魔」と罵倒する蔑称語尾だった。
では「大日霎貴」の貴は一体なんだったのであろうか?。
これはウカルヒメキと読んでもオオヒメキと読んでも同じで、
「ヒメキ」は「姫木」にぴったり合う。
「姫木」は卑弥呼「ヒメコ 姫木(コ)と呼んだ後世の大隅人の当て字だから呼び捨てで、
絶対に敬称ではない。
だから、それが老卑弥呼政権が崩壊したあとの名詞なら、
在来説通り「ムチ」と発音すのだと仮定しても、
「ナムチ」は「悪魔」という蔑称をつけられていることになる。
それを「ムチという敬称だ」という全く反対の解説は絶対に容認できない。
どうしてもそれは敬称だとするのなら、
もう一つの仮定として、
伊弉諾(イサナキ)の尊・伊弉冉(イサナミ)の尊の敬称語尾「キ・ミ」の
うちの「キ」と「貴」は同音になる。だがこの場合は疑いなく「キ」は男性語尾である。
「オオヒルメ」は逆に女性であって、
この場合は老卑弥呼を指す名だから絶対に男性ではない。
この敬称説もまたどう工面してみても成り立たない。
ハ 「天照大神 ゼウスの大神と共に」
照の漢音はゼウで Ζευα はギリシャ語のゼウス神。
ギリシャ語 ama αμα 共に 同時に という意味
しかしこれでは大神は日本語または中国語が混じって、本来のギリシャ語ではないから、
意味は通じるが不信感が残る。この「大神」もまたギリシャ語への当て字だったのである。
ギリシャ語 Ακηαια Akhaia アカイヤ 赤と南を意味する国名
ギリシャ語 Ολνμπια Olympia 古代ギリシャのアカイヤには宗教の中心地
オリンピアがあって、今も遺跡とオリンピックで世界中の人に知られている。
そのアカイヤその周辺には、現在も
Kato カトー
Kalavrita カヴリタ
Killini山 キリニ
Xilokastlon クシロカストロン
Aiyion アイオン
Mycenae ミケナイ
といった地名がある。
このオリンピアは大隅語ではウジンビヤになり、
それを薩摩語では「ウジンミヤ」と発音するから、
これに漢字で当て字すると「ウ=大 ジン=神 ミヤ=宮」になる。
大神宮とは「オリンピア」への当て字だったのである。
また「ウジ=宇治 ン=の ミヤ=宮」と書けば伊勢神宮のある宇治山田の
「宇治」がどこからきた地名だったかもわかる。
これで天照大神のもとのギリシャ語は
αμα Ζευα Ολνμπια ama Zeus Olympia
アマ ゼウス オリンピアだったことが完全にわかった。
その証拠が今なお伊勢で使われている「天照大神宮」という名詞で、
それは大隅語や薩摩語に訛る前の古代には、
「アマ ゼウス オリンピア」と発音されていたのである。
さきに大神はパーリ語だとお話しした。
今見た大神は「大神宮」として書かれたものの中の「大神」であることを、
よく区別して戴きたい。
文字は同じ大神でも、2種類の語源があったのである。
これは不思議なことではない。
日本語は従来の説が唱えていたような「孤立語」ではないから、かなりの包容力をもっている。
特にギリシャ語とインド語とには共通点が多いから、こうした転用が容易なのである。
それを例えれば方言の中で言葉を選び、さらに方言化して使っている。
といえる。こうしたことは、全然無縁の言語間では起こらない。
日本語がギリシャ語やパーリ語でできているという証拠だ。
「ウジ」は宇治と書いても迂遅と書いても「ウチ」と読める。
沖縄は「ウチナー」だから、これに国を意味する語尾の「ナ」がついたもの。
ニ 「天照大日霎尊」 ギリシャ語 ama αμα 共に 同時に ハ+ロ
(光り輝く パーリ yasossimant ヤソシマント 八十島)
(光り輝く パーリ akasati アーカーサチ 赤幸 明り射し)赤から発展した語源
(テラ パーリ tela テラ 油 大隅語 テジャ) テラス への発展理由
(照らす パーリ teja テジャ) テラス への発展理由
(照 パーリ their チリ 長老尼) テラス への発展理由
「ソナカとの出会いと結婚」
ホ 神
へ 神石 石 パーリ amhan アマ・アマノ (これはアマを「石」と聞き違えた)
ト 白石 白 パーリ odata オダ一夕 (シラは新羅の誤解)
白 パーリ seta セタ
チ 比売語曾の杜の神(卑弥呼尊)パーリ pemaka ぺマカ 愛 ギリシャ Αγαπη Agaph
比売許曾の (姫木王尊=ヒメキョオソン)
比売碁曾社(難波・阿加流比売は那覇・大日霎 豊国は ホ=百・穂・日)
リ 赤絹 (新羅人が奪う。取られたのは村人)
(赤 阿加流比売のことを誤解)
(赤幸 パーリ akasati アーカーサチ 光り輝く)
ヌ 赤織りの絹 (新羅人は王子自身の話)
アカリ= 阿加流 明り
ル 赤玉 (新羅に阿具奴摩という沼)
クヌマ→クルマ→高句麗
玉 パーリ gula グラ (Sk.guda グダ)
パーリ mani マニ クダ
(グラは大隅語クダ、下、馬、玉が混乱)
ヲ 阿加流比売 (オ大 力日 ルメ 流 売 霎)
「親子関係」
ワ 前津見 (多遅摩之俣尾 之 女)ヒメ=之女=シメが語源 大隅語
種子島 マタイオン
サキの女サキはサチ→赤幸 津見は出見 Devi 王妃
力 麻多鳥 (但馬の出島の人・太(ふと) 耳(に)の娘)
(大倭根子日子 賦斗迩 孝霊)大山 都根子 彦
Mataion マタイオン ギリシャ語 空しい タネガ ヒコ
「結婚とソナカの死、その後」
「仲哀天皇紀」
ヨ 気長 足 姫・神功皇后
ソナカティヒメ ソナカ長老尼
夕 照り tberi テリ 長老尼 パーリ
「仲哀天皇紀」
レ 息長 帯 比売=息長津比売=神功皇后
オキナガ
ウチナ
沖 縄
「天の稚彦」
ソ 下照姫 sita シタ 微笑 パーリ
(シタ 下 bettba へッター パーリ)
( 大隅語 ヒタ は 下)
ツ 照姫 their チリ 長老尼 バーリ)
ネ 馬 kuda クダ 馬 マレー語 (ウマー神に仕える輝く巫女)
ナ 高姫 一書の誤入
ラ 稚国玉
「天の若日子」
ム 天照大御神 天のゼウスの大女(ミ)神、大妻(メ)神
(出見 devi 女神・皇后 パーリ)
「老 後」
ウ 倭 迩迩日百 襲姫 孝霊天皇紀
ヰ 夜麻登登 母母曾毘売命 孝霊天皇紀
倭 迩迩日百 襲姫 崇神天皇紀
これだけの準備がととのって、
始めて次のようなノンフィクション文学風な論文が書けるのである。
通俗作家のさく小説との違いをよく判別して戴きたい。
あなたの研究発表にぜひ活かして戴きたい。
※出典:大学院講義録03 23~30頁
「ギリシャ神話とパーリ語が生んだ日本語」
こうした事実が大量にある以上、
より一致している「淡路島」がアフロディテへの非常に完璧な当て字であることは疑いない。
淡は今、アワと発音している。
アワは泡でありアフロディテが泡から生まれたという神話の伝えにもまた合っている。
泡をアワと呼ぶ日本語は、この神話が存在しなければ生まれなかったのである。
そしてそれは淡路島に隣接する阿波(アワ)の国名にもなっているのだ。
例の天皇たちの漠風諡号をつけた淡海三船(アフミノ・ミフネ)の姓をみると、
この淡は振り仮名はアフだが、その発音はオーと聞こえる。
これはなぜだろう?。
これもパーリ語のせいなのである。
Avakasaとokasaとは空間・隙間・全地域といったスペースを意味する全く同じ言葉で、
アバ→アマと、空・天を意味するアマや、傘・笠という日本語の語源になった言葉であるが、
avakkantiとokkantiも、どちらも降下・顕現といった、同じ意味をもつ言葉で、
avaとoが同じものだとすぐわかる。
同様の単語は他にも多数あり、
その全てが語頭にくるava-とo-が同じ意味でただ発音だけが違うだけである。
このavaは日本語ではアワ。それはoオーでもある。
淡の字をアワと読んだりオーと発音したりするのは、
このパーリ語のせいだということがわかる。
当時から我が国は、現代と同じく「外国語活用国」だったのである。
※出典:大学院講義録06 30頁
「もう1つギリシャの神名を使った東西南北の国名」
ここまでくると、その五彩圏と大国主の関係を熟考しなくてはならない。
五彩圏の国名はギリシャ語がそのまま日本語になっていたが、
その「東が青、西が白、南が赤、北が黒」の配列は、
現存する古代ギリシャ地名がもとになっていた。
ところが、もう1つ、ギリシャの神名が基礎になったものがある。
それがわからないと、応神天皇の全てがわかったとは言えないのである。
大国主の語源はウラノスだということはお話しした。
この「ウ=大」は別の日本語では「大=オオ=アウ=青」で、青木をオオギと発音する。
オオはまた倭でもある。
青は東、すると西は?。
西はシレノスである。
「白い」を南九州語で「シレ」というからシレノスは「白主」である。
これは沖縄語に訳すと「シラヌシ=新羅主」になる。
南は赤だが南九州語では「赤い」を「アケ」という、
天武朝の年号「朱鳥」をアケミトリと読んだのは天皇家が南九州人だった証拠である。
この名はアケロオスに合う。
これは沖縄発音ではアカルウシで「明る大人」とも「赤ヌ御主」とも書ける。
これは応神天皇の皇居が「明宮」なのは南国を意味し、
その当て字の「阿鹿児と軽」はまた、
赤子と「鹿児=カグ=赫=輝やく」で
「輝やく国=赫之国(シマ)=鹿児島」を意味していたのである。
これに対する北国は黒の国=高麗・句麗でクレ。
標準語ならクロだから語源はクロノス=黒主だったのだ。
※出典:大学院講義録15 30頁
「門松の語源はギリシャ神話のカドモス」
では「門松」は、どんな事実を記録しているのであろうか?。
それを門飾りにするのは、ポセイドン族=海人族=百済人の行為で、
それは国民が国旗を掲げるのと同じものであるといえる。
ではそれを日本語で「カドマツ」と呼ぶのはなぜ?だろうか…?。
これもギリシャに語源があるのではないかと、精密に捜査し検討するのが、
言語復原史学の原則である。
するとカドマツに転訛する名詞がギリシャ神話中にみつかる。
カドモスである。
この名はギリシャ人が最初に土着した琉球地区では、母音のオがないために、カヅムスになる。
これは南九州語に転訛すると、
ヅはドに戻り、ムはマになり、スはツと区別のつかない「ッ」になるからカドマッになる。
そして門松君はまさにその通り「カドマッ」と呼ばれていた。
彼は気づかぬまま故人になったが、彼はギリシャ語で「カドモス」と呼ばれていたのである。
この語源がなければ、門松は決してカドマツとは読まれず、
モンマツと発音されていたはずである。
関西語では戸外を「カド」というが、それは門を意味しない。
「カドで遊んで来(き)」というのは広い戸外で遊んでこいという意味なのである。
カドモスとは、どんな人物なのだろう?。
我が国では、そんなに有名な存在ではないが、ギリシャ神話では、
大きなページを占める重要人物である。
※出典:大学院講義録16 9頁
「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語」 講義録(院)16 17
誤解はないと思うが、念の為に申し上げておくと、
以上の一致点はその名詞のギリシャ語の「意味の部分」ではない。
ギリシャ語の名前の「発音の部分」が、日本では日本語として別の意味をもったのである。
これはその名詞が我が国に入ってくる前には無かった言葉が、その名詞が移住してきて、
別の意味をもつ新らしい名詞にに生まれかわったのである。
この考え方が正しいかどうか検討するには、どうすればいいか?、
それもお話ししてみよう。
ハルとセットになる日本語は夏、秋、冬である。
春がハルモニアが語源だとすると、他の3つはいっ生まれたのか?。
それは古来、日本列島に土着していた先住民の縄文人が、
すでにもっていた言葉=原日本語だったのであろうか?。
ナツは娜津(なつ)と、アキは安芸(あき)と、フユは夫余(フユ)と同じ発音をもっている。
暑い季節は南、寒いところは北だから、春秋はその中間になければならない。
春に当たるのはどこだろう?。
安芸を広島とすると、娜津は福岡だから同じ緯度にあって夏には合わなくなる。
その辺りには春がなければならないが、福岡市中央区と北九州市に春吉があり、
福岡市博多区に春町がある。また読み方はカスガだが文字はハルの春日市は、
福岡の南に隣接する市だ。
すると沖縄の那覇も海に面した都市だから古代には那津(ナツ)で、
朝鮮半島の夫余(フユ)といい対象になる。
※出典:大学院講義録16 17頁
「日本国の色名はデウカリオンの一族から」
しかしその色名の発音が、ギリシャ語となら共通であること、
また四方に色の名をつける習慣も、共にギリシャ文化の特徴だったことも御存知である。
それは古代ギリシャの遺跡に今も使われている。
<アルバニヤ>という国名は、<アルビノ>というラテン語で「白の国」だとすぐわかる。
その首都名の<チラナ>も、鹿児島の<開聞>(シラキッ)と<知覧>とに一致する。
その<白>が<シラキウス>時代には、<黒>は<クロアチヤ>、<赤>は<アカイヤ>、
<青>は<アイオリヤ>だった。
この<シラ>、<クロ>、<アカ>、<アイ>の発音が、
日本語と共通であることは小学生でもわかる。
語源は、<黒>は<クロノス>、<白>はシレノスだったが、残りの日本語の色名は、
ギリシャ神話の大洪水の主役・<デウカリオン>の子孫の名から出ている。
<デウカリオン>は<ピュラー>と結婚して、ギリシャを<ヘレニヤ>と呼ばせた絶世の美女、
あのトロイの<ヘレン>を生んだ。
彼女は<オルセイス>と結婚して<ドロス>と<クストス>と<アイオロス>を生み、
<ドロス>は自分の国民を<ドリス>と呼んだ。<四神>とは無関係だが、
これが<ミドリ>(緑)の語源になった。<クストス>は<クレウサ>と
結婚して<アカイオス>と<イオン>を生んだ。
<アカイオス>は<アカイヤ>(赤)を、<イオン>は<イオニヤ>を治めた。
この<イオニヤ>がパーリ語で<ヨーナ>に訛ったから、沖縄では<与那国>になってしまった。
<アイオロス>は<テッサリア>を治めたので、国名を改めて<アイオリス>(藍)と呼んだ。
※出典:大学院講義録17 6頁
「橙色も「色」という言葉もギリシャから」
ついでに日本語の<橙色>(ダイダイいろ)という変わった色の名は、
どこからきたかもお話ししておこう。
これは<斧>や<車>や<帆>を発明したギリシャ筆頭の大技術家<ダイダロス>が、
ミノス大王の王妃・<パシバェ>のために作った牝牛(めうし)像からきている。
この牝牛は輝く<橙色の眼>をもっていた。
だから、その眼にそっくりな<柑橘>を<ダイダロスの眼>(メ⇒ミ)⇒実と呼び、
それが南九州で<デデ>と縮まって変わったものが、
本土語で<ダイダイ>になったものなのである。
さらに、ついでにお話しすると、可愛い<キューピー>は英語、ラテン語の<クピド>、
ギリシャ語の<エロス>だが、彼は恋の仲立ちをする「色ごと師」である。
恋愛や恋人を我が国で「色(いろ)」と呼ぶのは、
この<エロス>が大隅で「イロ」と発音が変わったからで、それは色情を離れて、
すべての色の日本語発音「イロ」としても使われることになったのである。
だから<イロ>というものへの認識と、
その色の名は、ギリシャ人が日本にやってこなければ、
生まれるはずのない言語だったことがわかる。
これで日本の色名がギリシャ生まれだということは疑う余地がなく、
それがいつ、どう使われたか、経過まで明確になった。
だから四神は中国ではなくギリシャ生まれの日本育ちで、中国へは逆に日本から、
<鮮卑人>=<隋唐人>が<五胡十六国時代>にもって行ったのだと、
細部まで詳細におわかり戴けたと思う。
※出典:大学院講義録17 7頁
「ギリシャ文化から生まれた「天の目一箇神」」
<天孫>を天降りさせるための供(とも)選びの中に、「天の目一箇神」が居る。
彼は「作金者・かなだくみ=金匠」だと書いてある。
鍛冶屋>なのだ。
この神の名は片目だったという名だから、
ジークフリート伝説の鍛冶屋・ミーメが片目だったのと同じ>であり、
和歌山県の民話「一本ダタラ」という怪人も片目で、
名がタタラだからこれも鍛冶屋だったことが判る。
鍛冶屋=1眼というこの大原則は、
ギリシャ神話の天空・ウラノスと大地・ガヤの子供である
雷鳴・プロンテス、
光・ステロペス、
白光・アルゲスの、キクロープス
と呼ばれる一つ目の兄弟の子孫なのである。
この<3兄弟>は<タイタン族>と戦うため、ゼウスに強力な鉄槌の雷を、
ポセイドンに三叉鉾を、ハデスに姿が消える兜を与えて勝利に導いた。
ご覧の通り3つとも武器である。
一つ目の3兄弟の現実のモデルは鍛冶屋だったのである。
「天の目一箇神」も<大国主がウラノスの直訳>なのと同じく、
ギリシャ文化から生まれた名詞で、『記・紀』の用語や神や天皇名が、
ガヤ=伽那・谷=国土、ポントス=品都和気・誉津別=海洋>などといったギリシャ語
名乗りをもっていることの、動かない証拠なのである。
ギリシャはトロヤ戦争以前から、鉄器文化の栄えた国である。
金髪の天照大神・卑弥呼以前に我が国が鉄器時代に入っていて、
タタラが実在していたことは動かない。
※出典:大学院講義録30 24頁
「語系…沖縄=ペルシャ、鹿児島=ギリシャ」
ペルシャ語の母音はpa、saと「a(ァ)」だが、ギリシャ語はpe、seと「e(ェ)]だ。
これは沖縄語の「a」が鹿児島語で「e」になる関係と同じである。
私たちは既に、ペルシャ湾岸のカルデア人が移住してきて、カリエンとよばれ、
沖縄中心養殖、加工して、それを貨幣として中国その他と交易。
高句麗や蒙古などを建設し、殷帝国を興して、東亜の経済を支配していた史実を、
充分な証拠群によって、よく知っているから、
古代湾岸語が沖縄語の基礎にあることも私達の常識の範囲内にあった。
またギリシャ人が東亜に移民して私たちの祖先に加わった事実も、
あらゆる角度から見た証拠群の多さで、疑う余地のない史実であると知っている。
鹿児島語の祖語がギリシャ語である可能性も、
すでに3000語以上の共通語が存在する事実を発見しているから、
それをさらに高めただけに過ぎない。
この講座を熟知しておられる皆様は、
こうした世界史最高の最新の知識を常識としてお持ちなのである。
世界の人々に先駆けて、歴史、言語学界に君臨して居られる事を常に念頭に置いて、
日々を楽しく、ご満足いただきたい。
ただ、沖縄にもイオニアを指すパーリ語の名「与那国」があり、
他にも与那のつく地名が分布しているから、
各語の影響が単純ではないことは申し上げるまでもない。
※出典:大学院講義録37 8頁
「八幡はヤバーナ=ギリシャ人のこと」
では「八幡」とはどんな意味の名なのか?
京都府の八幡市は以前はヤバダと発音する人がいた。
内(ナイ)の字は内裏(ダイリ)と読むからナとダとは方言差だし、
バも馬の字をバともマとも読むように訛るから、
ヤマナ=山名も八幡の変化したものだとわかる。
アジア大陸ではインドから中国にかけての広い範囲で
「ヤバーナ」という名詞が使われていた。
これはギリシャ人を意味している。
ヤバナ→ヤマン→八幡だが、山田もそうだ。
でも「まさか? 応神天皇がギリシャ人?」
と信じられないかたは、
次の色の名がギリシャ語かどうか、ゆっくりお考えいただきたい。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ 69頁
「色の名、アオ・アカ・シロ・クロはギリシャ語」
この東西南北の地名は、
単に日本語の色の名にピッタリ合うだけではない。
東の国名のアイオリヤは藍織屋と書くと、
藍染めの布を織る人という意味になる。
古代アイオリヤがあったのは地中海の東、
アラビヤで、
そこに関連地名を探すと、
「八幡」と当て字できる「Yaman =イエーメン」のサバが、
現在も藍の原料・インディゴの大産地で、
栽培と加工に従事する人々は皆、
肌が青く染まって独特の種族のように見える。
このサバは聖書で有名なシバの女王の国である。
今の国名ヤマンはヤバナの訛りで、
まさに八幡そのもので、明らかにギリシャを意味しているから、
この種族が古代のアイオリヤ人の子孫であることは言うまでもない。
肌が藍色に染まっているという事実が、
まさに藍織屋はギリシャ語でも日本語でも、
完全に同じ意味を持っていることを立証している。
クロアチヤは今もギリシャの北にあり、
紛争があったのも記憶に新しいが、紛争があったのも記憶に新しいが、
古代日本は朝鮮半島の国との連邦で、北の端は高麗(くろ)だからクロ。
玄人(くろうと)の「玄」が亀(き)と舵(た)の名で北。
南のアカイヤは、アカは水のことで、海国を意味し、
アカイヤと鹿児島はまさに三方を海に囲まれた国である。
朱はアカイと読み、雀はjakと読めば、jaはヤでピッタリ、
アカイヤと読める。
ヤバーナのヤもjaと書けば、八幡はジャパンと読めるし、
昔の中国人が呼んだ「野蛮人」とは、
このヤバナ人への当て字だったのである。
「図」 四神・五彩圏
東=青竜・アオイヤ・アイオリヤ
西=白虎・シラキウス(今のシシリー島)・木(コ)
南=アカイヤ・赤・朱雀・邪・ギリシャ南部
北=黒・玄武・クロアチア
中央=キリシャ(希臘)黄・貴
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ 70頁
「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」
へルメスが手に持つ、
柄に羽のはえた杖「カディキウス」は世界中で象徴になっているが、
このカディキウスは、もっと鹿児島と切り離せない重要な事実がある。
それはこの神杖は、もともと距離や天体を計る測定器だったからである。
製図で使うT定規は羽から先の頭の部分がないが、
カディキウスが十字架型をしていることはすぐわかる。
その横棒の長さは少し変えてある。
その端を縦棒の端から観ると角度が測定できる。
だから星など天体を見て方角を知り、航海に役立てる。
土地を測量し、材木や石などを測定して建築に役立て、都市を建設する。
もちろん、商品を造り、量を計り、取り引きに指図に欠かせない。
これが産業や交通、知恵の神へルメスの象徴とされたのは当然だ。
それは「行くもの」=先遣部隊とか、移民とか、先導者とかを意味した
ギリシャ語のイオンの象徴であった。
その人々が住む所をイオニヤと言ったが、
それは今のシリヤにまず出来、その後、我が国にも生まれた。
ソナカ=仲哀天皇の祖国語・パーリ語で、
イオニヤは鹿児島語のように短縮して変形し「ヨナ」になってしまう。
それが「与那国島(よなくにじま)」という名を
今も使っている沖縄県の最西端で、
台湾が見える所にあるということは、
その位置は台湾から見ると、
まさにギリシャからみたシリヤと同じ位置にある。
台湾は古名をギリシャの季節の女神のひとり
「ホーライ」に警えて蓬莱島(ほうらいしま)と呼んでいた。
台湾は気候が良く、高山があって、
熱帯から寒帯まですべての「季節」が揃っているからである。
こうした命名はギリシャ文化の持ち主でなければ出来ない。
仲哀天皇らが運んできた文明が
ギリシャ文明とインド文明の融合物だったことは、
もう疑う余地はない。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ 95頁
「神武天皇以前に薩摩にいたアブラヒムたち」
ついでに、
我が国では国をラ・マ・ヤ・ナの四通りに呼んでいた歴史をお話しよう。
沖縄の慶良間(けらま)島、多良間(たらま)島などの島名をみると、
国をラと呼んでいた時代の後に間と呼んだ時代が続いたことが見て取れる。
そして現在は「島」をその代わりに使い続けている。
島=之間(シマ)で、やはり国として見た時代の名残りである。
ヤはギリシャ、アジヤ、シベリヤなど
ギリシャ語の地名・国名語尾iaに一致するが、
高屋、高谷、芦屋、御厨(みくりや)、四ッ谷、
熊谷(くまがや)、仮屋(かりや)など多数が残り、
ナも任那、山名、浜名、津名などが知られているが、
これは支那と同系統の名詞である。
沖縄の地名をみると、それらが使われた時代の順番が、
良が先で間が後、島が最後だとわかる。
任那もナが使われた時代を教え、
ヤは広大な地域の名に使われているから、
アレクサンドロス大王の東征以後としか考えられない。
ここで問題のユダヤ系の人たちがいつ来たのかを考えて見よう。
それは古墳に使われた副葬品の埴輪像が教えてくれる。
現代もイスラエル人が愛用している山高帽そっくりの帽子を被り、
ミヅラと呼ぶ、他に類例のない髪形をしているのは、
イスラエル固有の風俗である。
古墳時代に来たことは間違いない事実である。
生活文化の面を考えてもアブラハムは日本語では
「油(あぶら)・食(は)む」を意味し、
淡白な和食でない外来の洋食的イメージを意味しているから、
太古から続いて来た本系ではない人々が古墳時代に入って来たことを、
この一語だけでも感じとることができる。
油は石油も意味し、アラブはその大産地としても印象深いが、
アブラとアラブ、アブラ、アブラヒム、という名詞群は、
やはりどこか異文化の匂いが強い。
これも国民全体の歴史からすれば日が浅く、
古墳時代の渡来者であることを裏書きしているのである。
神武天皇妃の名「阿多の阿比良比売」も阿日良日目と当て字したものは、
沖縄では日のホという発音はフになり、目のメはムになるから、
アフラヒムと読まれる。
だからこの名は姫の名ではなく、
小椅の君の名か、その子の名で、
姫の名は
木花之開耶姫(このはなさくやひめ)だったとするほうが
正しいことになる。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ 109頁
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