2011年5月11日水曜日

ホメロスの二大叙事詩の題名は鹿児島語と同じ言葉

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
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「世界最大の謎に挑戦」
「日の大神の国タイナロン」
「3000年前に開けていた海上の道」
「タイナロンの謎と答え」
「「日本」が誕生したとき」
「埋もれたギリシャ神話の女神エウリュノメ」
「紀元前660年の建国は真実だった」
「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」 


「世界最大の謎に挑戦」

「世界最大の謎」というと、

人跡未踏のアマゾンの源流か、深海底にしかないように、

漠然と想像する方もあると思うが、それは日本の『古事記』『日本書紀』である。

アマゾンの奥にあるエル・ドラド(黄金境)は、インカ系の遺跡に間違いないし、

もしそれが見つかったとしても、解ける謎といえば、その正確な位置ぐらいにすぎない。

かつて巨大な謎を秘めていると想像されていた深海底も、ごく単純な構造と、

産物をもった谷間に過ぎないことが明らかになっている。

もしそこに未知の大怪物が居るかも知れないとしても、

それは生物の種名を一つ加えるだけに止まる。

古い生物が生き残っているかという問題も、シーラカンスが解決ずみである。

シーラカンス時代以前に大怪物はいない。

約1億5千万年の差がそれを証明するのである。

そんな空想上の謎でなく、もっと高度の知的な謎といえば、

かつてはエジプトの象形文字や、ホメロスの世界、

近くはオリエントのヒッタイト象形文字がある。

実在していながら、それを解読できないために、明らかにならないものの量。

謎の大小は、それによってきめるほかない。

「図:ヒッタイト象形文字(加治木原図)」

これをカナと漢字と考えてみると解りやすいと思われる。

すでに一部分は解りはじめ、

日本語と同じ形の子音プラス母音からなる音節文字(=カナ文字など)であることは、

つきとめられた。

ロゼッタ石とシャンポリオン。

トロイ城址とシュリーマン。

こうした謎と、それを解いた本当の英雄たち。

が、物語中の神々や英雄が、崇拝者を時と共に失って行くのに反して、

いよいよ輝きを増して行くのほ、永遠に消滅したかに見えたわれわれの祖先が、

彼らの偉大な頭脳によって、よみがえり、語りかけ、教えてくれるからに他ならない。

いま、その成果は5千年、7千年という古代にまで及んでいる。

が、それにひきかえ日本の歴史は6世紀の倭の武王すら、

雄略天皇ではなかろうかと想像しているだけであり、

7世紀の聖徳太子の記事が疑われ、

8世紀の『古事記』撰上さえもが事実でないことが証明されている。

本文にはいれば証拠を御覧に入れるが、

『古事記』と『日本書紀』に書かれたものが、

どこからどこまで信じられるのか見当もつかなかったのである。

天地のはじめから書き起して、

天皇を中心に飛鳥時代までの歴史記事が詳しく書かれているように見える、

この正史が、実は一字一句、すべて謎に包まれているのである。

いまや再び世界の大国に数えられ、有数の教育普及国を誇る日本が、

建国の状態も時も、人も場所も、まるでわからない。このままでいいわけはない。

しかし、それだけのことであったら、この問題をとりあげない。

いまの目的「推理力を身につける」という目的に、

この謎ときが、ピッタリであることが、

私にこの問題を選ばせたのである。

なぜならこれまで誰も答えを知らなかったものでないと、本当に身が入らない。

遊びになってしまうからである。

また、やり方が正しかった、という証明にもならない。

やり方をごま化して、答えを出したような顔をする恐れがあるからである。

それに、これまで不可能と考えられたものであってこそ、

やり甲斐も大きく、火のような情熱が生れるのである。

さらに、

それによって語られた答えが「正しい」とはっきり判定できることも必要である。

未来に属することでは、その時が来てみないと、

正しいと証明することは不可能である。

その点、過去の謎は、必ず証明が見つかる。

それができないようなら、努力して、こんな本を読む値打はない。

誰が考えても、どこから見ても、押してもひいても狂わない答えが出せることが、

あなたと私の条件なのだから。

※出典:異説・日本古代国家 22~25頁


「日の大神の国タイナロン」

それがどんな人々によって、日本まで運ばれてきたか?

あなたにはもうハッキリ見当がついていらっしゃると思う。

だからほんの少し補足しておこう。

ギリシャというのは古い名前だが、実はソクラテスがいたころは「エラーダ」という名だった。

この国名になにか心あたりはないだろうか?

そうだ。ハムムラビが破った敵の本拠が「エラム」だったのである。

プラトンは、その『国家篇』でエルという人物が戦死してあの世へ行き、

また生き返った体験をソクラテスに物語らせている。

エラーダというのはこのエルの土地という意味である。

このエルは、本来のギリシャ人ではなくアルメニア人といったほうがいいが、

実は「たとえ話」の主人公なので、「エラ人」といった意味の仮空の人物である。

「エラム」というのも、この「エラ人の土地」ということである。

この話でもおわかりのとおり、

エラムも、ヤマトも、バビロン人の後身であるカリエン人だけでなく、

ギリシャ人にとってもよく知られた身近かな名であり人々だったのである。

そしてそれは日本列島の南端にある「永良部(エラブ)」という島の名とも共通している。

それが和人(カリエン)によるものであることはわかっているが、

その名がまた「選(えら)ぶ」という日本語につながることも、

『ジンム』に詳しく書いておいた。

しかしギリシャ人もホメロス以前に、

インド以東にやってきていて、東アジアのことをよく知っていたのである。

それは次の『ホメロス序章』にある

「ピューティア・アポルローン頌歌(しょうか)」の一節でよくわかる。

「マレアなる岬の沖を過ぎ越し、

ラコニヤの沿岸を辿(たど)り辿りて進みしが、

やがて四面環海の土地、歓喜の日の大神(へリオス)の国・

タイナロンにぞつきにけり……」(加治木訳)

『ジンム』をお読みいただいた方には、この地名を考えるのに苦労はいらないと思う。

マレアは今もマレアで、国名になるとマレーシアになっているが、

マレー半島のことである。

それを過ぎて横たわっている広い沿岸といえば中国しかないが、

南中国には[六合]という県があり、

卑弥呼当時の人々はそれを「国・故郷」といった意味で呼んでいた。

それが「リクウ」という地名として沖縄に分かれ、

[琉球]という当て字を生んだ。

(『ジンム』参照)。

この[六合]は、方言差では「ラコウ」「ラコン」と呼ばれる地名である。

紀元前8~9世紀を下(くだ)らないホメロス詩篇の中にある地名だから、

さらにそれよりマレー半島に近いインドシナ半島がそう呼ばれていた可能性もある。

それは江戸時代初期にタイで「六昆王」になったという伝承を残した

山田長政の国もまた[六昆=ラコン]でラコニアにより近い。

外交関係のまるでなかった当時は、背後地にどんなに強大な国があろうと、

そんなことはわからない。

寄港したり通商したりする地名がすべてを代表する。

ラコニアが中国大陸であったことは、まず間違いない。

「日の大神の国タイナロンの位置」

宮古島・石垣島・西表島・タイナロン・六合・海南島・越南・ラコニア(六昆)・バンコク
ヤンゴン(六昆)・マレア

※出典:KOFUN 65~66頁


「3000年前に開けていた海上の道」

ではその南岸の沖にあった[タイナロン]とはどこだったのだろう?

海南島かも知れないし、台湾かも知れない。

沖縄であった可能性もある。

それは「カイナン」にも似ているし、「タイワン」にも近いし、

「ウティナ」という発音とも合う。

「タイワン」の語源は、もともとは「タイ」だけで、

「臺(タイ)」の字を「ウティナ」と読むことから、沖縄と同じ名だったとわかる。こ

れに比べると「カイナン」の方は無理がある。

沖縄語で「ウ」は「オオ=大」のことだから、

ウティナは漢字で書くと「大臺(ウテイ)」国(ナ)なのである。

こう次第にしぼってくると、タイナロンは「タイ国(ナ)」のことで、

語尾の「ロン」は、バビロンなどの語尾と同じく、

中東語で「国」の意味でつけるものである。

タイナロン人が、中東から来た人々だったことがこの国名でもわかる。

臺(タイ)湾の「ワン」は「和人(カリエン)」の国であったことから「

タイ和人(ワニ)の意味で呼ばれた通称に、当て字された可能性も否定できない。

これにはあとでさらにつけ加えることがあるが、

こうしたことからタイナロンは台湾だとするのが、いちばん妥当である。

いずれにしても、このあたりまでの情報が、

ホメロスの時代に、すでにギリシャ人の知識の中に届いていたのである。

『ヒミコ』や『ジンム』でお話しした以上に、

古い時代から、人々の交流があったのだ。

そのことはベトナムのドンソン発掘の銅鼓の絵が、

エジプトの葦船(あしぶね)と同じタイプであることや、

インドネシアからフィリピンまでの帆船が、

地中海スタイルの三角帆であることなど、

より古い時代からの人と文化の流れが見てとれる。

ことに右のホメロスの詩篇の名にある

ピューティア(日の神の託宣を告げる巫女)は、

卑弥呼(天照大神・神功皇后)にも、その資格が見られると、

『ヒミコ』でお話ししておいたものである。

バビロン難民がたどりついた台湾の元の固有名詞「タイ」に、

国称の「ナ」がつき、

さらに後からたどりついた人々によって国称「ロン」が

追加された形の国名[タイナロン]は、

カリエンの語り部が話してくれたことが事実だったことを、

こともあろうに「ホメロス」が太鼓判を押した形で、

歴史の真相を私たちに見せてくれた。

すると、その人々が造った古墳も、

その文明の産物であったことがハッキリと見えてくる。

次はそれを確認させる「証拠」をとり出して、検討していくことにしよう。

※出典:KOFUN 67~68頁


「タイナロンの謎と答え」

この「大王」はインド経由できた人々の使ったことばで、

仏教、シンドゥを問わず、共通のものだった。

それは「マハ・ラジヤ」の直訳で、導師、最長老をいう。

祭政一致の国ではそれが最高位の王にあたる。

今もインドには「マハ・ラジヤ」がいる。

それが「大王」という漢字で表現され、

漢音で発音されるようになったのは、

倭(ウワイ)人の大王・ソナカらが、

中国語圏のインドシナ半島に入って以後のことである。

そこで中国語が使われていたことは、

今のベトナムが越(エツ)の一部になり「越南」と書かれていたことで、

このあたりが古来、国境のない時代の同一言語圏だったことがわかる。

だから先にお話しした「タイナロン」という国名も、

むしろカリエン人が到着して住みついた時代の台湾を、

この大王の文字の別の方言型で「大(タイ)・王(ワン)」の国と呼んだものの、

省略型であった可能性が高いことになる。

バビロン第一王朝の滅亡は紀元前1750年前後で、

それから数世紀後に北中国に殷(イン)人の青銅器文明帝国が生まれ、

それと呼応して台湾~沖縄海域にカリエン文明が栄えはじめた

(「ジンム」に詳しく説明ずみ)。

これはインドヘのアーリア侵入に続くもので、

ヤマ教から分化したシンドウ教も、

原始的ながら日の神ヤマ(シバ)信仰の形をとり、ブラフマン化が始まっている。

ホメロスが「日の大神の国」という限定詞をつけていることは、

その宗教がギリシャ人にもよく理解できたものであり、

かつ未開の蛮人の宗教でなく、

むしろギリシャ人より高度の文明の持ち主だったがゆえに、

「歓喜の」という「憧憬」のこもった書き方をしているとみなければならない。

これがタイナロンの謎とその答えである。

「ギリシャの双耳杯とアトモを作るアミ婦人」

上は紀元前5世紀前半の、輪になった提げ手が二つ耳のようについたギリシャの盃。

この特殊な耳がアミの人々のアトモにも、

日本の古墳時代の土師器や須恵器にもつけられている。

下のアミの人々は地中海系の容貌と風俗を伝えている台湾の山地住民で、

『ジンム』でいろいろ紹介しておいた。

これはその婦人が今、土器を成型して日に干しているところ。

双耳にご注意。

※出典:KOFUN 125~129頁


「「日本」が誕生したとき」

3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。

その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。

彼等は<エラム>出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。

それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、

彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、

アテナ出身者は嘉手納(かてな)、チラナ出身者は知覧の名を残すというふうに、

「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。

その中でも最大のものが台湾で、

「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として

記録しているものの遺物だったのです。

その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。

「マレアなる岬の沖を過ぎ、ラコニアの沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、

やがて四面環海の土地、歓喜のヘリオス(日の大神)の国・タイナロンにぞ、

着きにけり……」と書いてあります。

ラコニアは六昆で今のタイ国ですが

古代にはミャンマーのヤンゴン=ラングーン(六昆)までを含んでいました。

マレアの岬はマレー半島。四面を海で取り囲まれた大きな土地は、

その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。

ヘリオスの妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、

これが「e音をi音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに

「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。

最初の「日本」はタイナロン=台湾で、

古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。

これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、

本来はこのヘリオスとヘラのことで、

そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。

ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、

「天照大神」様と呼ばれたために、

後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。

これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、

後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。

※出典:日本国誕生の秘密 216~218頁


「埋もれたギリシャ神話の女神エウリュノメ」

「ミヅハ」はわかったから、次は「ノメ」からお話ししよう。

すると「ノメ」は「の女(メ)」にきまっているじゃないか。

と面倒がる人がいる。

すこしわかればそれで全体がわかったと過信して、

結論してしまうDNAの持ち主である。

この種の人物は学者には向かない。

学者以外の思考力が必要な職業にも向かない。

だが21世紀には思考力がいらない職業などない。

この人の未来は、すでに決定しているのである。

しかし、その欠点が自覚ができれば、努力によって改善できる人もいる。

それが教育効果なのである。

こうしたことのご参考になれば幸いだから、

「ノメ」にはどんな未知の部分があるか、

お話しするので、ご覧になって、歴史の謎ときという主目的のほかに、

「重要なものを軽率に切り捨てる人間はダメだ」という実例として、お役に立てて戴きたい。

ギリシャ神話には、

世界を作った女神の伊弉冉尊にあたるエウリュノメ=Eurynomeという神がいる。

とは言っても、ギリシャの創世記は幾つもあって、その内容はみな異なっている。

ヘシオドスの『テオゴニア=神統記』や、ホメロスのもの、オルペウスのものなどがあるが、

エウリュノメの神話は余り知られていなくて、

世界で最高の権威を誇る英国オクスフォードの『希~英大辞典』にさえ、

名も出ていないほどだが、

その内容は次の通りである。

「はじめは宇宙には何もなかった。

しかしその”無”が動きはじめ、

やがて暗黒の嵐とでもいうべき激しい動きになり、

いっか形をもって宇宙の蛇・オピオンになった。

といっても何も見えるものがなかったので、

彼には眼がなかった。

だが彼はカオス(混沌)の中を、

何かを求めて這い回る情熱を次第に高めていった。

その情熱は嵐のように激しく、猟犬のように群れて、

ますます速度をまし、

帯びた熱気はついにカオスに火をつけ、

大爆発が起こった。

この激しく爆発した火炎から、

びっくりした”光”が飛び出して、

女神・エウリュノメになった。

彼女は激しく旋舞(ワルツ)を踊りながら”無”の境界を進み、

風を起こしたので、

その風がオピオンに、とぐろを巻かせた。

彼がとぐろを縮めて行くと、

エウリュノメは白い鳥に姿を、変え、空間に巣を作って

銀の卵を生んだ。

それが太陽と月と星と全ての生物になったのだ。

エウリュノメは「遠くさ迷うもの」、

オピオンは「月の蛇」という意味であるから、

古代ギリシャ人の一部の人びとは彼女を「万物の母・月の女神」

として信仰していたのである。

我が国の伊弉冉尊が国々島々を生み、

大日霎の貴と月読の尊たちを生み、

山川草木を生んだというのと全く同じである。

この二つの神話は無関係なのだろうか?。

※出典:大学講義録28 17~18頁


「紀元前660年の建国は真実だった」

「発音は地域で変わる」、「漢字は色々に読める」という常識を考慮に入れさえすれば、

こんなに鮮やかに史実が再現し、復元できるのである。

五王が名乗った百済の国は、それもまた移動し拡大を続けて、

文字は同じでも中身も発音も別々だったのである。

それは台湾を出発点にして5世紀には奈良に到り、京都に移り、東京に遷都して現代に至った。

ギリシャ人が東洋に入ったのは、

アレクサンドロスのインド東征が最初だと考えている人が多いが、

紀元前6世紀以前に書かれた『ホメロス序章』には、

マレーから「日の大神の国タイナロン=臺国(タイナ)ロン」という名で

台湾の語源になった国名まで、多くの地名が、それぞれ正確な位置に書かれていて、

古代ギリシャ人が台湾をよく知っており、実際に往来して得た知識だったことを、

拙著『誰が巨大古墳を造ったのか』p・64以下に、詳しく書いておいた。

このことでも古代ギリシャ人が我が国に来ていたことは疑えない。

しかもその人たちが、

応神天皇という「真の大和朝廷の皇祖」と確認できた人を出したのである。

紀元前12世紀まで続いた殷帝国が、稲敷人が中国まで移住して建てた国だったのだから、

『日本書紀』が我が国の建国を紀元前660年だと書くのはこのギリシャ王朝の建国で、

それには高度の文明による真実の根拠があったのであり、決して出鱈目な誇張ではないのだ、

※出典:大学院講義録14 30頁


「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」

我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

『文化史年表』は、その「商人」が誕生した地域を、

冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

その商人独特の慣習が、大貿易港のベンガルに残り、江戸の魚河岸に残るのは、

やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

縄文時代の海上交易の名残だったのである。

だからギリシャの人たちも、何の知識もない「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

偶然やってきたわけではない。

ホメロスの作品や神話などとは別の、現実的な世界観の中で、

はるか東方に四季の鮮明な、

美しいホーライの女神たちの国にたとえられる島があることを知っていたのである。

そして一(ひ)と足早く出適った台湾の環境につられて、

これこそホーライの国だと信じたために、

その名が後世、フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

でも中国人はその誤りを知っていた。

なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

命令を受けた徐福は、山東半島から東に向かって船出した。

その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は

「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある日本列島にあったのである。

台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、見える程の位置にある。

いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。

※出典:大学院講義録20 13頁

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