2012年3月28日水曜日

弥生時代を作ったアレクサンドロス海軍の人々



 《弥生時代を作ったアレクサンドロス海軍の人々》
 「弥生時代を作ったアレクサンドロス海軍の人々」

 「ギリシャ人が創った「弥生時代」」

 「文化史年表(CHRONOLOGICAL CHART)抜粋」

 日本(JAPAN)

-3000                          -350
←        縄文文化                  →← 弥生文化

                沖縄文化  貝貨幣産業⇒殷  
 商人(シアルク=さろく=歩き回る) 霊ライン⇒ 殷 ⇒⇒   古墳文化 
               稲敷文化          
               干支圏

 エーゲ海(AGGEAN SEA)

   ミノア文化         ギリシア文化        -350
   キクラデス文化       ギリシア文化        →← マケドニア

 マケドニア
 マケドニア

 ※出典:大学院講義録20 6頁


 上の年表は、

 一見してわかるように、

 時間帯をはっきり印象に止めるのに不可欠といっていい長所をもっている。

 年表は利器として様々に転用できるから、ご活用いただきたい。

 日本の弥生時代と、縄文時代との境界の次期(前350年頃)

 マケドニアの建国期に重なっていることである。

 この弥生時代の初めは、全考古学者が認める定説ではあるが、

 それは、おおよその時間帯であって、

 ほぼ、この頃であろうという仮定の目安に過ぎない。

 ところがその直後に、私たちがギリシャ人が来た時期として突き止めた、

 アレクサンドロス東征の時間帯がくる。

 そして弥生土器の祖型を備えている加治木義博の所蔵する八重山土器は、

 その土器年代からも発掘地点からも、

 アレクサンドロス東征のその時間帯に完全に一致し、

 台湾→与那国→沖縄諸島→大隅諸島という海上コースをとった、

 ポセイドンら海神を守護神としたギリシャ海人たちがもたらした

 ギリシャからの文化財だったことは、

 この完全に揃った論理的証拠群によって、もう絶対に動かないことがわかる。

 「ギリシャ人はいつ来たか?」というのはもう謎ではない。

 それは台湾に至る地名、ギリシャ神話、秦の始皇の蓬莱憧憬の史実、

 イオニヤという与那国の語源などの証拠群に、

 さらに「弥生時代」という凄い証拠を加えたからである。

 縄文時代

 弥生時代

 八重山土器

 ※出典:大学院講義録20 7頁


 「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」


 古代ギリシャの国名が「四神」の真意で、

 日本語の色の名の起源だとわかった。

 ギリシャの海の神々も地名の元になっている。

 ポセイドンは百済(ポセイ)出水(イヅン・出雲)。

 その王妃アンピトリテ(奄美)(取手)。

 海から生れた美の女神アフロジテはローマではヴィーナスと呼ばれたが、

 それに我が国で当て字したものが「淡アフ・路ロ・島ジ・国」。

 島の名は、またギリシャ人が来たコースも記録している。

 ソナカの国語パーリ語ではギリシャ人をヨーナと呼んだ。

 これはイオニヤのイオをYO 、ニヤ をNIA⇒NA ナ と訛ったものである。

 我が国の最西端・与那国島はヨーナなのだ。

 YONIA ⇒YO NA イオー ナ=が「硫黄が」(島)になる。

 これはさらに、鹿児島弁化して短くなり、

 跳びはねて、 YOGA(イオーガ)は「YAT ヤッ」になるからヤッチマ、

 すなわち屋久島にもなる。

 このヤッチマは「八(ヤ)ッチマン=屋久島の」と使われるから

 漢字で書くと「八幡(ヤッチマン)」になる。

 こうして次々に謎を解き進んでいくと

 屋久島はヤバーナから生まれた名だとわかるし、

 与那国島から屋久島までの南の島が、

 ギリシャ系の海人たちの世界だったことが

 明確に認識できたと思う。

 では、そのときやってきたのは、

 どんな人々だったのだろう?

 確かに南欧のギリシャから来た人たちが

 いたこともわかるが、

 経由したインドの人たちが一緒に来たことも間違いない。

 
 ※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
     『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 173~174頁


 「我が国へきたインド「商人」のコースと生態」

 そこに書かれた古代文化は、国ごとに区切られていたのではない。

 在来の旧式観念が作り出した国境や地域とは関係なく、

 人々の移動・交流する範囲に広く広まっていた知識だったのである。

 それを象徴的に教える身近な事実をお話ししよう。

 私たちは魚河岸や株式の取引所で商談が成立すると、

 威勢よくボンボンと手打ちするのを、いかにも江戸っ子らしいとか、

 日本独特の風物詩だとか感じて来た。

 15世紀初頭に書かれた『星瑳勝覧』という中国文献にも、

 この「手締(じ)め」を実際に見た記録が載っている。

 「商談が成立して価格が決まると、手を打って納めとし、後で紛争など起こさない」

 と書いている。

 まさにその通りだが、著者・費信が旅してそれをみた場所は日本ではない。

 「榜葛刺(ボカラ)国」で、現在のインドのベンガルだったのだ。

 これも商習慣という名が示す通り、古代商人が広めたもので、
 
 それがインド経由で我が国まできた証拠だ。

 それはその国名が倭の五王の名乗りにある慕韓(ボカラ)そのものだからである。

 しかしその名乗りにインドの地名は入っているはずがない。

 その時代には、それは朝鮮半島の弁韓以外ない。

 弁韓はべンカラで、我が国では紅をベニ・ベンガラ色という。

 沖縄のビンガタの原産地で、紅(ベニ)の語源はベンガルのベンだとわかる。

 インド商人は3世紀より前に、沖縄経由で朝鮮半島に弁韓国をつくっていたのである。

 星瑳勝覧

 紅(ベニ)

 ※出典:大学院講義録20 12頁


 「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」
 
 ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

 これはギリシャ人が始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

 始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

 ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

 こうして整理すると古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

 私たちが日常体験しているような、ハツキリしたものだとわかる。

 我が国へ来たギリシャ人は、

 どんな人たちが、

 何を目的に、

 いつ、どこを出発して、

 どこを通ってやってきたか。

 そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

 それは天照大神=卑弥呼を生み、応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

 それ以前にすでに領土を拡大して、

 中国を中心に沢山な国をつくり、

 東アジアを支配した。

 こうして細部にわたって疑問が全て解けたことを、

 よく再認識しておいて戴きたい。

 また文化史を年表にして見ると、

 弥生時代そのものがギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

 そして、さらにそれに先行して、西アジア古代文明もまた、

 我が列島まで届いていたことも読み取れた。

 こうして在来の史学では想像もできなかった巨大な問題群が、

 疑いが残らないはど確実に、そして大量に解明できたのである。

 それを、これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

 完全といっていいほどに、卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

 ※出典:大学院講義録20 14頁

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
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 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年3月27日火曜日

フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松(4)



 《フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松》
 「フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松」

 ※出典:大学(院)講義録16:6頁
 《極東に開花した壮大なギリシャ文明の落とし子》
 「極東に開花した壮大なギリシャ文明の落とし子」

 ギリシャの海神・ポセイドンは馬を作り出したから馬は彼の聖獣で。

 またギリシャでは船を造る木として最高だった松の木を、

 そのポセイドンの聖木として崇敬していた。

 百済というのは、そのポセイドンに当てた漢字で、

 ポセイドン=百済殿(ポセイドン)である。

 すると福岡県若宮町の竹原古墳などが代表する

 北部九州の古墳壁画が船と馬をテーマにし、

 『魏書倭人章』には「馬無し」と書いてあるのに、

 各地で立派な馬の埴輪が出てくる理由が完全に解かる。

 また宮崎県西都原(さいとのばる)の飯盛塚古墳出土の船の埴輪は、

 艪(ろ)を支える突起が14あるから乗員数で規模がわかる。

 こうして本学によって発掘考古学の手探り時代は終わったのである。

 それだけでなく、帯方郡使の眼の届かなかった沖縄地方で、

 いま久高島のノロたちが頭にギリシャの月桂冠そっくりのものを被るのは何故か?

 といったことまで、明確にわかる。

 今年はギリシャでオリンピックが開かれる。

 日常、なんの気なく使われる「栄冠」という言葉が、

 ギリシャ起源の月桂冠のことだったと改めて気付かされる思いがするが、

 ギリシャから私たちが受け継いだ『四神』の名と色彩の名と、

 それを府県名のような行政区名化した五彩圏国家の実在に及ぶ、

 極東に於ける壮大なギリシャ文明の開花が、

 奇しくもいま明確に白日のもとに姿を現わした。

 この壮挙を1日も速く、世界の人々に知ってもらいたい。


 ※出典:大学(院)講義録16:7頁
 《海人族を大発展させた「松」という文化財の実在》
 「海人族を大発展させた「松」という文化財の実在」

 末廬(マツラ)という発音が帯方郡使にも聞き取れたことは、

 3世紀にはマツラという地名がそこにつけられていたからで、

 それは最初は馬津国(マツラ)だったものが、のちに松浦になったことも疑いない。

 ところがその地域には日本最大の磯の松原である「虹の松原」が現在も残っている。

 文字通り松の浦である。松の木が馬津国(マツラ)を代表する聖木だから、

 むやみに伐採し尽くされず、今に至るまで昔の面影を保っているのだとわかる。

 このことで松を日本語でマツと発音するのは、

 語源が馬の国である「馬津国」だからだとわかる。

 それではその松の木はポセイドンの聖木だから、それが群生していたから、

 そこをマツラと呼んだのであろうか?。

 それともそこが馬津国こなったからマツラと呼ばれた後、

 そこに松の木を植えたから、

 馬津=マツの木という名が生まれ、

 それは中国では松=セウと呼ばれる木だから、

 その字を使い、発音だけ日本読みしてマツと呼ぶようになったのか?。

 これは発音からいっても、文字からいっても後の方が正しい。

 だとすれば松の木は後から植えたもので、そこに大きな松原があったところに、

 偶然、馬津国が移動してきた奇跡的な出来事があったわけではない。

 馬津国が発展すれば必然的に造船量も増えるから、松は単なる聖木としてではなく、

 海人族の最大の経済基盤として人工的に増殖されたのだとわかる。


 ※出典:大学(院)講義録16:8頁
 《「亀」という代名詞にもこれだけの史実がある》
 「「亀」という代名詞にもこれだけの史実がある」

 その海運力をもっていたから、

 ギリシャ人は台湾から朝鮮半島まで支配できたのである。

 それがまた、

 高句麗王・位宮が魏の大軍に敗れて脱出、

 琉球まで落ち延びるのに役立った。

 この話が浦島太郎伝説になって残ったが、

 太郎は「助けた亀に連れられて」竜宮城へいく。

 彼は兄の高句麗王が死んで王妃に泣き付かれたため、

 亀=高句麗海軍を助けに、

 高句麗王を引き受けて戦ったのだったから、

 「助けた亀に連れられて」なのだが、

 その亀の名も単なる海人族の風刺ではない。

 位宮は垂仁天皇で、

 その后妃は狭穂姫皇后の死後に再婚した比婆須比売皇后柿妹である。

 その父は美知能宇斯王で、

 これはインドの最高の神・ビシュヌウ神ヘの当て字・

 美知能宇斯(ビシヌウシ)ンであることは、

 その当て字の一字一字が証明するし、当時の支配者たちが、

 信奉する神の名を名乗っていた実例は、

 百済王のポセイドン以外にも多数あるから議論する必要はない。

 このビシュヌウ神は、目的に応じて様々なものに姿を変えるが、

 そのトップにあげられるのが「亀・クールマ」なのである。

 それはインド神話の筆頭にある『乳海攪拌』で、この世界を造る時、

 宇宙を満たしていた白濁したモヤのような乳の海を神々が攪きまわすのに、

 ビシュヌウ神が巨大な亀に変身して特大の攪拌棒を支える軸受けになるからである。

 太郎の亀は美知能宇斯なのだ。
 

 ※出典:大学(院)講義録16:9頁
 《門松の語源はギリシャ神話のカドモス》
 「門松の語源はギリシャ神話のカドモス」

 では「門松」は、どんな事実を記録しているのであろうか?。

 それを門飾りにするのは、ポセイドン族=海人族=百済人の行為で、

 それは国民が国旗を掲げるのと同じものであるといえる。

 ではそれを日本語で「カドマツ」と呼ぶのはなぜ?だろうか…?。

 これもギリシャに語源があるのではないかと、

 精密に捜査し検討するのが、本学の原則である。

 するとカドマツに転訛する名詞がギリシャ神話中にみつかる。

 カドモスである。

 この名はギリシャ人が最初に土着した琉球地区では、

 母音のオがないために、カヅムスになる。

 これは南九州語に転訛すると、

 ヅはドに戻り、ムはマになり、

 スはツと区別のつかない「ッ」になるからカドマッになる。

 そして門松君はまさにその通り「カドマッ」と呼ばれていた。

 彼は気づかぬまま故人になったが、

 彼はギリシャ語で「カドモス」と呼ばれていたのである。

 この語源がなければ、

 門松は決してカドマツとは読まれず、

 モンマツと発音されていたはずである。

 関西語では戸外を「カド」というが、それは門を意味しない。

 「カドで遊んで来(き)」というのは広い戸外で遊んでこいという意味なのである。

 カドモスとは、どんな人物なのだろう?。

 我が国では、そんなに有名な存在ではないが、

 ギリシャ神話では、

 大きなページを占める重要人物である。


 ※出典:大学(院)講義録16:10頁
 《カドモスの一族名は鹿児島に濃厚に残る》
 「カドモスの一族名は鹿児島に濃厚に残る」

 紀元前1世紀ごろに書かれたとされる、

 アポルロドロスの『ギリシャ神話』の第3巻に、

 カドモス一族のことが詳しく書かれている。

 ポセイドンはリビエと結婚してベロスとアゲーノルが生まれた。

 ベロスはエジプトに行って支配者になり、

 アゲーノルはフェニキヤに行ってテレパッサと結婚、

 長女エウロペと

 3人の男の子、カドモス、ポイニクス、キリクスたちが生まれた。

 ご覧の通りカドモスはポセイドンの孫だから、百済人には周知の名なのだ。

 ここで父・アゲーノルの名を検討してみよう。

 アゲーは倭国の倭の発音がウワイだったこと、切っても切れない関係にある。

 ウワイは今も鹿児島独特の上井(うわい)という地名と姓として、残っているが、

 上井という当て字はアゲイとも読まれて、山口県の地名やJRの駅名に残り、

 さらに東隣りの県・広島の古名・安芸も、注意してみれば

 アゲイという発音をもっている。

 これはアゲーノルという名が先に鹿児島にあって、

 上井と書かれていたからウワイという国名が生まれ、

 それにウワイという発音をもった倭の字が当て字されたように見える。

 だがその逆も考えられる、倭のウワイが古くて、

 そこがアゲーノルの国になってからアゲイへの当て字として上井が使われたが、

 そこは倭だったので、

 ウェイであってウワイではない上井の文字を、

 飛鳥や春日や大和と同じように、

 無理にウワイと読むことになったのだと…。


 ※出典:大学(院)講義録16:11頁
 《「上井の命」とも書けるアゲノール》
 「「上井の命」とも書けるアゲノール」

 では、アゲーノルの残りの「ノル」はどうなるか?。

 ノルという日本語の古語は「宣る」で、上が下に向かって命令することである。

 『古事記』は貴人の名や名乗りに「命」をつけている。

 これは在来は「ミコト」と読むと決められていたが、

 このミコトは御言葉の省略で「御言」すなわち命令であるとされてきた。

 するとそれは「ノル=宣る」と同じことである。

 そして「命」という文字は、イノチという発音が一般的で、ミコトは、
 こんなに説明しなければわからない特殊な使い方なのである。

 ところがアゲーノルの方は「アゲー宣る」と理解すると

 「上井命」と書いたものと同じになる。

 命が御言か宣るかは、まだ断定できないが、この2つが、

 どちらでも同じことであるのは間違いない。

 アゲーノルが「命」という敬称の語源である可能性は残っている。

 ここで是非、付け加えておく必要があるのは、

 私たちの最大の利器「名乗り」についてである。

 それは慣習に従うほかないから、

 使い続けている「名乗り」という言葉の「乗り」も本当は、

 この「宣る、宣り」なのだということなのである。
 
 「名を宣る」から「名宣り」が正しいのである。

 間違った「名乗り」という用字では、

 一般のかたには何のことか分からなくて当然なのだ。

 だが我が国には歴史に限らず、同様の恥を晒している用語が実に多い。


 ※出典:大学(院)講義録16:12頁
 《カドモスの国・フェニキヤは「船木国」》
 「カドモスの国・フェニキヤは「船木国」」

 カドモスが生まれた国の名・フェニキヤも重要な名詞である。

 そこは古代ギリシャ中でも最も有力な海軍国で、

 スペインなど各地に植民地を造り続けた。

 その国名に当て字すれば、船木国になる。

 船の木は松。カドモスと門松はここでも結びつくのである。

 ただしフェニがフネというのはオカシいという疑問が残る。

 これは沖縄語を考えればきれいに晴れる。

 沖縄で最も有名な戦跡「マブニの丘」は、

 摩文仁と書くが、そこは沖縄本島最南端に近く、

 一望、果てしない太平洋を見渡す丘だから、「船しか見えない丘」で、

 それを叙情的に表現した「真船の丘」が、

 命名者の意図した本来の名前なのである。

 真船がマブニになるのは本来の沖縄語には母音のエがないからフネがフニになる。

 だからフェニもフニで船と同じになるから船木国で完全に表現されているのである。

 いまギリシャや、その植民地遭跡一帯へ行ってみると、見事な松原や松並木が残っている。

 紛れもなく文字通り「船木の国」だったことが実感できる。

 日本語の「フネ」の語源がフェニキャだったことは疑問の余地がない。

 従来、古墳人は北方騎馬民族だといわれてきた。

 古墳に壁画や埴輪の馬があり、石の馬も九州と出雲で出土したから、

 有力な証拠とされていた。

 しかし彼らは船や松には縁がない。

 それは全て海神・ポセイドンとだけ、

 矛盾なく結びつく、動かぬ証拠群だったのである。


 ※出典:大学(院)講義録16:13頁
 《虚構の「民族史観」一掃が急務》
 「虚構の「民族史観」一掃が急務」

 これでギリシャ人と、フェニキャ人とを別の国の、

 別の人種だと思っていたのでは、

 絶対に古代史の謎など解けないことがおわかり戴けたと思う。

 ヒトラーが宣伝した民族史観などが学問の内に入らず、

 無茶苦茶にしてしまうことが、これでおわかりのはずである。

 それは現実に、戦後のドイツ史学の停滞になって現われている。

 もっともそれは我が国でも隣国でも似たようなものである。

 劣等感を裏返しにしただけの史学?が、

 どれだけ多くの愚かな説を生み出してきたか、

 蔵書の山を見て悲しくなるのは皆様も同じだとおもう。

 はるばるフェニキャからやってきて、

 我が国の基礎を築いた父祖の功績を知らずに、

 神か悪魔かわからないものを崇拝して何になるか?。

 子供達が劣等感をもち、未来に希望を失い、

 働く目的も意欲ももてずに、勤労を嫌い、

 遊びに明け暮れて、犯罪者に転落するのは当然のことである。

 それをさせる大人たちが、自分の無知や思想の誤りをまるで自覚できず、

 他人の責任のように嘆き、怒って見せる。

 このままでは我が国の明日の惨状は、今から眼に見えている。

 私たちは折角すばらしい先祖をもちながら、愚かな先学らに毒されて、

 奇妙な神国観を吹き込まれ、その尻拭いの戦禍に巻き込まれ、

 今なお米軍に占領されたままの国に住んでいる。

 今ほど真実の建国史を知って、

 劣等感を一掃する必要のある時はないのである。


 ※出典:大学(院)講義録16:14頁
 《竜を退治てテバイ王になったカドモス》
 「竜を退治てテバイ王になったカドモス」

 ではカドモスが我が国までやってきたのであろうか?。

 実は彼らはフェニキヤで大事件に巻き込まれて四散してしまうのである。

 事件はエウロペが誘拐されて行方不明になったことから始まる。

 父はエウロペが見つかるまで帰るなと兄弟たちを探しに出す。

 カドモスは母のテレパッサと同行するが、母はトラキヤで死ぬ。

 そこで一人で旅を続けてデルポイへ行き、神殿へ参詣して神にたずねる。

 するとビューティアの告げた神託は

 「牝牛を道案内にして、牝牛が倒れた所に町を造れ」という。

 すると本当に彼の前に立って歩く牝牛が現われたので、

 それについていくと、

 現在のテパイ市で止まって倒れてしまった。

 従者をアレスの泉に水を汲みに行かせると、

 泉を守っていた竜が従者たちを殺したので、退治た。

 すると女神・アテナが現われて、竜の歯を撒けという。

 それにしたがって歯を折りとって撒くと、

 それが鎧兜で武装した兵士たちになった。

 その数が余りに多いのでカドモスは石を投げっけたところ、

 兵士たちは怒って同士討ちを始め、

 どんどん倒れていき最強の5人が残った。

 しかし行為を恥じたカドモスは、晴罪のために8年間、神々に仕えた。

 それをめでて、

 アテネは王国を、

 ゼウスはアプロディテの娘・ハルモニアを妻として与えたので、

 4人の娘・アウトノエ、イノ、セメレ、アガウェと、男の子・ポリドロスが生まれた。


 ※出典:大学(院)講義録16:15~16頁
 《日本語でも意味の通じるカドモスの妻子の名》
 「日本語でも意味の通じるカドモスの妻子の名」

 その後、

 カドモスはテパイを捨ててイリリアの王になり、

 死後は夫婦とも大蛇になって、

 ゼウスに常春のユリュシオンの野に送られた。

 胴から下が蛇の男女が絡みあっている

 中国の伏義女堝(フクギジョカ)によく似ている。

 だからカドモス自身は我が国までは来ていない。

 しかし淡路島の語源であるアプロディテの娘と結婚している。

 神話とはいえ、彼の一族と我が国との関係が非常に濃厚であることは変わらない。

 それはその妻子たちの名にも現われているのである。

 「ハルモニア(Harmonia)」

 門松を飾る正月を「ハル」という。

 名詞語尾のiaは国を意味するから本来の名はハルモンである。

 これは「春・門」で、門松を飾る門を意味している。

 「アウトノエ(Autonoe)」

 アウはオウだから、オオトノ=大殿で王家のこと。

 エは兄で、古語では兄と柿を意味する。

 彼女は一番上の王女だから、大殿姉なのである。

 「セメレ(Semele)」

 ゼウスが愛したのでゼウスの妻が憎み、雷に撃たれて若死にする。

 だが噂はセメレは人間の男と姦通したのを、ゼウスのせいにしたので、

 それをゼウスに「責められて」ゼウスの武器・雷で罰せられたのだ、といった。

 日本語の「セメラレ」と彼女の名「セメレ」との関係が、ここに見られる。

 セメレは奄美語ではシミジで、そこでは清水をシミジと発音する。

 「イノ(Ino)」

 イノはボイオチアの王・アタマスの後妻になったが、

 大女神・ヘラに憎まれ、

 ヘラはアタマスに夢で告げ口をしてアタマスの「頭」を狂わせる。

 頭にきたアタマスはイノに生ませた長男を殺し、イノも殺そうとした。

 イノは次男を抱いて逃げたが、追い詰められて海に飛び込んだ。

 彼女に恩義をもつゼウスは彼女と次男を海の神に変えた。

 母子は船乗りたちを嵐から救うとして厚く信仰され、

 彼女を白い女神・レウコテア、

 次男をバライモンと名付けたが、それは嵐の海の白い波がしらと、

 死の悪魔の手を払いのけてくれるからで、

 日本の神事の「お祓い」の語源がここにある。

 轟々と暴風を吹きつけて船員達を海へ引きづりこもうとする悪魔を、

 強く払いのけてくれるハライモンは、

 まさに「払い者(もん)」の名にふさわしい海の神様なのである。

 だから海人族たちがカドモスー族を日本まで運んできたのである。

 そしてイノという名は国名になり、地名、姓氏にもなって現在まで使われている。

 猪野、伊野、井野、伊能、飯野など、

 これから出た姓は特に南九州と海人族居住地に多い。

 「アガウェ(Agaue)」

 これは前にもお話ししたが、吾郷、阿江、安川という姓に合い、

 アガウェは前記の「エ=兄・姉」がついたもので、

 阿賀大兄などと当て字できる。

 「ポリドロス(Polydoros)」

 ポリドはホリト。

 堀戸や彫戸や保利都、ロスへの当て字は郎子。

 保利都郎子。

 この堀戸は後にホリベと読まれて、堀部・堀邊などに変化する。


 ※出典:大学(院)講義録16:17頁
 《ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語》
 「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語」

 誤解はないと思うが、念の為に申し上げておくと、

 以上の一致点はその名詞のギリシャ語の「意味の部分」ではない。

 ギリシャ語の名前の「発音の部分」が、

 日本では日本語として別の意味をもったのである。

 これはその名詞が我が国に入ってくる前には無かった言葉が、

 その名詞が移住してきて、

 別の意味をもつ新らしい名詞にに生まれかわったのである。

 この考え方が正しいかどうか検討するには、

 どうすればいいか?、

 それもお話ししてみよう。

 ハルとセットになる日本語は夏、秋、冬である。

 春がハルモニアが語源だとすると、他の3つはいっ生まれたのか?。

 それは古来、日本列島に土着していた先住民の縄文人が、

 すでにもっていた言葉=原日本語だったのであろうか?。

 ナツは娜津(なつ)と、

 アキは安芸(あき)と、

 フユは夫余(フユ)と同じ発音をもっている。

 暑い季節は南、寒いところは北だから、

 春秋はその中間になければならない。

  春に当たるのはどこだろう?。

 安芸を広島とすると、

 娜津は福岡だから同じ緯度にあって夏には合わなくなる。

 その辺りには春がなければならないが、

 福岡市中央区と北九州市に春吉があり、

 福岡市博多区に春町がある。

 また読み方はカスガだが文字はハルの春日市は、

 福岡の南に隣接する市だ。

 すると沖縄の那覇も海に面した都市だから古代には那津(ナツ)で、

 朝鮮半島の夫余(フユ)といい対象になる。


 ※出典:大学(院)講義録16:18頁
 《イノ国は1世紀に福岡に実在していた》
 「イノ国は1世紀に福岡に実在していた」

 沖縄がギリシャ人の基地だったことは今さら説明する必要もないから、

 春日市を検討してみよう。

 春日大社は藤原氏の氏神である。

 フジは百済でポセイドンなのだから、ハルモニアの本家である。

 これはカスガと発音する方が後世のもので、

 もともとはハルモニアをまつる神社だった可能性さえある。

 福岡・春日両市のあたりが、春に当たることは間違いない。

 では時代はいっか?。

 福岡で最も有名な出土品は志賀の島の金印である。

 そこに彫られた漢・委奴国の委はイ、奴はノだからイノ。

 『後漢書』は後漢の光武帝(25年~57年)が授けたと記録しているから、

 少なくとも1世紀には、すでにイノ国が実在していたのである。

 夫余は『魏書倭人章』と同じ『東夷』の条にでてくるから3世紀に実在している。

 百済王は自ら扶余(フユ)を名乗り、百済と高句麗は扶余一族だと語るから、

 ポセイドン一族であり、

 その支配者がギリシャ人の中のフェニキヤ系の人々だったことは疑う余地がない。

 そして安芸も先程お話しした通りアゲーノルが語源だから、

 この春夏秋冬の名は全て、

 ギリシャ人がつけた統一名詞だったとわかる。

 決して縄文人が使っていた日本語?なんかではない。

 これでハルモニアが当時の我が国でよく知られていただけでなく、

 春の語源にまでなった重要人物だった事実が、充分ご納得いただけたと思う。

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2012年3月26日月曜日

フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松(2)



 《フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松》
 「フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松」


 ※出典:大学(院)講義録16:19頁
 《ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事》
 「ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事」

 古代ギリシャ人は船旅に出る前には

 必ずポセイドンに生贅(いけにえ)を捧げて、

 航海の安全を祈ったことが、神話にも、歴史記録にもたくさん出てくる。

 それと同じことが『魏書倭人章』にも

 「その旅行や渡海の前には、つねに一人の男を生賛にする」と、

 「自衰」と呼ぶ苦行者を神に持げて、

 事故が起これば殺したことが記録されている。

 私たちにはその自衰が捧げられた相手がポセイドンだったことを、

 はっきり知り尽くした。

 だからそこに書かれた倭人とは、

 百済人=ボセイドン人=フェニキヤ人=ギリシャ人だったと

 更に再確認できたのである。

 すると倭人の男子が結束して看ている「横幅衣」が、

 古代ギリシャから現代インドにまで着られている

 トーガだったことも明瞭にわかる。

 横幅とは横幅(よこはば)の方が広い布で、縫ってない布ということだから、

 そんなものを衣服として看るのは、全世界でもトーガ以外にない。

 それをギリシャ人やインド人は肩から掛け、身体に巻いて最後を結ぶだけでうまく着る。

 『魏書倭人章』もそれを「縫わないで結束して着る」と細かく明瞭に描写している。

 また

 「婦人は、その中央を切って頭だけ通す単被(ぴ)(単衣(ひとえ)もの)を着ている」

 と書いてある。

 これも古代ギリシャの壷絵に見る婦人服そのもので、

 それを日本列島で引き継いだカリエンの人々が、

 古代のまま着続けているのを、

 今でもタイやミャンマーで見ることができる。


 ※出典:大学(院)講義録20:24頁
 《断定を急ぐより再検討を繰り返すこと》
 「断定を急ぐより再検討を繰り返すこと」

 『古事記』ほどひどくはなくても、

 本講でも早とちりをすることがある。

 たとえば以前、我が国の海人のルーツとして、

 フェニキヤ人=船来国(フネキヤ)人を挙げたことがあるが、

 本号では、ギリシャ海人の実体は海軍だったとわかった。

 するとこの2つは結びっくのか?という疑問が新たに生まれる。

 フェニキヤ人はカルデア人と同時代の人で、

 新バビロニヤ帝国に吸収されているが、

 アレクサンドロスの東征よりはるか以前に滅んでいるから、

 ギリシャ人より前にきたグループの一員だった可能性のほうが強い。

 まだまだ結論を出すのは早すぎる。

 また『十八氏纂記(つきぶみ)』の例で明らかなように、

 『記・紀』には多数の筆者がひしめいていて、

 独断的な解釈や誤解に満ちている。

 その1つに正解が見つかっても、完全だと思うのも早い。

 徹底した研究が必要である。

 その実例として隅田先生の「稗田阿礼の語源研究」をご覧にいれると、

 この必要性が具体的によくおわかり戴けて、多言を要しないと考えるし、

 本学会の実力がどれほどのものかも、広く知らせることができると思う。

 また先生の先々号のご論文が残した

 「謎=『古事記』序文の、もう1人の筆者・Ⅹは誰か?」

 のお答えも速く掲載してはしいというご催促を沢山戴いたので、

 ご多忙の先生を煩わせて、再度お願いした玉稿を、ここでご覧戴くことにした。

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 ※出典:大学(院)講義録21:3頁
 《虚構ではなかった紀元前660年の我が国建国》
 「虚構ではなかった紀元前660年の我が国建国」

 大学院講義録20号の年表には、

 もう一つ重大な我が国の建国問題が残っている。

 「『日本書紀』が建国を紀元前660年だとしているのは大ウソだ」というのが、

 明治以来の定説だからである。

 『日本書紀』はそんなにもデタラメな『正史』で、

 無茶苦茶な史書だったのであろうか?。

 ところがこの年表は、

 この大問題に、非常に適確な答を出してくれるのである。

 660年の17年前、677年にフェニキヤが滅びている。

 本来海洋民だったフェニキヤ人は、

 そのため大移動して古代ギリシャ人に混入したのだから、

 我が国まできた集団があった可能性もある。

 カドモスが都市国家テーバイを建国し、

 それを記念して新年に門松をたてる行事が今も続いているし、

 他にも幾重にも証拠が見つかっているので、否定はできない。

 またフェニキヤを滅ぼしたアッシリヤも

 612年に新バビロン帝国に敗れて併合されている。

 この新バビロンは625年に帝国になったが、

 そのとき突然、国が生れたわけではない。

 それ以前に小国時代がある。

 その建国が660年で、それを建国時としたとしても無理ではない。

 この場合もフェニキヤはバビロンの一部なのだから、

 我が国にきたフェニキヤ人は

 その建国を自分たちの国の建国としていてもおかしくはない。

 それが神武紀元とされた可能性がある。

 いまでは、

 どこからみても「660年建国はウソだ」とはいえなくなっているのである。


 ※出典:大学(院)講義録35:14頁
 《渡来の事実とその時期の確認》
 「渡来の事実とその時期の確認」

 ウバイド、ギリシャ、倭人といっても、もちろん時代が大きく違う。

 その時間差も明らかにしないといけないが、ウバイドについての研究は、

 過去の業績で明らかになっていた遺跡の下層に、

 さらに8000年前と測定された遺跡の存在が確認され、

 発掘作業進行中、

 ブッシュ大統領父子による湾岸戦争とイラク戦争という二度にわたる惨劇が起こり、

 発掘が中断されたままになっているから、

 8000年前という概数しか判らないが、

 我が国の発祥がいっか?という命題には、これで充分であるし、

 カルデア人がカリエンとして台湾・沖縄に土着し、

 高句麗・モンゴルまで支配して

 貝貨幣を中国へ運び、殷帝国の興隆に貢献した事実も解っているから、

 これがウバイド人の1ルートであったことは間違いないので、

 時代は特定できている。

 次はギリシャ人はいっやってきたか?だが、

 これは考えなけれはならない問題に満ちている。

 それを一つずっクリアーして行ってみよう。

 ①アレクサンドロスの東征によるものか?。

 ②その東征の結果、生まれたマウリア王朝のアソカ王仏教宣布団によるものか?。

 ③海の先進国フェニキヤ人の来航によるもものなのか?。

 この②はソナカが卑弥呼の夫である仲哀天皇なので時代は限定されているし、

 ①によると考えられる2~3世紀の東夷ユーロは、

 大学(院)講義録34で見たように、

 筑紫であることの確かな粛慎を経由しているので、

 渡来の事実と時期が確認できている。


 ※出典:大学(院)講義録35:15頁
 《フェニキヤ人の歴史と来航の可能性》
 「フェニキヤ人の歴史と来航の可能性」

 では、在来、

 ギリシャ人とは別けて考える人の多かったフェニキヤ人について、

 今少し詳しく確認してみよう。

 彼等は『旧約聖書』の

 箱船で有名なノアの子孫・ハムの一族で、

 セムの一族がヘブライ人のヤベテの一族がギリシャ人だから、

 ギリシャ人と祖先は同じである。

 B.C.E.20世紀ごろから

 シリア地方にシドン・ビプロス・ウガリットなどの都市国家群をたて、

 それがフェニキヤと総称されたもので、

 人種名としてはカナン人というのが通称だった。

 航海と通商の先進国で

 東はイランから西はシラキウス、大西洋やアフリカ沿岸にも植民し、

 インドに入り、スリランカにも顕著な遺物を残しているが、

 B.C.E.9世紀にアッシリアに併呑され、

 その後またアレクサンドロス大王に征服されてギリシャに属し、

 B.C.E.63年にはローマ領に編入された。

 そのため彼等が使っていた22個の子音文字がローマ字の原形になったが、

 それ以前にもヘブライ、アラム、ギリシャ文字も

 また、昔、

 このフェニキヤの線文字アルファベットから生まれたことが確認されていて、

 武装国家の暴力には屈しても、

 征服者より優れた偉大な文化人たちだったことが判る。

 スリランカは南進仏教の大本山で、

 ソナカらを乗せて来たのが彼等だった可能性も強く、

 アレクサンドロス軍の一部として、

 また単独で我が列島まで来た可能性もある。


 ※出典:大学(院)講義録35:16頁
 《スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証》
 「スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証」

 フェニキヤ人は、そのずば抜けた思考力と先進文化によって船を造り、

 その新しい移動手段を活用して、さらに新しい交易を考案実行し、
 
 富を築き国土を拡大して栄えた。

 その基礎になったのは、船材や香料や建築材としての植物の性質を研究して、

 加工し増殖する学術を発展させたことで、それが彼等の文化の著しい特徴である。

 『日本書紀』にはスサノオの尊が、子孫は「浮き宝=船」をもたなくてはいけないといって、

 髭や眉毛や体毛を抜いて蒔くと、それが種子になって杉や檜や楠などが生えたという話や、

 尊の皇子・五十猛の神と共に、樹木の種子を大八州に植えてまわったという話が載っている。

 『旧約聖書』のエゼキエル書に

 「カナン人はレバノン杉で汝の船の帆柱を造り、セニルの縦で汝の船板を造り、

  バシヤンの樫の木で汝の楫を造り、キティムの檜に象牙を嵌めて汝の甲板を造った」

 と書いてあり、フェニキヤ人以後、こうした木材を輸出して稼ぎまくったために、

 今ではレバノン杉は絶滅して見ることが出来ないが、

 フェニキヤ人はまさに文字通りの「船木屋」だったことを証言している。

 スサは、そのイラン植民地の大都市であり、

 そのスサの王の名乗りをもつスサノオのこの物語は、

 当時世界唯一のフェニキヤ文明が我が国に入って造船や植林産業を起こし、

 そのための必須教養として植物学知識が、

 説話様式による古代教育に新たに加えられた史実の『証拠』なのである。


 ※出典:大学(院)講義録35:18頁
 《「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する》
 「「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する」

 こうして挙げて来た高度の共通点=史実の証拠は、しかし言語だけであり、

 それもまた移住先の言葉に抹殺されてしまうから、

 その量は当然、激減している。

 他には証拠はないのであろうか?。

 フェニキヤ人たちが扱っていた商品の中に、彼等から以外、

 絶対に入手できなかった特珠な染料の一種がある。

 なぜ?他では手に入らないのか?、

 それは地中海岸の属国・ツロ特産だった、

 ツロツブリという巻貝の一種がごく微量内臓する柴紅色の色素で染めた織物が、

 その色彩の良さはもちろん、

 その希少性から宝石のように珍重されて王侯の衣服の必需品になり、

 彼等はその採集と製法を極秘にして巨利を得ていたからで、

 海の富は貝貨だけではなかったのである。

 そんな紫の衣服など、少数の富める国の王侯が、限られた人々にだけしか見せず、

 それらの国以外には無いはずなのに、それが我が国には古代から実在して、

 「紫衣(しい)」と呼ばれて高貴の式服とされてきた。

 それらの紫衣はツロ紫染めだったとは限らないが、

 「紫衣」の名に恥じない色合いはもっていたのである。

 この事実は、

 フェニキヤ人が我が国まで来なければ絶対にあり得ないことが理解できる知性人には、

 これを否定して彼等の影響を疑う論拠は、消滅して残らなくなってしまう。


 ※出典:大学(院)講義録35:19頁
 《スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実》
 「スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実」

 言語以外の証拠はまだある。

 それはスサノオ父子の「樹種(こだね)」の子孫である。

 『日本書紀』にある一書には

 「五十猛命が天降った時、多くの樹種をもって下ったが、

  韓地には植えず、ことごとく持ち帰り、

  筑紫から大八洲中に播かない所はなく青山にした」とあり、

 その次の一書に、前記のスサノオの「浮宝」の話が載っていて、

 杉と楠は船に…、檜は家屋に…、填(まき)は死者を葬る棺材にせよ。と命が言う。

 この杉と楠と檜と槇は今も我が国に現存しているが、

 全て列島古来の野生種ではなく、

 外部から持ち込まれた輸入品を栽培し続けていることが判っている。

 だから『日本書紀』のこの記事が真実だという生きた物証なのである。

 それが非常に古い時代の史実だという物証もまた、大量に残っている。

 それは鹿児島県の屋久島に聳える古代杉の一群だ。

 宮の浦岳登山道の高塚山付近にある縄文杉は、

 その樹齢3000年を超えると測定された古木で、

 ここ以外にそんな樹齢の杉はない。

 1000年以下の杉は「小杉」と呼ばれて、

 それ以上の木が屋久杉と呼ばれるほど老木が多いので、

 この島の杉がスサノオらが最初に植林した遺跡だということは間違いない。

 このスサノオの話は神話ではなく史実だったのである。

 その証拠に鹿児島県下には粟野の松尾城址などに、

 杉の巨木が天を衝いて聳えているのが現実に見られる。

 それはフェニキヤ文明の到来が3000年以上前であったことを、

 今も立証し続けている動かぬ証拠である。


 縄文杉:ウイルソン株の推定樹齢は三千余年

 根回り32m、直径13m。

 ※出典:大学(院)講義録35:20頁
 《移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉》
 「移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉」

 今では世界唯一の、3000年を超える屋久杉は、

 『日本書紀』のスサノオ植樹の話が実話で、

 3000年以上前にスサから来た王が植えたものだったことを疑わせない。

 在来、疑わしい神話の、疑わしい架空の「神」とされて来たスサノオが、

 実際には実在していて、

 その伝承通りの植樹をし、その木が今も生きているからである。

 ところが垂仁天皇も、皇子のホムツワケも、

 他のスサノオ伝承に一致する点がある。

 彼等は3世紀の実在者と確認できているから、

 スサノオは一人ではなく、

 「スサの王」という名乗りだったと確定できる。

 それを一柱の神と錯覚し、似た話の分布を理由に、

 それは物語が運ばれてきたのだと史実を抹殺し続けてきた「神話学」は、

 根底から再検討されなければならないが、それにも増して重要なことは、

 スサノオ植樹が史実だという確認は、屋久杉が外来植物だという確認であり、

 原産地はどこかが問題になる。

 屋久島人は3000年以上前にそれを運べないから、

 運搬者はフェニキヤ人だと特定できる。

 とすれば屋久杉はレバノン原産の杉だと確定している。

 それがどこに移植されようと杉の原産地は他にはない。

 だから屋久はレバノン杉そのものだったのである。

 『聖書』の「レバノン杉」は絶滅などせずに、

 今でも屋久島で見られるのである。


 ※出典:大学(院)講義録35:23頁
 《スサの王を日本列島へ移住させた大動乱》
 「スサの王を日本列島へ移住させた大動乱」

 しかし今から三千何百年か前、フェニキヤ人スサノオは何故?交易でなく、

 木の種子をもって我が国へやってきたのだろう?。

 答は彼の教えにある。

 彼は「我が子孫は船をもたなくてはいけない」と教え、

 我が国にだけ植物を移植したのだから、

 彼は日本列島を基地にして、海運や交易事業を継続し、

 子々孫々まで永住するために来たのである。

 それは当時シリアなどに都市国家群をもち、

 繁栄の極にあったフェニキヤ人が、

 なぜか選りに選って、

 世界の東端の、絶海の孤島といいたい程のこの日本列島に

 住もうとやってきたということである。

 そして韓国には種子を蒔かず我が国にだけ蒔いたというのだから、

 これは熟考した上での決定的行動である。

 一体、何がそうさせたのであろうか?。

 今から3200年前のB.C.E.1200年、

 エジプト第20王朝のラムセスⅢ世が、

 そのシリアを征服し、他の植民地から救援に駆けつけた

 フェニキヤ人たちも次々に撃破された。

 全く同時にギリシャのトロイヤ侵略も進んだ。

 フェニキヤ人の楽園が大動乱のうちに奪われて行ったのである。

 それはもちろん遠く離れたスサにも伝わった。

 やがてはスサも同じ惨劇に見舞われると予測したスサの王は、

 遠隔の安全地帯にあって、

 好条件の揃った希にみる楽士だと知っていた日本列島への移住を、

 熟慮の末、実行に移したのである。


 ※出典:大学(院)講義録35:24頁
 《大神と須佐之男神の話は多数の史実の混合寓話》
 「大神と須佐之男神の話は多数の史実の混合寓話」

 では天皇家はフェニキヤ人の子孫なのであろうか?。

 スサノオは天照大神の弟である。

 この2神は皇祖だとされているから、スサノオの子孫であることは疑いない。

 しかし天皇家の系譜の父子兄弟姉妹は、後世の系譜とは大層異なったものなのである。

 なぜなら欠史天皇たちの系譜や卑弥呼と神功皇后の扱いで明らかなように、

 実際の血縁とは随分違った系譜になっているからである。

 なぜ?そんなことになっているかというと、

 当時の記録は紙ではなく木簡に書かれているものを、

 順番に縄で編んで保存してある物だから、

 即位の順序が早いものが先の天皇として記入されている場合、たとえ兄や父であっても、

 後から即位すれば子や弟に見える時間帯の部分に、追加して繋いで行くしかない。

 また神話と呼ばれてきたもののように、本当の伝承が余りにも古かったり、
 
 語り部の記憶だけの場合は、省略部分や消失部分や記憶喪失部分が大量にあって、

 残った部分を名前を頼りに寄せ集めて、適当に纏めたものも当然ある。

 また倫理教育上悪い史実は、教訓のほうが重視されて、寓話化されてもいる。

 だから確かに史実が編集されてはいるが、

 名乗りは同じでも、様々な時間帯の複数の史実が、
 
 一人の事跡に見えることになる。

 これらを考慮して天照大神とスサノオをみると、

 女性絶対上位の大神は、

 絶対にフェニキヤ人ではない。

 それは時代の古いウバイドの女帝そのものだから「姉」とされたのである。


 ※出典:大学(院)講義録35:27頁
 《沖縄から本土に入ったフェニキヤ人》
 「沖縄から本土に入ったフェニキヤ人」

 もうこれで、

 フェニキヤは「船木屋」だと申し上げても、

 コジつけとも、

 論理の飛躍だともお思いにはならないと思う。

 それはまさしく日本語になっているのである。

 考えればそれは三千年以上前に日本語化したのだから、

 当然のことなのだが、

 それが今の標準語と少し、ずれがあるために疑われるのである。

 このことは逆に日本語の歴史を考える上では貴重な文化財だということになる。

 それを追及してみよう。

 フネの部分はフェニだから、エ音が消えている。

 このことは我が国の言語分布からみて、

 e音の無い沖縄語のためだと解る。

 それにはもう一つ根拠がある。

 エ音が取れるとフニになるが、沖縄では現在も船をフニと発音している。

 さらにもう一つ沖縄へ先に入ったという理由がある。

 それは船乗りのことを古い沖縄語では「フ ニ チュ」という。

 これは原語を並べてみると、明瞭に語源が浮かび上がる。

 「フェニ キヤ」 沖縄語のチは標準語のキであり、

 yuはyaと書くと一層よく相互関係が理解できる。

 フェニキヤの名が、三千数百年という歳月を経ても、一字一音も欠けることなく、

 こんなに見事に保存されていたのである。

 だからこれもフェニキヤ人が間違いなく沖縄に入り、

 以後に本土に入ったという貴重な証拠の文化財なのである。


 ※出典:大学(院)講義録35:28頁
 《フェニキヤ人来住は史実だという証拠群》
 「フェニキヤ人来住は史実だという証拠群」

 その「フェニ キ」が、もう一方では

 「船木=フナキ」という姓などの名詞になっている。

 これはキ音があるので沖縄以外の土地のものである。

 南九州には「無い」を「ネ」と言う土地と、「ナカ」と言う土地とがあった。

 今では様々な言葉が混用されていて、どこのものか断定できないが、

 山根と山名という姓があり、

 鹿児島県に阿久根、大根占があり、熊本県に玉名市があるから、

 フナは熊本語とみても大きな間違いはない。

 それはさらに次の事実を証言している。

 それは名詞語尾の「キ」はイサナキのキと同じで王称だということである。

 だからフナキは船王(キ)であって、海人王を意味していたのである。

 『住吉大社神代記』には

 船木 連(むらじ) 宇麻呂は神功皇后に舟を造って奉ったので、

 船木姓を賜わったとある。

 その所領の船木村は播磨の国、明石郡にあり、

 遠祖は大田田根子の児、神田田命とあるので、

 彼はインド経由で来た一族だったことが解る。

 カンダタという名は、

 有名な仏教説話『蜘蛛の糸』の主人公の名である。

 スサノオはフェニキヤのスリランカ拠点から、

 カンダタという名のインド人を乗せてわが国へ来たのである。

 神田田命は所領・九万八千町余の大富豪だったともあるから、

 フェニキヤ流の経済学は、ずっと後世まで健在であり、

 また履中天皇の妃・太姫郎姫(いらつめ)と高鶴郎姫との父が

 フナキワケ王と読める名をもっている。

 これらもフェニキヤ人の来住が史実だったことの不動の証拠なのだ。

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フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松(3)



 《フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松》
 「フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松」


 ※出典:大学(院)講義録36:12頁
 《猿田毘古は天狗だからユダヤ人か?》
 「猿田毘古は天狗だからユダヤ人か?」

 天狗の特徴は巨眼巨鼻である。

 そのモデルはアラブ系で、イスラエル人にも当てはまる。

 シェークスピアの喜劇『ベニスの商人』の高利貸し・シャイロックはユダヤ人で、

 巨大な鼻でユダヤ人であることを表現するので、ユダヤ鼻という名詞まで生んだ。

 これと同じことで天狗の面も、極端に象徴化しているが、

 アダムとイブの物語を知っていた人達が九州の南部にいた事実が、

 『記・紀』の記録や民俗として残った内の一証なのである。
 
 その人達とは、ユダヤ人などイスラエル系の人たちなのであろうか?。

 猿田毘古の神は「岐・ふなと」の神という別名をもっている。
 
 これは彼が岬の神であることと考え合わせると、

 どうしても「船人(ふなと)」の神だということになる。

 また彼は、後から来た天孫を迎えるのだから、ずいぶん先に来ている。

 ニニギノミコトの話は後世の史実が神鼓として誤り伝えられたものとしても、

 天皇家のごく初期の史実であるから、7世紀になってから、やっと唐に着いた、

 大秦景教徒では絶対にない。

 間違いなく可能性があるのは、先に見たフェニキヤ人である。

 それは船がフェニ、岐がキを証言しているし、

 彼らは元々アブラハムの出身地、

 2大河の河南、ウバイド出身で、

 大学(院)講義録35で確認したように、ユダヤ人とは血を分けたノアの子孫だからである。


 ※出典:大学(院)講義録36:13頁
 《天狗という名にも大きな意味》
 「天狗という名にも大きな意味」

 また南九州語が、助詞を「ン」と発音し、

 名乗りの名詞の間に挟む習慣があったことを考えると、

 猿田毘古は猿田ン毘古で、サルタン毘古と呼ばれていたのだから、

 彼はユダヤ人ではなく、

 支配者をサルタンと呼ぶアラブ人の王だったことになる。

 これもまたフェニキヤ人の来航者であって、

 景教徒ではなかったという重要な証拠とみていい。

 そしてさらに「天狗」という名にも、大きな意味がある。

 それは天=天竺であり沖縄であり、狗は犬だからである。

 この犬も大学(院)講義録35でお話ししたとおり、

 インダ、インダス、稲田、隼人、稲敷、殷、儼、允と連なって、

 ウバイド女帝国が拡大して行った様子と地域を記録していた。

 天狗という名は、これだけの史実を背景にもつ、充実した語り部なのである。

 また沖縄の母音aは鹿児島ではeと発音し、

 語尾のムはンと発音することも注意がいる。

 アダムはエデンになるから、

 この人名と地名はもとは一つだったが、

 後に地名が人名になった。

 我が国の名乗りもそうで、これもウバイド語と同じだったのである。

 その同じ名が沖縄で植物の名・アダンになり、

 鹿児島で人の姓・エデンになった。

 その姓の当て字が「江田」だったのである。

 それが古代の名だったことにも、それを証明する巨大な文化財が残っている。


 ※出典:大学(院)講義録36:15頁
 《「江田」は高貴な姓・地名。歴史の真価》
 「「江田」は高貴な姓・地名。歴史の真価」

 「エデン」は、チグリスとユーフラテス両大河の恵みを受けて、

 その下流域に生まれた、アラブには希にみる木々の繁る楽園だった。

 そこが豊かな都を支え、

 世界最初の大国ウバイドになったことは、少し考えればわかる。

 エデンとはウバイドそのものだったのである。

 そこから出た人々は、大移動先でもまた、よく似た楽園を求めて、

 そこに首都を置き、そこをエデンと呼んだ。

 それは我が国では後に江田(エデン)と当て字されたが、

 首都が移動した跡はエダと発音が変えられた。

 だから江田という地名で今なお残っているのだ。

 エダと発音が変わっても、

 関西の語尾のナアをノオと言い、

 ヤをヨという関東で、

 語尾のaがoに変わった江戸(エド)の名が、

 列島東半の首都名として幕末まで残ったことで、

 それがエデン⇒エダ⇒エドと変化した

 我が国最古の都名だったことがよく判る。
       
 だから江田(エデン)を名乗りにもつ江田氏は、

 太古の支配者の末裔だと斬言できる。

 なぜなら、ウバイドのエデンは万世一系の天皇家の出発点である。

 そこから分かれたことを枝分かれしたというのは

 「江田分かれ」と同音・同意である。

 だから「枝」という名詞は江田(えだ)から生まれたことが解る。

 またこの「枝」という名詞は、木の「部分」を示すからスサノオに結びつく。

 エデンの名は、フェニキヤ人が杉や檜と共にもってきた証拠なのである。


 ※出典:大学(院)講義録36:18頁
 《兜布とフェニキア人・猿田毘古に由来》
 「兜布とフェニキア人・猿田毘古に由来」

 山伏スタイルが何時からのものかは判らないが、

 修験道(しゅげんどう)に代表される山岳信仰は沖縄の民俗宗教である

 「御岳(うだち)詣り」がもとで、

 それがトカラ列島などに広まって種子島、屋久島、硫黄ガ島などの

 「御岳(だけ)登り」になり、

 鹿児島の金峰山(きんぽうざん=日置(ひおっ)郡金峰町(きんぽうちょう))で

 春秋の彼岸に山焼きをしたという伝承がある。

 これは京都の大文字などの送り火と同じで、

 蔵王権現の社、妙見堂、文殊堂、蔵王権現別当寺、金峰山観音寺金蔵院などがあるので、

 奈良県の吉野の蔵王信仰が伝わったものと思われているが、

 この山は金山であり、

 太古から航海の座標として遣唐使の往来にも重要な役割を果たしており、

 山焼きも船への信号の名残だが、

 奈良の金峰山(きんぶせん)は山名にも理由がなく、

 南海一帯の御岳(うだち)詣りのほうが先である。

 それは海人たちの座標に対する感謝と尊敬を表す信仰で、

 それが出身の異なる海人たちの、

 ポセイドンやアフロディテ、ビシュヌー、マカーラといった海の神話伝承と合体し、

 神道や密教や民間信仰と集合して、

 修験道(しゅげんどう)という

 単純怪奇な感じの独特の信仰形態を作り上げたのである。

 金峰町の社寺は、もちろん後世に、由緒を尊んで逆移入されたものだ。

 山伏の兜布は猿田毘古=天狗に由来する。

 砂漠のシルクロード経由のユダヤ人のものではあり得ず、

 海人で植林に山へ登ったフェニキヤ人のもの以外あり得ない。


 ※出典:大学(院)講義録36:21頁
 《猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ》
 「猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ」

 これで大人弥五郎は、間違いなく猿田彦だとわかる。

 しかし何故?名が違うのだろう?。

 大隅語の発音は「ヤクルドン」である。

 私にはそれは屋久郎ドンと聞こえる。

 こんな顔をした屋久島王といえば、

 そこに杉を植えたスサノオもそれに該当する。

 大隅では弥五郎は武内宿祢だともいう。

 宿弥は高族=カリエンで、宝貝を貨幣として中国に売って、

 その富で商帝国=殷を樹立した一族の、長の名乗りである。

 これでフェニキヤ人が屋久島へ来た時期も判った。

 それは縄文杉の年輪と共に貝貨幣と殷の発掘物とそこに書かれた文献史料という、

 莫大な物証をもっていたからである。

 屋久郎ドンは海人の王だから、

 船の王であり、海原を支配した神・マカーラでもある。

 その容貌は、まさしく中近東の人である。

 とすれば、兜布はフェニキヤ人の船乗りのもので冠の一種だったのである。

 それが冠だった証拠もまた大量にある。

 それは江戸時代まで実用品だった武士の礼装用の冠で、

 浅野内匠守が刃傷の場で額につけているあれである。

 これは新羅の王も全く同じものを着けていたことが、

 出土品の陪葬騎士像ではっきり判る。

 それは兜布とは形が違い、はるかに複雑な形になっているが、

 額の前方の同じ位置に着け、紐を顎で結んで止める。

 兜布を基に考案、心理的効果を狙って改良進化したことが判る。

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2012年3月24日土曜日

フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松(1)



言語復原史学会
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《フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松》


「新年に飾る[門松]の意義とルーツは?」

出典:言語復原史学会「大学院講義録16:3頁」

正月を迎えると我が国では門松を立てる。

最近は少なくなったが、戦前は長屋住まいの人でも、

根のついた松苗にノシを掛けたものを、

玄関の左右に打ちつけて、松の内を祝った。

ところが戦争が長引いて、

航空燃料に松根油を供出するという断未魔状態になると、

政府が

「松は重要資源だから門松は国策に反する、絵で代用するように」

と命令したので、

以後は門松の絵を印刷したものを貼るようになった。

敗戦後

「そんな縁起でもないことをしたから敗けたんだ」

といった人がいたが、

戦後はデパートなどが賑々しく大きな松竹梅を飾るくらいで、

全国的に廃れて、

クリスマス・ツリーのほうが目立つようになった。

しかしなぜ門松を立てるのか?。

在来の手法なら何でもかでも「中国から来た文化だ」で済まされてきたが、

中国には松を特別視する宗教や習慣はない。

それがあるのは只1カ所、ギリシャだけである。

古代ギリシャでは船を造るのに松が欠かせない適材だったから、

今も「ポセイドンの聖木」として神聖祝されている。

この門松(カドマツ)という姓が鹿児島にある。

私の古い友人にも門松君がいたが、背のスラリとした欧米型の美男子だった。

すると初めて松の木が、なぜ「マツ」という発音をもっているのか?が、わかる。


「ポセイドンだけが完全証明できる「馬の国」名詞群」

出典:言語復原史学会「大学院講義録16:4頁」

ポセイドンは豊穣の女神・デメテルに一目惚れして、

彼女を喜ばせようと河馬やキリンやロバなど様々な動物を造ったが皆、

女神の気にいらなかった。

しかし諦めずに試作品を造り続けた結果、ついにデメテルが、

うっとりする美の極致の動物が出来上がった。

馬である。

古代日本人はこの話をよく知っていたのである。

なぜなら百済はポセイドンへの当て字である。

それがクダラという発音ももっている。

クダはマレー語の「馬」だから、クダラとは「馬の国」だ。

これは古文では「馬津国」と書き、マツラと読む。

これは『魏書倭人章』に末廬国と書かれた国と発音が一致し、

今の佐賀県と長崎県にまたがる松浦地方であることも、

帯方郡使がやってきたコースの記録で、

完全に証明されていて疑う余地がない。

そのコースを北へ逆行すると朝鮮半島南西部に着くが、そこは当時、

馬韓国だったことが『魏書・東夷・韓章』に記録されている。

馬韓国は「マガラ」と日本語読みすると、初めて正確な意味がわかる。

「馬ガ国」すなわち馬の国で、

後世、植民地百済になったことも疑問の余地はない。

百済も末廬国も松浦も馬韓も、全て同じ馬の国だったのである。

百済がなぜ?馬の国だったか、それはこの、

ポセイドンと馬との切っても切れない関係を教えたギリシャ神話が、

当時の我が国で周知のものだったからに、ほかならず、

そうでなければ絶対に生まれるはずのない複数の地名・国名群と、

その相互関係だったのである。


「『魏書倭人章』解続と国史解明への新しい手掛かり」

出典:言語復原史学会「大学院講義録16:5頁」

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