私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。 発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、今後、若い人たちの研究課題である。 また、オリエント史(ウバイド・アッカド・シュメル等)・ギリシャ史・インダス文明史・中国史・朝鮮史等の理解を深めることにより、 今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化の源流、日本語の語源・成立、日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できれば幸いです。
2012年3月26日月曜日
フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松(2)
《フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松》
「フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松」
※出典:大学(院)講義録16:19頁
《ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事》
「ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事」
古代ギリシャ人は船旅に出る前には
必ずポセイドンに生贅(いけにえ)を捧げて、
航海の安全を祈ったことが、神話にも、歴史記録にもたくさん出てくる。
それと同じことが『魏書倭人章』にも
「その旅行や渡海の前には、つねに一人の男を生賛にする」と、
「自衰」と呼ぶ苦行者を神に持げて、
事故が起これば殺したことが記録されている。
私たちにはその自衰が捧げられた相手がポセイドンだったことを、
はっきり知り尽くした。
だからそこに書かれた倭人とは、
百済人=ボセイドン人=フェニキヤ人=ギリシャ人だったと
更に再確認できたのである。
すると倭人の男子が結束して看ている「横幅衣」が、
古代ギリシャから現代インドにまで着られている
トーガだったことも明瞭にわかる。
横幅とは横幅(よこはば)の方が広い布で、縫ってない布ということだから、
そんなものを衣服として看るのは、全世界でもトーガ以外にない。
それをギリシャ人やインド人は肩から掛け、身体に巻いて最後を結ぶだけでうまく着る。
『魏書倭人章』もそれを「縫わないで結束して着る」と細かく明瞭に描写している。
また
「婦人は、その中央を切って頭だけ通す単被(ぴ)(単衣(ひとえ)もの)を着ている」
と書いてある。
これも古代ギリシャの壷絵に見る婦人服そのもので、
それを日本列島で引き継いだカリエンの人々が、
古代のまま着続けているのを、
今でもタイやミャンマーで見ることができる。
※出典:大学(院)講義録20:24頁
《断定を急ぐより再検討を繰り返すこと》
「断定を急ぐより再検討を繰り返すこと」
『古事記』ほどひどくはなくても、
本講でも早とちりをすることがある。
たとえば以前、我が国の海人のルーツとして、
フェニキヤ人=船来国(フネキヤ)人を挙げたことがあるが、
本号では、ギリシャ海人の実体は海軍だったとわかった。
するとこの2つは結びっくのか?という疑問が新たに生まれる。
フェニキヤ人はカルデア人と同時代の人で、
新バビロニヤ帝国に吸収されているが、
アレクサンドロスの東征よりはるか以前に滅んでいるから、
ギリシャ人より前にきたグループの一員だった可能性のほうが強い。
まだまだ結論を出すのは早すぎる。
また『十八氏纂記(つきぶみ)』の例で明らかなように、
『記・紀』には多数の筆者がひしめいていて、
独断的な解釈や誤解に満ちている。
その1つに正解が見つかっても、完全だと思うのも早い。
徹底した研究が必要である。
その実例として隅田先生の「稗田阿礼の語源研究」をご覧にいれると、
この必要性が具体的によくおわかり戴けて、多言を要しないと考えるし、
本学会の実力がどれほどのものかも、広く知らせることができると思う。
また先生の先々号のご論文が残した
「謎=『古事記』序文の、もう1人の筆者・Ⅹは誰か?」
のお答えも速く掲載してはしいというご催促を沢山戴いたので、
ご多忙の先生を煩わせて、再度お願いした玉稿を、ここでご覧戴くことにした。
言語復原史学会
言語復原史学会
※出典:大学(院)講義録21:3頁
《虚構ではなかった紀元前660年の我が国建国》
「虚構ではなかった紀元前660年の我が国建国」
大学院講義録20号の年表には、
もう一つ重大な我が国の建国問題が残っている。
「『日本書紀』が建国を紀元前660年だとしているのは大ウソだ」というのが、
明治以来の定説だからである。
『日本書紀』はそんなにもデタラメな『正史』で、
無茶苦茶な史書だったのであろうか?。
ところがこの年表は、
この大問題に、非常に適確な答を出してくれるのである。
660年の17年前、677年にフェニキヤが滅びている。
本来海洋民だったフェニキヤ人は、
そのため大移動して古代ギリシャ人に混入したのだから、
我が国まできた集団があった可能性もある。
カドモスが都市国家テーバイを建国し、
それを記念して新年に門松をたてる行事が今も続いているし、
他にも幾重にも証拠が見つかっているので、否定はできない。
またフェニキヤを滅ぼしたアッシリヤも
612年に新バビロン帝国に敗れて併合されている。
この新バビロンは625年に帝国になったが、
そのとき突然、国が生れたわけではない。
それ以前に小国時代がある。
その建国が660年で、それを建国時としたとしても無理ではない。
この場合もフェニキヤはバビロンの一部なのだから、
我が国にきたフェニキヤ人は
その建国を自分たちの国の建国としていてもおかしくはない。
それが神武紀元とされた可能性がある。
いまでは、
どこからみても「660年建国はウソだ」とはいえなくなっているのである。
※出典:大学(院)講義録35:14頁
《渡来の事実とその時期の確認》
「渡来の事実とその時期の確認」
ウバイド、ギリシャ、倭人といっても、もちろん時代が大きく違う。
その時間差も明らかにしないといけないが、ウバイドについての研究は、
過去の業績で明らかになっていた遺跡の下層に、
さらに8000年前と測定された遺跡の存在が確認され、
発掘作業進行中、
ブッシュ大統領父子による湾岸戦争とイラク戦争という二度にわたる惨劇が起こり、
発掘が中断されたままになっているから、
8000年前という概数しか判らないが、
我が国の発祥がいっか?という命題には、これで充分であるし、
カルデア人がカリエンとして台湾・沖縄に土着し、
高句麗・モンゴルまで支配して
貝貨幣を中国へ運び、殷帝国の興隆に貢献した事実も解っているから、
これがウバイド人の1ルートであったことは間違いないので、
時代は特定できている。
次はギリシャ人はいっやってきたか?だが、
これは考えなけれはならない問題に満ちている。
それを一つずっクリアーして行ってみよう。
①アレクサンドロスの東征によるものか?。
②その東征の結果、生まれたマウリア王朝のアソカ王仏教宣布団によるものか?。
③海の先進国フェニキヤ人の来航によるもものなのか?。
この②はソナカが卑弥呼の夫である仲哀天皇なので時代は限定されているし、
①によると考えられる2~3世紀の東夷ユーロは、
大学(院)講義録34で見たように、
筑紫であることの確かな粛慎を経由しているので、
渡来の事実と時期が確認できている。
※出典:大学(院)講義録35:15頁
《フェニキヤ人の歴史と来航の可能性》
「フェニキヤ人の歴史と来航の可能性」
では、在来、
ギリシャ人とは別けて考える人の多かったフェニキヤ人について、
今少し詳しく確認してみよう。
彼等は『旧約聖書』の
箱船で有名なノアの子孫・ハムの一族で、
セムの一族がヘブライ人のヤベテの一族がギリシャ人だから、
ギリシャ人と祖先は同じである。
B.C.E.20世紀ごろから
シリア地方にシドン・ビプロス・ウガリットなどの都市国家群をたて、
それがフェニキヤと総称されたもので、
人種名としてはカナン人というのが通称だった。
航海と通商の先進国で
東はイランから西はシラキウス、大西洋やアフリカ沿岸にも植民し、
インドに入り、スリランカにも顕著な遺物を残しているが、
B.C.E.9世紀にアッシリアに併呑され、
その後またアレクサンドロス大王に征服されてギリシャに属し、
B.C.E.63年にはローマ領に編入された。
そのため彼等が使っていた22個の子音文字がローマ字の原形になったが、
それ以前にもヘブライ、アラム、ギリシャ文字も
また、昔、
このフェニキヤの線文字アルファベットから生まれたことが確認されていて、
武装国家の暴力には屈しても、
征服者より優れた偉大な文化人たちだったことが判る。
スリランカは南進仏教の大本山で、
ソナカらを乗せて来たのが彼等だった可能性も強く、
アレクサンドロス軍の一部として、
また単独で我が列島まで来た可能性もある。
※出典:大学(院)講義録35:16頁
《スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証》
「スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証」
フェニキヤ人は、そのずば抜けた思考力と先進文化によって船を造り、
その新しい移動手段を活用して、さらに新しい交易を考案実行し、
富を築き国土を拡大して栄えた。
その基礎になったのは、船材や香料や建築材としての植物の性質を研究して、
加工し増殖する学術を発展させたことで、それが彼等の文化の著しい特徴である。
『日本書紀』にはスサノオの尊が、子孫は「浮き宝=船」をもたなくてはいけないといって、
髭や眉毛や体毛を抜いて蒔くと、それが種子になって杉や檜や楠などが生えたという話や、
尊の皇子・五十猛の神と共に、樹木の種子を大八州に植えてまわったという話が載っている。
『旧約聖書』のエゼキエル書に
「カナン人はレバノン杉で汝の船の帆柱を造り、セニルの縦で汝の船板を造り、
バシヤンの樫の木で汝の楫を造り、キティムの檜に象牙を嵌めて汝の甲板を造った」
と書いてあり、フェニキヤ人以後、こうした木材を輸出して稼ぎまくったために、
今ではレバノン杉は絶滅して見ることが出来ないが、
フェニキヤ人はまさに文字通りの「船木屋」だったことを証言している。
スサは、そのイラン植民地の大都市であり、
そのスサの王の名乗りをもつスサノオのこの物語は、
当時世界唯一のフェニキヤ文明が我が国に入って造船や植林産業を起こし、
そのための必須教養として植物学知識が、
説話様式による古代教育に新たに加えられた史実の『証拠』なのである。
※出典:大学(院)講義録35:18頁
《「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する》
「「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する」
こうして挙げて来た高度の共通点=史実の証拠は、しかし言語だけであり、
それもまた移住先の言葉に抹殺されてしまうから、
その量は当然、激減している。
他には証拠はないのであろうか?。
フェニキヤ人たちが扱っていた商品の中に、彼等から以外、
絶対に入手できなかった特珠な染料の一種がある。
なぜ?他では手に入らないのか?、
それは地中海岸の属国・ツロ特産だった、
ツロツブリという巻貝の一種がごく微量内臓する柴紅色の色素で染めた織物が、
その色彩の良さはもちろん、
その希少性から宝石のように珍重されて王侯の衣服の必需品になり、
彼等はその採集と製法を極秘にして巨利を得ていたからで、
海の富は貝貨だけではなかったのである。
そんな紫の衣服など、少数の富める国の王侯が、限られた人々にだけしか見せず、
それらの国以外には無いはずなのに、それが我が国には古代から実在して、
「紫衣(しい)」と呼ばれて高貴の式服とされてきた。
それらの紫衣はツロ紫染めだったとは限らないが、
「紫衣」の名に恥じない色合いはもっていたのである。
この事実は、
フェニキヤ人が我が国まで来なければ絶対にあり得ないことが理解できる知性人には、
これを否定して彼等の影響を疑う論拠は、消滅して残らなくなってしまう。
※出典:大学(院)講義録35:19頁
《スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実》
「スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実」
言語以外の証拠はまだある。
それはスサノオ父子の「樹種(こだね)」の子孫である。
『日本書紀』にある一書には
「五十猛命が天降った時、多くの樹種をもって下ったが、
韓地には植えず、ことごとく持ち帰り、
筑紫から大八洲中に播かない所はなく青山にした」とあり、
その次の一書に、前記のスサノオの「浮宝」の話が載っていて、
杉と楠は船に…、檜は家屋に…、填(まき)は死者を葬る棺材にせよ。と命が言う。
この杉と楠と檜と槇は今も我が国に現存しているが、
全て列島古来の野生種ではなく、
外部から持ち込まれた輸入品を栽培し続けていることが判っている。
だから『日本書紀』のこの記事が真実だという生きた物証なのである。
それが非常に古い時代の史実だという物証もまた、大量に残っている。
それは鹿児島県の屋久島に聳える古代杉の一群だ。
宮の浦岳登山道の高塚山付近にある縄文杉は、
その樹齢3000年を超えると測定された古木で、
ここ以外にそんな樹齢の杉はない。
1000年以下の杉は「小杉」と呼ばれて、
それ以上の木が屋久杉と呼ばれるほど老木が多いので、
この島の杉がスサノオらが最初に植林した遺跡だということは間違いない。
このスサノオの話は神話ではなく史実だったのである。
その証拠に鹿児島県下には粟野の松尾城址などに、
杉の巨木が天を衝いて聳えているのが現実に見られる。
それはフェニキヤ文明の到来が3000年以上前であったことを、
今も立証し続けている動かぬ証拠である。
縄文杉:ウイルソン株の推定樹齢は三千余年
根回り32m、直径13m。
※出典:大学(院)講義録35:20頁
《移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉》
「移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉」
今では世界唯一の、3000年を超える屋久杉は、
『日本書紀』のスサノオ植樹の話が実話で、
3000年以上前にスサから来た王が植えたものだったことを疑わせない。
在来、疑わしい神話の、疑わしい架空の「神」とされて来たスサノオが、
実際には実在していて、
その伝承通りの植樹をし、その木が今も生きているからである。
ところが垂仁天皇も、皇子のホムツワケも、
他のスサノオ伝承に一致する点がある。
彼等は3世紀の実在者と確認できているから、
スサノオは一人ではなく、
「スサの王」という名乗りだったと確定できる。
それを一柱の神と錯覚し、似た話の分布を理由に、
それは物語が運ばれてきたのだと史実を抹殺し続けてきた「神話学」は、
根底から再検討されなければならないが、それにも増して重要なことは、
スサノオ植樹が史実だという確認は、屋久杉が外来植物だという確認であり、
原産地はどこかが問題になる。
屋久島人は3000年以上前にそれを運べないから、
運搬者はフェニキヤ人だと特定できる。
とすれば屋久杉はレバノン原産の杉だと確定している。
それがどこに移植されようと杉の原産地は他にはない。
だから屋久はレバノン杉そのものだったのである。
『聖書』の「レバノン杉」は絶滅などせずに、
今でも屋久島で見られるのである。
※出典:大学(院)講義録35:23頁
《スサの王を日本列島へ移住させた大動乱》
「スサの王を日本列島へ移住させた大動乱」
しかし今から三千何百年か前、フェニキヤ人スサノオは何故?交易でなく、
木の種子をもって我が国へやってきたのだろう?。
答は彼の教えにある。
彼は「我が子孫は船をもたなくてはいけない」と教え、
我が国にだけ植物を移植したのだから、
彼は日本列島を基地にして、海運や交易事業を継続し、
子々孫々まで永住するために来たのである。
それは当時シリアなどに都市国家群をもち、
繁栄の極にあったフェニキヤ人が、
なぜか選りに選って、
世界の東端の、絶海の孤島といいたい程のこの日本列島に
住もうとやってきたということである。
そして韓国には種子を蒔かず我が国にだけ蒔いたというのだから、
これは熟考した上での決定的行動である。
一体、何がそうさせたのであろうか?。
今から3200年前のB.C.E.1200年、
エジプト第20王朝のラムセスⅢ世が、
そのシリアを征服し、他の植民地から救援に駆けつけた
フェニキヤ人たちも次々に撃破された。
全く同時にギリシャのトロイヤ侵略も進んだ。
フェニキヤ人の楽園が大動乱のうちに奪われて行ったのである。
それはもちろん遠く離れたスサにも伝わった。
やがてはスサも同じ惨劇に見舞われると予測したスサの王は、
遠隔の安全地帯にあって、
好条件の揃った希にみる楽士だと知っていた日本列島への移住を、
熟慮の末、実行に移したのである。
※出典:大学(院)講義録35:24頁
《大神と須佐之男神の話は多数の史実の混合寓話》
「大神と須佐之男神の話は多数の史実の混合寓話」
では天皇家はフェニキヤ人の子孫なのであろうか?。
スサノオは天照大神の弟である。
この2神は皇祖だとされているから、スサノオの子孫であることは疑いない。
しかし天皇家の系譜の父子兄弟姉妹は、後世の系譜とは大層異なったものなのである。
なぜなら欠史天皇たちの系譜や卑弥呼と神功皇后の扱いで明らかなように、
実際の血縁とは随分違った系譜になっているからである。
なぜ?そんなことになっているかというと、
当時の記録は紙ではなく木簡に書かれているものを、
順番に縄で編んで保存してある物だから、
即位の順序が早いものが先の天皇として記入されている場合、たとえ兄や父であっても、
後から即位すれば子や弟に見える時間帯の部分に、追加して繋いで行くしかない。
また神話と呼ばれてきたもののように、本当の伝承が余りにも古かったり、
語り部の記憶だけの場合は、省略部分や消失部分や記憶喪失部分が大量にあって、
残った部分を名前を頼りに寄せ集めて、適当に纏めたものも当然ある。
また倫理教育上悪い史実は、教訓のほうが重視されて、寓話化されてもいる。
だから確かに史実が編集されてはいるが、
名乗りは同じでも、様々な時間帯の複数の史実が、
一人の事跡に見えることになる。
これらを考慮して天照大神とスサノオをみると、
女性絶対上位の大神は、
絶対にフェニキヤ人ではない。
それは時代の古いウバイドの女帝そのものだから「姉」とされたのである。
※出典:大学(院)講義録35:27頁
《沖縄から本土に入ったフェニキヤ人》
「沖縄から本土に入ったフェニキヤ人」
もうこれで、
フェニキヤは「船木屋」だと申し上げても、
コジつけとも、
論理の飛躍だともお思いにはならないと思う。
それはまさしく日本語になっているのである。
考えればそれは三千年以上前に日本語化したのだから、
当然のことなのだが、
それが今の標準語と少し、ずれがあるために疑われるのである。
このことは逆に日本語の歴史を考える上では貴重な文化財だということになる。
それを追及してみよう。
フネの部分はフェニだから、エ音が消えている。
このことは我が国の言語分布からみて、
e音の無い沖縄語のためだと解る。
それにはもう一つ根拠がある。
エ音が取れるとフニになるが、沖縄では現在も船をフニと発音している。
さらにもう一つ沖縄へ先に入ったという理由がある。
それは船乗りのことを古い沖縄語では「フ ニ チュ」という。
これは原語を並べてみると、明瞭に語源が浮かび上がる。
「フェニ キヤ」 沖縄語のチは標準語のキであり、
yuはyaと書くと一層よく相互関係が理解できる。
フェニキヤの名が、三千数百年という歳月を経ても、一字一音も欠けることなく、
こんなに見事に保存されていたのである。
だからこれもフェニキヤ人が間違いなく沖縄に入り、
以後に本土に入ったという貴重な証拠の文化財なのである。
※出典:大学(院)講義録35:28頁
《フェニキヤ人来住は史実だという証拠群》
「フェニキヤ人来住は史実だという証拠群」
その「フェニ キ」が、もう一方では
「船木=フナキ」という姓などの名詞になっている。
これはキ音があるので沖縄以外の土地のものである。
南九州には「無い」を「ネ」と言う土地と、「ナカ」と言う土地とがあった。
今では様々な言葉が混用されていて、どこのものか断定できないが、
山根と山名という姓があり、
鹿児島県に阿久根、大根占があり、熊本県に玉名市があるから、
フナは熊本語とみても大きな間違いはない。
それはさらに次の事実を証言している。
それは名詞語尾の「キ」はイサナキのキと同じで王称だということである。
だからフナキは船王(キ)であって、海人王を意味していたのである。
『住吉大社神代記』には
船木 連(むらじ) 宇麻呂は神功皇后に舟を造って奉ったので、
船木姓を賜わったとある。
その所領の船木村は播磨の国、明石郡にあり、
遠祖は大田田根子の児、神田田命とあるので、
彼はインド経由で来た一族だったことが解る。
カンダタという名は、
有名な仏教説話『蜘蛛の糸』の主人公の名である。
スサノオはフェニキヤのスリランカ拠点から、
カンダタという名のインド人を乗せてわが国へ来たのである。
神田田命は所領・九万八千町余の大富豪だったともあるから、
フェニキヤ流の経済学は、ずっと後世まで健在であり、
また履中天皇の妃・太姫郎姫(いらつめ)と高鶴郎姫との父が
フナキワケ王と読める名をもっている。
これらもフェニキヤ人の来住が史実だったことの不動の証拠なのだ。
『参照ブログ』
古代メソポタミア
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
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《参考》
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