私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。 発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、今後、若い人たちの研究課題である。 また、オリエント史(ウバイド・アッカド・シュメル等)・ギリシャ史・インダス文明史・中国史・朝鮮史等の理解を深めることにより、 今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化の源流、日本語の語源・成立、日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できれば幸いです。
2012年3月26日月曜日
フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松(3)
《フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松》
「フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松」
※出典:大学(院)講義録36:12頁
《猿田毘古は天狗だからユダヤ人か?》
「猿田毘古は天狗だからユダヤ人か?」
天狗の特徴は巨眼巨鼻である。
そのモデルはアラブ系で、イスラエル人にも当てはまる。
シェークスピアの喜劇『ベニスの商人』の高利貸し・シャイロックはユダヤ人で、
巨大な鼻でユダヤ人であることを表現するので、ユダヤ鼻という名詞まで生んだ。
これと同じことで天狗の面も、極端に象徴化しているが、
アダムとイブの物語を知っていた人達が九州の南部にいた事実が、
『記・紀』の記録や民俗として残った内の一証なのである。
その人達とは、ユダヤ人などイスラエル系の人たちなのであろうか?。
猿田毘古の神は「岐・ふなと」の神という別名をもっている。
これは彼が岬の神であることと考え合わせると、
どうしても「船人(ふなと)」の神だということになる。
また彼は、後から来た天孫を迎えるのだから、ずいぶん先に来ている。
ニニギノミコトの話は後世の史実が神鼓として誤り伝えられたものとしても、
天皇家のごく初期の史実であるから、7世紀になってから、やっと唐に着いた、
大秦景教徒では絶対にない。
間違いなく可能性があるのは、先に見たフェニキヤ人である。
それは船がフェニ、岐がキを証言しているし、
彼らは元々アブラハムの出身地、
2大河の河南、ウバイド出身で、
大学(院)講義録35で確認したように、ユダヤ人とは血を分けたノアの子孫だからである。
※出典:大学(院)講義録36:13頁
《天狗という名にも大きな意味》
「天狗という名にも大きな意味」
また南九州語が、助詞を「ン」と発音し、
名乗りの名詞の間に挟む習慣があったことを考えると、
猿田毘古は猿田ン毘古で、サルタン毘古と呼ばれていたのだから、
彼はユダヤ人ではなく、
支配者をサルタンと呼ぶアラブ人の王だったことになる。
これもまたフェニキヤ人の来航者であって、
景教徒ではなかったという重要な証拠とみていい。
そしてさらに「天狗」という名にも、大きな意味がある。
それは天=天竺であり沖縄であり、狗は犬だからである。
この犬も大学(院)講義録35でお話ししたとおり、
インダ、インダス、稲田、隼人、稲敷、殷、儼、允と連なって、
ウバイド女帝国が拡大して行った様子と地域を記録していた。
天狗という名は、これだけの史実を背景にもつ、充実した語り部なのである。
また沖縄の母音aは鹿児島ではeと発音し、
語尾のムはンと発音することも注意がいる。
アダムはエデンになるから、
この人名と地名はもとは一つだったが、
後に地名が人名になった。
我が国の名乗りもそうで、これもウバイド語と同じだったのである。
その同じ名が沖縄で植物の名・アダンになり、
鹿児島で人の姓・エデンになった。
その姓の当て字が「江田」だったのである。
それが古代の名だったことにも、それを証明する巨大な文化財が残っている。
※出典:大学(院)講義録36:15頁
《「江田」は高貴な姓・地名。歴史の真価》
「「江田」は高貴な姓・地名。歴史の真価」
「エデン」は、チグリスとユーフラテス両大河の恵みを受けて、
その下流域に生まれた、アラブには希にみる木々の繁る楽園だった。
そこが豊かな都を支え、
世界最初の大国ウバイドになったことは、少し考えればわかる。
エデンとはウバイドそのものだったのである。
そこから出た人々は、大移動先でもまた、よく似た楽園を求めて、
そこに首都を置き、そこをエデンと呼んだ。
それは我が国では後に江田(エデン)と当て字されたが、
首都が移動した跡はエダと発音が変えられた。
だから江田という地名で今なお残っているのだ。
エダと発音が変わっても、
関西の語尾のナアをノオと言い、
ヤをヨという関東で、
語尾のaがoに変わった江戸(エド)の名が、
列島東半の首都名として幕末まで残ったことで、
それがエデン⇒エダ⇒エドと変化した
我が国最古の都名だったことがよく判る。
だから江田(エデン)を名乗りにもつ江田氏は、
太古の支配者の末裔だと斬言できる。
なぜなら、ウバイドのエデンは万世一系の天皇家の出発点である。
そこから分かれたことを枝分かれしたというのは
「江田分かれ」と同音・同意である。
だから「枝」という名詞は江田(えだ)から生まれたことが解る。
またこの「枝」という名詞は、木の「部分」を示すからスサノオに結びつく。
エデンの名は、フェニキヤ人が杉や檜と共にもってきた証拠なのである。
※出典:大学(院)講義録36:18頁
《兜布とフェニキア人・猿田毘古に由来》
「兜布とフェニキア人・猿田毘古に由来」
山伏スタイルが何時からのものかは判らないが、
修験道(しゅげんどう)に代表される山岳信仰は沖縄の民俗宗教である
「御岳(うだち)詣り」がもとで、
それがトカラ列島などに広まって種子島、屋久島、硫黄ガ島などの
「御岳(だけ)登り」になり、
鹿児島の金峰山(きんぽうざん=日置(ひおっ)郡金峰町(きんぽうちょう))で
春秋の彼岸に山焼きをしたという伝承がある。
これは京都の大文字などの送り火と同じで、
蔵王権現の社、妙見堂、文殊堂、蔵王権現別当寺、金峰山観音寺金蔵院などがあるので、
奈良県の吉野の蔵王信仰が伝わったものと思われているが、
この山は金山であり、
太古から航海の座標として遣唐使の往来にも重要な役割を果たしており、
山焼きも船への信号の名残だが、
奈良の金峰山(きんぶせん)は山名にも理由がなく、
南海一帯の御岳(うだち)詣りのほうが先である。
それは海人たちの座標に対する感謝と尊敬を表す信仰で、
それが出身の異なる海人たちの、
ポセイドンやアフロディテ、ビシュヌー、マカーラといった海の神話伝承と合体し、
神道や密教や民間信仰と集合して、
修験道(しゅげんどう)という
単純怪奇な感じの独特の信仰形態を作り上げたのである。
金峰町の社寺は、もちろん後世に、由緒を尊んで逆移入されたものだ。
山伏の兜布は猿田毘古=天狗に由来する。
砂漠のシルクロード経由のユダヤ人のものではあり得ず、
海人で植林に山へ登ったフェニキヤ人のもの以外あり得ない。
※出典:大学(院)講義録36:21頁
《猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ》
「猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ」
これで大人弥五郎は、間違いなく猿田彦だとわかる。
しかし何故?名が違うのだろう?。
大隅語の発音は「ヤクルドン」である。
私にはそれは屋久郎ドンと聞こえる。
こんな顔をした屋久島王といえば、
そこに杉を植えたスサノオもそれに該当する。
大隅では弥五郎は武内宿祢だともいう。
宿弥は高族=カリエンで、宝貝を貨幣として中国に売って、
その富で商帝国=殷を樹立した一族の、長の名乗りである。
これでフェニキヤ人が屋久島へ来た時期も判った。
それは縄文杉の年輪と共に貝貨幣と殷の発掘物とそこに書かれた文献史料という、
莫大な物証をもっていたからである。
屋久郎ドンは海人の王だから、
船の王であり、海原を支配した神・マカーラでもある。
その容貌は、まさしく中近東の人である。
とすれば、兜布はフェニキヤ人の船乗りのもので冠の一種だったのである。
それが冠だった証拠もまた大量にある。
それは江戸時代まで実用品だった武士の礼装用の冠で、
浅野内匠守が刃傷の場で額につけているあれである。
これは新羅の王も全く同じものを着けていたことが、
出土品の陪葬騎士像ではっきり判る。
それは兜布とは形が違い、はるかに複雑な形になっているが、
額の前方の同じ位置に着け、紐を顎で結んで止める。
兜布を基に考案、心理的効果を狙って改良進化したことが判る。
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