2012年4月3日火曜日

方位を示す四神の四つの色の名、青白赤黒(アオシロアカクロ)はギリシャ生まれ(1)



 《方位を示す四神の四つの色の名、青白赤黒(アオシロアカクロ)はギリシャ生まれ
 「<方位を示す四神の四つの色の名、青白赤黒(アオシロアカクロ)はギリシャ生まれ/a>」




 《日本人のルーツを立証した『黙示録』
 「日本人のルーツを立証した『黙示録』

 また、次に取り上げる「色」の名も問題なのである。

 それは色の名が少し変わっても、大変な問題になるからである。

 『黙示録』は私たち日本人にとって何となく縁遠いもののように思われていたが、

 事実は意外にも、

 身近な「大問題」を秘めていたのである。

 たとえば、

 4騎士の馬の色の名のうちの「青」だが、

 それも本によってまちまちである。

 だが「青」は原文「クローロス」で、

 麦の穂の青さや海の青、

 水の青などを表す言葉である。

 それから「青い顔色・色あせた・灰色がかった」など

 という二次的な意味が生まれた。

 この『黙示録』の4騎士の馬の色は、

 古代日本と中国とで、

 東西南北を表示するために「方位を示す色」として、

 四方に配分していた「四神の色」とぴったり一致する。

 「四神」とは、

 色と動物と方位を結びつけた「象徴的な目印」のことで、

 青竜=東

 白虎=西

 朱雀=赤=南

 玄武=黒=北の4種類である。

 その配置に合わせてつけられた地名が、

 日本列島にきちんと並んで分布していて、

 その移動した跡が倭国と日本国の消長と表しているばかりか、

 西はタクラマカン砂漠から

 東はシベリア東部に至る間に、

 広く分布していて、

 古代日本人がどんな人々であったかを明瞭に記録し、物語っている。

 その人々が、

 卑弥呼や壹與など

 『魏書倭人章』の登場人物と同じくギリシャ系の人々であったことが、

 詳しくわかっているので、同じギリシャの

 『カピトーリウム神託集』を引用した『黙示録』に、

 同じ「青白赤黒」の色のセットがあっても、少しも不思議ではない。

 それは先にお話しした卑弥呼がビューティアの一人であり、

 「神託」によって倭人を治めたという事実と、

 その後継者が沖縄にいまも現存して、

 頭に月桂冠を戴いて神を祭るなどの習俗が、

 『黙示録』と直結している真相に、

 さらに有力な証拠を加えるのである。


 《伊都とは「北」、四神は卑弥呼時代
 「伊都とは「北」、四神は卑弥呼時代


 《四神のルーツはシンドゥ教
 「四神のルーツはシンドゥ教


 五彩圏は、

 いうまでもなく方角(方位)の「四神の色の知識」がなくては生まれない。

 それは先にお話ししたようにインドの宗教文明の産物であるが、

 日本では間違って四神というのは中国生まれだと思いこんでいる人がいるので、

 もう少し詳しくお話ししておこう。

 宇宙を支配する大神ビシユヌーは、

 銀河やオリオン座大星雲(銀河宇宙)を

 思わせる巨大な七つの頭の竜アナンタ

 (『ヒミコ』参照)に乗っている。

 そしてベッドにはシエーシヤ竜」を使う。

 彼は太陽神だから竜も東から出てくる。

 竜は
   インド語のシャカ、

   ネパール語のシヤケ、

   ギリシャ語のスキュタイ、

 そして中国・日本語のサカ人に特有のトーテムなのである。

 仏教を守護する八大竜王や、豊玉姫や、スサノオの大蛇退治も、

 ジークフリートの竜退治も皆これがもとになっている。

 南の朱雀がビシュヌーの旅行用の

 航空機・金翅紗鳥=カローラ・ガルーダから変わったことは、

 つい今しがた説明したが、同じように亜も中国で誤解されたもので、

 本当は中国にはいないがインドにいるライオンが、

 ビシュヌーそのものの変身「人獅子」として崇拝されているものなのである。

 このことは中国製といわれる3~4世紀の銅鏡の鏡背図を見ればわかる。

 それは虎ではなくインドの人獅子の顔をもっている。

 中国の四神の北の「玄武」は、亀と蛇の二本だてになっている。

 これが中国の四神はインド起源であることを、つぎのようにいちばんよく物語っている。

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 すると、このことは、もう一つの問題とも切り離せない緊密なものになる。

 それは同じイタの文字「一大」をもったものが、もう一つ出てくるからである。

 原文と訳を載せると

 「自 女王国 以北 特 置 一大率 検察 諸国 諸国 畏 憚 之 常治 伊郁国」

 女王国から北には特に一大率というものを置いて、

 北の諸国を検察させている。

 諸国はそれを
 
 恐れて自由に行動できないで小さくなっている。

 一大率は伊都国に常駐して、

 その任務を果たしている

 というのである。

 「北」を専門に検察する検察庁が「一大」という名をもっているのである。

 これも「イタム」に対する当て字であることはいうまでもない。

 そしてそれが「伊都国」に常駐しているというのだから、

 やはり「イ=伊」で始まって、

 沖縄語なら「タ」と発話する「卜=都」が続く国名「伊都国」もまた同じく

 「イタム=黒=北」に対する当て字だったことは、

 そこの役所「一大率」が同じ発音をもっているので、

 互いに証言しあって疑いの余地がない。

 このイタムの実在の発見で、

 これまで伊都国だという説のある「糸島」は「イト」という発音で、

 伊都をイトと発音するように変わった、ずっと後世の地名だとわかる。

 以上で「四神」の文化が、卑弥呼時代に、

 少なくとも九州に定着したことが確認できたのである。


 《完全にそろう九州の四神地名
 「完全にそろう九州の四神地名

 今のマレー語圏では、「イタム」は「ヒタム」という発音の方がポピュラーに使われている。

 九州でこれに合う地名が大分県の日田市を中心とする広大な地域に広がっている。

 間違いなくこれは「日田国=ヒタム」だから、

 これも伊那国の後身として見逃してはいけない。

 この佐賀から大分にかけての地名群が「黒=北」だとすると、

 他の東西南の三つの方位にあたる地名も九州に残っているはずである。

 必ず調へてみなければならない。

 東は青だが、これは「青」の文字が残る「青島」が南東部の宮崎県にあり、

 また「オオ=青」という発音を残している「大分県」が、

 九州の北東部全域を占めている。

 西は白だから「シラ」である。

 すると熊本県の西の海は「不知火=シラヌヒ」海と呼ばれている。

 これは「白のヒの国」の海ということだし、

 それに面した都市は「八代=8つシロ」だし、

 また熊本市を流れる川は「白川=シラカワ」である。

 南は赤で九州の中央部になければならないが、

 鹿児島の桜島に「赤水」があり、

 その北にはマレー語の「赤=メラ」に合う

 「米良=メラ」が宮崎県の西部にあって、

 位置関係も発音もすべて完全に合っている。

 沖縄~大隅語ではラ行がナ行になりメラはミナになるが、

 『魏書倭人章』の弥奴国はこれに合うし、

 大隈の溝辺町には三縄=ミナワという地名もある。



 《五彩圏連邦時代につけられた魚の名前
 「五彩圏連邦時代につけられた魚の名前

 それが<高句麗>と同じ名だという理由は、

 <マグロ>は本当に<マックロな黒い肌>をしている

 「黒魚」であり、「高麗」は

 沖縄語では「クライ=暗い、クル=黒」という発音への当て字、

 鹿児島語でも「クレ=暗い、黒い」と

 読める「黒の国」への当て字だったからである。

 <卑弥呼時代>の前後には、

 九州と朝鮮半島とをいっしょにした連邦があって、

 その<東西南北>の位置にある国を「青白赤黒」の

 『四神(しじん)』の色の名で呼んでいた。

 中心は<黄色>だったから、

 この<五色の連邦>を私は<五彩圏連邦>と名づけている。

 <新羅>の古い時代の名は「斯盧」と記録されているから「シロ」だったし、

 東の大隈にあった「倭」は、南中国語で「ウォー」で、

 <青>の方言「オオ」に当たり、

 鹿児島県本土の<南>は海で、水に覆われていたから、

 当時の言葉で「水」を意味する「アカ」と呼ばれていた。

 残る北端の国・<高麗>が「クロ」と呼ばれていたことがこれで確実に証明される。

 も少しつけ足すと北の<四神>は「玄武」だが、この<玄>も<クロ>と発音するし、

 意味も黒なのだ。

 <高句麗>の<高>の字は、南九州方言では「タケ」と発音するから、

 「武」の字もこの「タケ」に当てた当て字だったのである。

 以前は<四神>は中国から日本に入ったものとされていたが、

 こうした発音を考えると、

 この<四神=五彩圏>は日本の文化で、

 中国へはこちらから輸出したものだとはっきりわかる。

 <高句麗>はどこからみても「クロ国」だったのである。

 だがこれでもまだ疑問が残る。

 それは朝鮮半島の国々の魚名は揃ったが、
 
 かんじんの<倭国>はどうなったのか?…ということである。

 実はこれもまた<マグロ>が解いてくれる。

 <マグロ>は<出世魚>と呼ばれて、
 
 成長につれて<呼び名>が変わる。

 その<呼び名>も地方で変わるから東京の名を例にとると、

 体長40cm重さ4kgていどのものは「コメジ」、

 80cm、8kgぐらいのものは「メジ」、

 120cm、20kgほどなら「マグロ」、

 280cm、200kg以上のものは「オオマグロ」と、区別して呼ぶ。

 最大のものに「オオ」をつけるのは、<マグロ>に限らないが、

 この「オオ」が、四神の「青」に当たるのだから、

 <マグロ>の場合はこれは奇妙なことになる。

 <黒は北の国>の意味で、<高句麗>を指していたのに、

 それに<東>を指す<青>が加わると、

 「東の国・高句麗」ということになるから、

 この場合の「オオ」は青ではなくて

 「大きい」という意味に限定された使い方とみるしかない。 

 このことで「オオ」は「青」と「大」の

 二つを意味する言葉であることが確認できたから、

 <マグロ>の名は、<クロ>が<高句麗>を意味していた時代には「クロ」で、

 後に別種が現われたので<マ>を加えて「マグロ」とし、

 <オオ>が<青の国>を意味せず、

 <大きい>という意味しかなくなった時代に、

 さらに「オオマグロ」という名がつけられたもめだったと、

 名の歴史が詳細にわかる。



 《古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答
 「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答

 「姫講は」

 「姫講(ひめこ)さあ=卑弥呼様の講」という名で

 現代まで継続している南九州の「観音講」。

 ⑦は省略して、

 ⑧の「応神皇居」も、

 繰り返しお話ししたことだが、

 それが古代ギリシャの南端の国アカイヤの名をそのまま使って、

 「明(アカイ)・宮(ミヤ)=御家(ミヤ)=家(ヤ)=アカイヤ」という

 「南の皇居」を意味する表現になっている。

 そのカルシマはそのまま鹿児島と当て字できるし、

 カルの別の当て字は「姶良(カル)」で、

 これはカルから「カラ」になり、韓国とも呼ばれた証拠が、

 霧島山塊の主峰「韓国見岳(カラクニみだけ)」の名になって残り、

 応神が支配した朝鮮半島に韓国の名を残し、

 南九州から百済、新羅の名がそこへ移動したことを、否定する者はいない。

 そして『三国史記』は明瞭に初代新羅王を赫居世と記録しているが、

 その名は「赫居世国(カゴシマ)」という当て字。

 ほかにも13才で王になったなど、壹與だったことを示す記録に満ちている。

 南が赤(四神の朱雀(すざく))なら

 北の玄武は「玄(クロ)武(タカ)」で、クロアチアとタカクニ(高句麗)。

 その中央に、東は青竜=「青=オオ=倭、竜=辰巳島=種子(タツネ)島。

 地中海の東瑞に面していた

 古代アイオリヤ(藍織国(ヤ))=青(ア)い織り(オリ)物の王(ウ)国=アオリウ(青竜)国

 (後世→播磨の相生(アイオイ))である。

 西は白虎=「白(シラ)ヒラ(枚)ヒラキ(開)(木(キ))=コ(虎)、

 枚聞(ヒラキキ)・開聞(ひらきき)。

 このシラは古代シラキウス(今のイタリア領・シチリア島)である。


 《
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2012年3月31日土曜日

日本からエーゲ海へ戻った人々がトルコ人



 《日本からエーゲ海へ戻った人々がトルコ人
 「日本からエーゲ海へ戻った人々がトルコ人


 《記録の真実性を証明した神武紀元と建国記録の真相
 「記録の真実性を証明した神武紀元と建国記録の真相

 このほかにも考えられることは、竜は辰韓に合い、

 ポセイドン系の百済につながる馬韓と並んで実在していた。

 また以上の考証が名詞ばかりだという反論も考えられるが、

 この伝承に出てきた『鉄の鎖』も、

 我が国の古墳時代の遺跡からはギリシャ式の鉄の鎧が出土する。

 カドモスをめぐる話は、

 このように総て我が国の古代異物に結びついている。

 だとすれば、さらに、も少し詳しくみてみる必要がある。

 するとまた重要な発見がある。

 それは神武天皇と無関係ではなく、

 神武紀元がこの説話に由来しているという、

 決定的証拠になるのである。

 それは彼が造った国・テーベの起源が

 ミケーネ時代にあるという点だ。

 神武天皇の幼名は三毛野(ミケヌ)尊。

 これはミケネ
の沖縄発音である 

 それが紀元前6世紀に栄えたアイオロス人の国テーベの建国期なのである。

 アイ=藍=青。

 これも重要な五彩圏の要素だった。

 その紀元がB.C.E660年で、

 その起源がミケーネ時代。

 神武紀元と三毛野の名乗りに合う。

 それはさらにもう1つの要素をもっている。

 それはこのミケーネ時代はアカイヤ人が作ったという事実である。

 アカイヤもまた五彩圏を構成する赤の語源である。

 神武は南国・日向から出発した。

 南は赤、国は「ヤ」、南国は、そのままアカイヤと読める。

 こうみてくると神武東征に結びつく要素が完全に揃っている。

 神武記事はこの史実を、しっかりと記録していたのである。


 《『記・紀』は「人類の宝」、しかし亡国に使った奴ら
 「『記・紀』は「人類の宝」、しかし亡国に使った奴ら

 私たちは『記・紀』を批判しているが、

 それは全部がデタラメだといっているのではない。

 その編集や編集者の編集態度に問題があるといっているのである。

 今、こうして神武伝承を精密に分析し、

 その記録の真相を探りだしてみると、それらの記録が、

 こんなにも細部まで真相を物語っている。

 『記・紀』は「人類の宝」だといっても、誰も反対はできない。

 それを間違った解釈や、いい加減な解説でゴマかして、

 『神典』だといったり、

 その神典の意味を取り違えて「絶対不可侵だ」といったりして

 汚(けが)してきた連中がいるから、

 日本人は世界の嫌われ者にされ、

 非戦闘員を原爆で大量虐殺されるという悲惨な目に遭わされた上に、

 その損害賠償を取るどころか、犯人を処罰することもできずにいる。

 そればかりではない。

 今なお世界の人々から白い目で見られ、

 嫌悪され続ける日々が続いているのである。

 しかしようやく、私たちの先祖の史実が眼に見るように展開される日がきた。

 私たちはギリシャ人やシュメル人を先祖にもつ、

 西欧人と同じ血の流れる普通の人間だった。

 世界の東の孤島だけに育った野蛮人でも、

 宇宙から侵入した怪物・エーリアンでもなかったのである。

 これで私たちにとって

 何が正しく、

 何が悪か、

 なにが神で、

 なにが悪魔か明瞭になった。

 私たちの前途が、ようやく輝き始めたのである。



 《古代日本人文明史年表
 「古代日本人文明史年表

 我が国の建国はいっかという大問題は、これで結論が出たように見える。

 この間題はいっが建国かという定則がないから、

 在来ならこれを結論にしてそれで済んできた。

 でも本当はそんなに単純ではない。

 真相はもっと高度のものなのである。

 年表にして見てみよう。

 B.C.E.3000年 エーゲ海にミノア(美濃国)文明開花。

        クレタ島にミノス(蓑洲)大王時代がくる。  

        妹のエウロペがミノスの母だから、 

        カドモスはこの時代の人。

 B.C.E.2000年 シュメル王朝誕生。

        スメラギが初めて即位。

        その呼称が我が国に現在まで残るし、

        多くの文化財を残しているから、

        間違いなく私たちの先祖。

 B.C.E.1550年 稲敷人によって殷王国誕生。

        沖縄のカリエン(高族)

        貝貨幣で殷帝国を繁栄させる。

        その出先基地・高句麗は五彩圏で最も早く建国。

        その初代大王は、高朱蒙(コスモ=世界・宇宙・人類)と

        いうギリシャ名の持ち主だった。

 B.C.E.1500年 フェニキヤ誕生。

 B.C.E. 660年 アカイヤ人ミケーネ時代を作る。南国=アカイヤ。

        ミケーネ=三毛野。

        ミケーネと国分・隼人の地理条件も酷似。

        神武要素が完全に揃う。

        また同じ頃、新バビロンも誕生。    

 《アカイヤ人がつくったミケーネ文化
 「アカイヤ人がつくったミケーネ文化

 ついでにお話ししておくと、テーベはもう1つある。

 エジプトのナイル川の中流に栄えたエジプト中王国時代の首都である。

 アモン信仰の聖都だったからルクソールやカルナークといった有名な神殿群や、

 ハトシェプスト女王を祀る神殿や多数の墳墓群があるので周知の所である。

 この2つのテーベは、どちらもThebesと書かれて全くの同名である。

 地中海が隔(へだ)てているといっても航海者には大した距離ではない。

 2つのテーベは我が国の巴利国→播磨や、台湾の大和¢奈良の大和のように、

 国境を越えた人の移動を物語っているのである。

 すると我が国の古代文化にエジプトの影響が見られても、

 これまた何も不思議ではなくなる。

 それだけではない。

 インドのアソカ王の仏教宣布団はソナカたちと同時に出発して、

 ギリシャ本土やアレクサンドリヤに行っている。

 それが紀元前3世紀の現実なのである。

 唐代のシルクロードしか頭に無い学者が唱える狭い視野の古代史が、

 どんなに現実離れしているか、いまさら非難する気もしない。

 それよりミケーネ文化について、も少しお話ししておこう。

 アカイヤ人はB.C.E2000年頃から南下して

 ミケーネ、ティリュンス、オルコメノス、ピエロスなどの

 小王国群を建て1
500年頃に最盛期を迎えていたクレタ勢力を一掃して 

 エーゲ海文明圏の支配者になったので、その文化をミケーネ文化と呼んでいる。


  
 《
 「


 
 《検討すればする程凄いの真実度
 「検討すればする程凄いの真実度

 ギリシャ本土からペロポンネソス半島に入る狭い回廊を通ると、

 すぐ南に伸びた湾がある。

 その北端にミケーネがあるが、

 その位置関係は、鹿児島湾北端にある国分・隼人と、

 湾の形も大きさも、湾口の方向も、町の位置も、気候風土まで、

 余りにもそっくりだったのである。

 その隼人町に若三毛野命=神武天皇が

 東征に出発した地点・高千穂の宮がある。

 『古事記』の記録がどんなに正確で素晴らしく、

 いい加減なものではなかったか、よくわかる。

 ミケーネから来た人々は、

 その故郷そっくりな環境に驚喜し、

 そこをミケーネと呼んで、都を置いたのである。

 若の字はジャク=邪久=屋久島だから、完全に位宮に一致している。

 その支配者を大隅語で「若・三毛野(ミケヌ)」と当て字したのだ。

 私たちは、そこが卑弥呼・倭国の首都や応神天皇の軽の明の宮になり、

 姫木山や鹿児島神宮が残っていることを知っている。

 しかしギリシャ人がなぜ?そんな日本列島の南端、現代でも辺地である、

 そんな土地に、たとえ足掛かりに過ぎなかったにしろ、王都を置いたのか?

 と深い疑問に悩まされてきた。

 その疑問がいま、

 このミケーネとの地理環境の一致で一度に氷解した。

 これで卑弥呼がなぜ?そこへ戻ったのかも疑いを残さない。

 『魏書倭人章』はここまで解明できなければ、

 これらの大きな疑惑が障害になって、

 真相を正しく把握することはできなかったのである。


 《この建国紀元ぬきの『魏書倭人章』論は無価値
 「この建国紀元ぬきの『魏書倭人章』論は無価値

 それは、この建国紀元のきめ方で、

 卑弥呼が共立された当時の「倭人の構成」が、

 明瞭にわかるからでもある。

 沖縄から高句麗まで、

 途中に川内(コウチ)や高国(クマ=熊・肥)・小倉を残すカリエン系がいた。

 また百済野(ハセンノ)→大隅(烏孫)→明宮(アカイヤ)・ミケーネ。

 アイオリヤ(綾織)→青=オオ=倭国のギリシャ系がいて、

 巴利国・ソナカ=(襲の国)と

 観世音菩薩や5000語を超すパーリ語を日本語に残したマガダ系がいた。

 これらの人々が卑弥呼を共立して連邦を構成した理由もまたわかっている。

 彼女はソナカが熊襲(本当はクマ=カリエン系)に殺された後、

 アマゾン(天孫)たちを率いて、

 南九州から朝鮮半島までを掃討して仏教徒にした。

 これが神功皇后記事のもとになった史実だから、

 彼女は在来の説のようなシンデレラ的女王ではなく、

 記録にある倭国大乱の当事者であり、征服者だったのである。

 『魏書倭人章』の倭人と倭国の研究は、

 その最大の中心問題であるこの史実を抜きにしては何一つ正解はありえない。

 こうした肝心の知識の欠けたどんな説も、

 また卑弥呼時代にはなかった邪馬壹国を、

 さらに輪を掛けて邪馬台国だと誤認して書いた説など、

 一見の価値もない事は、いまさら言うでもない。

 私(加治木義博)著が出る前の過去のいわゆるヤマタイブームは、

 残念ながら、我が国の執筆者の教養の低さの証拠にしかなっていない。


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2012年3月30日金曜日

東アジアに次々に邑婁人(ユーロ=ヨーロッパ人)の国々を作った人たち



 《東アジアに次々に邑婁人(ユーロ=ヨーロッパ人)の国々を作った人たち
 「東アジアに次々に邑婁人(ユーロ=ヨーロッパ人)の国々を作った人たち


 《3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人
 「3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人

 『魏志東夷伝』には、

 高句麗に隣りあって挹婁(ユーロー)という国が記録されています。

 この挹婁はこれも不思議にお思いでしょうがギリシャ人の国だったのです。

 3世紀の北朝鮮や日本にギリシャ人がいたとは信じられない方のために、

 「高句麗よりさらに東北にあって大海(日本海)に面した国・挹婁=ユーロー

 をご紹介しましょう。

 それにはこんなことが書いてあります。

 そこは今の北朝鮮からロシア沿海州にかけての地域で厳寒の地なのに、

 住民は

 「裸で、冬はイノシシの脂を体に塗って、毛皮を着る」というのです。

 中国や朝鮮半島の国とまるで風俗習慣が違っていたのです。

 一体、その人々はどこからやってきたのでしょう?。

 それは国名でわかるとおり「ユーローピアン」だったとすると、

 素っ裸で暮らしていた風習は、

 ギリシャから大量に出土する赤絵土器などに、

 描かれた風俗画で普通に目にする

 古代ギリシャ人独特のスタイルだということになります。

 こう考えると、その裸風俗ももはやそれほどには奇妙には思われません。

 しかし当時「ユーローパ」と呼ばれた地域は、

 今のヨーロッパではなくて、

 もっと限定された狭い地域のことでした。

 それは地中海東岸にあったフェニキアから見て、

 西にあたる海の彼方の国のことだったのです。

 そのことはギリシャ神話の中の次のお話でよく分かります。


 《3世紀に北鮮にいたユーロ人の生態
 「3世紀に北鮮にいたユーロ人の生態

 そこで豚を飼い、肉を食べ、皮を着る。

 冬はその豚の脂肪を厚さ数分(ぶ)(1分は3㎜)体に塗って寒さを防ぐ。

 夏は素っ裸、尺布で前後を覆い隠す。

 古代の「粛慎氏」の国だ。

 弓に優れ、矢に毒を塗るので命中すれば皆死ぬが、百発百中だ。

 漢代以来、夫余に臣属したが、税の取り立てが、

 厳し過ぎて黄初中(紀元220-226)に叛いた。

 夫余は度々これを討ったが、山険しく矢は恐ろしく、

 隣国人は遂に帰服させることができなかった。

 挹婁人は船を上手に操って、

 荒らしまわるので隣国は悩み困っている。

 だから法秩序は綱紀なく、最悪である。

 ユーローという名は、今のユーロと同じで、欧州を意味し、

 その名はフェニキヤの王女・ユーローパ姫(ギリシャ文字・エウロペ)が、

 牛(実はゼウス)の背に乗って西海岸から海に飛び込み、

 クレタ島のイデ山の洞窟で暮らして、

 ミノスら三人の大王を生んだ

 この歴史にちなんで、欧州はユーローパと呼ばれることになったのである。


 《彼等は粛慎からやってきた
 「彼等は粛慎からやってきた

 ギリシャでは洞窟での生活も当然のことだし、

 裸体生活もギリシャ陶器などの遺物に描かれた人々の姿と同じである。

 しかし中国人はそれを「野蛮」と読んだ。

 そして私たちもその野蛮を劣等未開を表現する形容詞として使ってきた。

 しかしそれはヤーバナ(ギリシャ)人という名詞だったのである。

 そして彼等はその時の居住地へ古代の「粛慎氏」の国から船でやってきた。

 粛慎は「チュクシン=チクシノ=筑紫の」国である。

 フェニキヤを出発点に、

 九州を経て高句麗と並ぶ地域でギリシャ生活を営んでいた人々が、

 故郷の地名ユーローパを名乗っていたのは当然のことである。

 そしてこれが解ると、

 高句麗付近で垂仁天皇を救った

 フェニキヤ系海軍を率いる大王・丹波のミチウシの、

 具体的な実在証明が鮮明に成立し始める。


 《渡来の事実とその時期の確認
 「渡来の事実とその時期の確認

 だがウバイド、ギリシャ、倭人といっても、もちろん時代が大きく違う。

 その時間差も明らかにしないといけないが、ウバイドについての研究は、

 過去の業績で明らかになっていた遺跡の下層に、

 さらに8000年前と測定された遺跡の存在が確認され、発掘作業進行中、

 ブッシュ大統領父子による湾岸戦争とイラク戦争という二度にわたる惨劇が起こり、

 発掘が中断されたままになっているから、8000年前という概数しか判らないが、

 我が国の発祥がいっか?という命題には、これで充分であるし、

 カルデア人がカリエンとして台湾・沖縄に土着し、高句麗・モンゴルまで支配して

 貝貨幣を中国へ運び、殷帝国の興隆に貢献した事実も解っているから、

 これがウバイド人の1ルートであったことは間違いないので、時代は特定できている。

 次はギリシャ人はいっやってきたか?だが、これは考えなけれはならない問題に満ちている。

 それを一つずっクリアーして行ってみよう。

 ①アレクサンドロスの東征によるものか?。

 ②その東征の結果、生まれたマウリア王朝のアソカ王仏教宣布団によるものか?。

 ③海の先進国フェニキヤ人の来航によるもものなのか?。

 この②はソナカが卑弥呼の夫である仲哀天皇なので時代は限定されているし、

 ①によると考えられる2~3世紀の東夷ユーロは、

 講義録(院)34で見たように、

 筑紫であることの確かな粛慎を経由しているので、

 渡来の事実と時期が確認できている。

 《牛にさらわれたユーローパ姫
 「牛にさらわれたユーローパ姫

 『悪夢から目覚めて不安になったフェニキアの王女ユーローパ姫は、

  侍女をつれて浜辺へ花つみに出かけました。

  するとそこにいた真っ白で美しい牡牛が、

  いかにも背中に座れというように、

  姫のそばへきて寝そべったのです。

  王女は誘われるようにそれに座って牛の背の柔らかな毛をなぜました。

  すると牡牛はいきなり立ち上がって姫を乗せたまま走りだし海に飛びこみました。

  恐ろしさに姫がしっかり角につかまっていると、

  牡牛は

  「怖がらなくていい、私はゼウス大神だ。

   私と楽しく暮らそう!」といいました。

  父王は姫が牛にさらわれたと聞いて大層悲しんで、

  二人の王子に探しに行かせましたが、

  王子たちは見つけることができなかったので、

  ついに国には戻らずに、行った先に新しい国を作ったのです』

 というお話です。

 おわかりのようにフェニキアから見て海の向こうが

 ユーローパ姫の行った土地「ユーローパ」なのです。

 それはフェニキア人が、ギリシャ本土を指して呼んだ名だったのです。

 「挹婁伝」に書いてある風俗習慣は全てがギリシャ人のものと一致しています。

 そしてそこは「粛真(チュクチ)氏」の国だったとも書いてあります。

 このチュクチは漢字で書くと「筑紫・菊池」で、

 九州の古い呼び名ですから、

 もとは九州を支配していた人たちなのです。

 その人たちが北へ移動して挹婁人と呼ばれたことがよくわかります。

 その記事の中に、

 そこは「赤玉」の産地だという記録があります。

 天照大神の装身具の中心

 [八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)]がありますが、

 この「瓊(に)」というのは「赤玉」のことで、そこがその原石の産地なのです。

 なぜそれがわかるかというと、

 この「八坂」というのは、

 倭人連邦の主力であった「ヤバナ」に対する当て字

 「ヤバン=八坂」だからなのです。

 これは「八幡」とも書かれます。

 その中心になる神様はスサノオノミコトと応神天皇です。

 あらゆる角度から「八幡」の語源を検討して、

 一致点のないものを消去していきますと、

 あとに残るのは

 インド・サンスクリット語の「ヤヴァーナ」だけになります。

 これは「ギリシャ人」のことで

 中国ではこれに当て字して「野蕃人」と書きました。

 裸で暮らすのは野蛮だと思っていたのでしょうが、

 その言葉は本来はギリシャ人という当て字だったのです。

 しかし古代の中国人が、ギリシャ人を知っていたはずがない、

 とお疑いの方があるかも知れません。

 マレー語ではギリシャ人を「ユーナン」と呼びます。

 中国の雲南省は正確な発音は「ユンナン」で、

 この「ユーナン」への当て字なのです。


 《ロシア沿海州にいたギリシャ人
 「ロシア沿海州にいたギリシャ人

 残りのページ数が少なくなったので三種の神器の深い意味は紙数の関係で省略したが、

 倭人連邦の主力であった「ヤヴアナ人」とは何だったのか?

 これは省略することはできない。

 だがヒミコたちの人種構成が分かった今では、

 それは簡単に見つかるし、即座に承認できる問題である。

 それは後に日本全国に祭られた「八幡」なのだ。

 あらゆる角度から「八幡の語源を検討して、

 一致点のないものを消去していくと、

 あとに残るのはインド・サンスクリット語の「ヤヴァーナ」だけになる。

 これは「ギリシャ人」という意味である。

 しかしまだこれでも、

 3世紀の日本にギリシャ人がいたとは信じられない人のために、

 『魏書東夷章』に記録されている、

 高句麗よりさらに東北にあって大海(日本海)に面した国

 「挹婁=ユーロー」をご紹介しょう。

 そこは今のロシア沿海州なので「劇寒」なのに、夏は裸、冬はイノシシの脂を体に塗って、毛皮を着る、と書いてある。

 この国名でわかるとおり彼等は「ユーロピアン」であり、

 裸が日常だったのは、

 土器に描かれた風俗で証明されるギリシャ人独特のスタイルなのである。

 そして当時「ユーローパ」と呼ばれた地域は、

 地中海東岸にあったフェニキアから見て西の海の彼方の国のことだったのである。

 それはギリシャ神話の中の次のお話でよく分かる。


 《殷商から前韓までの歴史
 「殷商から前韓までの歴史


 そうした宝貝産業の人々が、

 初期の顧客の主力だった[殷人の商帝国]が滅びて打撃を受けたことは間違いない。

 ここで茨城県の稲敷郡のことを少し考えておこう。

 この郡に住んでいた人たちは、そのとき、日本列島へ避難してきたのだろうか?

 稲敷は殷都の安陽から正確に真東にあってその先は太平洋に面している。

 古代の人にとってそこは東のはずれだった。

 ということは[稲]を作っていた

 農民帝国の神[太陽]を祭る第一の祭の式場としては

 [稲シキ]の名が意味をもつが、

 難民が逃げた土地としては

 北緯36度線上に正確に2200キロメートルを測定して式場を作る意味がない。

 避難なら逃げることと生きることが先で、

 とてもそんな大測量などしていられるわけがないからだ。

 また打撃は受けたが宝貝産業はその後の周帝国でも、

 戦国時代でも発展し続けて、

 とうとう今みたような高度の分業態勢をととのえたのである。

 そのころ中国の今の遼寧省には金属文化が栄えたが、

 それが当時の和人の中心地の位置を示している。

 しかし金属貨幣が作られはじめると最初は[漕ぐ人]の作った高句麗も、

 次々に職を失った部族が入ってきた。

 また集団の母体だった扶余や、

 後期に参加した邑婁(ユーロー)などは別の国々として分離し、

 漢の武帝紀元前109年に満鮮を征服して漢の玄菟郡にしてしまったのである。


 《日本古代王族の婚姻系譜(23)
 「日本古代王族の婚姻系譜(23)



 E系図とJ系図の室比古王の列を並立させてみると、次のようになる。

  2         3     4    5

 仇道(剄頚) ∥ |末仇∥_|末仇2 ━末仇3

   (伊声耆) _ 休礼∥      (比流王)304~344

 息長水依姫  ∥ |味鄒∥ |室比古王∥

           光明∥  張氏  ∥_|劉曜(四男)

 「ホケノ山古墳の被葬者特定」という論考の中で、

 味鄒=山代大国淵、室比古王=劉淵であることは解明してあるから、

 陳舜臣前掲書384頁に

 「劉淵の祖父於夫羅(オフラ)は、献帝の東帰を援け、

  その居住地は中原からごく近いところだったのです」と

 ある文章のオフラのルビはオフロと変更出来る。

 オフロはオフロー(=イフロー=ユーロー=ギリシャ人)である。

 仇道は烏越(慕容渉)にとっても祖父である(仇道━臣濆姑━烏越)。

 どちらから見ても合うものは、それが真実の系着であることの証拠である。

 ギリシャ人である伯固(紀妃の孝霊天皇)の息子はやはりギリシャ人である。

 この人種の名は、後のオホド大公王(継体天
皇)になって復活?する。

 オホド=オホロ=オフロ=イフロ(意はイとオの南方の発音を持っている)=

 ギリシャ(人)になるからである。

 劉淵は大航海王味鄒の息子で、

 彼自身も航海王(船長、海軍大将)だったし、

 彼は三世紀末に沿海州で人望を得て、

 ついに皇帝になった(漢)=304~310年病没。

 沿海州で人望を得た、彼は航海王(大商人=海商)というのなら、

 南九州、瀬戸内海のみならず、日本海沿岸と半島、大陸を航海(交易)していたのである。


 言語復原史学会
 言語復原史学会


 《ギリシャ神話の英雄の子孫たち
 「ギリシャ神話の英雄の子孫たち

 このウースンというのは、

 『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。

 その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、

 船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、

 それは史実が後世に次第に変型したもので、

 ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、

 その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。

 ギリシャ語には多くの方言がありますから、

 イャーソンという名はヨーソンからユースン、ウースンと変化します。

 先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、

 それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。

 『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、

 ウロとは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。

 これで「イヤ」とヨとユとウとの訛りかたがわかると思います。

 その地域での「ウースン」が、

 ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。

 その神話に残され地名とコースが、

 東南アジアの現在の国々と一致しているので、

 今では彼らがマレー経由で台湾へきて、

 そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、

 その後、

 カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、

 明らかになってきました。

 また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、

 その基地として高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・

 夫余(フユ)・挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、

 あますことなくわかったのです。

 しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、

 彼らは営業を続けられなくなりました。

 ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、

 中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、

 古代の呉の地に根をおろしたのでした。

 このウースン人についてはもっと重大な事実があります。

 それは鹿児島県の東半分を占める

 「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。

 そして今も鹿児島県人には、

 大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、

 ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、

 ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。

 この一致で、

 大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは疑いの余地がありません。




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2012年3月29日木曜日

7世紀の日本海軍はギリシャ式海軍



 《7世紀の日本海軍はギリシャ式海軍
 「7世紀の日本海軍はギリシャ式海軍

 《鴨緑江(おうりょくこう)を支配した[漕ぐ人]
 「鴨緑江(おうりょくこう)を支配した[漕ぐ人]

 宝貝産業は、その商品が重い。

 これが販売のネックだった。

 車さえない時代には、船が最高の輸送手段だった。

 しかし鉄の釘が発明されるまでは、

 木のクサビで止めたり、

 木の皮で結んだりする程度の方法しかなかったから、

 大型の構造船を作ることは不可能だった。

 また、小船に重い貝殻を積んで広い海に出ることは危険だった。

 それが沖縄から直接、中国へ行かずに、島伝いに南九州から北上して、

 朝鮮半島経由で商品を運んだ理由である。

 だがここにも難関が一つ待ちかまえていた。

 それもとても厄介な相手である。それは鴨緑江である。

 この大河は中国が朝鮮を支配するたびに、

 それを挫折させたほどの恐ろしい相手だったのである。

 それを征服できたのは、ただ[漕ぐ人=コグリヨ]だけだった。

 だからこそ高句麗が国名になり、こ

 の大河の南北流域を支配下におくことができたのである。

 それは今でいえば海運力であり、海軍力だったのだ。

 このことがのちに、

 カリエン人の海運力よりもまさった能力をもった

 ギリシャ系の倭人に、

 高句麗の支配権が移った理由でもある。

 彼らはフェニキア系の構造船技術の持ち主であった。

 「図:宝貝産業の分業

  どれがどれかクイズしてみてください。

 このほかにももっと国際的に広く

 [ウイグル〕と

 [負い子=ウイグ]や
                
 [バイカル=貝〈バイ〉狩る]や

 [えらぶ(永良部)=選ぶ]などがある。

 他にもっとないか、と捜すことも考えてみて下さい。

 <ヒミコ>当時、

 帯方郡使を運んだのも彼らだったし、

 後でお話しする、この本の最重要プロットになる

 「高句麗王の高速・沖縄逃亡」なども、

 この海軍力を抜きにしては考えられない事件だったのだ。

 フィリッポス2世&アレクサンドロス3世

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 《アレクサンドロス3世
 《フィリッポス2世

 ヘレニズム時代はアレクサンドロス3世の時代から

 ローマによるプトレマイオス朝エジプト併合までを主に呼び、

 この呼称を初めて使用したには19世紀のドイツの歴史家、ドロイゼンであった.

 この時代を後に牛耳ることとなるマケドニアは当初は異民族のように思われていたが、

 現在の研究ではマケドニア人もギリシャ人の一派であると考えられている。

 前7世紀に王国として成立した後、ポリスとはまったく違う形で発展しており、

 王や貴族が存在していた。

 マケドニアがギリシャと関係を結ぶのは前5世紀以降であり、

 アルケラオス1世(前413年~前399年)の時代に首都を移転し、

 ギリシャ文化の導入を開始した。

 その後、アルケラオス王が暗殺され、

 フィリッポス2世が即位するまでの間、

 マケドニアは停滞期に入るが、

 フィリッポス2世が即位直後に外的の侵入による存亡の危機に対処してからは

 王国は安定し、軍備の拡張を行った。

 こうして強力な軍隊の保持に成功したマケドニアは徐々にギリシャ北部へ侵食を開始していき、

 「第三次神聖戦争」への介入を開始した。

 この介入により、フィリッポスはアンフィクティオニアの主導権を獲得、

 ギリシャへの影響力を増し、

 紀元前341年にはトラキア占領に成功した。

 アレクサンドロス3世これに対し、
 
 アテナイ、テーバイは同盟を結び紀元前338年、マケドニア軍と戦ったが、

 フィリッポス2世はこれに勝利、ギリシャはマケドニア王国に屈することとなった。

 フィリッポス2世はギリシャ諸都市の代表をコリントスに招集して新たに

 「コリントス同盟」(ヘラス同盟)を結び、翌年の会議ではペルシアへの遠征が決定した。

 しかし、フィリッポスは紀元前336年、暗殺され、

 その計画は息子のアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)に受け継がれることとなった。

 アレクサンドロス3世はギリシャにおける反マケドニア勢力を殲滅した後、

 コリントス同盟の会議を開き、再度ペルシア遠征を決定した。

 アレクサンドロス3世はペルシア軍を撃破しながら、

 シリア、フェニキアを占領、

 そしてエジプトへ進軍し、アレクサンドリアを築いた。

 紀元前331年にはガウガメラにおいて

 ダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破、

 ペルシアの崩壊は決定的となった。

 そしてアレクサンドロス3世は

 ペルシア首都スサ、ペルセポリスを占領、エクバタナへ進んでペルシア軍の殲滅を確認した後、

 ペルシア軍討伐が終了したことを確認してコリントス同盟軍の解散を宣言した。

 しかし、アレクサンドロス3世はここでギリシャへは戻らず、

 さらに東へ向かい、バクトリア、ソグディアナを占領、インドへ向かった。

 インドでも勝利を収めたが、長期に渡る従軍で疲弊しきっていた兵士たちはこれを拒絶、

 アレクサンドロス3世は帰国の途についた。

 アレクサンドロス3世はスサに凱旋した後、綱紀粛正など様々な業務を行い、

 紀元前323年、バビロンに戻り、アラビア半島への遠征を計画したが、

 彼は熱病で死去することとなった。

 ギリシャではマケドニアの軍事力を背景とした平和が訪れており、

 一部スパルタが叛旗を翻したが、これも敢えなく撃破され、

 ギリシャにおける反マケドニア勢力は一掃された。

 しかし、これらの平和もアレクサンドロス3世が

 インドから帰国の途に着くと状況が変化を告げていた。

 そしてさらにアレクサンドロス3世が若くして死去すると

 アテナイを中心とした反マケドニア闘争、「ラミア戦争」が勃発した。

 だがマケドニアはこれを殲滅、事実上、

 ギリシャにおけるポリスの独立は終焉を迎え、民主政も消滅することとなった。

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2012年3月28日水曜日

弥生時代を作ったアレクサンドロス海軍の人々



 《弥生時代を作ったアレクサンドロス海軍の人々
 「弥生時代を作ったアレクサンドロス海軍の人々

 「ギリシャ人が創った「弥生時代」」

 「文化史年表(CHRONOLOGICAL CHART)抜粋」

 日本(JAPAN)

-3000                          -350
←        縄文文化                  →← 弥生文化

                沖縄文化  貝貨幣産業⇒殷  
 商人(シアルク=さろく=歩き回る) 霊ライン⇒ 殷 ⇒⇒   古墳文化 
               稲敷文化          
               干支圏

 エーゲ海(AGGEAN SEA)

   ミノア文化         ギリシア文化        -350
   キクラデス文化       ギリシア文化        →← マケドニア

 マケドニア
 マケドニア

 ※出典:大学院講義録20 6頁


 上の年表は、

 一見してわかるように、

 時間帯をはっきり印象に止めるのに不可欠といっていい長所をもっている。

 年表は利器として様々に転用できるから、ご活用いただきたい。

 日本の弥生時代と、縄文時代との境界の次期(前350年頃)

 マケドニアの建国期に重なっていることである。

 この弥生時代の初めは、全考古学者が認める定説ではあるが、

 それは、おおよその時間帯であって、

 ほぼ、この頃であろうという仮定の目安に過ぎない。

 ところがその直後に、私たちがギリシャ人が来た時期として突き止めた、

 アレクサンドロス東征の時間帯がくる。

 そして弥生土器の祖型を備えている加治木義博の所蔵する八重山土器は、

 その土器年代からも発掘地点からも、

 アレクサンドロス東征のその時間帯に完全に一致し、

 台湾→与那国→沖縄諸島→大隅諸島という海上コースをとった、

 ポセイドンら海神を守護神としたギリシャ海人たちがもたらした

 ギリシャからの文化財だったことは、

 この完全に揃った論理的証拠群によって、もう絶対に動かないことがわかる。

 「ギリシャ人はいつ来たか?」というのはもう謎ではない。

 それは台湾に至る地名、ギリシャ神話、秦の始皇の蓬莱憧憬の史実、

 イオニヤという与那国の語源などの証拠群に、

 さらに「弥生時代」という凄い証拠を加えたからである。

 縄文時代

 弥生時代

 八重山土器

 ※出典:大学院講義録20 7頁


 「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」


 古代ギリシャの国名が「四神」の真意で、

 日本語の色の名の起源だとわかった。

 ギリシャの海の神々も地名の元になっている。

 ポセイドンは百済(ポセイ)出水(イヅン・出雲)。

 その王妃アンピトリテ(奄美)(取手)。

 海から生れた美の女神アフロジテはローマではヴィーナスと呼ばれたが、

 それに我が国で当て字したものが「淡アフ・路ロ・島ジ・国」。

 島の名は、またギリシャ人が来たコースも記録している。

 ソナカの国語パーリ語ではギリシャ人をヨーナと呼んだ。

 これはイオニヤのイオをYO 、ニヤ をNIA⇒NA ナ と訛ったものである。

 我が国の最西端・与那国島はヨーナなのだ。

 YONIA ⇒YO NA イオー ナ=が「硫黄が」(島)になる。

 これはさらに、鹿児島弁化して短くなり、

 跳びはねて、 YOGA(イオーガ)は「YAT ヤッ」になるからヤッチマ、

 すなわち屋久島にもなる。

 このヤッチマは「八(ヤ)ッチマン=屋久島の」と使われるから

 漢字で書くと「八幡(ヤッチマン)」になる。

 こうして次々に謎を解き進んでいくと

 屋久島はヤバーナから生まれた名だとわかるし、

 与那国島から屋久島までの南の島が、

 ギリシャ系の海人たちの世界だったことが

 明確に認識できたと思う。

 では、そのときやってきたのは、

 どんな人々だったのだろう?

 確かに南欧のギリシャから来た人たちが

 いたこともわかるが、

 経由したインドの人たちが一緒に来たことも間違いない。

 
 ※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
     『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 173~174頁


 「我が国へきたインド「商人」のコースと生態」

 そこに書かれた古代文化は、国ごとに区切られていたのではない。

 在来の旧式観念が作り出した国境や地域とは関係なく、

 人々の移動・交流する範囲に広く広まっていた知識だったのである。

 それを象徴的に教える身近な事実をお話ししよう。

 私たちは魚河岸や株式の取引所で商談が成立すると、

 威勢よくボンボンと手打ちするのを、いかにも江戸っ子らしいとか、

 日本独特の風物詩だとか感じて来た。

 15世紀初頭に書かれた『星瑳勝覧』という中国文献にも、

 この「手締(じ)め」を実際に見た記録が載っている。

 「商談が成立して価格が決まると、手を打って納めとし、後で紛争など起こさない」

 と書いている。

 まさにその通りだが、著者・費信が旅してそれをみた場所は日本ではない。

 「榜葛刺(ボカラ)国」で、現在のインドのベンガルだったのだ。

 これも商習慣という名が示す通り、古代商人が広めたもので、
 
 それがインド経由で我が国まできた証拠だ。

 それはその国名が倭の五王の名乗りにある慕韓(ボカラ)そのものだからである。

 しかしその名乗りにインドの地名は入っているはずがない。

 その時代には、それは朝鮮半島の弁韓以外ない。

 弁韓はべンカラで、我が国では紅をベニ・ベンガラ色という。

 沖縄のビンガタの原産地で、紅(ベニ)の語源はベンガルのベンだとわかる。

 インド商人は3世紀より前に、沖縄経由で朝鮮半島に弁韓国をつくっていたのである。

 星瑳勝覧

 紅(ベニ)

 ※出典:大学院講義録20 12頁


 「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」
 
 ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

 これはギリシャ人が始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

 始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

 ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

 こうして整理すると古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

 私たちが日常体験しているような、ハツキリしたものだとわかる。

 我が国へ来たギリシャ人は、

 どんな人たちが、

 何を目的に、

 いつ、どこを出発して、

 どこを通ってやってきたか。

 そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

 それは天照大神=卑弥呼を生み、応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

 それ以前にすでに領土を拡大して、

 中国を中心に沢山な国をつくり、

 東アジアを支配した。

 こうして細部にわたって疑問が全て解けたことを、

 よく再認識しておいて戴きたい。

 また文化史を年表にして見ると、

 弥生時代そのものがギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

 そして、さらにそれに先行して、西アジア古代文明もまた、

 我が列島まで届いていたことも読み取れた。

 こうして在来の史学では想像もできなかった巨大な問題群が、

 疑いが残らないはど確実に、そして大量に解明できたのである。

 それを、これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

 完全といっていいほどに、卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

 ※出典:大学院講義録20 14頁

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2012年3月27日火曜日

フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松(4)



 《フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松
 「フェニキヤ(船来国)人と屋久島の縄文杉とポセイドンの聖木=松

 ※出典:大学(院)講義録16:6頁
 《極東に開花した壮大なギリシャ文明の落とし子
 「極東に開花した壮大なギリシャ文明の落とし子

 ギリシャの海神・ポセイドンは馬を作り出したから馬は彼の聖獣で。

 またギリシャでは船を造る木として最高だった松の木を、

 そのポセイドンの聖木として崇敬していた。

 百済というのは、そのポセイドンに当てた漢字で、

 ポセイドン=百済殿(ポセイドン)である。

 すると福岡県若宮町の竹原古墳などが代表する

 北部九州の古墳壁画が船と馬をテーマにし、

 『魏書倭人章』には「馬無し」と書いてあるのに、

 各地で立派な馬の埴輪が出てくる理由が完全に解かる。

 また宮崎県西都原(さいとのばる)の飯盛塚古墳出土の船の埴輪は、

 艪(ろ)を支える突起が14あるから乗員数で規模がわかる。

 こうして本学によって発掘考古学の手探り時代は終わったのである。

 それだけでなく、帯方郡使の眼の届かなかった沖縄地方で、

 いま久高島のノロたちが頭にギリシャの月桂冠そっくりのものを被るのは何故か?

 といったことまで、明確にわかる。

 今年はギリシャでオリンピックが開かれる。

 日常、なんの気なく使われる「栄冠」という言葉が、

 ギリシャ起源の月桂冠のことだったと改めて気付かされる思いがするが、

 ギリシャから私たちが受け継いだ『四神』の名と色彩の名と、

 それを府県名のような行政区名化した五彩圏国家の実在に及ぶ、

 極東に於ける壮大なギリシャ文明の開花が、

 奇しくもいま明確に白日のもとに姿を現わした。

 この壮挙を1日も速く、世界の人々に知ってもらいたい。


 ※出典:大学(院)講義録16:7頁
 《海人族を大発展させた「松」という文化財の実在
 「海人族を大発展させた「松」という文化財の実在

 末廬(マツラ)という発音が帯方郡使にも聞き取れたことは、

 3世紀にはマツラという地名がそこにつけられていたからで、

 それは最初は馬津国(マツラ)だったものが、のちに松浦になったことも疑いない。

 ところがその地域には日本最大の磯の松原である「虹の松原」が現在も残っている。

 文字通り松の浦である。松の木が馬津国(マツラ)を代表する聖木だから、

 むやみに伐採し尽くされず、今に至るまで昔の面影を保っているのだとわかる。

 このことで松を日本語でマツと発音するのは、

 語源が馬の国である「馬津国」だからだとわかる。

 それではその松の木はポセイドンの聖木だから、それが群生していたから、

 そこをマツラと呼んだのであろうか?。

 それともそこが馬津国こなったからマツラと呼ばれた後、

 そこに松の木を植えたから、

 馬津=マツの木という名が生まれ、

 それは中国では松=セウと呼ばれる木だから、

 その字を使い、発音だけ日本読みしてマツと呼ぶようになったのか?。

 これは発音からいっても、文字からいっても後の方が正しい。

 だとすれば松の木は後から植えたもので、そこに大きな松原があったところに、

 偶然、馬津国が移動してきた奇跡的な出来事があったわけではない。

 馬津国が発展すれば必然的に造船量も増えるから、松は単なる聖木としてではなく、

 海人族の最大の経済基盤として人工的に増殖されたのだとわかる。


 ※出典:大学(院)講義録16:8頁
 《「亀」という代名詞にもこれだけの史実がある
 「「亀」という代名詞にもこれだけの史実がある

 その海運力をもっていたから、

 ギリシャ人は台湾から朝鮮半島まで支配できたのである。

 それがまた、

 高句麗王・位宮が魏の大軍に敗れて脱出、

 琉球まで落ち延びるのに役立った。

 この話が浦島太郎伝説になって残ったが、

 太郎は「助けた亀に連れられて」竜宮城へいく。

 彼は兄の高句麗王が死んで王妃に泣き付かれたため、

 亀=高句麗海軍を助けに、

 高句麗王を引き受けて戦ったのだったから、

 「助けた亀に連れられて」なのだが、

 その亀の名も単なる海人族の風刺ではない。

 位宮は垂仁天皇で、

 その后妃は狭穂姫皇后の死後に再婚した比婆須比売皇后柿妹である。

 その父は美知能宇斯王で、

 これはインドの最高の神・ビシュヌウ神ヘの当て字・

 美知能宇斯(ビシヌウシ)ンであることは、

 その当て字の一字一字が証明するし、当時の支配者たちが、

 信奉する神の名を名乗っていた実例は、

 百済王のポセイドン以外にも多数あるから議論する必要はない。

 このビシュヌウ神は、目的に応じて様々なものに姿を変えるが、

 そのトップにあげられるのが「亀・クールマ」なのである。

 それはインド神話の筆頭にある『乳海攪拌』で、この世界を造る時、

 宇宙を満たしていた白濁したモヤのような乳の海を神々が攪きまわすのに、

 ビシュヌウ神が巨大な亀に変身して特大の攪拌棒を支える軸受けになるからである。

 太郎の亀は美知能宇斯なのだ。
 

 ※出典:大学(院)講義録16:9頁
 《門松の語源はギリシャ神話のカドモス
 「門松の語源はギリシャ神話のカドモス

 では「門松」は、どんな事実を記録しているのであろうか?。

 それを門飾りにするのは、ポセイドン族=海人族=百済人の行為で、

 それは国民が国旗を掲げるのと同じものであるといえる。

 ではそれを日本語で「カドマツ」と呼ぶのはなぜ?だろうか…?。

 これもギリシャに語源があるのではないかと、

 精密に捜査し検討するのが、本学の原則である。

 するとカドマツに転訛する名詞がギリシャ神話中にみつかる。

 カドモスである。

 この名はギリシャ人が最初に土着した琉球地区では、

 母音のオがないために、カヅムスになる。

 これは南九州語に転訛すると、

 ヅはドに戻り、ムはマになり、

 スはツと区別のつかない「ッ」になるからカドマッになる。

 そして門松君はまさにその通り「カドマッ」と呼ばれていた。

 彼は気づかぬまま故人になったが、

 彼はギリシャ語で「カドモス」と呼ばれていたのである。

 この語源がなければ、

 門松は決してカドマツとは読まれず、

 モンマツと発音されていたはずである。

 関西語では戸外を「カド」というが、それは門を意味しない。

 「カドで遊んで来(き)」というのは広い戸外で遊んでこいという意味なのである。

 カドモスとは、どんな人物なのだろう?。

 我が国では、そんなに有名な存在ではないが、

 ギリシャ神話では、

 大きなページを占める重要人物である。


 ※出典:大学(院)講義録16:10頁
 《カドモスの一族名は鹿児島に濃厚に残る
 「カドモスの一族名は鹿児島に濃厚に残る

 紀元前1世紀ごろに書かれたとされる、

 アポルロドロスの『ギリシャ神話』の第3巻に、

 カドモス一族のことが詳しく書かれている。

 ポセイドンはリビエと結婚してベロスとアゲーノルが生まれた。

 ベロスはエジプトに行って支配者になり、

 アゲーノルはフェニキヤに行ってテレパッサと結婚、

 長女エウロペと

 3人の男の子、カドモス、ポイニクス、キリクスたちが生まれた。

 ご覧の通りカドモスはポセイドンの孫だから、百済人には周知の名なのだ。

 ここで父・アゲーノルの名を検討してみよう。

 アゲーは倭国の倭の発音がウワイだったこと、切っても切れない関係にある。

 ウワイは今も鹿児島独特の上井(うわい)という地名と姓として、残っているが、

 上井という当て字はアゲイとも読まれて、山口県の地名やJRの駅名に残り、

 さらに東隣りの県・広島の古名・安芸も、注意してみれば

 アゲイという発音をもっている。

 これはアゲーノルという名が先に鹿児島にあって、

 上井と書かれていたからウワイという国名が生まれ、

 それにウワイという発音をもった倭の字が当て字されたように見える。

 だがその逆も考えられる、倭のウワイが古くて、

 そこがアゲーノルの国になってからアゲイへの当て字として上井が使われたが、

 そこは倭だったので、

 ウェイであってウワイではない上井の文字を、

 飛鳥や春日や大和と同じように、

 無理にウワイと読むことになったのだと…。


 ※出典:大学(院)講義録16:11頁
 《「上井の命」とも書けるアゲノール
 「「上井の命」とも書けるアゲノール

 では、アゲーノルの残りの「ノル」はどうなるか?。

 ノルという日本語の古語は「宣る」で、上が下に向かって命令することである。

 『古事記』は貴人の名や名乗りに「命」をつけている。

 これは在来は「ミコト」と読むと決められていたが、

 このミコトは御言葉の省略で「御言」すなわち命令であるとされてきた。

 するとそれは「ノル=宣る」と同じことである。

 そして「命」という文字は、イノチという発音が一般的で、ミコトは、
 こんなに説明しなければわからない特殊な使い方なのである。

 ところがアゲーノルの方は「アゲー宣る」と理解すると

 「上井命」と書いたものと同じになる。

 命が御言か宣るかは、まだ断定できないが、この2つが、

 どちらでも同じことであるのは間違いない。

 アゲーノルが「命」という敬称の語源である可能性は残っている。

 ここで是非、付け加えておく必要があるのは、

 私たちの最大の利器「名乗り」についてである。

 それは慣習に従うほかないから、

 使い続けている「名乗り」という言葉の「乗り」も本当は、

 この「宣る、宣り」なのだということなのである。
 
 「名を宣る」から「名宣り」が正しいのである。

 間違った「名乗り」という用字では、

 一般のかたには何のことか分からなくて当然なのだ。

 だが我が国には歴史に限らず、同様の恥を晒している用語が実に多い。


 ※出典:大学(院)講義録16:12頁
 《カドモスの国・フェニキヤは「船木国」
 「カドモスの国・フェニキヤは「船木国」

 カドモスが生まれた国の名・フェニキヤも重要な名詞である。

 そこは古代ギリシャ中でも最も有力な海軍国で、

 スペインなど各地に植民地を造り続けた。

 その国名に当て字すれば、船木国になる。

 船の木は松。カドモスと門松はここでも結びつくのである。

 ただしフェニがフネというのはオカシいという疑問が残る。

 これは沖縄語を考えればきれいに晴れる。

 沖縄で最も有名な戦跡「マブニの丘」は、

 摩文仁と書くが、そこは沖縄本島最南端に近く、

 一望、果てしない太平洋を見渡す丘だから、「船しか見えない丘」で、

 それを叙情的に表現した「真船の丘」が、

 命名者の意図した本来の名前なのである。

 真船がマブニになるのは本来の沖縄語には母音のエがないからフネがフニになる。

 だからフェニもフニで船と同じになるから船木国で完全に表現されているのである。

 いまギリシャや、その植民地遭跡一帯へ行ってみると、見事な松原や松並木が残っている。

 紛れもなく文字通り「船木の国」だったことが実感できる。

 日本語の「フネ」の語源がフェニキャだったことは疑問の余地がない。

 従来、古墳人は北方騎馬民族だといわれてきた。

 古墳に壁画や埴輪の馬があり、石の馬も九州と出雲で出土したから、

 有力な証拠とされていた。

 しかし彼らは船や松には縁がない。

 それは全て海神・ポセイドンとだけ、

 矛盾なく結びつく、動かぬ証拠群だったのである。


 ※出典:大学(院)講義録16:13頁
 《虚構の「民族史観」一掃が急務
 「虚構の「民族史観」一掃が急務

 これでギリシャ人と、フェニキャ人とを別の国の、

 別の人種だと思っていたのでは、

 絶対に古代史の謎など解けないことがおわかり戴けたと思う。

 ヒトラーが宣伝した民族史観などが学問の内に入らず、

 無茶苦茶にしてしまうことが、これでおわかりのはずである。

 それは現実に、戦後のドイツ史学の停滞になって現われている。

 もっともそれは我が国でも隣国でも似たようなものである。

 劣等感を裏返しにしただけの史学?が、

 どれだけ多くの愚かな説を生み出してきたか、

 蔵書の山を見て悲しくなるのは皆様も同じだとおもう。

 はるばるフェニキャからやってきて、

 我が国の基礎を築いた父祖の功績を知らずに、

 神か悪魔かわからないものを崇拝して何になるか?。

 子供達が劣等感をもち、未来に希望を失い、

 働く目的も意欲ももてずに、勤労を嫌い、

 遊びに明け暮れて、犯罪者に転落するのは当然のことである。

 それをさせる大人たちが、自分の無知や思想の誤りをまるで自覚できず、

 他人の責任のように嘆き、怒って見せる。

 このままでは我が国の明日の惨状は、今から眼に見えている。

 私たちは折角すばらしい先祖をもちながら、愚かな先学らに毒されて、

 奇妙な神国観を吹き込まれ、その尻拭いの戦禍に巻き込まれ、

 今なお米軍に占領されたままの国に住んでいる。

 今ほど真実の建国史を知って、

 劣等感を一掃する必要のある時はないのである。


 ※出典:大学(院)講義録16:14頁
 《竜を退治てテバイ王になったカドモス
 「竜を退治てテバイ王になったカドモス

 ではカドモスが我が国までやってきたのであろうか?。

 実は彼らはフェニキヤで大事件に巻き込まれて四散してしまうのである。

 事件はエウロペが誘拐されて行方不明になったことから始まる。

 父はエウロペが見つかるまで帰るなと兄弟たちを探しに出す。

 カドモスは母のテレパッサと同行するが、母はトラキヤで死ぬ。

 そこで一人で旅を続けてデルポイへ行き、神殿へ参詣して神にたずねる。

 するとビューティアの告げた神託は

 「牝牛を道案内にして、牝牛が倒れた所に町を造れ」という。

 すると本当に彼の前に立って歩く牝牛が現われたので、

 それについていくと、

 現在のテパイ市で止まって倒れてしまった。

 従者をアレスの泉に水を汲みに行かせると、

 泉を守っていた竜が従者たちを殺したので、退治た。

 すると女神・アテナが現われて、竜の歯を撒けという。

 それにしたがって歯を折りとって撒くと、

 それが鎧兜で武装した兵士たちになった。

 その数が余りに多いのでカドモスは石を投げっけたところ、

 兵士たちは怒って同士討ちを始め、

 どんどん倒れていき最強の5人が残った。

 しかし行為を恥じたカドモスは、晴罪のために8年間、神々に仕えた。

 それをめでて、

 アテネは王国を、

 ゼウスはアプロディテの娘・ハルモニアを妻として与えたので、

 4人の娘・アウトノエ、イノ、セメレ、アガウェと、男の子・ポリドロスが生まれた。


 ※出典:大学(院)講義録16:15~16頁
 《日本語でも意味の通じるカドモスの妻子の名
 「日本語でも意味の通じるカドモスの妻子の名

 その後、

 カドモスはテパイを捨ててイリリアの王になり、

 死後は夫婦とも大蛇になって、

 ゼウスに常春のユリュシオンの野に送られた。

 胴から下が蛇の男女が絡みあっている

 中国の伏義女堝(フクギジョカ)によく似ている。

 だからカドモス自身は我が国までは来ていない。

 しかし淡路島の語源であるアプロディテの娘と結婚している。

 神話とはいえ、彼の一族と我が国との関係が非常に濃厚であることは変わらない。

 それはその妻子たちの名にも現われているのである。

 「ハルモニア(Harmonia)

 門松を飾る正月を「ハル」という。

 名詞語尾のiaは国を意味するから本来の名はハルモンである。

 これは「春・門」で、門松を飾る門を意味している。

 「アウトノエ(Autonoe)

 アウはオウだから、オオトノ=大殿で王家のこと。

 エは兄で、古語では兄と柿を意味する。

 彼女は一番上の王女だから、大殿姉なのである。

 「セメレ(Semele)

 ゼウスが愛したのでゼウスの妻が憎み、雷に撃たれて若死にする。

 だが噂はセメレは人間の男と姦通したのを、ゼウスのせいにしたので、

 それをゼウスに「責められて」ゼウスの武器・雷で罰せられたのだ、といった。

 日本語の「セメラレ」と彼女の名「セメレ」との関係が、ここに見られる。

 セメレは奄美語ではシミジで、そこでは清水をシミジと発音する。

 「イノ(Ino)

 イノはボイオチアの王・アタマスの後妻になったが、

 大女神・ヘラに憎まれ、

 ヘラはアタマスに夢で告げ口をしてアタマスの「頭」を狂わせる。

 頭にきたアタマスはイノに生ませた長男を殺し、イノも殺そうとした。

 イノは次男を抱いて逃げたが、追い詰められて海に飛び込んだ。

 彼女に恩義をもつゼウスは彼女と次男を海の神に変えた。

 母子は船乗りたちを嵐から救うとして厚く信仰され、

 彼女を白い女神・レウコテア、

 次男をバライモンと名付けたが、それは嵐の海の白い波がしらと、

 死の悪魔の手を払いのけてくれるからで、

 日本の神事の「お祓い」の語源がここにある。

 轟々と暴風を吹きつけて船員達を海へ引きづりこもうとする悪魔を、

 強く払いのけてくれるハライモンは、

 まさに「払い者(もん)」の名にふさわしい海の神様なのである。

 だから海人族たちがカドモスー族を日本まで運んできたのである。

 そしてイノという名は国名になり、地名、姓氏にもなって現在まで使われている。

 猪野、伊野、井野、伊能、飯野など、

 これから出た姓は特に南九州と海人族居住地に多い。

 「アガウェ(Agaue)

 これは前にもお話ししたが、吾郷、阿江、安川という姓に合い、

 アガウェは前記の「エ=兄・姉」がついたもので、

 阿賀大兄などと当て字できる。

 「ポリドロス(Polydoros)

 ポリドはホリト。

 堀戸や彫戸や保利都、ロスへの当て字は郎子。

 保利都郎子。

 この堀戸は後にホリベと読まれて、堀部・堀邊などに変化する。


 ※出典:大学(院)講義録16:17頁
 《ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語
 「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語

 誤解はないと思うが、念の為に申し上げておくと、

 以上の一致点はその名詞のギリシャ語の「意味の部分」ではない。

 ギリシャ語の名前の「発音の部分」が、

 日本では日本語として別の意味をもったのである。

 これはその名詞が我が国に入ってくる前には無かった言葉が、

 その名詞が移住してきて、

 別の意味をもつ新らしい名詞にに生まれかわったのである。

 この考え方が正しいかどうか検討するには、

 どうすればいいか?、

 それもお話ししてみよう。

 ハルとセットになる日本語は夏、秋、冬である。

 春がハルモニアが語源だとすると、他の3つはいっ生まれたのか?。

 それは古来、日本列島に土着していた先住民の縄文人が、

 すでにもっていた言葉=原日本語だったのであろうか?。

 ナツは娜津(なつ)と、

 アキは安芸(あき)と、

 フユは夫余(フユ)と同じ発音をもっている。

 暑い季節は南、寒いところは北だから、

 春秋はその中間になければならない。

  春に当たるのはどこだろう?。

 安芸を広島とすると、

 娜津は福岡だから同じ緯度にあって夏には合わなくなる。

 その辺りには春がなければならないが、

 福岡市中央区と北九州市に春吉があり、

 福岡市博多区に春町がある。

 また読み方はカスガだが文字はハルの春日市は、

 福岡の南に隣接する市だ。

 すると沖縄の那覇も海に面した都市だから古代には那津(ナツ)で、

 朝鮮半島の夫余(フユ)といい対象になる。


 ※出典:大学(院)講義録16:18頁
 《イノ国は1世紀に福岡に実在していた
 「イノ国は1世紀に福岡に実在していた

 沖縄がギリシャ人の基地だったことは今さら説明する必要もないから、

 春日市を検討してみよう。

 春日大社藤原氏の氏神である。

 フジは百済でポセイドンなのだから、ハルモニアの本家である。

 これはカスガと発音する方が後世のもので、

 もともとはハルモニアをまつる神社だった可能性さえある。

 福岡・春日両市のあたりが、春に当たることは間違いない。

 では時代はいっか?。

 福岡で最も有名な出土品は志賀の島の金印である。

 そこに彫られた漢・委奴国の委はイ、奴はノだからイノ。

 『後漢書』は後漢の光武帝(25年~57年)が授けたと記録しているから、

 少なくとも1世紀には、すでにイノ国が実在していたのである。

 夫余は『魏書倭人章』と同じ『東夷』の条にでてくるから3世紀に実在している。

 百済王は自ら扶余(フユ)を名乗り、百済と高句麗は扶余一族だと語るから、

 ポセイドン一族であり、

 その支配者がギリシャ人の中のフェニキヤ系の人々だったことは疑う余地がない。

 そして安芸も先程お話しした通りアゲーノルが語源だから、

 この春夏秋冬の名は全て、

 ギリシャ人がつけた統一名詞だったとわかる。

 決して縄文人が使っていた日本語?なんかではない。

 これでハルモニアが当時の我が国でよく知られていただけでなく、

 春の語源にまでなった重要人物だった事実が、充分ご納得いただけたと思う。

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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状