私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。 発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、今後、若い人たちの研究課題である。 また、オリエント史(ウバイド・アッカド・シュメル等)・ギリシャ史・インダス文明史・中国史・朝鮮史等の理解を深めることにより、 今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化の源流、日本語の語源・成立、日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できれば幸いです。
2012年3月30日金曜日
東アジアに次々に邑婁人(ユーロ=ヨーロッパ人)の国々を作った人たち
《東アジアに次々に邑婁人(ユーロ=ヨーロッパ人)の国々を作った人たち》
「東アジアに次々に邑婁人(ユーロ=ヨーロッパ人)の国々を作った人たち」
《3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人》
「3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人」
『魏志東夷伝』には、
高句麗に隣りあって挹婁(ユーロー)という国が記録されています。
この挹婁はこれも不思議にお思いでしょうがギリシャ人の国だったのです。
3世紀の北朝鮮や日本にギリシャ人がいたとは信じられない方のために、
「高句麗よりさらに東北にあって大海(日本海)に面した国・挹婁=ユーロー」
をご紹介しましょう。
それにはこんなことが書いてあります。
そこは今の北朝鮮からロシア沿海州にかけての地域で厳寒の地なのに、
住民は
「裸で、冬はイノシシの脂を体に塗って、毛皮を着る」というのです。
中国や朝鮮半島の国とまるで風俗習慣が違っていたのです。
一体、その人々はどこからやってきたのでしょう?。
それは国名でわかるとおり「ユーローピアン」だったとすると、
素っ裸で暮らしていた風習は、
ギリシャから大量に出土する赤絵土器などに、
描かれた風俗画で普通に目にする
古代ギリシャ人独特のスタイルだということになります。
こう考えると、その裸風俗ももはやそれほどには奇妙には思われません。
しかし当時「ユーローパ」と呼ばれた地域は、
今のヨーロッパではなくて、
もっと限定された狭い地域のことでした。
それは地中海東岸にあったフェニキアから見て、
西にあたる海の彼方の国のことだったのです。
そのことはギリシャ神話の中の次のお話でよく分かります。
《3世紀に北鮮にいたユーロ人の生態》
「3世紀に北鮮にいたユーロ人の生態」
そこで豚を飼い、肉を食べ、皮を着る。
冬はその豚の脂肪を厚さ数分(ぶ)(1分は3㎜)体に塗って寒さを防ぐ。
夏は素っ裸、尺布で前後を覆い隠す。
古代の「粛慎氏」の国だ。
弓に優れ、矢に毒を塗るので命中すれば皆死ぬが、百発百中だ。
漢代以来、夫余に臣属したが、税の取り立てが、
厳し過ぎて黄初中(紀元220-226)に叛いた。
夫余は度々これを討ったが、山険しく矢は恐ろしく、
隣国人は遂に帰服させることができなかった。
挹婁人は船を上手に操って、
荒らしまわるので隣国は悩み困っている。
だから法秩序は綱紀なく、最悪である。
ユーローという名は、今のユーロと同じで、欧州を意味し、
その名はフェニキヤの王女・ユーローパ姫(ギリシャ文字・エウロペ)が、
牛(実はゼウス)の背に乗って西海岸から海に飛び込み、
クレタ島のイデ山の洞窟で暮らして、
ミノスら三人の大王を生んだ。
この歴史にちなんで、欧州はユーローパと呼ばれることになったのである。
《彼等は粛慎からやってきた》
「彼等は粛慎からやってきた」
ギリシャでは洞窟での生活も当然のことだし、
裸体生活もギリシャ陶器などの遺物に描かれた人々の姿と同じである。
しかし中国人はそれを「野蛮」と読んだ。
そして私たちもその野蛮を劣等未開を表現する形容詞として使ってきた。
しかしそれはヤーバナ(ギリシャ)人という名詞だったのである。
そして彼等はその時の居住地へ古代の「粛慎氏」の国から船でやってきた。
粛慎は「チュクシン=チクシノ=筑紫の」国である。
フェニキヤを出発点に、
九州を経て高句麗と並ぶ地域でギリシャ生活を営んでいた人々が、
故郷の地名ユーローパを名乗っていたのは当然のことである。
そしてこれが解ると、
高句麗付近で垂仁天皇を救った
フェニキヤ系海軍を率いる大王・丹波のミチウシの、
具体的な実在証明が鮮明に成立し始める。
《渡来の事実とその時期の確認》
「渡来の事実とその時期の確認」
だがウバイド、ギリシャ、倭人といっても、もちろん時代が大きく違う。
その時間差も明らかにしないといけないが、ウバイドについての研究は、
過去の業績で明らかになっていた遺跡の下層に、
さらに8000年前と測定された遺跡の存在が確認され、発掘作業進行中、
ブッシュ大統領父子による湾岸戦争とイラク戦争という二度にわたる惨劇が起こり、
発掘が中断されたままになっているから、8000年前という概数しか判らないが、
我が国の発祥がいっか?という命題には、これで充分であるし、
カルデア人がカリエンとして台湾・沖縄に土着し、高句麗・モンゴルまで支配して
貝貨幣を中国へ運び、殷帝国の興隆に貢献した事実も解っているから、
これがウバイド人の1ルートであったことは間違いないので、時代は特定できている。
次はギリシャ人はいっやってきたか?だが、これは考えなけれはならない問題に満ちている。
それを一つずっクリアーして行ってみよう。
①アレクサンドロスの東征によるものか?。
②その東征の結果、生まれたマウリア王朝のアソカ王仏教宣布団によるものか?。
③海の先進国フェニキヤ人の来航によるもものなのか?。
この②はソナカが卑弥呼の夫である仲哀天皇なので時代は限定されているし、
①によると考えられる2~3世紀の東夷ユーロは、
講義録(院)34で見たように、
筑紫であることの確かな粛慎を経由しているので、
渡来の事実と時期が確認できている。
《牛にさらわれたユーローパ姫》
「牛にさらわれたユーローパ姫」
『悪夢から目覚めて不安になったフェニキアの王女ユーローパ姫は、
侍女をつれて浜辺へ花つみに出かけました。
するとそこにいた真っ白で美しい牡牛が、
いかにも背中に座れというように、
姫のそばへきて寝そべったのです。
王女は誘われるようにそれに座って牛の背の柔らかな毛をなぜました。
すると牡牛はいきなり立ち上がって姫を乗せたまま走りだし海に飛びこみました。
恐ろしさに姫がしっかり角につかまっていると、
牡牛は
「怖がらなくていい、私はゼウス大神だ。
私と楽しく暮らそう!」といいました。
父王は姫が牛にさらわれたと聞いて大層悲しんで、
二人の王子に探しに行かせましたが、
王子たちは見つけることができなかったので、
ついに国には戻らずに、行った先に新しい国を作ったのです』
というお話です。
おわかりのようにフェニキアから見て海の向こうが
ユーローパ姫の行った土地「ユーローパ」なのです。
それはフェニキア人が、ギリシャ本土を指して呼んだ名だったのです。
「挹婁伝」に書いてある風俗習慣は全てがギリシャ人のものと一致しています。
そしてそこは「粛真(チュクチ)氏」の国だったとも書いてあります。
このチュクチは漢字で書くと「筑紫・菊池」で、
九州の古い呼び名ですから、
もとは九州を支配していた人たちなのです。
その人たちが北へ移動して挹婁人と呼ばれたことがよくわかります。
その記事の中に、
そこは「赤玉」の産地だという記録があります。
天照大神の装身具の中心
[八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)]がありますが、
この「瓊(に)」というのは「赤玉」のことで、そこがその原石の産地なのです。
なぜそれがわかるかというと、
この「八坂」というのは、
倭人連邦の主力であった「ヤバナ」に対する当て字
「ヤバン=八坂」だからなのです。
これは「八幡」とも書かれます。
その中心になる神様はスサノオノミコトと応神天皇です。
あらゆる角度から「八幡」の語源を検討して、
一致点のないものを消去していきますと、
あとに残るのは
インド・サンスクリット語の「ヤヴァーナ」だけになります。
これは「ギリシャ人」のことで
中国ではこれに当て字して「野蕃人」と書きました。
裸で暮らすのは野蛮だと思っていたのでしょうが、
その言葉は本来はギリシャ人という当て字だったのです。
しかし古代の中国人が、ギリシャ人を知っていたはずがない、
とお疑いの方があるかも知れません。
マレー語ではギリシャ人を「ユーナン」と呼びます。
中国の雲南省は正確な発音は「ユンナン」で、
この「ユーナン」への当て字なのです。
《ロシア沿海州にいたギリシャ人》
「ロシア沿海州にいたギリシャ人」
残りのページ数が少なくなったので三種の神器の深い意味は紙数の関係で省略したが、
倭人連邦の主力であった「ヤヴアナ人」とは何だったのか?
これは省略することはできない。
だがヒミコたちの人種構成が分かった今では、
それは簡単に見つかるし、即座に承認できる問題である。
それは後に日本全国に祭られた「八幡」なのだ。
あらゆる角度から「八幡の語源を検討して、
一致点のないものを消去していくと、
あとに残るのはインド・サンスクリット語の「ヤヴァーナ」だけになる。
これは「ギリシャ人」という意味である。
しかしまだこれでも、
3世紀の日本にギリシャ人がいたとは信じられない人のために、
『魏書東夷章』に記録されている、
高句麗よりさらに東北にあって大海(日本海)に面した国
「挹婁=ユーロー」をご紹介しょう。
そこは今のロシア沿海州なので「劇寒」なのに、夏は裸、冬はイノシシの脂を体に塗って、毛皮を着る、と書いてある。
この国名でわかるとおり彼等は「ユーロピアン」であり、
裸が日常だったのは、
土器に描かれた風俗で証明されるギリシャ人独特のスタイルなのである。
そして当時「ユーローパ」と呼ばれた地域は、
地中海東岸にあったフェニキアから見て西の海の彼方の国のことだったのである。
それはギリシャ神話の中の次のお話でよく分かる。
《殷商から前韓までの歴史》
「殷商から前韓までの歴史」
そうした宝貝産業の人々が、
初期の顧客の主力だった[殷人の商帝国]が滅びて打撃を受けたことは間違いない。
ここで茨城県の稲敷郡のことを少し考えておこう。
この郡に住んでいた人たちは、そのとき、日本列島へ避難してきたのだろうか?
稲敷は殷都の安陽から正確に真東にあってその先は太平洋に面している。
古代の人にとってそこは東のはずれだった。
ということは[稲]を作っていた
農民帝国の神[太陽]を祭る第一の祭の式場としては
[稲シキ]の名が意味をもつが、
難民が逃げた土地としては
北緯36度線上に正確に2200キロメートルを測定して式場を作る意味がない。
避難なら逃げることと生きることが先で、
とてもそんな大測量などしていられるわけがないからだ。
また打撃は受けたが宝貝産業はその後の周帝国でも、
戦国時代でも発展し続けて、
とうとう今みたような高度の分業態勢をととのえたのである。
そのころ中国の今の遼寧省には金属文化が栄えたが、
それが当時の和人の中心地の位置を示している。
しかし金属貨幣が作られはじめると最初は[漕ぐ人]の作った高句麗も、
次々に職を失った部族が入ってきた。
また集団の母体だった扶余や、
後期に参加した邑婁(ユーロー)などは別の国々として分離し、
漢の武帝が紀元前109年に満鮮を征服して漢の玄菟郡にしてしまったのである。
《日本古代王族の婚姻系譜(23)》
「日本古代王族の婚姻系譜(23)」
E系図とJ系図の室比古王の列を並立させてみると、次のようになる。
2 3 4 5
仇道(剄頚) ∥ |末仇∥_|末仇2 ━末仇3
(伊声耆) _ 休礼∥ (比流王)304~344
息長水依姫 ∥ |味鄒∥ |室比古王∥
光明∥ 張氏 ∥_|劉曜(四男)
「ホケノ山古墳の被葬者特定」という論考の中で、
味鄒=山代大国淵、室比古王=劉淵であることは解明してあるから、
陳舜臣前掲書384頁に
「劉淵の祖父於夫羅(オフラ)は、献帝の東帰を援け、
その居住地は中原からごく近いところだったのです」と
ある文章のオフラのルビはオフロと変更出来る。
オフロはオフロー(=イフロー=ユーロー=ギリシャ人)である。
仇道は烏越(慕容渉)にとっても祖父である(仇道━臣濆姑━烏越)。
どちらから見ても合うものは、それが真実の系着であることの証拠である。
ギリシャ人である伯固(紀妃の孝霊天皇)の息子はやはりギリシャ人である。
この人種の名は、後のオホド大公王(継体天
皇)になって復活?する。
オホド=オホロ=オフロ=イフロ(意はイとオの南方の発音を持っている)=
ギリシャ(人)になるからである。
劉淵は大航海王味鄒の息子で、
彼自身も航海王(船長、海軍大将)だったし、
彼は三世紀末に沿海州で人望を得て、
ついに皇帝になった(漢)=304~310年病没。
沿海州で人望を得た、彼は航海王(大商人=海商)というのなら、
南九州、瀬戸内海のみならず、日本海沿岸と半島、大陸を航海(交易)していたのである。
言語復原史学会
言語復原史学会
《ギリシャ神話の英雄の子孫たち》
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
このウースンというのは、
『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。
その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、
船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、
それは史実が後世に次第に変型したもので、
ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、
その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。
ギリシャ語には多くの方言がありますから、
イャーソンという名はヨーソンからユースン、ウースンと変化します。
先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、
それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。
『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、
ウロとは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。
これで「イヤ」とヨとユとウとの訛りかたがわかると思います。
その地域での「ウースン」が、
ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。
その神話に残され地名とコースが、
東南アジアの現在の国々と一致しているので、
今では彼らがマレー経由で台湾へきて、
そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、
その後、
カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、
明らかになってきました。
また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、
その基地として高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・
夫余(フユ)・挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、
あますことなくわかったのです。
しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、
彼らは営業を続けられなくなりました。
ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、
中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、
古代の呉の地に根をおろしたのでした。
このウースン人についてはもっと重大な事実があります。
それは鹿児島県の東半分を占める
「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。
そして今も鹿児島県人には、
大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、
ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、
ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。
この一致で、
大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは疑いの余地がありません。
『参照ブログ』
古代メソポタミア
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
古代史ブログ講座
歴史徒然
ネット歴史塾
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史の画像
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
ひねもす徒然なるままに
古代史つれづれ
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
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