私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。 発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、今後、若い人たちの研究課題である。 また、オリエント史(ウバイド・アッカド・シュメル等)・ギリシャ史・インダス文明史・中国史・朝鮮史等の理解を深めることにより、 今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化の源流、日本語の語源・成立、日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できれば幸いです。
2012年3月29日木曜日
7世紀の日本海軍はギリシャ式海軍
《7世紀の日本海軍はギリシャ式海軍》
「7世紀の日本海軍はギリシャ式海軍」
《鴨緑江(おうりょくこう)を支配した[漕ぐ人]》
「鴨緑江(おうりょくこう)を支配した[漕ぐ人]」
宝貝産業は、その商品が重い。
これが販売のネックだった。
車さえない時代には、船が最高の輸送手段だった。
しかし鉄の釘が発明されるまでは、
木のクサビで止めたり、
木の皮で結んだりする程度の方法しかなかったから、
大型の構造船を作ることは不可能だった。
また、小船に重い貝殻を積んで広い海に出ることは危険だった。
それが沖縄から直接、中国へ行かずに、島伝いに南九州から北上して、
朝鮮半島経由で商品を運んだ理由である。
だがここにも難関が一つ待ちかまえていた。
それもとても厄介な相手である。それは鴨緑江である。
この大河は中国が朝鮮を支配するたびに、
それを挫折させたほどの恐ろしい相手だったのである。
それを征服できたのは、ただ[漕ぐ人=コグリヨ]だけだった。
だからこそ高句麗が国名になり、こ
の大河の南北流域を支配下におくことができたのである。
それは今でいえば海運力であり、海軍力だったのだ。
このことがのちに、
カリエン人の海運力よりもまさった能力をもった
ギリシャ系の倭人に、
高句麗の支配権が移った理由でもある。
彼らはフェニキア系の構造船技術の持ち主であった。
「図:宝貝産業の分業」
どれがどれかクイズしてみてください。
このほかにももっと国際的に広く
[ウイグル〕と
[負い子=ウイグ]や
[バイカル=貝〈バイ〉狩る]や
[えらぶ(永良部)=選ぶ]などがある。
他にもっとないか、と捜すことも考えてみて下さい。
<ヒミコ>当時、
帯方郡使を運んだのも彼らだったし、
後でお話しする、この本の最重要プロットになる
「高句麗王の高速・沖縄逃亡」なども、
この海軍力を抜きにしては考えられない事件だったのだ。
フィリッポス2世&アレクサンドロス3世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
《アレクサンドロス3世》
《フィリッポス2世》
ヘレニズム時代はアレクサンドロス3世の時代から
ローマによるプトレマイオス朝エジプト併合までを主に呼び、
この呼称を初めて使用したには19世紀のドイツの歴史家、ドロイゼンであった.
この時代を後に牛耳ることとなるマケドニアは当初は異民族のように思われていたが、
現在の研究ではマケドニア人もギリシャ人の一派であると考えられている。
前7世紀に王国として成立した後、ポリスとはまったく違う形で発展しており、
王や貴族が存在していた。
マケドニアがギリシャと関係を結ぶのは前5世紀以降であり、
アルケラオス1世(前413年~前399年)の時代に首都を移転し、
ギリシャ文化の導入を開始した。
その後、アルケラオス王が暗殺され、
フィリッポス2世が即位するまでの間、
マケドニアは停滞期に入るが、
フィリッポス2世が即位直後に外的の侵入による存亡の危機に対処してからは
王国は安定し、軍備の拡張を行った。
こうして強力な軍隊の保持に成功したマケドニアは徐々にギリシャ北部へ侵食を開始していき、
「第三次神聖戦争」への介入を開始した。
この介入により、フィリッポスはアンフィクティオニアの主導権を獲得、
ギリシャへの影響力を増し、
紀元前341年にはトラキア占領に成功した。
アレクサンドロス3世これに対し、
アテナイ、テーバイは同盟を結び紀元前338年、マケドニア軍と戦ったが、
フィリッポス2世はこれに勝利、ギリシャはマケドニア王国に屈することとなった。
フィリッポス2世はギリシャ諸都市の代表をコリントスに招集して新たに
「コリントス同盟」(ヘラス同盟)を結び、翌年の会議ではペルシアへの遠征が決定した。
しかし、フィリッポスは紀元前336年、暗殺され、
その計画は息子のアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)に受け継がれることとなった。
アレクサンドロス3世はギリシャにおける反マケドニア勢力を殲滅した後、
コリントス同盟の会議を開き、再度ペルシア遠征を決定した。
アレクサンドロス3世はペルシア軍を撃破しながら、
シリア、フェニキアを占領、
そしてエジプトへ進軍し、アレクサンドリアを築いた。
紀元前331年にはガウガメラにおいて
ダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破、
ペルシアの崩壊は決定的となった。
そしてアレクサンドロス3世は
ペルシア首都スサ、ペルセポリスを占領、エクバタナへ進んでペルシア軍の殲滅を確認した後、
ペルシア軍討伐が終了したことを確認してコリントス同盟軍の解散を宣言した。
しかし、アレクサンドロス3世はここでギリシャへは戻らず、
さらに東へ向かい、バクトリア、ソグディアナを占領、インドへ向かった。
インドでも勝利を収めたが、長期に渡る従軍で疲弊しきっていた兵士たちはこれを拒絶、
アレクサンドロス3世は帰国の途についた。
アレクサンドロス3世はスサに凱旋した後、綱紀粛正など様々な業務を行い、
紀元前323年、バビロンに戻り、アラビア半島への遠征を計画したが、
彼は熱病で死去することとなった。
ギリシャではマケドニアの軍事力を背景とした平和が訪れており、
一部スパルタが叛旗を翻したが、これも敢えなく撃破され、
ギリシャにおける反マケドニア勢力は一掃された。
しかし、これらの平和もアレクサンドロス3世が
インドから帰国の途に着くと状況が変化を告げていた。
そしてさらにアレクサンドロス3世が若くして死去すると
アテナイを中心とした反マケドニア闘争、「ラミア戦争」が勃発した。
だがマケドニアはこれを殲滅、事実上、
ギリシャにおけるポリスの独立は終焉を迎え、民主政も消滅することとなった。
言語復原史学会
言語復原史学会
『参照ブログ』
古代メソポタミア
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
古代史ブログ講座
歴史徒然
ネット歴史塾
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史の画像
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
ひねもす徒然なるままに
古代史つれづれ
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿