2011年4月24日日曜日

与那国(ヨナグニ)島とはギリシャ人の国という意味

出典:言語復原史学会

「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」
「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」
「確認できる台湾⇒沖縄⇒九州コース」
「語系…沖縄=ペルシャ、鹿児島=ギリシャ」
「完全に解った卑弥呼共立の実相」
「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった
「神武天皇紀に残る台湾ギリシャ人の東征」
「パーリ語のヨーナはなぜ?ギリシャ人のことか?」
「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」
「実在している「夜食国」それは仏教思想の産物」
「建国時代の天皇家とその政権の信仰は仏教」
「既得知能の総合で、詳細に復元できる史実」
「方言化した地名・国名の歴史を確認し確定させる伝承」
「丹後の浦島太郎伝説『「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)』」
「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」
「立神岩の分布は何を復元するか?」
「名乗りが物語る詳細な勝敗と政変」
「孤立・戦争・亡国を生む『記・紀』編纂のツケ」
「応神以前の為政者も神話でなく史実の人たち」
「伊勢の王イサナキの領地名の移動発展コース」
「位官は与那国王、履中天皇はオルぺウス」
「八幡と日本の語源は同じイオニヤ人」
「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」
「天皇家の信仰の本質と成長過程」
「月読の尊は与那国までを治めた海人族の王」
「月読の尊は卑弥呼の弟・彦狭島=海幸」
「パーリ語人ソナカらが残した現存する遺物」
「卑弥呼当時の連邦の人種構成」
「卑弥呼時代の国名語源一覧リスト」
「広域に及んだアリアン大移動」
「朝鮮半島の百済は後世の植民地」
「邪馬の2種の発音と候補地」
「日本語の中に千語以上のパーリ語がある」
「山幸の見つけた釣針と赤女の真相」
「壹與=かぐや姫の悲劇の真相」
「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」
「読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布」
「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」
「大和は台湾で最初に生まれた」
「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」
「日本語の中に大量に発見される古代インド・パーリ語の痕跡」
「呉の皇帝も青い目をしていた」
「日本が誕生したとき」
「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」


「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」

へルメスが手に持つ、柄に羽のはえた杖「カディキウス」は世界中で象徴になっているが、このカディキウスは、もっと鹿児島と切り離せない重要な事実がある。
それはこの神杖は、もともと距離や天体を計る測定器だったからである。
製図で使うT定規は羽から先の頭の部分がないが、カディキウスが十字架型をしていることはすぐわかる。
その横棒の長さは少し変えてある。
その端を縦棒の端から観ると角度が測定できる。
だから星など天体を見て方角を知り、航海に役立てる。
土地を測量し、材木や石などを測定して建築に役立て、都市を建設する。
もちろん、商品を造り、量を計り、取り引きに指図に欠かせない。
これが産業や交通、知恵の神へルメスの象徴とされたのは当然だ。
それは「行くもの」=先遣部隊とか、移民とか、先導者とかを意味したギリシャ語のイオンの象徴であった。
その人々が住む所をイオニヤと言ったが、それは今のシリヤにまず出来、その後、我が国にも生まれた。
ソナカ=仲哀天皇の祖国語・パーリ語で、イオニヤは鹿児島語のように短縮して変形し「ヨナ」になってしまう。
それが「与那国島(よなくにじま)」という名を今も使っている沖縄県の最西端で、台湾が見える所にあるということは、その位置は台湾から見ると、まさにギリシャからみたシリヤと同じ位置にある。
台湾は古名をギリシャの季節の女神のひとり「ホーライ」に警えて蓬莱島(ほうらいしま)と呼んでいた。
台湾は気候が良く、高山があって、熱帯から寒帯まですべての「季節」が揃っているからである。
こうした命名はギリシャ文化の持ち主でなければ出来ない。
仲哀天皇らが運んできた文明がギリシャ文明とインド文明の融合物だったことは、もう疑う余地はない。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ184頁

「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」

古代ギリシャの国名が「四神」の真意で、日本語の色の名の起源だとわかった。
ギリシャの海の神々も地名の元になっている。
ポセイドンは百済(ポセイ)出水(イヅン・出雲)。
その王妃アンピトリテ(奄美)(取手)。
海から生れた美の女神アフロジテはローマではヴィーナスと呼ばれたが、それに我が国で当て字したものが「淡アフ・路ロ・島ジ・国」。
島の名は、またギリシャ人が来たコースも記録している。
ソナカの国語パーリ語ではギリシャ人をヨーナと呼んだ。
これはイオニヤのイオをYO 、ニヤ をNIA⇒NA ナ と訛ったものである。
我が国の最西端・与那国島はヨーナなのだ。
YONIA ⇒YO  NA イオー ナ=が「硫黄が」(島)になる。
これはさらに、鹿児島弁化して短くなり、跳びはねて、 YOGA(イオーガ)は「YAT ヤッ」になるからヤッチマ、すなわち屋久島にもなる。
このヤッチマは「八(ヤ)ッチマン=屋久島の」と使われるから漢字で書くと「八幡(ヤッチマン)」になる。
こうして次々に謎を解き進んでいくと屋久島はヤバーナから生まれた名だとわかるし、与那国島から屋久島までの南の島が、ギリシャ系の海人たちの世界だったことが明確に認識できたと思う。
では、そのときやってきたのは、どんな人々だったのだろう?
確かに南欧のギリシャから来た人たちがいたこともわかるが、経由したインドの人たちが一緒に来たことも間違いない。
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ173~174頁

「確認できる台湾⇒沖縄⇒九州コース」

ウバイドの伝統は「遷都」にあったのだから、末盧と伊都になる前は、そこがウバイド=倭人の都だったということである。
それが国名を二分して、馬津国と伊都国とに分割されているのだから、どこかへ遷都した跡だけになっている。
ここでもう一度『風土記』を読み返してみると、『播磨の国風土記』の「宍禾(しさわ)郡」の中に、宇波良(ウバラ)という村名と、表戸(ウハト)という地名がある。
宇波良はウバ国のこと、表戸はウワ人で、漢音で読むと「ヒョウゴ」。
播唐の国の後身が現在の兵庫県であることに合う。
しかし九州北部から直接、兵庫県へ遷都したのでないことは、国名の播磨が数えている。
私たちは既に播磨がハリ国であり、それは『魏書倭人章』中の旁国・巴利国=隼人町が拡大移動した後だと知っている。
だから九州北部のウバイドは、九州南部の隼人に遷都し、その後、兵庫県へ遷都したのだと判る。
それだけでなく、ウバラは「茨」だから、茨木は「ウバ国王(ラキ)」で、茨城も同じだ。
大坂府の茨木へ遷り、さらに関東へ行ったのである。
そのコースも伊勢の鳥羽から伊豆へ海上を進み、さらに千葉の夷隅郡に行き、茨城に落ち着いたことは既に見た。
倭人の国名、地名は奈良時代以後、徹底的に消された。
それなのにこんなに残っているのである。
ここまで判ると、序でだから、九州へはどこから来たのか?調べてみよう。
伊都国は旁国の斯馬国と一つにされて糸島郡になった。
伊都国は糸国=イトマである。
沖縄にある糸満が「イ・トマの」で、沖縄から来たことを教えている。
これは沖縄語発音にはイトはなく、イツになるが、
『魏書倭人章』の伊都という当て字は、当時の漢魏音ではぴったりイツと読む。
帯方郡使が無意識に写した発音が、その国名は沖縄からやって来たと明確に、証言していたのである。
しかし沖縄には<ウバ>に当る地名がない。
それは最西海の与那国見より西。
海の彼方の国・台湾にある。
前にお話しした通り、タイワンは「大和ン」で「大和・ウワの韓」に対する当て字が、中国発音でタイワと読まれただけで、
「大和・糸満」=ウワイト国の(マン)…を表現する分割地名そのものだったのである。
ここで「ウバイド」が「ウワイト」になったことも判る。
こうして地名が具体的に語ってくれる遷都の史実は、縄文時代に沖縄へカルデア人がきてカウレアンと呼ばれ、カウレに高麗の文字が当てられ。
それがタカラと読まれて、宝(タカラガイ=貝貨幣)の国と呼ばれ、その宝貝は今も全世界でカウリーと呼ばれている。
※出典:大学院講義録38 17~18頁

「語系…沖縄=ペルシャ、鹿児島=ギリシャ」

ペルセポリスはギリシャ名でパルサカルタが本名である。
ここは現在はフアールスと発音が変化しているが、これは古代のスサが、今ではスーサと引き伸ばした名に訛っているのと同じで、パルサ(=ファルス)が首都を意味し、カルタが街を意味していたのである。
これを、次のように比較対照すると、相互関係が明瞭になってよく判る。

パルサ カ ルタ   ペルシャ語  アケメネス王朝時代語  漢・韓 カン
ファルス   ペルシャ語  中世語         漢・韓 ハン
ペルセ ポ リス   ギリシャ語
パ リ    パーリ語(サカ語⇒インド語)=移動の証人。巴利国。

ペルシャ語の母音はpa、saと「a(ァ)」だが、ギリシャ語はpe、seと「e(ェ)]だ。
これは沖縄語の「a」が鹿児島語で「e」になる関係と同じである。
私たちは既に、ペルシャ湾岸のカルデア人が移住してきて、カリエンとよばれ、沖縄を中心に養殖、加工して、それを貨幣として中国その他と交易。
高句麗や蒙古などを建設し、殷帝国を興して、東亜の経済を支配していた史実を、充分な証拠群によって、よく知っているから、古代湾岸語が沖縄語の基礎にあることも私達の常識の範囲内にあった。
またギリシャ人が東亜に移民して私たちの祖先に加わった事実も、あらゆる角度から見た証拠群の多さで、疑う余地のない史実であると知っている。
鹿児島語の祖語がギリシャ語である可能性も、すでに3000語以上の共通語が存在する事実を発見しているから、それをさらに高めただけに過ぎない。
この講座を熟知しておられる皆様は、こうした世界史最高の最新の知識を常識としてお持ちなのである。
世界の人々に先駆けて、歴史、言語学界に君臨して居られる事を常に念頭に置いて、日々を楽しく、ご満足いただきたい。
ただ、沖縄にもイオニアを指すパーリ語の名「与那国」があり、他にも与那のつく地名が分布しているから、各語の影響が単純ではないことは申し上げるまでもない。
これを、こうして変化した部分だけ対照すると、さらに相互関係が明瞭によく判る。

パ サ a   カ k ペルシャ語  日本語発音       漢・韓 カン
ファf~・h      韓国語・中国語発音   漢・韓 ハン
ペ セ e       ギリシャ語
ポ      ギリシャ語  日(ホ)・穂・豊の国
パ      パーリ 語  巴利国=隼(ハイ)人
※出典:大学院講義録37 7~8頁

「完全に解った卑弥呼共立の実相」

卑弥呼が共立された当時の状況は、この我が国紀元の決め方で、手にとるようにわかる。
『魏書倭人章』が「倭人(ウウィと)」と表現したのは、先着順に呼ぶなら、カリエン系とギリシャ系とマガダ系の小国群が、各地に点在、混合していた連合体の総称だったのである。
カリエン系 沖縄・狗奴国・球磨・肥前・肥後・小倉・高句麗・夫余などを支配していた。
ギリシャ系 与那国・沖縄・奄美・種子島・大隅・不知火・天草・白日別・三韓・邑婁など。
マガダ系  沖縄・馬毛島・大隅・巴利国・日向・大分・筑紫・長門・馬韓・帯方郡など。
このリストで同一地域名が重なるのは、争奪による変化、または混住地域である。
もとはギリシャ系で天照大神=ゼウスの巫女だった卑弥呼は、ソナカと結婚して優婆畏(ウワイ)=倭の女王になったが、仏教宣布を続けるうち、夫・ソナカが戦死したので、アマゾン=天孫を率いて神功皇后として九州を転戦して勝ち、倭国連邦女王として政権を握り、朝鮮半島へ渡って、辰韓・弁韓・馬韓の三韓と前漢が設けた帯方郡を支配下に置いたので、「ソナカを息=沖縄圏、中=中国=九州本土と三韓→息中」と当て字し、帯方郡を帯と表記して『息中帯姫』と名乗った。息長・足仲はその別字である。
そして南九州以南をアカイヤ、東九州をアイオリヤ、西九州をシラクサ、三韓・帯方以北をクロアチヤとする五彩圏をつくり上げた。
※出典:大学院講義録21 18頁

「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった」

これで、ギリシャ人は、いつ?、我が国にやってきたか?、彼等は何を目的にやってきたのか?が完全にわかった。
彼等は、アレクサンドロスの「八紘一宇」の理想実現の夢を追い続けて、アレクサンドロスが病気のため引きあげ、若くして死んだあとも、インドに残り、その後、次第に東へ東へと東征し続けた「世界国家の戦士たち」だったのである。
もちろん本国からの物資輸送などあるはずもないから、行く先々で自活するため小国家を建設した。
先住民との混血で風俗・言語も変化していった。
それが後に残したものが国名だ。
奄美、都井、百済、出水、大隅、淡路島といった海の神々の名をそれにつけたのは彼等が海の戦士だったことを示し、その後も朝鮮半島沿岸を北上して邑婁(ユーロ)などを造った。
その人々を東に送り出した根拠地は台湾。
そこには海神でなく季節の女神・ホーライと名づけている。
これは気候温暖な楽土を理想の国とみて土着を決めたことを意味する。
そしてアルゴ船の故事からタイナ国(ロン)とも呼び、先住南中国人語で「大和Taiwohタイウオ」とも呼んだ。
これがタイワンの語源である。
この国こそアレクサンドロスの夢の「和の国」だと自認したのだ。
しかしさらにその理想と夢を拡大して日本列島にも求める時がやってきた。
沖縄西端の小島・与那国をギリシャ語でイオニヤ(行く者の国)と名づけた時、それは始まったのである。
※出典:大学院講義録19 27頁

「神武天皇紀に残る台湾ギリシャ人の東征」

「東に良き国あり」と神武天皇が語ったのは、与那国から見た沖縄本島なのだ。
なぜなら天皇は占領後、その土地をアキヅシマと呼んでいる。
アキヅとはトンボのこと。
沖縄語では今も蜻蛉を「アキヅ」と呼ぶ。天皇はその国を形容してこう言う。
「アキヅが臀砥(となめ)せる如し」(トンボが身体を曲げたような形をしている)
『神武天皇紀』の三十有一年夏卯月。
この形容に合う地形は沖縄本島しかない。

アキヅシマとは蜻蛉島で、蜻蛉之国(しま)なのだ。
しかし沖縄本島は大きい。肉眼で見たのでは、とてもそんな形をしているとは判らない。
このことは当時すでに「地図」が作られていた証拠なのである。     
これを『日本書紀』の記事通り
「腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘」に登って見た奈良のことだというのは、余りにも無理だし、秋津島とは日本列島のことだというのもまた無茶である。
それこそ大き過ぎてトンボの形どころではないし、また現実にそんな形もしていない。
これはばらばらになった記録の文字を拾い集めてつないで脚色したために、編集者の主観が働いて矛盾だらけの作文が出来上がった証拠なのである。
それを沖縄へもっていけばピタリと当てはまるから、大和は台湾、それに続く占領地が秋津島だと突き止めると、始めて史実が復元できて、それが、台湾を発進したギリシャ人たちが残した貴重な記録だとわかるのである。
※出典:大学院講義録19 28頁

「パーリ語のヨーナはなぜ?ギリシャ人のことか?」

それは西方の大文明が大量に入っていた事実など、想像する能力さえない証拠なのである。
世人に一流の知性人と尊敬されている「大学教授」の肩書きをもつ人々でさえ、そんな有様では、一般の国民はなおのこと、古代日本にギリシャ人やパーリ語を話す人々が来ていたと信じられなくても当然としか言いようがないが、それらの人々にも納得のいくように、まず日本列島の中に、はっきり残っている、ギリシャ語圏の移動拡大から跡づけてみよう。
パーリ語で「ヨーナ」はギリシャ人のこと。
その本当の意味はイオニヤというギリシャ語が「イオン=行く・移る・拓(ひら)く。イァ・ヤ=国・土地」で、「開拓者の国=移住者の国」を意味することからイオニヤンと自称していたギリシャから来た人々を、インドのシヤカ人やマガダ国人などパーリ語系の言葉を話す人々は、『ヨーナ人・ヨーニヤン』と呼んでいた。
この名詞語尾のヤンは静岡県以西で「○○君」を「○○やん」というのと同形で、パーリ語が我が国に入ってきて、使用されていたことを立証している貴重な遺物なのである。
今なら、こんなふうに細かく意味を考えて名詞化するのだが、当時はそれがギリシャ人を指す唯一の代名詞だったから、パーリ人たちはヨーナを人種名として使っていたのである。
それが台湾経由で日本列島への取っ掛かりの島に、今も与那国島として残っているのだ。
※出典:大学院講義録11 16頁

「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」

それは日本列島におけるギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。

沖縄列島の最西端は日本の最西端である、そこを出発点として、日本列島の中に残っているそのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、フリップ化してたどってみよう。

1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に
2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが
4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。
5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島

このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、すでによくご存じである。
それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、彼女が徐那伐で即位したと記録しているが、これは<ヨナバル>という発音で、与那原を北九州語で発音したものに朝鮮語で当て字したものだからである。
このことは他にも多くの証拠を残している。
壹與が新羅の初代女王だということは神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、彼女らがパーリ語を話したこと。
赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。などなど……。
※出典:大学院講義録11 17頁

「実在している「夜食国」それは仏教思想の産物」

このヨナという発音はさらに別の問題にも、正確な答を与えてくれる。
「夜々」と青いて「ヨナヨナ」と読み、夜の仕事を「ヨナベ」という。
この「夜=ヨナ」の発音を意識すると、これまで「夜の食(お)す国」などと読むのだと教えられてきたものの、なんのことだか分らない3貴子分治に出てくる「夜食国」の意味が正しく解ける。
南九州では夕飯の後で夜なべ仕事などをして、もう一度食べる夜食を「ヨナグイ」という。
そして、その南九州語では与那国も「ヨナグイ」と発音する。
夜食国は南九州人が記録した与那国を指す、実に適切な当て字だったのである。
沖縄語は東をアガリ、西をイリという。
明らかに太陽が上がる方向が東、入る方向が西と、太陽を基準にした言葉である。
最も西の大島(だいとう)を西表島(イリオモテ)と呼び、その西に最西端の与那国島がある。
これは確かに太陽が沈んだ後の「夜の国」だから「夜ナ国」でもある。
ヨナヨナ、ヨナベ、ヨナグイの「夜=ヨナ」という日本語は間違いなくここで生まれている。
3貴子の話では夜食国は月読の命が治める冥界である。
亡き母・伊耶那美は冥界に居るから、スサノオは母とともに居たいと、不満で泣きわめいて割り当てられた海洋を治めない。
西に冥界があるというのは仏教だけの思想である。
「西方浄土」という熟語がそれを証明している。
※出典:大学院講義録11 18頁

「建国時代の天皇家とその政権の信仰は仏教」

こうしてヨナという日本語の起源がわかり、夜食国が単なる神話やおとぎ話だけの架空の国ではなく、今も実在する島のことであり、それらはギリシャ語と、パーリ語と、マレー語の実在と、
それらの言葉を話す人々の居住と文化の伝播を、証言していることがわかったが、そればかりではない、そこを冥界とする思想が、当時の日本に仏教が実在したことと、その説話をもつ人々、すなわち『記・紀』を自らの歴史として公表した天皇家とその政権の信仰が、その仏教だったことを、幾重にも重複して明確に立証しているのである。
このことは、さらに重要な証言になっている。
それはそれは明かに仏教徒の支配権を握るためがその冥界の支配者になりたいと強要した事実を記録しているが、このスサノオは山上王位宮・垂仁天皇と<本牟智和気>である。
彼らは何のために<卑弥呼政権>と戦い、<邪馬壹国政権>を樹立したか?。
それは明かに仏教徒の支配権を握るためで、それがこれで明確にわかると同時に、
彼の宗教が仏教だったことが、より明確に証明された。
このことはその跡を継いだ応神天皇が、八幡大菩薩という仏教名や古墳に建てた九輪塔などで証明されてはいたが、ここでさらに動かない証言の数々を加えたからである。
壹與を始祖とする新羅の語源は、卑弥呼の仏教に比べて、より戒律(シーラ)の厳しいシーラバッガ仏教だったことが、決定的に確認できる。
※出典:大学院講義録11 19頁

「既得知能の総合で、詳細に復元できる史実」

壹與がなぜ.?新羅始祖王とされたかも教えてくれる。
彼女は『魏書倭人章』にはっきり「卑弥呼の宗女」と明記されている。
宗女とは宗教上の後継者という意味であることは疑問の余地がない。
その卑弥呼の宗教・鬼道は、すでに完全に解明ずみで細部までわかっている。
それは仏教であり、卑弥呼とその後継者の壹與を観世音菩薩としたことまで、決定的に結論が出ている。
それも単に文献の解読からだけでなく、東アジア各地の言語や、地名や、伝承や、遺物、遺跡に至るまで、徹底的に証拠が満ちみちている。
まず観世音(カンシーイン)の名そのものがマレー語の愛・カシーへの当て字であり、卑弥呼のパーリ語名ぺマカ=愛の訳音であり、神功皇后廟の名・香椎だった。
その観世音信仰の分布と拡大の跡を辿っても、それは中国で南海古仏と呼ばれて、発生地を琉球列島とし、発生時期も卑弥呼当時にあてている。
そして『三国遺事』が高麗外交官の中国での見聞として、娘々(ニヤンニヤン)廟=観音廟を我が国の信仰だと教えられたと記録している。
もちろん信仰の祖型はインドにあるが、関連地名や、そこにある観音信仰の本山は、時代が全て卑弥呼以後のものである。
インドとの交通は決して西から東への一方通行ではなく、従来の予測をはるかに超えた往来があったことも、またこれでよくわかるのである。
※出典:大学院講義録11 20頁

「方言化した地名・国名の歴史を確認し確定させる伝承」

壹與は赫夜姫でもある、姫がなぜ「月の世界」へ行ったのかも、史実が複合して説明している。

連れて行かれたのは「夜国(ヨナ)」で、月読国で、冥界=(死者=鬼=鬼道)=仏教国でもある。
そして「ヨナ原=夜国の首都(ハラ)」で即位した。
『記・紀』と『三国史記』と『説話』の既得知識を総合することで、こまで詳細に史実を復元できるのである。
これまでは「ヘンな名の島」程度にしか見られていなかった与那国島1島だけでも、建国当時の謎がこんなに解ける事実を、一人でも多くの方に、少しでも早く知っていただきたいと思うのは私だけであろうか。
与那国勢力の拡大状況を、探って辿ってみよう。
与那のつく地名は沖縄本島までくると大型化したが、南から北上したものの、本島の3分の1あたりで止まってしまっている。
しかし、そこから出た位宮や壹與は全九州で活躍している。
それなのに与那のつく地名は見当たらない。一体?どうなっているのだろう。
この答は本州で見つかる。
京都府の宮津市に隣接する与謝郡伊根町は浦島伝説で町おこしを計っている漁村で、宇良(うら)神社と浦島神社がある。
その位置は丹後半島の東北部分で、沖縄本島の与那城村の在り方に似ているが、それより伊根・イネという地名がヨナと無関係ではない。
これは「米(よな)と稲」の関係にあるとみれば、徹底した検討が必要になってくる。
※出典:大学院講義録11 21頁

「丹後の浦島太郎伝説『「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)』」

稲はイネ・イナの発音があるから、九州北部には後漢の皇帝に金印をもらった委奴国があったし、その北東に島根と鳥取両県にまたがる米子の大平野がある。
また丹後からの北陸道と京都からの東海道が出会う琵琶湖東岸の分岐点は米原で、今はマイバラと発音しているが、与那原と同じ発音でも読めるから与那国人の遺跡とみると、その東に木曽の伊那盆地があり、木曾川に浦島伝説で名高い「寝覚の床(ねざめのとこ)」があり、下流の恵那(えな)峡もイナ⇒エナで発音変化だ。
丹後の伊根町は、天の橋立(あまのはしだて)で有名な宮津市に隣接している。
その天の橋立(あまのはしだて)を北へ渡るとすぐ難波野で、そこに竜神社がある。
また少し行くと日置(へき)にでる、ここが『丹後国風土記』で有名な「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)」の居た日置の里で、ここにあった筒川村に筒川の嶼子という男がいて、海で五色の亀を釣ったところが、それが美女・亀比売になって海中にある蓬山(ほうざん)(蓬莱山(ホーライさん)=冥界)へ 連れて行く、そこには眼も輝く御殿があり、そこで亀比売と楽しい3年を過ごした後、父母が懐かしくなり筒川へ帰ってみると、実は300年後で、知っている者は一人もいない。
そこで土産の玉厘(くしげ)を開けると、蘭のようなものが空へ閃きながら飛んでいってしまった。という話である。
ご覧の通り、一般に知られている浦島太郎の話とは非常な違いが眼につく。
これは、本来の垂仁天皇の歴史が忘れられた後に、再構成されたものだと証言している。
※出典:大学院講義録11 22頁

「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」

浦島神社まで建てて集るというのは、血縁関係があるからである。
またこの蓬莱の語源がギリシャ神話のホーライであり、台湾が今もホーライと呼ばれていることも、よくご存じの通りでその血縁は他の地名にも及んでいるはずである。
そこで宮津市の地名を見て見ると、まずこの「日置」が鹿児島県では、郡になっている建国史上重要な地名である。
また丹後という国名そのものが、タニ=種、ゴ=子で種子島からの移住を記録していることもすでに検討ずみであるから、種子島の海人王・ビチヌウシン(亀)の娘を亀比売と呼ぶことも決しておかしくない。
むしろ、非常に詳しい知識をもっているというべきだ。
こうみてくると、与那国人は浦島伝説とペアになることで分布先を明示している。
だからそれらの地名は、単に発音が共通しているというだけでなく、それが地域による発音変化で、その移住・拡大は、疑う余地がないと、はっきり証明していると断言できるのである。
また丹後から真南に南下したコースには、兵庫県最東部の猪名川と、大坂府北部の箕面市から兵庫県宝塚市にまたがる稲(いな)地方がある。
その宝塚市には蓬莱峡と呼ばれる名勝があるが、浦島伝説は今では忘れられて僅かに地名だけが残っている。
この稲が、百人一首の「イナの笹原、小夜更けて」のイナであり、孝徳天皇朝の豊日の国の母体になった地域なのである。
※出典:大学院講義録11 23頁

「立神岩の分布は何を復元するか?」

与那国から出発したギリシャ人勢力が、イナと方言化して呼ばれながらも、山陰から岐阜県にまで達していたことが跡付けられた。
しかしそのコースは四国~淡路島経由ではない。明らかに山陰経由である。
これはギリシャ人の東漸といっても、それは単純ではなく、複数のグループがあったという証拠である。
山陰経由のものは浦島伝承をもっているから明らかに位宮・垂仁系だが、淡路島の倭の五王系はそれを持たないグループだ。
こちらは本当に与那国系なんだろうか?…。
それに明確に答えるのが、沖縄の石垣市が作った『八重山の旅』という観光案内書に掲載された与那国島の「立神岩」の写真である。
これは確かに九州を経て淡路島まで達している。

立神岩
※出典:大学院講義録11 24頁

「名乗りが物語る詳細な勝敗と政変」

淡路島のほうはすでに実体が明らかな仁徳天皇系・倭の五王政権だった。
山陰経由の方もすでに明確になっている欽明天皇の高句麗系政権だった。
それは用明天皇の名乗りが橘豊日で「但馬国の豊日(フジ)」を意味し、その後、長柄豊崎の宮に君臨した天萬量日=天満の豊日(フジ)こと孝徳天皇につながる名乗りになっていることも、また検討ずみである。
この豊日(フジ)が百済のフジで、大阪府豊島(フジマ=フジ国=百済国(フジマ))郡にその地名を残したこともまた、よくご存じのことである。
これがあるから倭王・興は百済・蓋盧王の方が有名になったが、彼が国を失った原因の巨大古墳群は、朝鮮半島にはなくて大阪府にあるという厳然たる証拠の前に、今では誰もこの解明史実に反対できなくなったのである。
山陰経由の高句麗系勢力に大阪政権を奪われた倭王・武は、宋の皇帝に上表して、援助を乞うハメに陥ったのである。
『記・紀』はその時、政権を握った高句麗系天皇をば、興=安康天皇の前に挿入して允恭天皇とし、その名乗りを雄浅津間稚子宿祢(紀)、男浅津間若子宿祢(記)と書いているが、それは大雀、伊邪木和気、水歯別、穴穂といった名乗りと明かに異なっているし、その訓(よ)みも「おわさず=居ない」という皮肉なものに変えられている。
これに合う地名はないから、これは明らかに本来の名乗りではないのである。
※出典:大学院講義録11 25頁

「孤立・戦争・亡国を生む『記・紀』編纂のツケ」

淡海の三船はそれにさらに允恭(いんぎょう)と漢風諡号(おくりな)した。
「イン=居ん」であり、「インギョウ=隠形」である。
これで彼もまた、この時の政権交替の実情をよく知っていたことがわかる。
この例だけでも充分みえるように、『記・紀』は、たいへんな敵味方を親子だとして平気でいる『正史』なのである。
繰り返すが、それはあくまで対中国向け宣伝文書だったから、修飾だらけである。
その最大の強調点は天皇家政権の歴史の長久を相手に印象づけることで、それは必然的に建国を古く見せようと神武天皇即位を紀元前660年にし、それ以後、政変は皆無の「万世一系」だとした。
そのため敵であった卑弥呼と崇神天皇もその中に組み込み、内戦に明け暮れた景行天皇も仁徳天皇も欽明・敏達天皇も、天智・天武天皇も、んな引っくるめて万世一系にしてしまった。
それは確かに国策上は重要なことで、責めることはできないが、それが正確な歴史でなく、いかがわしい作り物だというボロが至る所で出ている。
そんなものを明治以降の国家主義者らが悪用して、国策だと津田左右吉氏らの『記・紀』批判者を弾圧したが、極端な天皇制ナショナリズムが全人類に爪弾きされるのは当然だから、大日本帝国は必然的に孤立無援に陥いり、必然的に崩壊してしまった。
天武天皇らの小細工が、早かれ遅かれ天皇家政権を潰す宿命を、重くみじめに背負わせていたのである。
※出典:大学院講義録11 26頁

「応神以前の為政者も神話でなく史実の人たち」

位宮の名は、ヨーナの原音・イオニアのイオンの意味である「行く」に対する当て字の、位宮(イク)だと前にお話しした通り、それも個人名ではなくイオニア王を意味する名乗りだった。
その伴侶であった壹與は、『三国史記』では、新羅始祖王・赫居世居西干と記録してある。
この「居西千」はイセカンだから「伊イ 勢セ 神カン」である。
これは卑弥呼と壹與が、天照大神と豊受大神だという仮説の正しさを証明している。
この2大女神はいうまでもなく三重県の宇治山田市にある伊勢皇太神宮の主神である。
しかしなぜ天照大神というのか?。
『三国史記』では、新羅の王称を尼師今(ニシキン)とも書く。
これは日本語である「尼の師の君(きん)」への当て字だから

尼 寺師 倭 女君
天 照す 大 御神 なのである。

続く新羅王は南海次次雄だ。
この次次雄は朝鮮語発音では「ススウ」で、これに助詞のヌを入れると「ススヌウ」。
これはスサノオの沖縄発音「ススヌウ」とぴったり一致する。
『後漢書』の倭王「帥升」はスィサヌウで、スサノオへの当て字以外には考えられない。
応神天皇以前の天照大神や垂仁天皇=位宮が実在者であったことは、このように『記・紀』以外の『三国史記』や『後漢書』にも明記されていて疑問などない。
※出典:大学院講義録11 28頁

「伊勢の王イサナキの領地名の移動発展コース」

伊勢の大神のイセも、与那国人たちが運んできた名詞で、それがイザナキの命の語源であることも、よくおわかりであるから、
次はそれがどんなふうに移動拡大してきたのか確認しておくことが必要である。

沖縄県には次の4つがある。

石垣島    石川   伊差川     伊是名島
イシガキ   イシガ  イサガ     イゼナ・イジナ
伊勢の王   伊勢の  伊勢の     伊勢の
イサナキ   イサナ  イサナ     イサナ
与那国島の東 沖縄本島 沖縄本島名護市 沖縄本島の北

鹿児島県にも次の4つがある。

伊仙     入佐   伊敷      伊佐郡
イセン    イーサ  イシキ     イサグィ
伊勢の    伊勢   伊勢王     伊勢王
イサナ    イサ   イサナキ    イサナギ
大島郡    松元町  鹿児島市    伊佐郡

※出典:大学院講義録11 29頁

「位官は与那国王、履中天皇はオルぺウス」

垂仁天皇の高句麗王名、山上王・位宮も、位宮は南九州読み「イク」。
このイクは「行く」でギリシャ語ならイオン「行く者」。
それが国名になってイオニヤ。それのバーリ語訛りがヨーナ。
与那国はそれへの当て字だから、位宮王とは与那国王を意味する日本語名だったのである。
これで卑弥呼も位宮も天皇家の先祖が、パーリ語人のいうヨーナ、ギリシャ人だったことが、さらに証拠を加えた。
卑弥呼がパーリ人化してギリシャ文明を仏教文化に塗り替えはしたものの、ギリシャ神話の影響は履中天皇のイザナギの時代になっても続いている。
2神が国生みのあと生んだ皇子カグツチ(=鹿児津王(カグツキ))が火の神だったために、皇后イザナミは大火傷を負って死ぬ。
しばらくするとイザナギ天皇は皇后への恋しさが募って、冥界へ亡き皇后を探しに出かける。
この話はギリシャ神話のオルペウスが、死んだ妻を尋ねて冥界へ行った話と全く同じである。
これに気づいた日本人学者は少なくないが、しかし、それ以上追及した人も研究の結果も知らない。
このオルぺウスも沖縄語ではウルヒユシになる。沖縄の別名はウルマ、ウルシマ。
当て字は漆間、漆島。ウルの国である。
ヒユシは日吉で猿田彦大神の別名で、全て姓や地名として今なお現存している。
少なくとも沖縄地方がギリシャ文化圏だったことは否めない。
※出典:大学院講義録06 29頁

「八幡と日本の語源は同じイオニヤ人」

「言語の分類」  「意味」 「スペル」 「発音」 「語根」「スペル」「遺物」

古代ギリシャ語  イオニヤ人 Iavones ヤポーネス ヤボン JAVON   日本
古代ギリシャ語  イオニヤ人 Iaones   ヤオーネス  ヤオン Yao    八尾
古代ヘブライ語  イオニヤ人 Yavan    ヤパン            (中国語)野蛮
古代ペルシャ語  イオニヤ人 Yauna    ヤウナ      「遺物」

サンスクリット語 ギリシャ人 Yavana   ヤバーナ  八幡・山名
パーリ語     ギリシャ人 YoNA     ヨーナ   与那国・与那原・与那嶺
パーリ語     ギリシャ人 Yonaka   ヨナカ   米花、夜中、世の中
パーリ語     ギリシャ人 Yanaka   ヤナカ   谷中、家中、梁川、柳川
中国語      ギリシャ人 Yaban    ヤパン   野蕃・野蠻
日本語      ギリシャ人 Yaman    ヤマン   八幡・山之口(ヤマンクッ)
(鹿児島の地名)
マレー語     父     Yaman    ヤマン  (Sanguil島語)
ジャワ語     王・陛下  Yamtuan  ヤムトワン Sangulm      陛下
※出典:大学講義録32 13頁

「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」

中国経由でないとすると、どんなコースでやってきたのか?。
忘れてならないのは、台湾北部に現住するアミ人である。
このアミの名は網・阿見と同じ発音であるだけでなく、容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。
また台湾がギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ仙境・蓬莱(ホーライ)で、秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だった。
このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。
仮にこれを疑うと、台湾と与那国という肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、二つできたことの理由、という至難の立証が必要になるし、それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、ほかにはアミに結びつくような神名はない。
別の語源から全然無関係に二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。
従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、それと比較して相手の説が劣り、間違っていると判ったときに主張して「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、「ただ反対したい」だけというのは、劣等感の表現にすぎない。
※出典:大学講義録31 28頁

「天皇家の信仰の本質と成長過程」

こうした事実と、これまで見てきた我が国の古代信仰の遺物とを考え合わせると、皇室の信仰は、まず古くシュメルに始まった宗教だった。
それは「スメロギ=シュメル王(ギ)」という称号その他の遺物が、バビロンの滅亡で四散したカルデア人=カリエン人の一部が台湾・沖縄に宝貝王国を建設して栄えた事実を、歴史と大量の遺物、文化財が教えている。
次いで、紀元前4世紀にアレクサンドロスの東征を引き継いだギリシャ人が、与那国島を皮切りに琉球列島から北上し、高族の政権と合体、継承したためギリシャ信仰が重なった。
またインドからウッタラ第1次仏教宣布団が、中国地方から東海に銅鐸時代を展開、それと並行してシンドゥ教が広まったあと、後漢の孝桓帝、孝霊帝のころ、第2次仏教宣布団のソナカが沖縄を経由して南九州に上陸、卑弥呼と結婚して仏教をひろめ、ソナカの戦死後、卑弥呼を女王とする大倭人達邦が確立して長期政権が続き、三国時代の動乱の余波で卑弥呼政権が敗北移動した後も、さらに様々な政変はあったが、倭国は所を変えて存続し、次第に東遷して近畿に至り、聖徳太子時代を頂点とする仏教時代を現出、大化政変以後もなお仏教の様々な教義を加えて渾然(こんぜん)と一つになったものなのである。
皇室の信仰を「神道」と呼ぶのはいいが、それをシンドゥ教だけだとするのは大きな誤りである。
※出典:大学講義録25 29頁

 「月読の尊は与那国までを治めた海人族の王」

ゼウスに続いてポセイドンが古代日本の原人族の神として信仰されていたことが、動かぬ事実であったことを、よくご理解戴けたことと思う。
それを明らさまに書けなかった『記・紀』の編集者は、海の支配者として「月読の命」という名を考案してつけている。
『日本書紀』の一書に伊弊諾の尊が「月読の尊は滄(あお)海原、潮の八百重を治めよ」といったと書いてある。
この命の名の意味は、月の満ち欠けが潮の満ち干(ひ)を教えるので、月齢を読むことが、海人族にとっては重要な指導力だったから、それを「月を読む指導者」という名乗りで表現したのである。
別の一書では「月夜見の尊」と当て字が異なっているが意味は余り違わない。
この潮の満ち干を使って海事を屈服させた話が『海彦山彦』のオチである。
加治木義博は戦後すぐ鹿児島神宮で、神宝の「潮満つの珠」「潮干るの珠」一対を調査させてもらった。
それはアンパンに似た石にすぎないが、『神話』とされてきたものが、現実の歴史としての具体的な文化財を残している点を熟慮して、発想の転換を計ることが必要なのである。
「月弓の尊」という当て字は、O (オー)を発音しない沖縄語でヨミをユミと訛ったものである。
また『古事記』では「夜之食国」を治めよと命じられる。
「夜々」を「よなよな」と読むから「夜食」を南九州語で「ヨナグイ」と読むと、その発音は与那国と同じになる。
※出典:大学講義録23 17頁

「月読の尊は卑弥呼の弟・彦狭島=海幸」

「月読の尊」

天照大神の弟だから卑弥呼=倭迹迹日百襲姫の弟で、孝霊天皇の皇子の一人である。
すでに伊声耆であることの明らかな彦五十狭芹彦でも、素戔嗚の尊である推武彦でもないから、残るのは唯一人、「彦狭島の命」だけである。
彼が種子島・屋久島から与那国島までの海の支配者、海神・ポセイドンだったとすれば、その証拠はどんなものがあるだろう。

「彦狭島」

名乗りの頭につく彦は「ゲン=毛の」に対する当て字で、ギリシャ人を指すことはすでに考証済みである。
彼は種子島にいた垂仁天皇の皇后・狭穂姫の兄・狭穂彦だから狭島なのだ。
狭穂(ほ)は狭日(ほ)で、狭日国すなわち狭日国(さしま)なのであり、「狭い」はアイヌ語でタンネ→種子の語源。
彼は海幸山幸の海幸だから、ぴったり海の支配者・ポセイドンなのだ。
これで天照大神一族の正体は、単なる物語り中の架空の存在ではなく、『魏書倭人章』が客観的に記録に残した実在者・卑弥呼と、その一族だったことが完全に明らかになり、また神話的表現の『三貴子分治』とは、現実にあった史実だったことが理解できた。
そしてそれと同時に、その『三貴子分治』はギリシャ神話が描くクロノスとその子供たちの神話そのままで、それによつて、ソナカと結婚する前の卑弥呼の教義が、ギリシャ宗教であったことまで、私たちは欠けるところなく知ることができたのである。
※出典:大学講義録23 20頁

「パーリ語人ソナカらが残した現存する遺物」

丹波がパーリ語の地名から生まれた地名だとすると、他にも同じようなものがなくてはならない。
それを宣布団のリストから拾い出してみよう。

スバンナ=周防の国(スバゥンナ)・諏訪の国。
ヨナカ=与那国。
ヤナカ=柳河・谷中。
マハーラッタ=真原田。
アパランタカ=芦原(あはら温泉)。
マヒサカ=舞阪(静岡県浜名郡)。
カスミーラ=香住国(カスミーラ)(兵庫県城崎郡香住町)、霞ヶ浦。
ガンダーラ=カンダハル=神田・上田原。

パーリ語の発音だと、日印の地名がどれだけ近いか、パーリ語を話す人たちが渡来した事実がこれでよくおわかり戴けたと思う。
その渡来者を『古事記』も記録している。
崇神天皇の名乗りは 御真木 入日子 印恵 命 だ。
「御=オ=ウ」「真=シン」「木=キ=王」で、「ウシンキ=牛の王」。
朝鮮語では牛は「ソ」だから、「ソナカ=ソの人」は「牛の人」だと誤解される。
これがソナカシチがウシキアリシチという別名をもっている理由だとわかるが、
この名は一層よく御真木(ウシキ)入彦に合う。
インドは発音者の言語差によって、sind シンド、Hind ヒンド、Ind インド と変化するが、日本語も発音差で
「入り=ハイリ→アイリ→アリ」「ヒコ→日木=ヒキ→シチ(大隈語)」と変化する。
ソナカと御真木は同一人物の名乗りだったのだが、『古事記』編集者が正しく理解できずに、まるで別人に見えるように歴史を「創作」してしまったのである。
※出典:大学講義録21 12頁

「卑弥呼当時の連邦の人種構成」

パーリ語が単なるお経の言葉なら、どうして鹿児島語などの南九州語が、パーリ語を現代まで受け継いでいるのであろうか?。
パーリ語の力でイオニア・Ionia は、Io=ヨ・ nia=ニヤから、さらに短縮してヨナになり、与那国、与那原として現代まで残った。
だが今の沖縄語は母音の「O」がないし、こんなに短縮もしない。
同じ短縮をするのは大隅・鹿児島などの南九州語で、それは「ニヤ」即「ナ」になったのとそっくりそのままに、醤油・焼酎を「ソユ・ソツ」と発音する。
言語は使用者が多いとその土地に土着して、新しく入ってきた人々も、「郷(ごう)に入れば郷にしたがえ」で、その土地の言葉で話すようになる。
現代までパーリ語が残っているということは、パーリ語を話す人々が、それまでいた先住民を完全に抹殺したようにみえる。
しかし卑弥呼の仏の教えは慈悲を説く、先住民を抹殺することはありえない。
このパーリ語の普及は永い卑弥呼君臨時代の「教育」によるものだったのだ。
では先住民はどんな人たちだったか?。
少なくとも与那国島にはイオニヤ人がおり、沖縄から高句麗にかけてはバビロン人の子孫カリエン人が、中国その他からの移住者たちと雑居していたのである。
※出典:大学講義録19 34頁

「卑弥呼時代の国名語源一覧リスト」

国名  ギリシャ語の原名    パーリ語の原名   マレー語その他の原名
狗邪韓  kudiao 独立して進む戦士  
対馬    tu admes 「慣れた君」  
一大    ie 女性 dad 拡張者    
末盧                Malla マッラ
伊都    ie 女性 toi 意思表示    
不弥                          マレー語 Puo Miaoプオ・カリエン人・ミャオ人
投馬                                              マレー語 tuma シラミ(虱)
狗奴    kuno 犬・狗

「旁国名」

斯馬    SIMOS 低い鼻・サカ人・タタール人sima 戒壇・境界
己百支  Sibullistes 巫女の信者 sibbati 縫う
伊邪                                                アラブ語 iar dzib シャチ(鯱)
都支    tothen 「ここから!」
弥奴                            miyya nu 死を悟る知者
好古都  KOKKOS 穀物・種子
不呼                        ミャンマー語 pogoda 仏塔
姐奴              tina 茅野
対蘇  tuide 此処こそ sos 汝                       タイ語 tua So 老ソ族
蘇奴    SOROS 土器・陶棺      
呼邑              go yayu 牛専業
華奴蘇奴ganoo 輝かす SOROS 土器
鬼   kie 「進め」            Kuvera 多聞天
為吾  GUION 手先 gone 生産            マレー語 guri angon 土器と牧場
鬼奴  kie 進め NOOS 参謀      Kuvera nu 多聞天知者
邪馬  diamao 斬り進む         jhama 焼く
躬臣    KION アトラスの柱 DIEMAI 平原          マレー語 kiong dien カタツムリ、蝋燭
巴利                pali 『聖典』=お経
支惟    tieres 鉢巻 ualos 宝石  tidiva 帝釈天
烏奴    ONOS ロバ(驢馬)
奴国    nomas 遊牧民
※出典:大学講義録19 35~36頁

「広域に及んだアリアン大移動」

「邪馬国」

ジャム(インド北部)-ジャフナ(スリランカ)-シャン(ミャンマー)-シャム(タイ)
ジャバラ(インドネシア)-ジャバ(インドネシア)-邪馬(倭国)-ジャマイカ

「斯馬国=島・志摩・須磨」
シバ(Yaman)-シビ(パキスタン)-シプ(マレーシア)-シムルー(インドネシア)-シボ(中国山東省)-スメル(バビロニアとジャバ)-スマラン(ジャバ)-スマトラ(インドネシア)
-シバ(芝・斯波など日本)-シビ(紫鳥山・出水市)-シムラ(志村)

「与那国」

与那国は沖縄本島より台湾のほうが、はるかに近い日本の最西端の島で、当然、旁国の中には入っていないが、その名はパーリ語でイオニアを「ヨーナ」と呼んだのと一致する。
それが沖縄語化した「ユーナ」は、中国西南部を含む東南アジア語に入ってギリシャ人を指す名詞の「ユーナン」や「ユナニー」などになっている。
雲南省を指す中国語の発音も「ユンナン」に近いから、ギリシャ人居住区という意味で、事実そこは少数民族自治区に分類されている、いわゆる漢人とは異なった、古代ギリシャ系の人々を主流とする集団の子孫が多数住む地域である。
アリアン人の大移動はインド以外の広域に及んでいたのだ。
※出典:大学講義録14 16頁

「朝鮮半島の百済は後世の植民地」

位宮や壹與がいた3世紀、朝鮮半島には馬韓国が存在して、『魏書・東夷・韓』の章に、その国情が記録されている。
その位置は後の百済とほぼ同じである。
その中に百済と同じく「ハクセイ」と読める国の「伯済国」がある。
これはその位置からいって百済の一族であり、後の百済王国の基盤を造った人々の国である。
しかし朝鮮半島の百済が中国の文献に始めて現われるのは、5世紀に生まれた南齊の建元二年480年の百済王・牟都の遣使記事からで、
その前の『宋書』にある倭の五王の、初代・讃の名乗りの中に始めて出てくる百済の名は、その国がどこにあったか不明だが、仮にこれも朝鮮半島だとしても425年のことである。
位宮の名乗りの一つ「穂穂手見」のポセイドンが、種子島の長谷ん野のポセイドンの名乗りである以上、朝鮮半島の百済は、後世にそこに移住した植民地(イオニア)であり、国民はイオ(魚)族だから、クダラという名は大魚クジラと無関係ではないはずだ。
与那国のイオニア人から分かれた一族以外、持つはずのない特殊な魚の部族名を、国号にまでしているとすれば、やはりその出身地は朝鮮半島ではなく南海だと予測できるが、しかしクダラとクジラは少し違う。
はたして本当に同じものなのかどうか。
このよく似た名詞の真相が不明のままでは断定はできないから、次はその相互関係を検討してみよう。
朝鮮半島の百済の前身だった馬韓(マカン)国。その名は何を意味しているのだろう。
『三国史記』百済本紀第一の、始祖王の章に
「其 世系 輿 高句麗 同 出 扶餘 故 以 扶餘 為氏=その王実は高句麗と同じく扶餘から  出ている。だから扶餘を姓にしている」
と百済王家が扶餘人=隼人出身だったことを特記している。
扶羊風・扶揺風と書いて「ハヤのカゼ」と読む。
扶餘もこれと同じ「ハヤ」という、発音への当て字の一つなのだ。
ご存知のように位宮は高句麗・山上王だったから両王統に属している。
この記事は真実である。
また同じ章の二年と三年に「靺鞨(マカラ)が北の国境を荒らす」という記事が連続し、その八年には三千人が侵入してきて慰礼城を囲んだとある。
この城の名は「イリキ」と読むと鹿児島県薩摩郡の「入来」町に一致するし、その靺鞨が兵糧がなくなって北へ戻ったのを追いっ追われつして戦った戦場も、大斧城(大野城(キ))=福岡、馬首城(マスキ)(益城)=熊本、瓶(カメ)山(亀山)柵=宮崎、立城(タキ=高城)柵=鹿児島と、全部が九州の地名と遺跡に合う。
九州の北には朝鮮半島しかないし、そこにいて攻めてきた「マカラ」は、「馬韓」もまたマカラと読めるから、馬韓人だったのである。
しかしこの時の馬韓人は必ずしも半島だけにいたとは限らない。
馬の国=馬津国(マツラ)で、これは松浦=末盧国に一致するからである。
百済とその前身の馬韓に関連のある名詞を、見やすいようにリストアップしてみよう。

小国・小馬 コマ  駒  高麗  高句麗    クマ   熊・球磨 クノ  狗奴国
大国・大馬 ウマ  馬  大国  大之国(シマ) 奄美大島 ウラ   浦   倭国
馬国  馬(クダ)国(ラ)    マレー語                 百済
馬 韓    マ  カン   マ  カラ    靺 鞨
馬 関    マ  カン   馬韓       馬津国  マツラ  松浦  末盧国
下 関   クダ  カン   馬韓      (参考   下松 クダマツ  馬国津)
赤間関   赤馬  韓  赤は南 アカイヤ 明国(アカイヤ)が語源 赤間関は南馬韓国
卑弥呼は日矛の妻の阿加流比売(アカリウシメ)=明姫 阿鹿児之国(アカルシマ)姫=鹿児島姫
靺 鞨    マ    カラ   馬韓    海の大魚  鯨
         ガジャ(象)・ミナ(海)=海の象=鯨(マッコウクジラ) 臥蛇(ガジャ)島
クダ ラ              マレー語
クディラ  「ダ」が「ディ」になるのは大隅語   大根ディコン 大仏ディプッ
(肥満=デ プの語源)
クダラ(マレー語)→クディラ(大隅語)→クジラ(種子島語)
これでウマとコマが大と小を使った対語であり、それは馬と国の大小を分類すると同時に、名詞としても様々に使われていることがわかる。
次に「クダラ」という発音はマレー語による読み替えで、サツマと同じくマレー語人が使った呼び名だったこともわかる。
馬韓はマカラのはかに、クダカンともマカンとも発音できる。
山口県の下関もまたクダカンと読めるし、馬関海峡に面しているが、この馬関はマカンと読める。
さらに下関は赤間が関ともいう。
赤間は赤馬と同じで赤は南を意味するから南馬韓という意味なのだ。
南を赤と呼ぶ語源は、ギリシャの南端、エーゲ海に面した国が「アカイヤ」と呼ばれたのと一致する。
大分と大阪の比売許曾(ヒメコソン)神社は卑弥呼尊を祭る。
その夫・天日矛(シポコ)は天稚彦(チビコ)と同一人で、日矛の妻は「阿加流比売(アカリウシメ)」=「明姫」。
この「明」は鹿児島革でアカイ。
応神天皇の明宮は明国(アカイヤ)の皇居という意味。
阿加流(ル)は阿鹿児(アカル)とも書けるから鹿児之国(シマ)姫。
このことの重要性は、卑弥呼が一名鹿児島姫で、その語源がアカイヤという国名だということである。
靺鞨(マカラ)というのはインド神話の大魚の名。鯨は後世、ガジャ・ミナと呼ばれた。
このガジャも鹿児島に「臥蛇(ガジャ)」島という名で残っている。
鯨のクジラという発音は、大隅語でクダラの「ダ」を「ディ」と訛り、そのディを種子島語で「ジ」と訛ったとみれば不思議はない。
※出典:大学講義録14 25~28頁

「邪馬の2種の発音と候補地」

邪馬は dzia ma ヂャ マ・ dzio ma ヂォ マと、すでに漢魏音で発音が分裂している。
このうちのどちらが旁国の邪馬や邪馬壹国の邪馬の正しい発音か、確認できるまで研究する必要がある。
そしてこれらの国々がどういう歴史をもっているか、できるだけ明確に知り、その語源がどこの言葉か確認できれば、その国名の正しい発音と意味もわかる。
旁国は卑弥呼当時の3世紀には九州に存在していたもので、後世にそこから日本列島全域へ移動拡大した事実がすでに確認できているし、またその九州本土へは沖縄列島経由で移動してきたものが大多数だということも明瞭に確認できている。
このヂォの発音をもつ「徐」も『三国史記』に「徐那伐」と書かれた記録があり、それはヨナバルへの当て字だったことも既に充分解明、証明ずみである。
そしてこのヨナの名は、琉球列島最西端の与那国島からみられ、沖縄県内ですでに分化して広く分布している。
Dzio ma ヂォ マと「ヨ ナ」を比較すると、マとナはともに国称だから除外できる。
残るヂォとヨの関係をみると、これはヨーロッパで、「 jo 」という1つのスペルを、ジォとヨと2種類に発音する英語とドイツ語の方言差にピッタリ共通しているから、
今ヨナがついている地名は皆、この dzio ma の候補地としても間違いではない。
※出典:大学講義録13 3頁

「日本語の中に千語以上のパーリ語がある」

標準語のウオ(魚)という発音は鹿児島生まれだと説明したが、その鹿児島には<魚>を<イオ>と発音する人々がいる。
また沖縄では<イユ>と発音する。
これまでは、これは単にウォという本州語発音が訛った方言だと思われていたが、事実はそんなに単純ではなかったのである。
沖縄県の最も西の端は与那国島である。
この島の「ヨナ」という変わった名前は、卑弥呼政権の祭政一致の国家宗教、当時の帯方郡使が「鬼道」と呼んだ仏教の用語パーリ語でギリシャを意味する名詞「ヨナ」だったことがわかっている。
このヨナは、古代ギリシャの一地方だった「イオニヤ」の訛ったもので、イオニヤ>の語源は「イオン」すなわち「行く・遠征する」という言葉だから、「イオニヤ」とは「遠征によって取った地方」または「遠征隊の国」を意味していた。
だから与那国という名も、この「遠征隊の国」というギリシャ語が「イオニヤ」と発音されていたものを、沖縄へ仏教を広めにやってきたアシャカ仏教宣布団>の宣教師たちが、パーリ語訛りでヨナ国と呼んだので、 <与那国>という当て字が現在まで残ったのだとわかっている。
こうした事実はすでに市販されている私の著書に詳しく解説済みなので、もっと許しく知りたい方はそれらをお読み戴きたい。
このヨナは、沖縄語では「ユナ」と発音される。
これは東南アジアでも同じ地域が多いから、マレー語圏やミャンマーではギリシャ人を「ユナン」とか「ユナニー」と呼んでいる。
これに中国人が当て字したものが「雲南=ユンナン」という省の名として残っているので、与那国の名は何も特別なものではないことがわかるのである。
それ以上に重要なのは、与那国の本来の国名が、「イオン=行く」だったことである。
このイクという発音と、この島の王の名の発音が一致すれば、それは「名乗り」だとわかる。
それが実在している。
卑弥呼政権を倒した<狗奴国男王>は、山上王・位宮という名乗りを持っているが、この位宮は「イク」とも読めるので、「イク」という発音につけた当て字とみても不合理ではない。
彼は、卑弥呼の跡をついで女王になった<壹與>を<与那原>で即位させている。
彼が<与那国王>だったのなら、それはごく当然のことだったとわかる。
「与那原=イオニヤの都」だからだ。
これで当時の沖縄地方には沖縄語のほかにギリシャ語と日本語、パーリ語などがあったことがわかる。
この内パーリ語は今の日本語と比較しても、共通語が軽く1300語以上もあるから、日本語の中核になった言語だとわかる。
※出典:大学講義録09 13~14頁

「山幸の見つけた釣針と赤女の真相」

この壹與の名もまた<与那国>の名乗りと深い関係がある。
それは壹與という一当て字は沖縄語なら「イユ」と読むからである。
このイユとは沖縄では魚のことである。
ここまでわかると海幸・山幸の謎がまた一つ解ける。
山幸が求めて海神国まで行ったのは、魚にとられた「針」を手にいれるためだった。
それは海神宮で見つかった。
針が喉に刺さって苦しんでいたのは「赤女」だった。
この赤女とはタイのことだとか、オコゼだとか、いろいろな説があった。
説は一致しないが、喉を釣針に刺されて苦しむのは魚類の宿命だから、赤女が魚であることには異論はなかった。
とすれば、壹與が「イユ=魚」という名乗りをもっていたことで、少なくとも第一開門は突破できる。
では赤とは何であろう?。
それは先にお話しした<五彩圏の赤>である。
鹿児島以南の海の世界、そこが「赤の国」だったことはいうまでもない。
赤もまた、そこの出身で女王でもある<壹與>の肩書き、名乗りの一つであることは間違いない。
こうわかると、女は女王の省略とみていい。
「魚=イユ=壹與」「赤=赤の国」「女=女王」で、すべてぴったりである。
では「針」とは何だろう?。
『魏書倭人章』には女王国連邦の旁国の名が挙げられているが、その中に「巴利国」というのがある。
これは正確には「パリ国」だが、日本の古語では<パ>を<ハ>と発音するものが多いから、これがハリだったとするのが正しい。
では巴利国とはどんな国だったのか?。
いまイオニヤをヨナ>と発音したのはパーリ語だとお話ししたが、古代日本に、なぜそんな言語があったのだろう?と疑問に思われたと思う。
パーリ語というのは古代インドで使われていた言葉で、お繹迦(シヤカ)様たちが使っていたし、仏教では有名なマガダ国のアシャカ王たちも使っていたとみえて、古いお経は皆これで書いてある。
アシャカ王は仏教を世界に広めて平和な世界を作ろうと考え、王族や皇族を団長に任命して、四方へ大布教団を派遣した。仏教ではその団長を長老と呼ぶが、それは次の通りだ。

方角  目標国名         長老名
東   スパンナプーミ      ソナカ      ウッタラ
北   カスミーラとガンドハーラ マッジャンチカ
北   ヒマバンタパデサ     ミッジマ
西北  ヤナカ-ロカ       マハーラッキタ
東南  バナバシ         リッキタ
東南  マヒサカマンダラ     マハーデバ
南   タンパパンニディバ    マヒンダ  ウッチヤ  サムバラ  バッダサーラ
西   アパランタカ       ヨナカ-ダンアラッキタ
西   マハー-ラッタ      マハー-ダンマラッキタ

以上が宣布団の構成だが、長老名が複数になっているのは、第一次、第二次と、宣布団の派遣がくりかえされたことを示している。
発見された仏教遺跡や古代文献、仏教思想の分布などによって、それらの人々がどこまで行ったかが次第に明かになりつつある。
その内、日本列島まで来たソナカ宣布団のコースと歴史については、ほとんどを明かにした加治木義博の研究が、世界で最も進んでいるが、はるかに西へ進んだ宣布団がアショカ王の祖母の祖国ギリシャのマケドニヤから、シリヤ、シレーネ、エジプトの首都・アレクサンドリヤなどへ到着したことは、西欧の学者も次第に確認してきて、西欧の世界史の教科書にも見られるようになってきた。
このショカ仏教宣布団が、日本まで来たという事実は、皆さんが意外に思われるような種類の遺物をたくさん残している。
その手っとり早い一例が前記載の国名や長老の名前である。
原名と下の当て字とを比べてみて戴くと、それらの名が日本名になって、たくさん現存していることがすぐおわかり戴けると思う。
(先にご説明したが、濁点などは変化して日本語化している。
また語尾のラ・マ・ヤ・ナ・ダなどは、、古代日本で「国」を意味した発音として除外する)

スパンナプーミ   諏訪の国(スワンナ) 不弥国(プーミ)
ウッタラ      内多良・大多良
カスミーラ     香住・香純・霞
ガンドハーラ    神戸原・神田
マッジャンチカ   間辻
ミッジマ      三島
ヤナカ-ロカ    谷中(ロカ=世界)
マハーラッキタ   真原の北
バナバシ      花橋
マヒサカマンダラ  舞阪
マハーデバ     出羽
タンバパンニディバ 丹波
マヒンダ      真品田・舞野田
ウッチヤ      内谷・内山
サムバラ      寒原・佐牟原
ヨナカ       米花
リッキタ      力田
(マハーは大という意味だから省略してもいい。大の沖縄発音=ウ)  
※出典:大学講義録09 15~18頁

「壹與=かぐや姫の悲劇の真相」

単にパーリ語が日本語に大量に入っているだけでなく、その言葉を話した人たちもまた大量に日本へやって来ていたことがわかる。
それでなければ、単に言語だけが伝わってきても、そのために姓や地名までが変わるということは、古代にはありえない。
大量に移民してきたからこそ『魏書倭人章』に、巴利国が存在した事実が、国名記録として残ったのである。
その国はもういうまでもなくアショカ仏教国だった。
壹與が喉に刺さって苦しんでいた針とは、「巴利の名が代名詞だった仏教」だったのではないだろうか?。
考えてみよう。
彼女は『魏書倭人章』に、「卑弥呼の宗女」と、わざわざそのつながりを書かれているから、卑弥呼の跡を継ぐように決められていた仏教徒中の仏教徒だったことは疑いない。
その「仏教=パーリ=巴利国人」であったことがなぜ彼女を苦しめたのか?。
これは簡単にわかる。
彼女は卑弥呼の弟子で、しかも優遇されてきた後継者なのに、卑弥呼の敵=山幸=山上王位宮の味方として、<与那原>で敵国の女王に即位させられた。
そして次は恩師<卑弥呼>を倒す戦いをしなければならない。
パーリ仏教(針)を学んだ(呑んだ)ことが、まさに釣針を呑んだ魚同様の苦痛を、彼女に与えていたことは間違いないからである。
このことで、位宮の宗教が仏教ではなかったことがわかる。
それは山上王という彼の肩書き、名乗りでわかる。
「ヤマガミ王」とは「ヤマ神を祭る王」ということで、ヤマ神とは、シバ神>のこと、すなわち「シンドゥ(英語訛りヒンヅー)教の王」だから、仏教とはもともと敵味方のあいだがらだった。
卑弥呼と位宮のその対立は単なる政権争いではなくて、古代から今に至るまで、地球上を暗くしている人類社会のガン=宗教対立であり、宗教戦争だったのである。
壹與はまた、おとぎ話しの『かぐや姫』のモデルでもある。
彼女が強制的に連れて行かれた「月の世界」とは、『夜の国=夜なぐに=与那国』のことであり、『日本書紀』に<スサノオのミコト>がもらった領地として書かれている『夜食国=よなぐい(夜食の鹿児島語)国』のことで結局は<与那国島>のことだったし、夜は昼の反対で、月世界は太陽すなわち日の神=天照大神=卑弥呼の国と対立する国のことだったのである。
13才で女王に即位した、人もうらやむ幸運児、日本版シンデレラのヒロイン壹與の現実は、針に喉を貫かれた赤女の苦痛、かぐや姫の血涙に表現された希にみる悲劇だったのである。
この講座では感傷にふけっている余裕はないが、これで従来は見過ごされていたおとぎ話しの真の内容の潔さ…、殊に、ほとんど無意味と思われていた『名詞』が、どんなに深い意味を秘めているかが充分にご理解いただけたと思う。
言語は歴史を復元できるのである。
※出典:大学講義録09 19~20頁

「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」

イオニヤ人の移住がアショカ仏教宣布団の渡来とは別だという証拠はまだほかにもある。
それは仏教宣布団の言語であったパーリ語では、イオニヤを「ヨーナ」と発音して決してイオニヤとは発音しないという動かない重要な条件があるからである。
このヨーナという発音からは、どんなにしても魚類を「イオ」と呼ぶ発音は生まれない。
またヨーナの名は全く別の名詞として現在まで残っている。
それは「与那国島」という島の名や「与那原・与那嶺・与那覇」という地名や姓として沖縄県に現存している。
仮にイオニヤ人がパーリ語を話す仏教宣布団の一員としてやってきたのなら、それは先にみた生物名の命名原則に従って魚類を「ヨーナ」と呼ばねばならないのに「イオ」と呼んできた。
これはイオニヤ人が別に渡来して、すでに新たな日本語を作りつつあった後に仏教宣布団が到着して、イオニヤ人の住む島を「ヨーナ国」と呼んだという以外に説明がつかない。
では彼等はいつ、どんなコースでやってきたのか…。
古くB.C.E.3世紀の秦の始皇帝の時代に、すでに台湾は「蓬莱=ホーライ=ギリシャの季節の妖精の名」と呼ばれていた。
またギリシャ神話には金毛の羊皮を求めて、ラコーン(タイから中国南部の古名)やマラヤの岬(マライ半島)という地名のある沿岸を東に遠征した「アルゴ船」の有名な記録がある。
※出典:大学講義録07 12頁

「読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布」

史実の天孫降臨が南九州を舞台にしていることは疑いの余地がない。
その天孫の「天」が「ウチナ=大天」の沖縄地域であることもまた周知の事実である。
そこには釋迦が使ったパーリ語でギリシャを意味する「ヨーナ=与那国、与那原」のつく地名が幾つも現存しているが、他にも沖縄本島の読谷村は正確には「ユンダン」と発音して、やはりマレー語の「ユナン」、南中国語の「ユンナン=雲南」の鼻濁音訛り(=ナ=ダ)に過ぎない。
また沖縄だけでなく、ここ猪名川には「紫合」と書いて「ユーダ」と読む地名があり、これを単純に「ユダ」だと思っている人があるが、それはユダヤである前にこの「ヨーナ」が「与那原・米原」と変化して分布しているのと同じく、湯田・湯田中・木綿田・夕田などと様々な当て字で南九州から東北地方まで分布している「ユーダ」の内の一つなのである。
この地名はさらにアラブから北中国語では「ヤバーナ」になり、漢字で「野蕃」と書く。
中国人が台湾の高地人を野蕃人と呼んだのは、この点からみて軽蔑してそう呼んだのではなく、本来の名詞への正しい当て字だったのである。
この「野蕃」の文字は、今の北京語では「イェーメン」と発音してアラブ最南端のシバの女王の国名と同じになるが、文字のスペルは「ヤマン」になり「八幡」と当て字すると「ヤバーナ」とも読めて言語のもつ力を知らされる。
現在でも日本には全国に三万を越える数の八幡社がある。
それらは、以上挙げた地名や国名、人種名とともにすべて「天孫族=ギリシャ人」が居住していた遺跡なのである。
※出典:講演(1995.10.29 レジメ)

「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」

行とカ行の関係が理解できると、この「ホ」の国と、それをめぐる国々の国名が、何から生まれて、どう分裂して増えていったかが完全にわかる。
沖縄語の「ク」は本土語の「コ」だとわかるから、高麗は「コマ=コ国(マ)」で、やはり同じ国だとわかる。
この高麗は本来「コーライ・コーレイ・コーリー」などとと呼ばれていた。
それはこの地方が3000年前には、古代世界で最大の貝貨幣・宝貝の産地で供給国だったが、そのため宝貝は今でもインド語で「コーリー」、学名も英語も「カウリー」と呼ぶ。
産物の名の多くは、その生産地の地名と同じになるから、これは「高麗」が世界を代表する産地だったことを記録しているのである。
そして、学名と英語の「カウリー」は、実は沖縄語なのだ。
那覇(なは)と反対側の中城湾(なかぐすくわん)には「高離島」という島があって土地の人はそれを「カウリー・ジマ」と呼んでいるのである。
それは沖縄発音で、もとは「コーライ」だったことがわかる。
なぜならすぐ隣りにある台湾は、秦の始皇帝のころから「蓬莱=ホーライ」島と呼ばれているからである。
「ホ」と「コ」が入れかわっているだけであることは、ご説明しなくてもいいと思う。
では「蓬莱」という漢字のついた台湾は中国領だったのだろうか?
始皇帝はその島を神仙の住む別世界の仙境と信じて、「真人」になるために神薬を授かりに徐福らをその島へ派遣したのである。
この「蓬莱」を徐福らの作り話だとする者が多いが、それは間違っている。
それは実在し、徐福は場所も知っていた。
彼は野蛮な独裁者・始皇帝の力を逆に利用して無事に中国を脱出する唯一の手段として、また万一の場合に備える「保険=人質」として、始皇帝の第三女ら多数の少年少女を連れて移住したのである。
その子孫が首都を沖縄に移して大琉球と称し、台湾は小琉球になった。
さらに種子島に移って女王国家「ホの国」を建国、南種子町の広田遺跡の墓に「山字文」の貝製装身具を残した。
豊玉姫の伝統は弥生時代からのものだったのである。
その後の足取りは、大隅の「襲(ソ)」という別名と「徐(ソ)」は同じ発音だから、そこが「徐の国」だったことがわかり、『日本書紀』と『三国史記』の記事で、さらに多数の証拠が見つかる。
天慧甗(テンエゲン)もそこに伝えられて実在する。
天武天皇はその子孫の一人だったから、あれほどまでに「ヤマト=仙」にこだわり、それを国教にし、国名にしたのである。
では元の名の「ホーライ」とは何だったのか?
それは台湾の先住民・ギリシャ人の神話に出てくる大神ゼウスの娘で三人姉妹の「季節の女神(ホーライ)」のことである。
台湾はギリシャ以上に温暖な気候と豊富な果物に恵まれた仙境だから、季節の女神の島と呼ばれたのだ。

※徐福が運んできた 天慧甗

この徐福の徐は与や邪の字と全く同じ発音で、与那国がギリシャ人を意味している通り、イオニア系ギリシャ人だった。
だから「与ナ」は国をマという人には「邪マ」と書かれた。
邪馬壹国もギリシャ人の国という意味なのである。
その「徐」は「ソ」とも発音する人々がいた。
韓国のソウルも「徐伐」と書かれている。
そのソの国は今の大隅地方で、そこにこの中国・秦の時代に作られた徐の国製だと銘記された銅器が現代まで宝として伝世してきたのである。
『天孫降臨』の一部にこの「ソの国」を「添」とか「曾堡里」とか当て字しているのは、内容とは別の史料として重要な意味をもっている。
※出典:YAMATO 184~186頁

「大和は台湾で最初に生まれた」

だが西はこれで納得がいったが、一番の難問題は沖縄より南には、東シナ海よりも、もっと大きな大洋しかないということだ。
どこに赤の国があるのだろう?
それが本当に実在するのであるといっても現代の精巧な地図でもそれは載っていない。
というより精巧な地図だから載っていないといったほうがいい。
というのは今の地図で正確に真南を捜しては見つからないのである。
古代人の方向感覚で南の国を考えると、沖縄の南の国は台湾である。
そこが間違いなく赤の国だったのである。
それは消えてしまった古代の名なんかではない。
私たちの発音する台湾の名を耳を澄まして聞いてみると、その今の名前の「台湾」がそうだと証言しているのである。
そして別にヤヤコシイ読み替えも、発音変化も必要ない。
あなたがいつも口にしているその「タイワン」が、そのままで答えになっているのである。
「タイワン」は「タイワ・ン」「大和・の」に一致しているのである。
「大和」が「オカ=阿和=アカ」であることは、すでにいくつもの例でご説明したとおり疑問点はない。
しかし外国の台湾がまさかと、まだ疑問にお思いの方は、この本をまじめに読んでいない人なのだ。
この講座ではゴビ砂漠はおろか、タクラマカン砂漠の彼方まで、私たちの仲間の世界だったとお話しし続けているのである。
それにくらべると台湾は、与那国(よなくに)島から肉眼で見えるお隣りの島なのだ。
しかもその島は古代には小(しょう)琉球と呼ばれていた。
小さな沖縄のほうが大琉球だったのである。
この「大和(たいわ)」はその時代につけられた「赤」を意味した当て字だったのだ。
それを示すのは台湾の古名の一つに「ホーライ=蓬莱」があることである。
これはもともとギリシャの春の妖精(ニンフ)のことなのだが、
中国人には「鳳凰(ほうおう)が来る島=鳳来(ほうらい)島」と解釈されていた時代がある。
それが今お話しした徐福の当時で、ソナカ布教団の先頭が台湾へやってきたころなのだ。
中国ではそれを「神仙」だと信じて、鏡などに大いに描き始めた。
それが南方を赤い鳥で表現することになった初めと考えると、本来インドの四神の鳥はビシュヌー大神の乗り物である金麹鳥(きんしちょう)で「金の鳥」だったのに、なぜ中国で朱雀(すざく)になったかという謎が解ける。
朱雀というのは中国で別名「丹鳳」という赤い鳳凰のこととなのである。
※出典:WAJIN 177~178頁

 「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」

これで永く神話だとされてきた天照大神が実在の人物で、その出身地まで現存していることが証明された。
しかし証拠としては、イザナキによく似た名前があったというだけじゃなと思う方がまだあるかも知れない。
それに答える証拠は、まだまだいくらでもある。
しかしそれはこの本の目的ではない。
この本は一冊でヒミコのナゾを解くのが仕事である。
上の疑問には、だれがみても後に疑問を残さないものを、もう一つだけ提出して終りにしよう。
伊是名という名は島の名前だといってしまえばそれまでだが、それには何かの意味があるはずである。
それを明らかにしておこう。
これはそのまま読めば「イゼナ」であるが、濁音のなかった時代には何だったのか。
それは「イセナ」。「ナ」は古代の「国を意味する名詞の一つ」である。
ミマナ(任那)のほか、嘉手納、恩納、山名、猪名、伊那、稲、古那、与那国といった地名に今も残っている。
これは「イセ国」で、漢字で書けば「伊勢国」だったのである。
これでなぜ、天照大神が「伊勢の大神」だったかが分かったと思う。
ではその「イセナ」の語源は?
と次々にきりがないが、それもまた分かっている。
それは後の「卑弥呼の鬼道とは何だったか?」の説明に必要だし、分かりやすいので、そこでお話することにする。
※出典:HIMIKO 62頁

「日本語の中に大量に発見される古代インド・パーリ語の痕跡」

アショカ仏教が日本に来たという何か証拠があるだろうか。
加治木義博は第二次大戦末期には鹿児島県北部の栗野国民学校の教師をしていた。
当時、考古学の大家として全国的に知られていた寺師見国(てらすみくに)医師が隣接した大口市におられたので、お訪ねしたついでにこの話もした。
すると「ここには曲田(マガタ)という姓がありますが、それは関係ありませんかネ……」というヒントをいただいた。
なぜそれがヒントになったかというと、アショカ王は「マガダ(Magada)国王」だったからである。
ご存じのように「田」は「ダ」と発音する。このマガタは「マガダ」さんだった可能性が非常に高い。
しかしこれ一つでは「他人のそら似」で証拠にはならないから、そんな国名や地名に共通するものがほかにないか、さがし始めた。
鹿児島語とインド語の共通性はこうしたことから研究しはじめた結果だったのである。
ところがインド、ことに古代にシヤカ(釋迦)が使った言葉であったパーリ語が、日本語に大量に入っていることが分かった。
(詳しいことは加治木義博の『邪馬臺国の言葉』コスモ出版刊=1976年の付録参照)。
そのパリー語ではギリシャ人のことを「ヨナ」と呼んでいる。
まずその「ヨナ」から見ていこう。
これは日本の南西諸島の中でも、いちばん南西にある島である「与那国島」の「ヨナ」と同じである。
この島に限ってわざわざ「ヨナ国」と国の字がつけてある。
これは周辺の島々の住民とは違った人間が、独立国として存在した名残りである。
ではなぜ、パーリ語はギリシャと呼ばずに「ヨナ」と呼んだのだろうか?
ギリシャは古来、大きくなったり小さくなったりしている。
ご存じのとおりアレッサンドロス(英語なまり=アレキサンダーの時代には、それはエジプトからインドにまで拡大した。
しかしアレッサンドロス自身が、それまでのギリシャ人からみれば、東のほうから流れてきた「マケドニア=マケド国」国民で、それが父王ピリッペ(英語なまり=フィリップ)の時代に、隣接したギリシャを「勢力下におさめた」ということだったのである。
マケドニアは今はユーゴの中に入っているが、当時は今のシリア一帯の「イオニア」もその勢力下にあり、それらをひっくるめて、ギリシャと呼んでいたのである。「ヨナ」というのは、このイオニアをパリー語流に、短く縮めた発音なのだ。
「ソナカ~パーリ語~ヨナ国」と見てくると、私たち日本人の血には、どうやらこれまで余り縁のなさそうだった「遠い国」からやってきた血が流れている、と思わないわけにはいかなくなってくる。
それは日本のいちばん南西のはし、そしてヨーロピアンの容貌をもった人たちがたくさんいる鹿児島~沖縄地方なのだ……。
※出典:HIMIKO 180~182頁

「呉の皇帝も青い目をしていた」

私たちは、いま、邪馬臺国が、もと沖縄から出た人たちの政権であったことをはっきり知っている。
過去の九州北部説や大和説などが思いもしなかったことが、重要な大問題として浮かび上がってくるのである。
それは沖縄の与那国島と呉とは、海をへだててはいるが、九州本土までの距離より、はるかに近いということである。
台湾が古代には「小琉球」と呼ばれて、沖縄の統治下にあったことも事実である。
そこからなら、呉の海岸へ百五、六十キロメートルしかない。
その呉の大帝・孫権の一族は背が高く、色が白く、目と鼻が大きく、ときどき碧眼の子供が生まれた。青い目をしていたのである。
それを「中国人には、たまにそんな人が生まれる」などといってすましていてはいけない。
それには理由があり、歴史という学問ではそれがなによりも大切なのだから……。
私たちは、いつからか分からないが「呉」の字を「ゴ」と発音している。
しかし中国では古来、南北とも「ウ」で、語頭の「g」は私たちの耳には聞こえない。
その中国の北には有名な「万里の長城」があるが、それを中国人に作らせた北の強国の一つに「ウーソン(烏孫)」というのがある。
呉王も「呉・孫」は「ウ・ソン」なのだ。
これだけならタダ同じ発音だというだけだが、もっと重大なことがある。
それは烏孫人が、やはり青い目、金髪の混じった地中海人だったことだ。
彼等はギリシャ人たちと同じ仲間だったのである。
それはその名をみても分かる。
「ウーソン」と呼ばれた元の名は正確には分からないが、それはギリシャの古代の勇士イヤソンなどと同じ語尾をもっている。
これを見ると孫権は元はその烏孫人であって、それを中国風に一字ずつ切って、国名と姓にしたと考えることができる。
それが「呉孫」と「烏孫」とが一致する理由だといっていい。
この孫権一族の風貌は、直接の敵である魏人にとっては、知らぬ者のない有名な話だったから、帯方郡使がヒミコに会ったとしたら、ハッと驚くことは間違いない。
たとえ孫権と赤の他人で完全に無関係だとしても、いい印象を与えないことは間違いない。
そうして、もう一つ考えておいた方がいいことがある。
それは日本語の「イツ」は中国語の「ウー」だということである。
それはもちろん「数詞五」の話である。
倭人の国々がその数詞と深いかかわりがあることはご記憶にあると思う。
とすれば伊都国とはこの「呉」となんらかの関係のある名だということになる。
なぜそう言い切れるか。それは今お話したとおり、日本では呉を「ゴ」と発音する。
「それはなぜか?」というこの疑問は、この「イツ」と「ウー」と「ゴ」の関係を認めると、簡単に解けるのである。
これは証拠とはいえないだろうか。
※出典:HIMIKO 248~182頁

「日本が誕生したとき」

3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。
その中核だったのが、バビロンから来たカリエン=和人=高麗人でした。
彼等はエラム出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。
それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、アテナ出身者は嘉手納(かてな)、チラナ>身者は知覧の名を残すというふうに、「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。
その中でも最大のものが台湾で、「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。
その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。
「マレアなる岬の沖を過ぎ、<ラコニア>の沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、やがて四面環海の土地、歓喜のヘリオス(日の大神)の国・タイナロンにぞ、着きにけり……」と書いてあります。
ラコニアは六昆で今のタイ国ですが古代にはミャンマーのヤンゴン=ラングーン(六昆)までを含んでいました。
マレアの岬はマレー半島。四面を海で取り囲まれた大きな土地は、その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。
ヘリオスの妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、これが「音を音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。
 最初の「日本」はタイナロン=台湾で、古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。
 これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、本来はこのヘリオスとヘラのことで、そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。
 ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、「天照大神」様と呼ばれたために、後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。
 これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。
 ※出典:日本国誕生の秘密 216~218頁


 「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」


 壹與=赫居世は『三国史記』に「①13歳で、②徐那伐で、③即位した、④初代、⑤新羅王」と記録されています。
 この5つもある限定条件には、他人では体験できなかった非常に多くの史実がからんでいて、彼女だけがもっている「身分証明書」になっています。
 それが『竹取物語』『魏書倭人章』『三国史記』という、これまでバラバラだった「記録」を接続し、接着して、復元し、互いに不足を補いあって、永い間「忘却の闇」の中に隠されていた歴史の真相を、はっきりと私たちに詳細に教えてくれたのでした。
 それだけでなく、その即位の場所が「徐那伐」だったことが大きな証拠を形成しているのです。
 この地名は従来は朝鮮半島のどこかだろうとされてきましたが、『魏書倭人章』との関連から考えると、どうしても沖縄でなければ話が合いません。
 「伐」の字は朝鮮語で「パル・バル」なので「徐那伐」は「ヨナバル」と読めるのです。
 これに、ぴったりの地名が沖縄にあります。那覇市に近い島尻郡の「與那原(よなばる)」がそれです。
 新羅の歴史を考えますと、狗奴国男王の根拠地であり、13歳の壹與が女王に即位した「ヨナバル」は、ここ以外考えられません。
 また「ジョ・ナ」という発音は「徐国」を意味し、この<ナ>を<マ>に変えることもできるから「邪馬」と書いても同じ「徐国」だとわかります。
 その「ヨナ」は今の<与那国>と同じ発音で、「ヨーナ」とは「イオニア」のインド訛で、ギリシャという意味です。
 「与那・徐那」は「ギリシャ国」ということなのです。
 古代日本には国を「ナ」と呼んだ人々がいました。
 沖縄を<ウチナ>と発音しますし、嘉手納、山名、丹那などもそれです。
 また「ナ」という発音は沖縄語では助詞の「…の」に当たりますから、「徐那」は「ジョーナ」と引っ張る発音をする人々なら、「女王国」または「女王の」のどちらかにも結びつけて考えることもできます。
 ※出典:日本国誕生の秘密 262頁


 『参考』
歴史学講座『創世』うらわ塾
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リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
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