2011年4月26日火曜日

浪速・難波・那覇はギリシャからきた地名

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会


「実在した『季節名連邦』」
「四季の名が生まれ五彩圏超す『四季圏』実在」
「時間帯を教えてくれる地名変化の原則」
「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語」
「沖縄⇒佐賀⇒愛媛⇒大阪⇒群馬=倭国の足跡」
「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」
「卑弥呼がもっている名」
「dzia ma に一致する謝名(ぢゃな)と王称地名」
「奴国は種子島の中心地・野間」
「九州に実在した・数を国名にした国々」
「古代にはスキュタイ人・フン族と同じ「サカ人」が日本にもいた!」


「実在した『季節名連邦』」

カリエンたちは沖縄から九州、さらに朝鮮半島に広がっていったが、沖縄の首都は那覇。
奄美の首都は名瀬。いずれも「ナ」がついて『魏書倭人章』の奴国にあたるが、もう一つの奴国=筑紫の首都も今の福岡で、古名は娜(ナ)津。娜(ナ)津は「ナツ」で夏と同音である。
その福岡の東には今の広島県=「安芸」があり、「アキ」は秋と同音。
3世紀の卑弥呼時代には高句麗に隣接した北の国「夫余」が記録されているが、当時の政権の支配者たちが皆沖縄出身者であることを考えれば、「フヨ」という発音はなくて「フユ」でなければならないからこれも冬である。
そこで春を探してみると、広島より西の九州では原はハルと発音するから、北は対馬の厳原から南は屋久島の原までが候補地で、『倭名類聚鈔』には筑前に早良(佐波良=早春)郡。筑後に御原(=深春)郡。
肥後託麻郡に波良(=春)。肥後葦北郡に桑原(クワ=コワ=酷=酷春)がある。
また鹿児島語では春も原もハリも全て「ハイ」なので、薩摩郡幡利(現在の大口市針持=巴利国)。
大隅の桑原郡。肝属郡の桑原も候補地だが、隼人も古くはハイトと発音したから「春都」だった可能性が高い。
このように方角と気温と気候と季節とに正確に対応した地名の分布で、五彩圏のほかに『季節名連邦』が実在したことは、充分立証されている。
ではそれは五彩圏連邦とどういう関係にあったのであろう…。
夫余は3世紀より前に存在したが、それと対応する奴国は、卑弥呼政権当時は旁国の
最南端にあったが、卑弥呼政権が倒されて邪馬壹国が誕生した時には、福岡まで北上移動した。
そこは九州北端だから春の国よりも北に位置して、南にあってこそ夏の国だったものが意味をなさなくなってしまった。
そのとき季節名連邦は崩壊してしまっている。
このことで季節名連邦は卑弥呼政権のものだったことがわかり、その後、位宮が五彩圏連邦制を採用したことがわかる。
それは後世まで五彩圏連邦の移動を跡づけることのできる地名が、ちゃんと分布しているからである。
※出典:大学講義録07 203頁

「四季の名が生まれ五彩圏超す『四季圏』実在」

天武天皇の死後、持統・元明・元正と女王制が復活したことに対応し、その都も飛鳥、藤原と、仏教倭国の再現を意味している。
邪馬壹国誕生で消滅したかに見えた卑弥呼時代の伝統が息を吹き返した。
それが皇族の填墓に五彩圏思想が見られる理由なのである。
では、壹與時代に始まった「ヒガシ・ニシ・ミナミ・キタ」という『方位名圏』は、どうなったのか?。
我が国には、もう一つ、春(ハル)・夏(ナツ)・秋(アキ)・冬(フユ)圏が実在していた。
これは『五彩圏』と『方位名圏』とに、さらに対立する領域名として、『四季圏』と呼べるものである。
まず冬だが、これは寒い季節だから北である。
高句麗の隣りに実在した夫余(フヨ)は、沖縄発音では「フユ」、ぴったり日本語の「冬」の発音と重なる。
夏は当然「南」だから、博多湾の古名「娜津」が「ナツ」。互いに対象的な位置にある。
その博多の福岡市には「春(ハル)町」があり、そのすぐ南には福岡市に隣接して春日市がある。
発音は「カスガ」市だし、位置も少し具合が悪いが、「ハル○」だった可能性がある。
これは西だから、その東を探すと、広鳥の古名は安芸(アキ)、これもまた、ぴったり「秋」に合う。
すると位置の悪い夏は娜津以外に、もっと南にあったはずである。
福岡と広島の東西の線から夫余までと、ほぼ等距離に、沖縄の首都・那覇がある。
そこは港で、古語の津だから、ナツに合う。
※出典:大学院講義録17 29頁

「時間帯を教えてくれる地名変化の原則」

那覇は「ナ」ではないが、沖縄語はウチナをウチナーと発音する。
このナは「国」を意味する国称だから「ナ」なのだが、それをナーとひっぱる。
そこで新井白石が「縄(ナハ)」と当て字したのである。
那覇も同じことで「覇」には元々特別な意味はない。
長くひっぱった語尾に、勿体をつけただけのものにすぎない。
港の津をつければナツ。
福岡の娜津はこの那覇津の人々が移動した先につけられた「港湾都市の名」だったのである。
これは冬夏の縦軸は沖縄本島から夫余までを含んでいるから、奄美に南限を置く卑弥呼の五彩圏より後で、沖縄を強く意識した時代のものだから、沖縄で即位した壹與と位宮の時代に始まっているが、その時代には広島はまだ安芸にはなっていない。
壹與時代にはナツとフユという日本語は生まれたが、四季圏はまだ生まれていない。
四季圏は、倭(ウワイ)が日向から中国地方に移動して、上井(アゲイ)に発音が変わり、それに「安芸(アゲイ)」という当て字がつけられたあと、「アキ」と読むようになるには相当年月がかかる。
中国地方を東進した倭人は卑弥呼と同じ高句麗系の長寿王=敏達天皇と用明天皇だから、その当時はまだウワイと呼ばれていた時代で、それがアゲイと発音を変え、文字も安芸に変えたあと、さらに「アキ」と続み変えられるのには、また時間がかかる。
※出典:大学院講義録17 30頁

「ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語」

誤解はないと思うが、念の為に申し上げておくと、以上の一致点はその名詞のギリシャ語の「意味の部分」ではない。
ギリシャ語の名前の「発音の部分」が、日本では日本語として別の意味をもったのである。
これはその名詞が我が国に入ってくる前には無かった言葉が、その名詞が移住してきて、別の意味をもつ新らしい名詞にに生まれかわったのである。
この考え方が正しいかどうか検討するには、どうすればいいか?、それもお話ししてみよう。
ハルとセットになる日本語は夏、秋、冬である。
春がハルモニアが語源だとすると、他の3つはいつ生まれたのか?。
それは古来、日本列島に土着していた先住民の縄文人が、すでにもっていた言葉=原日本語だったのであろうか?。
ナツは娜津(なつ)と、アキは安芸(あき)と、フユは夫余(フユ)と同じ発音をもっている。
暑い季節は南、寒いところは北だから、春秋はその中間になければならない。
  春に当たるのはどこだろう?。
安芸を広島とすると、娜津は福岡だから同じ緯度にあって夏には合わなくなる。
その辺りには春がなければならないが、福岡市中央区と北九州市に春吉があり、福岡市博多区に春町がある。また読み方はカスガだが文字はハルの春日市は、福岡の南に隣接する市だ。
すると沖縄の那覇も海に面した都市だから古代には那津(ナツ)で、朝鮮半島の夫余(フユ)といい対象になる。
※出典:大学院講義録16 17頁

「沖縄⇒佐賀⇒愛媛⇒大阪⇒群馬=倭国の足跡」

朝倉は7世紀に斉明天皇が亡くなった筑前の地名、福岡県朝倉郡だとされるが、『倭名類聚鈔』の筑前の部にはない。
『倭名類聚砂』には全国でただ1か所、今の群馬県前橋市朝倉町が、那波(ナハ)の郡の筆頭にあるだけである。
だから大和には高市の郡にもない。
城上(きのかみ)郡に長谷が波都勢・ハツセと振り仮名してあるだけだ。
またその高市の郡には御所(ごせ)の名はなくて、「巨勢・こせ」がある。
これは雄略王朝が衰亡した後世に、ここを領有したのが巨勢氏だった証拠で、語源は五瀬や伊勢や石や御所(ゴセ)と同じだが、当て字をみると濁りは消えてコセである。
イサナギの名はここまでくると原形をとどめなくなる。
臣下の巨勢の住まいを御所とは呼ばないから、付近に葛城一族の居住痕跡が濃く、葛城という山があっても、だからと葛城王朝を妄想しては学者とは言えない。
那波(ナハ)の地名が出てきたチャンスに、ナハという地名がどれほど重要なものかもお話ししておこう。
沖縄の首都・那覇は、これまでまるで外国の地名のように見られ思われてきたが、那覇は間に助詞を挟むと那ヌ覇=ナヌハ=難波・浪速になる。
この助詞をガにすると那ガ覇=ナガハ+国(マ)=長浜。
ハを八と書くとナガヤ=長屋(王)。この発音変化ナグヤ=名護屋、名護。
ナゴヤ=名護屋・名古屋。
だから難波や浪速の渡りも転々と移動しているのである。
※出典:大学院講義録15 24頁

「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名」

日本列島におけるギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。

沖縄列島の最西端は日本の最西端である、そこを出発点として、日本列島の中に残っているそのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、フリップ化してたどってみよう。

1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に

2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが

4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。

5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島

このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、すでによくご存じである。

それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、彼女が<徐那伐>で即位したと記録しているが、これはヨナバルという発音で、与那原を北九州語で発音したものに朝鮮語で当て字したものだからである。
このことは他にも多くの証拠を残している。
壹與が新羅の初代女王だということは神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、彼女らがパーリ語を話したこと。
赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。などなど……。
※出典:大学院講義録11 17頁

「卑弥呼がもっている名」

ソナカとの出会いと結婚」



神石  石 パーリ amhan  アマ・アマノ (これはアマを「石」と聞き違えた)

白石  白 パーリ odata  オダ一夕   (シラは新羅の誤解)

白 パーリ seta セタ

比売語曾の杜の神(卑弥呼尊)パーリ pemaka ぺマカ 愛 ギリシャ Αγαπη Agaph

比売許曾の   (姫木王尊=ヒメキョオソン)

比売碁曾社(難波・阿加流比売は那覇・大日霎 豊国は ホ=百・穂・日)

赤絹      (新羅人が奪う。取られたのは村人)

(赤 阿加流比売のことを誤解)

(赤幸 パーリ akasati アーカーサチ 光り輝く)

赤織りの絹    (新羅人は王子自身の話)

アカリ=   阿加流  明り

赤玉       (新羅に阿具奴摩という沼)
クヌマ→クルマ→高句麗

玉 パーリ gula グラ (Sk.guda グダ)

パーリ mani マニ       クダ
(グラは大隅語クダ、下、馬、玉が混乱)

阿加流比売    (オ大 力日 ルメ 流 売 霎)

※出典:大学院講義録03 28頁

「dzia ma に一致する謝名(ぢゃな)と王称地名」

だがここで注意がいるのは、古代の沖縄語の主流は、3母音語で O 音がないはずなのに、このヨナを表現する漢字の徐も与も O 音をもっている事実である。
その理由はイオニアのパーリ語訛り「ヨーナ」が、この島名のヨナの語源で、パーリ語には O 音 があるから、その名残をとどめているからなのであり、命名の後に沖縄の住民の主流がマレー語系の人々に変化したため、3母音語が中央語になったことがわかる。
カールグレンが気づいた邪の dzio と dzia の2音は、まさにこの時代変化に一致する。
とすると、 O 音を失った地名が他にもある可能性があるということになる。
Dzia に相当する地名が沖縄にもないか探してみると、最も近いのは謝名(ヂャナ)で、国頭(くにかみ)郡の今帰仁(なきじん)村にあるし、謝名城(ヂャナシロ・ヂャナグスク)も国頭郡の大宜味(おおぎみ)村にある。
この大宜味(おおぎみ)も国頭(くにがみ)という郡名も「大君=王」「国頭=首都」を意味する地名である。
またこの地域の最高峰である与那覇岳の名は、ヂャナとヨナ=イオニアが元は1つだったことを証明しているから、すでにここに邪の字の dzio と dzia の2音の分裂が見られるが、それだけではない。
拗音のない鹿児島語の特徴をもった地名もある。
慶良間列島の座間味(ざまみ)島がそれで、このザマは一見して鹿児島語タイプ。
ヂャマとは僅かな方言差しかない。
※出典:大学講義録13 4頁

「奴国は種子島の中心地・野間」

屋久島には、東北部にある宮の浦の、ちょうど反対側にあたる北西部に「永田」がある。
田を国称であるラの訛り「ダ」だとみると、このナガタは「奴ガ国」とみられなくはない。
しかし奴の発音は漢魏音 no 隋唐音 nuo 明清音 nu であって na ではない。
旁国を記録した帯方郡使は、耳で聴いた発音を忠実に写す当て字を選んでいるから、奴の発音は漢魏音の、「 no =ノ」でなければならない。
当時の鹿児島以南の国称が、多ぐ「マ」であったことを考えると、奴国は「ノマ」と呼ばれた可能性が最も高い。
すると種子島には中央部にぴったり「野間」という地名がある。
現在、空港がある中種子町の中心部である。
その西南には港をもった「島間」があって、ここも「斯馬国」と同名である。
しかし旁国の最南端という奴国=野間より南にあるから、倭人章に書かれた斯馬国ではない。
別の時代のものなのだ。
では、その野間は屋久島の狗奴国より北にあるだろうか?。
屋久島の北端は島間よりさらに南にある。
屋久島全体が野間より南にあるから、狗奴国はもちろん、邪馬国まで含めても、奴国=野間の南にある。
すると日本式数詞の「ナ・ヤ・コ・ト」は、この野間・邪古・十島で北から南に正確に配列されている。
どこからみても、この「野間」以上に奴国に一致する地点はない。
この「ナ」の数詞は、より古い奴国だった那覇と同じく沖縄発音なのである。
※出典:大学講義録13 25頁

「九州に実在した・数を国名にした国々」

沖縄語はマレー語系だから3母音語なのであるが、そのマレー語で「1」を意味する「サツ」が国名の「壹」に取って変わって壹国(マ)→「薩摩(マ)」という国名になったのも、さきにお話しした8世紀の薩末(マ)比売の時代からで、その証拠に、ご覧のとおり薩摩という文字も、当時はまだ完成せず薩末(マ)と当て字している。
だがそれは、その地域が壹国、すなわち壹與と伊支馬を首班とする邪馬壹国だったことの、生きた証拠なのだということである。
では壹国とはどんな意味をもった国名だつたのか?。
実は古代九州には数を国名にした国々が完備していたのである。挙げてみよう。

一国 伊支馬・壹国

二国 日本

三国 三瀦(づま)=三津国(福岡県)

四国 斯馬

五国 呼邑・五島(長崎県)

六国 六合=リクアウ→リクウ=琉球・陸奥=ムツも6

七国 敷根=シッネ(鹿児島県)

八国 八耶=ハヤ=隼人(鹿児島県)・八幡=ハチマン=八国(マン)の(鹿児島県)

九国 狗奴・球磨(鹿児島・熊本県)

十国 重富=ジュウフ(鹿児島県)・投馬=十之国=十島(鹿児島県)

これらは3世紀より前に沖縄から九州全域に分布して、消長があったことがわかる。
古代九州には、数を国名にした国々が、もう1種類ある。
上記はイチ・ニ ・サンという中国の数詞だったが、下記はヒ-・フー・ミーという日本式数詞なのだ。

ヒー 火・日・肥

フー 不弥・不呼

ミー 弥奴

ヨー 与那

イツ 伊都

ムー 霧島・武・牟田

ナー 奴国・那覇・娜・儺

ヤ  八女・山国

コー 高麗・甲突川(鹿児島市)・コーツキ=高津王

トー 投馬=十国=十島

倭人章の中に記録されていない国名があるが、それは「もと百余国あったが、使訳=使者や通訳、通ぜる=これには「外交関係がある」と「知っている」との2つの意味があるが、そんな国が30か国ある」という報告記事があるのだから、魏との外交関係のない国が、記録に入っている国々以外に、まだ70国あったのであって、この数詞の国はその全体に散らばっていたのである。
それが2千年近く経った今でも確認できるほど完全に揃っていることは、それが偶然そう見えるだけなのではなくて、本当に実在したことの証言なのである。
この事実は、3世紀以前の九州の文化が、すでに中国の数詞と日本の数詞とを使い分け、それに対応する漢字も使いこなしていたことを、しっかり立証しているのである。
※出典:大学講義録12 10・13頁

「古代にはスキュタイ人・フン族と同じ「サカ人」が日本にもいた!」

「難波」この地名は古式に頭音使用で読むと「ナハ」である。
これは沖縄の首都那覇市とぴったり同じだ。
しかし敵の皇子たちがいる場所は鹿児島なのだから、沖縄ではありえない。
鹿児島には市の西はずれに谷山という地名がある。
ここは「タンニャマ」と発音する。
この発音と「難波」は共通点が多い。
難の字は「ナン」のほかに「ダン」の発音もある。
というより本当はダンだった、といったほうがいい。
だから難波は古代には「ダニハ」とか「ダヌハ」という発音に対する当て字だったのである。
日本の古代には国のことを「マ」という人々がいたことは、先にも話した。
これは中国では「塞(サカ)」。ギリシャではスキタイ。
ヨーロッパでは「フンとかハン」とか呼ばれてる人々の言葉で、「国・領土・世界」といった意味に使われる。
その人たちが沖縄の島々に、タラマ(多良間)、ケラマ(慶良間)という地名を残した。
『魏書倭人章』にはもっと多くの国名が、この「マ」をもっている。投馬・斯馬、邪馬などがそれだし、巴利国も後世に「播磨」と書かれているのをみると、やはり「ハリマ」だったのである。
だから「ダニハ国」は「ダニハマ」。
古代には「ハ」は「八(ハチ)」の字の影響で「ヤ」と発音する例が多いから、これを濁らずに清音で発音すれば「谷山(タニヤマ)」と当て字することになる。
この「サカ」の人々がいた地名は、他にもたくさん残っている。
「佐賀・嵯峨」もそうだし、大阪の語源もそだということが分かった。
それはだれでも知っている大阪弁の代表的特徴である「……ネン」という語尾は、その人々が今も世界のあちこちで毎日使っている言葉だからである。
その言葉は「フィン・ウゴル語」と呼ぶ言語の仲間で、今では日本から最も遠い国になってしまっているフィンランドの言葉も、実に多くの日本語との共通語をもっている。
私は特にこの系統の言語を永く研究してきて、それが日本語のルーツの主要な柱の一つであることをよく知っている。
※出典:大学講義録HIMIKO 97頁


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