私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。 発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、今後、若い人たちの研究課題である。 また、オリエント史(ウバイド・アッカド・シュメル等)・ギリシャ史・インダス文明史・中国史・朝鮮史等の理解を深めることにより、 今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化の源流、日本語の語源・成立、日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できれば幸いです。
2012年4月7日土曜日
ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動(3)
《ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動》
「ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動」
《『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り》
「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り」
真実の我が国の歴史は、はるか紀元前に国家をつくり、
のちに百済(ホセイ)という当て字をもったギリシャ文明の先端が、
ソナカの仏教文明と複合して築き上げた高度文明国家で、
その高さは古墳文化などが、出土品だけでなく様々のファクターで、
次々に実証し続けている。
その百済国は、移動とともに発音が変わり、
ホーライ⇒ホーレイ⇒ホゼイ⇒ボセイ⇒フジィ⇒ハツセイ⇒ハツセ⇒ハセ⇒オオスミ⇒
ウースン⇒ホヅミ⇒モズミ⇒マヅミ⇒マヅメ⇒マツラ⇒クダラ⇒モモダリ⇒パクチェ
などと変化した。
この建国期の史実も知らずに、
百済とはクダラと読むとしか知らない連中が、
それを半島の独立国、皇室とは無関係な外国だと信じて、
教えつづけてきたという無茶苦茶な国が、
私たちの現代日本だったのである。
しかしこの発音を写した穂積皇子や伯瀬部皇女の名乗りは
『萬葉集』にまで並んでいて、
皇室の由来が、
消えることなく伝えられ続けているのを、見ることができる。
その穂積皇子の歌は
「降る雪は 劇(あは)には降りそ 吉隠(よなばり)の 猪飼(いかい)の丘の寒からましに」
だ。
ヨナバリ=与那の巴利=ギリシャ人の都の名も見える。
柿本人麿の高市皇子への弔歌には、
「言(こと)さへぐ百済(ほづみ)の原ゆ 神葬(はふ)り」という一節がある。
神社や陵は、神=貴人を祭ってあるのであって、
伊弉諾神宮でも八幡宮でも、
架空の神話の空想の産物を迷信しているのではない。
《ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史》
「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史」
その大隅は地元発音でウースン。
この当て字の一つが「烏孫」。
彼等は前漢の武帝が即位した紀元前140年には
西域で月氏をバクトリヤに追い払っている。
これは大隅人が拡大して朝鮮半島を北上して
鴨緑江両岸に邑婁(ユウロ)や夫余をつくり、
殷代からの高族の国、高麗を支配下におさめて、
黒の国=玄武の国と名付けたことと、
烏は黒鳥だから「烏孫」と言う当て字は、
この地域にいる時に当て字された、という事実まで、
併せて立証しているのである。
彼等は、さらに北へ移動、
中国北部を迂回して西進して月氏の居住地を奪い取ったのだ。
その本国・大隅は新しい領土の都として栄え、
3世紀には7万戸ある大国・邪馬壱国の前身になった。
こうみてくるとその時期と、五彩圏の誕生がぴったり重なり、
そこにつけられた多くの国名が
ギリシャの五彩圏や神名群に一致するのだから、
この勝者がギリシャ人だったことは疑う余地がない。
では彼等はどこから大隅へやってきたか?。
それは与那国島がイオニヤを語源にもち、
台湾がホーライというギリシャの女神名をもち、
そこに一見して欧州人の子孫だとわかるアミ人が今も居住し、
アトモと呼ぶギリシャ式双耳土器を
現代まで焼き続けている人々もいる。
また、ポセイドン、アンピトリテ、アフロヂテなどといった
多数のギリシャ海神名が、百済、奄美、淡路島という国名に一致している。
《ギリシャ人を立証する信仰の形=葡萄唐草文様》
「ギリシャ人を立証する信仰の形=葡萄唐草文様」
この葡萄唐草文様は、
ギリシャから中近東にかけて盛大だった
酒の神・ディオニュツソス信仰の産物である。
葡萄は酒の母体であり神の賜物であった。
それは健康と快楽と長寿繁栄をもたらす霊草だった。
それに配された馬は海神ボセイドンの象徴であり、
その実体は海馬=竜の落し子(タツノオトシゴ)で、
これはギリシャ海人たちが、守護神として頼る信仰の証しである。
この信仰が中国の技術と結合してこの鏡が生れた。
しかし職人が中国人のため霊物の姿も中国人の常識に置き換わった。
鳥獣などの表現が全てギリシャ文明そのままというわけではないが、
その最大のモチーフである葡萄唐草文は、
永くしっかりと守り続けられている。
ギリシャ生れのこの信仰が、
これで中国に入ったことが確認できたのである。
その時期が隋唐時代だというのは、
まさに大隅ギリシャ人の発展を裏書きしている。
大隅を都に発展し、
3世紀には7万戸の大都市国家を造った彼等は、
大隅から溢れ出てウースンと呼ばれながら北上し、
鮮卑(朝鮮の日人)と呼ばれながら中国を制圧して隋・唐政権をっくった。
そしてそんな鏡をつくるまでに繁栄した。
こうみてくると「たかが鏡」だなどとはいえない、
強力な証拠力をもった俸大な文化財であり、
それが記録しているギリシャ信仰や文明の、
動かし難い完璧な物的証拠として、
あらゆる反対を吹き飛ばす大きな役割を果したのである。
《ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々》
「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々」
その実態が、先にお話しした大隅(ウースン)(烏孫)あり、
『五彩圏連邦』そのものであり、
高句麗の周辺に生まれた邑婁・夫余といった国々であり、
それがさらに生んだ匈奴であり、鮮卑てあり、隋・唐政権でもあったのである。
それは時とともに姿を変えていったのだ。
それを朝鮮半島の王は
「百済と高句麗は、ともに扶余から出た」と証言している。
扶余は「扶養(ハヤ)の風=南風(ハヤ)」のハヤであり、ハヤ=海人=隼人、
すなわちギリシャ海軍の出身であり、隼人=大隅人だということなのだ。
その百済は出水とともに海神・ポセイドンが語源だった。
海神の名を選んでアンピトリテ?奄美、都井岬、取手。
ボントス→本都別→誉田別天皇。
アフロディテ→淡路島などという名を沢山のこしたのは、
ギリシャ人の海人たちだったと、
誰が考えてもすぐわかる言語文化財が大量に残っているので、
疑いの余地はない。
在来の東洋史などにみる「騎馬民族」といった分類は根本的に誤りで、
多様な故郷から溢れ出た人々が好き勝手な方向に移動して土着しては、
不意にやってくる敵や異常気象に襲われて放浪する生活の繰り返しで
分散集合してしまっただけの違いしかない。
「何民族」といった固有の「民族」など存在しない。
もちろん時代が進むと同時に外敵に対する防御法として民結して
「私有地=国」を主張するが、
それは純血とか民族とかを意味しない。
《すべての宗教はウバイドに遡る》
「すべての宗教はウバイドに遡る」
大学院講義録39ですでにご存じの通り、
歩き巫女はジプシーや、シベリアのシャーマンとも共通している。
シャーマンは沙門というれっきとした仏僧の一種だったが、
呪術師と化してしまった人々で、
青森の恐山のイタコや沖縄のユタ類似のものであり、
仏教と神道とがどういう関係にあるかを教えてくれるし、
その根を辿ればオリエントの信仰に遡り、
アレクサンドロスの母が奉じた宗教も、
アブラハムが承け継いだバビロンの信仰も、
アーリヤ人がインドに広めたバラモン教も、
それから派生した仏教も、
源流に遡れば一系になることに変わりはない。
また途中で逸れてしまったが
『記・紀』の神名にある鮮卑、東夷の首長の名は、
もともと中国北辺の住民が、
日本列島からの移住者だった、という事実の証拠になっている。
烏孫と書くウースンが大隅のことで、
宇迦之(ウカノ)山、宇迦之御魂と同名の烏丸(ウカン)は、
『魏書』に「烏丸・鮮卑.東夷」とトップに挙げられている大国だが、
我が国の明治以前の首都・京都の下京区四条には、
烏丸の文字はそのまま使い、
発音だけをカラスマと読み変えた地名が今なお残っている。
このウカは「大日」如来から来ており、
本土語のオカだから岡や遠賀のつく地名や姓の本体であり、
大日如来は我が国では
ビルシャナ仏(毘盧遮那仏=奈良の大仏も同じ)と呼ぶが、
ミヤンマーもビルマ=毘盧国を国名にしているのである。
言語復原史学会
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ウワイト(倭人):大学講義録
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《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
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