2012年4月4日水曜日

日本、百済、新羅、奄美など多数の国名や地名はギリシャ人がつけた




 《日本、百済、新羅、奄美など多数の国名や地名はギリシャ人がつけた
 「日本、百済、新羅、奄美など多数の国名や地名はギリシャ人がつけた

 《日本とソツクリ! 古代中東の名前
 「日本とソツクリ! 古代中東の名前

 こうした日本語以外の言葉との共通性は、

 一つ二つなら、いかにもコジツケ、語呂合わせに見えるものですが、

 それが大量に見つかる場合はそれは「真実」だという証拠なのです。

 しかし世界の古代史を知らないと、

 そうした言葉がたくさん一緒になって

 日本に入ってきた理由がわからないと思います。

 この本は「世界史」の本ではありませんから、

 簡単にお話しするしかありませんが、

 それでもよくおわかりになると思います。

 『聖書』で有名な「モーセのエクソダス=出(しゅつ)エジプト」より前の中近東史は、

 人類文明の曙として学校で学んだことと思いますが、

 紀元前20世紀ごろまでをみると、つぎのような国名が見つかります。

 キンザ、アルザワ、ミタンニ、マルハシ、ヤジリカヤ、アラシヤ、ハナ、アムール、スバル。

 これは漢字で、

 金座、有沢、三谷、丸橋、鏃(やじり)賀屋、嵐屋、花、天降、昂または須原、春原

 と書くことができ、いかにも日本の名だと思えるのです。

 ただアムールだけが少し変な気がしたかも知れません。

 しかし、

 これは私たちが今はもうよく知っている隼人町の、

 そのまた鹿児島神宮のそばへ霧島山から流れてくる川の名なのです。

 発音は少し違って「アムウイ川」と聞こえますが、

 文字にすると「天降川」。

 これは古代には北朝鮮を超えて、

 もっと北の地域に広がった人々の手で、

 そこにある巨大な大河に名づけられた名と同じです。

 その名は「アムール河」、中国名を黒竜江という大河です。

 日本で日田・飛騨・引田・八田などの名を生んだ

 ヒッタイト=日田人は一般にハティ人と呼ばれていますが、

 その王の名前も紀元前14世紀の王は「ムーワタリ」といいますが、

 鹿児島出身者には「馬渡=マワタリ」という姓があります。

 その帝国の中の小国の王には「マド・ワタ=窓・綿または渡」がいましたし、

 スサの王は「キタ」という名でした。

 カッシート人は、そのまま「香椎人(カシート)」ですし、

 その王称は「アグム」で、

 『記・紀』に出てくる天皇を指す言葉「吾君(あぎみ)」とよく似ています。

 古代ギリシャ人はこの人々を「コッサイオイ」と呼んでいましたが、

 この語尾の

 「オイ」は何々(なになに)人という「人」のことです。

 彼等は初期バビロンの東と東北部を支配し、

 暦の計算法を改善するなど高い文化を誇っていました。

 沖縄の波照間岳はハティマで、彼等の遺跡なのです。


 
 《「日本」が誕生したとき
 「「日本」が誕生したとき

 3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。

 その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。

 彼等は<エラム>出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。

 それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、

 彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、

 <アテナ>出身者は嘉手納(かてな)、

 <チラナ>出身者は知覧の名を残すというふうに、

 「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。

 その中でも最大のものが台湾で、

 「タイワン」というその名もギリシャ人が

 「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。

 その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。

 「<マレア>なる岬の沖を過ぎ、

  <ラコニア>の沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、

  やがて四面環海の土地、歓喜の<ヘリオス>(日の大神)の国・<タイナロン>にぞ、

  着きにけり……」と書いてあります。

 <ラコニア>は<六昆>で

 今のタイ国ですが古代には<ミャンマー>の<ヤンゴン>=ラングーン(六昆)までを

 含んでいました。

 マレアの岬はマレー半島。

 四面を海で取り囲まれた大きな土地は、

 その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。

 <ヘリオス>の妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、

 これが「音を音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに


 「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。


 最初の「日本」はタイナロン=台湾で、


 古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。


 これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、


 本来はこの<ヘリオス>と<ヘラ>のことで、


 そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。


 ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、


 「天照大神」様と呼ばれたために、


 後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。


 これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、


 後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。






 《ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音
 「ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音


 十字と同じく「四神」もまた四方を指し示す目印である。


 日本では京都の御所(ごしょ)の門と街路がその名で呼ばれでいたのでよく知られている。


 南の正面の門が朱雀門(すざくもん)で、


 それから真南へ九条にあった羅城門(らじようもん)までの大通りを朱雀大路(おおじ)といった。


 これは平安京のものが残ったのだが、平安京は中国の唐の都をそっくりまねたもので、


 その「朱雀」などの名もまる写しである。


 中国では始皇帝のころインド系の宗教が流行しはじめ、それ以前からあった道教と合体して仙人が主役になるが、


 仙人(リシ=ヒジリ)はインドのシバ(ヤマ)派の聖人のことである。


 のちの邪馬壹国の和人たちが信仰したシンドゥ教もこの一派で、


 中国の山東半島の「方士」だった徐福らとは、貝貿易で知らぬ仲ではなかった。


 しかし始皇帝は殷人の系統である商人を嫌い、ことごとに弾圧したので、


 和人が中国に顔を出すことはできず、宗教仲間の方士たちが代わって仕事をすすめてきた。


 その「方士」という名でもわかるとおり、彼らは天文、方位、気象に明るい学者集団だった。


 彼らは始皇帝に天地の神を祭らせ、道路整備をさせて、その知識を高く売りつけただけでなく、


 始皇帝の不死の夢をかきたてて「蓬莱」へ脱出することを計画し、ついに成功した。


 それは暴君始皇帝がやがて、学者仲間を皆殺しにすることを予知していたからである。




 四神というのは、このころに彼らが中国に広めたものだったのだ。


 この四神は現代の日本では、奈良の高松塚古墳が発掘されて、


 その壁画にあったことから一般に有名になり、


 次第にポピュラーになったが、


 それ以前は前漢からの青銅鏡背面中央のツマミの回りに、


 四方に描かれているものが、歴史関係者に知られていた程度である。


 この四神が描かれている銅鏡の「製造年代」を調べてみると、


 漢代以前のものはない。


 その大半は、もうご存じの五胡十六国時代、六朝ごろのものである。


 中国は漢人の勢力が衰えて、


 「胡」人が大量に中国に移住、群雄割拠して複数の王朝が乱立していた当時である。


 胡人は和人と同じシンドゥ教徒だったから、


 ビシュヌーを中国式に表現した東王父と西王母を聖なる守り神として、


 鏡に彫りつけて礼拝の対象にしていたのである。


 ビシュヌーが太陽神で東の象徴だったことを思い出していただきたい。


 西王母は『山海経』に、髪の毛を振り乱した怪物で、


 西の神山・崑崙(こんろん)にいると書いてあるが、


 鏡の絵をみるとそのとおりに描かれている。


 漢鏡の虎の絵はずいぶんちがうもので、むしろ人獅子のほうに近い。


 ビシュヌーの妻は「シュリ」という。


 この名が琉球の首都だった「首里」と同じ発音であることに注意がいる。


 沖縄には代々の統治者が、


 それぞれ自分たちの信仰する女神を祭った遺跡があって、


 それが地名として残っている。


 ギリシャ人は女神アテナを祭っていた。


 それが「阿手納(アテナ)」と書かれ、


 のちに「可手納(カテナ)」と発音されて、


 今では「嘉手納(カテナ)」になって残っている。


 同じことは阿直岐(アチキ)と可直岐(カチキ)・加治木(カチキ)の間にもみられる。




 《沖縄の国名の変遷による史実の証明
 「沖縄の国名の変遷による史実の証明


 日本列島に移動してきて日本人を構成した人たちが、どんな人々だったかを示し、


 記録しているものに、伝承されて今もよく知られている地名の呼び名がある。


 それは過去には単なる別名ぐらいにしか考えられていなかったが、


 こうして次々に真相が明かになると、それらは無意味な別名ではなくて、


 それぞれが私たち日本人にとって、ゆるがせにすることのできない重大な史実であり、


 いつ、そう呼ばれていたか、それはなぜだったかが明瞭に理解できるようになった。


 それは同時にこれまでお話ししてきた歴史が、すべて根拠のある真実の歴史だったことを、


 完璧に立証しているのである。


 1 <ウルマ>


 英国のウーリーの発掘で有名なメソポタミヤの大都市国家


 [ウル]国(マ)=最古の国名=第一王朝建設B.C.E.3000年頃。


 そのあとを継いだ第一バビロン王朝の滅亡(B.C.E.1750年頃)によって


 カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、


 沖縄についたのは殷時代(B.C.E.1500年頃)より前、


 それが更に中国本土に入って中国最古の王朝・夏を築いたが、


 殷人が侵入してきて商王朝を興し、夏王朝を倒した。


 皮肉なことに殷商帝国を強力にした殷の貝貨幣は、


 琉球列島に残って貝貨幣産業で栄えていたカリエン人が供給したものだった。


 殷人はインディアという名前への中国式当て字。


 その青銅器製作技術は、


 B.C.E.1500年頃に西アジアから伝来しているので


 カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、


 夏帝国が誕生した時期に一致している。


 この琉球カリエン人たちが国名を故郷と同じ〔ウルマ]とつけなかったなら、


 今の沖縄に「ウルマ」という古い国名は残るはずがない。


 また殷人の同族は、縄文時代後期には、


 すでに茨城県稲敷郡の福田貝塚に、


 殷人と同じ信仰をもっていたことの明かな、


 より原始的な宗教遺物を残していること、


 「稲敷」という名は「殷の儀式=祭り」を意味する発音をもっているから、


 殷人の聖地に当たり、


 それは単に殷人が知っていたというだけでなく、


 正確に2200km東西に大測量をして都の位置を決める起点にしている事実など、


 どこからみても殷人は日本列島に故郷をもつとみるのが妥当だから、


 日本列島から中国に移動した人たちだったことは動かない。


 2 <流求>


 この発音は、現地では「ルク」と発音されていた。


 これはドイツのルクセンプルクがギリシャ名の「ルキウス」に語源があるのと同じく、


 古代インド東アジア帝国のギリシャ人皇帝ルキウスの支配下にあるという意味の


 [ルキウス国]への、中国人による漢字の当て字であるとみると、


 アレクサンドロス大王の残したルキウスはB.C.E.2世紀の人。


 日本の弥生時代の始めに合う。また日本語に大量のギリシャ語が入っていること。


 『日本神話』のモチーフは100%『ギリシャ神話』と一致するので、


 ギリシャ人が私たちの先祖であることは全く疑問の余地がない。


 3 <ウチナ>
 
 [大秦=ウチナ]。


 徐福(徐市=どちらもジョフッ)が、


 秦の始皇帝の命令を受けて、童男童女、数千人を連れて


 山東半島から支那海へ航海に出た後、日本へ着いたという記録がある。


 紀元前200年頃。


 この秦は秦氏が実在し、天武天皇の名乗りが始皇帝の子孫を意味しているなど、
 
 多数の文化財を残しているのでこれも疑問の余地がない。


 詳細はそれぞれの専門項目でご覧戴きたい。




 《沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名
 「沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名


 だからそれは日本列島におけるギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。


 沖縄列島の最西端は日本の最西端である、そこを出発点として、


 日本列島の中に残っているそのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、


 フリップ化してたどってみよう。


 1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に


 2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが


 4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。


 5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島


 このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、すでによくご存じである。


 それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、


 彼女が<徐那伐>で即位したと記録しているが、これは<ヨナバル>という発音で、


 <与那原>を北九州語で発音したものに朝鮮語で当て字したものだからである。


 このことは他にも多くの証拠を残している。


 壹與が新羅の初代女王だということは神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、


 彼女らがパーリ語を話したこと。


 赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。などなど……。




 《[立神岩]の分布は何を復元するか?
 「[立神岩]の分布は何を復元するか?


 こう見てくると、


 与那国から出発したギリシャ人勢力が、イナと方言化して呼ばれながらも、


 山陰から岐阜県にまで達していたことが跡付けられた。


 しかしそのコースは四国~淡路島経由ではない。


 明らかに山陰経由である。


 これはギリシャ人の東漸といっても、それは単純ではなく、


 複数のグループがあったという証拠である。


 山陰経由のものは浦島伝承をもっているから明らかに位宮・垂仁系だが、


 淡路島の倭の五王系はそれを持たないグループだ。


 こちらは本当に与那国系なんだろうか?…。


 それに明確に答えるのが、右の写真である。


 これは沖縄の石垣市が作った


 『八重山の旅』という観光案内書に掲載された与那国島の


 「立神岩」の写真である。


 これは確かに九州を経て淡路島まで達している。


 「写真」与那国島の[立神岩]




 《建国史の解明になぜギリシャ神話知識が不可欠か?
 「建国史の解明になぜギリシャ神話知識が不可欠か?


 私たちは、熊本県の天草地方が、


 応神天皇系の地名を多く残していることを知っている。


 品陀真若や誉田別といった名乗りは、


 ギリシャの海神・ポントスを固有名にしたものであり、


 今、天草の首都の名として使われている「本渡(ほんど)」も、


 やはりその当て字の1つだからである。


 また出水からそこへ行くコースには、


 津奈木(つなぎ)、御所の浦、栖本(すもと)という地名が並んでいて、


 淡路島の津名と洲本に対応し、淡路島を基地にして近畿を制覇し、


 大和朝廷を樹立した倭の五王たちが、ポントス=応神天皇一族だったことを、


 徹底的に立証し尽くしているのだった。


 その淡路島(アフロジマ)という名もまた、


 海から生まれた美の女神・アフロディテに対する当て字で、


 ギリシャ神話の知識さえあれば、彼らの出身は迷わずにわかる。


 台湾のギリシャ人が


 沖縄⇒種子島⇒大隅⇒出水⇒天草⇒宇佐⇒四国⇒淡路島⇒紀伊⇒和泉⇒河内⇒大和と、


 拡大移動を続けて、ついに大和朝廷を確立した。


 これがわかると倭の五王の名乗りには、


 倭のあと1番目に、


 なぜ「百済」が来るのか始めて理解できる。


 それを朝鮮半島だけにあった独立国だと錯覚していては、


 この国名のナゾは絶対に解けない。


 5世紀の半島百済(パクチェ)は小植民地に過ぎず、


 7世紀の本国は大阪市の十三(じゅうそ)と中津にあった。


 登美(トミ)能那賀須(ナカヅ)泥毘古はその名乗りだ。


 これらを知らずに日本の古代史を語る資格があるか?、


 答は申し上げるまでもないと思う。




 《邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島
 「邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島




 ① ユウロ 邑婁(ユウロ) 


   ヨーロッパだけでなく、『魏書東夷条』には邑婁が明記されている。


   その位置は朝鮮半島の北端、高句麗の隣国で、冬でも裸でいるという。


   古代ギリシャの風俗画そのままの国民が、古代ギリシャ式に洞穴に住む。


 ② ゼウス 天照(ゼウ)ス 


   大神卑弥呼がソナカと結婚する前は、ゼウスを祭る神官で、


   この大神に仕えており、これはその神名に対する当て字だという結論になる。


 ③ アテナ 嘉手納


   沖縄の現在の大きな地域名・嘉手納は古代に


   アテナという地名に当てた当て字から変化したもの。


 ④ カドモス 門松


   海神ポセイドンの聖木・松は船の用材として尊とばれた。


   それを新年の象徴として門に飾りカドマツと呼ぶのは、


   フェニキヤ系ギリシャ人の英雄・カドモスのテーバイ王国建国と


   繁栄の幸運を子々孫々まで忘れず、自分たちもまたそれに、


   あやかりたいという祈りの表現。


 ⑤ テーベ 千葉


   テーバイは原名・テーベに「ai]という国称語尾をつけたものである


   沖縄発音は「e」を「i」に発音するから、テーベはチバになる。


 ⑥ アフロディテ


   淡路島は。


   淡=アフ、路=ロ、島=ジ国(マ)で、アフロジ津国への当て字。


 言語復原史学会
 言語復原史学会


 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
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 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
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 古代史つれづれ


 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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