2012年4月6日金曜日

ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動(2)



 《ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動
 「ポセイドン→百済=大隅→ウースン=鳥孫人の北上・大移動


 《金髪の卑弥呼は大隅(鳥孫=ウースン)人
 「金髪の卑弥呼は大隅(鳥孫=ウースン)人

 この「カイ」を「ケ」と発音する言語は、

 鹿児島独特のものなのであろうか?

 実はそれは中国南部の言葉の一つ、呉の発音なのである。

 あなたは仏教の用語が、

 私たちが普通に使う発音とずいぶん違っていることに

 お気づきになっていらっしやると思う。

 「カイ」の発音をもつ例を挙げてみると、

 「快楽」は普通なら「カイラク」と読むが、

 仏門では「ケラク」または「ケナク」と読むのである。

 カイがケに変わっていて

 鹿児島語と同じであることがおわかりになったと思う。

 これは一体、なぜなのだろう?

 鹿児島の人の姓の中には中国の地名をそのまま名乗っている人がいる。

 「江夏」は鹿児島ではエナツではなく「コウカ」と中国式に発音する。

 また文字は中国のままで、発音を日本式に変えたものもある。

 「汾陽=フンヨウ」は中国山西省にある地名だが、

 これは「カワナミ」と読むように変えてある。

 「穎川=エイセン」もやはり中国の地名だが、

 これも「エガワ」と読む。

 いちいち挙げているわけにいかなが、少なくとも25以上ある。

 これは不思議でもなんでもない。

 鹿児島県の東半分は「大隅」であることは常識だが、

 これは現地の発音では「ウースン」である。

 中国で「ウースン」というのは、

 上海の隣りにある揚子江に面した港「呉淑(ウースン)」だが、

 これも当て字で、

 本来は「呉孫(ウースン)」すなわち『三国志』の呉の皇帝・孫権(スンキン)

 一族からきた地名で、そのウースンは、

 彼らの集団が元は揚子江(ヨウスコウ)を下だってきた

 「烏孫(ウソン=ウースン人)」だという「名乗り」からきている。

 この烏孫人はギリシャ系の地中海人で、金髪の人も混じっていた。

 私が卑弥呼は金髪だったと突きとめたのは、

 こうした人々の歴史を

 バビロン、シュメル時代まで遡って明らかにしたからである。

 また大隈はソ=襲の国で、

 呉もまたソ=蘇州と呼ばれることも証拠の一つである。


 《天智天皇と天武天皇は敵対する別部族の王
 「天智天皇と天武天皇は敵対する別部族の王

 弟のはずの天武天皇が兄のはずの天智天皇より、

 4つ年上だったということは、

 学者仲間の常識であるが、

 天智天皇と天武天皇とが兄弟ではない、

 というもう一つの大きな証拠は、

 その王称である「天皇」というのが天武天皇の方の王称だったのに対して、

 天智天皇の方は別の王称を使う人々だったこともあげていい。

 それは彼がまぎれもなく新羅王・金春秋だったからすぐわかる。

 新羅では後世は単に「王」と呼んでいるが、

 もともと「歯叱今」と呼んでいた。

 『三国史記』はこの名詞を

 「歯は朝鮮語でイと発音する」と解説をつけている。

 それをもとに、この発音を復元してみると、

 「叱=シ」「今=コン」だから「イシコン」になる。

 これは初代王・赫居世が「居西干=イセカン」という称号をもっているが、

 それは「伊勢神」に表する。

 彼女は確かに伊勢の外宮に祭られている伊勢神である。

 イセとイシの発音差は標準語と沖縄語との違いである。

 するとイシは沖縄語なのだから、

 「今」の字を「コン」と発音することはない。

 これは「キン」であって、

 「イシキン」と読まれていたとしなければならない。

 これで、この称号がもともと何という称号だったかがわかる。

 それは初代新羅王の赫居世が、

 卑弥呼の宗女・壹與だったことが完全に確認されているからである。

 彼女が金髪のギリシャ系の女性で、

 卑弥呼と同じ烏孫人の子孫であったことは、

 これもすでにこのシリーズで考証ずみである。

 その第一の証拠が彼女らの政権があった母国「大隅」という地名が、

 南九州語の発音で「ウースン」であることがなによりの証拠だと先にもお話しした。

 それがなぜ、どういう経路で沖縄から鹿児島にかけて住んでいたかも、

 すでにすべて明らかになった。


 《天皇陵関連の参考事項
 「天皇陵関連の参考事項

 倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国

 ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から

 台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)

 奄美では国名は…ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。

 これが「大国主」の名の始まりで、

 7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、大化までは継続した。

 しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。

 さらに大分県宇佐に移動。

 『宋書』の倭国伝に記録された倭王・武の視点はこの宇佐にある。

 その後、さらに四国愛媛に移動、次第に讃岐・阿波へと拡大した。

 これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。

 当時倭の五王時代の始まった4世紀で、

 さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。

 大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、

 これは沖縄語の「キノ国」のこと。

 この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、

 これ大と紀州を取ったことを意味している。

 天皇名は去来穂別=履中天皇。

 去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。

 二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。

 和泉の王が済(イスミ)。

 河内(コウチ)の王が「興」。

 武(タケシ)にいたって

 ヤット奈良県に入って高市(タケチ)国を始めた。

 これが神武奈良東征の原型になる。

 その神武(カム・タケシ)という当て字は、この倭王・武を指している。

 だが、『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が混入している。

 その神武東征の内容は、

 3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが最大のウェイトを占めているし、

 さらに遡って、

 紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。

 これが神武紀元を紀元前660年に決めさせた原因である。

 日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。

 基礎に一か所、駄目なところがあれば、全てが崩壊してしまう。

 これは何も歴史研究だけが特別なのではない。

 それは現実が教える。

 近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。

 それは建築の進歩による。

 同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、それを立証している。

 人生も、研究もすべて同じことなのだ。

 キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、自分の未来も、

 ずっと以前から明瞭に見えているものである。

 よく考えることをしないで「幸福を神に祈っても駄目」である。

 なぜなら「神」は実在し、「霊」も長く死なずに生き続けている。

 それはDNAの中にいるのである。

 「よく考え、瞑想して」その神や霊と話さなければ、神も霊も教えようがない。

 他のことに夢中になっていては悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。

 (1994.10.30 レジメ)


 《「倭は呉と同族」とみていた梯儁
 「「倭は呉と同族」とみていた梯儁

 以上の数例はすべて、

 中国の仏教が呉音をもたらしたのではなく、

 逆にこちらから観音信仰を伝えたことを証言しているし、

 梯儁自身が「仏教」を知らずに「鬼道」と呼んでいることと併せて、

 呉音は仏教とは無関係に伝わったもの、

 それはむしろ卑弥呼らと同族である呉の孫権らの

 「呉孫=ウースン=烏孫=大隈」人が、

 卑弥呼以前から日本列島へも移住して伝えたものと訂正しないと、

 これに関連する問題は至るところで食違い行き詰まる。

 この呉人の移住が事実だったこともまた『魏書倭人章』が補足立証している。

  「夏后少康之子 封於 會稽 断髪 文身 以避 蚊竜之害 今 倭水人
 
   好 沈没 捕 魚蛤 文身 亦以 獣 大魚水禽……」

   (中国最古の「夏」王朝中興の王・少康の王子が會稽=呉の領主になったとき、

   その土地の風俗に従って頭髪を短く切り、身体に入れ墨をした。

   いま倭人の漁師を見ると、好んで潜水して魚や貝をとるが、

   やはり入れ墨をしている。

   これは會稽王が入れ墨をしたのと同じ習俗で、

   サメや漁を邪魔する海鳥などを威嚇するためだ)

 と書いて、

 こんなに呉人と倭人に共通点が多いのは、

 私(加治木義博)の考えでは

 「倭人は呉人と同族だろうと思う」という事を言外に匂わせている。


 《同族だった沖縄と呉(ゴ)の残した遺物
 「同族だった沖縄と呉(ゴ)の残した遺物

 また漢訳や沖縄の対岸、呉で始まっていることも軽視できない。

 なぜなら過去に日本史学者が

 「世界・字宙」などと解説して来た前記の「六合」は、

 その呉の一部が「六合県」として、今もなお古代の史実を伝えているし、

 「六合=リクアウ=陸奥=リクウ=琉球」という

 日本語が生み出した地名があることも

 解析ずみである。

 また卑弥呼と同時代の呉の皇帝・孫権とその父が

 ウースン系のギリシャ人の子孫であり、

 呉孫権(ウースキン)、呉孫竪(ウースキン)は

 どちらもウースン公(きん)という名乗りへの

 九州語読みの当て字であり、大隅も奥州も奥村も宇佐もまた、

 このウースンへの当て字であることはすでによくご存じで、

 当時の沖縄と呉との間に、国境や国籍を考えるのは間違っているからでもある。

 視点を変えても、

 卑弥呼は魏への遣使に「上表(てがみ)」を持たせてやったから、

 魏帝も彼女らの「好物」が鏡だと知ったのだし、

 読めることがわかったから難しい漢文の詔書を長々と書いて寄越したのだし、

 それに対するお礼をまた倭王・卑弥呼が即座に

 「因使上表 答謝詔恩」したと明記している。

 また、卑弥呼や邪馬壹国というのは、

 中国人が我が国を軽蔑して卑しい「卑・邪」といった文字を、

 わざわざ選んで使ったのだといい、それが一般に信じられているが、

 それらの文字も皆、卑弥呼自身が使っていた文字だとはっきりわかっている。


 《ギリシャ人はどこから来たか?
 「ギリシャ人はどこから来たか?

 ここで私たちは、

 もう一つ重要な「証拠」を手に入れていることを見落としてはならない。

 それは魏の発音なら「イエッ」である「壹」を、

 当時の倭人たちはその魏音通りに発音せず「イチ」と発音して、

 壹国を「イチマ=伊支馬」と発音している事実である。

 この「イチ」は、

 中国北方の漢魏音に対立していた南方音の呉音(ゴおん)なのである。

 これは魏の強敵、呉の国の言葉だから、

 張政が呉音を知っていたら気を悪くするぐらいでは済まない。

 だが幸いに、彼はそれに気づかず単なる官名として、

 固有名詞扱いされてすんだ。

 その報告を読んだ魏政府の役人もまた気づかずに、

 そのまま現代まで変更されることなく残った。

 そのお陰で私たちは、

 位宮や壹與たちが呉を経由して沖縄地方に移住してきた

 ギリシャ系ウースン人の子孫だったことに確信がもてたのである。

 それは大隅から奥州に至る我が国の多くの古い地名や姓が、

 そのウースンを意味している事実を知っているだけでなく、

 幼い天照大神の『光華明彩』が、照り徹(とお)したと

 「記・紀」が書く「六合」までもが、

 呉の時代の名残を今に残す県名として実在する事実を知っている。

 六合は現在でも我が国に地名・姓として現存しているが、

 その発音は多く「くに」である。

 「くに」は母国・故郷のこと。

 忘れ難い故郷は呉の六合だと今も歌い続けているのである。


 《大隅と出水に進出した百済人(ポセイドン)のその後
 「大隅と出水に進出した百済人(ポセイドン)のその後

 その南九州人が、

 種子島のナガタニ=長谷一帯(南種子町長谷(はせ)ン野)に移住したことも、

 チョウコクという漢字を「ハセ」と読むことでわかる。

 「百済」を「ハツセ」と読むのは、これも南九州人の癖だからである。

 そこで勢力を蓄えて、次に移住した土地もわかっている。

 それもご存知の通り「百済」もオオスミと読めるから大隅なのである。

 この移住には「サカ⇒サタ」という大移住の標識地名が、

 今なお現存していることもまた、よくご存知である。

 その時もう一波の移住者が鹿児島県の出水地方へ移った。

 彼らも大隅人と同じく沖縄訛りを話したが、

 百済は大隅という新しい当て字に変わったことから、

 ウースンと呼ばれるようになったので、

 出水への移住者は、それと区別するために、

 ポセイドンの後半を国名にしてイヅンと発音するので「出海(イズウン)」、

 のちに「出水」という当て字を使った。

 ヅはドの沖縄訛りだから、彼らの方が大隅人以上に、

 沖縄訛りが強く残っていた人々だったことがわかる。

 出水から北へ一山(ひとやま)越せば熊本県の球磨(くま)地方である。

 ここから大隅の曽(ソ)於郡地方までを一括した地域名が「熊襲」であることは、

 古来よく知られた事実である。

 その熊襲は「肥・日」をクマと読み、

 ソに「素」の字を使った当て字によって

 クマモトと呼ばれるようになった。

 またモトに「本」の字を使うと「熊本」だから、

 次の発展地がどこか簡単にわかる。

 言語復原史学会
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 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
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 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
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 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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