2011年5月4日水曜日

イソップから生まれた日本の地名

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「余りにもよく似たイソップという地名」
「古代にタイムスリップさせる発見につぐ発見」
「倭の五王の上表は中国への威嚇でもあった」
「1200年前に勝敗が決まっていた邪馬台論争」
「天孫降臨も神武東征も嘘にする大阪湾・国生み説」
「淡路はヤマトと共に大移動した」
「出発点サカと到着点サタ」
「丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?」
「畿内説を完全に否定する播磨と高砂」
「中国地方を進んだ日本、四国を進んだ倭」
「サカとサタの分布とイソップの変種」


「余りにもよく似たイソップという地名」

人は故郷を懐かしみ、誇りに思うから移住先に故郷の名をつける。

だからこそ、こうした地名は、種子島を中心にして、九州にあった旁国などの、どの地域の人々が移住に参加して丹波国を造り上げたか、明瞭に話してくれるのだということがおわかり戴けたと思う。

ところが、この丹波の地名には、もっと遠くから来た人びとがいたという事実を証言しているものが3か所にある。

丹波国氷上郡の「石生(いそふ)」と但馬国七美(しとみ)郡の「射添(いそふ)」は、両方とも同じ「伊曽布(いそふ)」という読み仮名がつけてある。

これでいくと但馬国朝来(あさこ)郡の磯部もイソベと仮名は振ってあるが、部(ぶ)の清音は「フ」だから、他の2つよりも「イソフ」によく合う。

これは何から来た名前だろうか?。

1593年(文禄2年)に、天草のイエズス教会が出したローマ字書き日本語版の翻訳書は、『伊曽保物語』という名でかなりよく知られているが、それは『ESOPONO FABVLAS=イソポの物語』という表題への当て字である。

その内容はよくご存知の『イソップ物語』で、

イソップとは、esopus Αισωποσ …と書くB.C.E.6世紀のギリシャの寓話作家である。

伊曽保はESOPOのラテン系発音=イソポへの当て字で、イソップなら「伊曽布(いそふ)」のほうが正確である。

また例によって「まさか…?」という人もあると思うが、これは他人の空似なのだろうか?。

イソップ
イソップ
イソップ物語
イソップ物語
伊曽保物語
伊曽保物語

※出典:大学講義録27 7頁


「古代にタイムスリップさせる発見につぐ発見」

丹波にある3つの「イソフ」と、いう発音をもつ地名から、ずいぶん重大な問題の答が幾つも次々に見つかった。

それは1593年の『伊曽保物語』以後のものではない。

10世紀より前にその名が実在したことは間違いない。

もちろん全てが史実かどうか、完全に決定したわけではないが、学問として見逃してはいけないもの、を発見したことに変わりはない。

それらをさらに研究し、確実な成果を加えていけば、まるで私たちの先祖の時代にタイムスリップしたように全てが明快に見えて、当時をさらに正確に復元できるのである。

例えばイソップは英語の発音で、イソフも本当のラテン語ではない。

ところが英語は非常に多くの日本語との共通語をもった言語の1つだ。

だから古代に日本列島で話された言葉のうち、イソフを地名に選んだ人々のその訛りを研究すれば、それを持ち込んだ語り部の素性がわかる。

本務は研究書ではないから、基本技術がおわかり戴ければ次の着眼点とその解明法に進む。

今は主題に選んだ反正天皇に戻らなければいけない。

彼は確かにタジヒを名乗っていた。

だがこの丹波国の場合は反正天皇と直接むすぴつかない。

なぜなら彼のもう一つの名乗りが告げるものは丹波を経由していないからである。

その名乗りとは『記・紀』の書かないフルネーム、すなわち倭の五王の一人としての名乗りである。

それを分析してみよう。

※出典:大学講義録27 13頁


「倭の五王の上表は中国への威嚇でもあった」

その名乗りをみてみよう。

『宋書』では記事が簡略で意味不明の点もあるが、

初代の讃から5代の武まで一貫している名乗りは

「倭・百済・新羅・任那・(加羅)・秦韓・慕韓・六(七)国諸軍事・安東大将軍」である。

それらの国々に該当する地域をみると、

国名  出発点   経由地と      該当国   植民地(すでに半独立国化している)

百済  種子島   百舌鳥耳(モズミ)  穂積    韓国百済(確実に実在していた)

新羅  開聞(薩摩) 知覧(薩摩)     白日別   韓国新羅(確実に実在していた)

任那  三間(福岡) 三潴(みずま)(福岡) 水間    韓国任那(確実に実在していた)

加羅  姶良(カラ) 唐津(佐賀)           韓国加羅(確実に実在していた)

秦韓  大秦=沖縄 大阪茅沼      太秦(京都) 

慕韓  ボハーラ(インド) 防府(山口県=長州→高句麗・長寿王=敏達天皇の都)

安東  中国遼寧省安東(丹東(アントン))、鴨緑江河口。
旧高句麗領。
安東は対中国、倭国防衡の最前線だったから威嚇のため「七国諸軍事・安東大将軍」を
強調したのである。
今は「丹東」が公式名だが、その名にも種子島人の領地だった名残が強く残っている。

倭   これらを引っ括(くる)めた連合国家群全体と、済なら大阪府・田尻に都を置いた本国名。
※出典:大学講義録27 14頁


「1200年前に勝敗が決まっていた邪馬台論争」

私たちの知識の中にはオオヒルメについて、もう一つの情報がある。

『大隅正八幡縁起(えんぎ)』の大比留(ル)女である。

彼女はすでに、前後の事情や物証によって、壹與であることがはっきり立証されている。

だから『日本書紀』は、オオヒルメ=壹與だけを皇祖と認めて、卑弥呼=天照大御神は認めようとしていないのだ。

一方、『古事記』はその逆に、卑弥呼だけを皇祖として認め、壹與を認めようとはしていないのである。

これは、卑弥呼の倭国政権が、壹與の日本国(邪馬壹国)政権に倒された事実を何よりも明確に、双方の後継者が認め、主張し、明記して証明している国史上最高の「証拠」なのだ。

在来の邪馬台論争では卑弥呼は、「実在の邪馬壹(いち)国を誤解して生まれた蜃気楼(しんきろう)にすぎない邪馬臺(タイ)国」の女王だという珍説をはじめ、神武東征以後、ずっと日本国だけが継続していて、卑弥呼はその政権の第7代・孝霊天皇の皇女で、第10代・崇神天皇時代にも活躍した女性であるとして、

「全く卑弥呼の倭国政権と壹與の日本国(邪馬壹国)政権の対立にさえ

気付かない大和説や畿内説など」知性の存在を疑うほどの説まで、

ワンサとヒシメキあっているが、それらを判定する立場にある『日本書紀』と『古事記』は、

すでに1200年前にこうして明確に2国対立抗争の史実を明かして、自派の政権の根拠を強く主張していたのである。

大隅正八幡縁起
大隅正八幡縁起
※出典:大学講義録28 6頁


「天孫降臨も神武東征も嘘にする大阪湾・国生み説」

次は<卑弥呼>と<壹與>のどちらかが、本当に大坂湾生まれだったかどうか?…の問題である。

<伊弉諾尊>・<伊弉冉尊>2神が、天から降った。

というのは、そのままには受けとれないから、天の浮き橋は船であって、航海してはきたものの、先住民の抵抗が激しくて、小さな島以外には上陸できなかったからだとみれば、この記事は史実としては合理的に生きてくる。

しかし<伊弉諾>・<伊弉冉>2尊が大阪湾に建国したとすれば、その曽孫である「瓊瓊杵(ニニギ)の命の天孫降臨」は、なぜ必要だったのか?。

なぜ特記する必要があるのか?。

なぜまた大阪に比べて、はるかに辺鄙な日向などに降臨したのか?。

全然わからなくなる。

また、2神当時に、すでに皇祖が畿内に天降ったのなら、その子孫である神武天皇はなぜ?

その辺鄙な日向から出発して東征したのか?。

これも全然わからなくなる。

も少し念入りに考えると、先祖が建国し、確保していた土地に、なぜ、直系の子孫である神武天皇が、はるばる九州のはずれから出発して攻め込み、占領して新しい国とした上で、初代天皇として即位したというのか?。

橿原建国は何のためか、まるでわからなくなる。

その細部をみても、その占領地は神武天皇が、塩土の老爺に「東に美地あり」と教わって初めて知った土地であって、とても肉親の、近いご先祖が拓いた国だったとは思えない。

※出典:大学講義録28 7頁


「淡路はヤマトと共に大移動した」

そこで入念に細かく考えてみると、そこの地名は茅沼(チヌ)の海でチヌは天やウチナ=沖縄でもある。

伊弉諾・伊弉冉の二尊も伊是名(イゼナ)島に合う「沖縄名乗り」をもっている。

己凝(オノゴロ)島は後世人がつけた名だから、あとに残るのは淡路洲だけだ。

これは兵庫県の淡路島以外には侯補地はないのだろうか?。

淡路の万葉読みは「タンジ」。

前にみた丹児(ご)のタンジと同じものへの当て字であり、それは淡路(タンジ)→種子(タネジ)→丹児(タンジ)という当て字で表わせる地名だ。

それは南西諸島から次第に大型化しつつ北に東に分布して、決して兵庫県の淡路島だけが独占している固有地名ではない。

その移動は次ページの地図で一目瞭然だが、この地図では四国にだけ、このタンジがないように見える。

だが、それこそ淡=アワ=阿波=徳島であり、問題の淡路島だったのだ。

そこでは余りにも巨大化が激しく進んでいたために、サカ→サタという渡海点からは見落とすほど距離がありすぎたのだ。

卑弥呼時代には種子島にあって、壹與時代に大移動が始まった奴国(ノマ)=野間は、野の漢字音はヤだから、野(ヤ)間=ヤマで野間人はヤマト。

それは海(ハイ)人=ハイトと対立した山人=山幸で、山上(カミ)王とも書かれた位宮をも指すから、
彼の政権もヤマト=日本と呼ばれた。

この呼び方は『日本書紀』が冒頭の「創世紀」で、「日本は耶麻謄(ヤマト)と読め」と指示している。

※出典:大学講義録28 8頁


「出発点サカと到着点サタ」

《語源は》

塞(サカ)の神=猿田彦=岐(フナト)の神

塞(サヘ)の神=佐太 船渡(フナト)・船人(フナト)

塞(サイ)の神=佐太 船渡(フナワタ)・船人(フナト)

サカ     サタ  ワタツミ

釋迦族    = スキュタイ人

船岐・船木=フェニキヤ人

塞国=サカナ=魚=海神

魚(イオ)国=倭国(ウオマ)=イオニヤ人

倭・塞=オオサカ

ポセイドンの国大阪

百済・和泉 国

サカ   →   サタ   時代     人物

① 種子→日向    坂井       佐多岬  247年   壹與

② 豊後→伊予    佐賀関      佐田岬  421年以前 仁徳天皇

③ 和泉→河内    堺        佐太   469年   興

④ 丹波→出雲    嵯峨       佐太   475年以後 佐太(守口)の太守


《その他》  

① 讃岐→吉備    坂出       西大寺

② 肥前       佐賀  

③ 土佐       佐賀

※出典:大学講義録28 9~10頁


「丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?」

淡路島から但馬までが現在の兵庫県下にあること。

それは確かに、播磨(ハリマ)=巴利国(ハリマ)、だったことを示している。

そしてさらに上古には、丹波は兵庫県全域から京都府全域までを包含(ほうがん)していた。

それは当時の大和、現在の奈良県北部の10倍近い大きさをもつ超大国だったことを決して見落としてはならない。

だからこそ、その実力が、近畿を支配する政権を手に収めさせたことは、ごく当然だったとわかるが、それは卑弥呼時代ではなく、壹與時代でもなく、はるか後世になってからである。

『魏書倭人章』が記録した倭国連合が、仮に近畿圏だったとしても、卑弥呼が3世紀に奈良にいて、それを支配した可能性は全くない。

では丹波は、いっ?、

倭国(ウワイ)か日本国(ヤマト)か?、

どちらの勢力が占領したものなのであろうか?。

この謎の答は、次のようにすれば見つかる。

その丹波の西半分のそのまた南半分が、中古になると播磨になる。

その発音や前後の歴史から、播磨は巴利国の後身であることは疑いない。

だとすると、淡路はヤマトと一心同体だったはずなのに、ナゼ?、

その山人(ヤマト)とは敵の巴利人(ハイト)=海人(ハイト)の勢力圏にあるのだろう?。

と不審を抱かなくてはならない。

すると壹與は巴利国とは確かに戦ったが、卑弥呼政権を倒した後、巴利国を自分の国・邪馬壹国にしたから、それ以後はハリマが、当然、その日本国(ヤマト)の大移動に加わったのだとわかる。

※出典:大学講義録28 11頁


「畿内説を完全に否定する播磨と高砂」

このことは、これまで大問題だった邪馬壹国の所在地は「畿内ではない」と結論する最も重要な決(き)め手である。

なぜならそうした合体政権は、他にも多くの敵味方国連地名を共有している。

たとえば高砂(たかさご)の尉(じょう)と姥(うば)は、壹與がモデルである『竹取物語』に起源をもつ。

(加治木義博著『日本国誕生の秘密はすべて「おとぎ話」にあった』ご参照)。

この高砂も、播磨の中では重要な市(し)の名になっている。

高砂の老夫婦は、皇国をヒロインとする伝承の登場人物なのだから、高砂は卑弥呼女王国の首都だった巴利国とは、全然無関係な名である。

だから高砂が大きな地名として混入している播磨は、発音は卑弥呼の旁国・巴利国(ハリマ)と同じでも、卑弥呼の旁国ではなく、壹與以後の後世の移住先地名であって、時代も内容も巴利国(ハリマ)と一致しない。

だから播磨は壹與政権成立以前の卑弥呼時代には近畿にはなかった国で、邪馬壹国の誕生以後に生まれた移住先名だとはっきりしている。

当然、卑弥呼時代の巴利(パーリ)国では絶対にない。

卑弥呼の都で、その後、邪馬壹国になった人口が七万戸もあった巴利国に合う地名をもつ市町村は近畿にはない。

その巴利国は「近畿以外で同音の名をもつ土地」にあった。

それに合う土地は日本列島全域の中にも、鹿児島県の姶良郡隼人町プラス国分市にしかない。

これは「卑弥呼は播磨にも近畿にも絶対にいなかった」という、最強の、動かぬ証拠なのである。
竹取物語
竹取物語
※出典:大学講義録28 12頁


「中国地方を進んだ日本、四国を進んだ倭」

九州から近畿へ丹波と播磨を運んだのは、確かに日本(ヤマト)だった。

しかし今みた地図で見ると、そのうちの淡路島は四国を進んだ倭国と無関係だったとは思えない。
なぜなら反正天皇は倭の五王の一人、倭王・済だったことは疑いないから、彼は倭王・讃(仁徳天皇)が確保した阿波と讃岐から出発して、大阪府南部の田尻に進出している。

彼の前の倭王・珍も茅沼(チヌ)(大阪府泉南)・紀(キ)伊の(ノ)宮(キノ=チヌ=沖縄語、和歌山県)を確保している。

ということは、四国から大阪、和歌山への最短距離に並ぶ淡路島と紀淡海峡の島々は、徳島と和歌山と大阪とを結ぶ重要な三叉点にあるから、倭王たちの重要な領土だったはずだからである。

だから淡路島は、同じ兵庫県だといっても、丹波と同時の命名でないことは、その当て字の違いをみても明かだ。

丹児は日本の当て字、淡路は倭の当て字だと分類する必要がある。

では次は、そのコースを倭の五王の名乗りで見てみよう。

それは阿波から淡路島、そして和歌山・大阪の順に確保されている。

西から東へ移っていることは疑う余地がない。

これは淡路島とは、「阿波へ行く道の島」という意味の島名ではないことを証明している。

それは逆に大阪へ行く道の島だったのだから、大阪のオオは「淡(オオ)」で」そこへ行く道だから淡路島と名付けられたといったほうが、むしろ正確である。

しかしそれも間違っている。

※出典:大学講義録28 13頁


「サカとサタの分布とイソップの変種」

なぜ間違っているか?。

それは淡路島は近畿で始めて名付けられた地名ではなく、種子島・丹児・但馬と同じ語源をもつ国名の、新しい分布地だとわかっているからである。

それは「淡へ行く道」などという道案内用の名ではない。

倭や日本と同様に、新植民地を支配する権力者の母国名、すなわち出身地名で表示した新「領土名」だったのである。

方向を指示する地名のサカ→サタも、大阪府に入ると姿が変わってしまう。

サカはサカイ(堺)で、むしろ種子島へ戻っているが、サタは、はるかに北の守口市佐太以外にない。

さらに北上すると古代丹波だった京都こ嵯峨(サガ)があり、相楽(そうらく)郡がある。

この郡は古音サカラカ。

しかしサタは出雲までいかないとない。

島根県八束(やつか)郡鹿島町に佐陀本郷と佐陀宮内とがあり、ここは戦前は佐太村で、昔の国幣(こくへい)小社・佐太神社がある。

『出雲国風土記』島根郡加賀郷に「佐太大神のいます所」とあり、加賀の神埼(さき)の説明に小文字で注記して「佐太大神の産まれた処、その産まれたとき弓矢がなくなった。

枳佐加地売命(キサカジメのミコト)が祈ると水面に角(つの)で作った弓矢が浮き出た。

命がこれではないというと、今度は金の弓矢が流れ出てきた。

命はそれを取って「この窟(いわや)は暗い」といって岩窟を射抜いた……」

という話が書き添えてある。

これは先にお話ししたイソップの『金の斧』の変形だということが、すぐおわかりになったと思う。
出雲国風土記
出雲国風土記
※出典:大学講義録28 14頁


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