2011年5月11日水曜日

地中海の大半の島名が一定の原則で日本語で読める名をもっている

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
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「地名が物語る古代文明の波及」
「五彩圏連邦」の大移動
「3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人」
「「たった一字」のもつ真価」
「世界の先進文明をもった父祖の偉業史」
「倭人圏はギリシャ帝国と同じ四神配置の連邦」
「アカイヤ人がつくったミケーネ文化」


「地名が物語る古代文明の波及」

ほかにも同じような、私たちの先祖の手掛かりはないかとさがしてみると、

まだほかにもいろいろ見つかった。

たとえば同じ沖縄県の「波照間島」もその一つである。

この島の名は沖縄語や鹿児島語では「ハティマ」と発音する。

語尾のマは国を意味するものだということは、もうよくご存じのことである。

だからこれは「ハティ」というものを指している。

ハティというのは、アレッサンドロス時代の前後に、

やはり中近東で大活躍していた人たちの名である。

「ハティ人」は英語訛りでは「ヒッタイト」と発音する。

古代金属文化の先進国人として、世界史上でも有名な人たちである。

日本語の「ハチ=蜂」を考えてみると、この武器をもった連中と同じ性質をもっている。

どちらも「剣をもつ者」なのだ。

それだけではない。

麦を火で炒(い)って粉にひいて、お湯でこねて食べる、

この粉を大阪周辺では「ハッタイ粉」という。

ムギは、本来、地中海農耕文化の主食である。

このハッタイもハティ人に対する呼び名変化の中の一つと同じである。

それよりもさらに重要なのは、

この地域から出て朝鮮半島を治めたアカハチや中国の東北部から出て

後の中国・清(しん)帝国の祖になった金王ヌルハチがもっている「ハチ」という称号も、

このハティとつながりをもっていることである。

その古代ハティ語は、今シリア特有の象形文字として見つかっている。

ヨナ国島との関係は切っても切れないものがあるのだ。

その遺跡から見つかった印章には「ハットウシル三世大王」のものもあり、

その首都の名も「ハットウス」だった。

だから「八頭」という当て字があれば八俣の大蛇ともつながってくる。

また八田、波多、畑といった姓も、「果てる」「はて=涯」という言葉も、

やはりこれにつながっていると考えていい。

なぜなら波照間島もヨナ国島も、

その名のとおり日本の果てにある「果てる国(マ)」だからである。

またこの式でいけば九州北部にある「日田(ヒタ)」も「日田人」と書けば

「ヒッタイト」への当て字として使える。

さきにお話した、三種の神器の一つである精巧な古代の神剣は、

日本の鉄器時代の初めのものだけに、この人々のものであり、その象徴とみてもいい。

またその人たちは全部、船に乗ってそれらの島々へきた。

日本語の「フネ」という発音と、古代ギリシャとの関係は、

その海軍の主力だった「フェニキア」と切り離しては考えられない。

沖縄語ではその名は「フニチ国」になる。

これは本土語に直せば「フナキ」船木という姓に一致する。

またフニチ国を「船津国」と書けば、それが船の国という古語だと分かる。

こうみてくるとアレッサンドロス帝国の中にあった「カッパドキア」と、

日本の「カッパ」という名もまた無関係だとはいいきれなくなる。

ローマ法王をマグナ・カッパと呼ぶが、その頭は本当に「河童」のように丸く剃る。

怪物としての河童は架空のもので、ここでは議論する対象ではないが、

カソリックの儀礼や3世紀の卑弥呼の儀礼や、

その起源であるシンドゥ教の最高神シバと、

キリスト教の最高神のエホバが同じ神だということを考えれば、

これもまた学問上、無視することはできない。

日本語には「切れるか・切れないか」という言葉がある。

これと語呂合せのできるギリシャ語がある。

「キレナイカ」である。これは古代イタリア半島の国「キレニア」人をさす。

この名は今もラテン化してチレニア海や、アルバニアの首都・チラナなどとして残っている。

そして鹿児島にも「喜入」や「知覧」として残っているのである。

※出典: HIMIKO 182~184頁


「「五彩圏連邦」の大移動」


その卑弥呼系の倭人連邦は、

中心に黄、東に青、西に白、南に赤、北に黒の五色をもつ

鳥獣をトーテムとする後世の「四神」の原型を、統治の単位にしていました。

そのままの地名がセットになって

今も南九州から四国、中国地方、近畿へかけてかなり残っていますので、

加治木義博はそれらを「五彩圏連邦」と名づけて研究を重ねてきました。

それは本来、ギリシャを中心にして生まれた統治形態であり、

その当時の地中海文明の遺跡のある地域は

現在も東に「青=オマーン」、

西に「白=シラクサ」、

南に「赤=アカイヤ」、

北に「黒=クロアチア」という国や地域が実在しています。

この名がみんな日本語の色の名と同じであることに、よく心をとめてご注目ください。

これと同じものが日本にもみられます。

一例は

東に青=オオワ(大和)、

西に白=シラギ(新羅)、

南に赤=アケイ(安芸=高知)、

北に黒=クリ(高麗・句麗)という国や地域が実在していることです。

卑弥呼のころに、こうした言語や統治方法だけが伝わるということはありませんから、

当時の統治者がギリシャから来た人々だったことは疑うことができないことになるのです。

このことも卑弥呼たち天照大神がギリシャ系の白人で金髪だったことの強力な

証拠の一つといえますし、

シロ・シラという発音の「新羅」人が、その人々の国をさす名であることも、

すぐおわかりになると思います。


<地図:九州五彩圏>
カラ=黒


平戸─── 基肄 ─── 大分
ヒラ=シラ=白  キイ=黄   オオ=青

明宮
            アカイ=赤
大島

オオ=淡

アワ

阿和=アカ




壹與はその新羅の始祖王で「赫居世」と書かれますが、

カグヤ姫も漢字では「赫夜姫」と書きます。

「夜=ヤ=ィョ=居世」で、少しの発音差しかありません。

こうしたことを記録している

『記・紀』も『三国史記』も真実の記録をたくさんもっている貴重な史料だということが、

これでよくおわかりいただけたと思います。

ここに挙げた新羅が朝鮮半島に移動したのは、

壹與が死んだあとだいぶ経ってから、4世紀のことです。

とうぜん壹與の時代には新羅はまだ九州の中にありました。

「五彩圏連邦」は拡大しながら西から東へ移動して、

5世紀半ばの「倭王・興」、の名乗りが「河内」を意味するので、

そのときやっと東の端が近畿にとどいたという記録になっています。

卑弥呼の3世紀には、

まだ出発点である沖縄からあまり遠くない九州地域に都していたことは考えるまでもありません。

卑弥呼の都を語るのなら、こうした基礎的な知識からまず先に身につける必要があります。

江戸時代初期の素人説から一歩も出ない頭では、

とても知性の高い読者を納得させられるような正しい報道はできないと思います。

話が少し固くなって肩が凝ったのではないでしょうか。

それをほぐすために、ちょっとヘタな(?)詩をつけ加えさせていただきます。

これは使いようでは記憶を呼びさますメモリーがわりに、

また、あなたを遠い昔のロマンと夢の世界へ、お誘いするよすがにもなればと思っています。

※出典:日本国誕生の秘密  60~62頁


「3世紀に北朝鮮にいたヨーロッパ人」

『魏志東夷伝』には、高句麗に隣りあって挹婁(ユーロー)という国が記録されています。

この挹婁はこれも不思議にお思いでしょうがギリシャ人の国だったのです。

3世紀の北朝鮮や日本にギリシャ人がいたとは信じられない方のために、

「高句麗よりさらに東北にあって大海(日本海)に面した国・挹婁=ユーロー」をご紹介しましょう。

それにはこんなことが書いてあります。

そこは今の北朝鮮からロシア沿海州にかけての地域で厳寒の地なのに、

住民は「裸で、冬はイノシシの脂を体に塗って、毛皮を着る」というのです。

中国や朝鮮半島の国とまるで風俗習慣が違っていたのです。

一体、その人々はどこからやってきたのでしょう?。

それは国名でわかるとおり「ユーローピアン」だったとすると、

素っ裸で暮らしていた風習は、

ギリシャから大量に出土する赤絵土器などに、

描かれた風俗画で普通に目にする古代ギリシャ人独特のスタイルだということになります。

こう考えると、その裸風俗ももはやそれほどには奇妙には思われません。

しかし当時「ユーローパ」と呼ばれた地域は、

今のヨーロッパではなくて、もっと限定された狭い地域のことでした。

それは地中海東岸にあったフェニキアから見て、

西にあたる海の彼方の国のことだったのです。

そのことはギリシャ神話の中の次のお話でよく分かります。

※出典:日本国誕生の秘密  129頁


「「たった一字」のもつ真価」

「アミ」と「ウワイ」が本来は同じものだったことを示唆している。

こうした発見に次ぐ発見がなければ、こんなにスラスラ「鬼道」の正体も、

倭国が仏教国だということも、

卑弥呼がなぜ?女王でなければならなかったか?という謎の答えも、

さらには7世紀にその政権が大阪に移動して「倭国連邦」として存続しており、

歴代の女帝が「大化大戦」以後も孝謙~称徳女帝まで続いた、というような、

建国史上最高に重要な歴代を貫く重層をなした謎も、

また卑弥呼=天照大神が金髪で、ギリシャ系だった、

それはひいては

古代日本文化がギリシャ=地中海文明だったという人類史上希にみる巨大な真相も、

なぜ奈良に大仏をつくつたか?といった小さな謎も、

ことごとく、この「ウワイ」という発音がもとになって解けたのだということを、

もう一度、念入りにお考えになってみて戴きたい。

そのウワイは誰でも知っていたつもりの

『魏書倭人章』の最も最初に眼に飛びこんでくる、

「倭」という「たった一字」の漢字だ。

ところがこの一字の発音解明をおろそかにしたばかりに、

どれだけの学者や作家が、見るも無残な敗北を味わったか!?…お考えになって、

そんな愚かな真似は絶対にしないと、胸に固く刻みこんで、

この特別講座をただ記憶するだけでなく、あなたご自身のもの同様になるまで、

高度にご勉強になって戴きたい。

※出典:大学講義録01 21頁


「世界の先進文明をもった父祖の偉業史」


古代ギリシャと倭国連邦との関係、

その構成国、

さらにそれらと切っても切れない『四神』の真相が、

簡単な略文ながら、的確にご理解戴けたと思う。

ついでにお話しすると、虎の「トラ」という発音も、

古代大ギリシャ帝国の中の1国の、

トラキヤ=虎王国(トラキヤ)からきている。

これはもうよくご存じの通り、

コルシカ=黒鹿(コルシカ)島や、

その南のサルジニヤ=猿人国(サルジニヤ)、

シシリヤ=獅子人国(シシリヤ)(今のシチリア)、

イオニヤ=魚人国(イオニヤ)諸島らと

同じケースであって、一つ二つだけが偶然似ているといった単純なものではない。

これ程の量の証拠群の価値が判定できないとしたら、

それは気の毒ながら脳に欠陥があるのである。

この例では「人」をいろいろに発音してあるが、

ジは「日本人」のジン、

ニは「他人」のニンで、私たちが日常使う発音であり、

リは「日本人(リーペンリ)」のりで、

今の北京(ぺキン)語=古代の夫余(=倭・高句麗・百済と同族)語である。

このことから、こうした発音の違い「方言差」の原因は、

地中海の方言差にあったことも、これでよくわかる。

世界の比較言語学も古い殻を脱ぎ捨てて、

21世紀にふさわしいものに羽化する必要があるのである。

このリストで、

もう一つ重要な問題は、

卑弥呼一族の遠い故郷「アカルナニア」と、

その間接的な後継者・応神天皇の皇居名「アカイヤ」の違いである。

これは同じギリシャ出身者でも出身地の違いが、

こうした違いになって現われたとみる人もあると思うが、

今見た通り日本語との共通名が非常に多いのだから、

古代ギリシャ語は日本語で理解できるはずであり、

アカルナニアとアカイヤとはほとんど同じ意味をもつ国名だったと考えると、

この2国名はもとは同じ名前で同族だったが、

2国に分かれたために、

意識して区別したのか、

地域差等によって、

少し変形したのだと見たほうが合理的で、

それだと卑弥呼と応神の双方が、

明り、赤い、大神、内、宇治など、

多数の表現や名詞を共有している理由も納得が行くが、

これを全く別の、縁もゆかりもない2国名だったとすると、

このリストの一連の名詞は、

全て偶然にも、奇跡的に、

うまく相似した神秘な名詞だという、

奇妙な説明が必要になる。

だから私はこの2国は同族で、

むしろ「アカルナニア」へ「明の宮(アカルナニヤ)」と

当て字したものだと理解している。

それは前にお話しした「ニワトリ」を「ミヤドリ」と発音する沖縄語だと、

「ニヤ」が「ミヤ」になる可能性があるからだが、

ご参考までにお話しして断定せずにおく。

ウジンミヤ=オリンピアは、

大学講義録24の12頁からぢ額講義録25の28頁の間で詳しくお話し済みで、

省略させて戴くが、

『記・紀』神話を根幹にした神社神道の根底には、

ギリシャ神話があることを、

さらによくご確認戴きたいし、

我が国の建国史(高度政権国家成立史)は、

私たちに生命を与えた祖先、

地中海からインド亜大陸に至る世界の先進文明をもった父祖が、

この列島に到着して苦闘して築いた国文化の努力の歴史だという事実を、

強くご認識戴きたい。

※出典:大学講義録31 35~36頁


「倭人圏はギリシャ帝国と同じ四神配置の連邦」

卑弥呼が生まれたときにつけられた名は、絶対に大日霎貴ではなかったことが、確認できた。

もう間違いを犯す危険はない。

それと同時に、古文献は貴重な史料ではあるが頭からウ飲みに丸々信用はできない。

こんなふうに徹底的に確かめてから、確実なデータだけしか使えないのだ、

ということもわかった。

それにもまして、動かなくなったのは彼女たちの血族が、

やはりギリシャ出身だという確証がえられたことである。

これまでも繰り返しお話してきたが、

アカイヤはギリシャの最南端、地中海に面した暖国で、

まさに九州における鹿児島県の位置にある。

さらにいえば北端にクロアチアのある現在のギリシャ周辺の

『四神』式国家配置と、

高句麗を北端とする当時の倭人圏とは、さらに完全な一致を見せているのである。

(北)  
       クロアチア

(西)シラクサ←ギリシャ→アイオリヤ(東)

         アカイヤ
(南)

※出典:大学院講義録 03 35~20頁


「ギリシャ系海人の楽園・淡路と紀州」

当時の淡路島は、そうした先進文化の集中地域だった。

それは日本列島の中央を占めて、しかも四方を海に囲まれた島で、

冬は地中海気候に似て暖かく、夏は海に囲まれて涼しい。

地中海地方出身の人々にとっては、故郷を思わせる素晴らしい島だった。

それだけでなく、これまで見た例の日本語化したギリシャの神々は、

全て海神の一族ばかりだから命名者たちは海人族だったことがわかる。

四方を囲む海は彼らにとって快適な交通路であり、外部の敵から身を守ってくれ、

海外からの富を与えてくれる神そのものであった。

彼らは日本列島の中央に列島中で最適の島を見つけ、そこで栄えて、

さらに実力を蓄えていったのである。

その珍の名乗りに合う初期の進出先・紀伊を見ると、

田辺市には芳養(ハヤ)という地域がある。

海を見下ろす浜辺にあるが港は別にある。

これは隼人の町で、巴利からきた海人族の有力者の居住跡と考えていい。

田辺市は南方熊楠氏の住んだ所としても知られているが、同氏の写真を見ると。

南九州に多い日本人離れしたギリシャ型の容貌をしておられる。

その博学もまたアリストテレスを思わせる頭脳の働きを見る。

海人族は海上を自在に移動して国境には制限されない。

珍の進出以前に列島の海岸沿いに広く土着していた。

神武東征が南紀に方向転換したというのもそのためだ。

そして珍と済は和歌山に済の遺跡・隅田(スダ)八幡を残した。

※出典:大学院講義録06 31頁


「アカイヤ人がつくったミケーネ文化」

ついでにお話ししておくと、テーベはもう1つある。

エジプトのナイル川の中流に栄えたエジプト中王国時代の首都である。

アモン信仰の聖都だったからルクソールやカルナークといった有名な神殿群や、

ハトシェプスト女王を祀る神殿や多数の墳墓群があるので周知の所である。

この2つのテーベは、どちらもThebesと書かれて全くの同名である。

地中海が隔(へだ)てているといっても航海者には大した距離ではない。

2つのテーベは我が国の巴利国→播磨や、台湾の大和¢奈良の大和のように、

国境を越えた人の移動を物語っているのである。

すると我が国の古代文化にエジプトの影響が見られても、

これまた何も不思議ではなくなる。

それだけではない。

インドのアソカ王の仏教宣布団はソナカたちと同時に出発して、

ギリシャ本土やアレクサンドリヤに行っている。

それが紀元前3世紀の現実なのである。

唐代のシルクロードしか頭に無い学者が唱える狭い視野の古代史が、

どんなに現実離れしているか、いまさら非難する気もしない。

それよりミケーネ文化について、も少しお話ししておこう。

アカイヤ人はB.C.E2000年頃から南下して

ミケーネ、ティリュンス、オルコメノス、ピエロスなどの

小王国群を建て1
500年頃に最盛期を迎えていたクレタ勢力を一掃して 

エーゲ海文明圏の支配者になったので、その文化をミケーネ文化と呼んでいる。

※出典:大学院講義録21 12頁


「「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する」

こうして挙げて来た高度の共通点=史実の証拠は、しかし言語だけであり、

それもまた移住先の言葉に抹殺されてしまうから、その量は当然、激減している。

他には証拠はないのであろうか?。

フェニキヤ人たちが扱っていた商品の中に、彼等から以外、

絶対に入手できなかった特珠な染料の一種がある。

なぜ?他では手に入らないのか?、

それは地中海岸の属国・ツロ特産だった、

ツロツブリという巻貝の一種がごく微量内臓する柴紅色の色素で染めた織物が、

その色彩の良さはもちろん、

その希少性から宝石のように珍重されて王侯の衣服の必需品になり、

彼等はその採集と製法を極秘にして巨利を得ていたからで、

海の富は貝貨だけではなかったのである。

そんな紫の衣服など、少数の富める国の王侯が、限られた人々にだけしか見せず、

それらの国以外には無いはずなのに、それが我が国には古代から実在して、

「紫衣(しい)」と呼ばれて高貴の式服とされてきた。

それらの紫衣はツロ紫染めだったとは限らないが、

「紫衣」の名に恥じない色合いはもっていたのである。

この事実は、

フェニキヤ人が我が国まで来なければ絶対にあり得ないことが理解できる知性人には、

これを否定して彼等の影響を疑う論拠は、消滅して残らなくなってしまう。

※出典:大学院講義録35 18頁

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