2011年5月5日木曜日

ギリシャ人が作った弥生時代

 出典:言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 「「商人」文化の源か?「シアルク文明」」
 「文化史年表(CHRONOLOGICAL CHART)抜粋」
 「ギリシャ人が創った「弥生時代」」
 「中国文明の母胎は太古ペルシャのシアルク文化」
 「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」
 「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々」
 「民族史観と国境を否定する『文化史年表』」
 「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」
 「我が国へきたインド「商人」のコースと生態」
 「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」
 「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」


 「文化史年表(CHRONOLOGICAL CHART)抜粋」

 日本(JAPAN)

-3000                          -350
←        縄文文化                  →← 弥生文化

                沖縄文化  貝貨幣産業⇒殷  
 商人(シアルク=さろく=歩き回る) 霊ライン⇒ 殷 ⇒⇒   古墳文化 
               稲敷文化          
               干支圏

 エーゲ海(AGGEAN SEA)

   ミノア文化         ギリシア文化        -350
   キクラデス文化       ギリシア文化        →← マケドニア

 マケドニア
 マケドニア

 ※出典:大学院講義録20 6頁

 「「商人」文化の源か?「シアルク文明」」

 次々に創案された古代連邦圏を表現する色、方位、霊獣、季節、干支といった

 標識が実在したことを発見。

 それによって時代ごとに発展した意外な古代文化を知ったが、

 それは微々たる日本列島を離れて広大なアジアを西に越えた、

 エーゲ海文明に端を発したもの。

 時代はさらにさかのぼってアムール(アムリ)文明にまで至り、

 それが隼人町のアムリ川や「天降(あむ)り」や、

 中ロ国境のアムール河(黒竜江)の名にまでなっていることに結びつく、
 
 これらから類推すれば、
 
 そのアムール(アムリ)と並立していたシアルクという文明の名が、

 今も南九州地方で使われている

 「さるく=仕歩(しある)く=歩き回る」という言葉と完全に合い、

 シアルを中国訛りで発音したシァウにも「商」の当て字がピッタリ合うことから、
 
 そこに殷・商人の出自を求める必要が考えられるところまで、私たちの建国探求は遡上した。

 しかしそれに深入りすることは、本来の主題である『記・紀』解明からは、
 
 明らかに脱線行為だから、私たちの先祖たちのもっていた文明が、
 
 どんなものだったかがわかった現状で満足して、また本題にもどることにするが、

 これまで明らかになった私たちの血統が、

 どういった文明と深く結びっいているかを印象深く記憶に焼き付けるシステムとして、

 我たちの史学には欠くことのできない『文化史年表抜粋』は一つである。

 エーゲ海文明
 エーゲ海文明 
 アムール(アムリ)文明
 アムール(アムリ)文明

 ※出典:大学院講義録20 4頁


 「ギリシャ人が創った「弥生時代」」

 上の年表は、一見してわかるように、時間帯をはっきり印象に止めるのに不可欠といっていい長所をもっている。

 年表は利器として様々に転用できるから、ご活用いただきたい。

 日本の弥生時代と、縄文時代との境界の次期(前350年頃)

 マケドニアの建国期に重なっていることである。

 この弥生時代の初めは、全考古学者が認める定説ではあるが、

 それは、おおよその時間帯であって、ほぼ、この頃であろうという仮定の目安に過ぎない。

 ところがその直後に、私たちがギリシャ人が来た時期として突き止めた、

 アレクサンドロス東征の時間帯がくる。

 そして弥生土器の祖型を備えている加治木義博の所蔵する八重山土器は、

 その土器年代からも発掘地点からも、

 アレクサンドロス東征のその時間帯に完全に一致し、

 台湾→与那国→沖縄諸島→大隅諸島という海上コースをとった、

 ポセイドンら海神を守護神としたギリシャ海人たちがもたらした

 ギリシャからの文化財だったことは、

 この完全に揃った論理的証拠群によって、もう絶対に動かないことがわかる。

 「ギリシャ人はいつ来たか?」というのはもう謎ではない。

 それは台湾に至る地名、ギリシャ神話、秦の始皇の蓬莱憧憬の史実、

 イオニヤという与那国の語源などの証拠群に、

 さらに「弥生時代」という凄い証拠を加えたからである。

 縄文時代
 縄文時代
 弥生時代
 弥生時代
 八重山土器
 八重山土器

 ※出典:大学院講義録20 7頁


 「中国文明の母胎は太古ペルシャのシアルク文化」

 次は、この年表が明確化した史実の概略を、古いほうからお話ししておこう。

 ペルシャの欄と、その上の西域を見ると、「商人文化」は殷時代前後に始まったのではなく、
 
 世界最古のエジプト早期王朝と並ぶペルシャのシアルク期や

 西域のアムリ期からのものだったことが見えてくる。

 そしてそれがシベリヤのミヌシンスク文化にまで届いているのもみえてくる。

 しかし今の私たちはこれを見ても少しも驚かない。

 それは前以てシベリヤの『干支圏』を調査して大きな予備知識をもっているからである。

 こうして『干支圏』の研究をおこなって、大きな成果を獲得していたことの重要性と、

 その結果の大きさを教えられる。

 それは他人事ではなく、

 商人たちの血と文化が、

 沖縄の宝貝貨幣文明を生み、

 その文明が殷・商文明から中国の統一を生み、

 それが文字・言語の発達を進め、学問の体系を整えさせたからである。

 中国文明はラクダをつらねたキャラバンによって、

 シルクロードで西に文化を伝えたが、

 それは紀元前3000年以前に西からやってきた

 シアルク=仕歩く(日本語)文化の子孫だったのである。

 エジプトに初めて王朝が生まれた頃から東西を結ぶ行商を繰り返していたのだ。

 その物的証拠はまだ見つかっていない。

 しかし、こうして名詞は残り、それでこんなに史実を復元できる。

 私たちの学術体系が優れていることを、見事に立証してくれているのである。

 ミヌシンスク文化
 ミヌシンスク文化

 ※出典:大学院講義録20 8頁


 「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」

 しかし殷は、沖縄の宝貝で商帝国を立ち上げただけでなく、稲敷を故郷だと証言している。

 このことは、シルクロードの開発が漢代には実現せず、

 隋・唐代まで遅れた事実とともに、太古の往来は海路だったために、

 インド亜大陸沿いに往復した商人が、

 中国より日本列島に早く釆ていたことを証言している。

 ペルシャ湾はその海の「西の玄関」だったのである。

 これはギリシャ人が来たコースも教える。彼等はペルシャ湾から船出した海軍だったのだ。

 アレクサンドロスがダリウス王を倒して、自分はその皇女と結婚し、

 そして1000人の花嫁をギリシャ軍人の妻にした「八紘一宇結婚式」が済んだあと、

 さらに東のインドへと出発したとき、

 陸路をとった大王軍とは別に、海上を進んだ別動隊だったのである。

 だから彼等は、インド北部で病を得てギリシャへ引き返した大王の情報を得られぬまま、

 インドからさらに東へ東へと進んでしまった。

 そしてやがて大王の死を知って帰国を諦め、建国の地に選んだ新天地が、

 気候温暖な理想境「ホーライの国=台湾」だったのである。

 するとその眼の前には、意外にも富み栄えている沖縄カリエン経済界があった。

 目と鼻のさきにある小島を取ってイオニヤ(行く基地)にしたギリシャ人たちは、

 沖縄の島々を或いは戦って取り、

 あるいは島長(しまおさ)の娘と結婚して先住民に溶け込みつつ、

 さらに拡がっていった。

 稲敷
 稲敷

 ※出典:大学院講義録20 9頁

 
 「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々」

 その実態が、先にお話しした大隅(ウースン)(烏孫)あり、

 『五彩圏連邦』そのものであり、高句麗の周辺に生まれた邑婁・夫余といった国々であり、

 それがさらに生んだ匈奴であり、鮮卑てあり、隋・唐政権でもあったのである。

 それは時とともに姿を変えていったのだ。

 それを朝鮮半島の王は「百済と高句麗は、ともに扶余から出た」と証言している。

 扶余は「扶養(ハヤ)の風=南風(ハヤ)」のハヤであり、ハヤ=海人=隼人、

 すなわちギリシャ海軍の出身であり、隼人=大隅人だということなのだ。

 その百済は出水とともに海神・ポセイドンが語源だった。

 海神の名を選んでアンピトリテ?奄美、都井岬、取手。

 ボントス→本都別→誉田別天皇。

 アフロディテ→淡路島などという名を沢山のこしたのは、

 ギリシャ人の海人たちだったと、

 誰が考えてもすぐわかる言語文化財が大量に残っているので、疑いの余地はない。

 在来の東洋史などにみる「騎馬民族」といった分類は根本的に誤りで、

 多様な故郷から溢れ出た人々が好き勝手な方向に移動して土着しては、

 不意にやってくる敵や異常気象に襲われて放浪する生活の繰り返しで

 分散集合してしまっただけの違いしかない。

 「何民族」といった固有の「民族」など存在しない。

 もちろん時代が進むと同時に外敵に対する防御法として民結して「私有地=国」を主張するが、

 それは純血とか民族とかを意味しない。

 ※出典:大学院講義録20 10頁


 「民族史観と国境を否定する『文化史年表』」

 それを別々の民族だなどと思い込むと、真実は根底から崩れてしまい、

 八紘一宇どころか、隣り近所が殺し合うヒトラー型思想に毒されてしまう。

 ヒトラーは「国民の血の純潔さ」を謳い文句にして侵略を正当化しようとし、

 その恐怖政治の見せしめにするつもりでユダヤ人(イスラエル人)を大量虐殺したが、

 当時、世界の異端、全体主義者として全人類の憎悪の的になった日本人も、

 同じ「民族」思想に寺されて奇妙な自尊心をもち、

 朝鮮半島や中国の人々を理由(ゆえ)もなく蔑視して恥ずかしいとも思わずにいた。

 いま近隣某国のテレビ画像が自国の元首を、かつての天皇のように扱うのをみるたびに、

 同じ目的で、同じ扱いを受けていた戦前の皇室を思い出して、

 背筋がぞっと寒く冷たくなるのをおぼえるのは私1人ではない。

 その思想の産物「民族」という名詞は、その遺物であり人類の敵である。

 幼稚なマスコミなどが今なおそれを使い続けていること自体、

 人道の敵であることを忘れてはならない。

 『文化史年表』は、

 始皇帝が万里の長城を築いて国境を固持しようとした時代よりずっと古くからの人類の歴史を
 一覧させてくれる。

 それは他に方法がないために、やむなく国別に分けられてはいるが、
 本当は古代には国境などない。

 私たちは島国に住んでいるため水陸の境を国境のように錯覚しているが、
 もともと海は「世界を結ぶ道」だったのである。

 ※出典:大学院講義録20 11頁


 「ギリシャの海神の名をもつ我が国の地名や国名」


 古代ギリシャの国名が「四神」の真意で、日本語の色の名の起源だとわかった。

 ギリシャの海の神々も地名の元になっている。

 ポセイドンは百済(ポセイ)出水(イヅン・出雲)。

 その王妃アンピトリテ(奄美)(取手)。

 海から生れた美の女神アフロジテはローマではヴィーナスと呼ばれたが、

 それに我が国で当て字したものが「淡アフ・路ロ・島ジ・国」。

 島の名は、またギリシャ人が来たコースも記録している。

 ソナカの国語パーリ語ではギリシャ人をヨーナと呼んだ。

 これはイオニヤのイオをYO 、ニヤ をNIA⇒NA ナ と訛ったものである。

 我が国の最西端・与那国島はヨーナなのだ。

 YONIA ⇒YO NA イオー ナ=が「硫黄が」(島)になる。

 これはさらに、鹿児島弁化して短くなり、

 跳びはねて、 YOGA(イオーガ)は「YAT ヤッ」になるからヤッチマ、

 すなわち屋久島にもなる。

 このヤッチマは「八(ヤ)ッチマン=屋久島の」と使われるから

 漢字で書くと「八幡(ヤッチマン)」になる。

 こうして次々に謎を解き進んでいくと屋久島はヤバーナから生まれた名だとわかるし、

 与那国島から屋久島までの南の島が、ギリシャ系の海人たちの世界だったことが

 明確に認識できたと思う。

 では、そのときやってきたのは、

 どんな人々だったのだろう?

 確かに南欧のギリシャから来た人たちが

 いたこともわかるが、

 経由したインドの人たちが一緒に来たことも間違いない。

 四神
 四神

 ※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
     『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ 173~174頁


 「我が国へきたインド「商人」のコースと生態」

 そこに書かれた古代文化は、国ごとに区切られていたのではない。

 在来の旧式観念が作り出した国境や地域とは関係なく、

 人々の移動・交流する範囲に広く広まっていた知識だったのである。

 それを象徴的に教える身近な事実をお話ししよう。

 私たちは魚河岸や株式の取引所で商談が成立すると、

 威勢よくボンボンと手打ちするのを、いかにも江戸っ子らしいとか、

 日本独特の風物詩だとか感じて来た。

 15世紀初頭に書かれた『星瑳勝覧』という中国文献にも、

 この「手締(じ)め」を実際に見た記録が載っている。

 「商談が成立して価格が決まると、手を打って納めとし、後で紛争など起こさない」

 と書いている。

 まさにその通りだが、著者・費信が旅してそれをみた場所は日本ではない。

 「榜葛刺(ボカラ)国」で、現在のインドのベンガルだったのだ。

 これも商習慣という名が示す通り、古代商人が広めたもので、
 
 それがインド経由で我が国まできた証拠だ。

 それはその国名が倭の五王の名乗りにある慕韓(ボカラ)そのものだからである。

 しかしその名乗りにインドの地名は入っているはずがない。

 その時代には、それは朝鮮半島の弁韓以外ない。

 弁韓はべンカラで、我が国では紅をベニ・ベンガラ色という。

 沖縄のビンガタの原産地で、紅(ベニ)の語源はベンガルのベンだとわかる。

 インド商人は3世紀より前に、沖縄経由で朝鮮半島に弁韓国をつくっていたのである。

 星瑳勝覧
 星瑳勝覧
 紅(ベニ)
 紅(ベニ)

 ※出典:大学院講義録20 12頁


 「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」

 我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

 『文化史年表』は、その「商人」が誕生した地域を、

 冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

 その商人独特の慣習が、大貿易港のベンガルに残り、江戸の魚河岸に残るのは、

 やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

 縄文時代の海上交易の名残だったのである。

 だからギリシャの人たちも、何の知識もない「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

 偶然やってきたわけではない。

 ホメロスの作品や神話などとは別の、現実的な世界観の中で、

 はるか東方に四季の鮮明な、

 美しいホーライの女神たちの国にたとえられる島があることを知っていたのである。

 そして一(ひ)と足早く出遭った台湾の環境につられて、

 これこそホーライの国だと信じたために、

 その名が後世、フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

 でも中国人はその誤りを知っていた。

 なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

 命令を受けた徐福は、山東半島から東に向かって船出した。

 その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

 「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある

 日本列島にあったのである。

 台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、見える程の位置にある。

 いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

 彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。

 蓬莱
 蓬莱

 ホーライの女神
 ホーライの女神
 フオルモサ
 フオルモサ
 徐福
 徐福

 ※出典:大学院講義録20 13頁


 「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」
 
 ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

 これはギリシャ人が始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

 始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

 ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

 こうして整理すると古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

 私たちが日常体験しているような、ハツキリしたものだとわかる。

 我が国へ来たギリシャ人は、どんな人たちが、何を目的に、いつ、どこを出発して、
 どこを通ってやってきたか。

 そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

 それは天照大神=卑弥呼を生み、応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

 それ以前にすでに領土を拡大して、中国を中心に沢山な国をつくり、東アジアを支配した。

 こうして細部にわたって疑問が全て解けたことを、よく再認識しておいて戴きたい。

 また文化史を年表にして見ると、

 弥生時代そのものがギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

 そして、さらにそれに先行して、西アジア古代文明もまた、

 我が列島まで届いていたことも読み取れた。

 こうして在来の史学では想像もできなかった巨大な問題群が、

 疑いが残らないはど確実に、そして大量に解明できたのである。

 それを、これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

 完全といっていいほどに、卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

 ※出典:大学院講義録20 14頁

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