2011年5月11日水曜日

季節の女神ホーライ=台湾からイオニヤ=与那国島へきたコース

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
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「「大和」は台湾で最初に生まれた」
「『始皇帝物語』予言が造らせた万里の長城」
「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」
「天孫から続く系譜は存在しないのか?」
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」
「始皇帝が憧(あこが)れた天武天皇の宗教とは?」
「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」 
「シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物」
「畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」」
「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」
「百済は台湾のギリシャ人国名への当て字」
「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り」
「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史」
「渡来コースは海の道。神武東征も四道将軍も史実」
「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった」
「ギリシャ人が創った「弥生時代」
「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」
「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」
「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」 


「「大和」は台湾で最初に生まれた」

西はこれで納得がいったが、一番の難問題は沖縄より南には、

東シナ海よりも、もっと大きな大洋しかないということだ。

どこに赤の国があるのだろう?

それが本当に実在する。

といっても現代の精巧な地図でもそれは載っていない。

というより精巧な地図だから載っていないといったほうがいい。

というのは今の地図で正確に真南を捜しては見つからないのである。

古代人の方向感覚で南の国を考えると、沖縄の南の国は台湾である。

そこが間違いなく赤の国だったのである。

それは消えてしまった古代の名なんかではない。

私たちの発音する台湾の名を耳を澄まして聞いてみると、

その今の名前の「台湾」がそうだと証言しているのである。

そして別にヤヤコシイ読み替えも、発音変化も必要ない。

あなたがいつも口にしているその「タイワン」が、

そのままで答えになっているのである。

「タイワン」は「タイワ・ン」「大和・の」に一致しているのである。

「大和」が「オカ=阿和=アカ」であることは、

すでにいくつもの例でご説明したとおり疑問点はない。

しかし外国の台湾がまさかと、まだ疑問にお思いの方は、

この本をまじめに読んでいない人なのだ。

この本ではゴビ砂漠はおろか、タクラマカン砂漠の彼方まで、

私たちの仲間の世界だったとお話しし続けているのである。

それにくらべると台湾は、

与那国(よなくに)島から肉眼で見えるお隣りの島なのだ。

しかもその島は古代には小(しょう)琉球と呼ばれていた。

小さな沖縄のほうが大琉球だったのである。

だからこの「大和(たいわ)」は

その時代につけられた「赤」を意味した当て字だったのだ。

それを示すのは台湾の古名の一つに「ホーライ=蓬莱」があることである。

これはもともとギリシャの春の妖精(ニンフ)のことなのだが、

中国人には

「鳳凰(ほうおう)が来る島=鳳来(ほうらい)島」

と解釈されていた時代がある。

それが今お話しした徐福の当時で、

ソナカ仏教宣布団の先頭が台湾へやってきたころなのだ。

中国ではそれを「神仙」だと信じて、鏡などに大いに描き始めた。

それが南方を赤い鳥で表現することになった初めと考えると、

本来インドの四神の鳥はビシュヌー大神の乗り物である

金麹鳥(きんしちょう)で「金の鳥」だったのに、

なぜ中国で朱雀(すざく)になったかという謎が解ける。

朱雀というのは中国で別名「丹鳳」という赤い鳳凰のこととなのである。

※出典:WAJIN 177~178頁


「『始皇帝物語』予言が造らせた万里の長城」

始皇帝は不老長寿は本当に可能だという方士(『ワジン』参照)の言葉を信じて、

その方士の徐福に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という、

はるか海上にある神仙の住む島へ、その薬を取りに行かせた。

これは有名な史実であり『ワジン』でもお話ししたが、

それは紀元前219年のことだった。

その4年後の215年、

こんどは燕(えん)の国の方士・盧生(ろしょう)に

彼のいう羨門高生(せんもんかうしょう)という仙人をさがしにいかせた。

ところが盧生は3年後、手ぶらで帰ってきて

「どうしても仙人を連れてくることはできませんでしたが、

その代わり帝国にとって、ゆるがせにできない重大な予言を受けて参りました」

といってなにやらありがたそうな文字の書いたものを差し出した。

それには「秦を滅ぼすものは胡なり」と書いてあったのである。

方士を信じて期待している始皇帝は、ただちに30万の軍隊を、

胡人の住むオルドス地方(陝西(せんせい)省北部)に派遣して一帯の胡人を追い払い、

翌年そこから東の陰山山脈に至る地域に、

33の県を新設して罪人をそこに分散移住させ、

開拓と胡人の侵入防衛にあたらせた。

始皇帝は不老長寿は本当に可能だという方士(『ワジン』参照)の言葉を信じて、

その方士の徐福に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という、

はるか海上にある神仙の住む島へ、その薬を取りに行かせた。

これは有名な史実であり『ワジン』でもお話ししたが、

それは紀元前219年のことだった。

その4年後の215年、

こんどは燕(えん)の国の方士・盧生(ろしょう)に

彼のいう羨門高生(せんもんかうしょう)という仙人をさがしにいかせた。

ところが盧生は3年後、手ぶらで帰ってきて

「どうしても仙人を連れてくることはできませんでしたが、

その代わり帝国にとって、ゆるがせにできない重大な予言を受けて参りました」

といってなにやらありがたそうな文字の書いたものを差し出した。

それには「秦を滅ぼすものは胡なり」と書いてあったのである。

方士を信じて期待している始皇帝は、ただちに30万の軍隊を、

胡人の住むオルドス地方(陝西(せんせい)省北部)に派遣して一帯の胡人を追い払い、

翌年そこから東の陰山山脈に至る地域に、33の県を新設して罪人をそこに分散移住させ、

開拓と胡人の侵入防衛にあたらせた。

※出典:TAIKA 67~68頁


「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」

ハ行とカ行の関係が理解できると、この「ホ」の国と、それをめぐる国々の国名が、

何から生まれて、どう分裂して増えていったかが完全にわかる。

沖縄語の「ク」は本土語の「コ」だとわかるから、高麗は「コマ=コ国(マ)」で、

やはり同じ国だとわかる。

この高麗は本来「コーライ・コーレイ・コーリー」などとと呼ばれていた。

それはこの地方が3000年前には、

古代世界で最大の貝貨幣・宝貝の産地で供給国だったが、

そのため宝貝は今でも

インド語で「コーリー」、学名も英語も「カウリー」と呼ぶ。

産物の名の多くは、その生産地の地名と同じになるから、

これは「高麗」が世界を代表する産地だったことを記録しているのである。

そして、学名と英語の「カウリー」は、実は沖縄語なのだ。

那覇(なは)と反対側の中城湾(なかぐすくわん)には

「高離島」という島があって土地の人は

それを「カウリー・ジマ」と呼んでいるのである。

それは沖縄発音で、もとは「コーライ」だったことがわかる。

なぜならすぐ隣りにある台湾は、

秦の始皇帝のころから「蓬莱=ホーライ」島と

呼ばれているからである。

「ホ」と「コ」が入れかわっているだけであることは、ご説明しなくてもいいと思う。

では「蓬莱」という漢字のついた台湾は中国領だったのだろうか?

始皇帝はその島を神仙の住む別世界の仙境と信じて、

「真人」になるために神薬を授かりに徐福らをその島へ派遣したのである。

この「蓬莱」を徐福らの作り話だとする者が多いが、それは間違っている。

それは実在し、徐福は場所も知っていた。

彼は野蛮な独裁者・始皇帝の力を逆に利用して無事に中国を脱出する唯一の手段として、

また万一の場合に備える「保険=人質」として、

始皇帝の第三女ら多数の少年少女を連れて移住したのである。

その子孫が首都を沖縄に移して大琉球と称し、台湾は小琉球になった。

さらに種子島に移って女王国家「ホの国」を建国、南種子町の広田遺跡の墓に

「山字文」の貝製装身具を残した。

豊玉姫の伝統は弥生時代からのものだったのである。

その後の足取りは、大隅の「襲(ソ)」という別名と「徐(ソ)」は同じ発音だから、

そこが「徐の国」だったことがわかり、

『日本書紀』と『三国史記』の記事で、

さらに多数の証拠が見つかる。

写真の「天慧甗(テンエゲン)」もそこに伝えられて実在する。

天武天皇はその子孫の一人だったから、あれほどまでに「ヤマト=仙」にこだわり、

それを国教にし、国名にしたのである。

では元の名の「ホーライ」とは何だったのか?

それは台湾の先住民・ギリシャ人の神話に出てくる大神ゼウスの娘で三人姉妹の

「季節の女神(ホーライ)」のことである。

台湾はギリシャ以上に温暖な気候と豊富な果物に恵まれた仙境だから、

季節の女神の島と呼ばれたのだ。

写真:「徐福が運んできた天慧甗」

この徐福の徐は与や邪の字と全く同じ発音で、

与那国がギリシャ人を意味している通り、

イオニア系ギリシャ人だった。

だから「与ナ」は国をマという人には「邪マ」と書かれた。

邪馬壹国もギリシャ人の国という意味なのである。

その「徐」は「ソ」とも発音する人々がいた。

韓国のソウルも「徐伐」と書かれている。

そのソの国は今の大隅地方で、

そこにこの中国・秦の時代に作られた徐の国製だと

銘記された銅器が現代まで宝として伝世してきたのである。

『天孫降臨』の一部にこの「ソの国」を「添」とか「曾堡里」とか当て字しているのは、

内容とは別の史料として重要な意味をもっている。

※出典:YAMATO 184~186頁


「天孫から続く系譜は存在しないのか?」

ここで考えなければならないのは『天孫降臨』を、

明治~昭和の昔のまま「信じる」というのはどういうことか、ということである。

紀元前はるか太古の「神代」に

「ここはお前の国だ。治めなさい」といわれたから、

天から降ってきて天皇になった、という話を信じるのなら、

まず2~3世紀の[卑弥呼]も、

選挙で選ばれて「共立」されたのだから、

その政権はもう「天孫族」ではなく、別の政権である。

そのあと[倭の五王]が南からきて西・北・東を征服して、

新しい政権を確立したのなら、

これも「天から与えられた」のではないから、また「天孫族」ではないことになる。

そして卑弥呼政権のあとであることの確実な

「俀国」や[倭国]も「天孫族」ではないことになる。

それを倒した[日本国]も、とても[万世一系]などではないし、

その次の弘文天皇政権は一年ももたなかったから、

とても[万世一系]などといえたものではない。

もちろんその後で来た天武天皇も新しい国と政権の創始者であって初代だから、

天孫から引き続いた[万世一系]の天皇ではないということになってしまう。

なぜこういう結果になるのだろう……。

それは「万世一系の政権」に主眼をおくからである。

またウソの部分を見抜けず、見抜こうともせず、

加治木義博のように見抜く者を敵視してきたから、

次第に史実の真相が明らかになってきても、ウソを押し通そうとするから、

その主張と真実とがすべて食い違って、「大ウソ」に見えてしまうのである。

だが、証明された史実だけを重視すると、

台湾の「ホーライの国」から戦前の大日本帝国まで続いた国は、

国名も天皇家も、

そして天皇たちの血も、直系ではないが混血によって、

「切れ目なし」に継続しているから「万世一系は真実だ」とはっきりいえる。

今ではそういえるのは私のこの研究の成果だけなのである。

これに反対して「天から天孫が降臨した」

「神武東征は紀元前、即位は奈良の橿原」などと主張すると、

すべてが「ウソ」になってしまう。

ところが日本にはこの事実を180度反対にしか考えられない愚かな連中がいて、

天皇家を泥まみれにしている。

『憲法』が定めた「象徴」を否定する「違法者」どもを放置してはおけない。

※出典:YAMATO 209~210頁


「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」

このウースンというのは、

『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。

その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、

船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、

それは史実が後世に次第に変型したもので、

ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、

その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。

ギリシャ語には多くの方言がありますから、

イャーソンという名はヨーソンからユースン、ウースンと変化します。

先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、

それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。

『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、

ウロとは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。

これで「イヤ」とヨとユとウとの訛りかたがわかると思います。

だからその地域での「ウースン」が、

ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。

その神話に残され地名とコースが、

東南アジアの現在の国々と一致しているので、

今では彼らがマレー経由で台湾へきて、

そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、

その後、カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、

明らかになってきました。

また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、

その基地として高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・

夫余(フユ)・挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、

あますことなくわかったのです。

しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、

彼らは営業を続けられなくなりました。

ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、

中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、

古代の呉の地に根をおろしたのでした。

このウースン人についてはもっと重大な事実があります。

それは鹿児島県の東半分を占める

「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。

そして今も鹿児島県人には、

大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、

ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、

ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。

この一致で、大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは疑いの余地がありません。

※出典:日本国誕生の秘密 169~170頁


「仏教宣布団より前に来たイオニヤ人」

イオニヤ人の移住がアショカ仏教宣布団の渡来とは

別だという証拠はまだほかにもある。

それは仏教宣布団の言語であったパーリ語では、

イオニヤを「ヨーナ」と発音して決して

イオニヤとは発音しないという動かない重要な条件があるからである。

このヨーナという発音からは、

どんなにしても魚類を「イオ」と呼ぶ発音は生まれない。

またヨーナの名は全く別の名詞として現在まで残っている。

それは「与那国島」という島の名や

「与那原・与那嶺・与那覇」という地名や姓として沖縄県に現存している。

仮にイオニヤ人がバーリ語を話す仏教宣布団の一員としてやってきたのなら、

それは先にみた生物名の命名原則に従って魚類を

「ヨーナ」と呼ばねばならないのに「イオ」と呼んできた。

これはイオニヤ人が別に渡来して、

すでに新たな日本語を作りつつあった後に仏教宣布団が到着して、

イオニヤ人の住む島を「ヨーナ国」と呼んだという以外に説明がつかない。

では彼等はいつ、どんなコースでやってきたのか…。

古くB.C.E.3世紀の秦の始皇帝の時代に、

すでに台湾は

「蓬莱=ホーライ=ギリシャの季節の妖精の名」と呼ばれていた。

またギリシャ神話には金毛の羊皮を求めて、

ラコーン(タイから中国南部の古名)やマラヤの岬(マライ半島)という

地名のある沿岸を東に遠征した「アルゴ船」の有名な記録がある。

※出典:大学講義録07 12頁


「始皇帝が憧(あこが)れた天武天皇の宗教とは?」

それだけではない。

彼女を活用したのは天武天皇である。

彼の信仰は彼の名乗りをみればわかるとおり仏教ではない。

彼はシーラ派の天智天皇系政権を倒すのに、

革命で閉め出された倭人を活用したが、

それは彼が仏教徒だったからではない。

政権を手に入れる必須条件として妥協しただけである。

では彼の信仰は何だったのか?。

その答がこのピュテーアなのだ。

その名乗りは

「天渟(テンティ)(天帝)・中原(チュウゲン)(大地)・瀛(エイ)(大海)・

真人(シンジン)(人)で、説明は不要の「天地海人」であるが、

それはわざわざ天帝を意味する発音でゼウスを誇示し、

中原で国家の中央支配を誇示し、

瀛(エイ)で海上権の支配者・海人の王を誇示し、

同時にそれらの権力が秦の始皇帝・臝(エイ)に匹敵すると誇示するために、

埠皇の名乗りを使って瀛真人(エイシンジン)と名乗り、

なおかつ彼の出身地がエイ=頴娃(鹿児島県揖宿(いぶすき)郡)であることまで

徹底的に工夫を凝らしてある。

稗田阿礼の実在は、こうして天武天皇の信仰がゼウス・アポロン・ポセイドンといった、

卑弥呼以前からのギリシャ信仰だったことを証言すると同時に、

その信仰の分布地=南九州から台湾までを

蓬莱(ホーライ=ギリシャの季節の女神)や瀛(エイ)洲と呼んで、

不老不死の秘法を求めに徐福らを派遺した始皇帝が憧(あこ)れたその宗教とは、

まぎれもなくこのギリシャの、

「不老長寿の教えをもつ信仰体系」だったことを、

併せて明確に証言しているのである。

※出典:大学講義録29 25頁


「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」 

中国経由でないとすると、どんなコースでやってきたのか?。

忘れてならないのは、台湾北部に現住するアミ人である。

このアミの名は大学講義録31冒頭でお話しした

網・阿見と同じ発音であるだけでなく、

容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、

ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。

また台湾がギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ

仙境・蓬莱(ホーライ)で、

秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だったことも、

大学講義録29でお話しした。

このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、

アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。

仮にこれを疑うと、

台湾と与那国という肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、

どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、

全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、

二つできたことの理由、

という至難の立証が必要になるし、

それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、

ほかにはアミに結びつくような神名はない。

別の語源から全然無関係に

二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。

従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、

「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、

それと比較して相手の説が劣り、

間違っていると判ったときに主張して

「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、

「ただ反対したい」だけというのは、

劣等感の表現にすぎない。

※出典:大学講義録31 28頁


「シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物」

『後漢書』が記録した107年に後漢を訪れた倭国王・帥升は、

漢魏音でスイサヌウ、すなわちスサノオという名乗りで、

これはシュメルの古都スサ(現在のイランのスーサ)の王を意味し、

出雲神話のスサノオの尊の八俣の大虵退治も、

何代目かのスサノオ=位宮が卑弥呼政権を倒した史実を、

英雄ギルガメシュの大蛇退治神話を模して説話化したものである。

だから八俣とは、八幡をヤバタ→ヤマタと訛った当て字、

大虵(ウチ)は鹿児島神宮所在地の名の

「ウチ=内=宇治」への当て字である。

ヤマタは邪馬臺に似ているが、

邪馬(ジャマ)がヤマと発音されるようになったのは8世紀以後のことで、

この神話とは全く関係なく、

邪馬臺(ジャマダイ)がヤマトだというコジツケと

全く同じで無知の産物にすぎない。

さらに邪馬臺という名詞自体、後世の人間の錯覚が産み出した幻覚で、

現実にはこの地球上に存在したことのない幻なのだ。

「中国の山岳崇拝→種子島」

バビロンに敗北したシュメル人は

中国に移動して「周」をたて、殷帝国を倒した。

またアレクサンドロス東征の落とし子・ギリシャ人も中国に住み、

オリンパス山などを神山とするギリシャ宗教の「山」信仰で、

台湾を女神ホーライの名で蓬莱山(ホーライ)と呼ぶ

秦(シン)の徐福らの「方士」が秦代に

琉球の与那原(よなばる)=徐那伐(ヨナバル)=徐福の都(ジョナハラ)へ伝え、

それが種子島南部の「広田」弥生遺跡に、

「山」字とギリシャ文字を彫った貝製装身具を残したのである。

※出典:大学講義録32 30頁


「畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」」

『史記』や『後漢書』にも

「秦の始皇が除福と童男女数千人を蓬莱(ホーライ)に派遣して

神仙を捜させたがダメで、徐福は誅(ちう)を恐れて此の洲に止(とど)まった」

とあるのが同じである。

秦韓とは辰韓の別名だったのである。

倭の五王はそれを辰韓の代わりに使っていた。

この韓はカンと発音していたのか?確かめておく必要がある。

なぜなら姶良郡はカラグニ、

霧島の最高峰もカラクニ見岳で、

カン郡でもカンコク見岳でもなかった。

それと同じものが突然カンになることはないから、

辰韓はシンカンではなくシン韓(カラ)かタツ韓(カラ)だったのである。

すると神功皇后が目標の国を宝の国(タカラの国)と呼び、

それを占領して君臨した国がそれだったのだから、

これはトカラ列島の宝島→種子島の辰韓(タツカラ)→開聞岳のある

シラキッ新羅と姶良郡のカラグニ→

福岡の白日の国=新羅(新=辰・羅=国=韓)→半島の辰韓、

という拡大移動に伴って分布した地名の全てが、

このタッカラ=宝の国という名をもっているのだ。

壹與=神功皇后が君臨した宝の国=邪馬壹国は、

このようにどこからみても畿内にはない。

これも邪馬台国畿内説がでたらめだという重要な証拠である。

もちろんそのことは他の山積する反証群によって、

もう充分立証され尽くしてはいるが、

学説というものは裁判ではない。

研究結果の全ての真実を徹底的に表明して、

「万全を期する」のが務めなのである。

※出典:大学講義録33 28頁


「位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力」

浦島神社まで建てて集るというのは、血縁関係があるからである。

またこの蓬莱の語源がギリシャ神話のホーライであり、

台湾が今もホーライと呼ばれていることも、

よくご存じの通りでその血縁は他の地名にも及んでいるはずである。

そこで宮津市の地名を見て見ると、

まずこの「日置」が鹿児島県では、郡になっている建国史上重要な地名である。

また丹後という国名そのものが、

タニ=種、ゴ=子で種子島からの移住を記録していることもすでに検討ずみであるから、

種子島の海人王・ビチヌウシン(亀)の娘を亀比売と呼ぶことも決しておかしくない。

むしろ、非常に詳しい知識をもっているというべきだ。

こうみてくると、与那国人は浦島伝説とペアになることで分布先を明示している。

だからそれらの地名は、単に発音が共通しているというだけでなく、

それが地域による発音変化で、その移住・拡大は、疑う余地がないと、

はっきり証明していると断言できるのである。

また丹後から真南に南下したコースには、兵庫県最東部の猪名川と、

大坂府北部の箕面市から兵庫県宝塚市にまたがる稲(いな)地方がある。

その宝塚市には蓬莱峡と呼ばれる名勝があるが、

浦島伝説は今では忘れられて僅かに地名だけが残っている。

この稲が、

百人一首の「イナの笹原、小夜更けて」のイナであり、

孝徳天皇朝の豊日の国の母体になった地域なのである。


※出典:大学院講義録11 23頁

「百済は台湾のギリシャ人国名への当て字」

倭済(オオスミ)はオースミで大隅、それはオをホと書く大隅語ではホスミで、

百済(ホスミ)もその当て字の一つ。

ところが百済(ヒャクセ)は種子島ではハツセ=長谷がそれだった。

さらに沖縄では、百済(ホセイ)はフジイ、またはフジ。

これはベル=鈴を、関西ではリンというが、

南九州語ではジンと発音するからフジイはフリイ。

沖縄語のフは南九州語ではホだからホリイ。

これは台湾の古名・蓬莱(ホーライ)の発音変化・ホーレイの沖縄訛りだとわかる。

蓬莱はギリシャ神話の季節の女神・ホーライが語源だとわかっているから、

百済は最初「台湾の古名」そのものだったのだ。

だが百済は、ポセイドンへの当て字だったことを私たちは確認している。

ではホーライとどちらが本当の語源なのだろうか?。

それは台湾のホーライのほうが古いから語源である。

紀元前219年に秦の始皇帝が、不老長寿の仙薬を求めて、

方士(ほうし)の徐福らを仙境「蓬莱」などに派遣したことが記録されているからだ。

当時、台湾にいた薩摩人の先祖たちは、その国をホーレイと呼んでいた。

それが沖縄に移住するとフジイと呼ばれるようになった。

沖縄は南中国人の往来が激しく当然漢字が使われていたから、

それに対して百済という当て字が生まれた。

ところがその百済人たちは海人族でポセイドンの信徒だったから、

百済人という漢字は、ポセイドンと読まれるようになった。

なぜか?。

※出典:大学院講義録14 26頁


「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り」

真実の我が国の歴史は、はるか紀元前に国家をつくり、

のちに百済(ホセイ)という当て字をもったギリシャ文明の先端が、

ソナカの仏教文明と複合して築き上げた高度文明国家で、

その高さは古墳文化などが、出土品だけでなく様々のファクターで、

次々に実証し続けている。

その百済国は、移動とともに発音が変わり、

ホーライ⇒ホーレイ⇒ホゼイ⇒ボセイ⇒フジィ⇒ハツセイ⇒ハツセ⇒ハセ⇒オオスミ⇒

ウースン⇒ホヅミ⇒モズミ⇒マヅミ⇒マヅメ⇒マツラ⇒クダラ⇒モモダリ⇒パクチェ

などと変化した。

この建国期の史実も知らずに、百済とはクダラと読むとしか知らない連中が、

それを半島の独立国、皇室とは無関係な外国だと信じて、

教えつづけてきたという無茶苦茶な国が、私たちの現代日本だったのである。

しかしこの発音を写した穂積皇子や伯瀬部皇女の名乗りは

『萬葉集』にまで並んでいて、

皇室の由来が、消えることなく伝えられ続けているのを、見ることができる。

その穂積皇子の歌は

「降る雪は 劇(あは)には降りそ 吉隠(よなばり)の 猪飼(いかい)の丘の寒からましに」

だ。

ヨナバリ=与那の巴利=ギリシャ人の都の名も見える。

柿本人麿の高市皇子への弔歌には、

「言(こと)さへぐ百済(ほづみ)の原ゆ 神葬(はふ)り」という一節がある。

神社や陵は、神=貴人を祭ってあるのであって、

伊弉諾神宮でも八幡宮でも、

架空の神話の空想の産物を迷信しているのではない。

※出典:大学院講義録14 31頁


「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史」

その大隅は地元発音でウースン。

この当て字の一つが「烏孫」。

彼等は前漢の武帝が即位した紀元前140年には

西域で月氏をバクトリヤに追い払っている。

これは大隅人が拡大して朝鮮半島を北上して

鴨緑江両岸に邑婁(ユウロ)や夫余をつくり、

殷代からの高族の国、高麗を支配下におさめて、

黒の国=玄武の国と名付けたことと、

烏は黒鳥だから「烏孫」と言う当て字は、

この地域にいる時に当て字された、という事実まで、

併せて立証しているのである。

彼等は、さらに北へ移動、

中国北部を迂回して西進して月氏の居住地を奪い取ったのだ。

その本国・大隅は新しい領土の都として栄え、

3世紀には7万戸ある大国・邪馬壱国の前身になった。

こうみてくるとその時期と、五彩圏の誕生がぴったり重なり、

そこにつけられた多くの国名が

ギリシャの五彩圏や神名群に一致するのだから、

この勝者がギリシャ人だったことは疑う余地がない。

では彼等はどこから大隅へやってきたか?。

それは与那国島がイオニヤを語源にもち、

台湾がホーライというギリシャの女神名をもち、

そこに一見して欧州人の子孫だとわかるアミ人が今も居住し、

アトモと呼ぶギリシャ式双耳土器を

現代まで焼き続けている人々もいる。

また、ポセイドン、アンピトリテ、アフロヂテなどといった

多数のギリシャ海神名が、百済、奄美、淡路島という国名に一致している。

※出典:大学院講義録19 15頁


「渡来コースは海の道。神武東征も四道将軍も史実」

ギリシャ人のコースが

台湾➩沖縄➩奄美➩大隅だったことは、

彼等が海軍で島伝いコースをとったのだと教えている。

するとその海神信仰も少しも不思議ではない。

大量の証拠群が以上のことを完全に確定していて疑問を残さない。

また女神ホーライの名も、仙境「蓬莱」として秦の始皇たちも憧れていた。

その到来が秦以前だったことも動かない。

また大隅の高千穂の宮で神武天皇が遠征を計画したという記事は、

烏孫人の出発点という国名からみて、史実を伝えていることは間違いない。

それは伝承として確実に存在していた。

だがそれを神武天皇という一個人の事跡として編集した

『記・紀』に問題があるために真実から遠ざかり、

ウソになってしまうのであるし、

崇神天皇が卑弥呼時代の支配者だったことも確かで、

『記・紀』は彼も初代天皇だと特記している。

そのため彼個人の事跡になって、不信感に満ちている四道将軍も、

烏孫人の活動からみて、やはり史実の中に入れるべきものである。

もっともこれは「四道」という限定詞があって、

アソカ王の仏教宣布団派遣と複合していることは確かだが、

烏孫人の出発を記録した、

ギリシャ人の残した伝承の1つとしてみれば、

それを「初代」天皇の事跡とした

『記・紀』編集者の立場もわからないではない。

※出典:大学院講義録19 16頁


「小島をイオニヤと命名した時、それは始まった」

ギリシャ人は、いつ?、我が国にやってきたか?、

彼等は何を目的にやってきたのか?

が完全にわかった。

彼等は、アレクサンドロスの「八紘一宇」の理想実現の夢を追い続けて、

アレクサンドロスが病気のため引きあげ、若くして死んだあとも、

インドに残り、その後、次第に東へ東へと東征し続けた

「世界国家の戦士たち」だったのである。

もちろん本国からの物資輸送などあるはずもないから、

行く先々で自活するため小国家を建設した。

先住民との混血で風俗・言語も変化していった。

それが後に残したものが国名だ。

奄美、都井、百済、出水、大隅、淡路島といった

海の神々の名をそれにつけたのは、

彼等が海の戦士だったことを示し、

その後も朝鮮半島沿岸を北上して邑婁(ユーロ)などを造った。

その人々を東に送り出した根拠地は台湾。

そこには海神でなく季節の女神・ホーライと名づけている。

これは気候温暖な楽土を理想の国とみて土着を決めたことを意味する。

そしてアルゴ船の故事からタイナ国(ロン)とも呼び、

先住南中国人語で「大和 Taiwoh タイウオ」とも呼んだ。

これがタイワンの語源である。

この国こそアレクサンドロスの夢の「和の国」だと自認したのだ。

しかしさらにその理想と夢を拡大して日本列島にも求める時がやってきた。

沖縄西端の小島・与那国をギリシャ語で

イオニヤ(行く者の国)と名づけた時、

それは始まったのである。

※出典:大学院講義録19 27頁


「ギリシャ人が創った「弥生時代」

年表は、一見してわかるように、

時間帯をはっきり印象に止めるのに不可欠といっていい長所をもっている。

年表は利器として様々に転用できるから、ご活用いただきたい。

まず、最大の収穫は図の右上にある弥生時代と、

左の縄文時代との境界に私が引いた線の下端が、

マケドニアの建国期に重なっていることである。

もちろんこの弥生時代の初めは、全考古学者が認める定説ではあるが、

それは、おおよその時間帯であって、

ほぼ、この頃であろうという仮定の目安に過ぎない。

ところがその直後に、

私たちがギリシャ人が来た時期として突き止めた、

アレクサンドロス東征の時間帯がくる。

そして弥生土器の祖型を備えている私の所蔵する八重山土器は、

その土器年代からも発掘地点からも、

アレクサンドロス東征のその時間帯に完全に一致し、

台湾→与那国→沖縄諸島→大隅諸島という海上コースをとった、

ポセイドンら海神を守護神としたギリシャ海人たちがもたらした

ギリシャからの文化財だったことは、

この完全に揃った論理的証拠群によって、

もう絶対に動かないことがわかる。

「ギリシャ人はいつ来たか?」というのはもう謎ではない。

それは台湾に至る地名、ギリシャ神話、秦の始皇の蓬莱憧憬の史実、

イオニヤという与那国の語源などの証拠群に、

さらに「弥生時代」という凄い証拠を加えたからである。

※出典:大学院講義録20 7頁


「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権」

殷は、沖縄の宝貝で商帝国を立ち上げただけでなく、

稲敷を故郷だと証言している。

このことは、シルクロードの開発が漢代には実現せず、

隋・唐代まで遅れた事実とともに、太古の往来は海路だったために、

インド亜大陸沿いに往復した商人が、

中国より日本列島に早く釆ていたことを証言している。

ペルシャ湾はその海の「西の玄関」だったのである。

これはギリシャ人が来たコースも教える。

彼等はペルシャ湾から船出した海軍だったのだ。

アレクサンドロスがダリウス王を倒して、自分はその皇女と結婚し、

そして1000人の花嫁をギリシャ軍人の妻にした

「八紘一宇結婚式」が済んだあと、

さらに東のインドへと出発したとき、

陸路をとった大王軍とは別に、海上を進んだ別動隊だったのである。

彼等は、インド北部で病を得てギリシャへ引き返した大王の情報を得られぬまま、

インドからさらに東へ東へと進んでしまった。

そしてやがて大王の死を知って帰国を諦め、建国の地に選んだ新天地が、

気候温暖な理想境「ホーライの国=台湾」だったのである。

するとその眼の前には、意外にも富み栄えている沖縄カリエン経済界があった。

目と鼻のさきにある小島を取ってイオニヤ(行く基地)にしたギリシャ人たちは、

沖縄の島々を或いは戦って取り、

あるいは島長(しまおさ)の娘と結婚して先住民に溶け込みつつ、

さらに拡がっていった。

※出典:大学院講義録20 9頁


「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷」

我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

『文化史年表』は、その「商人」が誕生した地域を、

冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

その商人独特の慣習が、

大貿易港のベンガルに残り、江戸の魚河岸に残るのは、

やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

縄文時代の海上交易の名残だったのである。

だからギリシャの人たちも、

何の知識もない「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

偶然やってきたわけではない。

ホメロスの作品や神話などとは別の、現実的な世界観の中で、

はるか東方に四季の鮮明な、

美しいホーライの女神たちの国にたとえられる

島があることを知っていたのである。

そして一(ひ)と足早く出適った台湾の環境につられて、

これこそホーライの国だと信じたために、

その名が後世、フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

でも中国人はその誤りを知っていた。

なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

命令を受けた徐福は、山東半島から東に向かって船出した。

その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は

「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある

日本列島にあったのである。

台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、見える程の位置にある。

いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。

※出典:大学院講義録20 13頁


「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』」

ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

これはギリシャ人が始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

こうして整理すると古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

私たちが日常体験しているような、ハツキリしたものだとわかる。

我が国へ来たギリシャ人は、どんな人たちが、何を目的に、いつ、どこを出発して、

どこを通ってやってきたか。

そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

それは天照大神=卑弥呼を生み、応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

それ以前にすでに領土を拡大して、中国を中心に沢山な国をつくり、東アジアを支配した。

こうして細部にわたって疑問が全て解けたことを、よく再認識しておいて戴きたい。

また文化史を年表にして見ると、

弥生時代そのものがギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

そして、さらにそれに先行して、西アジア古代文明もまた、

我が列島まで届いていたことも読み取れた。

こうして在来の史学では想像もできなかった巨大な問題群が、

疑いが残らないはど確実に、そして大量に解明できたのである。

それを、これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

完全といっていいほどに、卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

※出典:大学院講義録20 14頁


「台湾から沖縄経由で来たギリシャの測定器」 

へルメスが手に持つ、

柄に羽のはえた杖「カディキウス」は世界中で象徴になっているが、

このカディキウスは、もっと鹿児島と切り離せない重要な事実がある。

それはこの神杖は、もともと距離や天体を計る測定器だったからである。

製図で使うT定規は羽から先の頭の部分がないが、

カディキウスが十字架型をしていることはすぐわかる。

その横棒の長さは少し変えてある。

その端を縦棒の端から観ると角度が測定できる。

だから星など天体を見て方角を知り、航海に役立てる。

土地を測量し、材木や石などを測定して建築に役立て、都市を建設する。

もちろん、商品を造り、量を計り、取り引きに指図に欠かせない。

これが産業や交通、知恵の神へルメスの象徴とされたのは当然だ。

それは「行くもの」=先遣部隊とか、移民とか、先導者とかを意味した

ギリシャ語のイオンの象徴であった。

その人々が住む所をイオニヤと言ったが、

それは今のシリヤにまず出来、その後、我が国にも生まれた。

ソナカ=仲哀天皇の祖国語・パーリ語で、

イオニヤは鹿児島語のように短縮して変形し「ヨナ」になってしまう。

それが「与那国島(よなくにじま)」という名を

今も使っている沖縄県の最西端で、

台湾が見える所にあるということは、

その位置は台湾から見ると、

まさにギリシャからみたシリヤと同じ位置にある。

台湾は古名をギリシャの季節の女神のひとり

「ホーライ」に警えて蓬莱島(ほうらいしま)と呼んでいた。

台湾は気候が良く、高山があって、

熱帯から寒帯まですべての「季節」が揃っているからである。

こうした命名はギリシャ文化の持ち主でなければ出来ない。

仲哀天皇らが運んできた文明が

ギリシャ文明とインド文明の融合物だったことは、

もう疑う余地はない。

※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ 184頁

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『参考』
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