出典:言語復原史学会
○水稲とっいしょに来た弥生人
弥生文化が水稲といっしょにやって来たことは、だれでも知っている。
いまタイ国からビルマへかけての山地民族を調査してみると、
そこでは細長いタイ米(インディカ種)ではなく、
日本米(丸いヤポニカ種)よりさらに見事な、丸々とした大粒の米(中)が作られている。
日本の初期水稲遺跡は自然の湿地帯を求めて開かれている。
マレー語で水田をサワというが、まさに沢(さわ)こそ初期の水田だったのである。
タイの山地民族はこの沢を利用して水田を作る。
密林は火をかけて焼き払う。
日本も当時は森林に覆われていたから、石斧で開くことは不可能だ。
やはり焼くことから始まったと考えるほかない。
○仏教宜布団がもってきた弥生時代の米
ソナカが来たのは卑弥呼の少女時代で2世紀後半だが、
それ以前に九州に水稲と弥生土器をもって来た熱帯アジアからの大渡来人集団がある。
在来は弥生稲作は中国から朝鮮半島経由で来たという説が有力だったが、
弥生の水稲は寒さに弱い熱帯 japonica 稲 の一種である。
その熱帯aponica 稲 は今、原産地で選別されて、立派なものになっている。
1 インデイカ 2 タイ山地米 3 ヤポニカ(江州米)
○熱帯ヤポニカ稲のDNAが明示する仏教東伝コース
ソナカ宣布団は「東方十二道」の内のどのコースを通って、我が国までやってきたのか?
2000年7月25日朝7時のNHK総合ニュースは、静岡大学農学部の佐藤洋一郎教授が
「登呂遺跡で見つかった稲のDNAを、精密に比較検討した、
それは熱帯ジャポニカ種のものに一致した」と発表したとアナウンスした。
登呂遺跡は弥生後期とされる水田をもった集落遺跡で、
静岡市高松にあるから卑弥呼政権とは直接の関係はないが、
我が国にも陸稲(おかぼ)は縄文時代からあったが、水稲は熱帯アジア原産で、
その渡来を目盛りにした時代区画が弥生時代である。
前述のように、縄文晩期に中国から朝鮮経由でわが国に渡来したとされてきた。
しかし赤米など弥生稲を東南アジア各地の水稲と比較調査した加治木義博は、
九州の弥生稲は中国の長安や朝鮮半島北部では栽培不能な熱帯種で、
在来説は再考の余地があると警告し続け、
1983年3月に発刊した加治木義博著、カラーブックス『日本人のル-ツ』(保育社刊)
にも弥生稲の子孫が原産地で今もなお栄えている実態を、
写真で広く示して再考をうながした。
生物の学名には国際命名規約があって、ラテン語化して読む規則があり、
japonica は「ヤポニカ」と発音しなければいけない。
ジャポニカと発音するのは良識ある学者ではない証拠とされることを、
心得ておいて戴きたい。
○巨大な規模と意義と証拠力をもつ弥生水稲稲作
卑弥呼政権末期の弥生後期には、
静岡県にまで、熱帯アジア原産の「ヤポニカ稲」が普及していた。
この事実はインド、東南アジアからの移住者が、間違いなく実在したことの裏書きである。
この場合、弥生時代の開幕と、アソカ宣布団の発進時期が、ほぼ一致していることは、
次のような理由から、決して偶然でなく、
アソカ宣布団の先遣隊が水稲と共に銅鐸などのインド文化、
宗教思想と器具制作者を、我が列島に持ちこんだとする以外ない。
弥生前期は先ず遠賀(おんが)川土器が北部九州に普及し始め、
水稲稲作が九州から急速に東方に広がって、列島人の主食に米が加わった時期である。
土器は一人の技術者が製法を教えることもできるが、
稲は貴重な種子と特殊な水田を必要とし、
また長期にわたって水利を改善して守り維持し、肥料を収集生産し、
病害虫や野鳥や野獣に荒らされるのを防ぎ、手順を予知し天災に備え、
しかも生産物は主食だから、盗難を防ぎ村落を守る武装と武力も必要である。
全てに大掛かりな労働力と団結力と管理力を必要とした初期の水稲稲作は、
大規模な移民集団が来なければ、初期の栽培と拡張は実現しない。
だから水稲稲作の九州本土への初期分布は、
熱帯アジアからの大規模な移住者=すなわちソナカらが、
確かに東南アジアを経て、九州にまでやってきた、
そのコースを立証する確固とした証拠力をもっているのである。
○縄文・弥生期の東アジア稲作遺跡
水稲稲作の移動は荷物を運ぶような簡単なものではない。
それが理解できると、
「魏代(卑弥呼当時)より前、
戦国時代より後の中国とそれ以東で古代米が出土した遺跡の地図」が正しく読める。
在来説は今の北京(ペキン)よりまだ北東にある高句麗から朝鮮半島に入った水稲稲作が、
次第に南下して遂に海を渡って九州北部に広まったというのだが、
その北京以東、朝鮮半島のソウルに至るコースには、
水稲は愚か、陸稲の栽培跡も、炭化米や籾殻すら全く出土しないという事実である。
この地図の古代米は水稲に限らない。
陸稲でも何でもとにかく米の遺物が見つかった場所を表示したものである。
するとすぐ気づくのは、熱帯ヤポニカが栽培できる南中国に、
古代米の出土遺跡が、たった一例しかないという事実である。
その南中国に比べると、はるかに北にある日本列島には熱帯ヤポニカがあったのだから、
ソナカらが南中国経由で日本に来たのなら、
淅江(セッコウ)、福建(フッケン)、広東(カントン)といった亜熱帯地方は、
古代米出土遺跡があるはずである。
それがないこともまたソナカのコースは南海まわりの海上コースだったと立証している。
朝鮮半島出土の米が熱帯ヤボニカなら、
それは同族である倭人政治圏=九州以外からは絶対に入らないのである。
「地図」古代米出土先史遺跡 戦国・漢・魏代稲作関係地名
○「弥生時代」が始まった地点
ではなぜ?、
北部九州の稲は、中国から朝鮮半島経由で伝わったと信じられていたのか?
それには研究と発表の粗雑さと、陸稲も水稲も原産地も区別できない
「稲作文化」などという用語の粗雑さが、
重大な錯覚を生み出す原因になった事実を、お話しする必要がある。
1980と1981年(昭和55、56年)に
福岡県から佐賀県にかけての玄界灘沿岸遺跡の発掘調査が行なわれたが、福岡の曲り田。
佐賀の菜畑などの縄文晩期の遺跡から、
大陸系磨製石器と金属器や糸撚(よ)り用の紡錘車(ぼうすいしや)、
少量の大陸系土器などと共に、炭化した籾が見つかった。
これが「稲作文化は朝鮮半島から北西九州に伝わった」動かぬ証拠だと発表され、
大陸系の磨製石器や金属器は中国文化だから、
それらと稲とが一体になった「稲作文化」は、
中国から朝鮮半島へ、そして北九州へと伝わったのだ。
と断定的に思い込み、それはもう絶対に覆えることのない正しい「定説」だと信じこまれて、
自信に満ちて発表されたのである。
たしかに中国では少なくとも5000年以上前から稲が栽培され、
野生種も各地で見つかっている。
「稲は中国か原産地だ」といっても間違いではない。
産物名が主産地の名と共通するのはカボチャやモロコシがいい例だが、
イネ・イナと殷帝国のインも同じで、3000年以上前に確かに稲作をしていた。
だから中国が「稲作文化」の先進国だったのは真実である。
○殷帝国の神聖な聖地・常陸(ひたち)の国「稲敷(いなしき)」
殷の都の跡は今も明瞭に残っていて殷墟と呼ばれているが、正確に北緯36度線上にある。
その線上を実っ直ぐ東へ進んで、キッカリ2200kmの所は茨城県稲敷郡で、
「イナ=殷」「シキ=儀式」とみると、殷とって重要な聖地だから、
3000年前に大変な測量をして、都と聖地を配置した形になっている。
そればかりではない。
その稲敷郡の中でも、阿見(アミ)という特殊な名をもつ町には「福田貝塚」があって、
そこから出土したダルマ型の水差し(西宮市辰馬史料館蔵)は二本の角のある人の顔があり、
臍(へそ)のあたりに土瓶の口があった痕跡の穴があるので「人面注口器」と呼ばれているが、
一方の殷墟からもこれと僅かな違いしかない、角も顔も注ぎ口もあり、
手や模様など重要な点が20以上も共通している
青銅器「人面盉」(米国フリア美術館蔵)が見つかっている。
殷と稲敷の間には、切っても切れない関係があったことは疑う余地がない。
これで殷帝国にはどんな信仰があったのかもわかる。
それは太陽が昇るのを拝むもので、太陽を神とする信仰だった、
なぜ?そんなことがわかるか?。
それは茨城の古名が記録しているからである。
「ヒタチの国」とは、日が発(た)つ場所=日の昇る国である。
それは殷の人々が
「毎朝拝む日の神が昇天する神聖な場所」だったことを記録した「名」以外にない。
○殷代から金印の委奴国までの稲作文化遺跡
植物名としての「イネ」は確かに「イン」のものだった。
阿見町から牛久(うしく)町を隔てた町は伊奈(筑波郡)だ。
このイナの地名は、いまの町村単位以上のものをあげると次のようになる。
1 稲垣(イナガキ)村(青森津軽)
2 稲川(イナカワ)町(秋田)
3 猪苗代(イナワシロ)(福島)
4 印旛(インバ)郡(千葉)
5 稲城(イナギ)市(東京)
6 引佐(イナサ)郡(静岡)
7 伊那(イナ)地方(長野・岐阜)
8 稲沢(イナザワ)市(愛知)
9 稲武(イナブ)町(愛知)
10 員弁(イナベ)郡(三重)
11 印南(イナミ)町(和歌山)
12 伊根(イネ)町(京都)
13 猪名川(イナガワ)町(兵庫)
14 稲美(イナミ)町(兵庫)
15 因幡(いなば)国(鳥取)
16 稲築(イナツキ)町(福岡)
これらが稲を意味することは、
阿波=粟(アワ)、吉備(キビ)、牟岐(ムギ)、日吉(ヒエ)などの
穀物地名が立証している。
最後の稲築のイナツキという発音は、
その福岡県から出土した『漢 委奴 国王 印』と
彫られた金印と比較すると、
「イナ=委奴」「ツ=津=の」「キ=王、または城」と完全に一致する。
そこは福岡県でも
「嘉穂郡=目出度い・素晴らしい・穂=稲の国」という名をもった地域である。
委奴国は「稲の国」だったのであり、それは弥生時代をひらいた水稲文化の発祥地に、
最もふさわしい国名だったことに異議はない。
3000年以前の殷の聖地「稲敷」のイナと、B.C.E.3世紀の「稲築」と、
2つの稲の発祥地があることになるが、それは不思議ではない。
水田跡の分布からみても殷の稲は「陸稲」であったことは疑いの余地がなく、
委奴の稲は「水稲」だったことも疑いがない。
はっきり区別がつくからである。
○弥生時代を開いたのはマガダ文化
イン・イナ・イネという名は3000年前からあった日本語だということである。
それでなければ在来の説のように、
「稲作文化」が縄文晩期以前は中国だけの文化で、
朝鮮半島経由の渡来人たちが縄文晩期に「初めて」九州北部に移植した文化だとすれば、
稲は決してイン・イナ・イネと呼ばれるはずがない。
なぜなら、なにも新しい日本名を無理して付けなくても、
鉄はテツ、金銀はキンギンと中国語のままで便利に使われている。
稲も米も中国名のまま「稲=トウ」や朝鮮語の「米=サル」と呼べばいい。
それは現代のラジオ、テレビ、パソコンなどと同じことだからである。
また動かぬ証拠品として、形のある「物体」としての炭化米が、
縄文時代のかなり早期の遺跡から、
今も続々と発見され続けていて「稲作文化」渡来期の上限を更新し続けている。
だから「稲作文化」は
縄文晩期に、中国から朝鮮半島を経て九州北部から始まったのでないことはいうまでもない。
そんな説は完全に間違っていて「定説」どころではない。
では弥生時代を開いた九州の水稲文化はどこから来たのか。
それはその遺跡が明確な記録を残している。
南九州では「曲田」姓はマガタと読みマガダへの当て字だから、
福岡の遺跡「曲り田」は後世の読み替えである。
我が国の弥生時代はアソカ宣布団が運んで来たのだ。
○発掘考古学のマイナス要素が作った幻覚
では、それと一緒に残っていた大陸系石器などは、中国のものではなかったのか?。
当時の中国銅器類、矛や鏡が大量に北部九州で出土するのをみれば、
そうした利器頼を売り歩く職業が実在したことは確かであり、
「矛や鏡が中国製だから、それを副葬している死者は間違いなく中国人だ」などとは
誰も断定しないし、
「正倉院の御物にアラビア製のものが多いから天皇家はアラビア人だ」ともいわないのは、
物品は売買という手段などで幾らでも所有者が変わるから、
それがもつ証拠力には限度があり、
それを動かない証拠にするには、
「物以外の、普遍的な遺物」すなわち言語とか地名とか、その他の名とかいった、
大勢の人々が共用していた無形文化財によって、疑問を一つ一つ解決してから、
それは間違いなく○○だ。
と結論するのでなければ、史学にはマイナスになっても、プラスにはならない。
発掘考古学は史実の復元には補助的な役割しか果たさない宿命をもった、
限界のある技術なのである。
だから大陸系だからといっても、
磨製石器や金属器はアソカ宣布団が買った商品に過ぎなかった可能性もあるし、
中国の南には「河内(ハノイ)」がある。
これはよくご存じのベトナムで大陸系石器が出る。
これもまた中国だけのものと限定できる遺物でもない。
こうした点でも「稲作文化は中国から朝鮮半島経由で来た」はウソなのだ。
○マレー語と沖縄語に残ったソナカの足跡
「言語復原史学」なしでは先史時代の復元はもちろん、
混乱の激しい『記・紀』の再生もありえない。
当面の「弥生稲」の運び手捜査もまた同じことであるが、
目に見えるものしか理解できない脳のDNAの持ち主は、
複雑な思考能力を要するものを毛嫌いしたり、非難したりする。
それが劣等感の現われであることを見抜いて対応しなければいけない。
「弥生稲」の運び手も、一つ間違えばコジつけに見えかねない証拠を、
しかし広範囲に、そして確実に残している。
それは先にお話しした、東方宣布団の指揮者名「ソナカ=犬人」である。
彼等が東南アジア・コースをとたとわかったのだから、
その地域の代表的言語であるマレー語には、卑弥呼をカシイと呼び、
水田を意味するサワが我が国の初期水由だった「沢」の名として今も使われているように、
この犬を指す共通語も残っているはずである。
犬はマレー語でアンジンという。
我が国では「按針(アンジン)」は古く船旅を指揮する指揮者や船長を意味し、
「按司=アンジ・アジ」は、王国時代以前の沖縄で支配者を指す代名詞だったが、
多くの学者が語源を特定できないままになっている。
その理由は語源を日本語に求めたためで逆だったからだ。
このうち「アジ」のほうもマレー語では「統治者= adi アディ」として残っている。
ソナカは犬と翻訳されても支配者の代名詞になって分布しているのである。
○ソナカ宣布団が残した共通の名詞群
稲に関連したマレー語の名詞には、まだ日本語と共通のものがある。
穂をブリルというのは稲穂をイナボという「ボ・ホ」の沖縄発音「ブ」に合い、
船の早漕ぎ競争の名を「穂利(フウリ-)」と書くのは、
稲の渡来時の苦労と感謝を忘れないための「ブリル」に語源があり、
その行事を伝えた南中国でも古来「巴竜船」と呼ぶのは、
沖縄人と共通の歴史をもつ証拠である。
また東北地方の古語では古墳を「ホーリョー」と呼ぶが、これも稲をもたらした倭人が、
「穂利・巴竜」と呼ばれた名残りとみれば、謎はとける。
マレー語では米はプラスである。
これと関連があるのは「部落」で、
これは「米作り」を指すプラスへの当て字とみて間違いない。
これがさらに清音化すると「プラ=ムラ」になる。
ではソナカらはマレー語圏からすぐ我が国へ来たのか?。
フィリピンのタガログ語を調べてみると犬は aso アソである。
ここではソナカよりもアソカのほうが強く印象に残ったのだが、
ソナカが来なければ「犬」にこの名がつくことはない。
アソは我が国でも阿蘇・阿曽・麻生などとして残っている。
タガログ語では米は「 inapui イナプイ」である。
いうまでもなく「イナ・イネ・イン」の仲間で、
これも「稲生・稲武」という地名や姓がある。
過去の発掘調査で充分だとは誰も考えないが、
ソナカ宣布団のコースはこれで、ほぼ固まった。
○天孫降臨の笠沙にある最古の棚田遺跡
水稲栽培技術の究極は「棚田(たなだ)」を実現したことであるが、
その最古の遺跡が鹿児島県の天孫降臨の伝承地・笠沙の一部にあるという事実である。
加治木義博は、以前同地出身で同学の親友片平武三氏と現地調査をした。
この棚田は後世の長野県などのものに比べると、はるかに小規模ではあるが、
技法はすでに確立されており、鉄器の不自由だった弥生初期に、
水稲稲作の先進国だけがもつ英知、進んだ技術が
そのまま南九州に入ったことを立証していた。
これは『紀・紀』の天孫降臨の伝承をもつこの地域が、
その伝承のまま、北部九州よりも水稲稲作先進地だった証拠である。
発掘考古学者が無視したこうした遺物もまた、
軽率な中国→朝鮮→北部九州説を完全に消去する力をもっている。
この笠沙と一体になった南九州西岸、吹上砂丘の東部、海岸から約2.5kmの地点に、
高橋貝塚がある。
ここは縄文晩期から弥生前期にかけての遺跡で、
出土品の甑(こしき)=(穀物を蒸す土器)に、
土器を作る際に付着した熱帯ヤポニカ稲の籾(もみ)の跡が、
幾つも付いているのが発見された。
また同時に発見された石器には稲作関係の器具が完備して稲作文化の実在を証明し、
鏃(やじり)の残骸らしい鉄器片まで出土しているのに、
土器は高橋Ⅰ式とⅡ式という、北部九州の板付式土器と共通点の多い土器だけが出土して、
大陸系のものは一つもない。
○誰が開拓したか?弥生前期に弘前に水稲
1985年に青森県弘前市の砂沢遺跡で、弥生前期の水田跡が発掘された。
弥生水稲が南九州に移植されてから、1~2世紀の間に本州北端まで広がったのである。
これらは弥生中期に卑弥呼と結婚したソナカたち一行の遺物ではない。
それより5世紀も前の移住跡なのである。
それは前記の通り、水稲栽培開拓にまつわる難問題を克服できるだけの、
かなりの人数の人々の大移住があった証拠だが、
交通至便な現代でも余程のことがなければ移住などしたくはない。
ましてや歩くか船に乗る以外に乗り物のなかった時代に、本州の北の果てまで移住したのは、
余程の理由があったことになる。一体だれがそこまで行ったのか?。
しかし当時、水稲の原産地帯にも、中国にも、九州にも大量移住が
必要な大動乱や大災害などはどこにもなかった。
そんな地域まで、これほどの長距離大移動を敢行したのは、
世にも希な目的意識のある人々がいたためとするほかないから、
それはやはり弥生直前に敢行されたアソカ仏教宣布団の大移動以外にはありえない。
とすると、マレー語源からフィリピンまで、ソナカと犬と支配者の称号を残した、
あの卑弥呼の夫の祖先のソナカが、南九州から次第に東北地方まで、
仏教圏を拡大して行ったのであろうか?。
またそんな寒地にまで熱帯ヤポニカ種が適応しただろうか?。
それとも寒地向きの稲も準備していたのであろうか?。
○銅鐸はウッタラ仏教宣布団の「絵解き読本」
これにも答える遺物がある。それは関東以北に多く残る「ダイタラボッチ」の伝説である。
彼は肉体の大きな巨人とされるが、必要なのはその名である。
この名は地域で多少変わるが、「大太良坊」や「大太法師」と書かれるのをみると、
「ボッチ」は「法師」または「坊主」であって仏教に関係のある存在である。
するとソナカとともに東方へ派遺された宣布団の、
もう一人の指揮者「ウッタラ」の名が浮かんでくる。南九州では「大」は「ウ」と発音する。
「大太良」はぴったり「ウッタラ」に一致する。
この奇妙な巨人の名は、ウッタラも日本列島へ来ていたことを、あらゆる点で教えるが、
時代が早く、地域が記録に残りにくい東国だったために、
僅かに童話的な伝説しか残らなかったとみていい。
彼はあらかじめ協議の上、寒地を担当するために寒地向きの稲を準備していたと考えると、
熱帯アジアを次第に東遷したソナカらより、早期に日本列島まで到達して布教していた。
それが卑弥呼より前の弥生前~中期に銅鐸などを考案して信仰とともに稲作を
教えた人々の正体だったのである。
こうわかると銅鐸に描かれた渦状文は水稲の母=水を意味し、
蜘蛛やカマキリは害虫を退治する味方で、
狩猟のように見えるのは稲を食い荒らす害獣の駆除法で、
籾を臼でついて収穫するまでの「絵解き読本」だとわかる。
○水稲稲作と仏足石(ぶっそくせき)が生んだ民話
これでもまだ「大太良法師」が仏教と無関係だと思う人は、
彼の話のヤマが「巨人の足跡」だという事実を考えて見て戴きたい。
古代人は裸足で歩くのは当然で、足跡になんか関心を持っはずがない。
それなのに特別に足跡の話をあちらこちらに残したのは、
それまで考えもしなかった足跡というものが、
突然、彼等の話題になるような事態を体験したからである。
それは稲を植えるためには、過去には避けて通った泥濘(ぬかるみ)に、
足を入れるという不快な行為が強制される。
そのときイヤでも順に足跡がつき、その足で歩いた道にも足型がつく。
もう一つは「仏足石(ぶっそくせき)」が当時は釋迦の象徴だったことである。
中期の仏教は繹迦像を作ることを避けて、
仏の足型と称するものを聖体として礼拝させていた。
水稲稲作という不慣れな農業で足型に関心をもった人々に、
その仏足の話は効果的に「巨人・釈尊」の偉大さを、印象づけるはずだったが、
残念ながら当時の弥生人は、インド人ほどの教養環境で育ってはいなかった。
彼等の印象に残ったのは巨大な肉体をもった怪人が実在するという
「新知識」だけだったから、 やがてまだ見ぬ最高指導者の「大太良法師」と混線して、
ダイタラボッチという怪物の話が出来上がってしまったのである。
こうした民話は従来は漠然と、
愚かな古代人の想像した無駄話ぐらいにしか扱われなかったが、
そうした伝承学はもう古過ぎる。
○南九州語の「大・小」は稲作の運び手の名
弥生前期に弘前まで誰が水稲稲作を広めたか、充分よくわかったが、
今度は、熱帯水稲はインドからだけ入ったのではないことと、
その稲の種類についてお話ししよう。
私たち本土人は食べる部分の稲の種子=「米」をコメと発音するが、
沖縄の人は「クミ」と発音する。
そして沖縄にある久米島も「クミ」島と呼ぶ。
その久米を本土人は「クメ」と読むが、東南アジアにはクメールという人々が、
古来強力な種族を形成していて、もちろん稲作人種である。
言語の共通性も久米の名も、米をわざわざ「クミ」と呼ぶことも、
全てが沖縄への稲作の運び手の中に、クメール人がいたことを物語っている。
だがここではどこから来たかが問題なのではない。
南九州語では「コメ」というのは「小さい」という意味である。
これの対象語「大きい」は「フトカ」という。
だから「コメ」はクメールから来た稲で小粒であり、
そのほかに「大粒の米」があったことになる。
その米は誰がもって来たのか?。
答はその名にある。
「フトカ」は漢字で書くと「浮屠家」で仏教人をいい、ホトケの語源でもある。
南九州語の「大・小=フトカ・コメ」は、古代からあった形容詞ではなくて、
稲作が各地から入って来て、その米粒の大小から新たに生まれた日本語だったのである。
これもまた仏教徒が稲作をもって来た動かない証拠であり文化財なのだ。
○4種類以上の稲が拓(ひら)いた古代日本の稲作文化
日本列島には
「3000年以上昔に、中国の殷帝国のものと共通の、イネと呼ぶ陸稲があった。
縄文遺跡から出る超古代米はこれである」ことがわかった。
次いで時期は不明だが
「クメール人移住者が小粒の米の取れる水稲をもって来て、
久米島を本拠にして定住し、その後、コメが沖縄から本土まで広まった」。
「縄文晩期にはソナカとウッタラが率いる仏教宣布団が渡来、
ソナカは南九州から熱帯ヤポニカ栽培を広め、
ウッタラは本州を東進して寒さに強い水稲を弥生前期に弘前まで広めた」こともわかった。
ざっと大別しても4種類の稲が、約1000年の間に日本列島に運ばれて来て、
いずれも立派に栽培にされたことが明瞭にわかる。
その種類も殷~稲敷の米は寒地型陸稲。
久米島の米は小粒の、南九州の米は大粒の、いずれも熱帯ヤポニカ水稲で、
弘前の弥生前期水田のものは、
マガダ以北産の寒さに強い温帯ヤポニカ水稲だったとわかる。
「縄文晩期の北部九州の稲作遺跡は日本で最初の稲作文化だ」という在来の説は、
実に恥ずかしく情けない虚説を発表したものである。
我が国の「稲作文化」は、3000年以上昔の殷代以前から立派にあったのであり、
北部九州のそれは、はるか後世に南九州に渡来した稲の、
そのまた移動後のものの一部に過ぎず、
中国から朝鮮経由で来たのでもない。
○広東の古代稲作遺跡は卑弥呼の観世音遺跡
『魏書倭人章』を読めば
対馬・一大の人々は南北へ「市糴(してき)=米を買いに」行くと はっきり書いてある。
国境などなく、稲作に必要な石器などもどんどん物々交換されていた時代なのである。
それは便利に使えさえすればいいのであって、幾らでも誰の手にもはいる。
そんな大陸系石器をもっているから持ち主は中国人だと決めつける、
時代遅れの発掘考音学者が、真実を求める日本国民と世界の史学の敵であり、
日本人の恥であることはいうまでもない。
熱帯ヤポニカ水稲が、絶対に北から南に入ることがないのは、
稲の品種改良が進んだ現代でもなお北鮮が、慢性的な飢饉に悩み続けている事実で、
簡単に理解できることである。
弥生稲が中国から来たか、その逆かには動かぬ証拠がある。
古代稲作遺跡のない中国南部でただ一か所、
広東にある遺跡の「仏山」がそれで、その名が仏教遺跡だと裏書している。
南中国は水稲の適地だから、もっと多くの遺跡があるはずなのにそれがない。
しかも古代稲作遺跡が大量にある中部から、はるかに飛んで南海に面しているので、
対岸の沖縄から海を越えてやって来た仏教徒が作った遺跡だとすぐわかる。
時代は弥生後期、
ちょうど卑弥呼の観音信仰が中国南岸に普陀落迦山(フダラッカサン)を作って
観世音(カシイ)の名を伝えたころである。
中国で仏を指す「浮屠(フォト)・沸(フォツ)」はパーリ語の Buddba(ブッダ) ではなく、
日本語の「ホトケ」への当で字だったのだ。
○船橋遺跡が解明した弥生文化の実態
船橋遺跡は大阪府枚方(ひらかた)市の最も北の遺跡で、
船橋川に沿った平地にあるが、弥生中期とされている。
それより少し後の弥生中期後半になると近くの田口山遺跡から、
石包丁と穀物貯蔵用の大型の壷が多数出土しているので、
船橋遺跡も川沿いという位置関係からみて水稲稲作がはじまっていたことは間違いない。
手焙り形土器の形からみて、インド系の人々が、そこに住んでいたとみていいから、
その水稲は種子島経由でやってきた南方の稲だったということになる。
沖縄の久米島(クミジマ)は沖縄語のクミ(米)の島という名と、
今、東南アジアに住むクメールの人々とを意味するとみていいから、
種子島にはいった米のルートがさらに詳しくわかる。
その種子島には今も赤米が栽培されて神事に使われているし、
同じ赤米は船橋川の流れ込む淀川の上流、滋賀県でもやはり現在まで受け継がれている。
近江の江州米は関西を代表する米として有名だったが、小粒である。
弥生時代の米がどんなものだったかをよく示している。
それを持ってきたインドの人たちがどんな人だったかもすでにお話しした。
それはソナカたちに先行して列島を北上したウッタラたちの仏教宣布団で、
銅鐸を造った人たち、その銅鐸生産には手焙り土器が役立ったのである。
「インドの金属技術者」
手焙り形土器の中の木炭を長い吹管で吹いて高熱し、金属を溶かして細工する。
吹管は日本の火吹き竹と同じ性質の文化で、
紀元前25世紀のエジプト第5王朝時代の壁面彫刻にはすでに似たものが見られる。
○陸稲=シュメールから、水稲=クメールから
殷や稲敷の語源が稲の語源の食物の女神・イナンナだったことが確認できると、
いまイナとかイナミ>とか読んでいる地名も、このイナンナを守り神とした<農耕者>たちが、
古代の我が国にいたことが、疑いない事実だったと理解できる。
また印南国と書けばイナンナそのものであることもわかる。
稲文化は非常に古く、稲敷→殷以前に我が国に到達していて、
それがイナ、イネという日本語を生み、現代まで使われ続けているという歴史もわかる。
それは、時代と、殷の地理的状況と、出土モミの検討から陸稲だったことは常識である。
水稲はそれから後に入って来た。それを主食とする私たちの祖先は、
どちらもこの列島の、生え抜きの土着人ではなかったことは疑いない。
後から入って来た水稲のコースも、その名から判っている。
それはコメという稲の別名がダプッて実在し続けているからである。
コメは沖縄語ではクミで、その通りの名をもつ島がある。
クミジマ=久米島だ。
この久米は本土語ではクメと発音する。
すると我が国の南西にそれを国名にしている国がある。
クメールである。
私たちからみればその国名はまさに米国(クメール)そのものである。
沖縄のクミは鹿児島でコメと発音が変わる。
それが全国に拡がって標準語になったのは、
その移動拡大の事実とコースの動かぬ証拠なのである。
このイナンナ説は近くに住んでいた歴史家たちに教えて、
それが幾冊かの出版物にも掲載されているが、
イナンナがいつ?何処?を経由して我が国にまで到達したという論文はなく、
ましてやそれが殷商帝国の誕生にまで関わったという研究結果までを、掲載したものはない。
米はヨネ・ヨナとも呼ばれた。
こちらは与那国島から沖縄県各地の与那のつく地域を経て、
本土の米子・米原ヨネハラなどに分布している。
これを整理すると、
シュメールから陸稲、
クメールから水稲、
ギリシャ人が高級種のヤポニカをもつてきたのである。
植物学に暗い学者はヤボニカをジャボニカと発音する。
生物の学名はラテン語化してつけるのが、
命名規約で決められた原則であることを憶えておいて戴きたい。
○オリザ・ヤワニカと、沢口靖子の証言
植物の女神イナンナの名から稲のルートが判ったが、
稲は植物の品種の一つだから植物学を無視できない。
それは主食を作る文化で農学最大の対象であり、
人類生活の根底を支える経済活動だから経済学も切り離せない。
名前の比較だけでは史実は復元できない事が判る。
史学の調査に出掛けても、広い視点で観察し、記録し、
問題を提起しなければ収獲は貧弱なものに終る。
説得力のある、その実例として、加治木義博が昭和400年代から500年代にかけて、
台湾からタイ・ミャンマーまで東南アジヤの山地居住者(Hill tribe)調査を重ねた、
その体験を少しお話ししてみよう。
その時、私が発見したのが講義録(院)30の4p,に転載した
カラーブックス『日本人のルーツ』26ページの、
日本米・ヤポニカよりさらに見事な丸々とした大粒の水稲だった。
これはその後、専門家によって研究が進められて、
Oryza javanica オリザ・ヤワニカと命名され、原地の通称を使ってプルと略称されている。
私はその図版の解説の中に
「日本の初期水稲遺跡は自然の湿地帯を求めて開かれている。
マレー語で水田をサワというが、まさに沢こそ初期の水田だったのである」と書いている。
ウバイド人はインダスから我が国まで来て、沢に稲を植えた。俳優の沢口靖子の顔立ちは、
その姓と共に、古く遠い故郷がウバイドであることを、今も雄弁に立証しているのである。
○水稲の伝播コースは日本→朝鮮→江南
釣針=ナクシ。<ナ>は魚、<クシ>は串と同じで針を意味する日本の古語
(以下日本の古語という説明は省略するが全部それに当たる)。
釣糸=ナクシッツル。ナクシ津ツルで、津は助詞の「の」。
ツルは玄、蔓、糸、紐、線、列、連るを意味し、連れ、連るむと同じく、
つながっていることを意味する。
朝鮮語にはツルのほかに<オラギという語もあるが、
これも緒(オ)に結びつく語である。
釣竿=ナクシツツエ。ナクシの杖
鍋=ナムビ
釜=カマ
塚=チュク
靴、履(くつ)=クヅ
鎌=ナト。古代は鎌と錠(なた)は区別がなかった
兜、帽子(ボウシ)=カムト。被る(かむる)という語から分化した語
宝石、装身具、釧(くしろ)=クスル。
釧は貝がらを切って作った時代には代表的な装身具で宝であった(腕輪・ブレスレット)
水滴=ムルパヌル。ムルは水。パヌルはハネルの古語。
日本でも古代はハ行はパ行だったとされている。
しずくをただパヌルともいうがこれは省略型
涙(なみだ)=ヌンムル ヌンは涙、目水、目ン水(ナンミヅ)が託った形になっている
こぼれる=ナームタ。こちらの方が涙に近い。意味が大きく変化した姿が見られる
川=カー、ケー
田園(たんぼ)=タプ。
漢音では田は<デン>。
タと発音するのは日本だけであり、
朝鮮の稲作が日本から入ったことを言語上からも示している。
水稲は中国南部から入ったとする説があるが、
江南の日本型の米(オリバ・サチバ・ヤポニカ)は、
王莽のときと、隋の煬帝(ようだい)のときと、唐代の高句麗と百済の滅亡後、
朝鮮の農民を大量に江南へ移したという記録があり、
それ以後のもので、インドから来た倭人が、粉食人だった中国人に水稲栽培を習ったり、
米の種子をもらうような江南から朝鮮、
日本という逆コースはどの点から考えても、実在しないのである。
束=タバル。「たばねる」が名詞化したもの
ももひき(股引=ズボン)=パッヂ。
バッチという方言がある。
これは下ばきで「汚れもの」を
「ばっちい」という幼児語化したものが語源
武者=ムサ
目標、的(まと)=マッタ
豪傑、強い、荒々しい=カセダ、鹿児島県の加世田は古代の阿多隼人の出身地
大げさ、誇大、くわせもの=クワシ
怒る=コル
口惜しい=クワエシ
美しい、美妙=タエ/巫女(みたまふり、御魂祝(ふ)り)=ムーダム
群(むれ)=ムリ
先ず=マンザ。方言のマンズに近い。同型には、友(とも)=トンム。がある
走る=バッチル/甘ったるい、たらしこむ=タルコムハダ
鹿児島弁の「たり(タイ)こむ」に近い
まるっきり、どだい=ドダエチヤ
なぴく=ナプツキダ。これも鹿児島弁の「なびっ」に近い
並ぶ=ナラニ
ぐるりと廻す=クールリダ
一(いち)=ハナ。最初からをハナからという
太陽=ヘー。関西ではヒーという
塵=チ。鹿児島ではチー
戸外、表(おもて)=カト。関西ではカド
薄(ススキ)=カール。かるかや
蛙=カエグリ
焼酎=ソヂュ。鹿児島弁ソチュ
頭(こーベ)=コーゲ
狼(ぬくて)=ヌクテ
足=タリ。藤原鎌足
歌=ノラエ。告(の)る、祝詞(のりと)
陸=ムツ。陸奥
原=パル。
ではあのウサギの名は何を証明するのだろう?
王名は領土の「名乗り」だった。
仁徳天皇は阿波・讃岐という動かない領土をもち、それは現存している。
これに比べて『三国史記』の王たちは、
日本語のウサギという名を翻訳した朝鮮語の名前だけしかなくて、
その名乗りに合う領土がどこにもない。
だから実態は仁徳天皇だけが実在。
他は伝承だけで、それを地域の王と感違いしたのだということが、はっきり証明されている。
しかもその歴史伝承は、三国ともその
「ウサギ王(仁徳)が自国の支配者だった」ことを認めているのである。
これでどちらがどちらを支配していたか明瞭になった。
もう疑問の余地はなくなったのである。
『参考』
歴史学講座『創世』うらわ塾
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊
ウワイト
古代史の画像
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
0 件のコメント:
コメントを投稿