出典:言語復原史学会
言語復原史学会
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「スケッチされていたその風俗」
「13世紀の文献に描かれた、なぞの沖縄人」
「13世紀のナゾの沖縄人の凄い画像」
「13世紀の沖縄に倭人がいたか」
「スケッチされていたその風俗」
その風俗は沖縄では13世紀まで確実に続き、その証拠の絵が今も残っている。
その中央にはギリシャ型の冠を被(かぶ)って、ポセイドンの武器・三叉鉾をもった、女性の指揮者が描かれている。
沖縄のアテナだ。男性は「招頭=鉢巻き」して「上長下短の弓」をもつ『魏書倭人章』記事そのままのスケッチを、今でもこの眼で確認できるのである。
「寛元元年(1243)に漂着した商人が描いた『漂到琉球国記』巻末の、著者手書きの写生図」
『図』漂到流球国記巻末絵図の一部 13世紀
漂到琉球国記
漂到琉球国記
※出典:大学院講義録16 20頁
「13世紀の文献に描かれた、なぞの沖縄人」
柳田氏は沖縄で宝貝が首飾りに使わない事実、その理由や歴史を次のように書いている。
「首飾りの習俗が久しく伝はり、是に宗教的関心を寄せ続けて居た社会に於て、
どうして又あの様に手近に豊富に産出し、且つあれほどまで美しく、
変化の奇を極めて居るといってよい宝の貝を、わざと避けたかと思ふばかり、
利用の外に置いて居たのかといふことが説明せられねばならぬ。
……余りにも貴重なる宝の貝であった故に、
それを自分の首飾りにすることのできぬ年月が長かった為であろう。
……(中国で)東夷といひ又島夷といった方面に於て、
その最も明かな痕跡(こんせき)を永く留めたのは沖縄の諸島である。
輸送が江准(コウワイ=南中国)の間に限られず……後まで……
なほ莫大なる輸出をして居たのが、この洋上の小王国であった」。
ではその宝貝を供給して、世界経済を支えていたのは、どういう人々だったのであろう?。
加治木義博の『日本人のルーツ』で、やや詳しく説明してあるが再録してみよう。
鎌倉時代の寛元元年(1243)九月、長崎県五島列島の小値賀(おじか)島から中国へ向け出航した日本商人が、台風にあって琉球列島へ漂着(ひようちやく)したときの見聞録『漂到琉球国記』という文献が今も残っている。
それにはその筆者の写生がそえられているが、そこに描かれた風俗は私が13回にわたり現地調査したタイ奥地からミャンマーヘかけて住む、カリエン人そのままである。
※出典:JINMU 102頁
「13世紀のナゾの沖縄人の凄い画像」
鎌倉時代の寛元元年(1243年)9月に、長崎県五島列島の小値賀(おじか)島から中国へ向けて出航した日本の商人が、台風にあって琉球列島へ漂着しましたが、その時の見聞録を『漂到琉球国記』という文献にまとめたものが今も残っています。
それには筆者が描いた非常に上手な写生がそえられていますが、その絵は私が現地調査の時に見た、現在のミャンマーやタイのカリエン人風俗そのままです。
カリエン人は、戦前の旧ビルマ時代に支配者だった英国人が、誤って「カチン族」を「カリエン」と呼び、本当の[カリエン人]を「カレング」と呼んだために、日本では今でもカレンと呼ぶ人がありますが、[カリエン]という名は「コーレアン」の訛なので、今後は正確に[カリエン]と呼ばないといけないのです。
戦後はミャンマー北部のカレン州とカレンニ州を中心に、国境を越えてタイ国内にも大人口が住み、中国各地にも同族が広く分散して住んでいる人々で、「ブガイ=部外」「スガウ=菅生」「プオウ=部王」という日本語と共通の名をもった三大部族に分かれています。
同族の人々が中国では「黎(リエ)族」と呼ばれて各地に分散していて、その大集団は広東(カントン)省の海南島と雲南省に住んでいます。
またミャンマー国内の「カチン」や「チン」「シャン」「タライン」などの人々も、日本語と同系統の言語を話し、共通の名詞をもち、風俗習慣にも私たちと多くの共通点をもっていることがわかっています。
彼らは『漂到琉球国記』の絵と同じ「貫頭衣」を、男女とも現在もなお頑固に着つづけ、また布で頭を包んでいますが、これも「招頭」と『魏書倭人章』に挙げられているものと完全に同じものです。
この絵では船の真ん中に、冠を被った女性が一人、房飾りを下げた三叉鉾(さんさほこ)を手にして立っていますが、これはどうみても指揮者です。
これもカリエン人の特徴の一つ「母系家長制」の表われで、この点も天照大神や卑弥呼から奈良時代の大和朝廷の女帝に至る系譜や伝統と、共通したものを守り続けていることが観察できます。
そのほかにも細かい点まで多くの類似点が見られます。
絵の人物は弓で魚をとっていますが、その弓も『魏書倭人章』の記事どおり「下が短く上が長い」。
また今のカリエン人は入れ墨を自慢にしていますが、『魏書倭人章』も倭人は全て入れ墨していると記録しています。
戦前までは奄美地方に、手に「ホツキ=彫突き」という入れ墨をした婦人がいました。
人種の移動は言語を調べるとよくわかります。
同じ言葉が点々と分布していれば、それは人々が次第に広がって移住したことを示しているからです。
絵:漂到琉球国記のスケッチ
13世紀当時の沖縄の住民が漁をしている姿を詳細に描写している。
男子の服装や鉢巻きは現在のカリエンの人々が着ている衣服と全く同じで、『魏書倭人章』が記録したいわゆる「貫頭衣」と「招頭」がこれであったことを裏書きしている。
ことに手前の船の中心に三叉鉾を持って指揮している女性は、頭に冠をつけていて、その地位の高さ、女性上位の社会を証言する。
これもまた卑弥呼当時から現代のカリエン人まで継続している慣習と風俗で、絵の弓が上が長く下が短いことなどまで、3世紀の『魏書倭人章』の世界が、13世紀までほとんど変わることなく沖縄で続いていたことを示しているし、また三叉鉾はギリシャ神話の「海神」を象徴する武器で、この人々がギリシャ文化の継承者であり、いわゆる日本神話の「海神=わたずみの神」だったことを、この絵ではっきりと証明している。
※出典:日本国誕生の秘密 117~119頁
「13世紀の沖縄に倭人がいたか」
邪馬台国で有名な『魏書倭人章』には22ページの”貫頭衣”を着、布で招頭(頭を包む)し、下が短く上を長く持つ特殊な弓を使う倭人の風俗が記録されている。
この記事と全く同じ風俗の人々が13世紀の沖縄に現存したことを文章と絵で記録したものがある。
寛元元年(1243)肥前から中国へ向かった日本の商人たちが、漂流して沖縄に流れついた時に書いた『漂到琉球国記』がそれである。
さらに、この風習をもった人々は今も東南アジア各地に見つかる。
邪馬台国の謎はこうした部分から次第に解けつつあるものである。
写真をよく見比べてほしい。
「図」漂到琉球国記巻末絵図の一部:13世紀
13世紀の沖縄に倭人がいたか
※出典:日本人のルーツ 20頁
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