2011年4月20日水曜日

 シュメル→インダス→稲敷→殷への移動

出典:言語復原史学会

○シベリヤ命名の時期とシュメル人の居住証明

これは「スメル人=住める人(現代語なら、住んでいる人)=国民」を意味するから、

住むという日本語が生まれたのは、シュメル人政権時代のことだったとわかる。

また「スベル=滑る」だから、いま試験に落ちることを「滑る」ということを考えると、

スメル人は統治者の地位を失ったことから

「滑る」という日本語が生まれたこともわかる。

その不様(ぶざま)な様子から、ぬかるみなどで滑って尻餅をっくことも

また「滑る」という言葉で表現することになり、氷で滑るのが日常の北国で、

凍結で滑るという意味に多用されたから、そちらのほうが一般化したとみると、

滑るを語源にして、滑る土地という意味でシベリヤという地名が生まれたのは、

その政権喪失以後のことになる。

それはギリシャ人の強力な勢力が政権移譲を迫ったからだということも、

スサノオの政権追放や大国主の国譲りとして記録されているから現実にあったことで、

アレクサンドロス東征後、あまり時間の経たない時期、

弥生時代の初め>だったことは動かない。

ではシュメル系の人は完全に排除されたのか?

『大宝令』の官制をみると、春宮(東宮)に「主馬署(しゅめしょ)」が設けられ>て

馬や馬具を管理したことが紀録され、アラブ馬の産地を故郷にもつ人たちが、

その特技活かして勤務>した様子が眼にみえる。

そして今も宮内庁には、馬事と車両を管理する「主馬寮(しゅめりょう)」がある。


○皇室はシュメル起源だと語る多くの遺物群

主馬はシュメルに対する巧妙な当て字なのである。

それも現在のシュメリョウのほうが、より語源の発音に近いのも面白い。

スメラギ、スメラミコト、スべル、スメルだけでなく。

住、済、壷、炭、隅、角、寿美、鷲見、須磨など、

皇室の伝統のシュメル起源を語っている。

「スム」は「清む」だから、スサノオが出雲で

結婚した媛の父「須賀(清)の八耳」一族もまた

「清める人=スメル人」だったのである。

それはさらに政権委譲が大国主国譲りが教える通り、死闘によるものではなく、

平和裏に融合することで収まって、

婚姻や養子縁組による合体で、血の繋がりを絶たなかった事実>を裏書きしている。

それは当然で、国家の起源は古い方がいいから

『記・紀』も建国を神代だと主張したのである。

それを遥か後世の神武天皇時代に引きずり下ろして建国記念日を

制定した連中は国民の敵なのだ。

だがこのお話はまだ終わりではない。

「スム、スミ」は「済む、済み」だから倭王・済もこの伝統名を名乗ったのである。

彼は和泉を倭済(いずみ)と名乗ったが、そこは住江に隣接している。

マルセイユの例のように<L音>は<Y音>に変わるから沖縄ではスメルはスミユーになる。

奄美の住用村はその当て字で、それが<住吉になり、スミエ・住江・墨江と変った>もの。

だから彼は後世の肩書なら「スメルの守(かみ)」と名乗ったのである。

それは一体?何故だったか?


○シュメル出自想像説や在来史学と、史実との酷い隔差

インダス5大河の古名の日葉酢姫を考えてみよう。

それは偶然のいたずらか、他人のソラ似なのだろうか?

彼女の父は旦波の比古多多須・美智能宇斯王で、美智能宇斯とは

今見た御中主をミチュウヌシ・ミチノウシと読んだものだった。

当て字と読み方が違うだけで、

それはシンドゥの最高神・ビシュヌー(毘紐縫(ビチュウヌウ))を

意味する名乗りだったのである。

だから日葉酢姫が、自分の支配する河の名を名乗ったとしても不思議ではないし、

河の名に神の名がついていても少しもおかしくはない。

河川は今も巨大な財産である。

灌漑農業が富の源泉だった当時には、

大砂漠よりも尊い領地だったことを改めて認識する必要がある。

この父娘の名がここに同時に見られるというのは、

これまで見てきたウバイド→インダス→我が国という遷都コースが

疑う余地のない史実だったことの、強力な証拠だと、

はっきりここで、再確認しておいて戴きたい。

こうしたことを1つ1つ確認して行くことによって、

『記・紀』に対する過去の認識の誤りが、白日のもとに明かに見えてくる。

奇稲田姫の母を田舎婆さんだと思い込んでいた歴史家たちが、

どれくらいヒドい思い違いをしていたかは、子供にでもわかる。

また在来の確証なき日本人・シュメル出自説と、

いま私たちが知った史実との間に、どれほど大きな隔差があるか、

その大きな問題点もよくお判り戴けたと思う。


○インダスから稲敷へ、そして殷への明確な時代わかる

その都市国家時代はB.C.E.2350年ごろのジェムデト・ナスル期まで続いたが、

サルゴンの率いるアッカド人に敗北してアッカド王朝時代に変わり、

サルゴンの曾孫・ナラム・シンは神名のシンを名乗って自分を現人神に譬えた。

しかし圧制に反発してウルクやキシュの市民が反乱を起こしたので、

ザグロス山脈からグデイ人が雪崩れこんで、

アッカド王朝は崩壊し、グデイ人支配が90年続いたが、それを倒したのは、

ウルクのウトゥヘガルで、メソポタミヤを再びスメル人の手に取り戻した。

これが新スメル時代で、B.C.E.2112年にはウルナンムが王朝を樹てた。

それが栄えたB.C.E.2060年以後をウル第3王朝と呼ぶ。

インダスのほうはB.C.E.3500年のスメル支配以後にインダス流域に植民し始めて、

アムリ文化を生み、

インダス文明を発達させて、B.C.E.1400年ごろまで続いたあと、衰微してしまったが、

その時期がピッタリ、殷の登場期に当たる。

縄文時代後期である。

茨城県稲敷郡に移住した歴史的瞬間もこの前だったことは明らかである。

先にお話しした遺物から、当時の信仰が、やはり水神だったことは、

器の神象が「竜」を意味していることで明らかである。

そして稲敷は「水郷・霞ヶ浦」の奥、

ウバイドそっくりの環境に位置している。


○殷という名の真意までわかるスメルの神名

これを少し補足すると、大地と水の神エンキは、沖縄大隅語ではインキになり、

殷の王のインキに一致する。

殷人という呼び名は、イナンナばかりでなく、これからも生まれたことが考えられる。

それは国土を守る神 として、農業神以上に信仰の対象になったのだ。

それはインドやインカのインにも結びつく。

決して我が国と中国だけに、人々と共に運ばれたわけではない。

この発音差で音を話せない沖縄大隅人は本来のスメル人ではないことも判る。

イナンナはアッカドではイシユタルと呼ばれる。

この稔りの女神は穀物と野菜と織物原料の植物を授けて、人々の衣食を足らせる。

だから「衣・イ、食・シュッ・足る・タル」にぴったり合う。

またタルという語尾は、面垂(オモタル)などの神名や足・帯・根のタルとも共通している。

月のナンナルがマンマルになるのはニワトリをミヤドリと訛る

沖縄語を考えると不思議ではない。

この言葉に注目すれば、むしろ「真ん丸」のマンは、

なぜ生まれたかという疑問が大きく、のしかかってくる。

その謎が、この神名が語源だとわかると、一度に氷解する。

これらの神々はまた、その役割分担も数も我が国の開闢神たちと非常によく一致している。

それだけでなく、従来、謎だった神名の真意まで明らかに教えるものが全面的に見つかる。

これでも無関係だというには、無関係だという理由を挙げて納得させなければならない。


○五瀬の命の血沼の海と天降(アムール)人王朝時代

しかしウンマの隆盛も、

その侵略を真似た北方の都市国家・アッカドのサルゴン王により一朝の夢と消えた。

ウルク王も50の都市国家も降伏して支配下に置かれ、

旧メソポタミヤは二分されて北は<アッカド>になり、

南半分がシュメルということになってしまった。

紀元前2300年頃のことである。

勝ったサルゴンは勝利の儀式として「血ぬられた武器を海水で洗い浄めた」。

この「血を海水で洗う」という話は、

『古事記』の「神武記」にも、五瀬の命が手に負傷し、

「海で血を洗ったから」血沼(ちぬ)の海というのだ。

という地名説話がある。

この場合は何も海まで行って血を洗わなくても清潔な水は幾らでもある。

それをわざわざ海水で洗ったと強調するのは、

サルゴンが海で行なった浄血儀式の記憶または記録が、

血塗られた五瀬の命の話にすぐ結びついたとみていい。

五瀬の命は崇神紀では武埴安彦で、

その古型は殖安奴津見(エアンナツム)だったのだから、

間違いなく我が国に伝承されていたのである。

しかしサルゴン王朝もウルの代官だったナンムによって5代で滅ぼされ、

ウル第3王朝が紀元前1955年まで続いたが、これもアムール人に滅ぼされた。

シュメルの都市国家イシンとラルサにアムール人の強力な王朝が生まれ、

アッカドのバビロンその他にも中小のアムール人王朝が造られた。

しかしそれもラルサ王のリム・シンに奪われて長続きはしなかった。


○事例の背後にあるものを考える事

この一点がどれだけの歴史的事実を示唆しているか充分洞察できるはずである。

いきなり大きな実例を提出したが「ギリシャ」をみても

『記・紀』の記述は具体的にその関係を告げている。

いろんな人々が登場している。

古代オリエントや諸外国と日本はその歴史的真相において直視する必要がある。

「役小角」を取り上げて地名「角鹿」「鹿屋」を記載していたので解読すると、

シュメル語は
    (ウル)=牛、ウル・ウリ=鹿。 牛がトーテムで「角」は「牛=ウル」への「変換当て字」。 角鹿=ウルウリ、鹿屋=ウリヤと読める。 「役小角」は「小=ショウ=シ=子」でなんと 「エンの子ウル」=「エンシ・ウル」と解釈できる秘めた名乗り。 ちなみに「子」は一字で殷王室の姓、 殷では「子」一字でシュメルを指す言葉となっていてシュメル関連を傍証している。 中身は検討が必要だが、「役小角」の名乗りの存在に着目しなければならない。 存在を軽軽しく見ないほうが良い。 その上この事実は「言葉の表現、表記」における 「漢字・言語変換問題」という実に大きな問題を検討しなければならない例でもある。 他の国の関連事例を提出する余裕はないが 『倭人(ウワイト)章』ひとつ取り上げて紀元前後の日本の姿を見るに、 シュメル、アッカド、ハッチ、ミタンニ、ウガリト、 ギリシャ、エジプト、ペルシャ、インドなど オリエントを中心にした言語は、日本語との関係において 見直す必要があると指摘しておきたい。 『倭人(ウワイト)章』の読みを提起するが、 問題はそこに使用されている「言語」であり、 魏の言語=漢字で記述されているが間接表記されている「倭人(ウワイト)の言語」である。 さらに「倭人(ウワイト)語のもとにある言語」である。 このことは 『倭人(ウワイト)章』の解読といった範疇のものでないとだけまず言っておきたい。 ○日本語の定義を変えた古代都市 スサノオの故地・スサはフジスタン地方にあって、 アケメネス王朝の 永田町=中央政庁の所在地.真の首都といえる新市だったが、 国王は冬は暖かいバビロンにある冬宮に居り、 夏はエクバタナ(元メディア王国の首都)の夏宮に居るという状態で、 王の宮殿がある所が首都だとすれば、五つの首都があったことになる。 もう一つの首都は王朝の開祖・キュロス2世が建設し、 代々の王たちが即位式をした都で、 天皇家の京都にあたる儀式用都市・パサルダガエ(パルサ)。 そこから45kmの位置に、 さらに建設されたのがペルシャの国名のもとになった最大の都市・ペルセポリスで、 ここは外国からの客を迎えるための外交、交易用に、いろいろな工夫が凝らされている。 たとえば都市の玄関に当たるのは西から東へ昇る階段で、 朝日に向かって登らされる仕掛けになっている。 すでに我が国の「日の国思想」と無関係ではないことがわかる。 昇りきると大広間があり、正面に石造牡牛座が2頭、左右対照に置かれている。 神社の狛犬と同じ発想だ。 壁面には古代ペルシャ、アッカド、エラム3語で、 「余、クシャヤールシヤン王はアウラマツダ大神のご命令に従い、この万国殿を建造した」 という碑文が彫ってある。 またこの宮殿の基礎の石面には朝貢にやってきた国々の使節と献上物が延々と彫られている。 ○シュメルの大国主とニニギの尊のルーツ なぜなら、 敗者=<ウンマ>=馬=大国(ウマ)で国を譲った主。 勝者=<ニンギルス>である。いま韓国の発音をみると、 日本語の<ラ>行を<ナ>行で発音する。 その<百済>・<新羅>は南九州からの移住者の国だったのだから、 古代日本には<ラ>行を<ナ>行で発音する人たちもいた。 <ニンギルス>は<ニンギヌス>=<ニニギ主(ヌシ)>で、 <大国主>の譲った国の受取り主になる。 大学院講義録27号で疑問だった 「なぜ?出雲以外に天降った<ニニギの尊>に国を譲ったのか?」への答が、 ここにあったことになる。 それは遥か昔=神代に、 <シュメール>で<ニンギヌス>に譲った記録だったからなのである。 それだけではない。 その次の戦いの碑文の中には 「射た矢は<エアンナツム>に命中し、彼は倒された」という記事がある。 神武東征記事の一部は崇神天皇の対戦記事と完全に裏返しになっていていること、 「崇神紀」では敵の神武天皇または<五瀬の命>は<武埴安彦>になっていることを、 この講座や拙著『卑弥呼を攻めた神武天皇』などで、もうよくご存知のはずである。 その<武埴安彦>を前号に登場した彦国葺(ぶく)=彦国牽(ぴく)・孝元天皇が矢で射殺した と書いてある。 しかし「神武紀」では神武天皇は死なない。 腕に受けた矢傷がもとで死んだのは五瀬の命で、彼は神武天皇の兄だから、 死ぬまでは彼が王だった。 オリエント史によく一致する。 そこで射殺されたもう一人の王・<エアンナツム>と、その名も比較してみよう。 ○埴安彦伝承の実態と名乗りの「入」の真意 埴  安      彦 エ  アン  ナ  ツム 殖  安   奴  津見 エ  アン  ナ  ツミ アンと安が一致している。 埴は今はエ>の音は不明だが、よく似た<殖>に変えると同じ名になるから<殖>が正しい。 この戦いはチグリス河を挟んでの対戦だった。 「崇神紀」の倭韓(わから)河は稚韓(わかから)河だと。 稚韓子(チガラス)・チグリス河になる。 こうして戦いを繰り返したあと、 ウンマはザバルム市神殿の法王・イルに王位を奪われてしまった。 このイルは「入」という字と発音が同じである。 崇神天皇と垂仁天皇たちはその名乗りに「入彦・入日子」と「入」を名乗るが、 それが何を意味するのか?まだ特定できていない。 ところが垂仁天皇は、明らかに卑弥呼政権を倒して政権と法王の地位とを手に入れている。 崇神天皇も皇后の御間城姫のところへ入り婿になったという名乗りになっている。 ザバルムの法王・イルも、入り婿か、弓削の道鏡式に政権を奪った可能性が高い。 崇神・垂仁2天皇の「入」は始めて正確な意味が判ったことになる。 それは天皇家本来の皇太子ではなかった者が皇位を継承し、 その皇子女もまた本当の親王ではないというという表記で、 この「入」の使用はすぐ廃止されたが、一時的に使われた区別名だったことになる。 ○シュメルから来た名と、混入史実の分析 ラガシュ8代目の王の粘土板には、 王妃がアダプ国の王妃・エン・アグリダ・ティから贈物を受け、 錫と鉛と黄銅を返礼にしたと書いてある。 アダフは武埴安彦の妻が阿田媛で、阿多という地名が今も鹿児島県にあり、 それに「部」をつけたものに合う。 アグリダ>いう名もギリシャ・ローマのアグリッパ、アグリッピーナになり、 我が国でも昭和初期頃まで、南九州に多かった「アグリ」という名は、 義士で有名な播州赤穂の浅野内匠(たくみ)の守(かみ)の奥方の名も同じであった。 他に使用例のない名なので、そのルーツがわかる。 播州は播磨で、南九州の巴利国(マ)の人々の拡大移動先であることは、 もう詳細に確認済みである。 次いでラガシュの王になったのがウルカギナである。 彼は悪の温床になっていた税制や、神官や、官吏。 軍人の横暴や横領を規正して国民に聖君と讃えられた。 この王の名前もまた崇神天皇の名乗りと合う。 ウ=オ御、ル=ムァ・間、カキ=城、ナ=奴、=御間城の天皇。 『日本書紀』は崇神天皇12年9月、はじめて人民を校し、調役を課す。 以て天神地祇和(なご)み、百穀みのり、家は給し人は満ち足りて、天下太平なり。 故に称賛して「御肇国天皇」という。 とやはり聖君として讃えている。 これは「崇神紀」がウソなのでなく、 古い記憶または文献が挿入された際に混入しただけで、 総て貴重な祖先の史実であることに変わりはない。 ○ヤマトバル陥落以外にない東方大移住の出発点 沖縄は自称を「ウルマ」と言う。ウル国(マ)であり、漆島=ウル之国(シマ)の姓もある。 アムールも隼人町に天降(アモリ)川があり、中国ロシア国境にアムール河がある。 その東方移動は間違いないという証拠が、このほかにもびっしりと残っている。 リム・シンはエラムのヤマトバルを都にした。 この地名が我が国の古代の都・ヤマトの語源だから、我が国まで来た人たちは、 このヤマトバル出身者だと判る。 すると永良部>が我が国統一の最古代の重要地だったことか理解できるのである。 では何故? そんなに遠隔のイラクなどから絶海の孤島といいたい日本列島まで移住してきたのか? という疑問にも、これまで見てきた言語の一致などから、 このヤマトバル>の陥落が契機になって、移動が始まったと判断できるし、 何故?本拠を海中の国・沖縄に置いたのか?という疑問も、 当時はペルシャ湾が北に深く伸びていて海に面していたので、 ヤマトバルもスサもウルもすべて、そこの住民たちは海洋人だったからである。 だから戦いが不利とみると彼等は、敵の支配下で暮すのを嫌って、すぐ海に乗り出した。 そして東に進んで転々としながら沖縄海域にやってきて定着した。 そこで稲敷から中国へ移住した殷人と出会い、互いに助けあって、 宝貝貨幣産業の黄金時代を築いたのだと推理できる。 それをこれから、さらに正確に跡づけてみよう。 『参考』 歴史学講座『創世』うらわ塾 翻訳と辞書 [無料] リンクフリー〔UTF-8 対応版〕 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書 『メソポタミア世界』 シュメル-人類最古の文明 歴史徒然 歴史回廊   ウワイト 古代史の画像 GoogleWeb検索 Google画像検索 YahooWeb検索 Yahoo画像検索

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