出典:言語復原史学会
「古代日本列島からの海外移住者の凄さ」
「代々継承した伝承と名乗り」
「すべての宗教はウバイドに遡る」
「全てが我が国と縁血関係をもっている五胡十六国」
「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々」
「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史」
「ギリシャ人を立証する信仰の形=葡萄唐草文様」
「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り」
「大隅と出水に進出した百済人(ポセイドン)のその後」
「ギリシャ人はどこから来たか?」
「同族だった沖縄と呉(ゴ)の残した遺物」
「倭は呉と同族とみていた梯儁」
「呉の皇帝と同族だった卑弥呼」
「白人だった呉の皇帝・孫権」
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
「黄金の国の黄金の女王ヒミコ」
「敦煌は重要な[倭人]遺跡」
「倭人の分布は広大なアジア全域」
「金髪の卑弥呼は大隅(鳥孫=ウースン)人」
「酷似している東南アジアと古代日本の葬制」
「タイ北部にある亀墓」
「タイ土着の山地住民の葬制」
「天智天皇と天武天皇は敵対する別部族の王」
「古代日本列島からの海外移住者の凄さ」
我が国から世界への文化の輸出者は従来いわれてきたような、単にハン、フンといった人々だけではない。
筑紫人は福岡だけではなくシべリヤに巨大な領地を開拓して、世界最北端の港湾都市にチクシ(筑紫)という名をつけているし、一帯にスク(宿)のつく都市を無数に分布させている。
それより南の中国に五胡十六国時代を現出した人たちの中枢にも、ウースン人という騎馬民族と呼ばれた人々がいた。
ウースンは南九州弁で大隅をウースンと発音するから大隅人だとわかる。
その人たちは、3千年以上前の殷の時代にはすでに、中国じゅうに沖縄産の貝貨幣を売り歩いていたのである。
そこに土着して国に発展させた人々 がいたのは当然すぎる話なのだ。
その人々は「商人」と呼ばれ、国名も「商」と呼ばれた。
これは間違いなく、いま私たちが使っている商人と同じ意味であり、それが国名になるほどの偉大な商業国だったのだ。
この商は正式の国名だが、その国民は別の通称で呼ばれていた。
それは彼等がどこから来た人々かを教えている関東以外の土地で「あの人は、江戸っ子だ」と東京人をいう。
あれと同じ表現法なのだ。
その通称は「殷(イン)」である。
すぐおわかりのように彼等はインド人だったのである。
しかしインドから直接来たのではなく、我が国へ来て、茨城県から中国へ移ったことがはっきりわかっている。
彼等が沖縄産の宝貝を通貨として中国に運び、その経済力で国家を富ませて、中国最初の大帝国にしたことが、はっきりしている。
それは沖縄から九州に運んだ商品を扱った基地として使った土地に、彼等のインという呼び名が地名化して残っているからである。
犬童(インドウ)、因藤、猪野、井野、伊野、伊能から、印播(インバ)、因幡(イナバ)と大きい国名になり、伊根、稲、猪名、と近畿の中央を進んで伊奈という岐阜県の大地域に拡がり、関東に飛んで霞ケ浦の大水郷地帯に、稲敷郡という稲作の先進国を想わせる地名を残している。
これは商業だけでなく、農地になる土地を獲得して豪族として発展していった歴史を物語っている。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ153~154頁
「代々継承した伝承と名乗り」
スサノオというのは一人の神の個人名だと思い込んでいた、これまでの考えは問違っていて、それは神ではない王族の名乗りであって、複数の人が現実に名乗って使っていたものだったことが、完全にわかった。
それは卑弥呼の死の前後には、我が国を代表する人物の名乗りだったが、壹與が海を渡って連れてきた八幡が、その八坂入彦でなかったのは確かである。
八幡は幼児だったのに、八坂王は中国の首都まで二度も往復した率善中郎将の壮者だったからである。
二人の間で名乗りの引継ぎがあったことは常識である。
応神天皇が「名替え」ということをしたという記録が、真実だったことが保証され、八坂王が引退して若い八幡様すなわち応神天皇が即位したことが確認できる。
『古事記』には
「スサノオが大人になっても泣きいさちった。
その有様は青々とした山も枯れ果て、
河も海も水が枯れて乾上がってしまうほどだったので、
イザナギノミコトが、なぜそんなに泣くのかと訊ねると、
『僕はお母さんのいる根の国に行きたいので泣くのです』
と答えた」とある。
卑弥呼が死んだ3世紀の史実が、北欧の隅々にまで伝わっている事実をみても、八幡の都、大隅の文化は、当時の世界では巨大なものだったのである。
また北方騎馬民族と呼ばれている人たちの中でも、強大を誇った烏孫人(ウースン)という人々があるが、大隅と書いても大隅人はウースンと発音する。
北方騎馬民族が海外からやって来たのなら、海外の名がつく。
ウースン人はこちらから出掛けて行ったから「大隅人・ウースン人」と自称し、中国人はウースン人と呼んだ。
これを逆に考えて、北方騎馬民族がやって来て古墳時代が始まった、という学者がいたが、その人たちの残した埴輪は山高帽をかぶり、みずら髪を垂らした、今でもイスラエルで日常見る風俗の、ユダヤ人そっくりの像である。
しかし卑弥呼の大冢を古墳だと決めて、古墳時代が始まったとされている卑弥呼時代の『魏書倭人章』に書かれた風俗は、山高帽も、みずらもなく、横幅衣や貫頭衣という、埴輪の衣服とも、ユダヤの衣服ともまるで違う服装をスケッチしている。
北方騎馬民族がやって来て、それが天皇家になったという説は、この大隅とウースンの歴史からみて、正反対で、天皇家は3~4世紀にならないとできないことになる。
これでは1世紀に中国を訪れたスサノオ=帥升は天皇家の先祖ではなくなってしまう。
大隅出身だからウースン人と呼ばれたのであって、その逆なら大隅は[烏孫」と書かれるようになったはずである。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ165~166頁
「すべての宗教はウバイドに遡る」
大学院講義録39ですでにご存じの通り、歩き巫女はジプシーや、シベリアのシャーマンとも共通している。
シャーマンは沙門というれっきとした仏僧の一種だったが、呪術師と化してしまった人々で、青森の恐山のイタコや沖縄のユタ類似のものであり、仏教と神道とがどういう関係にあるかを教えてくれるし、その根を辿ればオリエントの信仰に遡り、アレクサンドロスの母が奉じた宗教も、アブラハムが承け継いだバビロンの信仰も、アーリヤ人がインドに広めたバラモン教も、それから派生した仏教も、源流に遡れば一系になることに変わりはない。
また途中で逸れてしまったが『記・紀』の神名にある鮮卑、東夷の首長の名は、もともと中国北辺の住民が、日本列島からの移住者だった、という事実の証拠になっている。
烏孫と書くウースンが大隅のことで、宇迦之(ウカノ)山、宇迦之御魂と同名の烏丸(ウカン)は、『魏書』に「烏丸・鮮卑.東夷」とトップに挙げられている大国だが、我が国の明治以前の首都・京都の下京区四条には、烏丸の文字はそのまま使い、発音だけをカラスマと読み変えた地名が今なお残っている。
このウカは「大日」如来から来ており、本土語のオカだから岡や遠賀のつく地名や姓の本体であり、大日如来は我が国ではビルシャナ仏(毘盧遮那仏=奈良の大仏も同じ)と呼ぶが、ミヤンマーもビルマ=毘盧国を国名にしているのである。
※出典:大学院講義録40 17頁
「全てが我が国と血縁関係をもっている五胡十六国」
それは「瓊瓊杵(ニニギ)の命」が鹿児島の笠沙の岬から直行した韓国(カラくに)や、韓国見(カラくにみ)岳の名が立証している姶良郡(からぐに)=姶良郡(あいらぐん)以外には、どこにもありえないからである。
これがウバイドが姶良郡を中心にしていた理由だとすれば、針の先で突つく隙もないはど完全に辻褄が合う。
その時代背景から見て、漢代の倭人は帥升(スサノオ)も含めて、この殷の準王の子孫だとすることできる。しかし、これは卑弥呼の家系をいうのではない。
彼女が生まれた家系の倭人たちは、同じ大隅出身でも、大隅(うふすん)→ウースン→烏孫→カラスマ→烏丸(からすま)(京都市)の名詞群が立証しているように、広く東アジヤを移動して、三国時代の呉の皇帝たちを出した人たちで、同族ではあるが、早く分かれていた人たちだったからである。
殷の子孫に限定する必要はない。
ウバイド人の子孫は5000年を超える年代の間に、次々に起こった拡大と分離、移住で、当然、様々に往来して、複雑に入り交じっていたのである。
在来のような数世紀単位でしか歴史を考えない思考力では、我が国の膨大な史実は、とても正しく認識することはできない。
それはもう今更いうまでもなく、地中海文明圏まで含む全アジヤが舞台だからである。
それももう卸存知のように三国時代の後、五胡十六国時代が出現したが、その全てが、同族だといっていいほどの血縁関係をもっている。
ヒトラーが言ったような異民族など存在しない。
※出典:大学院講義録講義録(院)32 24頁
「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々」
その実態が、先にお話しした大隅(ウースン)(烏孫)あり、『五彩圏連邦』そのものであり、高句麗の周辺に生まれた邑婁・夫余といった国々であり、それがさらに生んだ匈奴であり、鮮卑てあり、隋・唐政権でもあったのである。
それは時とともに姿を変えていったのだ。
それを朝鮮半島の王は「百済と高句麗は、ともに扶余から出た」と証言している。
扶余は「扶養(ハヤ)の風=南風(ハヤ)」のハヤであり、ハヤ=海人=隼人、すなわちギリシャ海軍の出身であり、隼人=大隅人だということなのだ。
その百済は出水とともに海神・ポセイドンが語源だった。
海神の名を選んでアンピトリテ?奄美、都井岬、取手。
ポントス→本都別→誉田別天皇。
アフロディテ→淡路島などという名を沢山のこしたのは、ギリシャ人の海人たちだったと、誰が考えてもすぐわかる言語文化財が大量に残っているので、疑いの余地はない。
在来の東洋史などにみる「騎馬民族」といった分類は根本的に誤りで、多様な故郷から溢れ出た人々が好き勝手な方向に移動して土着しては、不意にやってくる敵や異常気象に襲われて放浪する生活の繰り返しで分散集合してしまっただけの違いしかない。
「何民族」といった固有の「民族」など存在しない。
もちろん時代が進むと同時に外敵に対する防御法として民結して「私有地=国」を主張するが、それは純血とか民族とかを意味しない。
※出典:大学院講義録20 10頁
「ギリシャ人渡来の証拠と移動拡大の歴史」
大隅は地元発音でウースン。この当て字の一つが「烏孫」。
彼等は前漢の武帝が即位した紀元前140年には西域で月氏をバクトリヤに追い払っている。
大隅人が拡大して朝鮮半島を北上して鴨緑江両岸に邑婁(ユウロ)や夫余をつくり、殷代からの高族の国。高麗を支配下におさめて、黒の国=玄武の国と名付けたことと、
烏は黒鳥だから「烏孫」と言う当て字は、この地域にいる時に当て字された、という事実まで、併せて立証しているのである。
彼等は、さらに北へ移動、中国北部を迂回して西進して月氏の居住地を奪い取ったのだ。
その本国・大隅は新しい領土の都として栄え、
3世紀には7万戸ある大国・邪馬壱国の前身になった。
その時期と、五彩圏の誕生がぴったり重なり、そこにつけられた多くの国名がギリシャの五彩圏や神名群に一致するのだから、この勝者がギリシャ人だったことは疑う余地がない。
では彼等はどこから大隅へやってきたか?。
それは与那国島がイオニヤを語源にもち、台湾がホーライというギリシャの女神名をもち、そこに一見して欧州人の子孫だとわかるアミ人が今も居住し、アトモと呼ぶギリシャ式双耳土器を現代まで焼き続けている人々もいる。
また、ポセイドン、アンピトリテ、アフロヂテなどといった多数のギリシャ海神名が、百済、奄美、淡路島という国名に一致している。
※出典:大学院講義録19 15頁
「ギリシャ人を立証する信仰の形=葡萄唐草文様」
葡萄唐草文様は、 ギリシャから中近東にかけて盛大だった酒の神・ディオニュツソス信仰の産物である。
葡萄は酒の母体であり神の賜物であった。
健康と快楽と長寿繁栄をもたらす霊草だった。
それに配された馬は海神ボセイドンの象徴であり、その実体は海馬=竜の落し子(タツノオトシゴ)で、ギリシャ海人たちが、守護神として頼る信仰の証しである。
この信仰が中国の技術と結合してこの鏡が生れた。
しかし職人が中国人のため霊物の姿も中国人の常識に置き換わった。
鳥獣などの表現が全てギリシャ文明そのままというわけではないが、その最大のモチーフである葡萄唐草文は、永くしっかりと守り続けられている。
ギリシャ生れのこの信仰が、これで中国に入ったことが確認できたのである。
その時期が隋唐時代だというのは、まさに大隅ギリシャ人の発展を裏書きしている。
大隅を都に発展し、3世紀には7万戸の大都市国家を造った彼等は、大隅から溢れ出てウースンと呼ばれながら北上し、鮮卑と呼ばれながら中国を制圧して隋・唐政権をっくった。
そしてそんな鏡をっくるまでに繁栄した。
こうみてくると「たかが鏡」だなどとはいえない、強力な証拠力をもった俸大な文化財であり、それが記録しているギリシャ信仰や文明の、動かし難い完璧な物的証拠として、あらゆる反対を吹き飛ばす大きな役割を果したのである。
※出典:大学院講義録19 23頁
「『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り」
真実の我が国の歴史は、はるか紀元前に国家をつくり、のちに百済(ホセイ)という当て字をもったギリシャ文明の先端が、ソナカの仏教文明と複合して築き上げた高度文明国家で、その高さは古墳文化などが、出土品だけでなく様々のファクターで、次々に実証し続けている。
その百済国は、移動とともに発音が変わり、
ホーライ⇒ホーレイ⇒ホゼイ⇒ボセイ⇒フジィ⇒ハツセイ⇒ハツセ⇒ハセ⇒オオスミ⇒ウースン⇒ホヅミ⇒モズミ⇒マヅミ⇒マヅメ⇒マツラ⇒クダラ⇒モモダリ⇒パクチェなどと変化した。
この建国期の史実も知らずに、百済とはクダラと読むとしか知らない連中が、それを半島の独立国、皇室とは無関係な外国だと信じて、教えつづけてきたという無茶苦茶な国が、私たちの現代日本だったのである。
しかしこの発音を写した穂積皇子や伯瀬部皇女の名乗りは『萬葉集』にまで並んでいて、皇室の由来が、消えることなく伝えられ続けているのを、見ることができる。
その穂積皇子の歌は
「降る雪は 劇(あは)には降りそ 吉隠(よなばり)の 猪飼(いかい)の丘の寒からましに」だ。
ヨナバリ=与那の巴利=ギリシャ人の都の名も見える。
柿本人麿の高市皇子への弔歌には、
「言(こと)さへぐ百済(ほづみ)の原ゆ 神葬(はふ)り」という一節がある。
神社や陵は、神=貴人を祭ってあるのであって、伊弉諾神宮でも八幡宮でも、架空の神話の空想の産物を迷信しているのではない。
※出典:大学院講義録14 31頁
「大隅と出水に進出した百済人(ポセイドン)のその後」
南九州人が、種子島のナガタニ=長谷一帯(南種子町長谷(はせ)ン野)に移住したことも、チョウコクという漢字を「ハセ」と読むことでわかる。
「百済」を「ハツセ」と読むのは、これも南九州人の癖だからである。
そこで勢力を蓄えて、次に移住した土地もわかっている。
それもご存知の通り「百済」もオオスミと読めるから大隅なのである。
この移住には「サカ⇒サタ」という大移住の標識地名が、今なお現存していることもまた、よくご存知である。
その時もう一波の移住者が鹿児島県の出水地方へ移った。
彼らも大隅人と同じく沖縄訛りを話したが、百済は大隅という新しい当て字に変わったことから、ウースンと呼ばれるようになったので、出水への移住者は、それと区別するために、ポセイドンの後半を国名にしてイヅンと発音するので「出海(イズウン)」、のちに「出水」という当て字を使った。
ヅはドの沖縄訛りだから、彼らの方が大隅人以上に、沖縄訛りが強く残っていた人々だったことがわかる。
出水から北へ一山(ひとやま)越せば熊本県の球磨(くま)地方である。
ここから大隅の曽(ソ)於郡地方までを一括した地域名が「熊襲」であることは、古来よく知られた事実である。
その熊襲は「肥・日」をクマと読み、ソに「素」の字を使った当て字によってクマモトと呼ばれるようになった。
またモトに「本」の字を使うと「熊本」だから、次の発展地がどこか簡単にわかる。
※出典:大学院講義録14 28頁
「ギリシャ人はどこから来たか?」
私たちは、もう一つ重要な「証拠」を手に入れていることを見落としてはならない。
それは魏の発音なら「イエッ」である「壹」を、当時の倭人たちはその魏音通りに発音せず「イチ」と発音して、壹国を「イチマ=伊支馬」と発音している事実である。
この「イチ」は、中国北方の漢魏音に対立していた南方音の呉音(ゴおん)なのである。
これは魏の強敵、呉の国の言葉だから、張政が呉音を知っていたら気を悪くするぐらいでは済まない。
だが幸いに、彼はそれに気づかず単なる官名として、固有名詞扱いされてすんだ。
その報告を読んだ魏政府の役人もまた気づかずに、そのまま現代まで変更されることなく残った。
そのお陰で私たちは、位宮や壹與たちが呉を経由して沖縄地方に移住してきたギリシャ系ウースン人の子孫だったことに確信がもてたのである。
それは大隅から奥州に至る我が国の多くの古い地名や姓が、そのウースンを意味している事実を知っているだけでなく、幼い天照大神の『光華明彩』が、照り徹(とお)したと「記・紀」が書く「六合」までもが、呉の時代の名残を今に残す県名として実在する事実を知っている。
六合は現在でも我が国に地名・姓として現存しているが、その発音は多く「くに」である。
「くに」は母国・故郷のこと。
忘れ難い故郷は呉の六合だと今も歌い続けているのである。
※出典:大学院講義録03 12頁
「同族だった沖縄と呉(ゴ)の残した遺物」
沖縄の対岸、呉で始まっていることも軽視できない。
なぜなら過去に日本史学者が「世界・字宙」などと解説して来た前記の「六合」は、その呉の一部が「六合県」として、今もなお古代の史実を伝えているし、「六合=リクアウ=陸奥=リクウ=琉球」という日本語が生み出した地名があることも解析ずみである。
卑弥呼と同時代の呉の皇帝・孫権とその父がウースン系のギリシャ人の子孫であり、呉孫権(ウースキン)、呉孫竪(ウースキン)はどちらもウースン公(きん)という名乗りへの九州語読みの当て字であり、大隅も奥州も奥村も宇佐もまた、このウースンへの当て字であることはすでによくご存じで、当時の沖縄と呉との間に、国境や国籍を考えるのは間違っているからでもある。
視点を変えても、卑弥呼は魏への遣使に「上表(てがみ)」を持たせてやったから、魏帝も彼女らの「好物」が鏡だと知ったのだし、読めることがわかったから難しい漢文の詔書を長々と書いて寄越したのだし、それに対するお礼をまた倭王・卑弥呼が即座に「因使上表 答謝詔恩」したと明記している。
卑弥呼や邪馬壹国というのは、中国人が我が国を軽蔑して卑しい「卑・邪」といった文字を、わざわざ選んで使ったのだといい、それが一般に信じられているが、それらの文字も皆、卑弥呼自身が使っていた文字だとはっきりわかっている。
※出典:大学講義録22 7頁
「倭は呉と同族とみていた梯儁」
中国の仏教が呉音をもたらしたのではなく、逆にこちらから観音信仰を伝えたことを証言しているし、梯儁自身が「仏教」を知らずに「鬼道」と呼んでいることと併せて、呉音は仏教とは無関係に伝わったもの、それはむしろ卑弥呼らと同族である呉の孫権らの「呉孫=ウースン=烏孫=大隈」人が、卑弥呼以前から日本列島へも移住して伝えたものと訂正しないと、これに関連する問題は至るところで食違い行き詰まる。
この呉人の移住が事実だったこともまた『魏書倭人章』が補足立証している。
「夏后少康之子 封於 會稽 断髪 文身 以避 蚊竜之害 今 倭水人
好 沈没 捕 魚蛤 文身 亦以 獣 大魚水禽……」
(中国最古の「夏」王朝中興の王・少康の王子が會稽=呉の領主になったとき、
その土地の風俗に従って頭髪を短く切り、身体に入れ墨をした。
いま倭人の漁師を見ると、好んで潜水して魚や貝をとるが、やはり入れ墨をしている。
これは會稽王が入れ墨をしたのと同じ習俗で、サメや漁を邪魔する海鳥などを威嚇するためだ)
と書いて、こんなに呉人と倭人に共通点が多いのは、私の考えでは「倭人は呉人と同族だろうと思う」という事を言外に匂わせている。
※出典:大学講義録03 19頁
「呉の皇帝と同族だった卑弥呼」
日本語で[クニ]といえば、「クニのおっ母(か)さん][クニヘ帰る]のクニは[故郷=出身地]のことです。
[六合]は[国家]の意味ではなく、[故郷]のことで、その言葉を使った人々は[六合県出身者]だったということがわかります。
卑弥呼が、呉の皇帝・孫権の一族と同じギリシャ系の、よく目立つ特徴をもっていても、少しも不思議ではないことになります。
少しずつの手掛かりがしっかり結びあい隙間を埋めあって、金髪も、青い眼も、六合も、大遷都も疑いの余地は残りません。
呉は、[呉孫=ウースン=烏孫(ウースン)人]が、筏(いかだ)を使って大挙して揚子江(ヨウスコウ)を下り、河口一帯に土着、繁栄していた土地でした。
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の話で有名な、戦国時代の呉や王族とは800年近くもへだたって、中身は国も人もそっくり変わっていたのです。
魏・呉・蜀二国の対立は、蜀は孔明の死でほとんど無力化しましたから、後は魏の敵は呉だけになっていました。
魏政権の次の目標は当然、残る呉を倒して魏による統一中国を実現しようということでした。
だが呉は蜀と違って、魏の背後に有力な同盟国・公孫氏の「燕(エン)」がいて、魏を挟み討ちにできる態勢を整えています。
これが次の大問題でした。
ここで呉とはどんな国なのかを簡単にお話ししておきましょう。
まず「呉」というその国名の読み方から確認していく必要があります。
日本では「呉」を、従来はいいかげんに「ゴ」と読んできましたが、それは言語学からいうと大変な間違いなのです。
なぜなら中国は日本と違って広大な国土をもっていますから、その言語も地域ごとに大きく異なります。
呉は中国の南部を占めていた国で、北部を占めていた魏魂や、西部を占めていた蜀とは同じ漢字でも、その発音がまるで違うからです。
中国語の発音は先にお話ししたように時代と地域で大きな違いがあります。
「呉」を私たちが「ゴ」と発音するのは、漢、魏の時代の北部中国語の発音なのです。
文章としてお読みになるのには、従来通りゴとお読みになってもいいが、本当は呉の国では「ウー」と発音するのが正しいということを憶えていてください。
なぜそれが重要かといいますと、いま日本は外国人には、ジャパン、リーペン、ハポン、ジープンなどと呼ばれていますが、「ニホン」か「ニッポン」と発音しないと日本語として通用せず、発音をもとにした比較研究はできません。
日の字を<リー>とか<ハ>に当てたのでは、「日子」とは「リース」という英語のことだというような、とんでもない「コジつけ」ができあがるからです。
「呉=ウー」も同じことで、それは正しく「ウー」と読んでこそ、はじめて彼らが何者だったかがわかり、正しい歴史の謎解きができるのです。
※出典:日本国誕生の秘密 165~166頁
「白人だった呉の皇帝・孫権」
では呉の国民は何者だったのでしょう?。
それは3世紀の皇帝・孫権の顔だちをみればすぐ謎が解けます。
『魏書倭人章』の編集者・陳寿の『三国志』に入れられた『呉書』には彼が生まれた時のお話が特記されています。
彼の父・孫堅(スンキン)は後漢時代には呉郡と呼ばれていた地域の富春(フシュン)という町の出身で、17歳で海賊を負かして軍人に採用され、184年に起こつた黄巾族(こうきんぞく)の乱と、その翌年涼(リョウ)州の大反乱で、たて続けに大手柄をたてましたので、抜擢されて長沙(チョウサ)郡の太守になり、その後の功績で「烏程侯(うていこう)」という貴族になった人物なのです。
孫権はその孫堅の次男ですが、彼が生まれたときその顔を見て父がうなりました。
「ううむ、これは貴相じゃ!……こいつは大した出世をするぞ!……目出度い、目出度い!」とはしゃいだといいます。
一体どんな変わった顔をしていたのでしょう?。
目が大きくて瞳(虹彩)が明るい色に輝やき、口が大きくて、エラの張った頑丈な顎(あご)をしていました。
今でいうと白人の子の典型的な顔だちをしていたのです。
だがそれはなにも不思議ではありません。
父の孫堅自身が、人並はずれて背が高く頑丈な肉体の持ち主でしたし、彼らが地中海人の子孫であったことは、その部族名の「ウースン」を中国式に二つに分けて、国名と王名にした「呉・孫=ウースン」や、その本拠地の呉淞(ウースン)という同じ発音の地名ですぐわかります。
ウースン人は倭人や高句麗人と共通のギリシャ系集団で、「烏孫」と当て字されて、戦国時代までは朝鮮半島北部一帯に住んでいましたが、その後、彼らは西へ移動して西域に建国し、70年に戦いに敗れて四分五裂して、その一族が揚子江の上流に逃げ、さらに長江を下って、かつての呉の地方まで集団移動して次第に勢力を拡大していったのです。
日本でいえば野武士とか郷士に当たりますから、その武力で海賊を倒したのです。
孫堅はその小さな王だったのであり、のちの烏程侯という肩書も「烏(ウ)人の程(てい)(法律)を行使する資格をもった貴族」という意味なのです。
※出典:日本国誕生の秘密 167~168頁
「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」
ウースンというのは、『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。
その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、それは史実が後世に次第に変型したもので、ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。
ギリシャ語には多くの方言がありますから、イャーソンという名はヨーソンからユースン、ウースンと変化します。
先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が訛ったものでしたが、それはさらに日本で「ウロ=洞窟」という名詞を生んでいます。
『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、ウロとは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。
これでイヤとヨとユとウとの訛りかたがわかると思います。
その地域での「ウースン」が、ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。
その神話に残され地名とコースが、東南アジアの現在の国々と一致しているので、今では彼らがマレー経由で台湾へきて、そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、その後、カリエン人と一緒になって沖縄を中心に一大宝貝産業を発展させたことも、明らかになってきました。
また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、その基地として高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・鮮卑(センピ)・夫余(フユ)・挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を造っていたことも、あますことなくわかったのです。
しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から金属に変わったために、彼らは営業を続けられなくなりました。
ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、古代の呉の地に根をおろしたのでした。
このウースン人についてはもっと重大な事実があります。
それは鹿児島県の東半分を占める「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。
そして今も鹿児島県人には、大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでもわかるように、ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。
この一致で、大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは疑いの余地がありません。
※出典:日本国誕生の秘密 169~170頁
「黄金の国の黄金の女王ヒミコ」
呉は「ウ」だけでなく「ウー」とも発音される。
それは南中国系の「具さん」は皆そう呼ばれているし、「呉淞」と書いてウースンと読む地名が上海にある。
孫権の一族が「ウー」氏で、その一族もまた日本の南島へやってきていたと仮定すると「ウー」は「大」。その国は「大国」=大島。
奄美大島がそれで、そこの王が「大国主」だということにもなる。
ヒミコ「下照姫」はその娘だと『記・紀』に書いてある。
これもまた結論はあとに譲るしかないが、卑弥呼が呉の孫権と同じく烏孫系のギリシャ人だった可能性は、さらに高くなったわけである。
台湾がソナカ一族のコースに入ることも間違いない。
そして彼等は東南アジアの各地にスヴァルナブーミーの地名を残した。
インドネシアがその「金の国」に相応しい産金国だったことは、歴史に詳しく記録されているし、ミャンマーからタイヘかけて凄い金ピカの大仏像があることも、今では私たちが自分の目で確かめられる。
沖縄はなぜ「チヌ=角」の国だったかも分かる。
「チ=キ」「ヌ=ン」。本当は「キン=金」の国だった。
沖縄も間違いなく「スヴァルナブーミー」だったのだ。
金髪の彼女が「象徴」として最適任だったことは、だれにも分かる。
彼女は黄金の国の、黄金の女王、「光華明彩」の天照大神に最もふさわしい少女だったのだ。
※出典:HIMIKO 250頁
「ヒミコは呉の皇帝と同族だった」
実は彼女がそれほどまでに、遷都実行を迫られたのは、呉王との血縁が事実だったからだとみられるものがまだほかにもある。
『記・紀』に使われている[六合(りくごう)]という言葉なのだ。
『ヒミコ』でお話ししたが、彼女が伊是名(いぜな)島で生まれたとき、両親がこう言ったと書いてある。
「この子は光華明彩で六合の内に照り徹る」。
この[六合]は中国では[六方]のことなのだが、日本では[国・天下]のことだとされていて、そう読めば理解できるから、それは正しい。
[神武紀]にも「六合の中心か」という言葉が、やはり[国]の意味で出てくるし、『古事記』[序文]にも「乾符(けんぷ)を握って六合をすべ」という文章があるが、これも日本の国のことである。
古代日本人は国のことを[六合]と呼ぶくせがあり、それを不思議とも思わずに、ふつうの言葉として常用していたのである。
では[六合]とはなんなのだろうか?
ヒミコ当時の呉には[六合県]という県があった。
それは沖縄から海を隔てた向かい側である。
日本語の[コチラ]は[高津国]を沖縄~大隅語で[コチラ]と読んだものに一致する。
その国はこの次に詳しくお話しするように、沖縄にあった国で、この日本語がそこで生まれたことは間違いない。
この日本語と相対的な言葉[ムコウ]も同じところで生まれていなければならない。
そこから海をへだてた向かい側とは、[六合県]であるとしたら、[六=ム][合=コウ・カウ]だから[向こう]と同じ発音である。
この二つの日本語は、間違いなく沖縄生まれであり、その人々は[六合県]の存在をよく知っていたということになる。
そしてそれは単に知っていたというだけではない。
もっと親しみのある強い知り方である。
なぜなら彼ら以後、8世紀までの日本人は[六合]を[国]の代名詞として使っているからである。
日本語で[クニ]といえば、日本だけを指すのではない。
「クニのお母さん」「クニヘ帰る」は、故郷のことなのだ。
だから[六合]は単に国家の意味の代名詞だったのではなく、その言葉をつくった人々の故郷のことだったのである。
彼らは、六合県出身者だった。とすればヒミコが呉の皇帝・孫権一族と同じギリシャ系の特徴をもっていても、少しも不思議ではないということになる。
なぞは合理的に氷解したのである。
そこは『ヒミコ』でお話ししたとおり[呉孫=ウースン=烏孫人]が、筏(いかだ)を使って大挙して揚子江を下り、河口一帯に土着、繁殖していた土地である。
「臥新嘗胆(がしんしょうたん)」のときの呉や王族とは800年近くもへだたって国も人も変わっていたのだ。
ヒミコには、そうした呉との因縁があった。
そしてその直前、公孫氏は、ただ呉と同盟関係にあったというだけで無残にも滅ぼされてしまった。
倭国連邦はその公孫氏に属した国だともみられていた。
これだけ重なれば、彼女は必然的に遷都を実行するしかなかったのだ。
※出典:JINMU 89頁
「敦煌は重要な[倭人]遺跡」
敦煌は唐代以後も余命を保ったから、その時代時代に新たに荘厳を加えていて、その出発点がアショカ時代だということが分からなくなっている。
日本では、さらに小説などで全く別のイメージに作り変えられてしまったが、実体はそんな小説程度のものではなく、仏教史上最大の意義をもった大遺跡であり、『ヒミコ』でご説明した[金髪碧眼(へきがん)のウースン(鳥孫)人]のいた都だったのである。
彼らの特徴は岩山を掘って巌窟(がんくつ)を作っていることで、同じ地中海人の[邑婁]人も、『魏志東夷伝』に「常に(いつも)穴居する」のが特徴だと書いてある。
その巌窟寺院を彼らが創始したのは、洞窟の奥深くに聖域を設けるギリシャ思想の現れなのである。
それも『ヒミコ』でお話ししたとおり、彼女も受け継いでいた伝統で、日の神アポロンの巫女ビューティアが鎮座(ちんざ)していた洞窟であり、天照大神の[天の岩屋]でもある。
[烏孫]の烏も[ウワイ]の語源[ウパサカ]への方言差の交じった当て字だった可能性が強い。
それはほかにも同じような証拠があるからである。
『魏志鳥丸(ウカン)伝』をみると大量の古代日本的民俗があるだけでなく、[ウカン]という発音は[大日の]と書いたものの大隅式読み方と一致するし、その聖地[赤山]はインドに今も大勢いる[アカヤマ]という名と同じである。
それはまた次のように、[倭]の名が分布していた地域でもあるのだ。
※出典:JINMU 181頁
「[倭人]の分布は広大なアジア全域」
[倭]が出てくる古記録には「山海経(せんがいきよう)」『漢書』「後漢書」などがあり、ほかにも『論衡(ろんこう)』に「倭人がチョウソウ(鬯草)というものを、周の皇帝に貢いだ」という記事が出てくる。
(詳しいことは加治木義博の『焼酎入門L(カラーブックス、保育社、1982年)の[焼酎文化史]をご覧ください)。
また、当然のことだが『三国史記』にも大量に登場する。
それらを精密に検討してみると、前漢代には今のモンゴル(蒙古)地域にもいるし、後漢代には沖縄以南にもいたことになる。
私たちの結論の正しさが裏付けられる。だから[倭]とは日本人だけを指す名だと思い込んでいたこれまでの倭人観は、完全に根本から間違っていて、そうした[人種]としては、日本人とも日本列島とも、全く関係のない名詞だったのである。
それはお分かりのとおりアジア全域に広がっていた[信者]を呼ぶ宗教上の呼び名なのだ。
真実の『倭人章』の世界はこんなに広大だったのである。
過去のちっぽけな「邪馬台論争」が、今のあなたの知性の鏡には、どう映っているか?
私にはそちらのほうが興味がある。
その[ウワイ]はまた独立した言語という、別の形でも残っている。
それをもっている人々こそ、バビロンからインドヘ、台湾から沖縄、九州へ、そして高句麗から江南へ、そして雲南と環流したカリエン人なのである。
※出典:JINMU 182頁
「金髪の卑弥呼は大隅(鳥孫=ウースン)人」
「カイ」を「ケ」と発音する言語は、鹿児島独特のものなのであろうか?
実はそれは中国南部の言葉の一つ、呉の発音なのである。
あなたは仏教の用語が、私たちが普通に使う発音とずいぶん違っていることにお気づきになっていらっしやると思う。
「カイ」の発音をもつ例を挙げてみると、「快楽」は普通なら「カイラク」と読むが、仏門では「ケラク」または「ケナク」と読むのである。
カイがケに変わっていて鹿児島語と同じであることがおわかりになったと思う。
これは一体、なぜなのだろう?
鹿児島の人の姓の中には中国の地名をそのまま名乗っている人がいる。
「江夏」は鹿児島ではエナツではなく「コウカ」と中国式に発音する。
また文字は中国のままで、発音を日本式に変えたものもある。
「汾陽=フンヨウ」は中国山西省にある地名だが、これは「カワナミ」と読むように変えてある。
「穎川=エイセン」もやはり中国の地名だが、これも「エガワ」と読む。
いちいち挙げているわけにいかなが、少なくとも25以上ある。
これは不思議でもなんでもない。
鹿児島県の東半分は「大隅」であることは常識だが、これは現地の発音では「ウースン」である。
中国で「ウースン」というのは、上海の隣りにある揚子江に面した港「呉淑(ウースン)」だが、これも当て字で、本来は「呉孫(ウースン)」すなわち『三国志』の呉の皇帝・孫権(スンキン)
一族からきた地名で、そのウースンは、彼らの集団が元は揚子江(ヨウスコウ)を下だってきた 「烏孫(ウソン=ウースン人)」だという「名乗り」からきている。
この烏孫人はギリシャ系の地中海人で、金髪の人も混じっていた。
加治木義博が卑弥呼は金髪だったと突きとめたのは、こうした人々の歴史をバビロン、シュメル時代まで遡って明らかにしたからである。
また大隈はソ=襲の国で、呉もまたソ=蘇州と呼ばれることも証拠の一つである。
※出典:YAMATO 61頁
「酷似している東南アジアと古代日本の葬制」
今の日本ではかなりの地域で、死者は焼却してから埋葬するから、ことに都市部にお住いの方にはわからないと思うが、実際に土葬が行なわれている地方へいくと、それはすごい悪臭をはなっている。
風のない夜などは、村全体がその悪臭に包まれることもある。
だから土葬ばかりの時代は、墓地はできるだけ遠く、風下の、周囲を山で囲われた場所に隔離してつくるのが合理的だった。
それくらいの知恵は、中国雲南(ユンナン)省から東南アジアの奥地にかけての山間に散らばって住む、私たちと同じ血と文化を分けている山地居住民たちももちあわせている。
雲南はマレー語のユナン=ギリシャ人への当て字=与那(ユナ)(国(ぐに)島)と同じなのだ。
加治木義博は20数年にわたるフィールド・ワークで、その人々の葬制と信仰と迷信と墓地の形態の関係を比較検討してきた。
その中には当然、その中国の風水や堪與(かんよ)の迷信に影響きれたものもあったが、それらにも、一つ残らずすべて同じ配慮が払われているのを知った。
日本列島の場合は恒常的に西風が吹く、だから当然、墓地をつくる方角は居住地の風下にあたる東の地域である。
奈良高原は大阪平野からみて、あらゆる点で集団墓地としての適性を備えていた。
「倭の五王」が大阪に進出する前から、そこは河内湖と大阪湾の影響で高温多湿な大阪平野と沿岸の先住民たちの集団墓地地域だった。
奈良盆地は高地であるというだけでなく、その地理条件によって平均気温が低く涼しい。
それは死者を高いところに安住させるという宗教思想だけでなく、急激な腐敗を防いで、死体を鳥獣や昆虫に食べさせて骨だけを残すという、
日本列島の先住民イナ(委奴・犬・因・印・稲・猪名・伊那=殷・インド)人が、中国に古代型帝国を築く前からもっていた、超古代インドの知恵による伝統的処理法にも最適の土地だった。
※出展;YAMATO 126~128
「タイ北部にある亀墓」
亀墓は沖縄にある墓として知られているが、同じ形をした墓が、タイ北部の人里はなれた場所に点々と見られる。
中国人華僑たちの墓である。
沖縄のものも宋の時代に中国から来た36姓と呼ばれる支配者がもちこんだもので、近世の沖縄は華僑に侵略され占領されていたのである。
亀墓のルーツはその形態でわかるようにギリシャのアトレウス古墳の系統。
卑弥呼と血縁のある南中国・呉の孫権らがギリシャ系だったことの傍証。
烏孫=ウースン=呉孫=大隅とつながり、ヤタ烏(カラス)=アレタサンドロスともつながる。
※出展:JINMU
「タイ土着の山地住民の葬制」
タイの場合をみても土着の山地住民の葬制は貧しく、こんなに布を多く使っているのは珍しい方だが、『延喜式』の天皇陵の祭りに布を用いるのと同じ習俗である。
このタイの2種類の墓の場合も、ともに必ず集落の東北に遠く離れた場所を選んで、悪臭を避ける工夫をしている。
※出展:JINMU
「天智天皇と天武天皇は敵対する別部族の王」
弟のはずの天武天皇が兄のはずの天智天皇より、4つ年上だったということは、学者仲間の常識であるが、天智天皇と天武天皇とが兄弟ではない、というもう一つの大きな証拠は、その王称である「天皇」というのが天武天皇の方の王称だったのに対して、天智天皇の方は別の王称を使う人々だったこともあげていい。
それは彼がまぎれもなく新羅王・金春秋だったからすぐわかる。
新羅では後世は単に「王」と呼んでいるが、もともと「歯叱今」と呼んでいた。
『三国史記』はこの名詞を「歯は朝鮮語でイと発音する」と解説をつけている。
それをもとに、この発音を復元してみると、「叱=シ」「今=コン」だから「イシコン」になる。
これは初代王・赫居世が「居西干=イセカン」という称号をもっているが、それは「伊勢神」に表する。彼女は確かに伊勢の外宮に祭られている伊勢神である。
イセとイシの発音差は標準語と沖縄語との違いである。
イシは沖縄語なのだから、「今」の字を「コン」と発音することはない。
これは「キン」であって、「イシキン」と読まれていたとしなければならない。
これで、この称号がもともと何という称号だったかがわかる。
それは初代新羅王の赫居世が、卑弥呼の宗女・壹與だったことが完全に確認されているからである。
彼女が金髪のギリシャ系の女性で、卑弥呼と同じ烏孫人の子孫であったことは、これもすでにこのシリーズで考証ずみである。
その第一の証拠が彼女らの政権があった母国「大隅」という地名が、南九州語の発音で「ウースン」であることがなによりの証拠だと先にもお話しした。
それがなぜ、どういう経路で沖縄から鹿児島にかけて住んでいたかも、すでにすべて明らかになった。
※出典:YAMATO 199~200頁
「天皇陵関連の参考事項」
倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)奄美では国名は…ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。
これが「大国主」の名の始まりで、7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、大化までは継続した。
しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。さらに大分県宇佐に移動。
『宋書』の倭国伝に記録された倭王・武の視点はこの宇佐にある。その後、さらに四国愛媛に移動、次第に讃岐・阿波へと拡大した。これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。
当時倭の五王時代の始まった4世紀で、さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。
大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、これは沖縄語の「キノ国」のこと。
この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、これ大と紀州を取ったことを意味している。
天皇名は去来穂別=履中天皇。去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。
二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。
和泉の王が「倭済(イスミ)。河内(コウチ)の王が「興」。「武(タケシ)」にいたってヤット奈良県に入って「高市(タケチ)」国を始めた。これが神武奈良東征の原型になる。
その神武(カム・タケシ)という当て字は、この倭王・武を指している。
だが、『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が混入している。その神武東征の内容は、3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが最大のウェイトを占めているし、さらに遡って、紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。
これが神武紀元を紀元前660年に決めさせた原因である。
日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。
基礎に一か所、駄目なところがあれば、全てが崩壊してしまう。
これは何も歴史研究だけが特別なのではない。それは現実が教える。
近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。それは建築の進歩による。
同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、それを立証している。
人生も、研究もすべて同じことなのだ。キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、自分の未来も、ずっと以前から明瞭に見えているものである。
よく考えることをしないで「幸福を神に祈っても駄目」である。
なぜなら「神」は実在し、「霊」も長く死なずに生き続けている。
それはDNAの中にいるのである。
「よく考え、瞑想して」その神や霊と話さなければ、神も霊も教えようがない。
他のことに夢中になっていては悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。
※出典:講演(1994.10.30 レジメ)
『参考』
歴史学講座『創世』うらわ塾
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
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