出典:言語復原史学会
○『日本書紀』に見つかるオリエント古代史の痕跡
「スサの王」
今のイラクを流れるチグリスとユーフラテスの両大河周辺に発達した
都市国家群の地図からまずご覧いただこう。
※「シュメル」についての資料
『世界史年表・地図』〔編〕亀井高孝・三上次男・林健太郎・掘込庸三
吉川弘文館 1968年2月
「シュメル」についての資料
ウンマとラガシュは、その2大河流域の最下流、
最も肥沃な地域をシュメール語で「グ・エディン=平野の頸(くび)」と呼んでいた。
聖書の「エデンの園」である。
当然のことながらこの2都市国家は、
巨額の財源になるその土地の領有権を主張して
紀元前2600年と2500年前後に大戦を戦っている。
後の戦いの時のウンマの王(エンシ)はウシュと呼ばれていた。
ウマ・馬とウシ・牛。
またウシュ・御主(後世まで沖縄で使われていた王を指す代名詞)という
日本語と共通していることに注意がいる。
なぜなら今も生きている、
天子とエンシ、スメラギとスメラ王(ギ)=シュメル王や、
ヤマトバルとヤマト・スサとスサノオといった古代地名や、
アラハト・荒畑、ヤマニ・山根、サダム・定などといった共通名が多数あるからである。
それだけでなく、神武天皇東征にも出てくる共通の特殊な武器の話も記録にある。
それはラガシュ王の碑文に
「ウンマのウシュが協定に違反してエディンの野を侵略し始めたとき、
ニンギルス神は大神の教えに従って、
大網を使って敵を討ち取り、死骸の山を築いた」
と書いてある。
この網という特殊な兵器は「神武天皇紀」の己末年二月の項に、
高尾張に居た土蜘蛛を皇軍が葛で網を編んで、
それを使って征伐したのでそこを葛城と命名したという記事がある。
これは大学院講義録26号のアレクサンドロスと八咫烏の話と同じで、
皇祖東征記事中の最古層に残っていた神託部分>であることは間違いない。
「地図:チグリスとユーフラテスの両大河周辺に発達した都市国家群」
「黒海~地中海」
ハットゥサス(ボガズキョイ)
「チグリス川」
ドゥル・シャルーキン・ニネヴァ・(モスル)・ニムロド・ウンマ・ラガッシュ
「イラン」
ヤマトバル・スサ・(ペルセポリス)
「ユーフラテス」
マリ・バビロン・ラルサ・ウル
斉明天皇は倭国の支配者>で山奥の飛鳥に逃げていた。
これが「倭国と日本」統一直前の真実の婆だったのである。
○「初代・スサノオ=スサの王」登場
ヤマトバルでリム・シンを捕虜にしたのはバビロン第1王朝のハンムラビ王だった。
この名もバビロンはバ=馬=マ、ビ=美=ミで馬見(まみ)の丘陵、
狸穴(まみあな)などのマミ。
ロ=末盧のロ=国。ン>=助詞。
ハンムラビもビ=ミで磐叢耳(ハンムラミン)尊と書ける名だし、半村姓もある。
彼は<ハンムラビ>法典を制定したことで有名だが、
それは、今はイラン領に入っている古代エラムの都市国家・スサで
1901年に、法文を彫った石碑が見つかった。
バビロンに侵入したスサの王が戦利品として持ち帰ったものであった。
我が国に関係のある「スサの王=スサノオ」の名乗りは、
やはりエラム人のものだったのだ。
スサノオと永良部は共に高天原のあった九州の南の海上にあって、
当時、都を意味した「原」は、九州語では「バル」と発音する。
それらも皆、シュメルの都市・ヤマトバルと一緒にやって来た
「渡来人訛り」だったのである。
地図でおわかりの通り、ヤマトバルとスサは近接して、前面に海をひかえている。
だから山人(やまと)は本来は山の民ではない。
それが山地の奈良に都を置いたのは、倭の五王時代に九州を出発して近畿へ移動し、
倭王・武が奈良の高市へ入ったからなのである。
卑弥呼の時代には位宮が沖縄・種子島・屋久島にいて、
まさに海幸そのものだったし、
それを迎え討った卑弥呼は姫木(ひめこ)山にいて、
山幸そのものだったが、五王は海幸側の壹與の子孫で山人ではない。
○古式大嘗祭と一致するバビロニヤ王の即位儀礼
バビロニヤの王は古来、毎年、年頭に厳粛な儀式を行なった。
それは王衣を脱いで 神の前にひれ伏し、改めて遵法を誓った後、衣冠をつけて、
王位に復してから儀式にはいる独特の復活儀礼で、それを毎年繰り返した。
これは我が国で毎年行なわれた古式の大嘗祭で神前に高く真床が敷かれ、
天皇は位冠を全て脱いで、板枕をして真床に横たわり、
追衾(おうふすま)を被って物忌みの後、改めて現(あき)っ神として起き出られてから、
冤服(べんぷく)をつけて高御座(みくら)に登り、
百官の拝謁を受けられた儀式と、その信仰も形式もまったく同じである。
この世界にも希な表現方式をもつ2つの儀式が、思想と信仰の一致で、
天皇がシュメル文明>後継者であり、そこに強力な都市国家スサが実在したのだから
スサノオとはスサの王だった史実を、
物(もの)の見事に幾重にも立証しているのである。
「地図:シュメール人の都市国家」
「チグリス川(エラム)」
アッカード・ウンマ・スサ・ラガッシュ・ヤマトバル
「ユーフラテス川(バビロニア)」
キシュ・バビロン・イシン・ウルク・ラルサ・ウル・エリドゥ
○スーサに遺るスサノオの子孫の風貌
「コラム:その名も不滅隊」
スーサ出土の釉薬煉瓦の色美しい壁画に、静かに歩を進める大王の親兵たち、
ペルシアの王は、ペルシア人の間から、特にすぐれた1万人を選抜して一軍を編成し、
その後は、絶えず補充することによって常に1万人の数の欠けることのない、
不滅隊とよばれる精鋭を率いていたといわれる。
箙(えびら)を負い、長槍を手にした、りっぱないでたちの兵士たちは、
確かに輝かしい不滅隊の一員であったに違いあるまい。
○牛頭天王の謎を解くスーサの遺物
「コラム:たくましい雄ウシの柱頭」
ダレイオスが建て、
その5代の孫であるアルタクセルクセス・ムネモンが復活したスーサの王宮大広間は、
約6000平方mの広さをもっていたといわれているが、
この壮大な建築をささえた柱には、それにふさわしい雄ウシの柱頭がついていた。
雄ウシのは2頭が背なか合わせについており、
この上に、十字に組み合わされて梁が載っていた。
雄うしは灰色大理石でつくられている。
現在、ルーヴル博物館蔵。
○謎の北緯36度線レイラインとスメラギの真相
沖縄の人たちは、鹿児島人を倭人と区別して<ヤマトンチュウ>と呼んだのであって、
それはイコール薩摩人ということであった。
その実体は太陽神(シャマシュ)を崇める都市国家ヤマトバルの国民だったのである。
それは唐代には『日本国』を名乗っていた。
しかしそれは今から4000年前に実在していたシュメル文明を継承した名前だった。
それは茨城県地域が日立の国と呼ばれて、
殷商帝国からみれば「日の本(もと)つ国」だったのである。
稲敷と殷の都>を結ぶ北緯36度線の謎のレイラインは、
シュメル文明を持って来た人たちが計測したものだったのである。
だからスメラギという代名詞は、殷商帝国が生まれる以前に我が国で生まれた日本語である。
それは<スメラ+吾(あぎ)君>=我が君・天皇=スメラギだから2語の混血だからである。
同じことはスサノオの名でも見られる。
スサ+の王・男=スサノオだ。
スサノオの幾人かは、今から4000年前の実在者だったことが理解できたと思う。
ただしそれは向こうでの呼び名=人称代名詞であって、我が国の出雲とは無関係である。
共通点は彼が天国(エデン)を追われて、野蛮人の住む下界に降(くだ)って来て、
琉球という「竜」を退治て、
さらに東の太陽神・シヤマシュの国・薩摩にまで着いたことである。
しかしそこに出雲の語源・ポセイドン人がやって来たのは、
それから千年以上も後のことなのだ。
○インド→イナ(稲)→イン(殷)の移住は史実
しかし殷人は本当にシュメル人だったのであろうか?。
その名からみて、インドの方が深い関係がありそうである。
その答は我が国の特産物のように考えられている鰹節>にある。
それは古代から、インド西岸にあるラッカデヴ諸島の名産だったのである。
この諸島はまた宝貝の宝庫でもある。
日本の鰹節と、殷帝国を支えた古代沖縄の宝貝通貨が、
シュメル人の移動コースを記録している。
それはラッカという発音でサッマに結びつく。
彼等はインド人として我が国へきて、次第に北へ東へと拡大して分布圏を拡げた。
その歴史を今ある主な地名でたどってみると次のようになる。
『後漢書』が書く後漢の光武帝が授けた印綬=福岡の志賀の島出土金印の
「漢の委奴国」=稲築(いなちく)(福岡)。
因の島(広島)
因幡(いなば)(鳥取)
稲美(いなみ)(兵庫)、
伊南(いなみ)(兵庫・徳島)
稲(いな)・猪名川(兵庫)
員弁(いなべ)(三重)
稲沢(愛知)。伊那(岐阜)
引佐(いなさ)(静岡)
稲城(いなぎ)(東京)
印旛沼(千葉)
稲敷・伊奈(茨城)と続き、
小地域名には稲、稲葉、稲荷、稲田など
稲のつく地名が多数あるが茨城以北には分布しない。
殷墟と稲敷を結ぶ<レイライン>は、殷から真東を求めて、
偶然そこに稲敷があっただけだという人もあったが、
それだと、こんなに移動コースに匹敵する地名分布だけ残り、
それ以北に分布しない、こんな現象は絶対に起こらない。
インド→イナ→インの移住は史実である。
○渡来カルデヤ人が残した地名文化財
ヤマトバル人がもってきた凄い測量文化は、天測によるもので、
彼等が天文学に優れていたことがわかる。
当時のその文化の所有者はカルデヤ人だったから、それを調べてみると、
彼等が残した痕跡には次のようなものがある。
カルデヤン 軽寺(カルデヤ・南九州語) 鹿児之国(カルしま) → 鹿児島
カリエ ン 軽(カリ・南九州語) 軽部(カルベ) 仮屋・刈谷・狩谷
カレ ン 花蓮港(台湾) 嘉例川(カレガー・鹿児島県) カレン人(ミャンマー)
カウリエン 高麗人 郡園 番里園(大阪府枚方(ヒラカタ)市)
コウリジン 小売人 → コウリニン 高離人
コ レジン 高麗人(南九州語) 高良(コウラ→タカラ→宝・吐葛邏) 財部(宮崎県)
コグリョ 高句麗(朝鮮語) 漕ぐ盧(リョ)=国 小栗(コグリ→オグリ) 小倉
ク 高・コオ→ク(沖縄発音) 高国(クマ)・熊・球磨 高天原(クマゲン)・熊毛の
クリ 句驪(『宋書』)栗・クイ(南九州語) 鬼(クイ)(漢魏音)=鬼国(クヒマ)=串間(くしま)
クル 久留米=句驪女・クルミ・胡桃(沖縄語)クルド人(イラク北部人)
タカ 高・多賀・田川(タカワ・高倭)・高輪(タカワ・タカナワ・高の倭)
○東アジアの広域経済も支えたカルデヤ文化人
その遠い出身地を証明する地名が、歴史にも現在にもびっしり残っているのである。
彼等が故郷を離れて船出したのはヤマトバルからだったが、
その子孫がミャンマーから台湾→南西諸島→九州から、
近畿や中国東北区にまで拡がった痕跡がはっきり残っている。
今、朝鮮半島人を英語でコレアンと呼ぶのも、カルデヤ人の子孫だという証拠なのである。
宝貝を英語でカウリー、コウリーと呼ぶのもまた、
高麗の貝がいかに世界に有名だったかを記録している。
殷代から使われていたその宝貝貨幣が中国の西域、成都から雲南省にまで
大量に分布出土して私が鑑定を依頼された。
それを調査して行ってみると、その大半が琉球海域のものだった。
当時の沖縄の宝貝産業がいかに大規模なものだったか!を、
今更ながら実感せずにはいられなかったのである。
漕ぐリョ(高句麗人)が操る船に乗って、
潜んぐり(モンゴル)(蒙古人)が潜った地域は、
バイカル(貝(ばい)狩る)湖にまで達していたという地名、
国名が、いま壮大な名詞文化財になって、
今も連携の濃密な広大な東アジア地域に広く現存しているのである。
これがカルデア人の移住から始まったものとすると、ただ一点、疑問が残る。
○カルデヤ人の紀元前1200年頃の大移動
それは殷・稲敷レイラインは紀元前1200年頃のものなのに、
カルデア人の帝国が出現したのは、それから5世紀も後のことだからである。
しかしレイライン測定は動かぬ事実だし、
当時そんな天測技術をもっていた人々はカルデヤ人にはなかった。
そして彼等は前記の通り移動コースを示す大量の完全な痕跡を残している。
この時間差は何?なのだろうか?。
その答は、今、イラクにクルド人がいるが
クルドという独立国はないことが教えてくれる。
カルデア人はセム族で、紀元前1200年前後から南バビロニヤに定住し、
紀元前7世紀にそれまでの支配者だったアッシリヤを倒して新バビロニヤ帝国をつくった。
有名なネプカドネザルは2代目皇帝で、そのときが最盛期だったが、
名もなき小国としては殷代より前から実在していた人々で、
独特の文化をもっていたのである。
ところが私たちは、カルデヤ人といえば新バビロニヤ帝国だという先入観から、
彼等は紀元前7世紀以後の存在のように錯覚し、
彼等が殷以前にいたはずがないと想像してしまう。
しかし今、国はなくてもクルド人が実在しているのを見れば、
歴史の表面に現われたものだけで、真実の歴史が判ったつもりでいることが、
どんなに間違っているか、深く思い知らせてくれる。
カルデヤ人は紀元前1200年前後に南バビロニヤに移った。
その前後に我が国までやってきた人々もいたのである。
○カルデヤ→インド→稲敷→殷の大量の証拠群が復元
しかしこの事実は、もう少し再確認しておく必要がある。
それは、カルデヤ人は国を作る500年も前に、
そんな進んだ文化をもっていたはずがない、
偶然だ、間違いだという者が必ず現われるからある。
本当にカルデヤ人がレイライン文化をもってきたのであろうか?。
まず殷墟と稲敷との間に2200kmのレイラインが実在することは、
地図で計ってみればすぐ確認できる。
そのレイラインは以後の日本列島に定着して、
5世紀に築造配置されたことの確実な
仁徳天皇陵から応神天皇陵、景行天皇陵、伊勢元宮跡までが、
全く同じ11の倍数単位で測定配置されている。
その他の古墳はもちろん、神社仏閣まで同じ配列になったものが、
8世紀以後の建造物にまで実在している。
このレイライン文明は日本の古代文明だと主張できるから、
なにもカルデアと結びつける必要はないのだが、
前記のように殷と稲敷の結びつきが明瞭で、
その稲敷と九州との間にイン・イナの地名遺跡が現存して生きている。
しかもそれはインドとつながってイン・イナという地名のルーツを立証している。
それと同時に、そのルートを結ぶ、カルデヤ>名からしか生まれない地名や国名の一族が、
ミャンマーから我が国まで見事に分布していて、その関連を疑う余地がない。
そのコースは鰹節や宝貝貨幣といった特殊な海洋産業遺物によって、
殷帝国の誕生史を裏書きしている。
○帝国「商」の名が記録していた歴史
こんなに大量の偶然など、あるはずがない。
それを偶然と呼ぶこともできない。
偶然とはごく少数のものごとが奇跡的に重なることを
「偶・たまたま」「然り・そうなった」というのであって、
こんなに多くなくても複数であれば、それは「必然」と言わねばならないのである。
だから以上の問題は、その「必然」=「当然」のことであって、
それを偶然と思い、偶然と表現すること自体、その人物の無知を立証している。
シュメル文明の担(にな)い手だった<カルデヤ人>は、
新バビロニヤ建国とは無関係に、その大移動当時に、
東進してインドからミャンマー、タイ、台湾、トカラ諸島を経由して、
南九州から稲敷にまで至り、次いで<中国>に最初の帝国・殷(商)を建てて、
その文化圏を拡大したのであると確認できるのだ。
その殷人が「商」を正式国名にしているのも
シャプガル(シャプ=商売、ガル=人)というシュメル語がなければ
「商売」という中国語は生まれなかったし、
商の字も「高」の字の変種であることは誰にでもわかる。
これは殷人=カルデヤ人そのものが、
もともと広域を対称にした隊商と海上貿易からなる商売人集団で、
そのために天測でコースを決める文化を、
いち早く開発して発達させていたのだと教えてくれる。
商を国名にしたのは当然で、シヤプがタイ語訛りでシャムになるのもまた、
彼等のコースを記録していたのである。
○スサノオ伝承は殷の『帝王本紀』よりも古い史実記録
このように、その時、彼等は多くの地名も運んで来て、移住先につけている。
その代表的なものの中にヤマトバルがあって、
そのバルという首都・センターを意味する名詞が今なお九州の各地に残り、
「高天が原」という首都名が「記録」として残っているのである。
主題である「スサノオ」もまた、その一つとして古代エラムのスサ、
今のイランのスーサからやってきた「名詞の渡来人」だったのだ。
その時の彼は紀元前1200年頃、
やはり国を追われて移動してこの列島へ移住してきた王の、
「名乗り」だったのである。
スサノオは名前だけ運んで来たのではない。
名乗りをもつ本人が、その追放されたという体験も一緒に運んできたのである。
その追放の動機も、
彼からみて天照大神にあたる地位の人物との間に起こったトラブルだった。
それがハンムラビ法典のように、王のための『法』として伝えられたのが、
初期の神託であり、予言であり、法典であり、教科書であり、歴史でもあった。
歴史の神託化はギリシャの専売ではない。
我が国のそれは紀元前1200年にさかのぼり、
そこに『記・紀』の原点があったことはスサノオ伝承が立証している。
この意味でスサの地名と、『記・紀』のスサノオ記事とは、
限りもなく貴重な宝物なのである。
それは、殷の『帝王本紀』よりも遥かに古い「史実の記録」である。
○桃太郎が記録している邪馬壹国の人種構成
『記・紀』の記事だけでなく、寓話やお伽話からも「歴史」が読み取れる。
殷はインで、南九州語では「犬」のことである。
新バビロニヤの王名は建国者がナボポラッサル。
最盛期の王はネプカドネザル、どちらも「サル=猿」。
その前には北方のアッカドの王サルゴンもいる。
またアラブの王はサルタンと呼ばれる。
これに当て字すると猿田ン彦である。
霧島は御存知の通りギリシャ>への当て字だったが、
本来の南九州語は<ラ>行を<ダ>行か<ザ>行に変え、
リンゴはジンゴ、リスはジス、クリはクジ(『日向風土記』)と発音したから、
霧はキジで、ギリシャ人を指すと、
加治木義博著『日本誕生の秘密…』(徳間書店刊)でも説明した。
犬・猿・雉子(キジ)が供をするのは桃太郎である。
これでその供が何者だったかが明瞭に判る。
それを率いた桃太郎は「百(もも)」=「百済(ポセイ)」以外にない。
これはハセ=長谷で種子島の太郎が、
出水(イズン)=イドン人=委奴の(イドン)=イヌ。
高麗人=サルと、霧島のギリシャ人らを味方にして、
オニ=倭人を攻めた「歴史」が、お伽話に見えるもので、
明らかに南九州での戦いであり、
それに該当するものは位宮と壹與による<卑弥呼政権攻め、
武埴安彦の乱の裏返しで、邪馬壹国が誕生した史実の童話化であることは動かない。
○高度に知性的な「神代」「建国」の史観
スサノオの尊のルーツがわかると、
『記・紀』が「神代」と「神」とした部分の実体も、正しく理解することができる。
神々は説話用に捏造(ねつぞう)された偽物の神ではなく、
史実をもった血の通った実在者である。
だから『記・紀』の書く「神代」とは国家体系が出来る前という意味で、
従来錯覚していたような、神秘や奇跡を演じる化け物の時代ということではない。
建国は、国家としての政治体系が整い始めたときをいい、
無統一時代を「神代」と名づけて区分しているが、
神々たちは高天原という政治体系をもち一段進んだ社会を
構成していた今の用語でいえば高天原は「先進国」で、
そこからの天降(あまくだ)りだったのである。
こうした史実が明らかになると、神秘を売り物にする下級宗教は苦境に立つ。
ガリレイの地動説やダーウィンの進化論、ノアの洪水の真相発表などによって
「権成」を失墜したそれまでのキリスト教が、実に醜悪な弾圧を加えた事実は、
何時までも恥辱として残っている。
日本の神道が同じことをしてキリスト教の後塵を拝したのでは、
それこそ西欧の笑い物にされるのである。
確かに神霊は実在して、敏感な人には様々な啓示を授けるが、
それは別問題で、神社で私たちが祈る神々は、化物ではなく、
真実の祖先の霊でなければならない。
れを求め立証するために私たちは、苦労して研究を続けているのである。
○根底からくつがえった過去の「渡来人」観
こうして細かく考察すると、至るところに史実が残した文化財が残っていて、
文字で書かれた史料を補うだけでなく、そんな史料を上回る事実を読み取ることができる。
その実例として私が以前に調査した中国宝貝遺物の研究が、
その後どう発展したか?、
それはなにを物語るか?。
梅澤稔先生ご提供の最新の資料をご覧戴いて2005年の年頭を飾りたいと思う。
その結論をここに書くと、それ以後の大規模調査により、
沖縄以外の産地の宝貝や淡水産真珠貝の殻も発見されて、
貝文化が殷代以後も姿を変えながら継続し、むしろ発展し続けたことが記録されている。
その産地からは「商人」たちが、広く中国に拡がって、
新商品を開拓し、養殖し、貨幣産業を脱皮して、
装飾品産業として新しい生命を与えたことも記録している。
こうしたことから、さらに読みとれるのは、
彼等は必ずしも移動先に定着せずに広域を旅して集荷し輸送したという事実である。
これは渡来人を「逃げて来て土着した人たちだ」としてきた定説が根底から
間違っていたことを示す。
彼等は一部は土着して小国を作るが、一部はその出発点へ戻り、
また商いに出掛ける「隊商」だったのである。
カリエン人は闇雲(やみくも)に未知の土地へ逃げたのではなく、
通商で熟知していた土地へ移住して文化を伝播し、
また次の移住先を建投しては次第に移動して、
次々に国家として大成させて行ったのである。
『参考』
歴史学講座『創世』うらわ塾
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊
ウワイト
古代史の画像
GoogleWeb検索
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