出典:言語復原史学会
「ギリシャと我が国共通の名乗り地名」
「ダイダラはギリシャ文化人の命名」
「八俣(やまた)の大蛇(おろち)も八幡の大神」
「種子島広田遺跡で出土した女王用のカメオ」
「カドモス伝承はどれだけ我が国と関係があるか?」
「邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島」
「沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字」
「阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字」
「ギリシャ問題が不可欠だった『魏書倭人章』解明」
「名乗りはギリシャから来た文化」
「竜を退治てテバイ王になったカドモス」
「観世音像のルーツはアテナ像」
「そのまま卑弥呼女王像でもある「金色」の女神像」
「旧・百済の郡県名は出身地までわかる日本語地名」
「弥生に大和朝廷があれば半島も関西地名のはず」
「ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音」
「ウワイ女王国を先頭に東進した」
「宇治のルーツは沖縄のウチナだった」
「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」
「日本が誕生したとき」
「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」
「日本の竜蛇信仰」
「ギリシャと我が国共通の名乗り地名」
カヂキウス 加治木御主 加治木王 沖縄で使われた王名
シラキウス 新羅 御主 新羅王 今はイタリー領のシシリー島王という名
デゥス 大 御主 大国主 大碓(デウス)のミコト(日本武尊の兄)
ポセイドン 百済 殿 百済王 大隅・穂積・百舌鳥耳(大阪府堺市仁徳陵一帯)
アポルロン 阿日津殿 日本王 ルの南九州発音はヅ、ロはド。大津=ウル
アテナ 嘉手納 吾田女 沖縄語は手はタ。吾田は鹿児島県阿多に移る
アンピトリテ 奄美取手 奄美王 古音ではピはビになる。取手は分かれて茨城へ
スサノオ 須佐之王 須佐王 スサ今のイランのスーサと島根県の須佐
これでわかることは、スサノオだけはギリシャでなくスメルの地名が名乗りになっていることである。
しかし、その名乗りは完全に王たちの伝統の中に重要な位置に重きをなして、ギリシャ系の名乗りよりも、むしろより尊貴な名乗りとして使われて、中国で編集された当時の我が国の記録に、次々に重要な王、または高官の名として掲載記録されている。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ201頁
「ダイダラはギリシャ文化人の命名」
ダイダラボッチは、これまで、野蛮な田舎者たちが、デタラメに考え出した伝説で、その名もやはり思いつきに過ぎないとされてきた。
その名の由来など考えた人もなく、ポリネシアの「ランギ・パパ」伝説が伝わったものだろう、などと言っている。
しかし、名が手掛かりになるのなら、もっと適格な候補者がある。
それはギリシャ神話のダイダロスだ。
彼は、古代ギリシャ最大の大発明家で、金属の斧、船の帆、車、運搬車などを、発明して、ギリシャを富ませ、大文明国にした大恩人である。
アテナイに住んでいたから、その才能で女神アテナにたいへん愛された。
アテナはそれを人間に教えた。
それが発展してそれまで人類が知らなかった「機械技術文明」をつくり出した。
その恩恵に浴している現代の人類の大恩人なのである。
私たちこそ、それを知らなかったが、我が国の古代人は、それをよく知っていたから、ウッタラの名を「大陀良(うつたら)」と書いた当て字をダイダラと読んだ。
法師はボッチと読んだ。
ダイダラボッチの名は、こうして生まれたのだとわかる。
ダイダロスは金属工業の先覚者である。
我が国の鍛治の神・八幡様とは、切っても切れない関係にある。
これで剣や鎧を我が国で造った人たちには、ダイダロスの名は神として常識だった時代があり、それが直ちにウッタラへの当て字をダイダラと読ませてしまったことが、手にとるようにお見えになったと思う。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ114頁
「八俣(やまた)の大蛇(おろち)も八幡の大神」
篤姫の嶋津家が、八幡領を荒らす者を討ち、その代償として嶋津之庄として領地を分け合った正八幡とは、もとは神功皇后と応神天皇の皇居であり、皇大神宮にも劣らぬ信仰と遺跡を伝える組織で、租税の徴収権をもっていて当然だったのである。
それが乱世になって、暴力に手も足も出なくなって頼ったのが、武力の持ち主であって、頼朝が征夷大将軍の権力を与えられて、八幡宮の税収も回復し確保できたという関係にあったことがおわかりいただけたと思う。
それにしては嶋津家側の収税額が多過ぎる感があるが、それが当時の実力とものの考え方を示しているのである。
和銅期の政府はなぜこんなことが必要だったか?
理由は次をお読みいただくと、簡単におわかりになる。
八幡はヤバタとも読める。
馬の発音はバともマとも読める。
これは日本語には鼻をつまんだような鼻濁音方言もあって、八幡は様々に発音され、様々に聞こえる。
その一つがヤマタである。
だから「八俣の大蛇」というのは、八幡の大神のことなのだ。
「大神」は、沖縄や南九州では、大=オオは「ウ」。
神=ジンは「チヌ」だからウチヌ、これは標準語になおせば「ウチの=内の・宇治の」と受けとられるし、沖縄式にウチナと発音すれば「沖縄(うちなー)」と受けとられる。
沖縄は大神が語源で、その大神は天照大神を意味したり、女神アテナを意味したりしている。
それは漢字で阿手名(あてな)王と書くと、阿には可(か)の発音もあるから「カテナウ」と読まれる。
今の嘉手納になってしまったのだ。
八幡の大神にも同じことが起こって、「ヤマタのウチン=八俣の大蛇の」という表現が派生した。
スサノオのミコトは、八幡の大神を斬り殺したのである。
これは史実ではあるが、八幡信仰が重要な国家経済の根幹になっていた当時、その最大の信仰対象を、「斬り殺されたヘビ」と決定してしまっては、余りにも人心を乱し過ぎる、と恐れた政府官僚の意見が通って、「好字に変えよ」という命令が出されたと考えられるのである。
※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』 KKロングセラーズ102~103頁
「種子島広田遺跡で出土した女王用のカメオ」
『古事記』は開巻第一に皇祖を「天の御中主神」と書いたのだ。
これが<美智能宇斯>=道の大人(うし)=『神武天皇紀』の道の臣の命、語源=美紐縫・ビシェヌウ神で、神武天皇=垂仁天皇(高句麗の山上王・位宮)を高句麗で救け、琉球へ連れ戻した種子島×高句麗海軍の総帥だった人物である。
その別名は豊玉彦。豊玉姫の父。
垂仁天皇は彦日日出見の尊、娘婿だから「入彦=入り婿」を名乗るのである。
しかし『記・紀』はそれを男王制に書替え、彼の五人の娘・日葉酢姫=壹與らを後妻扱いしているが、本来の「倭=ウワイ」の優婆畏=女王制は卑弥呼以前から実在していたことがわかる。
南種子町・広田遺跡出土のギリシャ文字を装飾化した貝製のカメオ細工は、ギリシャの女神アテナ像や、インドの仏像類にみるものと共通のもので、女性祭祀王の身体装飾品とみるしかない。
男王制は後のもの名のである。
貝細工カメオは地中海で発展したもので、道の大人が率いていたのはギリシャ海軍の流れを受け継いだもの、 海神ポセイドンが百済出水(後に出雲)という国名を生んだのも、道の大人がビシュヌウ神を名乗り、卑弥呼がペマカ「愛」、それがマレー語でカシーと呼ばれて、香椎・観世音(カシイ)と当て字されたのも、すべてギリシャ・インド文明が沖縄から種子島を経て、南九州に上陸した史実を、疑いようもなく立証している証拠群なのである。
※出典:大学院講義録29 21頁
「カドモス伝承はどれだけ我が国と関係があるか?」
だから本題に戻ると、フェニキヤやカドモスと我が国とが、どれほど深い繋(つな)がりがあるか、さらに詳しく再確認する
必要がある。
カドモス伝承を手短かに再検討してみよう。
彼はフェニキヤの王子で、妹エウロペ=ユウロパがゼウスにさらわれたのを探しに出かける。
すると女神アテナが彼を助け、女神の助言を守って行動すれば強大な国を発見して王になることができると予言した。
その言葉を信じたカドモスは、今のアテネに近いテーベで竜と戦って倒し、その竜の歯をとって蒔くと、その歯が鉄の鎧を看た武士に変身したので、彼等を部下にしてテーベを取り、強大な都市国家テーバイにして、美の女神アプロディテの娘・ハルモニアと結婚し、二人の娘・セメレとイノを生む。
そのセメレは酒神で祝祭の神のディオニュソスを生んだ。
ゼウスはエウロペを、自分が生まれたクレタ島のイデ山にある豪華な部屋に隠し、彼女に女性最高の栄誉を与えて、彼女の子孫は「その名にちなんで名づけられたまったく新しい土地に住ませる」と約束し、彼女はミノスたち3人の子供を生んだ。
予言通りミノス大王はクレタを当時の世界最強の帝国にしたし、エウロペの名から確かにエウロパ=ヨーロッパが生まれた。
では、ここに登場した名前のうちどれだけが我が国と関係があるか見てみよう。
※出典:大学院講義録21 7頁
「邑婁、天照大神、嘉手納、門松、千葉、淡路島」
① ユウロ 邑婁(ユウロ) ヨーロッパだけでなく、『親書東夷条』には邑婁が明記されている。
その位置は朝鮮半島の北端、高句麗の隣国で、冬でも裸でいるという。
古代ギリシャの風俗画そのままの国民が、古代ギリシャ式に洞穴に住む。
② ゼウス 天照(ゼウ)ス 大神卑弥呼がソナカと結婚する前は、ゼウスを祭る神官で、この大神に仕えており、これはその神名に対する当て字だという結論になる。
③ アテナ 嘉手納 沖縄の現在の大きな地域名・嘉手納は古代にアテナという地名に当てた当て字から変化したもの。
④ カドモス 門松 海神ポセイドンの聖木・松は船の用材として尊とばれた。
それを新年の象徴として門に飾りカドマツと呼ぶのは、フェニキヤ系ギリシャ人の英雄・カドモスのテーバイ王国建国と繁栄の幸運を子々孫々まで忘れず、自分たちもまたそれに、
あやかりたいという祈りの表現。
⑤ テーベ 千葉 テーバイは原名・テーベに「ai]という国称語尾をつけたものである沖縄発音は「e」を「i」に発音するから、テーベはチバになる。
⑥ アフロディテ 淡路島は。
淡=アフ、路=ロ、島=ジ国(マ)で、アフロジ津国への当て字。
※出典:大学院講義録21 8頁
「カドモス伝承はどれだけ我が国と関係があるか?」
だから本題に戻ると、フェニキヤやカドモスと我が国とが、どれほど深い繋(つな)がりがあるか、さらに詳しく再確認する
必要がある。
カドモス伝承を手短かに再検討してみよう。
彼はフェニキヤの王子で、妹エウロペ=ユウロパがゼウスにさらわれたのを探しに出かける。
すると女神アテナが彼を助け、女神の助言を守って行動すれば強大な国を発見して王になることができると予言した。
その言葉を信じたカドモスは、今のアテネに近いテーベで竜と戦って倒し、その竜の歯をとって蒔くと、その歯が鉄の鎧を看た武士に変身したので、彼等を部下にしてテーベを取り、強大な都市国家テーバイにして、美の女神アプロディテの娘・ハルモニアと結婚し、二人の娘・セメレとイノを生む。
そのセメレは酒神で祝祭の神のディオニュソスを生んだ。
ゼウスはエウロペを、自分が生まれたクレタ島のイデ山にある豪華な部屋に隠し、彼女に女性最高の栄誉を与えて、彼女の子孫は「その名にちなんで名づけられたまったく新しい土地に住ませる」と約束し、彼女はミノスたち3人の子供を生んだ。
予言通りミノス大王はクレタを当時の世界最強の帝国にしたし、エウロペの名から確かにエウロパ=ヨーロッパが生まれた。
では、ここに登場した名前のうちどれだけが我が国と関係があるか見てみよう。
※出典:大学院講義録21 7頁
「沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字」
1000人もの女性が卑弥呼に仕えていたという記事には、これまで確実な定説はなかった。
その実体は何だったか?。
ギリシャ人の優位が確実になると、これまでテンソンと読むのが正しいと、無根拠に定説化していた「天孫」は、女性軍団「アマゾン」で有名なギリシャの女性上位国への当て字とみることが必要になる。
アテナ像が、十一面観音像の原型だという理由が、一層鮮明に理解できるようになる。
御存知のようにアテナはゼウスの娘で、武装した女神である。
卑弥呼と壹與とが混合した神功皇后もまた武装した女王で、当時の人々には女神である。
どこかにその遺物が残っている可能性がある。
卑弥呼も壹與もその故郷は沖縄である。
すると沖縄本島に「嘉手納」という語源不明の地名がある。
E音のない沖縄語がなぜか?わざわざ「手」という文字を使っているから、
これをテとよめば、納の字を「ナ」と読ませるのはアテナが元の名だったからではないかと思いつく。
嘉の字はカだが、カとアは色々な理由で入れ換わる。
阿の字は本来はツクリの「可」の音でカだったし、乎、呵、呀、乎、遏なども、ア・カ双方に使っている。
また中国と韓国では私たちがカと発音する文字をハまたはアと発音するものが多いし、漢音と訓音でカとアが変わるものも多い。
嘉手納が、もとアテナだった可能性は大きい。
※出典:大学院講義録20 15頁
「阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字」
沖縄は、近世には嶋津藩と中国の宋とに、2重に服属するという複雑な歴史をもつように、その支配者は変転を繰り返しているから、本来はアテナだったものが、それを嫌って後世に、嘉手納という当て字に変えられたとしても不思議ではない。
ではアテナだとどうなるか?。
瓊瓊杵(ニニギ)の命の妃も神武天皇の妃も共に「アタノヒメ」である。
手は古音タだからアタノは「阿手奴」と書かれてアテナへの当て字だったが、それを「阿多之・阿多都(つ)・吾田津・吾田ノ」などと当て字したために、「アタノ」の方が本当らしくなってしまったのである。
神武天皇妃のモデルは、『崇神天皇紀』の武埴安彦の妻・吾田媛だから、夫とともに戦場へ行って戦っている。
この女神はアマゾンの象徴だから、女武者でありアマゾンだとすぐわかる。
天孫(てんそん)ニニギの尊というのは間違いで、アマゾンとニニギの尊は、2つに分けて読まなければいけないのである。
阿多は鹿児島県の地名だから吾田媛はそこの出身だと従来は考えてきたが、こうみてくると阿多囲も吾田囲もアテナへの当て字で、そこは嘉手納でなければならない。
それが後世に鹿児島に移ったのである。
この阿多国・吾田国はまたアタマと読める。
アタマ=頭。アテナは父の「頭」を破って飛び出した。
アタマという日本語にハッキリ関連が認められる。
※出典:大学院講義録20 16頁
「ギリシャ問題が不可欠だった『魏書倭人章』解明」
嘉手納も日本語の誕生に深く関わっている。
「手」は古音タだから嘉手納はカタナである。
カタナは刀で武器、アテナやアマゾンの持ち物である。
八俣大蛇退治は天照大神をスサノオが討った話で、真相は位宮が卑弥呼を倒した歴史だが、その時、天照大神は武装して弟神を迎える。
大蛇を倒したスサノオは天ノ叢書ノ剣を手にいれる。
天はチヌで沖縄、叢はソウで曽於=大隅、雲はクモで熊毛から球磨。
卑弥呼の名乗りに合う。
それが倒された女王の象徴なのだからご神体である。
それが祭られていたのは「熱田神宮」、これはアタノ神宮だからアテナ神宮。
そのアテナが嘉手納に変わったから、その御神体もカタナと呼ばれた。
だから「剣=刀」であるということがわかる。
嘉手納は間違いなくアテナから変形したものだったことが理解できる。
卑弥呼の「千人の侍女」は、アマゾンたちだったのであり、卑弥呼がギリシャ文化の継承者だったことがわかる。
同じ『魏書倭人章』に書かれた倭国民の男性の横幅衣横幅衣が「無縫で、但、結束」してあるだけだというのが、古代ギリシャ男性の衣服・トーガで、女性の貫頭衣は、 アテナ像が着ているのと同じものだと断定できるし、倭人(ウワイト)が目上に尊敬や誓約を表わすのに「搏手」するというのも、ベンガルの手締め→今の神への拍手と同じものだとわかる。
※出典:大学院講義録20 17頁
「名乗りはギリシャから来た文化」
名乗りの由来は、白鳥の跡を追って出雲または但馬で捕らえ、それを皇子に献上した「鳥取造の祖」の天の湯河板挙にあると、『日本書紀』は垂仁天皇23年10月の小節に書く。
この人物の板挙という名は「イタアゲル」、当て字を変えると「倭・健、ヤマトタケルと同じになる。
この英雄皇子の陵は3つもあるが皆「白鳥陵」と呼ばれている。
どうみても倭健と仲哀天皇は蘆髪蒲見別王を含めて同一人物なのである。
だが湯河板挙は白鳥を追って出雲や但馬まで行っている。
『古事記』になると姓名も山辺の大鷹(たか)に変わり、白鳥を追ったコースも木の国から針間、旦波、三野、科野(しなの)、高志などと、大変な旅を重ねて捕ったとある。
これではとても卑弥呼時代の話ではなくなる。
これは出雲(イズン)は出水(イズン)。
但馬(タジマ)は種子島(タジマ)と読むと、話の原型がわかり、奄美から南九州までの、活動範囲に納まる。
大鷹(たか)という名も「大高=大島と高の国」を意味し、少しもおかしくない。
こうして「名乗り」は素晴らしい働きをしてくれるのである。
ギリシャにはヘルマプロデイトスという名がある。
これはヘルメスとアプロディテとの間に生まれたオス=男という「名乗り」なのである。
名乗りと地名の関係はアテネとアテナイ、ロムルスとローマ、アレクサンドロスとアレキサンドリヤなどで充分理解できる。
※出典:大学院講義録17 26頁
「竜を退治てテバイ王になったカドモス」
ではカドモスが我が国までやってきたのであろうか?。
実は彼らはフェニキヤで大事件に巻き込まれて四散してしまうのである。
事件はエウロペが誘拐されて行方不明になったことから始まる。
父はエウロペが見つかるまで帰るなと兄弟たちを探しに出す。
カドモスは母のテレパッサと同行するが、母はトラキヤで死ぬ。
そこで一人で旅を続けてデルポイへ行き、神殿へ参詣して神にたずねる。
するとビューティアの告げた神託は「牝牛を道案内にして、牝牛が倒れた所に町を造れ」という。
すると本当に彼の前に立って歩く牝牛が現われたので、それについていくと、現在のテパイ市で止まって倒れてしまった。
従者をアレスの泉に水を汲みに行かせると、泉を守っていた竜が従者たちを殺したので、退治た。
すると女神・アテナが現われて、竜の歯を撒けという。
それにしたがって歯を折りとって撒くと、それが鎧兜で武装した兵士たちになった。
その数が余りに多いのでカドモスは石を投げっけたところ、兵士たちは怒って同士討ちを始め、どんどん倒れていき最強の5人が残った。
しかし行為を恥じたカドモスは、晴罪のために8年間、神々に仕えた。
それをめでて、アテネは王国を、ゼウスはアプロディテの娘・ハルモニアを妻として与えたので、4人の娘・アウトノエ、イノ、セメレ、アガウェと、男の子・ポリドロスが生まれた。
※出典:大学院講義録16 14頁
「観世音像のルーツはアテナ像」
卑弥呼が観世音菩薩だということは、詳しく関連部分でお話しした。
しかしそれをうまくお話しになるのは難しいとお考えの方もあると思ったので、一見してご納得のいく写真を、中級講座御卒業の付録として、お役に立てて戴き、記念にご保存戴くことにした。
この写真は、ギリシャ・アテネのアクロポリスにある神殿・パルテノンにあったアテナ像である。
90年近く前の写真で不鮮明だが、今はもう手に入らないので貴重なものである。
Αηθνα アテナは知性、技術、戦いを司る処女神でアテネ市の守護神だった。
アテネ市はB.C.E.5世紀の対ペルシャ戦争に大勝利後、デロス同盟を結んでギリシャ最強の大国、政治経済の中心になり、クレイステネスの改革で民主政治を確立した全世界の先進国だったが、ペロポンネソス戦争に敗れて衰退した工業港湾都市国家で、今も製鉄、繊維、化学、食品工業の中心都市である。
アテナ像と観音像の共通性の多さと、卑弥呼らの史実と、『記・紀』の天照大神の記事を考えると、 鉄器・繊維・化学の先進文化と民主主義といった先進文明が色濃く見られ、また沖縄本島の嘉手納も、韓・漢と同じく語頭のk音がなくなればアテナへの当て字であることも、すでに他のギリシャ神名などと共に検討済みで、卑弥呼らの血統には、このナテネ人の血と知性と技術と思想と信仰が、重なりあっていることがわかる。
※出典:大学講義録34 36頁
「そのまま卑弥呼女王像でもある「金色」の女神像」
アテナの像は異様な冠をかぶっているが、中央は女性の頭部、向かって左は馬、右は羊のように見える。
この発想は十一面観音や馬頭観音に結びつく。
これまではなぜ?、
仏が頭の上にコブのような小さな頭を乗せているのか、
またなぜ?、馬の頭の観音がいるのか?、
いろいろな説明を聞いても納得できなかったが、この像を見ればそれはこのアテナ像が発想の源だったとわかる。
それは当然のことで仏像がギリシャの神象をモデルにしてギリシャ人によって作られ始めたことは周知の事実だからだ。
卑弥呼はその金髪の見事さで両親を驚かせ、天照(ゼウス)大神に仕えるピュティア(稗田阿礼)として天に送られた。
そこで彼女はアマゾン=女性国の指揮者になったとしたら、知と技と学と戦さの女神・アテナの地位にあり、光華明彩、天孫(アマゾン)族の始祖、天照大女(み)神、機織り、スサノオとの対決の武装、剣、弓、曲玉、八爬(ヤアタ)の鏡が、このアテナ像に全て揃っているのを見る。
右手にしているのが剣、左手に持つのが弓である。
このアテナ像は「金色(こんじき)」に塗られていた。
卑弥呼の金髪がなぜ、両親に愛児を手放(てばな)させるはどの威力をもっていたか、それはアテネ人の黄金崇拝に根差している。
それはソナカ宣布団にも受け継がれていた。
彼らは東方の金地(スパルナ・ブーミー)国を求めた。
だからこそミャンマー、タイから奈良まで、大仏は皆「金色」なのである。
※出典:大学講義録34 37頁
「旧・百済の郡県名は出身地までわかる日本語地名」
念のため「地理三」の旧百済も見ておこう。
この地方も「景徳王十六年、熊州と改名」といったふうに徹底して名を変えているが、明かにもとの地名は日本(倭人)語だ。
清音県←伐音支(キリオトシ)県。
馴雉県←甘買(アマゲ=天城)県。
唐津県←伐首只(キリスキ)県。
孤山(コヤマ)県←鳥山(オヤマ=小山)県。
黄山都←黄等也山(キラ・ヤヤマ)郡、(ヤヤマは八重山)。
儒城県←奴斯只(ノシキ=野志木)県。
潔城郡←結己(ユウキ=結城)郡。
燕岐県←豆仍只(ツナキ=津奈木、改名後もツバキ)県。
昧(まい)谷県←未谷(ミタニ)県。
杜城県←豆伊(トイ=都井岬)県。
金溝県←仇知只(クチキ=朽木)山県。
大山郡←大戸山(ウシヤマ)郡。
井邑県←井村郡。
市津県←加知奈(カチナ=嘉手納)県。
雲梯県←只伐只(キバツキ=肝属・キバキ=木脇)県。
沃溝県←馬西良(マシラ=猿・真白)県。
平皐(コウ)県←首冬山県(ストヤマ=外山の大隅発音)。
野山県←閼也山(オヤヤマ=親山)県、
青雄県←居斯勿くイシモチ)県。
栢舟県←比史(ヒシ=菱)県。
代労県←馬斯良(マシラ=猿)県。
烏児県←烏次(ウジ=宇治)県。
馬邑県←古馬弥知(コマミチ=駒道・高麗道)県。
といった調子で、誰がみても出身地までわかるほど、はっきりした日本語地名だったのである。
※出典:大学講義録33 23頁
「弥生に大和朝廷があれば半島も関西地名のはず」
邪馬台国畿内説がいう、奈良や近畿に卑弥呼政権があったという説は、神武天皇の建国が奈良だということである。
仮にそれを正しいと仮定して考えてみよう。
神武天皇は大軍で東征してはいないから、その後進行した卑弥呼時代直前までの半島進出は、
近畿人が追い出されて移住した可能性も高く、小人数で折角取った土地に愛着のある南九州から同行した人々ではない。
紀元前後の弥生中後期には、近畿人が半島まで支配していたことになる。
この仮定の場合、その移住先の地名は近畿の地名と共通でなければならない。
ところが今ご覧の通り、半島の共通地名は全て九州地名である。
これは卑弥呼時代直前までの半島進出は九州人が行なった証拠で、それは同時に神武東征が卑弥呼時代以後だったことも証言しているのである。
どちらからみても卑弥呼以前から奈良に大和朝廷があり、それを継いで卑弥呼が奈良や近畿地方にいたという仮説は、この半島共通地名の問題によっても完全に否定されてしまう。
逆に卑弥呼政権が九州にあった可能性は、はるかに高まる。
例えば上記、馬韓の地名は、天城(鹿児島県徳之島)・甘木(楯岡県)、八重山・嘉手納(沖縄県)と、3世紀の近畿人が使うどころか、まるで知らなかったはずの特殊な地名が混じり、椿(飯塚市)、津奈木(熊本県)などという固有地名まで入っているからである。
※出典:大学講義録33 24頁
「ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音」
十字と同じく「四神」もまた四方を指し示す目印である。
日本では京都の御所(ごしょ)の門と街路がその名で呼ばれでいたのでよく知られている。
南の正面の門が朱雀門(すざくもん)で、それから真南へ九条にあった羅城門(らじようもん)までの大通りを朱雀大路(おおじ)といった。
これは平安京のものが残ったのだが、平安京は中国の唐の都をそっくりまねたもので、その「朱雀」などの名もまる写しである。
中国では始皇帝のころインド系の宗教が流行しはじめ、それ以前からあった道教と合体して仙人が主役になるが、仙人(リシ=ヒジリ)はインドのシバ(ヤマ)派の聖人のことである。
のちの邪馬壹国の和人たちが信仰したシンドゥ教もこの一派で、中国の山東半島の「方士」だった徐福らとは、貝貿易で知らぬ仲ではなかった。
しかし始皇帝は殷人の系統である商人を嫌い、ことごとに弾圧したので、和人が中国に顔を出すことはできず、宗教仲間の方士たちが代わって仕事をすすめてきた。
その「方士」という名でもわかるとおり、彼らは天文、方位、気象に明るい学者集団だった。
彼らは始皇帝に天地の神を祭らせ、道路整備をさせて、その知識を高く売りつけただけでなく、始皇帝の不死の夢をかきたてて「蓬莱」へ脱出することを計画し、ついに成功した。
それは暴君始皇帝がやがて、学者仲間を皆殺しにすることを予知していたからである。
四神というのは、このころに彼らが中国に広めたものだったのだ。
この四神は現代の日本では、奈良の高松塚古墳が発掘されて、その壁画にあったことから一般に有名になり、次第にポピュラーになったが、それ以前は前漢からの青銅鏡背面中央のツマミの回りに、四方に描かれているものが、歴史関係者に知られていた程度である。
この四神が描かれている銅鏡の「製造年代」を調べてみると、漢代以前のものはない。
その大半は、もうご存じの五胡十六国時代、六朝ごろのものである。
中国は漢人の勢力が衰えて、「胡」人が大量に中国に移住、群雄割拠して複数の王朝が乱立していた当時である。
胡人は和人と同じシンドゥ教徒だったから、ビシュヌーを中国式に表現した東王父と西王母を聖なる守り神として、鏡に彫りつけて礼拝の対象にしていたのである。
ビシュヌーが太陽神で東の象徴だったことを思い出していただきたい。
西王母は『山海経』に、髪の毛を振り乱した怪物で、西の神山・崑崙(こんろん)にいると書いてあるが、鏡の絵をみるとそのとおりに描かれている。
漢鏡の虎の絵はずいぶんちがうもので、むしろ人獅子のほうに近い。
ビシュヌーの妻は「シュリ」という。
この名が琉球の首都だった「首里」と同じ発音であることに注意がいる。
沖縄には代々の統治者が、それぞれ自分たちの信仰する女神を祭った遺跡があって、それが地名として残っている。
ギリシャ人は女神アテナを祭っていた。
それが「阿手納(アテナ)」と書かれ、のちに「可手納(カテナ)」と発音されて、今では「嘉手納(カテナ)」になって残っている。
同じことは阿直岐(アチキ)と可直岐(カチキ)・加治木(カチキ)の間にもみられる。
※出典:WAJIN 189~190頁
「ウワイ女王国を先頭に東進した」
ソナカがアショカ王の命を受けて東方布教を進めた大王の名であることは、本シリーズの読者にはもう申しあげるまでもないと思う。
その出発は紀元前の240年代で、ヒミコの事件が記録されたのが、奇しくも紀元後の240年代であることに、何か不思議な因縁を感じる。
そのあいだ5世紀。それはビルマやタイ、インドシナ半島の各地を経て、インドネシアに至り、途中の各地を仏教圏に変えながら東進し、ついに台湾から沖縄を経由して九州に入った。
そしてその経過地に「ジャムプ・ディパ=ジャバ(爪哇・闍婆)・邪馬臺」と「タイ=泰・臺・俀」などの国名を残した。
その五彩圏はインド起源なのだ。
それが四神の起源と重なることは先にお話ししたが、それはすべての物事を「四」を基数にするインド文明の産物であることは、すぐおわかりになると思う。
そのインドで最も有名な「四」に、その悲惨なカースト制度(階級制度)がある。
それは当然「四つ」に分けられて「四姓」という階級を形づくっていた。
その種姓は下から
スーダラ=シュウドラ(不可触賎民(アンタッチヤブル))、
ヴァィシヤ (庶民・商工業階級)、
クシャトリヤ (武士・王族階級)、
ブラフマン (天仙=聖職階級)の
四つで、赤・黒・黄・白がその象徴色であった。
これでわかるように、「青」がない。
ところが日本の五彩圏には、その青がある。
この違いは何によるものであろうか?
それは青が「倭(オオ=ウワイ)」であることでわかる。
それは女性仏教徒という「カースト」を超越したもの、悲惨な階級制度を拭い去った「救い」の教えの実践者だったのである。
ソナカはその女性布教団を東の先頭に立てて進んだ。
これが東が青であり、「倭(ウワイ)」という文字を中国人が当て字したものだったのである。
彼女たちはギリシャ系の美女を生き仏として崇めた。
それが東南アジアから太平洋にいまだに残る女性上位の国々のルーツなのである。
それはギリシャ人たちからみれば「アマゾネス」であり、「アテナ」であった。
それが後にシンドゥ化した沖縄でも、なお「嘉手納」という名を残した。
それはシンドゥの女神「シュリ」の名も「首里」として残したが、
それらは中国系支配者に変わった後も、一つにして「天妃」として廟に祭られた。
そして「アマゾネス」という言葉も、「天津(アマヅ)乙女子(オニョス)」という当て字として日本に残ったのである。
またギリシャ+サカ人の兜の形はソナカ仏教の僧帽としでラマ教に残り、日本の烏帽子やハワイの王冠にも跡を残している。
日本神話は天照大神が武装してスサノオと争った話を伝え、『記・紀』は神功皇后が男装して三韓を討った話を載せ、『魏書倭人章』はヒミコや壹與が戦った記録を残した。
すべて女戦士アマゾネスであり、武装した女神パラス・アテナの所行である。
こうして東に倭(アオ)、北に韓(クロ)、西に新羅(シロ)、南に大和(アカ)を配した一大五彩圏連邦が、次第に支配圏を広げていったのである。
※出典:WAJIN 242~243頁
「宇治のルーツは沖縄のウチナだった」
日本では「ナ」がいちばん少ないが、お隣の中国もチャイナだし、アテナ、アダナ、チラナなどギリシャ・ラテン系の地名には大量に見つかる。
日本の歴史文献では任那(ミマナ)が有名だが、ほかにも伊那や芦品(あじな)、津名、山名などがあり、ことに『倭人章』には奴国をはじめ奴が後につく国名が7つあり、そのいくつかはこの国称の「ナ」である可能性がある。
また「伊邪国」もイザナキや伊是名(いぜな)島などと比較すると、「イザナ」と読まれていた国だったことが分かる。
ことに沖縄は、その本当の国名の発音が「ウチナ」であり、そこには嘉手納(かでな)、恩納(うんな)、水納(みんな)といった「ナ」が語尾にくる地名や島名がある。
「宇治」は「ウチ」という発音への当て字であったから、「ウチナ」は国を「ナ」に置き換えた「宇ウ 治チ 国ナ」で、奄美大島の「宇ウ 治ジ 国マ」と同じものであったことが分かる。
<マ>と<ナ>が変わっただけだったのだ。
だがそれはどちらも、直接[大邪馬臺国]とは結びつかない。
宇治山田の前半分だけしかないからである。
このナゾはどうすれば解けるであろうか?たとえ前半分にしろ、関係があることは分かったから、今、沖縄にある地名を調べてみれば何か分かるかもしれない。
そうみて調べてみると、なんと、実に素晴らしい答えが見つかった!地名は歴史を「保存」していたのだ。
※出典:JINMU 67頁
「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」
これで永く神話だとされてきた天照大神が実在の人物で、その出身地まで現存していることが証明された。
しかし証拠としては、イザナキによく似た名前があったというだけじゃなと思う方がまだあるかも知れない。
それに答える証拠は、まだまだいくらでもある。
しかしそれはこの本の目的ではない。この本は一冊でヒミコのナゾを解くのが仕事である。
上の疑問には、だれがみても後に疑問を残さないものを、もう一つだけ提出して終りにしよう。
伊是名という名は島の名前だといってしまえばそれまでだが、それには何かの意味があるはずである。
それを明らかにしておこう。
これはそのまま読めば「イゼナ」であるが、濁音のなかった時代には何だったのか。
それは「イセナ」。「ナ」は古代の「国を意味する名詞の一つ」である。
ミマナ(任那)のほか、嘉手納、恩納、山名、猪名、伊那、稲、古那、与那国といった地名に今も残っている。
これは「イセ国」で、漢字で書けば「伊勢国」だったのである。
なぜ、天照大神が「伊勢の大神」だったかが分かったと思う。
ではその「イセナ」の語源は?と次々にきりがないが、それもまた分かっている。
それは後の「卑弥呼の鬼道とは何だったか?」の説明に必要だし、分かりやすいので、そこでお話することにする。
※出典:HIMIKO 62頁
「日本が誕生したとき」
3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。
その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。
彼等はエラム出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。
それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、アテナ出身者は嘉手納(かてな)、チラナ出身者は知覧の名を残すというふうに、「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。
その中でも最大のものが台湾で、「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。
その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。
「マレアなる岬の沖を過ぎ、ラコニアの沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、やがて四面環海の土地、歓喜のヘリオス(日の大神)の国・タイナロンにぞ、着きにけり……」と書いてあります。
ラコニアは六昆で今のタイ国ですが古代にはミャンマーのヤンゴン=ラングーン(六昆)までを含んでいました。
マレアの岬はマレー半島。
四面を海で取り囲まれた大きな土地は、その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。
ヘリオスの妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、これがe音をi音で発音する沖縄語で「ヒラ」と発音したものに「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。
最初の「日本」はタイナロン=台湾で、古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。
これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、本来はこのヘリオスとヘラのことで、そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。
ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、「天照大神」様と呼ばれたために、後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。
これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります。
※出典:日本国誕生の秘密 216~218頁
「徐那伐(ヨナバル)はどこ?」
彼女は『三国史記』に「①13歳で、②徐那伐で、③即位した、④初代、⑤新羅王」と記録されています。
この5つもある限定条件には、他人では体験できなかった非常に多くの史実がからんでいて、彼女だけがもっている「身分証明書」になっています。
それが『竹取物語』『魏書倭人章』『三国史記』という、これまでバラバラだった「記録」を接続し、接着して、復元し、互いに不足を補いあって、永い間「忘却の闇」の中に隠されていた歴史の真相を、はっきりと私たちに詳細に教えてくれたのでした。
それだけでなく、その即位の場所が「徐那伐」だったことが大きな証拠を形成しているのです。
この地名は従来は朝鮮半島のどこかだろうとされてきましたが、『魏書倭人章』との関連から考えると、どうしても沖縄でなければ話が合いません。
「伐」の字は朝鮮語で「パル・バル」なので「徐那伐」は「ヨナバル」と読めるのです。
これに、ぴったりの地名が沖縄にあります。那覇市に近い島尻郡の「與那原(よなばる)」がそれです。
新羅の歴史を考えますと、狗奴国男王の根拠地であり、13歳の壹與が女王に即位した「ヨナバル」は、ここ以外考えられません。
また「ジョ・ナ」という発音は「徐国」を意味し、この<ナ>を<マ>に変えることもできるから「邪馬」と書いても同じ「徐国」だとわかります。
その「ヨナ」は今の<与那国>と同じ発音で、「ヨーナ」とは「イオニア」のインド訛で、ギリシャという意味です。
だから「与那・徐那」は「ギリシャ国」ということなのです。
古代日本には国を「ナ」と呼んだ人々がいました。
沖縄を<ウチナ>と発音しますし、嘉手納、山名、丹那などもそれです。
また「ナ」という発音は沖縄語では助詞の「…の」に当たりますから、「徐那」は「ジョーナ」と引っ張る発音をする人々なら、「女王国」または「女王の」のどちらかにも結びつけて考えることもできます。
※出典:日本国誕生の秘密 262頁
「日本の竜蛇信仰」
八俣大蛇退治の話だけをみると、勝利者はスサノオノミコトになっている。
しかしそれは「出雲神話」として区別されている神話の側からの見方であって本系とされる「日向神話」からみればスサノオノミコトは追放された敗者になったまま地位を回復していない。
このあいまいになっている問題に焦点をあてないと、竜蛇と日の神の問題は本当に答えが出たとはいえない。
日本の竜蛇信仰をみるとそれは意外に少ない。
『記・紀』には、神武天皇の祖母に当たる豊玉姫が、お産の際、竜神の正体を現わしたとか、三輪山の神は蛇であるとか、ヤト(蛇)神が開拓を邪魔したとかいった神話伝承が含まれている。
それを分析してみると全部先住民を意味している。
その信仰が後世に力を失ったということは、縄文人の信仰が負けて、新しい信仰にとって代られたということになる。
八俣大蛇型が負けて太陽神型の天照大神があとに残った。
とすればどちらにしてもインド教の信仰であることに変わりはない。
『日本書紀』にはこの同族関係をはっきり物語る部分がある。
それは神武天皇と長髄彦とが、互いに”天神の子”である証拠を見せ合うが、双方とも同じだったという東征の条である。
しかし天皇が陽に向かって戦って負けたのは当然と反省するのは、太陽神信仰者だったことの証拠である。
これに対し長髄彦は、インド語で竜蛇を意味するナガという名をもっている。
民族は同じでも信仰の中身には差があったのである。
※出典:日本人のルーツ 117頁
『参考』
歴史学講座『創世』うらわ塾
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リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊
ウワイト
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