出典:言語復原史会
「ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事」
「応神妃の髪長媛たちは皮革衣料の持ち主」
「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」
「台湾に現存するギリシャ系倭人」
「ヒミコのファッションは貫頭衣だったか」
「済州島に倭人=イオニア人の証拠」
「ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事」
古代ギリシャ人は船旅に出る前には必ずポセイドンに生贅(いけにえ)を捧げて、航海の安全を祈ったことが、神話にも、歴史記録にもたくさん出てくる。
それと同じことが『魏書倭人章』にも「その旅行や渡海の前には、つねに一人の男を生賛にする」と、 「自衰」と呼ぶ苦行者を神に持げて、事故が起これば殺したことが記録されている。
私たちにはその自衰が捧げられた相手がポセイドンだったことを、はっきり知り尽くした。
だからそこに書かれた倭人とは、百済人=ボセイドン人=フェニキヤ人=ギリシャ人だったと更に再確認できたのである。
すると倭人の男子が結束して看ている「横幅(おうふく)衣」が、古代ギリシャから現代インドにまで着られているトーガだったことも明瞭にわかる。
横幅とは横幅(よこはば)の方が広い布で、縫ってない布ということだから、そんなものを衣服として看るのは、全世界でもトーガ以外にない。
それをギリシャ人やインド人は肩から掛け、身体に巻いて最後を結ぶだけでうまく着る。
『魏書倭人章』もそれを「縫わないで結束して着る」と細かく明瞭に描写している。
また「婦人は、その中央を切って頭だけ通す単被(ぴ)(単衣(ひとえ)もの)を着ている」と書いてある。
これも古代ギリシャの壷絵に見る婦人服そのもので、それを日本列島で引き継いだカリエンの人々が、古代のまま着続けているのを、今でもタイやミャンマーで見ることができる。
※出典:大学院講義録16 19頁
「応神妃の髪長媛たちは皮革衣料の持ち主」
フトマワカを右から読むと「カワマトフ」になる。
またホムタマワカのカワマタムホは、当て字の「陀」を本都別の「都」に換えると、加和麻都品になるから、品を草書で書いたものが「不」の字と紛らわしいから、それに置き換えると「加和麻都不=カワマトフ」になる。
ところがこのカワマトフは無意味な名ではない。
『倭人章』のある『魏書東夷韓章』には「州胡が馬韓の西海中の大島にいるが、その人々はやや短小、みな頭をそり鮮卑のようで革を衣る。好く牛猪を養う」
と皮革を着ていたことを記録している。
ご存じの通り馬韓は朝鮮半島の南西部であり、その西にある大島は済州島だが、拡大して考えれば九州北西部の松浦も馬津国(マツラ)で、やはり馬韓と同じ人種圏を意味し、その東南の大島は五島列島で、『肥前国風土記』には値嘉(チカ)島=小値賀島=五島列島に牛馬を多数飼っている言語風俗の異なった海人族がいたと書いてあるから、「ゴトウ」とは「牛島」だとわかる馬韓が日本語圏だったことは拙著『卑弥呼を攻めた神武天皇』でも立証済みだ。
そして今主題の応神天皇の、日向の髪長媛妃の一族は、角のついた鹿皮の衣服を着ていたと『日本書紀』にある。
「カワマトフ」とは「皮を纏(まと)う=皮製の服を看た」人たちという意味で、古代の我が国に、皮革を衣服にしていた人たちがいたのは、疑いのない事実である。
※出典:大学院講義録12 4頁
「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」
中国経由でないとすると、どんなコースでやってきたのか?。
忘れてならないのは、台湾北部に現住するアミ人である。
このアミの名は大学講義録31冒頭でお話しした網・阿見と同じ発音であるだけでなく、容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。
また台湾がギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ仙境・蓬莱(ホーライ)で、秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だったことも、大学講義録29でお話しした。
このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。
仮にこれを疑うと、台湾と与那国という肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、二つできたことの理由、という至難の立証が必要になるし、それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、ほかにはアミに結びつくような神名はない。
別の語源から全然無関係に二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。
従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、それと比較して相手の説が劣り、間違っていると判ったときに主張して「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、「ただ反対したい」だけというのは、劣等感の表現にすぎない。
※出典:大学講義録31 28頁
「台湾に現存するギリシャ系倭人」
後からきた侵入者に追われて山地に住んでいる人々の中には写真のような人たちがいる。
その容貌、服装、家屋、言語、土器など実に多くのものが、その古いルーツがインド経由の地中海人だったことを示している。
「臺」はウティナで沖縄のこと。
「湾」はワニで「倭人」の唐代以後の読み方。
ここはその頃[小琉球]と呼ばれていた。
だから、[台湾]とは[琉球人の国」という意味なのだ。
そして『ヒミコ』でお話ししたヒメゴソとオオヒルメが「太陽の光で身ごもった」というあの『阿具沼伝承』も『かぐや姫』の原話も両方とも台湾に現存するお話の中にある。
またカリエンの人たちの都は今も花蓮(カリエン)港と呼ばれ、「鬼道=アショカ仏教」の子孫も現存している。
※出典:JINMU 22頁
「ヒミコのファッションは貫頭衣だったか」
ソナカ=仲哀天皇の皇后としての大中姫の像があることである。
これはだれが考えても、3世紀にヒミコをモデルにして作ったものとは考えられない。
だがばかにすることはできない。
その像はエジプトの死の神オシリスの妻「イシス」の像とそっくり同じスタイルをしているのである。
これはだれが、いつ作ったのだろう?
スタイルといえば、読者はヒミコがどんなスタイルをしていたか?
と興味がおありと思う。
『魏書倭人章』には倭人は「頭を貫いて衣る」式の衣服を看ていたと書いてある。
だから過去の学者はそれをそのまま「貫頭衣」という名で呼んできた。
この古代のままの衣服を、今もがんこに守り続けている「文化財保護派」の大先輩がいる。
先にお話したカリエン人である。
彼らは私たちの先祖の一グループだから、『魏書倭人章』の貫頭衣は間違いなく、それと同じもので、他のスタイル説は根拠がない。
だがヒミコはカリエン人ではないから、別の服装をしていたとみると、その血統である古代ギリシャ婦人もやはり「貫頭衣=キトン」を着ていた。
それにも地方的特色があって、どこも縫わない一枚の布を、体に巻きつけて両肩だけ止める式の、ドーリア・タイプのペブロスや、両脇を縫ってあるがたっぶり布を使って、肩布も広く出して腕の数ヵ所で留めて、そでのように見せイオニア・アテネ式チュニックなどが基本型だが、どれも「頭を貫いて衣る」式の衣服であることには変わりはない。
男子は活動的なヘルメス神の像が着ているような短いエクソミスを着た。
そして江戸時代の「旅合羽」のような布を羽織った。
中国北京歴史博物館にある「職責図巻」にある「倭国使」の絵は、この「旅合羽=クラミード」が6世紀になっても使われていたことを記録している。
これでヒミコを訪ねる古代ツアーは終った。
次の旅にもぜひご参加いただくよう祈っている。
※出典:HIMIKO 252~253頁
「済州島に倭人=イオニア人の証拠」
加治木義博の心友で済州島研究所長である歴史家・宋錫範氏の『済州島古代文化の謎』(成甲書房刊・1984年)に、倭の別名である「ヨ」または「イェ」のついた、倭人が住みついたために名づけられたと考えられる地域と、村の名が挙げてある。
ヨンルイ。ヨウネ。ヨレムル。ヨクモッ。イェチョン。イユリ。イェジムル。
この「ヨ」は「ヨナ」を「ヨ国」とみた名残りだし、「イェ」は「イオニア」により近い。
そして『魏書東夷章』の中には、この島のことを「馬韓の西海中の大島にいる人たちは、ほとんど裸に近いが革の上着だけ着ている。そして船で中国や韓国と行ききする」と書いてある。
ギリシャの赤絵の壺などに描かれた当時の風俗を見ると、兵士は革のヨロイを着ているが、ごく短いスカートをはいているだけで、胸も腕も脚も裸である。
全然、服装のちがう中国人からみれば、腕も脚もまる見えの姿は、ハダカ同然に見えたのである。
このギリシャと日鮮との関係が不明のあいだは、この人たちの上着は、獣から剥いだだけの毛皮に穴をあけて着ていた、と想像されていただけであった。
しかし今は違う。
たとえばその島の名物になっている古代の石像トルハルバン(石のお爺さん)の顔は目も鼻も大きくて口がひっこんで「刑事コジャック型」だ。おまけにギリシャ帽までかぶっているのである。
※出典:HIMIKO 213頁
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
『参考』
歴史徒然
ネット歴史塾
ウワイト(倭人)ウバイド
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史の画像
歴史学講座『創世』うらわ塾
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
シュメル-人類最古の文明
0 件のコメント:
コメントを投稿